昨年春に読んだ、スティーブン・ピンカーの最新刊。邦訳が出たようなので、読書メモを再掲します。
『FACTFULLNESS』などと同様に、話題の書となることが予想されますが、無批判な称揚か全面的な否定かという極端な反応のみが先行しないとよいなと思います。
また、総じて人文系の思想・文化に批判的な本なのですが、明晰さと論理性を得るのは時間がかかる、だからこそ哲学が必要である、と述べている個所があって、さすがピンカーさんと思った記憶があります。
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Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress
- 作者:Steven Pinker
- 出版社/メーカー: Viking
- 発売日: 2018/02/13
- メディア: ペーパーバック
出る出ると話題になっていた、スティーブン・ピンカーの新刊。
ここで紹介するまでもなく書評はあちこちで出る/出ていると思うし、ものすごく盛りだくさんな本なので、内容を網羅した読書メモを書くのは難しい。
印象だけ、簡単に書いておこう。
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まず、ピンカーとはどんな人なのか?
言語学者で認知科学者。なぜかノーム・チョムスキーのお弟子さんだと思い込んでいたのだが、ウィキペディアを確認すると「チョムスキーに深く影響を受けた」とだけある。
多くのベストセラーの著者として知られる。“The Language Instinct”(『言語を生みだす本能』)、“The Stuff of Thought”(『思考する言語』)などの著作では、一貫して「人間とは何か」(=human nature)をテーマとしてきた。学生のころ、私も何冊かのピンカー本を読んだが、深いテーマを軽妙に、下世話な話題を高尚に、というユニークな書きぶりで、とにかく面白かった。アカデミックな内容を、学者らしく上品に、なおかつエンターテイニングに伝えることのできる、唯一無二の書き手だ。
2011年の著作、“The Better Angels of our Nature”(『暴力の人類史』)あたりから、少しずつ趣向が変わってくる。専門の言語学・認知科学のテーマから離れ、現代社会を論じるようになる。言語や心が「どうなっているか」という科学の啓蒙から、「どう考えるべきか」という価値の啓蒙に、軸足を移しているように見える。
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本書で、ピンカーがコミットしている価値とは、“Enlightenment ideal”(啓蒙思想の理念)である。啓蒙思想とは何かについて、本書ではいろんな言い方をしているが、たとえばそれは
that we can apply reason and sympathy to enhance human flourishing
人間は、理性と共感力を培うことで繁栄できる
という考え方だという。
啓蒙思想の理念の三本柱として、著者は以下を挙げる。
- 理性
- 科学
- ヒューマニズム
この三つが人間が幸せに生きるのに必要だというのは、一見、当たり前すぎるように思える。しかし、ピンカーに言わせれば、いまこれらの理念が、“whole hearted defense”(誠心誠意の擁護)を必要としている。
Enlightenment ideals, I hope to show, are timeless, but they have never been more relevant than they are right now. (Preface)
誰からの(何からの)擁護か。
もちろん、トランプ大統領に象徴される、ポピュリズム的な知性への軽視もある。だがそれ以上に、文系の知識人の間でも、「啓蒙思想の理念」は軽視されているという。
Intellectual magazines regularly denounce “scientism,” the intrusion of science into the territory of the humanities such as politics and the arts
(…)Science is commonly blamed for racism, imperialism, world wars, and the Holocaust . (Ch.3)
「安易な科学万能主義」を批判するあまり、「科学が世界をよくする」という考え方自体が否定されてしまっているという問題意識だ。
もちろん、こういうことを言ったのはピンカーが最初ではない。1959年、C. P. スノーは、有名な講演のなかで、科学者と文系知識人の間の断絶を問題にしている。
われわれの二つの文化のギャップをなくすることは、もっとも実際的な意味からも、もっとも抽象的、知的な意味からも、必要欠くべからざることである。この二つのものが離れてしまっているようであっては、いかなる社会も知恵をつかってものを考えていくことができないようになるであろう。知的生活のため、わが国の固有の危機のため、貧しい人たちに囲まれて不安におびえながら富んだ生活をしている西欧社会のため、世界中がもの解りよくなれば貧乏でいる必要もなくなる貧しい人々のため、われわれ、アメリカ人、全西欧人が教育というものを新鮮な眼で眺めることは義務である。—―C.P. スノー『二つの文化と科学革命』(みすず書房、p.51)
本書のなかでも、このスノーの議論は何度も引用されている。でも、スノーの議論は第二の文化(=文系)からは大変評判が悪かった。私自身、すぐさま
- 「理性と科学が世界を良くする」なんてナイーブすぎるのでは?
- 自分たちの価値観で人々を「啓蒙」しようだなんて、思い上がりでは?
というようなツッコミが思いつく。
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スノーの講演から約60年後、ピンカーは再度「科学的知識が世界を良くする」という主張をしようとしている。しかし、その戦略が、大幅にアップデートされている。ピンカーの戦略とは、「科学的知識が世界を良くしているという証拠を、逐一見せていく」というものだ。
本書の最後の第3部(第21~23章)では、「理性」「科学」「ヒューマニズム」をそれぞれ擁護しているのだが、本書のページの大部分は、「世界は良くなっている」ことの証明をした第2部に充てられている。
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世界は進歩(progress)している。
そのことを、ここ数十~百年のトレンド示す様々なデータを示しながら、例証していく。
まずは、寿命が伸び(5章)、病気も減り(6章)、飢餓は減り(7章)、富は増大し(8章)、絶対的な貧困は減少し(9章)、戦争が減り(11章)、災害で死ぬ人が減り(12章)、民主主義は広がった(14章)。
さらに、人々に心配を与えている格差の拡大(9章)、環境問題(10章)、テロリズム(13章)、核戦争などの実存的脅威(19章)についても、言われているほど悲観すべきでないという議論が展開される。
ここまで聞くと、こう言いたくなるのが現代人だろう。「物質的に豊かになったとしても、それが犠牲にしてきたものはないのか?」。
こうした紋切り型の疑問についても、著者は回答を用意している。余暇の時間など、QOLに関連するいくつかの指標はいずれも上がっており(17章)、幸福度も上がっており(18章)、人権意識は高まっている(15章)。
この第2部の冒頭には、オバマ大統領の言葉が引用されている。
If you had to choose a moment in history to be born and you did not know ahead of time who you would be — you didn’t know whether you were going to be born into a wealthy family or a poor family, what country you’d be born in , whether you were going to be a man or a woman — if you had to choose blindly what moment you’d want to be born, you’d choose now . — Barack Obama 2016
ざっくりと言えば「平均的に見れば、現代が一番生きやすい時代だ」というメッセージだ。それが本当であることを、著者は豊富な情報量で立証してみせたことになる。こんなに多くの分野で、データを持ってきて議論を組み立てる力量(体力)は、すごいとしか言いようがない。
ただし、個別の議論に対しては、いろいろとツッコミどころはあるのかもしれない。個人的に気になったのは、環境問題の章で原発を推進している箇所だった。炭素排出や事故のリスクなどを総合的に考えたとき、原発は合理的な選択肢だと著者は結論づけていたが、福島原発事故とその後についてもう少し身近に知っている身としては、「環境負荷や経済合理性の側面に限っても、原発は合理的と言えるのだろうか? ディテールの考察が足りないのではないか?」と思えた。他の章でも、同様の「詰めの甘さ」が指摘される余地があるのかもしれない。
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細かいところでの批判とは別に、21世紀に「啓蒙思想」や「進歩」を謳うスタンスそのものも、拒否感を引き起こしそうだ。しかしピンカーさんは敢えて、本能的反発を引き起こすような仕方で、高らかに「啓蒙思想」を打ち出している。それは、時代が「C. P. スノー」的な常識から、離れすぎているという現状認識からきているようだ。
悲観論/楽観論、科学賛美/科学批判などについて、どの立ち位置から発現するかは、「世間の空気」をどう捉えているかによるだろう。
たとえば、科学の評価。ピンカーさんはこう書く。
Science cannot be blamed for genocide and war, and does not threaten the moral and spiritual health of our nation. On the contrary, science is indispensable in all areas of human concern, including politics, the arts, and the search for meaning, purpose, and morality. (Ch.22)
一方、2018年1月に出た岩波新書(読書メモ)のなかで、科学史家の山本義隆氏はこう書く。
「合理的」であること、「科学的」であることが、それ自体で非人間的な抑圧の道具ともなりうる――山本義隆『日本近代一五〇年』p.214
前者は「科学は不当に悪者にされている」と感じ、後者は「科学は不当に持ち上げられている」と感じているからこそ、こういう書き方になるのだろう。けれども、よくよく考えてみれば、両者が言っていることは矛盾しない。「科学は良い価値観と組み合わされば、良い結果を生む」という形で、整合する。
ピンカーさんの感覚では、一般人も、知識人も、啓蒙思想的な常識を否定する方向に傾きすぎている。だからこそ、こんな本を書いたのだろうと思うし、自分の考え方(小学生の頃からなぜかもっていた「世界に対する根拠のない悲観」のようなもの)もかなり改めさせられた。
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最後に、ピンカーは本書でとりわけ「ニーチェの悪影響」に言及しているのが目につく。
Finally, drop the Nietzsche . His ideas may seem edgy, authentic, baaad, while humanism seems sappy, unhip, uncool. But what’s so funny about peace, love, and understanding? (Ch.23)
ニーチェはそんなに悪いのか?と思って、かつて読んだ本を引っ張り出してきたら、冒頭にこんな一節があった。
ニーチェは世の中の、とりわけそれをよくするための、役には立たない。どんな意味でも役に立たない。だから、そこにはいかなる世の中的な価値もない。そのことが彼を、稀に見るほど偉大に哲学者にしていると、と私は思う。――永井均『これがニーチェだ』
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もう一つだけ気になったこと。本書では、ユヴァル・ハラリ氏の「ヒューマニズムはDataismによって切り崩される」という議論への言及がなかった。本書のヒューマニズム擁護のうえでも、ハラリ氏の「Dataismの浸食」は有効な論点だと思う。著者の考え方を聞いてみたいと思った。
cf. 下記はピンカーとハラリを比較する、ちょっと面白い記事。
https://quillette.com/2018/03/18/wizard-prophet-steven-pinker-yuval-noah-harari/