現役の素粒子物理学者による、講談社ブルーバックスの新刊。「時間」の話が軸にはなるものの、高校レベルの物理から最先端の量子重力理論まで、幅広い物理学のトピックを易しく解説した本になっている。
著者は、時間をめぐる素朴な実感・疑問からスタートする。
水や空気などよりも遥かにありふれた存在のはずなのに、その正体を捕まえようとしても実体が見えず、スルスルと手を逃れていくようなもどかしさがついてまわります。(p.5)
そんなとらえどころのない「時間」というものを、物理学はどのように扱ってきたのか。まず大事なのが、物理学にとっては、「時間」も「力」や「質量」と同じ一つの経験的な量だということだ。なので、新しい実験事実や新理論が出てくれば、その捉え方(=「時間観」)は変わっていくことになる。
そこでこの本では、これまで人類が知り得た「時間」の本質を、ものの動きの理解、運動法則の理解の中に求めながら、時間観の変遷を追体験していこうと思います(p.9)
各章では、物理学の運動法則が、ニュートン力学、マクスウェルの電磁気学、アインシュタインの特殊/一般相対論、最先端の量子重力理論と進展していくなかで、どのように時間概念が変化していったかが紹介されていく。
まずニュートン力学では、時間というのはx(t)のような形で物体の位置を決める一つのパラメータであり、時間は「絶対時間」として扱われていた(第2章)。ニュートン力学の方程式は一見「時間の一方方向性」を説明できないのだが、このいわゆる「時間の矢」の謎はカオスと確率的な見方によって解消できる(第3章)。その後ニュートン力学はアインシュタインの力学によって乗り越えられる。特殊相対性理論ができると「時間の問題は時間だけでは閉じず、空間も合わせた「時空」という構造物の一部として考えてみなければならなく」(p.109)なる(第4章)。さらに、慣性系を特別扱いしない一般相対論(第5章)は、時空が重力によってゆがめられることを明らかにした。(著者は「重力は時間経過そのものである」(p.134)という言い方をしていて、個人的には第5章のこの主張が本書のハイライトだった。10回くらい読み直してようやく「時間とは重力だ」の意味が理解できた。)
一般相対論までで、物体の運動と時空と「重力」の関係がわかったことになる。それ以外の力(電磁力)などを扱うために、第6、7章では、いったん時間の話題を離れて、電気磁気学から、量子論・場の量子論までの概説がなされる。その後、いよいよ第8章にて、場の量子論と重力の理論を統合するために、現在建設中の「量子重力理論」が登場する。それが描く時間観はまだ見えてこないのだが、「時間でも空間でも量子場でもない何か」が時間を生み出しているはずだという。
感想
物理学がバージョンアップするにつれて、「時間」の理解がダイナミックに変わっていく。そのさまが生き生きと描かれていて、たいへん勉強になった。
そのうえで、「時間とはなんだろう?」というタイトルの疑問に改めて戻ってみたい。
本書は、その疑問にどれくらい答えられているだろうか。
たしかに、物理学が進歩するなかで時間の概念は変わってきた。それは時間を「よりよく理解すること」には違いない。前書きには、次のように書かれている。
人間が見出した自然法則は、絶対不変の真実ではありません。むしろ、観測された自然現象を合理的に説明するために、時代とともに変化するものです。それは運動法則も同じで、この300年余りの間にもアップデートされ続けています。
そして時間が運動とセットである以上、このアップデートは時間観にも及びます。(…)
とくに20世紀に入ってからの進展は飛躍的で、私たちが素朴に描いていた自然観を大きく塗り替えるような発見がいくつもありました。そして21世紀を迎えた今、最先端の物理学は、人類史上初めて、時間の真の正体を捉えつつあるという静かな興奮の中にいます。(p.8、太字は付加)
おおむね同意できる。ただ、太字にした結論部分には、あえて疑問を呈してみたい。
疑問は二つある。
一つは「21世紀の物理」がそれほど特別なのか、という点。仮に「量子重力理論」が完成したとして、それがもたらす時間像が「最終回答」なのかという疑問だ。22世紀以降も、まだまだ新しい現象が見つかって、物理学の理論もアップグレードされていくと考えるのが自然ではないだろうか。ただ、これについては著者が本気で21世紀の物理が特別だと思っているかはわからない。読者に対するサービスの面もあるかもしれない。
二つ目のもっと本質的な疑問は、「時間の『真の正体』を明らかにするのが物理学なのか?」というものだ。物理学は、本書で解説されているように、「時間」の概念をどんどんリファインしていく。しかし、そうして得られた「時間」概念は、もともと「時間とはなんだろう?」と思ったときに念頭にあった「時間」概念とは別物になってはいないだろうか。確かに、時間を、たとえば特殊相対論のなかで整合的な物理量にするためには、それは「ミンコフスキー空間の一次元」として捉えなければならないというのはわかる。でもそれは、時間の「真の正体」に近づいたことになるのだろうか。むしろ、私たちが「時間」と呼んでいるものの一つの側面を、特殊相対論という物理理論(=モデル)に当てはまるものとして理解した、ということなのではないだろうか。「時間とは、実は○○なのです」と物理学に言われても、「いや、それは私が知りたいと思っていた時間とはちょっと違います」と言いたくなる感覚は残るのではないか。
もっとも、本書のなかでも、時間の問題は生物学や心理学や哲学からもアプローチすべきものだということは繰り返し言われているので、著者自身も「物理学ですべてがわかる」とは思っていないと思う。ただ、それだけに、「真の正体」という言葉づかいに、少し引っかかってしまった。
以上のことは、「『物理学的な時間』の真の正体」という言い方であれば何の問題もなく、著者の意図もそうであった可能性が高いので、本書の価値・面白さとは関係がない。ただ、個人的には、科学者の書く啓蒙書のなかに滲み出る、「実在観」や「科学観」に興味があるので、この点について、ぜひ著者の考え方を聞いてみたいと思った。