重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

読書メモ、探究メモなど。

読書メモ:『想起:過去に接近する方法』(森直久 著)

本書は、「記憶」や「想起」を研究テーマとする心理学者が、過去1世紀の記憶をめぐる学説史や、自身の実験研究をたどりながら、ギブソンの知覚理論を敷衍した「生態学的想起論」という独自理論を提示する学術書である。

難解だがスリルがある。著者の長年の思索や研究が煮詰められたような内容であり、一文ごとに迫力がある。ぐいぐい引き込まれた。

私が2読、3読した程度では到底十分な読みには至れないのだが、理解しえた範囲で読書メモを残しておく。

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本の内容に入る前の助走として、「最近思い出したことがないこと」を思い出してみよう。なんでもいい。私の場合、たとえば「会社の同僚のSさんとの初対面」(さっき一緒に昼ご飯を食べた)はどうだろう。

やってみる。前職のころから面識のあるSさんと初めて会ったのは、たぶん9年くらい前のこと。神保町で開催された同業他社との飲み会に参加した5,6名のなかにSさんがいた。Sさんとは少し言葉を交わした程度だった。一次会がお開きになり、私は帰宅。Sさんはたしか、他のメンバーとラーメンを食べに行った(私は「今からラーメンは無理だ」と思った)。

……こうした想起を私がするとき、何が起こっているのだろうか。

「この記憶はどこから出てきたのか?」と問えば、標準的な答えは「私の脳の中から」となるだろう。「Sさんとの初対面」という体験に基づく脳内の「記憶痕跡」があり、それが私が上で自分に問うた質問をきっかけに呼び出された。そして私はそれを先ほど言語化して、タイピングした。

もちろん、勘違いの可能性はある。飲み会の会場は神保町ではなかったかもしれないし、私が最初にSさんに会ったのはこのときではなかったかもしれない。でも、そうしたエラーも含めて脳内痕跡に帰すことができる。脳の中の「時間の経過とともに劣化する不確かな痕跡」によって、私たちは正しかったり正しくなかったりする記憶を思い出すのだ。

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森直久『想起:過去に接近する方法』では、以上のような「体験と同型のものが記憶に存続している」という記憶観を「記憶痕跡論」と呼び、乗り越えるべきものとする。かといって、想起が現在の社会・文化によって言語的に作り出される側面に着目する「記憶構築論」も取らない。代わりに著者が打ち出すのが、J. J. ギブソンの「生態学的知覚論」をひな型にした、生態学的想起論」である。

ギブソンが「見ること」について行なったことを、「思い出すこと」(想起)について行なおうとするのが本書の目的である。(p.16)

なぜ、記憶痕跡論はだめなのだろうか。それは、記憶痕跡論が「受動的な人間を対象とした実験」から得られた記憶観だからである。

第1章は、記憶の自然科学的研究の創始者であるエビングハウスの話から始まる。彼の実験では、被験者は実験室の統制された環境のなかで無意味な音節を覚えるといったものだった。そうした条件統制のなかで「忘却曲線」が得られることになる。

その後も、心理学は行動主義、認知心理学へと発展していくが、「記憶研究のスタイルに目立った変更はな」く、そのことが記憶痕跡論を続けさせてきた。

エビングハウスが、記憶を自然科学的研究の俎上に載せる際に苦慮して考案した実験手続きが、記憶痕跡論を強化し、それが彼と同様の実験手続きの使用につながり、そしてそれが再度記憶痕跡論を強化する。この循環的な、相互強化関係が140年にわたって、続けられているのだ。(p.45)

しかし、実世界では私たちは能動的に環境を動き回ったり、能動的に言語や身体を使いながら想起を行う。想起とは、そうした能動的な行為である。

第2章、第3章にかけて、エビングハウスの記憶観に異を唱えた20世紀前半の心理学者フレデリック・バートレットの「スキーマ」理論、1970年代に「日常記憶研究」を提唱したアーリック・ナイサーの研究をたどりながら、生態学的想起論への輪郭を与えていく。

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実験室での記憶の研究が不適であるとするならば、どのように想起に迫っていくことが可能なのだろうか。エビングハウス式の実験設定と真逆のものとして、著者が挙げるのは、著者らも関与した取り調べの供述分析である。

心理学者である著者らのもとに、「この被疑者が警察に語ったことは、実際の体験なのか作話なのかを判別してほしい」といった依頼がくる。当然そこには、参照できる「正解」がない。供述の特徴から何かを言わなければならない。著者らは実際に、足利事件の調査から、「動作主交代」といった語り方の特徴を見出している。

その供述分析の経験からヒントを得て、著者は「ナビゲーション実験」なる実験を設計・実施する。これは、被験者となってくれる学生に、初めて訪れる大学のキャンパスを歩き回る課題を行ってもらい、それをあとで「取り調べ役」の被験者に伝えるというもの。同時に、自分が実際には歩き回っていないキャンパスについて、別の人の報告をベースにあたかも自分が行ったかのように装って報告する。こうした実験から、著者は、「直接体験」と「伝聞体験」(実際には体験していない体験)の想起の語りの特徴の違いを見出している。

証言研究、供述の信用性研究、そしてナビゲーション実験は、「生きている想起」を解明するために欠けていたもの、すなわち身体、環境、時間(環境内の移動)を取り戻してくれた。(p.183)

第5章では、以上の学説史や実験研究を踏まえた、著者の生態学的想起論が披露されていく。ここの部分は正直理解が追い付いていない。重要なのは、

想起は、「過去の自己(身体/環境)」と「現在の自己(身体/環境)」の二重化状態で予見性の差異を知覚することであるので、基本的に探索的活動である。(p.213)

といったあたりだろう。行為としての想起が現在と過去における「予見性の差異」を感じることであり、「予見性に差異があること、あるいは同じ環境から知覚されるアフォーダンスに差異があること」が、「過去感や変化感をもたらす」という(p.203)。

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全く不十分な読みだが、ひとまずメモを終える。

本書で痛感したのは、「記憶/想起とは何か?」という記憶観が、記憶をどのような実験的な設定で研究するかに、強く依存するということだ。

  • コントロールされていた実験室で、実験者が正解を知っていて、被験者に無意味な記号を記憶してもらう
  • 目の前の人が言っていることが過去の体験に基づくものなのかどうかを、著述の内容や仕方から判断する

という二つの設定の下では、記憶や想起の捉え方がまるで変わってくる。もちろん両者から得られる知見はそれぞれある条件で有効な知見として両立しうるものだが、そのうえでどちらがより「記憶/想起」の本質に迫っているといえるのかというせめぎあいは正当かつ大事な議論として残る。著者が格闘しているのもその水準なのだろうと思う。

「供述は社会的・制度的に構成されています」ではすまない状況で、また「記憶は脳にあります」と言っても頭を開いて確かめることができない状況で、供述者の体験についていかにして確かなことを言うかが、すなわち記憶痕跡論と記憶構成論をいかに越えるかが、我々の課題であった。(p.243)

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たまに実家に帰ると、実家にいた幼少期の記憶が思い出しやすくなったりする。想起時に置かれた環境が、想起の内容やそのしやすさに影響している実感はたしかにある。冒頭のSさんとの記憶も、Sさんと話したばかりであることや、職場から2駅のところに神保町という町があることが作用していてもおかしくない。

本書から敷衍して考えてみたいことは多い。一つは、「環境」としてのテクノロジーの存在について。「正解がない」という想定が、テクノロジーによって変わる可能性はないだろうか。たとえば、冒頭の飲み会のエピソードについても、ハードディスクのどこかに当日の写真が眠っているかもしれないし、その気になればスマホGPSのログが出てきたりしうるかもしれない。昨今、私たちの「記憶」は、そうした「記録」にギブスのように取り囲まれている。そうした状況下で、私たちの想起をめぐる環境がどのように変化し得、その変化を能動的に活用する手段にどのようなものがあるのか。生態学的想起論の視点を得てこそ考えられることは多いように思う。