重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

読書メモ、探究メモなど。

読書メモ:世界は時間でできている(平井靖史 著)

 

本書は、19~20世紀に活躍したフランスの哲学者アンリ・ベルクソンの時間哲学の全貌を、長年ベルクソン哲学の勢力的な研究を続け、日本だけでなく世界的な研究コミュニティづくりやムーブメントの中心で活躍してきた著者が、現代的な問題設定に沿った発展的展望をも含め、独自の見取り図とともにまとめた入門書である。

ベルクソンが扱ったテーマは広い。主著が多数あって、たとえるならば「単独峰」ではなく「連山」をなしているイメージだろうか。著者はこれまで、その一つ一つを丹念に踏破しながら、共著書や学術誌にて多くの論考を発表してきた。そして、初めての単著となる本書『世界は時間でできている』にて、いよいよそれらパーツを組み合わせ、ベルクソン山脈の全景を描いてみせる。

本書は、いろいろな読まれ方をすると思うが、大きくは、

  1. ベルクソンのテクストに通じた専門家が、著者が提示する新しいベルクソン解釈ないしその体系として受け取る
  2. 分野外の読者が、平井解釈のもとでベルクソンの哲学を受け取る

という2通りに分けられるだろう。玄人の読者(1.)は、著者が成し遂げてきた無数のテクスト解釈上のブレークスルーから多くを得ることだろう。一方、本ブログはもっぱら2.の立場でこの本を読む。「ベルクソンってそう読めるのか!」というテクスト解釈上の気付きを得るのではなく、ベルクソンそして著者の哲学そのものをベタに受け取る(「世界ってそうなっているのか!」)。

なぜベルクソンなのか

しかし、なぜベルクソンなのか。ベルクソンという100年前の哲学者が成し遂げた思索の何が特別なのだろう。私は過去15年くらい、ベルクソンのことが気になっていた。初めて意識したのは、20世紀の物理学者である渡辺慧の著作を通じてだったと思う。最初はちくま文庫の『創造的進化』の文字を追ってみたが、何も理解できなかった。『物質と記憶』はずっと「お守り」として本棚にしまってあった*1

近づきがたさとともに、私がベルクソンにかぎ取っていたもの、それは「自然主義的世界観に開いた風穴を、本質的な仕方で直視しえていた人なのではないか」という感覚だった。

科学はあらゆることに「説明」を与えようとする。互いに整合的な諸理論のもとに、世界の記述において完備であろうとする。世界の整合的な「絵」=ビッグピクチャーを、本気で描いてみせようとする自然科学者もいる*2

当然、自然科学でうまく扱えないものもまだある。その最たるものとして取り沙汰されるのが「クオリア」だ。「赤はなぜ赤く見えるのか」という謎が、自然主義的世界観に残された「最後の謎」のように語られたりする。あたかも、それが解ければ完璧なworld viewが得られるかのようなのだが、私は、それはちょっと違うのではないかと思ってきた。

いわゆる「主観」や「意識」に関わるところが、自然主義のアキレス腱なのは間違いない。しかし、自然主義者が語る世界像のなかに、うまく嵌まっていないものを名指すラベルとして「クオリア」だけではあまりに不十分ではないか。たとえば「記憶」はどうか。物理学のなかに記憶がうまく居場所を持てないのではないかということを、以前私は言語化しようとしてみたことがある*3

この世界のあり方について、私は何か大きな思い違いをしているのではないか。ベルクソンが同定した私たちの思い違いの源泉、それが「時間」だった。時間は、私たちが思っているようなものではないと、ベルクソンは言う。あらゆる問題は「時間の糸で絡み合っている」(p.362)。私は、この見立ては正しいと思う。

本書は、感覚クオリアの問題から始めて、意識、知覚、記憶、人格といった心身問題・認識論・自由に関わる概念群を取り上げ、それらが新たな時間概念のもとでどのように書き換えられることになるのかを順次見届けていく(p.41)

平井著の見取り図

私たちは時間の正体を見誤っているとベルクソンは考えた。本当の時間は、世界に一様に流れるものではない。私たちは時間を「空間化」している。では空間化されていない時間、ナマの時間とはいったいどういうものなのか。そして、その新しい時間像から、私たちの心や世界の在り方についてどのような説明ができるのか。

「見誤りを指摘すること」も意味があることだし、そういうタイプの哲学にも惹かれる*4が、「オルタナティブな説明体系を構築する」となると、これはまた全く別の力量を要する大仕事だ。

ベルクソンは〕とりわけ記憶に関しては、繊細な現象学的な観察と、多岐にわたる病理学的な事実と、混み入った形而上学的パズルからの要求を相当に高い次元で両立させている(p.360)

しかし、率直に言って、素人が『物質と記憶』等を読んでもベルクソンがどんな体系を作ったのかはわからない。そこに、見取り図を描くのが『世界は時間でできている』である。それが「マルチタイムスケール(MTS)解釈」と、「自発的記憶と運動記憶の掛け合わせ」という見取り図だ。

MTS解釈や、といった本書の根幹をなすアイディアについては、本書以上にわかりやすく説明することはできないので、ぜひ本書を読んでいただきたい。以下では簡単に、今後他の読者と議論したい・教えてもらいたいポイントのメモもかねて、各章への個人的なリアクションを書いておきたい。

各章への個人的リアクション

序章は、ベルクソンの哲学にはいる前の準備体操的な章。「時間は流れるのか、流れないのか」「過去はあるのか、ないのか」など単純な二項対立による時間論争のデッドロックを、時間概念の分類を6つに膨らませることで整理する。この章は、時間の哲学の整理として、ベルクソンの哲学と切り離した文脈でも、読み返したい。

第1章から、ベルクソンの哲学とそのMTS解釈の解説が始まる。まずは、物質しかない世界から質(=クオリア)が生じる機序について。現在でも「デファクトスタンダード」である随伴現象説を批判したベルクソンは、「システムが内在的に弁別しうる最小時間単位」に着目し、その時間的「量」が潰れることによる「質」への転換としてクオリア産出を説明した(凝縮説)。私たちが感じる光や音は、たしかに時間的な物理現象だ。それを時間的に潰すことで感覚の質が得られるというのは、言われてみれば異論の余地がない事実のように思われる。だから、物理的刺激に時間的変形(時間的に引き伸ばすなど)をすると、それが“遅く見える”のではなく“違う質”(色、音色など)として経験される*5

第2章は、時間の階層を一つ上がり、「流れ」の体験の生成機序へ。およそ0.5秒~3秒といった「現在の幅」のなかで私たちが感じる「時間の流れ」は、私の「瞬間」と「現在の幅」との相対的な落差によって生まれる。下の階層では決まっていなかった時間の方向が、上の階層では決まるようなあり方を可能にするのが、「未完了相」という新しい「現在」のあり方である。この「現在」=「時間的内部」のなかでは「未来を前借り」したり「過去を待たせ」たりすることが許される(p.129)。「折り合い」をつけるように、下の階層のクオリアの「並び」を決めていくメカニズムである。この説明は本書のなかでもかなり難度が高く、時間の「流れ」を説明することの難しさが際立つ。また、本章に限らず、ベルクソンは単線的な時間を複数化する(あるいは「縦の時間」の軸を設ける)ことで問題を解こうとする。既存の解空間で解けない問題に対して、あたらしい次元を設けるのはどんな問題にもアプライできる手段で、そこだけを取り出せばトリビアルとなる。問題は「増築」ないし「新規開拓」された新しい次元に、どれほどの納得性と、直観への合致と、説明力があるか。

第3章は、さらに一つ階層を上がり、記憶の起源を扱う。記憶の説明の「デファクトスタンダード」である「痕跡説」は、「痕跡自身が自らを過去に由来するものとしてどうやって示しうるのか」を説明しない。それに対して、ベルクソンは「過去がそれ自体において存続する」という「純粋記憶理論」を提唱する。これは実は、「MTS解釈のもとでは、実はごく自然に理解できる」(p.141)。つまり、これまで2段階にわたって見られた「凝縮」が、もう一度起こったとすれば理解できる。この「3度目の、そして最後の凝縮」でもたらされるのは「私であるとはどのようなことか」という「人格質」である。個人的にはここが本書のハイライト。1,2章の「凝縮」の話があるからこそ、記憶のメカニズムが極めて自然に感じられ、目からうろこだった。もしかしたら、過去と記憶は本当にそうなっているのかもしれない*6

第4章は、話題が変わり、知覚の問題を扱う。認識論におけるこれまたデファクトスタンダードである「表象主義」に対し、ベルクソンが示すのは「手続き型知覚」。「自動的再認」を可能にする運動記憶と、心的表象を用いる認識モードである「注意的再認」のハイブリッドにより、私たちは手持ちの素材を対象に投影しながら物を見ている。ここは現在の認知科学と近いことをベルクソンが言っているように読め、驚きや違和感は少ない部分のように感じた。

第5章は、進化の過程で私たちが獲得してきた認識のメカニズムについて。私たちがもつ「空間」の観念も、進化の中である種の「運動記憶」として獲得されてきた(「水路づけ」)。何と何が似ているかという「類似」(タイプ)の概念も、行動との関係で決まる。この章の「空間」の議論は難しいところだと思った。原始生物が世界を動き回ることを想像するとき、私はすでに人間という身体とともに進化が構築した「空間」を使っていると言われると、思考の進め方がわからなくなる感じがある。

第6章は、1~3章の「時間的拡張」と4~5章の「運動記憶」を掛け合わせて、様々な心的現象を説明する(「ベルクソン心の哲学の真骨頂」)。意識の算出に関する「減算説と遅延説の掛け合わせから得られる、より完全な描像」、知覚と記憶へアプローチするメカニズムの対称性、「難所中の難所」である、エピソード想起の機序、「再認と想起の相互乗り入れ」による注意深い認知の在り方。私の浅い読みでは、漠然としか理解できていないが、エピソード想起の様々な現象学的特徴(「ナンダッケコレ感」、エピソード的既知感、現在からの離脱、絞り込み、想起イメージの現実化、Tip of the tongue現象、コレジャナイ感(照合))を丸ごと説明しようという試みの壮大さは感じられる。そこに、「凝縮」だけでなく「運動記憶」の作用がかけ合わさる必要があるという大仕掛け。ちなみに、今の私のなかでは、巨大なリソースとしての純粋記憶は、近づいたり遠ざかったりしながら回転し、その都度さまざまな違う図柄を見せてくるルービックキューブとしてイメージされている。

最後の第7章は、「自由の問題」に挑む。ベルクソン決定論と非決定論に距離をとった。ベルクソンが考える自由な行為は、「人格を書き換える変容的な経験」であり、変容は、その時点での過去全体の参照を要求するため事前に定義できず」、それゆえ「予見不可能」な「新しさ」が生じる。以上はこの章の言葉を拾っただけであり、まだ読みこなせていない。現代的な自由意思の哲学と照らして、ベルクソンがどこにディフェンスラインを引いているのかがわかりにくい面もある。よく読みなおす必要がある。

拡張された自然主義と、いくつかの疑問

以上、私なりの暫定的なリアクションを書いてきた。全編を通して、ベルクソン=平井が示す世界像は驚きに満ちていて、かつ独自の説得力があり、魅力的だ。自然科学的な世界観をベースに持つ人にとっても、様々な新しい発想の源になる一冊だろう。

しかし、ベルクソンの哲学を科学的探究のアイディアの源にすることと、ベルクソンの哲学を一定の解釈のもとに自分の自然観として受け入れることはかなり違うのも事実だと思う。私自身が、今後自分の世界観に本書をどれくらい取り入れるかは、予想できないが、すぐに思いつくいくつかの「躓きポイント」がある。忘れないうちにそれを書いてみたい。

一つは、「システム」と「反作用」について。本書では「他のものと相互作用する際のまとまりとして扱われるというほどの意味」でシステムという言葉を用い、ベルクソンは、物質と生物を一貫して「システム」として扱う(p.57)。そして、「物質と生物を一貫して作用・反作用のシステムとして見る観点」(p.72)をとる。物質では作用に対する反作用がすぐに起こるのに対して、生物では反作用(=リアクション)が遅延される。ここに、時間的拡張が起こり、「時間的内部」が開く。このストーリーのなかで、「反作用」が物質と生物のシステムで同様に理解できることが前提になっている。明らかに生物の段階では、物理学的な意味での反作用(reaction、物体Aが物体Bに及ぼす力Fに対して、BがAに及ぼす力-F)とは違う意味になるのだが、物質の段階では一致しているようにも思う。ここでは「システム」の定義が問題になりそうだ*7。「誰にとって」のシステムなのだろう。

類似した観点として、どこまで「計測の空間」「計測の時間」を持ち込んでいいのかについてはやはり戸惑う。ベルクソンは、向きがあったり、流れたり、単線的に並んでいたりする時間はあとから作られたものだという。しかし、本書でも、瞬間の時間幅の「2ミリ秒」だとか体験質の「3秒」などといった時間単位を出した説明がなされる。そこは、

最後のものを遡行的に持ち込むような形でしか、発生論的起源を探究することはできない…時間の起源を問う探究は、このような不条理を宿命づけられている。…それでもベルクソンはひるまない。…制約の厳しい極限的な探究の場面では、方法的な潔癖症を緩めることも時には有効でありうる。(p.52)

ということになるのだが、どこまで「方法的な潔癖症を緩めること」が許されるのか。そこの割り切りに関して、自分に自信をもつのが難しい。

最後に、主に自然科学の人と考えたいのが、「説明」や「理解可能性」という概念をどこまで拡張できるかという点だ。本書は、ベルクソンの次のようなスタンスを「拡張された自然主義と呼ぶ。

ベルクソンは、心的イメージと呼ばれるものをも、MTSの観点から最終的には自然に由来するものと描き直し、すべてを接地させることを目指す。認識や過去を亡霊扱いせず、自然の外側に取り残さない。(p.205)

自然科学が現状説明できないものを、自然の概念を拡張することで、説明し、理解可能にする。それがベルクソンの方針だとすると、自然科学者にとってはどこまでを「説明と呼ぶか」という問題が生じるように思われる。たとえば、「凝縮説には、どのような状況下でどのようなクオリアが生じるかについての具体的な予測能力はない」(p.94)とされる。これは結構重要な記述で、体験をする当事者のシステムを、ミクロな物質システムの時空間パターンに翻訳することはできないということだろう。こうした、「予測力を持たない説明」というものをどう受け止めるか、態度が問われるところでもあるように思われる。

2022/9/7追記:上記の疑問・論点について、大変ありがたいことに著者のWebサイトにて補足をいただきました。よく考えてみたいと思います。

終わりに:記憶とテクノロジーへの含意?

ベルクソン哲学のMTS解釈は、いろいろな方面に敷衍できると思う。意外な含意、場合によっては看過できないほど重大な帰結を導くこともあるはずだ。私が気になるのは、「記憶とテクノロジー」の論点。たとえば、以下のようなことが考えられないだろうか。

  1. 二種の記憶の掛け合わせを、テクノロジーで拡張する可能性:テクノロジーを介在させることで、心がアクセスできる「高次元折り紙」としての記憶リソースを、進化が用意したものを超えて人工的に拡張することはできないか。
  2. 記憶の移植」の不可能性:「(自発的)記憶」の正体が過去を引き連れた現在だとするならば、ある瞬時における物質配置の「コピペ」では、記憶を「移す」などできないことになりはしないか。つまり、今後どんなにテクノロジーが進歩しても、「記憶の書き込み」は原理的に不可能であることが帰結するのではないか。

本書を一人で読むフェーズはとりあえずここまで。私の「時間クエスト」は間違いなく未完了である。

*1:そうしたなか、昨年、ベルクソン研究者の濱田明日郎さんの手引きで、『物質と記憶』の第1章~第3章を解説付きで通読する機会に恵まれた。平井著を読むための、大事な経験となった。

*2:物理学者のショーン・キャロル氏のように。読書メモ:この宇宙の片隅に(ショーン・キャロル 著) - 重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

*3:ちなみにこのブログを書いたことが、私が著者の平井先生と出会うきっかけになった。探究メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで解明したのか〈番外編3:物理学にとって記憶とは何か〉 - 重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

*4:時間の謎については青山拓央『心にとって時間とは何か』がマスターピースだ。

*5:映画『TENET』の嘘の一つがこの点にあるのだが、それはまた別の話

*6:しかし「本当にそうなっている」とはどういう意味か。

*7:気づけば私も「定義」と言ってる…!