私が常に興味があることに一つに、「研究者がどんなモチベーションで研究に向かっているのか」というのがある。何かの「専門」をもつ人と話すとき、「なぜその分野を選んだんですか?」と必ず聞いてしまう。相手がその道四十年の教授であっても、研究室に配属したばかりの就活生であってもだ。研究者たちが研究へ駆り立てられる理由を知りたい。その好奇心が、このブログを続ける原動力の一つにもなってきた。
私自身は研究者ではないので、ふだんその興味のベクトルは他人に向かう。でも、20台前半のわずか数年間、私自身にも「研究者になるかもしれない」と思っていた時期があった。ということを、今日思い出した。何気なく出身研究室のウェブサイトを開いたせいだ。そこには、私が修士1年生のときに書いた、研究への決意のような文章が残っていた。
一人の大学生が、脳科学を志すことを決めた「原初の問い」としては、十分に頷ける内容だった。自分なんだから当たり前か。と同時に、このときの鮮烈な「知りたい」という気持ちが、いまの自分のなかに(多少希釈されているにしても)残っているのも感じた。
いつまで研究室サイトに載せてもらえるか分からないので、サルベージの意味も兼ねてここに転載しておくことにする。
こういうモノローグを、なるべく多く集めてみたい。なぜあなたは、人工知能/素粒子物理/神経生理学/半導体工学/科学哲学/文化人類学/…/を研究しているんですか? どんな問いが、あなたをこの分野に進ませたのですか?
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メモ:僕の脳が脳について分かりたいこと
過ぎ去ってしまった時間はどこにあるのか。
よく考えてみれば、 過去はどこにもない。 今、この瞬間に存在するものが全てだ。たしかに、その今、ここに残された世界に、過去の痕跡を認めることが出来る。 例えば、一年前に僕が広島に旅行に行った、という事実は、僕の記憶を別にしては、デジタルカメラのメモリの内部状態に、その痕跡をとどめている。 過去を留めおく方法として、文章、録音、録画、写真など、さまざまな方法を人間は手にしている。が、今でも、人間の一番頼りにしているのは、自らの脳ではないか。 例えば、(大きな話にしてしまうが)アウシュビッツへの強制連行が歴史の中で確かに起こったこと、あるいは日本が過去にアメリカと戦争したこと、をどうして私たちは確信できるのだろうか。たしかに多くの文献、写真が残されている。が、今の技術をもってすれば、人工的な偽の痕跡を作ることも可能だ。 「それは偽物だ!」と最終的に判断するのは、実際にそれを体験した人間の記憶。ひとりひとりの記憶は頼りないものであるにしても、人間の集合的な記憶に、大きな信が置かれている。 過去は、私の頭蓋骨の中に存在する! では、過去は、脳の中の神経細胞に、どのような痕跡を残しているのか。
こんな文章をいつかのブログに書いた。 20歳くらいの時に僕はこのような脳の不思議に目覚め、脳の研究をしてみたいと思うようになった。そして、東工大の研究室へ進学し、何とか脳の研究にありつくことができた。そのことがとてもうれしい。しかし、「脳の研究」と言っても、1人の研究者あるいは1つの研究室が扱えるテーマはごくごく狭いものだ。だから、日々の研究は、その狭い領域に捉われて、ややもすると、そもそもどうして脳を研究しているのか忘れてしまいそうだ。ただでさえ、「脳の不思議」の感覚は、常に感じられるものではない(そんな感覚は、日常生活には役に立たないから)。そこで、心に余裕があるうちに、この文章を残しておくことにした。脳について、何が不思議なのか、何が知りたくてやっているのか、これを見ればふっと蘇るような文章にしたい。
心はどこにあるのか?
昔むかしでは、人の心の在り処は心臓や他の臓器にあると考えられていたこともあるようだ。でも現代人は、心は頭蓋骨の中にあり、「脳が考えている」というアイディアに慣れ親しんでいる。自分の脳の存在を意識し始めると、改めて脳の面白い機能を発見することがある。例えば何かをきっかけにして、記憶が鮮明にフラッシュバックする。冬の寒空から春への変わり目の時期に、花の匂いを嗅ぐと、突如として、中学校に入学したての気分が蘇ったりする。「学ランを着て桜の咲く通学路を友達と歩く感じ」なんていうものが、今の今までこの脳に保存されていたとは! そしてその「感じ」は間違いなく、春先の花の匂い、という嗅覚刺激とリンクしていた。
こんな風に、心理学実験をしなくても、生きているだけで発見できることもあるのだ。 思いがけない記憶の結びつきのもう一つの例。僕はよく携帯音楽プレイヤーで講演のポッドキャストを聞き流しながら自転車に乗ったりする。たとえば桂枝雀の落語だとする。それで、後からもう一度その音声を部屋の中で聞いたときに、頭の中で、枝雀口座のそのくだりを一回目に聞いたときに眺めていた自転車からの風景が思い浮かぶのだ。僕の脳は自転車に乗りながら見た風景を、音声付で録画していたとでもいうのだろうか。
もう一つの例は、聞きなれたお気に入りのポップソングを音楽プレイヤーで聴いているときのことだ。何かの用事のために、曲の途中で停止ボタンを押す。用事が済んだので、また再生ボタンを押す直前に、頭の中でこれから聞く唄が鳴り始めていて、しかも音楽プレイヤーの途中で止まっていた歌の出だしとばっちり合うのだ。唄がどこまで進んだのかという情報まで、脳は覚えているということだ。(音楽プレイヤーの例では、この記憶の連合がどのくらいの時間保たれるのかということを、自分を実験台にして調べられるかもしれない。でも、これは無意識から沸きあがる現象なので、意識し始めたら上手く行かない気もする。それに、内観に頼った報告は科学としては認められない。)
脳のことを考える上での不安がある。もし、万が一、僕が脳と心について「分かった」という感覚を持つことができたとする。怖いのは、その「分かった」ことに対応する脳の内部状態は、すぐに違う状態に遷移してしまうことによって、再び分かっていないことになってしまうかもしれない、ということだ。もし「私は分かっている」という感覚(feeling of knowing)だけが残ってしまうようなことになったら、もっとたちが悪い。ここに見られるのは「分かるとはどういうことか自体を分かりたい」という自己言及だ。脳について考えると、いつでもこんな出口のない円環が顔を出す。それから「クオリア」や「自己」「意識はなぜ生じるか」など、とても既存の科学で扱えるとは思えないハード・プロブレムの存在がある。
しかし、そんな円環やハード・プロブレムに立ち向かわなくても、十分に面白い問題は残る。例えば、記憶の内容とニューロンネットワークの構造との完璧な対応をつけられる日は来るのか? 極端には、「あなたの中学生の時の記憶は、こことここのシナプスによって表現されています。」とか、「ビートルズのこの曲のコードは、ここにしまわれています。」というようにいえるようになるのか? このような問はぎりぎり科学の射程内で扱えるのではないかと思う。 科学で何かを説明しようというとき、「科学で何かを説明するとはどういうことか」を分かっていることが重要だ。自身の方法論に対するメタ認知が必須だということ。それがなければ、一流の科学者とは言えない。
最近リチャード・ファインマンの生前のインタビューがYoutubeに出ていた。それはFeynmanが身近な現象を、物理の言葉で活き活きと語るというものだった。インタビューアーの素朴な質問に対して、物が燃える現象やゴムが弾性を持つ理由を、分子がぶつかり合って、引っ張り合う様として説明してみせていた。しかし、インタビューアーが同じノリで、「磁石が反発するのは、どうしてですか」と聞いたとき、Feynmanの目つきが鋭くなった。質問に直接答える代わりに、「科学の質問をするときには、どんなレベルの説明を求めているのかを、明らかにしなくてはいけない」という抽象的なことをしゃべり始めた。Feynmanがこんなことを言うのは、磁石が反発し合う理由は、下のレベルの歯車によって説明できるのものではなく、自然の根源的な4つの力の一つである「電磁気力」の作用としか言いようが無いからだ。(もちろん、Feynman自身が作った量子電気力学QEDを使って、「光子を交換している」という説明も出来たはずだが、そのような答えをインタビューアーは期待してなかった。)
脳に関する理論では尚更このことが重要になると思う。つまり、脳をどのレベルで説明したいのか、ということが大問題になる。あらかじめ、ルールあるいは禁じ手を定めているのではないだろうか。だから、あらかじめそのルールに自覚的になっておくことが重要だと思われる。例えば、インタビューを受けていたときのファインマンは、「分子・原子の離合集散という原理で、マクロな物理現象を描き出す」というルールに従っていたのだ。そこでは、量子力学を持ち出してはいけなかった。一般聴衆が「分かった」と納得できるような説明原理しか許されていなかったのである。
それでは、現在の脳神経科学において、脳の機能を説明するのに使っていい原理とはなんだろうか。 よく、科学のあらゆる探求は、入出力のついたブラックボックスに抽象化して考えられる。ブラックボックスにはいくつかのダイアルやボタンがついていて、それを操作することによって何らかの出力が得られる。われわれは、この不思議な箱がどうやって作動するのかについて思いを巡らせる。まず、異なる組み合わせで何度もボタンを押してみて、そのときの出力を記録する(実験)。その入出力関係を上手く説明するような物語をつくる(モデル化)。モデル化が上手く行けば、このブラックボックスの動作を模倣したデバイスを自分でも作ることが出来るかもしれない(自然法則の工学的応用)。あるいは、未だ押したことのないボタンに対する応答を予言できるかもしれない(予測)。 本当は、物語(モデル)には何でも使っていいはずだ。例えば、ブラックボックスのAボタンを押すと、箱の中で小人Aが起こされて、決められた仕事をして、その結果として出力A’が得られるのだ、という神話的な説明も可能だ。しかし、このような説明は正統な科学としては認められない。科学には、使っていい説明の中にある程度のルールあるいは方針があるようだ。
- ブラックボックスを開けることができたとき。中には、小さなブラックボックスがたくさん入っている。大きなブラックボックスについての物語を作るときには、中の小さな ブラックボックスについて知られている入出力関係を無視してはいけない。
- なるべく少ない言葉で説明しなければいけない(自然法則の普遍性)
もっとも簡単なブラックボックスを考えてみる。この箱には、二つのスイッチA、Bと、2つの電球A、Bがついている。入出力関係は、スイッチを押すと対応する電球がつく、という単純なものだ。このような箱なら、瞬時にモデル化することが出来る。つまり中には電池と、スイッチと電球を一対一でつなぐ配線が入っているだけだ。このモデルで系は完璧に理解できるし再現できる。(もしかしたら、中には壮大な「ピタゴラスイッチ」が仕組まれているかもしれないが、入出力を見る限りこの単純なモデルで十分。)
昔から科学者たちは脳というブラックボックスの解明に精魂を捧げてきた。まずとられた方法は、外部刺激に対する人や動物の行動の対応を見ると言う、行動主義心理学的な方法論だ。脳の解剖学的な知識や、測定技術が発達していない時代には、このように脳全体をブラックボックスと見る以外になかった。しかし、近年では、われわれはさまざま方法を用いてブラックボックスの内部に切り込むことが出来るようになった。脳の活動を測定(fMRI,NIRS,EcoG,MEG,電気生理的手法etc)から、脳の一部を切り取ること、薬理的に阻害すること、遺伝子操作まで、多様な方法で脳に介入することが出来るようになっている。そうすると、「脳全体というブラックボックス」よりも少しレベルを下げた(つまり入出力対応のつけやすい)サブブラックボックスへ問題設定を絞ることができる。それぞれの研究室は、独自の手法と設備で、おのおののサブブラックボックスの解明に挑んでいる。(これは、海馬・小脳・後頭葉皮質など脳の特定の部位を研究するということだけでは無くて、特定の伝達物質とか、特定の刺激の処理経路など、さまざまな問題の切り方がありうる。)最終的なピクチャーは、そうやって得られた断片的なブラックボックスについての何万という知識を、統合する(あるいは少なくとも無視せず反証する)形で得られなければならないはずだが、そんな日は来るだろうか?
脳研究の危うさ。全ての研究論文には、心理実験や生理実験の結果に加えて、その解釈が付け加えられる。例えば、ある刺激Aに対して被験者の扁桃体の活動が有意に増加した、という結果が出たとする。一方で、扁桃体は情動emotionをつかさどる脳の部位だと言うことが知られているので、この実験から、「刺激Aは情動を引き起こす」という解釈が引き出される。しかし、この解釈が正しいとは限らない。なぜなら、扁桃体の活動は情動を引き起こす以外の機能も担っているかも知れないから。 実験結果自体は、その実験の手続きが妥当である限りは、常に正しいと言えるが、そこから引き出す解釈には疑って掛からなければならない。そうしないと、誤った解釈の上に別の解釈が積み重なり、理論負荷性が蓄積して、科学全体が頓珍漢な方向へミスリードされて行ってしまう危険がある。僕らが生きていた頃に真とされていた科学的成果は、100年後から見たら何の価値もなかった、ということになりかねない。だから、脳研究の成果について読むときは、解釈を鵜呑みにしないで、どんな実験が行われたのかを正確に理解し自分の頭でその意味を考えなければいけないのだろう。
脳研究のモチベーション、可能性とは?
- 人間の知能並みの入力-出力の再現するために、ブラックボックスの中を開けてリバース・エンジニアリングする→人工知能への応用
- 老いや、病気のメカニズムを明らかにし、望ましい脳の状態に戻せるようにする
- 人間の脳の能力を増強する
支離滅裂な文章になってしまいましたが、まだ研究を始めたばかりの現時点での私の脳は、このようなことを考えています。