最近、怒りっぽくなっている。家族からの何気ない一言にカッとなり、会社で投げかけられた自分の仕事へのコメントの一つひとつに、イラっとする。心が怒りの感情で占められてしまう。
そんなことではいけないと思う。怒りを相手に見せないようにすべきだし、できることならそもそも怒りたくない。体調を良くして、ストレス耐性を高めて、コーピングして、怒りから距離をとれるような心と体を手に入れたい。
世間的にも、怒りをはじめとした負の感情は、できるだけ制御できるのが望ましいとされる。「アンガーマネジメント」という言葉も普通に聞くようになったし、ブームになりつつある「瞑想」も、一時的な感情に心をもっていかれないようにすることが眼目の一つだ。
厄介な「感情」だが、そもそも何のためにあるのだろうか。
目の前のライオンを見て、恐怖を感じる。それにより、逃げる/身体を膠着させるなど、瞬時の身体的反応をとれる。そうした「速い判断」に感情(情動)は役立っている。進化生物学的には、そんな説明がされる。しかし、現代の人間社会では、感情(情動)は何かと暴走する。理性だけで対処できればよいのに、感情が顔を出すから問題が起こる。感情的になってはだめなのだ。
でも、本当にそうだろうか?*1
心の哲学で有名な信原幸弘先生の昨年の著書、『情動の哲学入門』は、感情(情動)の役割を根本的に捉えなおす一冊だ。本書によれば、実は感情がなければ何も始まらない。感情抜きでは「価値」がそもそも存在できない、というのだ。
***
世界は「価値的なあり方」をしている、と著者はいう。
私が目から見るものや風景、耳から聞く音や言葉の多くには「価値」が付随している。美しい、楽しい、怖い、いらだたしい、など。そうした価値は、私の脳が後から評価して貼ったラベルにも思える。いや違う、と著者はいう。価値というのは世界の側に、客観的に存在している。
私は、世界に備わった価値を知ることができる。どうやって知るか。「情動」を通して知るのだ。ここでいう情動とは、悲しい、楽しい、怖いといった名前のついた「感情」を拡張し、なんとなく好ましい、疎ましいといった名もない価値の感覚を加えたものだ*2。
私たちは、世界の価値を受け取り、情動として身体で感じる。こうした見方を、著者は「情動の身体的感受説」と呼ぶ。身体とは、世界の価値を感じるメディアなのだ。
でも、本当だろうか?*3 理性だけで価値を判断できるようにも思える。むしろ、本当の価値判断を感情が曇らせてしまうのではないか。でも少し考えてみると、理性だけで行っているように見える価値判断にも、どこかの時点で情動からの入力がある。だから、
情動は私たちにとって世界の価値的なあり方への唯一の窓
なのだと著者はいう。情動を感受する能力を備えた私たちにとって、世界はあらかじめエモいのだ*4。
***
価値は世界の側にある。
私たちは情動を使ってそれを感じる。
この考え方を出発点としたとき、さまざまな哲学的局面についてどんな問いが立ち、各局面をどう理解できるのだろうか。本書では、各章で一つのトピックを取り上げ、考察していく。
- 理性的な価値判断と情動が感じ取る価値が食い違うとき、どちらが正しいのか(第3章)
- 罪悪感を感じるべき状況とはどんな状況か(第4章)
- 自分に害を及ぼした者のへの「赦し」はどんな場合に正当化されるか(第5章)
- 「道徳」を根拠に人を批判できる理由は何か(第6章)
- 「感情労働」はなぜしてはいけないのか(第7章)
- 人工的に正の情動だけをもって生きることがなぜ間違っているのか(第8章)
- 人が自分の人生について、ときに架空の「物語」を語らなければならないのはなぜか(第9章)
本書を通じて、その一文一文は極めて平易で常識的で、中学生でもなんなく読み進められるレベルになっている。しかし、各章では必ず、こちらの常識を裏切る驚きの結論が待っている。
ラディカルな結論は、ひとえに本書の前提のラディカルさに起因している。それは、価値が世界の側に客観的に存在していて、情動はそれを受け取るはたらきだとする前提だ。
この前提に立つと、情動には「正しい情動」と「間違った情動」があることになる。世界の価値的なあり方を正しく受け取った場合には情動は正しく、そうでなければ間違いとなる。
そして、正しい情動であるにも関わらず、それを押し殺すのは間違っている。怒るべきときには怒るべきだし*5、感情労働は「してはいけない」のだ!
***
「客観的な価値」や「正しい情動」という考え方を、すぐには受け入れがたい自分もいる。情動(感情)なんて、自分のコンディション次第でいくらでも変わるように思えるからだ。うつっぽい気分ときは、何もかも価値のないように感じられる。そんな自分が、客観的な価値なるものにアクセスできるかというと、自信がもてない。
とはいえ、著者の提案する世界観は刺激的だ。それを本当に自分のものにできたら、明日から違う日常が始まる予感がするのも事実だ。
***
蛇足だが、本書のような「価値」や「情動」の見方が、人工知能研究にどのような洞察を与えうるかを考えるのは面白いかもしれない。AI研究の文脈で出てくる「価値」という言葉は、多くの場合何らかの最適化関数を指し、その最適解を求めるプロセスしばしば「知能」と呼ばれる。しかし、本書のいうように、もっとずっと多様な「価値」が世界に満ち満ちていて、人間の身体が時々刻々それを感受しているのだとすれば、現行のAIは「世界の半分」と言ってもいいその側面をまったく見落としていることになりはしないだろうか*6。
*1:「でも、本当にそうだろうか?」は、本書『情動の哲学入門』の決めゼリフ。真似してみた。
*2:この「情動」と「感情」の使い分けは著者独自のもの。たとえば神経科学者のジョセフ・ルドゥ―は、情動(emotion)を身体的反応、感情(feeling)をそれに伴う意識的な感じと区別していた(cf. https://rmaruy.hatenablog.com/entry/2015/09/05/120956)。
*3:また使ってみた。
*4:言うまでもなく、この表現はブログ筆者のもの。
*5:問題は、自分の怒りが「正しい怒り」なのかどうか、「客観的」に確かめる方法がないことだ。
*6:ただし、信原著のいう「価値」が、どれくらい自然科学的世界観のななかに組み込むことが可能なのか、端的に言えば「機械が世界の価値を感受することは可能なのか」がよく分からないので、ここに書いたことはナンセンスかもしれない。