重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

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読書メモ(勉強モード):Understanding Scientific Understanding(by Henk W. de Regt)~理解できないものを理解するために、まずは理解を理解する~

科学というのは、その成り立ちや動作原理が未知の対象――宇宙、生命、脳など――を「理解する」ための営みと言える。だが、ときに「科学的に理解するとはどういうことなのか」がわからなくなることがある。本ブログでは、一貫してそれについて考えてきた。

脳や生命や量子現象は、どのように理解できるのだろうか? 理解できないものを理解するには、まずは理解を理解しないといけないだろう。

また近年、機械学習が新しい科学の方法論として注目されており、いろんな人が「AIによる新しい科学的理解」の話をし始めている。

AIは科学的理解の意味を変えるのか? これも興味深い問いだ。

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科学にとって理解とは何か。このテーマをじかに扱っている本を読んでみた。

著者のHenk W. de Regt(ヘンク・デレフト)氏は科学史・科学哲学者。1990年代にエルヴィン・シュレーディンガーの研究でPh.D.をとり、それ以来「科学的理解」をテーマに研究を続けてきたという。集大成としてまとめたのがUnderstanding Scientific Understandingであり、2019年には優れた科学哲学の業績に贈られる「ラカトシュ賞」を受賞している。

Henk W. de Regt wins the 2019 Lakatos Award | Philosophy, Logic and Scientific Method

本書の内容は、下記のyoutube動画でダイジェストされているので、1時間程度取れる方はまずこちらを観るとよいかもしれない。

www.youtube.com

 

以下、内容をまとめておく。

※下記は、自分の勉強のための読書メモです。ブログ筆者は哲学の専門家ではないため、訳語の誤り/度が過ぎた意訳/内容の誤読/重要なポイントの欠落、等々が含まれているかもしれませんので、ご注意ください。また、万が一専門家の方の目に触れることがありましたら、お気づきの点をご指摘をいただけると大変幸いです。

第1章 序章:理解への欲求(Introduction: The desire to understand)

どの時代でも通用するような、普遍的な「科学的理解」の基準はあるのだろうか。歴史を少し見れば答えは「否」であることが分かる。

理解(understanding)と理解可能性*1(intelligibility)を主題に持ってきたのは20世紀初頭のシュレーディンガーだった。量子力学の創成期、シュレーディンガー波動力学と、ボーアやハイゼンベルク行列力学が並立していた。シュレーディンガーは、自身の波動力学こそ現象の真の理解をもたらすうえで有効だと主張した。「我々は空間と時間のなかで考える仕方を変えることはできない。そのように把握できないものは、決して理解できないのだ」(Schrödinger 1928)。一方、ボーアのグループにいたパウリは、たしかに行列力学はあまり理解可能(intelligible)でないように見えるかもしれないが、理解というのは慣れの問題だと主張した。今日でもなお、量子力学は理解できるのか、どのように理解できるのかをめぐって、物理学者や哲学者は一致を見ていない。

このように「何が理解可能(intelligible)か」が争点になるのは量子力学に限ったことではない。むしろ、物理学の歴史では頻繁に見られることなのだ。

本書では「理解の文脈依存説(contextual theory of understanding)」を提唱する。どの時代にも通用するような不変の科学的理解に関する基準はなく、理解は文脈に依存するという見方だ。科学哲学ではながらく、理解は「説明」の心理学的な副産物(psychological byproduct of explanation)とみなされてきた。しかし本書では、理解は科学の認識的目的(epistemic aim)を達成するうえで中心をなすものであることを主張する。

第2章 科学の目的と理解(Understanding and the aims of science)

置き去りにされてきた理解

理解に関しては、カール・ヘンペルを代表とする論理経験主義者(logical empiricist)による科学的説明(scientific explanation)の見方が影響力をもってきた。ヘンペルによれば、理解という概念は「説明」と「現象」と「(説明を通して現象を理解する)人」という三項関係(three-term relation)で成り立つ。つまり、理解には「理解する主体」が要る。このことをもって、理解は純粋に主観的(purely subjective)な概念であり、科学に関する議論が目指すべき客観性にはそぐわないとヘンペルは考えた。

しかし、これは「客観性」という概念を狭く捉えすぎているのではないだろうか。Heather Douglas (2004, 2009b) が示したように、客観性は複雑な概念だ。理解や理解可能性(intelligibility)といった概念は、客観性を損なうことなく科学の価値に結びつけることができる。

Trout (2002)は理解の感覚(feeling of understanding)は単なる後付けの自信や知的満足感であるとした。だが、理解には情動や感覚にとどまらない要素がある。科学的説明と関わりにおいて三つの種類の「理解」を区別することが重要である。

  • PU:理解の現象学(phenomenology of understanding )。説明に伴いうる理解の感覚(いわゆる「アハ!」)
  • UT:理論の理解(understanding a theory)。理論を使えること。
  • UP:現象の理解(understanding a phenomenon)。現象に対して適切な説明をもつこと。

UPには、しばしばPUが伴う。が、伴わないこともあるし、それは認識的には重要ではない(UPについては本書ではほぼ扱っていない)。 本書のメインの主張は、UP(現象の理解)には必ずUT(理論の理解)が必要だという説である。

認識的スキルとしての理解

説明とは、特定の現象や状況が「なぜ」起こったのかを、他の認められた知識を体系的につないで論拠づけることである。説明を構築するのにはスキルが必要となる。理解とは、法則を知っているだけでなく、手持ちの法則を使えるということである。こうした理解は、ある種の暗黙知であり、ある社会的集団(科学者コミュニティ)の共同的実践に参加することでのみ身につく。

たとえば、ボイルの法則を気体分子運動論で「説明」する際には、「理想気体モデル」という特殊なモデルを使う必要がある。こうしたモデルは気体分子運動論から演繹的には導かれず、特定のスキルを要する。科学的説明を構築したり評価したりするには、単に知識をもっているだけでは足りず、その知識を適用するためのスキルが必要なのである。

理解可能性(Intelligibility)、価値、客観性

科学者は、各種の理論にそれぞれの価値(認識的価値、epistemic value)を見出す。単純さ(simplicity)、適用の広さ(scope)、整合性(consistency)といった一般的なもののほか、可視化性(visualizability)、因果性(causality)、連続性(continuity)、局所性(locality)なども含まれる。本書では、理論の理解可能性(intelligibility of a theory)を「科学者たちがその理論に帰する一連の性質であり、理論の使用を促進するもの」と定義する。理論はあらかじめ理解可能であったり理解不能であったりするのではなく、特定の科学者や科学者集団によってそうなるのである。

理解は手段であり目的である

現象の理解 (UP)には主観的な理解の感覚(PU)が伴うこともあるし、伴わないこともある。一方、UPは必ず理論の理解(プラグマティックな理解、UT)を必要とする。つまり、説明をもたらすための理論への理解は、その説明が生成する理解と根本的に対応している。ここには一見、循環構造がある(「理解のために理解が必要」という議論に見える)。しかし、以下の章で見ていくように、それは悪性の循環ではない。


第3章 説明的理解:モデルの多元性(Explanatory understanding: A plurality of models)

科学哲学者は科学的理解についていくつかのモデルをつくってきた。その代表的な二つが、統一説(unificationist conception)因果・メカニズム説(causal - mechanical conception)である。

被覆法則から、理解の統一説へ

ヘンペルは、現象をある一般的な法則の帰結として示すことが科学的説明であるとする被覆法則モデル(covering law model)を考案した。またFriedman (1974)は、「与えられた(given)ものとみなされる現象の数を減らすことができたとき、科学は世界についての理解を増大させるのだ」と述べた。しかし、法則の統一をもたらす説明が、最も理解をもたらす説明であるとは限らない。統一は理解を達成するための「ツール」の一つだと考えるのがいいだろう。

説明的理解の因果説

Michael Scriven (1959)は、法則を使わなくても、因果的なストーリー自体が説明になりうると主張した。Wesley Salmonは「我々の世界を理解には因果的なメカニズムがカギを握っている」 (Salmon 1984)と述べ、理解の因果説を提唱した。しかし、物理学には因果的メカニズムに頼らない理解の事例が多数存在する。Ruth Berger (1998)が示すように、生物学においても、つねに因果的な分析がなされるわけではない。なお、21世紀に入って、生命科学にマッチするような新しい説明のためのメカニズム的モデルを構築する試みがなされている(Peter Machamer, Lindley Darden, and Carl Craver (2000)によって開始された「new mechanist」運動)。

因果的理解と統一的理解は相補的か?

Salmonは近年、因果的理解と統一法則的理解が相補的であるとする説を提唱した。両者は「完全な理解」(本書では超理解(superunderstanding)と呼ぶ)にとって、ダブり・洩れがない(mutually exclusive and jointly exhaustive)な構成要素だとする考え方である。Salmonはこれで理解に関する科学哲学的な合意が形成されると考えたが、そうはならなかった。因果的説明と統一法則による説明を兼ねるような超理解は、現実の科学の目的ではなく、その理想ですらないのだ。

理解について本当に知りたいのなら、なぜ私たちは説明的理解について特定の直観をもつのかを吟味しなればならない。分野や時代ごとに科学者が理解について異なる直観をもっているのであれば、その違いを説明できるような理解の理論を考えなければならない。

第4章 科学的理解の文脈依存説(A contextual theory of scientific understanding)

理解可能(intellgible)な理論で現象を理解する

本書では説明的理解(explanatory understanding)が科学の主たる目的である――おそらく科学の最も重要な認識的目的である―― ことを前提とするとしている。

科学的活動はマクロ、メソ、ミクロの各レベルで考えるのがよい。ミクロなレベルでも、各科学者はそれぞれ異なる理解の方法を好むかもしれない。しかし、一番本質的なバラつきは「メソ」レベル、つまり科学コミュニティごとの単位で生じる。科学的理解は科学者のあいだのコミュニケーションによって達成されるので、そこには理解可能性に関する基準が共有されているはずである。そして、「現象の理解(UP)」の意味での理解は、全科学、つまりマクロレベルでの共通の目的である。

本書では、以下の「現象理解の基準(Criterion of Understanding Phenomena、CUP)」を提案する。

CUP(現象理解の基準) : 現象Pに対する、理解可能(intelligible)な理論Tによる説明が存在し、かつその説明が基本的な認識的価値(経験的妥当性と内的整合性)に沿ったものであるとき、そのときに限り現象Pは科学的に理解されたと言える。

理論によらない理解もあるのでは?と思うかもしれない。たしかに、ある現象が「なぜ起こったか(why)」ではなく現象が「起こっていること(that)」や「どのように起こっているか(how)」を知りたい場合もある。だが、そのようなモデルは記述や予測には役立つかもしれないが、説明に資する理解(explanatory understanding)はもたらさないだろう。

理解可能性(intelligibility)の基準

では、上記の基準CUPのなかにある「理解可能な理論」とは何か。よい理解をもたらすような科学的理論とはどんなものだろうか。

つねに正しいお告げをするような「オラクル」を考えてみよう。これは経験的妥当性(empirical adequacy)を保証するが、その完全な予測がどのようになされるのかの理解はもたらさない。それはブラックボックスでしかない。科学者は理論に求めるのは、よい予測だけでなく、ブラックボックスを開けて理解をすることだ。

本書では、「理論の理解可能性の基準1(Criterion for the Intelligibility of Theories、 CIT1)」を提唱する。

CIT1:科学理論Tは、科学者が厳密な計算(calculation)をすることなくTの定性的な帰結を(ある文脈Cのもとで)認めることができれば、理解可能(intelligible)である。

これは理解可能性の「十分条件」の一つにすぎない。とくに物理学の理論を念頭に置いたため「計算」が入っているが、別の分野ではCIT2、CIT3、というように別の基準がありうる。

たとえば、理想気体モデルは気体分子運動論から演繹されるのではなく、理想化や近似によって構築される。こうしたモデル構築を可能にするのは、気体分子運動論の定性的な理解可能性(intelligibility)だ。分子の運動論という描像は、気体のマクロな性質に関する定性的な「感覚」をもたらす。それは厳密な計算(calculations)に先立つ理解なのである。ファインマンは「実際に方程式を解く前に、ある状況のなかで何が起こるかを知る方法があるとき、我々はその方程式を『理解』している」と述べたが、これはまさにCIT1と一致した見方だ。

気象学の分野でも、単にナビエ-ストークス方程式を力ずくで解くだけでなく、「PV thinking(ポテンシャル渦度思考)」と呼ばれる考え方をもとにした、理解可能な理論とモデルが用いられている。そのため、気象学でもCUPとCIT1の意味での理解が目指されていると言える。

科学は単なる予測以上の理解を求めるという点に加え、予測は理解なしでは不可能なことがある(例:心理学の行動主義や、量子物理など)。したがって前述の「オラクル」は現実にはないのである*2。逆に、予測能力の存在は、科学者が何らかの理解をもっていること、つまり理論の理解可能性を示している。

実在論、還元と理解

科学が現象の理解をもたらすという見方は、理解の対象が実在するという実在論へのコミットを意味すると考えられてきた。しかし必ずしもそうではない。

たとえば、ニュートン力学アインシュタイン相対性理論に塗り替えられており、厳密にいえば間違った理論だが、だからといってニュートン力学が現象の理解をもたらさないということにはならない。では、18世紀のフロギストン説はどうか? それが理解をもたらさないとする原理的な理由はない。ただしフロギストン説については、現在の酸素説による理解と比べてそれを用いる利点がないとは言える。実在性について疑念があるモデルによって、理解を達成することは可能なのだ。

同様に、科学的理解は何らかの還元を含意するという考えも誤解である。たとえば気体分子運動論は気体の性質を分子運動に還元するが、還元と理解の関係は必然的なものではない。理解を求めることは「実在のより深い階層(deeper layers of reality)」を探究することを必ずしも意味しない。むしろ、深い階層にいくと理解が難しくなることもある。たとえば、水の連続体としてのモデルは個々の分子のミクロなモデルに還元できるが、この還元は流体力学についての理解を増やさない。

文脈主義は危うい相対主義か?

理解可能性(intelligibility)は理論にあらかじめ備わった性質ではなく、プラグマティックで文脈(科学者のスキルなど)に依存した性質である。このことから、科学的理解を主観的で個人的なもの、すなわちある種の相対主義を招いてしまうのではないか思うかもしれない。たしかに科学的理解の意味はコミュニティ、時代ごとに変わるという意味で文脈依存性をもつ。しかしこのことは科学の信頼性を損なうことにはつながらない。

 

以下の3章(第5~7章)では、物理学史から個別の事例を見ていく。

第5章 理解可能性と形而上学:重力の理解(Intelligibility and metaphysics: Understanding gravitation)

ニュートンが1687年に『プリンキピア』を出版した際、ホイヘンスライプニッツなど多くの自然哲学者は、ニュートンの重力が距離を隔てて作用すること(遠隔作用、action at a distance)を受け容れなかった。17世紀の当時は、デカルトが打ち立てた機械論的な世界観が主流であり、デカルト派にとっては、その世界観に沿わない遠隔作用は理解不能(unintelligible)であった。

ニュートン自身も、遠隔作用は理解することができず、その原因を神に帰すことになる。しかしニュートンが革命的だったのは、科学の目的および方法と、形而上学とを切り離した点にあった。彼のアプローチは、原因が不明であっても、数学的なモデルを使って現象を説明することを可能にした。

19世紀末のマッハは、この事例をもとに理解可能性(intelligibility)とは幻想にすぎないと主張する。不可解で理解不能と思われる説も「慣れ」によって理解可能になっていくのだ。

たしかに、18世紀以降、遠隔作用の存在は常識として受け容れられることになる。科学者が依拠する形而上学は変わっていく。しかし本書では、17世紀のデカルト派、あるいは18世紀のニュートン力学を所与のものとした科学者たちがそれぞれ依拠していた「形而上学的な理解可能性(metaphysical intelligibilty)」にも、科学的理解に対する一定の役割があったと考える。たとえば、ホイヘンスデカルト的な機械論に依拠したためにニュートン説を受け容れられなかったが、機械論は彼が光学を大成するのを助けた。「形而上学的な理解可能性」と「科学的理解可能性」は別物だが、相互を助けるはたらきをする。

第6章 モデルとメカニズム:19世紀における物理学の理解(Models and mechanisms: Physical understanding in the nineteenth century)

1884年、トムソン(ケルヴィン卿)は次のように述べた。「私は、あるもののメカニズムモデルをつくるまで満足しない。メカニズムモデルがつくれれば、それを理解できる。メカニズムモデルをつくれないうちは理解できない。これが、私が電磁気学理論が分からない理由だ。」19世紀、熱やエネルギーに関して多大な成果を挙げていたトムソンは、メカニズムモデル*3による理解にこだわっていた。

一方、マクスウェルは「アナロジー」を重視した。ルドウィグ・ボルツマンもまた、メカニズムを重視したが、彼はとくに明確な「像(picture, Bilder)」を理解にとって必須なものと考えた。ボルツマンは、メカニズム的な描像による説明は、人間の思考の法則に沿ったものであると考えた(が、ボルツマンはそれをカント式のアプリオリな法則とはみなさず、人間が進化の過程で獲得したものだと考えた)。

この時期、気体分子運動論の一つの焦点となっていた問題に、気体の比熱の問題があった。マクスウェルは、気体分子の「自由度」と比熱比との関係式を導いたが、うまく二分子気体の比熱比を説明することができなかった。ここで、ボルツマンは二分子が剛体棒でつながった「ダンベルモデル」を提案し、それがもつ自由度「5」で気体の比熱比が説明できることを発見した。これは現実にはあり得ない理想化されたモデルであり、理論から演繹的に導けるものでもない。ボルツマンのスキルによってつくられたモデルと言える。

ボルツマンは「あらゆる状況で何をすべきかが分かっている」ことが「理解」にほかならないというプラグマティックな見解をもっていた。原子論をめぐる論争において、ボルツマンはメカニズム的な描像をもった理論のほうがヒューリスティックに有益だとし、原子の実在性を議論するのを避けた。

この後、量子力学の誕生によって原子のメカニズム的描像の限界が明らかになる。マッハらが、理論の理解可能性とは歴史的偶有的な性質であるとした点では正しかった。しかし、マッハは「理解可能性」を丸ごと棄却し、「産湯とともに赤子を流して」しまった。そうしたモデルがもたらす理解可能性にも、有益な側面があったのだ。

7. 可視化性と理解可能性:量子世界への洞察(Visualizability and intelligibility: Insight into the quantum world)

本章では量子力学の成立期において、可視化性(visualizability)がどのような役割を果たしたかを見る。

ボーアの初期のモデルは、原子内の電子は離散的な静止状態から、ときどき別の状態へ遷移する。したがって、このモデルは電子軌道を視覚化することはできたものの、状態遷移(「量子的ジャンプ」)に関しては視覚化できなかった。ボーアは当初は時空間での記述を重視していたものの、1922年ころから、量子理論は本質的に視覚化できない可能性について考え始めた。

ハイゼンベルクらは、原子構造の視覚化を一切行わず、もっぱら観測可能な物理量の記述に努めることで、行列力学の理論をつくった。そのすぐあと、競合理論としてシュレーディンガー波動力学が登場する。

この二つの量子力学理論の対立において、「Anschaulichkeit」(理解可能性intelligibilityとも可視化性visualizabilityとも訳せる)の概念が焦点となる。Schrödinger (1928)はハイゼンベルクの行列理論について「Anschaulichkeitが欠如していることに近寄りがたさを覚える」と述べている。一方、ハイゼンベルクシュレディンガーのいうAnschaulichkeitはほとんど意味をなさない、ということをパウリ宛の手紙に書いている。

パウリは、可視化性を放棄したとしても理解可能性は必ずしも損なわれないと主張した。ハイゼンベルクはこの見解を採用し、新しいAnschaulichkeitの概念を検討した。論文の冒頭に次のように書いている。「ある物理学理論がもたらす実験的帰結に関して、そのすべての単純なケースについて定性的に考え通すことができ、その理論内部に矛盾が含まれないことが確認できたとき、その理論を理解したと言える。」ハイゼンベルクの「不確定性関係」は、まさに時間空間的記述が不可能であることを示すものであった。それでも、さまざまな(思考)実験の結果についてハイゼンベルクの理論は予測をもたらす。こうしたことから彼は「もはや我々にとって量子力学は理解不能(unanschaulich)で抽象的なものではないのだ」と結論付けている。著者の見解としては、理解可能性に関する見識は極めて価値のあるものであり、本書の科学的理解の理論はハイゼンベルクに大きく触発されている。

可視化性の問題は「スピン」の発見においてもう一度前面に出てくる。電子のもつ「スピン」は、電子が物理的に自転しているイメージによって理解された。パウリなどは、点である電子が自転しているとみなすのは無意味だと考えたが、自転としてのスピンの視覚化はその現象の発見と理解を助けたのも事実だ。

視覚化は科学的理解にとって必須のものではないが、多くの文脈において価値あるツールである。

第8章 まとめ:理解の見せる多様な顔(Conclusion: The many faces of understanding)

他の分野における理解

本書ではほぼ物理科学の事例のみを取り上げてきたが、本書の理論は他の自然科学分野にも適用できることを想定している。

理解の相対性

理解可能性は、科学的コミュニティで育まれるスキルにもとづいており、それゆえ各個人ではなく科学コミュニティに相対的になる。また、「現象理解の基準(CUP)」には経験的妥当性と内的整合性が含まれており、相対主義に陥ることは避けられる。

理解に関する規範

本書の主張は、科学的理解に関する規範的な含意をもつか。つまり、どんな理解を目指すべきかの指針をあたえたりするだろうか。

CUP(現象理解の基準)が主張するのは、科学者は理解可能な理論を使うべきであり、理論の理解可能性は文脈で決まるということにすぎない。したがって、本書はどの理論を使うべきかについて規範的な主張をしない。一方、理論が科学者にとって理解可能かどうかをテストする方法を提供する。したがって、本書が提供する規範は処方的(prescriptive)なものではなく、評価に関する(evaluativeな)ものだ。

私の科学的理解に関する理論は、科学者が理解不能な理論に取り組むことを妨げない。むしろ、往々にして、理解不能なものに向き合うことでしか科学の進歩は望めない。そのような場面では、理解のための新しいツールをつくる必要があるのだ。

 

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感想

以上のような盛りだくさんな本であり、そのすべてを吟味するのは到底できない。自分なりに理解し得た、本書のポイントをあげてみる。

  • 科学哲学では、長らく「理解」は「説明」の副産物とみなされ顧みられてこなかった。
  • 「科学的理解とは何か?」への答えとしては、「少数の法則による統一」と「因果・メカニズムを知ること」の二つがよく挙げられるが、それですべてではない。
  • これが「科学的理解だ」という不変の答えはない。唯一言えるのは、それが「理解可能な理論」を必要とするということ。
  • 「何が理解可能な理論か」はその分野・時代の科学者が共有している「スキル」によって決まる。
  • 物理学の歴史では、「それは理解とは認められない」「いや、理解だ」という論争が繰り返されてきた。
  • その時々の「文脈」は、新しい「理解」の足を引っ張る面もあるが、新しい理解の準備となることもある。

私個人は、非常に納得のいく「理解」観だと感じる。「理解とは何か?」に絶対的な答えはないが、決して「何でもあり」ではない。同時代の科学者たちが「理解」と認めるものでなければならない。理解は、科学者たちが手を携えて、使えるものを何でも使いながら、つかみ取っていくものなのだ*4

*1:本書ではunderstandingとintelligibleという用語が出てくる。understandは現象や理論を主語にする動詞、intelligibleは理論にのみかかる形容詞として使われている。少々紛らわしいが、本メモではunderstandingを「理解」、intelligibleを「理解可能」と訳した。

*2:ブログ筆者コメント:この主張の是非は「AIによる科学」の議論では焦点になるかもしれない。

*3:ブログ筆者コメント:原文はmechanical model。「力学的モデル」とも訳せるが意味がちょっと違うように思えたので、「メカニズムモデル」とした。

*4:では、いま、脳や生命の理解のために「使えるもの」とは何だろうか?