重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

読書メモ、探究メモなど。

今年読んだ本で振り返る2019年

例年、「今年読んだ本で一年を振り返る」記事を書いている。今年は余裕はないかもと思ったが、まとめておかないと後々不便なので、何とか書いてしまおう。

今回はブックリストというよりは、「2019年末に考えていたこと」についての個人的な記録になりそうだ。 

 

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仕事と私事(=ブログ)

仕事に関しては、今年はうまくいかないことが多かった。出せると思った本が出せなかったし、売れると思った本が売れなかった。ちょっと行き詰まりを感じた一年だった。

一方、就業後の時間は充実していた。何をやっていたかといえば、相変わらず「本を読んで、感想を書く」だった。ただ、友人とのブログの共同執筆、Skypeでの議論、読書会の(共同)主催など、少しずつ活動のバリエーションが広がっていった。ブログを読んで声をかけていただく機会がなぜか急に増え(Hatenaの有料会員になったおかげだろうか?)、様々な方と会えたのも嬉しかった。独り言のように続けてきたブログだが、やっててよかったと思えた。来年も、自分にできる限りで活動を広げていきたい。それが本業にもプラスに働けば幸い。

引き続き、お声掛けをいただければ大変ありがたいです。

災害と気候変動、クライシスの「向こう側」

2019年を振り返って、まず思い出すのは10月の台風19号のことだ。荒川下流域に住む自分にとって、「避難勧告まで出たが、事なきを得た体験」のインパクトは大きかった。今後、水害の風景はますます日常になるだろう。あの後すぐに『川と国土の危機』高橋裕、2012年刊、読書メモ を読み、日本の河川管理は完璧ではないこと、一般人が河川リテラシーを持つ必要性を知った。

同時に思い知らされたのが、地球温暖化の脅威が、もはや現実になっていることだった。なるべく耳をふさいできた自分も、さすがに今年は気候変動の話題から逃れることはできなかった。2050年までにはCO2排出をゼロにするという野心的な目標が達成できたとしても、ダメージが許容レベルに収まる保証はまったくない。まして、世界の排出量は増え続け、日本は石炭発電所を作り続けている…。10代の活動家トゥーンベリ氏の怒りのメッセージはずっと喉に刺さったままになっているし、今後ますます痛むだろう。

破局は、気候変動がもたらすより早く訪れるかもしれない。NHKの記事*1によれば、首都圏に大地震が発生した場合、長期的に「住宅難民」になる人数の試算は188万人に上るという。これが起こったとき、日本は「もとに戻る」だろうか。もちろん、『海を撃つ』(安東量子、読書メモ)を読めばわかるように、たとえば東日本大震災後に日本が「もとに戻った」と思うのは幻想であり、すでに「戻せない」状況は始まっているのかもしれない。

気候変動による頻発する水害、そしていつ来るか分からない巨大地震。「Xデイ」がいつになるにせよ、その日を境に人生は一変するはずだし、決して「復旧」もないかもしれない(命だけは助かるとして)。積み上げたキャリア、築いた財産、身に着けた技能、全部がリセットされ、別の生活が始まる。ただ怖がるのは不毛なので考えないようにしているが、「Xデイ」以降の自分や家族に「何を手渡せるか」はときどき考える。お金?体力?知識?「思い出」? 避難時持ち出し用のリュックに入れるものを厳選するような気持ちで、「猶予があるうちにできること」を考えるようになった。

科学への期待、「理解」の刷新

人類全体という単位で考えたとき、「猶予があるうちにできること」の際たるものは科学だろう。科学的な知識は不可逆的に蓄積するものという素朴な見方をすれば、Xデイが来てすべてが洗い流された後に残るのは「人類が知り得た科学的知識」であるように思える。だから、科学者たちにはどうか頑張ってほしい(もちろん、Xデイの到来自体を遅らせるための科学技術にも期待しているし、来年は一つの個人的なテーマにしたいと思っている)。なお、今年邦訳が出て大評判になったSF『三体』(劉慈欣)では、「文明が崩壊する前に科学をどこまで進歩させられるか」が重要なモチーフの一つになっていた。

ただ、科学を取り巻く状況も厳しい。『科学者が消える』(岩本宣明) が伝えるように日本では研究現場は疲弊しており、私自身、研究者たちから「研究する時間がない」という声を聞く。「在野研究」が注目され始めたのも、こうした大学の苦境の裏返しだろう。『在野研究ビギナーズ』(荒木優太 編、関連メモ)は(著者の多くは人文社会学系だが)元気が出てくる一冊だった。また、『学問からの手紙』(宮野公樹)には、大学のなかから学問を再構築していこうという気概を感じた。

研究リソースの問題とは別に、より本質的な問題として、「○○を理解する」ことを目指す科学が、そもそも「○○を理解するとはどういうことか」を見失っているように見えることが気になっている。すくなくとも神経科学では「脳を理解するとはどういうことか?」が真剣に議論されており、『The Brain from Inside Out』(Gyorgy Buzsaki)などの文献を読んで、ブログ記事にまとめてみた。その関連で読んだ『Is Water H2O?』(Hasok Chang, 2012年刊、読書メモ と『Understanding Scientific Understanding』(Henk W. de Regt, 2017年刊、読書メモ という2冊の科学哲学書からは、科学的理解が一つでなくていいし、時代・コミュニティごとに変わっていくものだという着想を得た。科学哲学で鍛え抜かれたこうした議論が、もっと科学コミュニティに浸透するとよいと感じた。

「○○を科学する」というときの、「○○」の捉え方を見直そうという動きは、様々な場面で見られる。その一例が「情動(感情)」や「記憶」だ。『情動はこうしてつくられる』(リサ・フェルドマン・バレット、読書メモ)を読むと、情動研究の最先端で「情動観」の大変革が起こりつつあることが分かる。『情動の哲学入門』(信原幸弘、2017年刊、読書メモ)もまた、常識的でない情動観を打ち出した一冊。『Mental Time Travel』(Kourken Michaelian, 2016年刊、読書メモ で展開されるような「記憶の哲学」も、今後神経科学の記憶研究とどうつながっていくのか楽しみだ。さらに、『記憶する身体』伊藤亜紗)は各個人にしかアクセスしえない「ローカルルールとしての記憶」が、重要な研究課題になりうることを教えてくれた。 

時間論、異分野間対話の難しさ

「猶予があるうちに、科学をできる限り推し進めよう」と言っても、科学に単一の「目的」があるわけではない。さらに、人文学・社会科学までに広げれば、個々の学問が目指すものはバラバラだ。職業柄いろいろな分野の研究者と触れ合うこともあり、学問ごとの価値観の多様性に強い関心がある。

異なる伝統をもつ学問のあいだでは、互いの分野の問題意識が伝わらないがゆえの衝突が起こりうる。今年、それが象徴的に可視化されたのが、哲学者と物理学者が「時間」をテーマに論考を寄せた『〈現在〉という謎』(森田邦久 編、読書メモ)と、そこから始まった一連の議論だった。私自身は、この企画に参加した物理学者と哲学者が問いを共有することで、時間の哲学・科学にとって有意義な展開があり得た/ありうるはずだという希望的意見をもつため、本件で起こったすれ違いを残念に感じるとともに、大きなチャンスだとも捉えた。この件に関心のある方は、ぜひ『The Physicist & the Philosopher』(Jimena Canales, 2015年刊)の読書メモに目を通していただけると嬉しい。「時間」が、文系的なものと理系的なものを切り裂く源泉のようなテーマであることが分かると思う。時間がいかに謎に満ちているかを垣間見たければ、『心にとって時間とは何か』(青山拓央、読書メモ  のどこか一章を読めば十分だろう。

学問分野ごとに「問い」や「思考モード」が違いすぎて、対話が成立しない。そもそも対話で何かが得られるものなのかどうかも分からない。ここに、異分野間対話の難しさがある。各思考モードに分岐する以前の「何かが分かること」を、現象学圏論という枠組みを使って捉えようとしている『〈現実〉とは何か』(西郷甲矢人・田口茂、読書メモ)は、異分野間対話をこじ開けるヒントになるかもしれない。来年以降も、手元において示唆を得たい一冊だ。

データ、アルゴリズムと社会の変化

科学研究は理解を増やすと同時に、技術を通して社会を変える側面をもつ。今一番議論が活発なのは、AIの倫理問題、より具体的には「データとアルゴリズムによる統治」の問題だろう。『幸福な監視国家・中国』(梶谷懐・高口康太)はこの問題が思考実験の段階を超えていることを教えてくれる。おすすめは『AI社会の歩き方』(江間有沙、読書メモ)。まずこの本で「どんな立場のステークホルダーがいて、どんな議論がなされているか」の概略を頭にいれてから考え始めるのがいいと思う。

データとアルゴリズムの浸透に関して、個人的には自然言語処理の分野に注目している。機械翻訳未来社会』(瀧田・西島・羽成・瀬上、読書メモ)は機械翻訳が言語環境をどう変えていくのかについての論考集だった。こちらの想像を超えて突っ込んだ考察がなされており、読みごたえがあった。

技術の社会的影響に関しては、よく「テクノロジーは悪くない、使い方を考えればいい」という意見が出る。これに異論はないが、問題は「正しい使い方」を皆で落ち着いて話し合えるかで、これは疑わしい。『二つの日本』(望月優大)は、日本で働く外国人労働者の実相を伝えているが、人権問題が盛んに指摘されているにもかかわらず、それをスルーしてしまっている現実がある。沖縄の問題、原発の問題、その他多くの議題について、皆で作ったコンセンサスで何かが動くということを、うまくイメージできない状況が続いているように思う。『「差別はいけない」と、みんな言うけれど』(綿野恵太)は差別やポリティカル・コレクトネスを切り口に、この状況を理解する切り口を与えてくれた(が、十分に咀嚼はできていない)。

 大人の不安と子ども

災害と気候変動も怖いし、どうやら社会で技術をうまく制御することも難しい。不安だらけだ。自分たちも不安なのに、私たち大人は、本来導いてあげるべき子どもたちにどう接したらいいのだろう。発達心理学者のアリソン・ゴプニックは、『思いどおりになんて育たない』紹介メモ)にて、そもそも子どもを(思い描くように)「育てる」(to parent)という発想が間違いだと指摘する。子どもは、親世代と違う環境に生まれてくるのがデフォルト。だから、彼らの「学ぶ力」を信じようと彼女はいう。『数学の贈り物』(森田真生)と『みらいめがね』荻上チキ)は子育ての本ではないが、どちらの著者も二児の親。そのユニークかつ覚悟の決まった人生観に、この不安の時代に子どもに向き合うヒントが少しあるように思った。

今年の一冊

科学の終わり、時間、記憶、技術がもたらす社会の変化、子育て。実は、今年考えてきたこれらのテーマすべてに関係する一冊がある。SF作家テッド・チャンの短編集『息吹』だ。

本書は、著者が十数年かけて書いてきた短編をまとめた待望の一冊。前作も印象に残っていたため、何気なく買って読んだが、これが凄かった。

 

息吹

息吹

 

チャンが本書で描く物語世界の多くは、この現実世界とほとんど変わらず、ただ一つ、SF設定としての何らかのデバイスなり技術が存在することだけが違う。その装置をめぐってどのようなステークホルダーが発生し、どのような経済活動が生まれ、そしてそれに翻弄される人々の心理や人間関係がどうなっていくかがを描き出される。現実に誰かが書いた日記、報告書、あるいは書簡を読んでいるかのような透明な文体で、技巧的な印象が一切ない。しかしラストに近づくにつれて、登場人物たちの心情が大きく動く事件が起こり、読んでいるこちらの心の琴線に衝撃波が走る…。

ある科学的世界像――宇宙の年齢、可能世界のありよう、自由意志の不存在など――が、登場人物たちの人生にダイレクトに影響するさまを描いているのも本書の大きな魅力だ。チャンは、形而上学が形而下に作用するクリティカルな場面を捉えているとも言えるかもしれない。文系と理系の諸学問が、テッド・チャンのSFを通して相互対話の通路を見出す可能性すら夢想してしまう。

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災害と気候変動による「Xデイ」が迫るなか、何らの集団的アクションをとれない私たちは、なんて愚かなんだろう。しかし、テッド・チャンの『息吹』を読もう。人類の宿命を神の視点からとらえたかのような、完ぺきな作品たちだ。こんな小説を書ける人を同胞にもつ僕ら人類は、やっぱり凄いんじゃないの? 誇っていいんじゃないの? 他の知的生命体に、これが書けますか? ――本書は、人類の「非常用持ち出し袋」に入れてもいいかもしれない。

たった一冊でそんなポジティブな気持ちにさせてくれた『息吹』を、文句なしで「今年の一冊」としよう。