重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

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探究メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで解明したのか〈番外編2:論文紹介 Science 2018, Tanaka et al.〉

久しぶりの、「探求メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで解明したのか」シリーズです。

過去の記事はこちら:

今回は「番外編2」と題して、先月Science誌に掲載された論文を紹介します。

Tanaka, K. Z., He, H., Tomar, A., Niisato, K., Huang, A. J., & McHugh, T. J. (2018). The hippocampal engram maps experience but not place. Science, 361(6400), 392-397.url

理化学研究所のチームによる、マウス海馬の研究。

タイトルに惹かれて読んだのですが、脳の記憶メカニズムの理解にとって重要な一歩と言える論文だと感じました。以前このブログで触れた「利根川ラボ」の研究のような「派手さ」はないかもしれません。でも、噛むほどに味わい深く、頭のなかで反芻しているうちに「なるほどScience級なのだな」と思わされる、そんな論文でした。

なお、たいへんわかりやすい概要が理研のプレスリリースとして出ています。

海馬記憶エングラムからの記憶解読 | 理化学研究所

興味がある方は、まずはこちらを一読されることをおすすめします。

背景:海馬が見せる二つの顔

この論文の意義を理解するため、「海馬の二つの顔」という背景を押さえておきたいと思います。「二つの顔」とはブログ筆者の勝手な表現ですが、それは、

  1. 空間情報にまつわる記憶を担う脳部位
  2. (エピソード的)記憶を担っている脳部位

という、二面的な海馬像を指します。

前者は、海馬のCA1領域の大部分が「場所細胞」である、という実験事実に要約されます。場所細胞(place cell)は、空間内の特定の「場所」に動物が来たときにだけ活動する細胞のこと。1970年代にジョン・オキーフ氏によって、ラットの海馬で発見されました(オキーフ氏はその業績で2014年ノーベル生理学・医学賞受賞)。その後、ヒトを含む多くの動物も場所細胞をもつこと、さらには海馬および海馬近傍には場所細胞以外にも空間情報処理にまつわる細胞(「head direction cell」「grid cell」など)が存在することがわかってきました。加えて「ベテランのタクシー運転手の海馬は大きい」といった傍証も得られるなど、「外界の空間的マップを作成・保持する部位」としての海馬というイメージが確立しました。

他方で、海馬は「エピソード記憶の座」として知られます。海馬を摘出したために新しいエピソード記憶を獲得できなくなった患者HMの症例をはじめ、海馬が記憶形成に必要であることがわかっています。さらに、2010年代になってからは細胞レベルでの操作技術が向上したことで、海馬CA1の一群の細胞が「エングラム細胞」であることが証明されました。「エングラム細胞」とは、

  • その細胞グループが活動しないと特定の記憶が消え、
  • その細胞グループを強制的に活動させるとその記憶が復活する

ような細胞の集団を指します。利根川進氏らによる一連の研究については本ブログで紹介しました *1

 

このように、海馬には「空間的記憶を担う部位」と「エピソード(的)記憶を処理する部位」という二つの顔があります。そして細胞レベルでも、「場所をコードする細胞」「(場所以外の)記憶をコードする細胞」がどちらも海馬の同一領域にあることがわかっている。となると、当然、次の疑問が浮かびます。

  • 海馬で「場所をコードする細胞」と「場所以外の記憶をコードする細胞」は同じ細胞なのか?

このクエスチョンに初めて挑んだのが、本研究ということになります。

結論を先に言ってしまうと、

  • 「場所」と「文脈」は、別々の細胞によってコードされている

のだそうです。ここでは、論文の言い方に合わせて「場所以外の記憶」を「文脈」と言い換えています。ここでいう「文脈」とは、マウスが「どの部屋にいたか」という記憶に相当します。

以下、簡単に内容を見ていきます(実験の概要・結果・考察については理研のプレスリリースに詳しいので、ここではごくごく簡単に)。

実験のあらまし

下記の手順で実験は行われます。

  1. 光遺伝学的な方法を使って、マウスが「部屋A」にいたときの細胞にマーカーをつける。具体的には、部屋Aにいるときに活動した細胞にc-Fosという遺伝子を発現させる。これがいわば「エングラム細胞」となる。
  2. 海馬CA1の領域に電極(4本で1セットになった「テトロード電極」)を刺す。電極近傍の数十(?)の細胞の活動を計測できる*2
  3. 部屋Aに再び戻したとき、別の部屋B*3に入れたときの、エングラム細胞、非エングラム細胞それぞれの、「場所細胞」としての性質を調べる。

この実験で注目したいのが、電極の固定技術です。走り回るマウスに電極を刺しっぱなしにしているわけですが、この状況でずっと同じ細胞から電気信号を取り続けることのは相当難しいのではないかと思います(数ミクロン電極がずれただけでもダメなはずです)。

こうして、部屋Aに対するエングラム細胞(論文中では“c-Fos positive cell”と呼んでいます)と非エングラム細胞(“c-Fos negative cell”)を区別しておいて、その違いをさまざまな角度から調べています。結果をかいつまんで紹介すると、c-Fos positive細胞(つまり、「部屋A」のエングラムを担っている細胞)は、下記の特徴をもっているそうです。

  • 場所細胞であるが、place field(場所細胞として受け持っている領域)が広い
  • 部屋Aにいる間は、特徴的なバースト発火(theta burst)をしている
  • 場所についての符号化が不安定(同じ部屋Aに戻しても、2回目にはplace fieldが変わってしまう)
  • 部屋Aに対して選択的に活動する(部屋Bでは活動しない)

一方、c-Fos negative細胞(非エングラム細胞)たちは、それと逆で、空間内の位置をコードする従来の「場所細胞」らしい傾向をもちます。

以上より、

  • エングラム細胞は「どの部屋にいるか」の情報はもつが、「部屋のどこにいるか」の情報はもっていない

ということがわかります。さらに、

  • 「どの部屋にいるか」と「部屋のどこにいるか」の情報は、電極の周りの数十~の細胞だけを見ても、別々の細胞集団が担っている

ということもわかります。

エングラム細胞は何をしているか:著者らの仮説

エングラム細胞は「どの部屋にいるか」をどのようにコードしているのか? それについては、著者らは「記憶インデックス仮説」という説に依拠した解釈を打ち出しています。下記、理研プレスリリースからの引用です。

以上の結果から、海馬には、認知地図仮説が空間記憶の素子として想定する場所細胞と、文脈のアイデンティティを表す記憶エングラムの2種類の記憶痕跡が別々に存在することが分かりました。さらに、「記憶エングラムが記憶インデックス仮説の提唱する記憶インデックスの実体であり、その活動が動物の脳内で表現される経験の情報と結びつくことでエピソードを定義する役割を担っている」という仮説を提唱しました。

つまり、海馬のエングラム細胞は、部屋の記憶の本体がある大脳皮質の各部位への「索引」の機能を果たしているのではないか、という仮説です。この論文のなかでは「インデックス仮説」の積極的な証拠を出しているわけではないので、「そう考えるのが最も自然」といったタイプの推論だと思われます。

場所細胞について、本論文が教えてくれること

本論文が挑んでいる問い、つまり「空間情報処理の座としての海馬と、記憶の座としての海馬は、どう一枚の絵に収まるか?」という問いは、とても興味深いものです。哲学的な重要性すら持つのではないかとも思います。なぜなら、それは「すべての記憶は、(生物学的には)『空間的』なのか?」という問いにつながるからです。

エス、つまり「すべての記憶のベースには空間認知がある」というのは一つの可能性で、実際にそうした考えをもっている専門家は多いようです。たとえば、場所細胞の発見者であるオキーフ氏は、ノーベル賞のスピーチで次のように話しています*4

…the Hippcampal Formation provides a cognitive map of a familiar environment which can be used to identify the animal's current location and to navigate from one place to another. (略)A similar spatial system exists in humans which additionally provides the basis for human episodic memory. 〔訳:海馬体は、慣れ親しんだ環境の認知的マップを提供する。その地図をもつことで、動物は自分の位置を同定したり、ある場所から別の場所へとナビゲートしたりすることができる。(略)こうした空間的システムは人間でも存在する。人間においては、それは加えてエピソード記憶の基盤にもなっている。

ここで"additionaly"という表現が示すように、これは「空間認知の器官としての海馬が先にあって、それにエピソード記憶の機能がつけ加わった」という理解と言ってよいでしょう。

今回紹介した論文は、この見方に疑念を投げかけます。なぜなら、マウスの段階ですでに、「場所」と「文脈」は別々のCA1細胞が担っているということがわかったからです。もちろん、この論文一つで理解がひっくり返るというものではないと思いますが、今後はオキーフ氏の「海馬はもともと認知的マップのためのもの」という理解は、少しずつ覆されていくのかもしれません。

(…ただ、ここで一つひねりがあって、それは本論文の「C-Fos positive細胞」つまり「文脈=エングラム」を担う細胞も、それ自体は一時的には「場所細胞」であるということです。これはどんなストーリーで解釈できるでしょうか? ……などなど、興味はつきません。)

 

おわりに

脳細胞が実験者にどんな姿を見せるかは「実験のやり方次第」だということをあらためて感じました。海馬の細胞を場所細胞として調べれば場所細胞としての顔を見せるし、エングラム細胞としてみればそう見える。この研究では、その両方の顔が見える巧みな実験パラダイムにより、一つ一つの細胞に「君はどっちだ!?」と問いただしています。最先端の実験技術もさることながら、実験アイディアの妙を感じた論文でした。

この論文が示してくれたように、今後も、記憶のメカニズムは、一歩一歩、少しずつだが着実に、解明されていくのだろうと思います。

*1:ここで話の流れ的にやや気持ち悪いのは、利根川氏らの実験での記憶は「マウスがある部屋にかつて入ったことの記憶」などであり、厳密には「エピソード記憶」ではないことです。「エピソード記憶」そのものを扱っていないことは、今回紹介するTanaka et al.でも同じです。しかし「エピソード記憶の座としての海馬」が研究のモチベーションにはあることは間違いなく、論文のイントロ部分でも言及されています。

*2:論文補遺には、全部で148個の細胞からの記録を分析したいとあり、マウスは8匹使っているので、一匹あたりから測定したのは数十個の細胞だと思われます。

*3:なお、部屋A・部屋Bの様子は次のように説明されている。部屋A:格子上のメタルな床、エタノールの匂い、壁には印あり、ホワイトノイズの背景音。部屋B:プラスチックの床、バナナの匂い、壁はふわふわで別の印あり、背景音はバロック音楽。「エングラム細胞」の形成に部屋のどの特徴が効いているのかも気になるところ。

*4:オキーフ氏のノーベル賞講演:https://www.nobelprize.org/nobel_prizes/medicine/laureates/2014/okeefe-lecture.pdf