重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

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読書メモ:〈現実〉とは何か(西郷甲矢人・田口茂 著)…固着した探究から、自由な探究へ

 

〈現実〉とは何か (筑摩選書)

〈現実〉とは何か (筑摩選書)

 

著者は、数理物理学者の西郷甲矢人氏と、現象学者の田口茂氏。分野も世代も違う二人だが、あとがきによれば両者は9年前に出会い、「互いの言うことが面白いように理解できる」ことに驚き、「対話にのめり込んで」いったという。その対話のなかで生まれたのが、本書『〈現実〉とは何か』だそうだ。

二人はいったい何の話をしていたのか? 『〈現実〉とは何か』の目次を見ると、量子場、数学とは何か、現象学圏論、自己の問題、因果、自由といった言葉が登場する。「現実とは何か」という書名も相まって、何やら抽象的で、ふわっとした哲学の本にも見える。私自身も最初はそんな印象で、立ち読みで済ませようかとも思っていた。

しかし読み始めてみると、非常に明確なメッセージがある本だった(だから2回通読したし、この感想を書くことになった)。思うに、本書は「科学的マインド」を持つ人々に宛てられている。それも、何らかの意味で科学に「行き詰まり」を感じている人々に。これはあくまでブログ筆者による、一つの受け取り方にすぎないが、著者たちの頭にそうした読者像が全くなかったわけではないと思う。

「科学的マインド」とは、「世界の真のあり方を知りたい」という希望・情熱のこと。宇宙にはどれくらい広いのか、物質は何が構成しているのか、万物の運動を支配する法則は何か、生命はいかにして生まれたのか――自分の生きているこの世界(=「現実」)のことを知りたいという気持ちだ。

このような「科学的マインドをもった人々」(私を含む)に、『〈現実〉とは何か』は何を教えてくれるのか。単純化しすぎかもしれないが、次のようなメッセージを私は受け取った。

  • あなたの探究は「固着」していないだろうか?
  • 固着は現実を捉え損なう!
  • 自由になるヒントは数学(圏論)にある。

非常に丁寧にかみ砕いて書かれている本書だが、9年間の対話の成果とあって、内容はとても深い。著者らがこの本で言おうとしていることをすべてくみ取れる読者は少ないだろう。以下は、ブログ筆者なりの、おそらくとても表層的な、本書の再構成になる。

探究が「固着」している

科学的マインドをもった私たちは、世界の真の姿を知りたいと思い、探究に乗り出す。そこには「まだ自分には明かされていない現実がある」という想定がある。たとえば、もし太陽系に地球サイズの惑星がもう一つあると言われたら、私たちは驚いて、喜ぶだろう。「世界についての理解を一つ増やすことができた」と。このように、発見を待つ何かを、一つ一つ見つけていくことが科学の目的だと思われる。

しかし発見を待つ何かが「あるかもしれない」は、いつの間にか「あるはず」に変わってしまう。そして「あるはず」の「実体」を探さねばという思いが、私たちを支配し始める。生命を記述する統一理論、意識を説明する法則、物質の最小構成要素といった極めて抽象的な概念までもを「実体」とみなし、それを「見つける」という目標が立てられる。

著者らは、ここに私たちの心理的な傾向を見て取る。

われわれが実体的なものを求めるのは、何らかの「確かさ」がほしいからではないか(p.164)

「同じもの」をつかむということは、われわれの経験を安定させ、安心感=確かさ(security)を与えてくれるのである。(p.166)

あるはずの「実体」を措定して、それを「つかもう」とし続けるという態度を、著者らは「固着」と表現する。そのうえで、この態度の危険性を指摘する。

「つかめないものをつかもうとする」活動がわれわれの生のなかで拡大し、この動きのなかにわれわれの生全体を巻き込まれていくとき、われわれの生はつかめないものをつかもうとして挫折するという際限のない絶望に陥りうる。このような自らの姿に気づかないかぎり、この絶望は続く。(p.169)

なぜ固着的な態度は現実を捉えそこなうのか。固着した現実観を脱するためにはどのように考えればいいのだろうか。

「固着」によって、いかに現実を捉え損なうか

本書の第1章は、量子論の話から始まる。なぜなら、量子論は、「つかむ」タイプの探究の不可能性を象徴しているからだ。現代物理では、電子などの粒子は「量子場」として捉えられている。干渉や回折など、「場」としてしか記述できないような性質をもつからだ。しかしそれを観測する段になると、それは「粒子」として現れる。場なのか、粒子なのか。良く知られているように、量子の世界ではどちらかで一貫した描像を持つことはできない。にもかかわらず、私たちは「どちらか」でという思いを拭い去れない。

「場が粒子となる」ということを徹底して引き受けるという道が、なぜとるべき道として意識されてこなかったのか。それは、決定論的で同一的なものこそが、物理学の探究すべき「現実」であるという形而上学が、隠れた前提として物理学的思考を支配してきたからではないのか。そのような仕方で「現実」のあり方を先行的に決定してしまうことは、まさに一つの形而上学であって、それを採用することをわれわれにとっての「現象」は決して強制していない。(p.45)

量子論では、現実は一貫した「実体」としてはつかめない。実験なり観測なり、何らかの「問い」に答えてくれるだけだ。

自然は何らかの問いかけに対してのみ答えを与えてくれるのである。問いかけ以前に何かがすでに定まっているという考え方は、そこで起こっている事態を記述するにはむしろ不適切であるということが、量子論において際立ってきている。(p.53)

しかもこれは、量子論だけに当てはまる例外的な事情ではないと著者らはいう。

非可換確率論で記述されるような現象は、決して量子レベルの現象に限定されるわけではなく、むしろ現実の一般的なあり方により近いと考えられる。そのなかのごく限定された現象だけに、古典的な確率論が成り立つ。(…)現実は基本的に非決定論的であり、ごく限られた領域において決定論が妥当するという現実観が提示されるのである。(p.220)

ここで出てきた「非可換確率論」とは、固定された確率分布を想定できないような確率論のことで、量子論に出てくる確率論はそれに該当する。対して、「古典的な確率論」とは、一定個数の「当たり」が入ったくじ引きのような、定まった確率分布が想定できるような確率論だ。著者らは、後者で物事を語れる対象こそが例外なのであり、「現実」の大部分は「量子論的」だと考える。

つまり現実は、対象があらかじめ「ある」ようなしかたではなく、私たちの「問い」によってその都度「現れる」。著者らの見立てでは、私たちが科学で扱うほとんどの対象は、「現れているにもかかわらず、つかめない」という量子場と共通の性質をもつのだ。

自由になるヒントは数学にある

それが正しいとして、では、どのように固着から逃れればいいのだろうか。途方に暮れてしまいそうだが、実は私たちはそのような思考形式を既に知っているし使っている。それが数学だ、と著者らはいう。

一見、数学ほど「確か」なものはないように思われる。数学の定理は、いつでもどこでも「普遍的」に成り立つ、確固たるものだ。しかしその普遍に至るまでのプロセスに著者らは注意を促す。数学で何かを言うためには、「○○を満たす値をxと置こう」とか、「○○を満たす関数fを考えよう」など、「あるもの」を置くことから始まる。このような、「何かを選ばなければならないが、一義的に決まるわけではない選択」(p.66)のことを、数学では非規準的選択(non-canonical choice)と呼ぶそうだ。あらゆる数学は非規準的選択から始まる。

最初に置くことは遂行としてある。だが、その遂行性が消える(見えなくなる)形で、「置き換え可能性」が成り立つ。置き換え可能性は、一見すると平面的に同時的に無時間的に成り立っているように見えるが、実は置き換えが可能であるということ自体が、非規準的(non-canonical)なものを「消す」という積極的な動的な働きとして成り立っているのである。p.79

 

数学的真理は、必ず非規準的選択によってある置き換え可能性に到達するという構造によって成り立っている p.88

こうした「数学がやっていること」を記述するのに適しているのが、「数学の数学」と呼ばれることもある圏論である。

ブログ筆者には圏論の言葉を正しく使う力はないので、以下は、本書の内容のごく表面的な紹介となる。

圏論には3種類の「矢印」が登場する。一つ圏のなかで対象から対象に伸びる「」と、圏から圏への対応づけである「関手」、そして関手から関手への対応づけである「自然変換」だ。このうち、関手は、ある関係性をある関係性に対応づける働きをする。これが「理解」に結びつけられる。

われわれが何事かを体系的に「理解」しようとするとき、あるいは合理的に「翻訳」しようとするとき、あるいは役立つ「モデル化」をしようとするとき、それは何らかの「関手」を構成しようとしているのである。(p.121)

 

数学の内部においても、「理論化とは関手の構築である」と捉えることが可能である。(p.123)

しかし数学は一つの関手をつくるだけでは終わらない。同じ定理に対する複数の証明を考えたり、ある定理と同値な別の定理を考えたり、幾何の分野の定理を代数の定理に置き換えたりする。これらはみな、複数の関手の間の変換、つまり自然変換を見つける営みに相当する。

「個々の現われ」=関手が生まれることが非規準的選択であり、しかもそれが「その関手でなくてもよかった」「別の関手に変換可能」ということを通じて非規準性が「消される」ということ、その構造=出来事が、(…)圏論の概念で言えば自然変換に相当しているのである。(p.130)

 

「自然変換」こそが、われわれが捉えようとしているものである。数式はそのきっかけ、手がかりにすぎない。だからといって、それなしで「自然変換」に到達できるかといえば、それはできない。「自然変換」は、つねに多様な具体的な現われを通してのみ捉えられるのである。(p.134)

もとの話に戻れば、探究の固着というのは、一つの関手にこだわってしまうことにほかならない。でも、本当に求めるべきは個々の関手ではなく、自然変換なのだ。自然変換に着目することは、現代物理学とも平仄が合っている。たとえば、相対性理論では、個々の座標系でとらえられる現象の記述よりも、それらの座標系の間の変換則に本質があるとされる。

このようにして、私たちの科学的探究が固着してしまう事態と、本当に求めるべきものの正体が、圏論という数学の言葉で捉えられたことになる。

応用:「脳の理解」の場合

私自身は、理解は完全ではないにせよ、以上の整理は腑に落ちたし、役に立つと思えた。最後にほんの少しだけ、本書のレッスンの「応用」をやってみたい。

例として取り上げるのは、このブログでずっと扱ってきた「脳の理解」である。

まず、脳科学の探究が固着に向かいがちなのは明らかだと思う。脳に関する新規な現象はすぐに「実体化」される。「場所細胞」しかり、「セルアセンブリ」しかり、「ミラーニューロン」しかり、「〇〇中枢」しかり。これらはある設定の実験で見えてきた「現象」にすぎないにもかかわらず、いつの間にか「実体」として捉えられている。こうした、現象を実体化することの落とし穴は繰り返し指摘されている。

しかし、本書のいう「固着」にもっと深い意味で関係しているのは、「脳の理解」というゴールそのものにまつわる問題だろう。「脳の理解したい」という気持ちは、「脳は理解できていない」という現状認識の裏返しだ。現に私たちは「脳を理解できていない」と思っているわけだが、実はそこには隠れた前提がある。私たちはただ単に「脳が理解できていない」と思っているのではなく、本当は「AをBとして理解したようには、脳(C)を理解するためのDがない」と思っている。この文の前半には、たとえば「多粒子系(A)を統計力学(B)で理解したようには」「計算機(A)をアルゴリズムとハードウェア(B)として理解しているようには」などが該当する。

つまり、私たちが無意識に求めているのは、すでに成立している何らかの理解「A←B」のアナロジーによって「脳の理解」をつくることなのだ。これは、本書の言葉でいえば、「関手をつくる」ことに他ならない。それ自体はよい。問題は、知らず知らずのうちに、私たちは特定の関手に「固着」してしまうことだ。

これはあたりまえのことにも思えるが、われわれはしばしば問いを度外視して答えだけを求めようとする。われわれが「実体化」として批判してきたことの背後にあるのも、そのような根本的傾向であるように思われる。もし、いかなる答えも問いとの関連なしにはありえないとすれば、「xは……である」という端的な断言はありえないことになる。それがいかなる問いへの答えであるかによって、それが「正しい」か「正しくない」かも変わってしまうのである。われわれが何かを端的に「正しい」と思うとき、その背後には、意識されていない「問い」が隠れているのである。そして、「問い」を共有するときにのみ、われわれは何らかの「正しさ」を共有することができるのである。(p.181)

著者らがいうように、問いがなければ現実は答えをくれない。端的に「脳を理解する」ことはできない。大事なのは、自分が今どんな問いを発しているか、つまり、どんな関手によって脳を理解しようとしているかを自覚することなのだろう(デヴィッド・マーは、それをやったから偉いのだろう)。

このブログでも、「脳の理解の多元性」ということを考えてきた。しかし本書を踏まえれば、多元性の先があることになる。つまりは多元的な脳理解、つまりさまざまな「問い」に対して脳が見せる「現れ」の間をつなぐ「変換」を見つけるというゴールだ。脳という複雑極まりない対象について、数学や相対性理論量子力学におけるような美しい「変換則」が見つけるのは簡単ではないだろう。もしかすると、望むべくもないことなのかもしれない。しかし、少なくとも一つの「関手」が答えではないこと、そして一種類の関手(≒理解の枠組み)にこだわることの筋の悪さを、本書は教えてくれているように思う。

このテーマについてはまだまだ考え足りないので、本書を手掛かりに引き続き考えていきたい。

***

『〈現実〉とは何か』を読めたことは、私にとって青天の霹靂だった。また、自分の人生のなかで、こんな形で圏論に出会うとも思っていなかった。

冒頭に書いたように、多くの科学的マインドの持ち主たちに読んでもらいたい。本書は、個別の探究の進むべき方法を具体的に教えてくれるわけではないが、科学的マインドをもつ私たちが本当は何を望んでいて、また何を望むべきなのかを教えてくれるはずだ。

著者らはお互い同士のほかにも、現在進行形でさまざまな分野との共同研究を行っている。圏論現象学という強力かつ得難いツールを携えた彼らが、日本の科学コミュニティにいてくれることが心強い。これからどんな展開を見せてくれるのか、目が離せない。