重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

読書メモ、探求メモなど。

思考整理メモ:数学の有効性は不合理か

自然科学における、数学の不合理なまでの有効性(”The unreasonable effectiveness of mathematics in the natural sciences”)」について考えてみたい。これは、20世紀の物理学者ユージン・ウィグナーによる有名なフレーズだ。この言葉を聞いたことがなくても、

  • なぜ、数学は(物理学をはじめとする)諸科学に役立つのか?

について、疑問に思ったことがある人は多いと思う。

議論されつくしてきたテーマだとは承知しつつ、改めて取り上げてみたいと思ったのは、これが本ブログでずっと扱ってきた「脳はどうすれば理解できるか」や「科学にとって理解とは何か」などの主題に関連が深いように思えてきたからだ。

何が不思議なのか?

科学は、数学を使って現象を記述する。物理学の教科書を開けば、びっしりと数式が書かれている。考えてみれば不思議だ。どうして、紙と鉛筆で式変形をすることが、現実世界で起こることについての理解につながるのだろうか。

科学で数学を使うときの、数学と物質的世界との関係性はどうなっているのだろうか。科学哲学者イアン・ハッキングの「表現-演繹」の描像に乗っかってみよう。

その描像はこうである。われわれはある現象に興味をもつ。われわれはその現象の抽象の単純で抽象的なモデルを形成しようと試みる。われわれはそれをある数学の式で表現する。それからわれわれは、その現象についてのいくつかの実際的な問いに、単純化された用語で答えようとして、あるいはそれがいかにはたらくかを理解しようとして、その式に対して数学、すなわち演繹的な純粋数学を行う。そのうえで、われわれは「脱‐表現化する」、すなわち、数学的結論を物質現象へと翻訳し戻すのである。

――イアン・ハッキング(著)、金子洋之・大西琢朗(訳)『数学はなぜ哲学の問題になるのか』p.221(太字はブログ筆者)

図にすれば、次のような感じだろうか。

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実世界での現象を、一度数学の世界に写しとる。そうすれば、数学の世界で式変形などの「演繹」ができる。演繹で得た結果を、再び実世界へ翻訳しなおすと、あら不思議。実世界で起こっていることについての新しい知識なり、新しい現象の予言なりが得られる。

ちなみに、ハッキングは、実際の数学応用はこのような単純なものではない、という論旨のために表現-演繹の描像を提示している。でも、ここでは敢えてこの描像を借りることにする。

こうした、数学の有効性の不思議さ(不合理、アンリーズナブルさ)は、物理学の歴史を振り返ると際立つ。Z.アーテシュテイン著『数学がいまの数学になるまで』(読書メモ)では、電磁気学を大成したマックスウェルは「磁力と電気力の間の関係を記述する方程式の改良」を行ったのだが、それは「エネルギーの保存などの力の基本法則だけに依存して行われ」、しかもそれは「かつて誰も見たことも、聞いたことも、感じたこともない」、「電磁波」の現象を予測するものだった。

これは自然を理解することへの、そして、数学と自然との間の関係への革命的な方法でした。

(…)マックスウェルは、事実上、数学によって世界が記述される様相を変えました。

――アーテシュテイン『数学がいまの数学になるまで』p.121

また同書では、素粒子物理学において群論の数学的考察だけから新しい素粒子が予言されたことも紹介されている。こうした例は物理学ではいくつも見られる。

そこで、「数学世界での演繹が、現実世界での何ごとかを明らかにするのはなぜなのか?」が、謎として浮かび上がってくる。

進化論的説明

物理学者の谷村省吾氏は、論考「量子論と代数:思考と表現の進化論」*1にて、この謎の進化論的説明を行っている。

ウィグナーが,うまくいきすぎていると驚嘆したほどの物理学における数学の有用性・不可欠性だが,それがそんなに不合理なことだとは私は思わない.私見を披露させていただくが,自然科学というのは進化の産物だと私は思っている.

――谷村省吾「量子論と代数:思考と表現の進化論」

谷村氏はまず、数学や物理学が人間が生み出し伝達してきたアイディア(=ミーム)であると述べ、そのミームが淘汰を経てきていることに着目する。

自然科学のすべてのアイデアが自然現象を正確に記述し予測することに成功したわけではない.自然界をうまく説明できないアイデアは淘汰されている.科学の歴史には,失敗して捨てられ忘れられたアイデアの屍が転がっている.物理学の成功例だけを見て「成功したのは奇跡だ,不合理だ」と言うのは待ってほしい.たくさんのアイデアが生まれて,うまくいかなかったものは引き継がれずに消えていき,うまくいったアイデアにはますます改良の手が加えられていったのである.生き残ったものが素晴らしいのにはそれなりに訳がある.(同前)

谷村氏は、「生物進化論の安易な拡大解釈は危険である」と留保しつつも、たとえば失敗したアイディアとして渦原子論などを挙げながら、

成功したものだけが多くの子孫を残すことこそ自然淘汰の特性であり,結果的に目につくものは成功例ばかりになってしまい,奇跡が起こったかのように見えてしまうのである.(同前)

という進化論的な説明を提示している。

谷村説を、無理やり先の「表現-演繹」の描像に当てはめれば、下図のようになるだろうか。

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すべての数学的表現がうまくいくのではなく、むしろ大多数は失敗している。宝くじをたくさん買えば当たる確率が上がるのと同じで、無数のトライのうちの一つが成功したことはそれほど不思議ではない、というのが谷村説のポイントだろう。

数学の有効性が不思議ではないことの三種類の説明

この説のように、「数学の有効性の不合理さ」を解消するためには、数学の利用がうまくいったことを「奇跡に近い偶然」ではないように思わせる説明が必要とある。思うに、その方法はいくつかありそうだ。以下、ラベルはかなり適当だが、三つ考えてみた。

  1. ピタゴラス主義」による解消
  2. 「数学のなかでの淘汰」による解消
  3. 「数学の側からの対象限定」による解消

まず、1.の「ピタゴラス主義」というのは、「世界の側が数学的なのだという信念」を表したつもり。 「自然という書物は数学の言葉で書かれている」と述べたガリレオのように、世界があらかじめ数学的な存在(?)であると考えれば、それを数学で記述できるのは当然だということになる。

2「数学のなかでの淘汰」は、おそらく上記の谷村説を含む立場で、多数ありうる数学応用のうち、現実に応用してうまくいくものが淘汰を経て残ってきたという説明である。下図のように、数学のうちごく一部を現実に当てはめているイメージだ。

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最後の3「数学の側からの対象限定」は、それとは逆に、世界にある現象のうち、数学で記述できるものだけが、数学的記述の対象として切り取られてきたという説明である。図にすると以下のようになる。f:id:rmaruy:20191123212814j:plain

まだそれほど「有効」でない分野ではどうか?

ウィグナーが「不合理なまでの有効性」といったとき、念頭にあったのは主に物理学だった。しかし、多少は有効かもしれないけれど、「不合理」とはいえない程度で数学が活用されている分野は多数ある。

たとえば、私が最も関心をもつ「脳」に対しても、物理学におけるような数学の活用を目指す研究者は多い。「心は数学である」と直観する津田一郎*2、「数理脳科学」を掲げる甘利俊一氏*3はその代表格だろう。ロボット・AI研究者のロドニー・ブルックス氏も、生命の理解にはまだ存在しない数学(彼が"juice"と呼ぶもの)が必要だと述べている*4

あるいは、近年注目されている、深層ニューラルネットの挙動の「理解」を目指す研究においても、何らかの数学が中間的言語(intermediary language)として助けになることを期待する研究者は多いように見える。

しかし、脳や深層ニューラルネット、あるいは生物や人間社会など、複雑な対象に対して、本当に「良い数学」は見つかるのだろうか。ここで

  • ある科学的対象について、どれくらい「まだ見ぬ数学」に期待をかけるか

は、

  • 「物理学に対する数学の有効性」の理由をどのように考えるか

に依存するように思える。たとえば、前項での「数学のなかでの淘汰」説をとれば、物理学以外でも適した数学を見つけることができそうだが、「数学の側からの対象限定」説をとる人は、そもそも数学を適用しやすい分野が物理学なのだから、生物や社会には当てはまらないのだ、と考えるかもしれない。

さらにもう一ついうと、物理学の中ですら、数学への信頼は行き過ぎていると警告する人もいる。サビーン・ホッセンフェルダー氏は、著書"Lost in Math"(読書メモ)のなかで、その書名通り、物理が数学や数学的「美」という非経験的な基準を過信したために現実から遊離しはじめている可能性を指摘する。

おわりに

本記事では、イアン・ハッキングの「表現-演繹」の描像で考えてきたが、ハッキング自身が言うように、このイメージが妥当なのかはとても怪しい。科学者が数学を使って「現実世界を写しとる」ということなどできるのか。そもそも、われわれの自然理解には数学が入り込んでいるはずだ。数学のレンズを通して自然を見るから見えるものがあり、それがさらに数学的記述の対象になる。そんなイメージをもつこともできる。

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数学的道具を持って実世界に立ち向かう、という数学者像はもはや通用しない。数学者は、数学的道具と技術の無数の定理や知識に取り囲まれている。その取り囲む人工物の相対は、数学者の行為を可能にする足場でありながら、同時に数学者の行為が向かう先でもある。それは、行為としての数学が展開される場所そのものである。数学者は、自らの活動の空間の「建築」するのだ。――森田真生『数学する身体』p.41

まだまだ思考が焦点を結ばないが、こんなところにもウィグナーの見た「不合理」を解消するヒントがあるかもしれない。もちろん、「不合理」のままでもいいのだけれど。