重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

読書メモ、探究メモなど。

読書メモ:『励起(上・下)』(伊藤憲二 著)――今読まれるべき1000ページの「科学史的伝記」

日本の物理学者、仁科芳雄(1890~1951年)の伝記である。

上下巻、2段組ハードカバーで合計1000ページ*1に迫る大作であり、すぐに手は出なかった。きっと「書店でたまに背表紙を見かけては尊敬の念を抱く本」になるんだろうな…と予想していたなか、Twitter/Xでの三宅陽一郎さんの投稿が目に入ってきた。

「上巻だけでも」と読み出したら、たしかに面白い。数日後には下巻を買いに書店に走った。ここひと月、『励起』とともに時間を過ごした。

すぐには信じてもらえないかもしれないが、本書は面白いだけでなく「役に立つ」。図書館に眠る「金字塔」的な本にしてしまうのは惜しい。「科学と社会」の関係を気にかける現代の読者に広く読まれることを願い、感想を書いてみようと思う。

本書のあらまし

本書は、仁科芳雄の生涯に沿って構成されている。

岡山県豪農の一家に生まれた仁科は、東京帝大で電気工学を学んだのち(1~3章)、就職した理化学研究所では物理学の研究を始める(4章)。30歳の時に欧州留学の機会を得、当初滞在したイギリスとドイツでは取り立てた手ごたえをつかめなかったものの(5章)、コペンハーゲンニールス・ボーアの研究室を訪ねたことを機に本格的に原子物理学の研究に乗り出す。X線分光学の実験を手掛けたほか、「仁科=クライン方程式」の発見など理論物理学者としても名を挙げる(6~7章)。

8年間の留学を終えた仁科は理研に戻り、自身の研究室を始動。ハイゼンベルクディラック、さらにのちにはボーアの日本招聘に奔走するなど、日本の物理学ができたての量子力学を吸収するうえで指導的な役割を果たす(8~15章)。

世界の原子物理学の進展とともに、宇宙線の研究や、放射線を利用した生物・医学研究にも手を広げる。このころ米国で発明されたばかりのサイクロトロン(荷電粒子を磁場を使って加速する装置)の建設など物理学のビッグサイエンス化に乗り出し、そのための資金集めなど「科学行政家」として頭角を現していく(16~18章)。その間にも、大阪にいた湯川秀樹など、全国の理論家とのネットワーク作りにも尽力(19章)。

その後、時代は1937年の日中開戦、1941年の日米開戦と、国家総動員体制に入っていく。自由な研究が難しくなっていくなかで、仁科の研究室は軍からの委託研究にも乗り出すようになる。1940年代には「ニ号研究」に携わることになる(20~22章)。これは一般的には「原爆開発」のプロジェクトとして知られるが、実態は核エネルギー利用の実証研究の枠を出ていなかった。1945年8月の広島被爆を迎えた翌日、仁科は陸軍からの要請で広島の調査団に参加し、自ら被害状況を目にすることになる(23章)。

戦後、占領軍の指示系統の混乱もありサイクロトロンが破壊されるという悲劇に見舞われるも、仁科は米国から派遣された科学者らともに、日本の科学の立て直しに尽力する(24章)。日本学術会議の設立に関わり、初代副会長に就任(25章)。理研は解体し、仁科を社長として株式会社としての再始動する(26章)。科学外交にも奔走し、そのネットワークを生かして戦後の日本が再び国際的な学術コミュニティとつながることに貢献した。そうしたさなか、1951年に癌を患い障害を終える(27章)。

以上の出来事を二段組み・1000ページのディテールで記述するのが本書である。私にとっての本書の魅力は、仁科の歩みのすべてが、現代の日本の科学につながっているように思えることにある。

なぜ仁科だったのか

著者は、本書を「科学史的な伝記」だと規定する。単に科学者の人生を辿るだけでなく、その人物を「取り巻く社会文化的文脈と当時の科学の状況を十分に取り込み、その上で科学者の生活や活動、科学者の思考の発展と研究上の成果を織り交ぜて描き出す」(p.7)。

このような科学史的伝記の題材として、仁科は特異的な存在だろう。上記のあらましから分かるように、仁科は、科学技術をめぐる様々な問題に取り組んだ。量子力学という史上まれにみる科学の大変革に立ち会い、若手の研究環境整備という課題に取り組み、安定的な研究資金の獲得に苦心し、海外研究者とのネットワーク構築に奔走し、軍事研究にも手を出し、科学者のアドボカシー団体設立に関わり、科学外交で日本の顔として活躍した。仁科ほど、今日も続く制度的科学が直面するあらゆる問題に取り組んだ科学者は、歴史上いないのではないだろうか。

なぜそれが仁科だったのだろうか。本書は仁科を「思想」よりも「行動」の人として描く。何か決まった理想や行動原則に沿って動くというよりも、仁科家のため、研究室のため、理研のため、日本の科学のためと、人生の最後まで自らの責任を拡大し続けて」(p.66)いく仁科。ただし著者は、仁科が担った役割や、彼がそれを担うことになる必然性を本書は特別視しない。その時代の環境という「場」がたまたまある時空点で「励起」したのが、仁科という個人だった――著者は、物理学の「場の量子論」の描像を援用して、そのように伝記の主人公と科学史の関係を説明している。

成果を生む研究の「場」はどのように生まれるのか?

いま、日本のアカデミアや科学政策の現場では、いわゆる「研究力」の凋落がもっぱら問題視されている。そうした問題関心からも、本書は(歴史学の本の読み方としては反則かもしれないが)このうえなく示唆に富んでいるように思える。

著者は、仁科の功績の大分部が「生前に仁科が成し遂げたことよりも、仁科をきっかけにしてその周囲に起こったこと」(p.961)にあるという。その「遺産」のうち特に注意を引くのが、研究の「文化」や「精神」といった、研究インフラのうちの無形的な要素を指す言葉である。

仁科のグループは研究する能力のみに基づいて遠慮なく討論する文化を育て、広めていった。これは少なくとも部分的には現在の物理学コミュニティに残っている(p.962)

本書では「雰囲気」という言葉もよく出てくる。仁科自身が「雰囲気」を大事にしたようだ。たとえば、湯川秀樹京都大学から大阪大学へ移ると聞いた仁科は、「大阪において湯川が持っていた「研究ノ雰囲気」と同じくらいのものを持ち得ることを確認すべきだ」(p.612)と助言したというエピソードが印象深い。ポストや資金があっても、クリエイティブな雰囲気がなければ成果は出ない。そのことを仁科はコペンハーゲンで体得し、朝永振一郎が「科学者の自由の楽園」と表現した理研での研究室運営を含めて、生涯大事にしたようだ*2

世界最先端の科学はどう他の国に伝わっていくのかという、少しマクロな視点についても示唆がある。1930年代の日本は、世界に革命を起こしていた量子力学・原子物理学の発展に追随し、しかも湯川の中間子理論に代表されるような世界的な成果も出すことができていた。量子力学震源地である欧州まで、船旅で何週間もかかる時代に、どうしてそんなことができたのか。

著者は「共鳴現象」という描像でこれを説明している。量子力学のような新しい知識やアイディアは、「ある場所からほかの場所へと移動する」というよりも、「共鳴を起こしうるような社会的、技術的、文化的な状況が形成されたときに、ある媒介がトリガーとなって、共鳴を起こす」(p.375)のだという。

仁科が帰国する前の日本には、すでに量子力学の研究がなされるための環境ができつつあった。仁科は、…その環境をさらに良好にすると同時に、その研究を実施することができた。…仁科がヨーロッパにおける環境そのものを移植したというわけではない。(p.375)

助成財団を回って、ハイゼンベルクディラック、ボーアといった一流の物理学者を日本に呼ぶための金策に奔走した仁科の努力は、まさにこの「共鳴」を可能にする前提を整えるためのものだったのだろう。

――今で言えば、急速に進展する機械学習の生成モデルの研究に関して、震源地である米国に「共鳴」する準備ができているのはどの国か、などと考えたくなってしまう。

***

以上は、自分が気になったところを断片的に拾った感想にすぎない。ほかにも、読み手によって無数に現代的示唆は得られるだろうし、単純に歴史を知るのも面白い。

また、著者は、仁科像のアップデートに心を砕いている。広重徹や中山茂といった過去の著名な科学史家を含め、やや一面的、ステレオタイプ的に描かれてきた仁科芳雄の人物像を、その「行動」の逐一に着目することで、塗り替えようとする意志を感じる。そのあたりは、科学史の方面からの読みどころになっているのだろうと想像する。

仁科の遺産は「まだ適切に評価することはできない」と著者はいう。

物理学者たちの歯に衣着せない、マッチョな科学文化に弊害はなかったのか。企業や国家に資金を依存するような巨大科学への道は、妥当な選択だったのか。エネルギー問題を核エネルギーで解決することは、正しかったのか。米国との強いつながり、ないし米国への依存に負の側面はなかったのか。日本学術会議の設計は最善だったのか。日本の科学が急速に衰退し、他国の後塵を拝するようになりつつある現在、これらの問題に対する結論を出すことは難しい。それは結局、今後の日本の社会と科学の在り方にも依存するだろう。(p.965)

仁科芳雄という「励起状態」を通して描かれる戦前・戦後の科学史が、今に続く日本の科学の土台にある。『励起』をみんなで読めば、仁科を心の中に生かすことができる。それは、日本の科学の未来を作るうえで立ち往生している私たちに決定的に不足しているコミュニケーションの土台になってくれるだろうし、仁科の成功と失敗、高揚感と挫折は、私たちの何より貴重な共有財産であるように思われる。

*1:註と年表を入れたら2割増しくらいになる。書き手の体力も途方もないが、書籍制作に伴走した編集者の仕事量を想像しても気が遠くなる。

*2:ただし、著者は仁科が作り上げた研究の「文化」の負の側面の可能性にも目を向けている。「このような口が悪く、規則のない環境は、男性だけからなるマッチョな集団の文化であることをよく示している。そこでは、物理の脳力の弱さ、批判に傷つく心の弱さはまったく許容されていなかった。それによって排除された人間がいたという証拠があるわけではない。そもそも、そういう人たちがいたとしても、記録そのものが残りにくい。」(p.361)これは非常に重要な指摘だと思う。現在の日本の研究文化がアップデートしなければいけない点のように思える。