重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

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物理学者と哲学者は「時間」を語ってどうすれ違うのか…『〈現在〉という謎』を読んで

 

〈現在〉という謎: 時間の空間化批判

〈現在〉という謎: 時間の空間化批判

 

物理学者と哲学者によるシンポジウムをもとに企画された論考集。各章では時間論、とくに「現在」の概念を巡る論考を物理学者と哲学者(+仏教学者1名)が書き、それに対するコメントとリプライが掲載されている。

全8章からなり、どの論考も面白い。だが、理論物理学者の谷村省吾先生(以降、谷村氏)の論文とそれへの佐金武氏のコメント、青山拓央氏・森田邦久氏(いずれも分析哲学者)の章に対する谷村氏のコメントからなる応酬が際立っている。

谷村氏はしょっぱなから

そもそも現在は謎なのか?とさえ思う。(谷村論文、p.1)

と、本書の問いそのものの意義に疑問をつきつける。「率直にいって、形而上学者たちとの対話は難儀であった。私の話はわかってもらえないようだし、彼らの話はわからない」(谷村リプライ、p.37)と歯に衣着せない谷村氏に対して、哲学者の側も「わからないというが、なにがわからないかが明確ではない」(森田リプライ、p.196)などと応戦する。

この、谷村氏と哲学者とのバトルが、本書を非常に興味深くしている。企画の成り立ち上無理な話だとは思うが、いっそのこと、全編を通して「谷村氏 vs 哲学者」の構図でまとめたらなおインパクトが強い一冊になったかもしれない。

谷村氏は哲学者へ辛らつだが、しかし頭ごなしに否定しているわけではない。非常に緻密に、言葉を尽くして、なぜ哲学者の問題意識が分からないかを説明しようとしている。もしかしたら、わざと「挑発役」を買って出て、多くの読者を議論を引っぱり込もうという意図もあるのかもしれない。そのあたりの狙いは読者からは分からないが、ともかく、谷村先生の奮闘ぶりはすごいし、この本における「すれ違い」は、「時間論」に限らない普遍性をもつと感じる。

ブログ筆者には、各論者の時間論に参戦する力はない。ここでは個別の議論には立ち入らず、うんと引いた視点から、本書で起こっている「すれ違い」の姿を言葉にしてみたい。

何が論点になっているのか:時間をめぐる現在主義と永久主義

本書の論考はそれぞれ別の問題を扱っており、必ずしも統一的な論点があるわけではない。ただ、谷村vs哲学者の応酬においては、「現在主義 vs 永久主義」の図式でひとまず捉えるのがわかりやすいと思う。(2019/10/7加筆:以下の記事の書き方だと「物理学者=永久主義、哲学者=現在主義」という図式に見えてしまうかもしれません。筆者の状況把握は、哲学者が(ごくごく粗くとらえれば)現在主義と永久主義の両陣営に分かれていて、それを(一部の)物理学者から見ると(現在主義がそもそも圧倒的にナンセンスなので)議論の意義自体が理解できない、というものです。そういう意図で書いたものとして読んでいただければ幸いです。)

現在主義(presentism)永久主義(eternalism)とは、時間の捉え方に関する、最も粗い二分法である。神経科学者のディーン・ブオノマーノによる『脳と時間』に簡潔な説明がある。

現在主義によれば現在だけが実在し、あらゆる存在は絶え間ない現在の中にのみ存在する(…)。過去とは、もはや存在しない宇宙の形態であり、未来とはいまだ定まっていない形態を指す。

永遠主義〔『〈現在〉という謎』では永久主義〕によれば、時間とは開けた次元の形で空間化されており、その次元内では過去も未来も現在も同等に存在する。(ブオノマーノ著、村上訳『脳と時間』p.168)

物理学者には「現在主義」は受け入れられない

物理学者にとっては、現在主義は認めにくい。現在主義は、世界のすべてが「今」という一枚のスライスのうちに存在すると捉える。しかし、二つの事象の「同時性」は座標系に依存し、絶対的な同時性はないというのが相対性理論の帰結だった。だから、一枚のスライスなど、想定できない。あらゆるものが共有する「今」という概念は、物理学的には意味をなさないのだ。谷村氏が下記のように言うのもうなずける。

相対論に抵触しない形で絶対的同時性を導入しようとするなら、それは物理的に観測不可能なありようでなければならない。そのような、観測不可能な絶対的同時性であれば、あっても無害だし、まさに形而上学的絶対同時性と呼ぶのがふさわしいし、この世界とは無関係だと私は思う。(谷村リプライ、p.52)

現在という瞬間をすべての存在物が共有しているようなことを述べる態度は、ひどく近視眼的な、前近代的な思い込みであるように私には思える。(谷村論文、p.25)

谷村氏に限らず、物理学者の多くにとって現在主義を受け入れにくいものだろう。

〈現在〉を認めないことの「コスト」

それでは永久主義でいいだろうか。永久主義の難点は「今の特別さ」をまったく説明できないことだ。四次元時空のある点を指定し、その点から見た「過去・現在・未来」を考えることはできる。しかし永久主義ではどの時空の点も平等であり、まさしくこの「今」――本書では、絶対的現在・(マクタガードの)A理論的現在・〈現在〉などと表記される――の特別さ、さらには「時間が流れること」も扱えない。青山氏は次のように言う。

〈現在〉の実在を否定するものは、〈現在〉の実在を否定することの重みを真剣に受け止めなければならない。たとえば、いつが〈現在〉であるかは時間の流れとともに移り変わる、といった信念や、〈現在〉すでに死んでいる者と〈現在〉まだ生きている者は違ったあり方をしている、といった信念も、その場合には捨てなければならない。(青山拓央・リプライ、p.167)

たとえば「慣性系」や「ローレンツ変換」の概念は、同時性が相対的であることの見事な説明に貢献するが(学生の頃、私はその数式を見て本当に美しく感じた)、日常的直観に頼らない語義をA理論的な〈現在〉に与えてはくれない。(青山拓央・リプライ、p.168)

物理者は物理、哲学者は哲学をやればいい?…そうとも限らない

問題はこうだ。物理学はいまのところ、永久主義的な時空観のもとでは非常に成功しているように見える。しかし一方で、〈現在〉については扱えていないように思える。

仮に、ある物理学者がここまでを認めたとしよう。しかしその物理学者は、続いてこう考えてもおかしくない。たしかに〈現在〉について、物理学のなかにその座はないかもしれない。しかしそもそも〈現在〉を考えること、「現在主義 vs 永久主義」というようなことを考えること自体が、物理学的には無意味なのではないか。たとえば「過去の実在性」などは科学的検証(反証)のしようがなく、形而上学として議論する価値はあっても、物理学者にとっては「どうでもいいこと」ではないか*1

その場合、物理学者は物理学を、哲学(形而上学)者は哲学(形而上学)をやればいいということになり、話はスッキリとする。

しかし、それでは終わらないのが面白いところだ。

物理学者のなかにも〈現在〉を気にしている人がいる。がんらい物理学者は、「それはうちの管轄ではないです」で満足できる人々ではないのだろう。一見物理学に収まらない概念も、大きな物理学的世界観=「ビッグ・ピクチャー」(by ショーン・キャロル)に収めたいと考える。本書でも、量子力学の新解釈「QBism」により〈現在〉を物理学で扱えるようにしようと考えるデヴィッド・マーミンが紹介されていたり、第3章や「あとがき」を担当されている細谷暁夫先生は、独自の「操作的」な物理学の書き換えによって「今」を取り込む方向性を提案している。

現代物理学が「いま」の問題を扱うとしたら、その三人称的記述を一人称的記述とどこかで接続する必要があるように思う。(…)情報処理を取り込んだ物理学を実験可能な操作的な姿でいったん作ってから、それを数学的形式に投企するという道があるといいと思う。(細谷暁夫「あとがき」、p.303)

一方、哲学者の側も、「自分の問題は物理学とは無関係だ」とそっぽを向いているわけではない。森田氏は、物理学の側に不足がある可能性に言及する。

私たちには「時間経過の感覚」というある種の「観察事実」があるのだから、現代の物理理論の方にむしろ不足があるのではないかという可能性が捨てきれるわけでは、少なくとも現時点ではないだろう。(森田邦久「はじめに」、p.i)

また、20世紀の大哲学者であるアンリ・ベルクソンは時間論でアインシュタインと論争を繰り広げたことでも知られるが、自身の哲学(形而上学)を科学と独立したものだとはとらえていなかった。

生物や意識、社会現象など変化が複雑な領域では、生成や持続(時間)がうまく記号でとらえられなくなる(…)。このため、これらの系は直接検証が難しく、時間や生成に関する哲学(形而上学)が必要となる。ただし、この形而上学も科学と協働することで間接的に検証可能であり、それによって生成や持続の実在も徐々に解明できる(…)、というのがベルクソンの考えである(実証的な形而上学)。(三宅岳史・論文、p.230、太字はブログ筆者) 

あるいは、そもそも哲学も人間の営みであり、人間の体や脳は進化理論、認知科学神経科学の研究対象なのだから、哲学も自然科学によってアップデートされていくべきという考え方もあるだろう(cf.『自然主義入門』)。

このように、そもそも、

  • 何が科学の俎上に乗り、何が乗らないか
  • 科学に頼らない哲学が可能か(有益か)

というところからしてオープンクエスチョンなのであり、だからこそ本書のような対話の意味があるのだと思う。

学問のスタイルの違い

最後にもう一つ、気づいたことを記しておく。谷村氏は、青山氏が2005年の論文の記述を、「公共化を経ている」という理由でそのまま掲載したことを、次のように批判する。

私なら十数年前に書いたことを「公共化されている」として、万人が了承していることであるかのように再掲することはしないと思う。(谷村コメント、p.150)

ここには物理学(あるいは科学一般)と哲学のあいだの「学問のスタイルの違い」も浮かび上がっているように思う。科学では、「誰が、いつ、どんな学説を出したか」というのはその学説の真偽や有用性に比べれば副次的な情報であり、だからこそ上記のようなコメントになる。「真理に近づく」という目標を共有しているからだと言えるだろう。

哲学でも、「A理論とB理論のどちらが良いか」を真剣に議論する点では変わりがないが、科学のように白黒つくことはほとんどない。せいぜいAとBと「強みと弱み」が列挙されていくのみとなる。でも、この議論の過程を保存しておくことがとても大事で、それこそが哲学の成果といえるものなのだ。なぜなら、50年後の人が、たとえば「時間とは何か?」という問題に頭を悩ませた時に、先人の議論の経歴が残っていれば、陥りがちな思い違いや考慮漏れを避けながら、非常に効率よく50年前の最先端まで到達し、その先を考えることができる。

平井靖史先生が下記の一節で言わんとしていること(の少なくとも一部)は、そういうことではないかと解釈している。

人類の思考可能性のいわば上限と下限を押し広げ開拓すること自体を、哲学はその自由なる責務としている。そうした本性上、おのずとその質の評価基準は物理学におけるそれとはまた別種のものにもなる。理論的冒険の捉え方も違ってくるだろう。だがそこには紛れもなく固有の「精確さ」と技術の蓄積がある。哲学者たちの共同体は、その責任を負う。(平井靖史・リプライ、p.258)

こういう対話が圧倒的に足りない

以上、とても表面的にだが、本書で見られる「物理学者と哲学者のすれ違い」を考察してみた。

本書はめちゃくちゃ面白い。だが、こうした対話が目新しく見えてしまうことが、本当はさみしいことなのではないだろうか。そもそも、「物理学 vs 哲学」という図式は本来おかしい。物理学者はまったく一枚岩ではないし、哲学者の考え方はさらに多様だ。

物理学も哲学も、お互いの前提知識をある十分に踏まえた上で、物理学と哲学をまたぐ自身の世界観を構築し、それを戦わせる。そんな議論がなされるのが、本当は理想なのではないだろうか。本書のメンバーは先陣を切ってそれをやってくれた。もっともっと、こういうのが必要だと思う。

私が哲学者に期待するのは、新しい物理学や新しいテクノロジーが垣間見せてくれる世界を適切に捉える新しい言語や概念体系を作ってくれることである。いまの哲学者がやっていることは、その真逆で、宇宙のことも原子のことも知らなかった人間の言葉の範囲で無理やり世界を解釈しようとしているように見える。(谷村コメント、p.161)

加速度的に進行する専門化のゆえに、それぞれのディシプリンの固有性と長所を互いに十全に尊重しつつ知的協働を果たすことは、ますます簡単ではなくなっているのは事実だろう。試されているのは我々である。(平井リプライ*2、p.258)

 


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「科学と科学哲学の関係はどうあるべきか?」をテーマとした対談への感想。三中先生のように、「科学にはもっと哲学(科学哲学)が必要」という立場の科学者もいる。 


本書で何回が登場する、量子力学の新しい解釈「QBism」に関するおそらく唯一の解説が下記。

 

物理学者の佐藤文隆先生は、量子論には「科学とはいかなる営みなのか」を考え直す契機があるという。佐藤先生が本書の議論に加わったら、どんな発言をされたのかには興味がある。


神経科学者による一冊だが、「現在主義 vs 永遠(久)主義」の問題設定が非哲学者にもわかりやすくまとめられている点でも読みごたえがある。

*1:時空論の形而上学の最たるものとして思い浮かぶのは、内井惣七ライプニッツの情報物理学』(読書メモ)。私はまったく理解できなかった。

*2:上記の谷村コメントとは無関係です。