重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

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読書メモ(勉強モード):なぜ科学は多元的であるべきなのか(Hasok Chang, "Is Water H2O?", 第5章)

 

以前もこのブログで取り上げた、"Is Water H2O?"(by Hasok Chang)。19世紀の化学史を丹念に紐解き、そこから現代の科学・科学哲学について考えるヒントを得ようという本です*1

今回は、同書の最終章(第5章)を見ていきたいと思います。

※本エントリーは、6月ころ(?)に実施予定の勉強会の準備を兼ねたメモです。勉強会での指摘などを踏まえて書き換える可能性があります。

科学の多元性を擁護する

この章で著者がやろうとしているのは、一言でいえば「科学の多元性の擁護」。もっといえば、科学の多元主義の推奨です*2

多元主義とは何か。

ふつう、私たちは、科学を一元主義的に考えます。ある科学上のテーマについて、A説とB説が並存しているとき、科学者は実験なり観測なりをして、どちらが正しいかを決めようとします。その結果がB説を支持するものであれば、A説は棄却され、B説が採用されたと考えます。直接の比較がなされない場合でも、古いC説が「よりよい」新説Dによって塗り替えられたりします。このように、競合する理論の中から、より真理に近いものが選択されていく。通常、科学はこのような営みとして理解されます。

これに対し、科学の多元主義は「A説もB説も、どちらもあってよいじゃないか」という立場です。ただし、本書の多元主義では、一つの「元」に当たるのは、「説」ないし「理論」(theory)ではなく、もう少し大きなくくり――チャン氏が科学の「実践の体系」(system of practice)と呼ぶもの――となります。さらに、チャン氏の多元主義は、多様な体系が「あってもよいじゃないか」から、「あったほうがよい」という積極的な主張にまで踏み込みます。

第1~4章のあらまし

なぜ、多元主義なのか。 第5章の議論を見ていく前に、ざっと第1~4章の内容をまとめておきます。

  • 第1章「Water and the Chemical Revolution」:18世紀末の「化学革命」がテーマ。燃焼を「フロギストン(=燃素)の脱落」として説明するフロギストン説から、「酸素の結合」だとするラヴォアジエ説への移行の経緯をたどる。通俗的な理解に反して、ラヴォアジエ説はフロギストン説に圧倒的に勝るわけではなく、後者が放棄されたのは早計だったと著者は主張する。フロギストン説にも利点があり、もし保存されていれば、のちの化学的発見を早めることになったかもしれないとまで言う。
  • 第2章「Electrolysis」(第2章についてはこちらも):19世紀初頭、水の電気分解が可能になる。一見、電気分解は水の組成が「水素+酸素」だということの直接的な証拠になりそうだが、ことはそう単純ではなかった。また電気分解には「距離問題」という謎が存在し、その解釈が分かれる時期が続いた。しかし、統一理論はなくても、電気化学は発展していった。
  • 第3章「HO or H2O?」:19世紀中盤の原子化学について。物理学的な「原子」の存在は認められるのはまだ先だが、化学者たちは種々の化学反応を説明するために、「原子」の概念を使い始めていた。そこでの大きな問題は、「化学式」と「原子の質量」が互いに依存しており、何らかの仮定なしには決定できない問題があった。ドルトンは「単純性」の原理から水の化学式を「HO」だとした。通説的には、同一体積に同一数の分子が含まれているとしたアヴォガドロが「H2O」という正解にたどり着いたとなるのだが、ここでも歴史の単純化を著者は指摘する。実際には、このころの原子化学には「五つの体系」があり、それらの複雑な相互作用によって、H2Oの表式が導かれていく。
  • 第4章「Active Realism and the Reality of H2O」では、ここまでの歴史研究を踏まえた、著者なりの新しい実在論(実在主義)を提唱。「多元主義」の議論とは独立しているので省くが、興味深いので機会があれば取り上げたいと思います。

それでは、第5章に入ります。下記はこの章の内容をレジュメ風にまとめたものです。

第5章:科学における多元主義(Pluralism in Science: A Call to Action)

科学の多元主義

第1~3章では、フロギストン説、リッターの説、ドルトンの水のHO式のなかには、保存するに値するものがあったことを見てきた。著者はこうした科学史研究を通じて、多元性という考え方に惹かれ、次第に積極的に支持するようになった。本章では一貫性・体系性のある哲学的立場として、科学の多元主義を提示したい。

多元主義をとる動機を挙げる。

  • 謙虚さ(humility)を担保するため。科学者は自然を理解できるという信念、不遜さ(hubris)が役立ってきた面もあるかもしれないが、現代の成熟した科学では必要ないだろう。終わりなき自然の探求においては、尊大な形而上学的教条(highfalutin metaphysical doctorine)は要らない。むしろ、制約なく異なる実践の体系(system of practice)を使っていくのがよい。
  • 自然は際限なく複雑であり、それを理解する人間の能力は有限なので、異なる図式(schemeが必要であるため。多くの科学者は、自然の複雑さを、小さく単純な部分への還元(reduction)で対処しようとしてきたが、それがいつもうまくいくと思うのは非現実的である。
  • 慎重さ(prudence)の担保のため。科学的探求はいつもうまく進むとは限らないので、一つが失敗しても対処できるようにしておくのがよい。
科学は一元主義をとってきた

ここで一元主義(monism)と呼ぶのは次のような立場である。

  • 科学の究極的な目的は、ある基本原理のセットによって、自然界についての完全で包括的な単一の記述(account)を確立することである
  • 探求の方法は、上記のような記述を生み出すことができるかによって選択される

本章では、二つのステップでこの一元主義に反論する。

  1. 私たちが科学に期待するのは、一元論主義な記述ではなく、その先の究極的な目的(aims)を満たすことである
  2. 科学の目的(aims)は、一般に、相互に影響を及ぼす複数の記述を育むことでより達成しやすくなる

本章では、多元主義を、「科学のどんな分野についても、実践の体系*3を複数育むことを推奨する立場」として定義する。この多元主義は、現実の科学がそうなっているという記述にとどまらないし、こうあるべきだと言うだけの机上の規範的言明(armchair-normative statement)ですらない。実際に、複数の科学的知識の体系を存在させようという、行動(action)へのコミットメントなのである。

「みんな違ってみんないい?」でいい?—―多元主義への想定批判

まず(とくに哲学者から)言われるのが、「それってたんなる相対主義(relativism)じゃないの?」という批判だが、多元主義相対主義は異なる。相対主義が「何でもあり(anything goes)」だとすれば、多元論のスローガンは「ありなものがたくさん(many things go)」。多元主義では、相対主義におけるような判断・コミットメントの放棄を伴わない。

多元主義では「科学者は問いに集中できないのでは?」という懸念もありうる。まず、ある個人やグループが一元主義の気持ちで探求をすることは、ほかの探求を妨げない限りにおいて、多元主義にとって問題にはならない。さらに言えば、異なる知識体系の間を行ったり来たりできるように頭を鍛えることは可能だろう。実際、我々は科学や日常の場面において、概念的枠組みの切り替え(conceptual frame-switching)や枠組みの融合(frame-blending)を難なく行っている。

ある一つ場面において異なる科学的体系が異なるアドバイスを与えることになったとしても、それはむしろ良いことである。アジアに住む患者は東洋医学と西洋医学を選んで使っているし、GPS関連の技術では、ニュートン力学量子力学、一般相対論を場面に応じて使い分けている。

限られた時間、予算、人材を多元的な探求に割いている余裕があるのかという批判もありうる。これには、次の応答をする。

  1. 「全部の探求にリソースを割けない」からといって、すぐに「一つにしか割けない」ことにはならない。
  2. ある探求の系列(line of inquiry)を生き延びさせることにかかるリソースはそれほど多くない。探索的研究(exploratory research)はしばしば非常に安価。
  3. 特定の探求にリソースを集中させていくと、その効果は逓減していく(ポパー:「あまりにも少ないアイディアを追うために、あまりにも多額のドルが使われているかもしれない」)。
  4. 科学はゼロサムゲームではない。多元主義的な議論は、人びとを感化し、科学に参入する人や予算を増やすことに寄与するかもしれない。
本書の多元主義

多元主義にもいろいろあるが、ここで本書の主張する多元主義は、能動的-規範的-認識的-多元主義である。

  • 認識的(epistemic、対義語はmetaphysical):知識獲得の仕方の改善に興味があるのであって、自然の根本的な存在論には立ち入らない。宇宙の真の姿がどうであるかにかかわらず、認識的多元主義を支持する。
  • 規範的(normative):記述的にも科学は多元的だと思うが、現実の科学が仮に一元的であったとしても、本来は多元的であるべきだと考える。
  • 能動的(active):多元主義の利点を述べるにとどまらず、それを推し進める
多元主義の何がいいのか

多元主義には、寛容(toleration)による利点相互作用(interaction)による利点がある。前者の寛容的多元論は異なる体系の共存を許すもの、後者の相互作用的多元論は異なる体系同士の相互作用を期待するものである。

容認による利点は次の4点である。

  • 掛け金を分散する(Hedging the Bet):科学の目的が単一の真理(大文字のTruth)を見つけることであるにせよ、それ以外の目的にせよ、どの道筋でそこにたどり着けるかは予想不可能。そこで、複数の探求の道筋を残しておくべきである(ベイズ主義の言葉でいえば、ゼロでない事前確率をもつすべての理論を残しておくべき)。
  • 領域を分割する(Division of Domain):当座の科学にとっては、科学の最終目的(それが何であれ)を単一の体系が満たすことは望めず、それぞれが限られた領域で機能する複数の体系をもつのがよい。たとえば古典力学量子力学に還元されたからといって、古典力学が不要になるわけではなく、領域によっては古典力学でしか(計算量的に)解けない問題がある*4
  • 異なる目的の充足(Satisfaction of Different Aims):科学には、複数の価値/目的が並存している。たとえば第1章では、ラヴォアジェが理論の美しさ(elegance)を求めたのに対し、プリーストリーが経験論的な包括性(empirical comprehensiveness)を求めたことを見た。多様な価値/目的をすべて一つの体系で充足できるとは考えにくく、この意味でも多体系による分業が役立つ。また、同じ言葉を使っていても、価値/目的の内実が異なる場合がある。たとえば科学の目的を「理解」に置いている科学者は多いが、人によって理解をもたらす知識体系は異なる。全員に直観的理解をもたらす体系はないと考えられることから、多元主義が必要となる。科学者の目的の分岐がみられるよい事例として量子力学がある*5。 
  • 複数の体系による充足(Multiple Satisfaction):成熟した科学では、同じ現象を複数の方法で理解できる場合がある。フロギストン説とラボアジェの説、ケプラーの惑星運動の法則とデカルトの渦動説、量子力学の各種バージョンなど、一元論主義者なら余分だとして忌避するところ、多元主義者は理解の多様さを歓迎する。

相互作用による利点としては次の三つが挙げられる。

  • 統合(Integration):複数のシステムを、その場その場で統合すること(ad hoc integration)で、特定の目的をよりよく達成できることがある。第3章で述べた原子化学の五つの体系は、統合による利点がみられたよい例となっている。
  • 取り入れ(Co-optation):体系同士をくっつけることができない場合でも、ある体系のアイディアや結果を別の体系で取り入れる(co-opt)することができる。たとえば、第1章では、ラヴォアジェがプリーストリーによる酸素の発見やキャベンディッシュによる水の合成、その他さまざまな実験技術を取り入れて自身の化学をつくったことを見た。
  • 競争(Competition):統合や取り入れがなされなくても、体系間の競争が生産的な場合がある。複数の体系の間で競争があることは、科学の発展にとって、風通しの良さと良い刺激をあたえうる。そのためにも、早々と分の悪い体系を排除しないことが大事である。競争に負けた側をすぐに排除してしまうことには、「欠落効果(lacuna effect)」と著者が呼ぶ問題もある。これは、ある目的を目指す体系がうまくいかないことを理由に捨てられてしまうと、その目的ごと忘れられてしまうという問題だ。たとえば、フロギストン説の早計な棄却は金属の性質と電気的現象との関連についての問題意識を忘れさせた(第1章)。重要なクエスチョンを、うまくいかない体系とともに捨ててしまわないことが大事である。
科学史・科学哲学の役割

多元主義の利点を見てきたが、では、それをどう現実のものにするか(振興、proliferateしていくか)。とはいえ、科学者にそれを求めるのは難しいと思える――すでに多元的にやっている面もあるだろうし、また外からもたらされた哲学的教条に基づいて自身の専門的実践を変更するとも思えない。そこで、哲学者や歴史学者ができることを述べたい。

一つ目は「多元主義的な歴史記述(Pluralist Histriography)」である。これは科学の発展に関する勝利主義(triumphalism、勝者の歴史観)を正す役割をもちうる。今なお、科学史では、各論争において勝った陣営の視点を中心に語る勝利主義が根付いている。多元主義的な歴史学の指針は次の3点である。

  1. 科学的論争の負けた側(losing side)に注意を払う。
  2. 論争の結末(closure)に気を取られないようにする。事後的な整理(retrospective tidying-up)をしたくなる傾向に対抗する。
  3. 多元性を科学の通常の特徴とみなす。

本書第1~3章ではこれらをやってきたつもりだが、まだまだ歴史の語り直しは必要である。真の勝者の不在にもかかわらずよい科学がなされた事例を見れば、科学の本質は論争に勝つことでも、合意にいたることですらないことがわかる。

もう一つは「多元主義的な哲学の実践(Pluralist Philosophical Practice)」である。多元主義的な哲学者のタスクは、まずは科学観の背後にある一元主義的な前提をあぶりだし、それを吟味すること。妥当でなければ多元論的な選択肢を提示して、それがどんな新たな疑問や解を生み出すかを見ることである。

理論選択に関する哲学的議論では、競合する理論のうちのよいものを選んで悪いものを捨てるべきという、一元主義的な科学観が色濃い。しかし、理論選択は、たんに個々の科学者がどんな道筋で研究を行うかの選択とみることはできないのだろうか。科学者にとって、広範な知識体系の中から一元論的な選択を行わないほうがよい場合も多く、そのことを科学者がよりクリアに理解できるようにする手助けを、哲学者はできるかもしれない。

以上のように、歴史記述や哲学は、その通常の役割を超えた、より能動的なはたらきをすることができると考える。これは、著者が提唱してきた「補完科学(complementary science)」としての科学史・科学哲学という考え方に沿うものである。

感想

以上、長くなりましたが第5章の内容を見てきました(注:これでもだいぶ省略した部分もあります)。

多元主義、どうでしょうか。おそらく、多くの人は「すでに多元主義者」な面もあるのではないかと思います。そもそも一つの理論ないし枠組み(チャン氏のいう「実践の体系」)で、自分の関心のある対象を扱えることは珍しく、誰しも枠組みを組み合わせて取り組んでいるのではないでしょうか。ただし、心のどこかで「統一理論を希求する」気持ちがあるのだとすれば、心情的には「一元主義者」となります。チャン氏は、その意味での一元主義も手放す「べき」だと主張します。

歴史的に正しい(=白)だとされた説(ラヴォアジェ説など)のなかにも、よくよく見ると黒い部分がまだらになっており、逆に誤り(=黒)だとされた説(フロギストン説)も、拡大率をあげれば白い部分が多分にある。だから、どちらかを敢えて「捨てる」ことはないだろうという論旨です。

本書がすごいのは、それを最も主張するのが難しそうな分野に挑んでいること、つまり、一番「決着」がはっきりついていそうな「19世紀の化学」を題材に、多元主義の有用性を示した点にあります。これが現代の科学にどれくらい通用するかについては、自分の頭で考えなければと思います。

とはいえ、本書でチャン氏が示したのは非常に成熟した「大人の科学観」とも言え、とても惹かれます。

ジョセフ・プリーストリーは、教条主義者だったというよくある誤解に反して、成熟した科学者だった。若きハンフリー・デイヴィ―は相当未成熟だったが、齢を重ねるなかで成熟していったと私は思う。アントワーヌ・ラヴォアジエは中年になるまで若々しく、成熟できる前に殺されてしまった。… 成熟した科学者(mature scientist)というのは、究極で万能な知識を夢中で追い求めるよりも、人々のニーズ(理解したいという欲求を含む)を満たすのに十分な知識を得ることに注意を払うものである。(Chang 2012, Ch.4)

*1:チャン氏の人となりについては、下記ポッドキャストが詳しいです。

*2:多元主義=pluralismは「多元論」と訳されることも多いですが、著者のチャン氏はここでの「ism」はイデオロギーの意味だと明確に言っているため、あえて「多元主義」としました。同様に"monism"は「一元論」ではなく「一元主義」とします。

*3:systems of practice、何らかの目的を達成するためになされる、一貫した一連の認識的な活動。

*4:さらに、ある体系が全領域をカバーしている場合でも、実際上は異なる体系を使い分けるのがよいことがある。古典力学におけるニュートン流/ラグランジュ流/ハミルトン流定式化の使い分け、量子力学におけるシュレディンガー流/ハイゼンベルク流定式化の使い分けなど。

*5:そもそも、量子力学の解釈問題について気にする物理学者とそうでない人に分かれる。前者は経験論的妥当性に加えて理解を目指しているが、後者は経験論的妥当性のみを気にしている。前者のなかでは、さらにいくつも立場(解釈の流派)に分岐する。(丸山メモ)このことについては以前興味をもち、調べたことがある:https://rmaruy.hatenablog.com/entry/2017/10/03/223431