Kourken Michaelian著、"Mental Time Travel"の読書メモの続き。
前編はこちら:
前半では、「エピソード記憶とは過去や未来の出来事の想像(=シミュレーション)の一種である」とする「シミュレーション説」が打ち立てられた。後半部では、
- (過去の自分についての)エピソード想像にすぎないエピソード記憶が、多くの場合、信頼に足る過去についての知識をもたらすのはなぜか?
という問いに対する、著者なりの説明が与えられていく。
読書メモ後編:第7~11章 ——シミュレーション説はなぜうまくいくか
第7章:The Information Effect 外部情報の効果
本章ではまず、証言的情報(testimonial information)の効果について考える。他者から伝えられる、「あのとき、あんなことがあったよね」といった情報だ。これは、記憶の「生成」に大きな役割を果たす。
心理学の実験では、実験者が与える情報により、偽の記憶を植え付けられることが知られている(ロフタスのショッピングモール実験など)。しかし、外部の証言的情報(testimonial information)の取り込みには、有害なもの(harmful incorporation)だけでなく、有益なもの(helpful incorporation)もある。つまり、外部情報が記憶をより確かなものにすることがある。新婚旅行の思い出を夫婦で話し合い、旅行の記憶が強化されることなどはその例だろう。
一見、外部からの情報が取り入れた記憶の表象は、その信念を知識とは呼べないものにしてしまうように思える。これが、「異物混入見解」(contamination view)と著者が呼ぶ見方である。「異物混入見解」を支持する人は、たとえば、取り込まれた情報が記憶の確かさに貢献したとしても、それは「たまたま」—―つまり運(luck)によるもの――であり、成否が運に依存するようなものは知識とはいえない、といった議論を展開する。
著者は「混入見解」に反論する。
- まず、混入はほぼ常に起こっている。外部情報の混入を認めないとすると、「エピソード記憶」と呼べるものはほとんどなくなってしまう。
- また、混入する情報は多くの場合正しい。「運(luck)」という概念を様相的(modal)に捉え、「近接する可能世界では起こらないこと」と捉えれば、証言的情報が有益なのは「運による」とはいえない(他の多くの可能世界でも、人は正しいことを教えてくれる)。
証言的情報の取り込みによる記憶の生成は、多くの場合、記憶の信頼性を高める。もちろん、証言的情報は常に正しいわけではない。しかしそもそも記憶の信頼性を非循環的に示すことはできない。ここでのポイントは、記憶が生成的であるにもかかわらず、むしろだからこそ、信頼に足るものでありうる理由を示すことなのだ。
第8章:Metamemory and the Source Problem メタ記憶とソース問題
私たちは、自分が思い出した事柄について、それがどれくらい信頼のおける記憶かを評価することができる。この能力はソース・モニタリング(source monitoring)と呼ばれる(ソース・モニタリングは心理学で確立した用語らしく、脳科学辞典にも項目がある)。本章では、このソース・モニタリングを、記憶の信頼性を担保するの機構の一つとして位置づけている。
この章はやや内容がテクニカルだったので、詳細の内容紹介は省く。ただ、ソース・モニタリングが働いているというのは実感としてわかる。私(ブログ筆者)は、眠りから覚めてすぐ、夢と現実がわからなくなることがある。自分が高校生だという設定の夢をみたあと、起きて数秒間だけ「あれ、自分って高校生だっけ?」と混乱するが、すぐあとに学生時代は遠い過去であることを思い出して「ああ、そうだった!(よかった!)」と安堵したりする。これは、ソース・モニタリング機構が一時的に解除されているのだろう。もし、ソース・モニタリングが戻らなかったら、あの見当識を失った状況がずっと続くのだろうかと思うとぞっとする。ソース・モニタリングがいかに重要かが分かる。
第9章:Meta memory and the Process Problem メタ記憶とプロセス問題
前章では、「思い出した記憶は、本物か想像か?」を判別する「ソース問題」を扱った。それとは独立した問題として、「いま、自分が行っているのは記憶の想起か、想像か?」を判定する「プロセス問題(process problem)」がある。この問題に対処するプロセス・モニタリングの仕組みが脳にはあり、これも記憶の信頼性に寄与している。プロセス・モニタリングで「記憶」と認定されたプロセスの生み出した情報に対してソース・モニタリングがなされるため、プロセス問題はソース問題に先立つ。
ヒュームは記憶と想像の区別の基準を「鮮明さ(vivacity)」や「可変性(flexibility)」に求めたが、プロセス問題の解決策としてはこれだけでは不十分だ。実際には、いくつもの基準を組み合わせて使っていると考えられる。
- 形式的な違いによる基準:可変性、意図(思い出そうと意図しているかどうかなど)、自発性
- 内容の違いによる基準:鮮明さ、一貫性、感情価・感情的強度
- 現象学的な違いによる基準:過去にもった信念という感じ、親しみの感じ、過去感と未来感
ブログ筆者は、ソース問題とプロセス問題の区別が完全には理解できなかった。言われてみれば違う問題のような気もするが、分けなくてもよいのではという疑問も捨てきれない。ただ、なるほどなと思ったのは、プロセス・モニタリングが間違う事例として、「故意ではない剽窃(cryptomnesia)」が挙げられていることだった。これは、実際には過去に誰かから聞いたり本で読んだりしたことなのに、自分がいま考えたことだと勘違いしてしまうという誤認のことだ。これは、「記憶を想像だと取り違える」という、一般的な誤記憶の逆バージョンとなっている。このプロセス・モニタリングのエラーであれば、私自身、日々犯していると思う。
第10章:The Puzzle of Concious Episodic Memory 意識的なエピソード記憶にまつわる謎
最後の二つの章では、
- エピソード記憶の能力は「いつ」登場し、「なぜ」獲得されたのか
という問いが扱われる。「いつ」というのは「進化の過程のどの段階で?」という意味だ。つまり、人間以外のどの動物はエピソード記憶をもっているのか、あるいはそれは人間特有のものなのか。
この問題には過去さまざまな心理学者・生物学者が取り組んできた。人間以外の霊長類や鳥のいくつかの種にはエピソード記憶があると主張する研究者もいる一方、人間にしかないと主張する人もいる。当然、答えは「エピソード記憶」をどう定義するかによる。大きく分けて、2種類の定義があるという。
- 文脈的定義(contextual definition):「何を・いつ・どこで(what-when-where)」の情報を保持していること。
- 現象学的定義(phenomenological definition):過去のことを主観的に思い出せること。
前者は、多くの動物種でみられる記憶で、エピソード様記憶(episodic-like memory)と呼ばれることもある。後者は、主観性を伴う意識的なエピソード記憶(conscious episodic memory)であり、本書のシミュレーション説――エピソード記憶は「エピソード想像」の一種である――はこちらの意味でのエピソード記憶について議論したきたのだった。二つの定義は、いずれも心理学者エンデル・タルヴィングが考案している。彼は1970年代には文脈的定義を打ち出したものの、その後現象学的定義に焦点を移し、意識的なエピソード記憶は人間に固有のものだと主張した。
著者のマイケリアンも、タルヴィングに同意する。現象学定義の難点は、人間以外の動物種で実験的に確かられないことだ。一方、意識的なエピソード記憶が、過去や未来を創造する能力、すなわち心的時間旅行(mental time travel)*1の一種であるという心理学的な知見にもとづけば、人間以外でも間接的にその能力の有無を推測することができ、「人間以外はもっていなさそう」といえる。
意識的なエピソード記憶を可能にする、二つの能力がある。これまたタルヴィングが作った言葉だ(鍵カッコ内は、本書が引用するタルヴィングらの論文からの再引用)。
- オートノエシス(autonoesis):自分の経験を意識、すなわち「過去、現在、未来における自分の経験を表象する能力」。
- クロネステジア(chronesthesia):主観的な時間についての意識。これはオートノエシスとは独立しており、なぜなら「時間は自己とは独立に扱うことができ、また自己は時間とは独立に扱うことができる」からである。
少し調べた限りでは、これらに対応する日本語が見つからなかった。言葉の響きが難しいだけでなく、著者によれば「厳密な定義を欠いた概念」だという。厄介な用語な気もするが、本書はこの二つの概念を受け入れている。
第11章:Conciousness and Memory Knowledge 意識と、記憶にもとづく知識
なぜ、人間は、意識的なエピソード記憶、あるいは心的時間旅行の能力をもつにいたったのだろうか。進化的に、どんなメリットがあったのか。
もちろん、進化的なメリットなどなかった、という可能性もある。他の能力の副産物として獲得したのだ、と(「スパンドレル」の議論ともいわれる)。しかし、心的時間旅行はかなり大掛かりな能力であり、単に随伴的なものとも思えない。過去、さまざまな説が提唱されてきた。
- 過去志向の説明:たとえばシャクターらは、手続き記憶や意味記憶が過去の情報を平均化していくのと異なり、エピソード記憶は情報の個別性を保存するために進化したとする説明を与えている。
- 社会的説明:他人の印象を再評価するために備わったとする説や、誰が自分の味方かを覚えておくための能力だったとする説がある。
- 未来志向の説明:未来の狩りに備えて道具をつくっておいたり、未来をシミュレートすることで実際に行っていない行動の成否を判断したりするための能力として備わったとする説。また、「報酬の割引」を提言することで、近視眼的になることを防ぐ機能だという説もある。
これらに対して、著者ミケリアンの説は、エピソード記憶の意識的側面は記憶の信頼性を担保するために必要とされたというものだ。第8章の「ソース・モニタリング」と第9章の「プロセス・モニタリング」の両方に、意識がかかわっていると著者は考える。タルヴィングのいうオートノエシス(=「私のこと」感)とクロネステジア(=「過去のこと」感)の両方の能力を使って、自分が行っているエピソード想像が、実際に過去の自分に起こった出来事についての記憶であると判断できる。
このようにして、進化的にも、エピソード記憶の信頼性が担保されてきたと考えられるのである。
感想(シミュレーション説が正しいとしたら?)
以上、だいぶ省略しながらではあるが、"Mental Time Travel"の内容を見てきた。エピソード記憶の「信頼性の説明」や「進化的説明」の議論には、いろいろと異論もありそうだし、個人的にも、納得しきれないところがあった。
それでも「シミュレーション説」にはかなりインパクトがあったし、魅力も感じた。繰り返しになるが、なんといっても、
- 記憶痕跡が脳になくても、エピソード記憶が成立しうる
という含意は強烈だ。
こう考えると、脳の(エピソード)記憶研究は、少なくとも問いを二つに分ける必要があるように思える。
- 記憶研究の問い(1):脳は、過去についての情報を、物理的にどのように保持しているか?
- 記憶研究の問い(2):脳は、いかにして過去の出来事についてシミュレートし、その信頼性を評価しているか?
神経科学は、おおむね(1)の問いにフォーカスしている印象があるが、今後は(2)も射程に入れていくことになるのだろう*2。大事なのは、両者を混同しないことだ。
また、シミュ―レーション説には、自己啓発的な次元でも大事な含意があるように思う。本書を読んでいる最中、思わず以下のツイートをした。
もとより、自分の脳の中から出てくるものだけでは、記憶と実際の過去との一致は証明できない。だったら、脳の中だけに記憶痕跡をとどめておかなければいけない理由はない。外部のキューも使って、あとからシミュレーションできれば、それは立派な「記憶」なのだ。
— R. Maruyama (@rmaruy) April 23, 2019
何かを思い出すことは、自分の頭の中に貯蔵された情報を絞り出すこと(だけ)ではない。 大事なのは、過去の記憶を保持する「記憶力」ではなく、今、この瞬間にいかにして過去をシミュレートし、そのプロセスを適切にモニタリングするかなのだ。