本ブログでは、「記憶の脳科学」に注目し、いくつかの記事を書いてきた。
神経細胞レベルの生理学実験からヒトを対象とした心理学実験まで、記憶をめぐるさまざまな研究について調べるなかで、記憶の理解が日進月歩していることを感じてきた。その一方で、同時に痛感したのは、「科学だけでは足りない」ということだった。そもそも科学が解き明かそうとしている「記憶」という概念の意味が、わからなくなることがあったからだ。「記憶」は、たとえば「心」や「意識」に比べれば、わりと自明な概念に思える(覚えて、思い出すだけでしょ?)。だが、科学を勉強すると、当初のナイーブな記憶観が成り立たない多く場面が出てくる。「記憶とは何か」が、わからなくなっていく。
「概念」について考えるのは、哲学の領分だ。哲学は、記憶について何を語っているのだろう*1?
そんなことを考えていたとき、ある方に、「記憶の哲学」がここ数年盛り上がっていることを教えてもらった。たとえば、スタンフォード哲学百科事典(SEP)には2017年に起草された"Memory"の項目があるという。プリントアウトすると60ページにもなる長大な記事で、一読したところ興味深かった。もっと深く知るため、この"Memory"項目の著者の一人であるK.ミケリアン氏*2の単書、"Mental Time Travel"を読んでみることにした。
哲学者でなくても読めるような配慮はされているとはいえ、「学術書」の部類に入るレベルの本。読み進めるのにかなり苦労した。
※下記は、自分の勉強のための読書メモです。ブログ筆者は哲学の専門家ではないため、訳語の誤り/度が過ぎた意訳/内容の誤読/重要なポイントの欠落、等々が含まれているかもしれませんので、ご注意ください。また、万が一専門家の方の目に触れることがありましたら、お気づきの点をご指摘をいただけると大変幸いです。
ざっくり、どんな本か
本書は、「記憶とは何か」を哲学的に考察した一冊である。次の点を特徴とする。
- 記憶のなかでも「エピソード記憶」のみを扱う。
- 最新の心理学研究の知見にもとづいて哲学を行う。
- エピソード記憶とは「過去や未来のエピソードを想像する(=シミュレートする)機構」の一種だとする「シミュレーション説」を打ち立てている。
- この一見ラディカルなシミュレーション説が成立する理由を、より常識的な記憶概念から出発し、順を追って説明している。
- エピソード記憶はシミュレーションであるにもかかわらず、「なぜ信頼できるのか」、そしてこのようなエピソード記憶は「進化の過程でいつ、そしてなぜ登場したのか」という問いを立て、回答を与えている。
記憶の脳科学にとって、「シミュレーション説」のインパクトは絶大だと思う。なぜなら、この立場では、脳の中に記憶痕跡がなくてもエピソード記憶は成立することになり、神経科学的な記憶研究の前提を揺るがしかねないように思えるからだ。
どのように考えれば、シミュレーション説のようなアイディアにたどり着くのだろうか? 本当に、こんな考え方は成立するのか?
本書の目次は下記のとおり。
- Three Questions about Memory 記憶についての三つの問い
- Situating Episodic Memory エピソード記憶を位置づける
- Memory Knowledge 記憶にもとづく知識
- The Common Sense Conception 常識的な記憶概念
- The Causal Theory 因果説
- The Simulation Theory シミュレーション説
- The Information Effect 外部情報の効果
- Metamemory and the Source Problem メタ記憶とソース問題
- Meta memory and the Process Problem メタ記憶とプロセス問題
- The Puzzle of Concious Episodic Memory 意識的なエピソード記憶にまつわる謎
- Conciousness and Memory Knowledge 意識と、記憶にもとづく知識
- Conclusion まとめ
読書メモ前編:第2~6章 ——なぜシミュレーション説か
第1章はイントロダクションなので、第2章から内容をみていく。
第2章:Situating Episodic Memory エピソード記憶を位置づける
一口に「記憶」といってもいくつもの種類があり、分類の仕方は科学者・哲学者ごとに異なる。そこでまず第2章にて、本書で採用する記憶の分類法と、本書が考察の対象とする記憶の範囲を明示する。
「記憶全般についての理論」をつくることはできない。なぜなら、「記憶」は自然種(natural kind)ではないからだ。natural kindとは、自然界において一連の性質が共に現れることを根拠に、一つの種として定義される概念のことだ。たとえば、陳述記憶(declarative memory)と非陳述記憶(non-declarative memory)とを一つのnatural kindにくくることは難しい。著者は、natural kindを判定する一つの基準としてMarrの3レベル(計算理論/表現とアルゴリズム/脳のなかでの実装)を持ちだし、陳述/非陳述記憶は三つのレベルすべてで共通点をもたないと指摘する。したがって、両者は別のnatural kindに属するのであり、両者を包括するような理論をつくろうとするのは不毛なのだ。なお、著者は陳述記憶/非陳述記憶のかわりに、認知的記憶(cognitive memory)と否認知的記憶(noncognitive memory)という、若干異なる分類法を提案している。
一方、陳述記憶(ないし認知的記憶)の下位分類には「意味記憶(semantic memory)」と「エピソード記憶(episodic memory)」があるが、これらが異なるnatural kindを形成するか否かは、今後の研究次第だとする。本書ではエピソード記憶のみを対象とする。
第3章:Memory Knowledge 記憶にもとづく知識
本書の主題となる問いの一つは、
- エピソード記憶は、いかにして世界についての知識をもたらすのか
というものだ。この問いに深く関連する哲学の分野に、認識論(epistemology)がある。認識論は「人は、何を、いかにして知りうるか」を永く議論してきた。そこでこの章では、本書における記憶の哲学が、認識論の議論のなかでどのように位置づけられるかを整理する(非哲学者にとっては、最も難易度の高い章だと思う)。
エピソード記憶のもたらす知識の性質について、哲学でどのように迫るか。本書がよって立つのは、「自然主義および信頼性主義の枠組み」(naturalist-reliabilist framework)である。
まず、「記憶のもたらす知識について哲学はどのようにアプローチできるか」という(メタ認識論(metaepistemology)の)観点からは、著者は(方法論的な)自然主義を採用する。つまりは、科学と独立に哲学的な理論をつくるのではなくて、あくまで科学が経験的に明らかにしたことにもとづいて考える。
また、「記憶がもたらす知識の確かさをどう説明するか」という(一階の認識論(first-order epistemology)の)観点からは、ひとまずは信頼性主義(reliabilism)をとる。信頼性主義は、認識論の立場の一つで、「ある信念は、それが信頼のおける認知プロセスによって形成されるときに正当化される」とする*3。「ひとまずは」というのは、信頼性だけで知識の正当化に関する一般理論ができると著者は考えていないからだ。本書では、「いかにして記憶は正しい知識をもたらすのか?」に対する完全な理論(the correct theory)を目指すのではなく、記憶がある程度信頼に足る知識源であることを前提にしたうえで、その「信頼性に寄与する種々の要因は何か?」を問う。
第4章 The Common Sense Conception 常識的な記憶概念
ここから三つの章では、いよいよ「エピソード記憶とは何か?」を考えていく。最終ゴールは第6章の「シミュレーション説」だが、まずは、常識的な記憶概念(the common sense conception)を取り上げる。
記憶とは何か。過去に経験したことが、どこかに保存され、再度読みだされること。常識的にはこれに尽きる。もう少し整理すれば次のようになる。つまり、ある人(S)が経験(e)を記憶しているための条件は以下である:
- Sはeを経験した
- Sは現在、eの表象:Rをもっている
- Sはかつて、eの表象:R’をもっていた
- 表象R’とSの経験eのあいだには、適切なつながりがある
- Rの内容(content)は、R’の内容と同じかその部分集合である
時系列に直せばこうなる。
- まず経験eが表象R’に「適切に」写し取られ、
- R’は時を経ても内容を保持してRになり、
- Rを読みだすことで経験eを思い出すことができる。
これは、誰もがもっている記憶の直観的な理解に違いない。しかし、大きな問題が一つある。この常識的概念では、「過去についての想像」と「記憶」をうまく区別できない。たとえば、過去に一度覚えたことを一度忘れて、誰かに教えてもらったことによって再度知ったということがある(例*4:修学旅行で誰と同じ班だったかを、同窓会で教えてもらった)。これは上記の「記憶の条件」を満たすが、常識的には「記憶している」とはみなされないだろう。
この「記憶と想像の区別」の問題は、18世紀の哲学者デヴィッド・ヒュームも扱ったことが知られている。ヒュームは、記憶と想像を隔てる性質として、flexibility(可変性?)とvivacity(鮮明さ?)という基準を考えた。想像は記憶に比べて内容が定まっておらず(よりフレキシブルであり)、内容のディテールに乏しい(鮮明さに劣る)。この二つの基準で、想像と記憶を峻別するとしたヒュームの見解を、本書では「記憶の経験主義的説明(empiricist account of memory)」と呼ぶ。しかし、flexibilityが高い記憶や、vivacityが低い記憶もあるので、この説明は不十分である。
第5章 The Causal Theory 因果説
C.B. マーティンとM. ドイチャーは、1966年の論文で、記憶の因果説を打ち出した。因果説は、常識的概念や経験主義的説明の不足点を克服すべく、より記憶の成立要件を絞り込んだものだ。因果説によれば、人(S)が経験(e)を記憶しているための条件は以下である(前章の条件に、太字の項目が追加されている)。
- Sはeを経験した
- Sは現在、eの表象:Rをもっている
- Sはかつて、eの表象:R’をもっていた
- 表象R’とSの経験eのあいだには、適切なつながりがある
- Rの内容(content)は、R’の内容と同じかその部分集合である
- RとR’には、因果的なつながりがある
- RとR’の間の因果的つながりは記憶痕跡(memory trace)によって担われている
- R’の生起からRの生起までのあいだ、痕跡は継続に存在している
マーティンとドイチャーが「因果」を導入したのは、過去と現在の表象が途切れているようなケースを除外する必要があったからだ。さらに、その因果が(当の本人を迂回して)第三者や外部の媒体を介してつながるケースは記憶としたくないので、「記憶痕跡」の必要性も条件に加わっている。
この因果説は盤石に見える。私がいま覚えていることは、私が過去に経験をした時点で脳内に何らかの痕跡が形成され、それが今まで保存され、それを読みだすことで想起される。この因果的つながりのどこかが途切れたら、記憶は成立しない。
理屈の上では穴はない。だが、私たちが現実にもっている「記憶」の理論としては間違っている。というのも、上記のような「記憶=情報の保存」という見方(preservationism)は、科学的知見には反するのだ。むしろ、記憶の心理学研究が明らかにしてきたのは、記憶はその都度構築されるものだということだ(生成主義、generationism)。
幼少期の偽の記憶(過誤記憶)を人為的に植え付ける、有名なE.ロフタスらの研究*5を始め、人間の記憶は、符号化(encoding)、固定(consolidation)、再固定化(reconsolidation)、想起(retrieval)の各段階で構築(construct)されていることが明らかになっている。それは、もとのエピソードのうち何が記憶されるのかの①選定(selection)、もとの経験の一部が残される②抽象化(abstraction)、ほかの記憶との関係でその記憶が意味づけられる③解釈(interpretation)、一貫した表象にまとめ上げる④統合(integration)、その後の経験や知識によってもとの記憶が変化する⑤再構築(reconstruction)といったプロセスである。このように、記憶は主体によって構築されるものであると考えると、上記の因果説では現実の記憶はとらえられない。
そこで、 マーティンとドイチャーの説に修正を加えた、「構築的記憶の因果説(causal theory of constructive memory)」が考えられる。この因果説では、過去と現在の表象に関する四つ目の条件を、以下のように書き換える。
- 表象Rの内容(content)は、記憶痕跡の内容から大きくは逸れない。また、記憶痕跡の内容は、表象R’の内容から大きくは逸れない。
元の条件が「内容一致条件(content matching condition)」と呼ばれるのに対し、こちらは「おおまかな内容の類似条件(approximate content similarity condition)」となっている。因果説を構築的な記憶に適合させるためには、ここまで条件を緩めなければならないのだ。
第6章 The Simulation Theory シミュレーション説
前章では、心理学が明らかにしてきたエピソード記憶の構築性を踏まえ、因果説に修正を加えることを試みた。本章では、さらにもう一つ、心理学からの知見を取り入れる。それは、
- エピソード記憶は、過去や未来への心的時間旅行(mental time travel)の機能の一部である
という知見である。「エピソード記憶」という用語の生みの親である心理学者エンデル・タルヴィングは、2001年の論文にて「心的時間旅行(mental time travel)」の能力としてエピソード記憶を位置づけており、現在では心理学の標準的な見方になっている*6。これは、エピソード記憶ができなくなった健忘症患者が未来を展望できなくなるという症例や、未来の想像と過去の記憶が同一の神経システムで担われているという生理学的な知見にもとづく。
こうした研究から、著者は次のような結論を引き出す。
The lesson of mental time travel research is that construction and reconstruction do not simply introduce modifications in representations that are nonetheless essentially preserved. The episodic memory system is in reality a general episodic construction system, designed to draw on information originating in past experience to simulate possible episodes. (p.103)
つまり、エピソード記憶の機能は、過去の出来事を保存したり思い出したりすること自体ではなく、過去の情報にもとづいて起こりうるエピソードをシミュレートするために備わっている、という描像である。このシミュレーションは、未来についてのものもあれば過去についてのものもあり、後者の場合がエピソード「記憶」となる。
While simulation of a given past episode presumably often draws on information originating in the agent's experience of that particular episode, it will rarely draw exclusively on such information, and in priciple it need not draw on such information at all. (p.103)
エピソード記憶によるシミュレーションは、過去の経験からくる情報にもとづくことが多いが、それのみから引き出されることはまれで、逆に過去の経験から一切の情報が引き出されなくても成立しうる。つまりは、過去の実際の経験にもとづかなくても、「過去のシミュレーション」をエピソード記憶といってよいというのだ。かなりラディカルな記憶観である。
このエピソード記憶の理論を、著者は「シミュレーション説(simulation theory)」と名付ける。シミュレーション説では、エピソード記憶の条件は下記の二つだけになる。
- Sは、現在、過去の経験eの表象Rをもっている
- Rは、Sの個人的過去に属するエピソードの表象を生産する意図のもとで正常に機能しているエピソード構築システムにより生産された表象である
まず特筆すべきは、「Sがeを経験した」という大前提が取っ払われていることである。つまり、実際には経験していなくても、経験したかのような「表象」をもっていれば記憶にカウントされる。
二つ目の条件には、Sの「個人的過去(personal past)」や「正常に機能しているエピソード構築システム(properly functioning episodic construction system)」といった少々複雑な表現が入っている。これらは、より一般的なエピソード想像(episodic imagination)のうち、
- 未来ではなく過去のエピソード
- 他人についてではなく、自分についてのエピソード
- ランダムにエピソードを生成してしまうような機能不全な脳ではなく、正常な脳によって生成されたエピソード
に限定するために加えられている。
ヒュームの経験主義的説明から因果説にいたるまで、記憶の哲学の中心的な課題は、「記憶と想像をどのような基準で峻別するか」だった。シミュレーション説に立つと、この課題は消えてなくなる。なぜなら、記憶は想像の一種ということになり、区別する必要がなくなるからだ。ただし、当然のことながら、次の疑問が立ちはだかる。
- (過去の自分についての)エピソード想像にすぎないエピソード記憶が、多くの場合、信頼に足る過去についての知識をもたらすのはなぜか?
このあとのいくつかの章では、この問いへの回答にページが割かれることになる。続きは後編へ。