重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

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聴講メモ:『〈現在〉という謎』刊行記念 森田邦久×平井靖史トークイベント

2019年11月9日、代官山蔦屋書店にて、『〈現在〉という謎』刊行記念トークイベントが行われた。

企画したのは、勁草書房および蔦屋書店人文書コンシェルジュの宮台由美子氏。会場の雰囲気やトークの概要は、宮台さんの実況ツイートを見るとよくわかると思う。

イベントのもとになっている『〈現在〉という謎』の感想は、以前本ブログに書いた。

また、本の発行後、著者のひとりである谷村氏が「補足ノート」を公開されており、それに対する第一印象をnoteに書いた 

そうした流れのなかで、今回のトークイベントは開催された。同書の著者のうち、分析哲学者の森田邦久氏と、ベルクソン研究者の平井靖史氏が登壇した。

 ※当日のメモと記憶をもとに書いています。参加された方からの、不備や不足の指摘があれば加筆・修正したいと思います。

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土曜日の夜、お客さんでにぎわう代官山蔦屋書店。もはやクリスマスソングが流れ始めている店舗に季節の変化を感じつつ、児童書コーナーの一角の会場につく。聴衆はざっと20~40名ほどだろうか。自己紹介もそこそこに、二人の哲学者によるトークが始まった。

森田氏トーク

まずは、森田邦久氏が30分くらいかけて、『<現在>という謎』のイントロダクション部分の説明を行った。

指標的現在と絶対的現在(=〈現在〉)という二つの現在を哲学者が問題にしていること。物理学の「空間化」された「現在」はもっぱら指標的現在であり、〈現在〉を扱えていないこと。〈現在〉を無視するということは、「時間が過ぎていく(passする)」というメタファーが成立する余地をなくしてしまうこと。それゆえ、〈現在〉を扱える時間モデルをつくることが哲学的時間論の課題と見なされていること。そのための「動的時間論」のモデルとして、「動的スポットライト説」「成長ブロック宇宙説」「現在主義」が考えられてきたことなどが、丁寧に、噛んで含むようなペースで解説された。

森田氏のトークの終わりのほうでは、動的時間論のいずれもが物理学者に受け入れられにくい理由として、相対性理論が否定しているはずの「絶対的同時性」を想定しているように見えることに言及された。この批判自体は1970年代くらいからなされており、動的時間論をとる哲学者は「経験的ではない同時性を考えるのだ」と応答することで、この批判をかわすのだという(※この「経験的でない同時性」とは何なのかということについて、ブログ筆者は十分に理解できていない)。

平井氏トーク

続いて、平井靖史氏による『<現在>という謎』における自身の論文(第6章)のダイジェスト的な解説がなされた。平井論文は、「時間の多元的な本性から心の進化的発生を考える」というベルクソンの議論を継承・拡張するという内容である。

ベルクソンは、森田氏の紹介した3つの動的時間論のいずれとも異なる時間モデルを考えた。それは、この世界にはスケールが異なる複数の時間が流れている、という時間モデルである。物理的時間の概念に慣れすぎた私たちにはすぐには飲み込めない概念で、ブログ筆者も正確に把握できていないが、平井氏は「時間はプロセスに内在的なスケールを持つ」といった言い方をする。ベルクソンは、一つの生物の体のなかで異なるスケールの時間が流れることに着目し、このスケールギャップをもとに、この宇宙に現象的(phenomenological)・表象的(representational)な性質を伴う「心」を持つ生物が存在するようになったことを理解する道筋を模索する。…と書いても分からないと思うので、ぜひ『<現在>という謎』第6章を読んでみてほしい。

平井氏のトークで大事だと思ったのは、次のことだ。

ベルクソン(および平井氏)は、「心にどのように時間が現れるか」ではなく、「時間の在り方が、いかに心のようなものをつくるのか」ということに興味がある、という。平井氏のトークを聞いていると、その興味も方法も、ほとんど科学者のそれと変わらない印象を受ける。平井氏の「理論」は、経験科学的なテストにかけられる種類のものに思える。もちろん、ベルクソンの議論が自然科学に還元可能なわけではないが、平井氏はあえて自然科学者と協働しやすい形で議論を提示しているように思える。

質疑応答

質疑の時間は1時間ほどあったが、本質をつく質問が、途切れることなく続いた。

(筆者が長めのやり取りで口火を切ってしまったので、その後の質問のトーンに影響を与えてしまったかもしれない。)

以下、会場から出た質問と、それに対する回答を、覚えている限りでメモしておく。

※回答はブログ筆者の意訳であり、言葉は正確ではありません。また、質問項目もすべてを記録できていません。

  • Q:『<現在>という謎』の対談企画では、物理学者に対して何を期待していたのか? 
  • A(森田氏):物理学についての知見を得るとともに、自然理解のうち経験で白黒つかない部分についての自然理解(解釈?)について、物理学者の直観を知り、ともに議論したかった。
  • Q:主観的(局所的)時間と大域的時間の関係はどのように考えているか?
  • A(森田氏):自身の時間論においては、あまり主観的時間には重きを置いていない。
  • A(平井氏):心理的時間が物理的時間と異なるのは明らかだが、切り離されているわけでもない。進化の過程で、心理的時間をつくるような複雑なシステムがいかに生じたかを考えることを通じて、心理的時間を物理的時間にグラウンディングしたい。
  • Q:意味や表象から時間が生まれるという考え方や、独我論についてはどう思うか。
  • A(二人):問いや論理的探究としては成り立つ思うが、独我論は「知りたい」という気持ちを満たしてくれるアプローチだとは感じない。
  • Q:哲学者は「定義」を保留して議論を進めるが、それでは何も前進しないのではないか?
  • A(平井):哲学者は定義を拒んでいるわけでない。「何を争っているかが分からない」ような段階においては、早計に定義をするのは危ういので保留しているだけ。自分は分析哲学者ではないが、分析哲学がこの100年間やってきた「概念分析」にはとても価値があると思う。分析哲学は、言葉の意味を反省し、「概念を彫琢」してきた。そうしてつくられてきた概念は「ワードマップ」などの書籍にまとめられ、現在の哲学者たちの共有財産になっている。

個人的には、平井氏による最後の「分析哲学の意義」の熱弁が美しく、心に残った。

谷村ノートについて

終わり際には、谷村氏の「補足ノート」についての言及もなされた。今回、谷村氏から非常に真剣な議論が提起されたことをとても肯定的に捉えていること、応答を準備して公開する予定であることが報告された。

雑感

今回、非常に強く感じたのは、森田氏と平井氏という二人の哲学者のあいだで、時間に関して立てている問いがまったく異なっていること、そしてそれに関して物理学者に期待する協働の在り方もかなり違いそうだということだった。このことは、『<現在>という謎』に参画した物理学者についても言えるだろう。

哲学者が物理学者に期待することは、哲学者ごとに違うし、物理学者が哲学者に期待すること(あるいはしないこと)もバラバラだ。だとすれば、今後の議論は「哲学 vs 物理学」の論争としてではなく、「Aさんの議論にBさんがどう答えるか」を見ていく必要があるだろう。当事者にとってはもちろん、ウォッチする私たちにとっても知的負荷が高いことだが、非常に有意義なことだと考える。