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読書メモ、探究メモなど。

読書メモ:計算する生命(森田真生 著)

計算する生命

計算する生命

  • 作者:森田 真生
  • 発売日: 2021/04/15
  • メディア: 単行本
 

『数学する身体』*1から5年、森田真生さんの新刊『計算する生命』。著者の書くものに触発され続けてきた一人として、固唾を呑んで発行を待っていた。

「すがすがしさ」と、難しさ

期待にたがわぬ一冊だった。前著にも増して、数学の歴史の記述が深い。たとえば、第2章におけるリーマン、第3章ではフレーゲを取り上げ、数学者や論理学者といったラベルに収まらないリーマン像・フレーゲ像を描き出している。彼らがいかに、「自然を把握」する新たな方法を編み出そうという企図や、人間が駆使する「概念」そのものの出自を明らかにしようといった「大きな哲学的構想」(p.87)を抱いていたか。現代を生きる私たちが、いかにこうした先人から――特定の「定理」といった数学的成果にとどまらない――思考の「足場」を受け継いでいるか。著者は原典や研究書を読み込み、それぞれの人物像に肉薄しながらこうした物語を紡ぎだしていく。思いもよらぬ絶景スポットに案内してもらったときのような、「あっ!」という嬉しい驚きが、随所にあった。

読み終わって(…)まことにすがすがしい思いがあった。純粋にものを考えるとは、なんと気持ちのいいことか。(養老孟司、2021年5月1日、毎日新聞・書評欄)

養老氏の読後感に、多くの読者は共感するだろう。

…一方、全体としては、前著より難しい本だと感じた。

各章は極めて明晰で、構成も緻密だ。数学史における「計算」概念の来歴をたどる第1章から第3章、計算が機械に実装される経過を追った第4章、そして現在私たちが「計算」とどのような関係にあるかを論じた終章まで、本書は流れるように進む。しかし、読み終えたあと、本を閉じて、「本書から自分は何を学べただろうか?」と自問したとき躓いてしまった。少なくとも初読後には、本書のわかりやすい「全体像」が浮かんでこなかったのだ。

本書の「全体」から何を読み取り、何を自分の思考の糧にするか。それを考えながら、ここ2週間、再読を重ねてきた。毎回、新しい発見と学びがあった。

※以下は、『計算する生命』をなんとか自分なりに咀嚼し、その「次」を考え始めようともがいている一読者からの現況報告です。とても乱暴なメモであり、もしかしたら、「超一流シェフの渾身作を、テーブルマナーもわきまえずに食い散らかし、しかもその様子をインスタグラムにあげる」くらい野蛮なことをしでかしているかもしれません。著者にも、他の読者にも、迷惑なことと思いますが、あくまで私自身が先に進むための、自分のためのメモということでご容赦ください。本書を未読の方は、この先は読まないほうがいいと思います。まずは『計算する生命』をぜひお読みください。

動く計算概念と、その4つの相貌

先述のように、私にとっては、全体像を捉えるのが難しい本だった。その理由の一つが、「計算」概念自体の捉えがたさ、多面性にあるように思う。

「計算」とは一体何なのだろうか。本書冒頭には、さらっと、「あらかじめ決められた規則にしたがって、記号を操作」すること(p.1)だと書いてある。子どもが紙に書きつける筆算、物理学者の行う式変形、コンピュータが行う数値計算。それらすべてが含まれる。

では、こうした様々な「計算」に共通する「本質」は何なのか? そう問いたくなるところだが、本書はそのような道(”本質を抽出”したり”概念を定義”したりする方法)をとらない。むしろ、歴史上人類が行ってきた種々の操作を「計算」と名指し、その多様性と遷移を描いていく。私たちが普段何気なく「計算」という概念の複雑さとその来歴――それを通して計算概念の「仮説性」を浮かび上がらせること――こそが、本書の主題となる。

ちなみに、なぜ「計算」を主題にするのか。それは、現代ほど「計算とは何か」が重要な時代はないからだろう。人工知能認知科学が人間の心自体を「計算」として捉えようとしている(「人間の自己像」にかかわる)し、世界の在り方の認識について私たちはますますコンピュータシミュレーションに頼りつつある(「計算によって拡張された現実を生きている」p.196)。私自身、計算概念について、ここ数年頭を悩ませ続けている*2

本書では、質的に異なる計算概念が、どのように歴史的につながっているのかを描いている。思うに、本書を通じて3つの大きな遷移が扱われている。自分なりに、以下のように表現してみる。

  1. 規則に従う操作としての計算が、意味を獲得する 
  2. 計算が人の内面から引き離され、機械に実装される
  3. 機械の計算が、意味を置き去りにしていく

それぞれ、手短に見ていこう。

  1. 規則に従う操作としての計算が、意味を獲得する:私たちは、はじめから意味を理解して計算をするわけではない。この指摘が本書の最初の山場だ。人類が指を使って数を数え始めたとき、または小学生くらいの子どもが初めて「負の数」に触れるとき、あるいは16世紀の数学者が虚数を扱い始めたとき、その「操作」には必ずしも「意味」が付随していない。それらは「あえて「操る」ための規則に身を委ね」、「意味のない方へと認識を伸ばしていく」営みである。無意味な操作にやがて「意味が追い付く」。そして、新たに獲得した道具や概念を使って別の「操作」を行うことができる。この「意味」と「操作」(「わかる」と「操る」)の往還により、人間の認識が拡張されてきた。
  2. 計算が人の内面から引き離され、機械に実装される:計算とは長らく人間が行うものだった。しかし、数学のなかで進められてきた数学の諸概念を「直観に訴え」ずに「厳密に確立し直していく動き」はフレーゲの「人工言語」構想に極まり、チューリングの「純粋な計算」と計算機への実装につながっていく。
  3. 機械の計算が、意味を置き去りにしていく:その後、機械による計算の量が加速度的に増え、私たちの認識や行動に大きく影響するようになっていく。コロナウイルス感染のシミュレーションのように、現代の私たちは「計算によって拡張された現実を生きて」いて、いまや「人間が意味や概念を生み出していく速度では追いつかないほど」計算が加速し続けている(p.216)。意味を置き去りにした機械の計算は、人間を「他律化」しかねないものだと著者は警告する。

このように、まだ意味がない操作から意味がある計算へ、そして人間がやる計算から機械にやらせる計算へ、さらに人間の理解を超えてしまった機械の計算へというように、計算概念が動いていった様を著者はたどる。だから本書の「全体像」をあえて描くなら、それは「計算とは○○である」といった静的な像ではなく、計算概念の動き・ゆらぎ自体を捉えたものでなければならないはずだ。

本書の「計算」概念の動きを、計算の「4つの相貌」と位置づけ、なかば強引に図にしてみる。 

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本書の「計算」概念が見せる4つの相貌

この図が本書の解釈として妥当かどうかはともかく、計算概念の多彩な”顔”と、その間の”動き”に着目することが、本書読解の鍵であるのは間違いないだろう。

計算を手放すか、再拡張するか

ここからは、本の内容自体から離れ、多少暴走気味に考察していく。

先述したように、「計算とは何か?」を問う意義の一つは、それが人工知能認知科学の中心的な概念になっていることにある。これらの分野で現在でも主流の立場は、人間の心の働きを、計算機が記号(表象、表現)を操る「計算」のプロセスになぞらえて理解するというものだ。そこでは当然、「計算」概念をどうとらえ、運用するかが焦点になる。

本書第4章では、こうした計算としての心・脳の理解に疑義を唱えるロボット工学者、ロドニー・ブルックスが登場する。彼によれば、脳を計算機になぞらえる私たちは「暗喩(メタファー)の犠牲者」となっている。また終章では、生命の備える「自律性」に着目し、他律的な計算のイメージで生命現象や認知過程を捉えることに異議を唱えたウンベルト・マトゥラーナやフランシスコ・ヴァレラが登場する。

本書は、おおむねブルックスマトゥラーナ&ヴァレラに共感する立場で書かれている。一方、私個人は、これまで「計算」(ないし「表象」)概念の有効性を否定するブルックスや、「自律性」(ないし「オートポイエーシス」)を中心に据えよと主張するマトゥラーナ&ヴァレラの議論に触れた際に、彼らへの同意を少し留保したい気持ちを抱いてきた。「気持ちはわかる、だけど、それで前に進めるのだろうか?」という疑問だ。生命の本質が自律性にあるのはよいし、計算として生命や知能を見ないのもいい。しかし、その道を進むのであれば、生命・知能を「理解する」とか「作る」といった目標も同時に手放すことを迫られやしないか。「自律性」概念は、根本的にシステムの「理解」――少なくとも機械論的(mechanistics)な理解――と食い合わせが悪いのではないだろうか?

ブルックスやヴァレラほどには「計算」や「表象」を否定せず、これまで”生産的”だった道を手放さずに進むことはできないものか――そんな漠然とした思いを抱いていた。

著者の意図とはおそらく裏腹に、本書を読んだ今では、もう少しその方向性を具体的に言葉にできる気がしている。やるべきは、計算という見方を捨てることではなく、計算概念をもう一度動かし、生命や知能の理解・構築に役立つ方向へ、拡張することではないか。

先ほどの図に書き足せば、下記の青い矢印に期待ができるように思う。「意味を置き去りにした機械の計算」を、もう一度、「人間が行う計算」の一部に組み込むのだ。

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大学3年生のころ、物理学を学んでいた私は、多くの時間をA4のノートに統計理学や量子力学の数式を書きつけることに費やしていた。できるだけ”機械的”に、教科書に出てくる積分計算や行列計算をトレースする作業。それは自分にとってはまさしく「まだ意味のない記号の操作」だったが、徐々にその作業を通じて、量子物理や統計物理に関する、新たな意味の領域が開かれていった。本書前半で描かれている「操る」と「わかる」の往還による「認識の拡張」を体験していたのだと思う。

現代人は今、深層学習や大規模シミュレーションなど新しい計算ツールを手にし始めている。これらを、専門家や大手プラットフォーム企業の手に委ねるだけでなく、自分の「道具」として主体的に使えないだろうか。GPT-3やDeepLなどの生成モデルとの”対話”も、その一環かもしれない。そうしたツールと”無意味に”戯れているうちに、人間の認識をさらに拡張するきっかけをつかめないものだろうか*3。本書から、そんな方向性を夢想した。

「『計算する生命』として現実に応答する」という課題

計算について、私が本書から考えたことは以上だ。しかし『計算する生命』の感想としては、まだ大きな不足があると思う。それは、本書の「終章」をどう受け止めるか、という点だ。

終章「計算と生命の雑種(ハイブリッド)」にて、著者は突然ギアを変える。数学の計算の歴史から一転、気候変動や生態系の危機などが話題に上る。価値や倫理の領域の話が突然顔を出す。また、「計算」と並んで本書の主題をなす「生命」という概念が、「計算」についての周到さとは真逆の唐突さで登場する。

読者によっては、終章こそが響いたという人もいるだろうし、終章はなくてよかったのではないか、と思う人もいるかもしれない。それくらい、トーンの変化が大きい。

でも私としては、このトーンチェンジこそ、本書の見どころとして着目すべきではないかと感じる。

これまで人間は、様々な技術革新や本書が描くような概念的な発明を繰り返し、認識を拡張してきた。しかし、人間が今日のような気候危機や「人新世」に直面するのは初めてのことで、学問の総体も、その状況のなかで考える準備ができているとは言えない。人類の知的文明が数十年後には――核戦争などの偶発的事象による”可能性”としてではなく、自分たち自身のinactionに起因する既定路線として――消滅しているかもしれない状況でものを考えたことは、人類史上初めてではないだろうか。

「だからといって、別に特段のやり方を変えない」というのも、一つの選択肢だろう。研究費が枯渇し、自宅が浸水し、書斎が台風で吹き飛ばされるその日まで、超然と学問をしていようという態度だ。私自身、そうしたいと思う日のほうが多い。

一方で、森田さんのように、この状況に「応答(respond)」してみようと思う人もいる。ただしそれは、「地球を守ろう」といったお仕着せの倫理・価値観を内面化することではなく、状況を自分なりに直視して――本書の言葉で言えば一つの「計算する生命」として――自分の中で新しい価値観を立ち上げる作業を含む。著者はそれを、古代から人間が育んできた数学や計算にまつわる思考の「足場」を振り返り、その上に作り上げることをもくろんでいる。

学問の系譜に軸足を置きつつ、その足場のうえで思考を紡ぎつつも、その学問伝統が想定していない今の特異な現実に応答する。しかも、学問する自分と、現実に応答する自分を分裂させない。こういうことに着手している学問従事者は、いまのところ多くはないのではないだろうか。

終章において、著者は「計算が加速していく」ことの問題点を指摘している。よくよく考えると、ここでは、二つの別のことが言われているように思われる。

  1. 計算が人間を他律化する危険性
  2. 計算結果(気候変動のシミュレーションなど)に人間が応答できずにいること

ここで、1のほうは「計算」の問題の延長にある。しかし2は、もはや「計算」の問題領域を離れているように思う。そこでは計算は問題を認識するための方法ではあれど、主たる問題は「どう応答するか」のほうにあり、本書の言葉では「生命」の問題領域に入るのだろう。したがって、「計算」を掘り下げるという本書のアプローチとは、まったく別種の思索が今後は求められるはずだ。そしておそらく著者は今後、ここを探究と実践のフィールドにしていくのだろう。

計算から生命へと導かれてきた本書の探究の続きは、いきいきと生命が集う、新たな学びの場の創造とともに、地道に追求していきたいと思う。生命を作ることで生命を理解するのではなく、生命になることで生命をわかるという道があるとするなら、それがどのようなものであるかを、みずからの実践を通して模索していくのが、私の次の大きな課題なのだ。p.224

自分(ブログ筆者)はどちらかというと、「計算」の問題領域にとどまり、上述の「計算の再拡張」を本書からのチャレンジとして受け取りたい。その一方で、「生命」に関する著者の今後の活動を、自身の価値観を組み替える心の準備をしながら、追っていきたいとも思う。

*1:読書メモ:数学する身体 - 重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

*2:『計算する生命』とは全く異なる視点からの「計算」概念の考察として、下記のような記事もある。計算の未来と社会:Hiroshi Maruyama's Blog - CNET Japan 数年前にこの記事を読んだとき、興味深いと思うと同時に、計算概念に含まれる「計算する主体」や「意味」の側面も大事ではないかと感じた。『計算する生命』はその部分をほぼ掬い取っているように思う。

*3:類似の問題意識から、先日のブログ記事では、AIと人間が「受注者‐発注者関係」として一度捉えたうえで、両者がどちらも完全に他律的でも自律的でもないような「共創」関係として捉えてみてはどうかと考えてみた。思考整理メモ:「受注」する脳 ~「発注モデル」から考える「AIの自律性」と脳の計算パラダイムの向こう側~ - 重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)