重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

読書メモ、探求メモなど。

読書メモ:人間の解剖はサルの解剖のための鍵である(吉川浩満 著)

 

在野の著述家として活躍する吉川浩満さんが、ここ数年さまざまな媒体で発表してきた文章をまとめた一冊。論考、対談、人物論、書評など、ジャンルは多岐にわたる。序文によれば、著者は数年来『人間本性論(仮)』という本を構想・執筆中とのこと。本書はその「副産物」だそうだ。別のところでは「勉強ノート」なんて言い方もされている。

収録されている文章のなかには、初出の雑誌で読んだことのあるものもあった。しかし改めてそれらを通して読むと、吉川さんの「ものの考え方」、「読んで書くときの構え・態度」といったようなものが見えてくるような気がして、再読の価値は大きかった。

下記は、「勉強ノート」たる本書の、勉強メモ。

第1章は『サピエンス全史』(by ユヴァル・ノア・ハラリ)の話から始まる。

『サピエンス全史』は日本ではとても売れた。9月に邦訳が出る続編『ホモ・デウス』もまた売れるだろう。ハラリはこの2冊で、「人間とはなんであったか、なんであるか、そして、どうなっていくか」を描いている。僕も、『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』を読んで興奮して、ブログに感想を書いてみたり家族や友人と話したりした。ハラリに限らず、スティーブン・ピンカーなり、キャス・サンスティーンなり、優れた書き手による本が出てくるたびに、僕ら読者はそれらを消費し、話題にする。

しかし、1冊の本はいわば「点」だ。こうした、最先端の科学に裏打ちされた大きな世界観・人間観を描いた本が次々と出てくることの背後に、どんな知的世界の潮流があるのだろうか。ハラリ、ピンカーその他の書き手が前提とし、(おそらく主に)英語圏では読者にも共有されている「気分」が、日本ではそれほど共有されていないような気がする。自分自身つかみ損ねていた。

『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』は、まさに、その「点」をつないで「線」にする試みだ。英語圏における知的議論の展開を、広く、そして深く観測することを通じて、いま学問の世界で起こっている世界観・人間観の変化についての共通認識のようなものを捕まえている。

それはどんな認識か。序章から引用しながらちょっとだけ紹介するならば、それは「生命科学の発展と認知革命の進行」による「19世紀に生まれた人間像の終焉」である。そのあとに来る「21世紀の科学技術文明における人間本性論」は、

じつはすでにだいたいできあがっている。それは、人間とは不合理なロボットである、というものだ

となる。

この「不合理なロボット」としての人間観、その社会的・政治的含意、そしてその「人間観」にコミットすべきかどうかなどは、(本書のなかでも説明されているが)きっと『人間本性論(仮)』で存分に論じられることになるのだと思う。

冒頭で、著者の「読んで書くときの構え・態度」と書いた。それは、たとえば「むやみにサイドをとらない」、「むやみに警鐘を鳴らさない」といったことだ。

著者の過去の著作からは、いわゆる「科学主義」「自然主義」とは距離をとっているように思える。でも、かといって自然主義者を安易に攻撃したり(ディスったり)はしない。それどころか、たとえばリチャード・ドーキンスに関する章では、その功績を惜しみなく褒めている。「主義」には拘泥しない柔軟性は貴重だと思う。

もう一つは、ゲノム編集、ナッジ(リバタリアンパターナリズム)といった、誤用されると恐ろしいことになる諸技術に対する、次のような態度。

可能なことは実行される。そうである以上はその流れに背を向けないで様子を見ていこう。それが今のところの私のスタンスである(p.327)

別のところでは「消極的賛成派というか体制内反対派というか、そんな感じのものである」とも言う。若干わくわくしている自分を隠すことなく、かといって技術の浸食から目をそらさない。個人的には好ましく、自分のものとしたい態度だ。

最後に、「人物論」のパートのなかの見田宗介の章はよかった。誰にも頼まれていないのに本を読み、あれこれ考えることをやめられない者の一人として、心の琴線に触れる内容だった。序論とこの部分だけでも、ぜひ読んでみてください。