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読書メモなど

探究メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで明らかにしたのか〈第8回(最終回):まとめ〉

約1か月にわたり、本ブログでは脳科学は記憶の仕組みをどこまで明らかにしたのか」と題した計8回の記事を連載してきました。

 

 

まだ深めきれていないことは多く残っていますが、このあたりで一区切りとしたいと思います。最終回の今回は、ここまでの振り返りと総括を行います。

第0回~第7回の振り返り

本連載を始めたそもそものきっかけは、最近「記憶を書きかえることに成功!」などというニュース(研究発表)をよく目にするようになったことでした(第0回)。そうした最先端の記憶研究がどこまできているのかを知りたいと思い、勉強を開始しました。

「記憶を書きかえる」ためには、まずは記憶が脳のどこにしまわれているのかを知る必要があります。脳の中の記憶の物理的実体のことを「エングラム」とよびます(第2回)。コンピュータの生みの親であるジョン・フォン・ノイマンも、エングラム(彼の言葉では「脳の記憶装置」)の正体について高い関心を示していました。しかし、彼の時代(1950年代)の脳科学は未発達であり、ノイマンは推測を述べることしかできませんでした(第1回)

それから半世紀以上たち、脳科学がたくさんのことを解明してきたなかで、「エングラムを解明した」といえるような研究も出てきます。本ブログでは、二人のノーベル医学・生理学賞受賞者、Eric Kandel氏と利根川進氏の研究を取り上げました。

Kandel氏が明らかにしたのは、シナプスにおける記憶の機構です(第4回)。彼は単純な神経系をもつアメフラシを使って、ニューロン間をつなぐシナプスには可塑性があることを証明しました。また、アメフラシの示す単純な学習行動を研究し、その記憶が形成される仕組みを、分子・細胞レベルで徹底的に解明しました。

Kandel氏本人はそういう言い方はしないのですが、これは「アメフラシの記憶のエングラムを突き止めた研究」と言ってもよいと思います。実際、Kandelらが突き止めた特定の細胞に電気刺激をしたり、特定のシナプスセロトニンなどの物質を与えたりすることにより、アメフラシの学習行動を制御、つまり「記憶を書きかえる」ことができます。

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それに対し、利根川進氏らの研究は、ニューロン集団レベルで記憶を支える神経活動を発見しています(第5回)。利根川ラボはマウスのニューロンの活動を操作する技術(オプトジェネティクス)を駆使して、マウスが置かれた環境の記憶を担っているニューロン群を特定しました。Kandelのシナプス研究に比べるとまだまだ研究の蓄積は浅いですが、限定された意味においてはこれも「マウスの環境記憶のエングラムを突き止めた」研究です(そして実際に、利根川ラボはそう宣伝しています)。そして、こちらもすぐさま「記憶を書きかえる/記憶を消去する」という一連の論文発表につながっています。

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では、人間の脳についてはどうかというと、アメフラシやマウスのようにはエングラムの研究は進んでいないようです。記憶にかかわる脳部位を特定する脳画像計測や、記憶の障害につながる脳損傷を調べる研究はありますが、それらが「記憶の書きかえ」につながるかというと難しそうです。一方、人間に対しては、まったく別のアプローチでの「記憶の書きかえ」が実践されています。それは、警察の誘導尋問やある種の精神療法のような方法で過誤記憶(false memory)を植え付けるという研究です(第7回)。このように、人間の記憶研究は「細胞レベルのメカニズムはわからないが、記憶の脆弱性や「クセ」についてはいろいろとわかってきている」という状況にあります。

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今後の見ていくべきポイント

今後も、記憶の研究は実験動物・人間の両方で精力的に行われていくと思います。続々と驚くような研究発表が出てくるかもしれません。そうした展開をウォッチしていきたいと思いますが、その際に個人的に注目したいのは次の2点です。

  • 階層間のギャップを埋める研究が出てくるかどうか
  • エングラムの見方を変えていくような研究が出てくるかどうか

どういうことか、それぞれ説明してみます。

注目ポイント1:階層間のギャップ

先ほどのように記憶研究の発展をたどってみると、さまざまなレベルで記憶のプロセスについての理解は進んでいるものの、異なるレベルのエングラムの知識がつながっていないことがわかります。昭和の神経科学者の塚原仲晃氏は「異なる階層で記憶のメカニズムを明らかにしなければいけない」と言っていましたが(第3回)、それらを統合するという課題が残っていると言えそうです。

わかりやすいのは人の記憶とマウスの記憶のギャップですが、利根川ラボの「エングラム細胞」とKandelのシナプス記憶の間にも階層間ギャップがあります。というのも、利根川ラボが見つけた海馬の「エングラム細胞」がシナプスレベルでどのように作られるのかは、まだほとんど分かっていないからです。

話をうんと単純化して、アメフラシの記憶・マウスの記憶・人間の記憶のそれぞれのエングラムが、シナプスレベル・ニューロン集団レベル・心理学レベル(+脳画像レベル)において解明できていると考えてみます。各階層には、それぞれ「記憶を書きかえる方法」(=記憶改変技術)が存在します。

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アメフラシの記憶とマウスの記憶、マウスの記憶と人間の記憶の間には、断絶があります。今後出てくる研究のうち本当の意味で革新的と言えるのは、この階層間ギャップを埋めるような研究ではないかと考えます。

なお、ここで注目したいのは、それぞれの階層の記憶改変技術はその他の階層にも「使ってみる」ことはできるということです。具体的には、マウスの脳に電極を刺して刺激をしたり、(今は不可能ですが)人の脳にオプトジェネティクスを用いたりすれば、「何か」は起こります。しかし、エングラムが明らかになっていないために、その影響は予期できません。

筆者の個人的な予想として、人間の脳のエングラムが何らかの形で解明できるとしてもそれは大分先のことであり、それよりも先に、動物でうまくいった記憶改変技術が人間に試されてしまうのではないかと思います。また、そもそも、人間の脳のエングラムが動物の脳の研究で解明できるのか、という疑問もあります(第6回)。なので動物研究を「認知症治療」「記憶力増強」などに安易に結び付ける宣伝文句には、警戒したいところです。もちろん、細胞レベルでの機序がわかっていなくとも安全に使える治療法はありますが、しかし、現在マウスなどで行われているような「脳を開いて光を照射」のような侵襲性が高い技術については、使用が先走らないように私たち非専門家も注意してみていく必要があると思います。

注目ポイント2:エングラム観のアップデート

それに加えて、今回の勉強を通して感じたのは、少なくとも人間のエピソード記憶に関しては「エングラム」の捉え方を見直す必要があるのではないか、ということでした。

本連載もフォン・ノイマンから出発しましたが、私たちはエングラムをどうしても「コンピュータのメモリ」になぞらえがちです。この、いわば「素朴なエングラム観」によれば、過去のある時点の経験がエングラムとして脳に刻まれ、あとからそれを読み出すことで思い出すことができます。また、エングラムを外から入れ替える操作を行えば、「記憶を書きかえる」ことができます。

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しかし、第7回で見たのは、人間の記憶はもっと動的なものだということでした。以下のような点で「素朴なエングラム観」は不十分だと思われます。

  • 脳の中にはエングラムのネットワークが存在する。新しい記憶は既存の記憶に関連付けて記銘される
  • 想起はもとの経験の厳密な復元ではない。また、想起すること自体がエングラムを書きかえる
  • 一つのエングラムだけを取り出したり書きかえたりすることはできない
  • 人と話したり文章を書いたりするなかで、エングラムは時々刻々変化していく。その変化が、場合によっては過誤記憶につながる

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こう考えると、第0回で考えた下の絵のような「記憶の書きかえ」はナイーブすぎたことが分かります。

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人間の記憶の研究から見えてくるのはこのような「アップデートされたエングラム観」である一方、実験動物の研究では、どうしてもコンピュータになぞらえた「素朴なエングラム観」に基づいていることが多いような印象があります。今後、実験動物でも、より複雑で動的なエングラム観に基づく研究が出てくるかどうか、注目していきたいところです。

書けなかったこと

今回の連載で書こうと思って書けなかったことが二つあります。

一つは、記憶の計算論モデルの話題です。脳の記憶の理論的研究がどれくらい進んでいるのかや、それが人工知能にどの程度応用されているのかを調べてみたかったのですが、時間が足りませんでした。

もう一つは記憶の哲学についてです。「そもそも自然科学の方法で記憶を研究することに限界はないのか」という問題です。Kandel氏は「意識」まだ手に負えないから「記憶」を研究テーマに選んだと書いていましたが、本当に「記憶」は「意識」よりも簡単なのでしょうか。人間のエピソード記憶に関しては、「意識」と同等レベルの難しさがあるようにも思えます。記憶と脳の関係について、哲学者はどんなことを考えてきたのか、調べてみたい思いがあります。

今後、もし時間があれば、これらについても調べて書いてみたいと思っています。

おわりに

一か月間、文献を集め、読み込み、咀嚼していく作業はとても楽しいものでした。専門家にとっては常識であるようなことをなぞったにすぎませんが、個人的には大変勉強になりました。

また、読んでわかったことを「文章で書いておく」ことの大事さも痛感しました。せっかく本や論文を読んでも、時間がたつとすぐに内容を忘れてしまいます。その都度、いるかいないかわからない「架空の読者」に向けたブログを書くことで、自分なりの理解が固まり、そこを足掛かりに次の勉強に移っていけるのを感じました。もしかしたら「単著で本を書く」というのは究極の記憶術であり思考整理方法なのかな、などということも思いました。

読んでくださった皆様、ありがとうございました。引き続きご感想・ご指摘をいただければ大変ありがたいです。

参考図書

参考にした文献のうち、書籍として入手可能なものを挙げておきます。

  • フォン・ノイマン(著)柴田 裕之 (訳)『計算機と脳』ちくま学芸文庫, 2011. 
  • 塚原仲晃『脳の可塑性と記憶』岩波書店, 2010.
  • 池谷裕二『記憶力を強くする 最新脳科学が語る記憶のしくみと鍛え方』 講談社, 2001.
  • 榎本博明『ビックリするほどよくわかる記憶のふしぎ』SBクリエイティブ, 2012.
  • 理化学研究所 脳科学総合研究センター『つながる脳科学 「心のしくみ」に迫る脳研究の最前線』講談社, 2016.
  • ジュリア・ショウ(著)服部 由美 (訳)『脳はなぜ都合よく記憶するのか 記憶科学が教える脳と人間の不思議 』講談社, 2016.
  • ダニエル・L. シャクター (著) 春日井 晶子 (訳)『なぜ、「あれ」が思い出せなくなるのか―記憶と脳の7つの謎』日経新聞社, 2004.
  • イアン・ハッキング(著)北沢 格(訳)『記憶を書きかえる 多重人格と心のメカニズム』早川書房, 1998.
  • D.O.ヘッブ(著) 鹿取 廣人ほか(訳)『行動の機構――脳メカニズムから心理学へ(上)(下)』岩波書店, 2011.
  • Kandel, Eric R. In search of memory: The emergence of a new science of mind. WW Norton & Company, 2007.
  • LeDoux, Joseph. Anxious: Using the brain to understand and treat fear and anxiety. Penguin, 2015.
  • Hasselmo, Michael E. How we remember: brain mechanisms of episodic memory. MIT press, 2012.
  • Dittrich, Luke. Patient H.M.: A Story of Memory, Madness, and Family Secrets, Random House, 2016.