重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

読書メモ、探究メモなど。

探究メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで解明したのか? 〈第5回:利根川ラボが発見した「エングラム細胞」〉

前回は、Eric Kandelによるアメフラシの研究を取り上げました。Kandel氏は、ミニマムな神経系をもつアメフラシを研究対象に選び、記憶の基本的メカニズムとしての「シナプス可塑性」について多くのことを明らかにしました。

1970年代以降、分子・細胞レベルの記憶研究は花開きました。ネズミなどの実験動物で研究が進展しただけでなく、fMRIという非侵襲的な測定技術が出てきたことで、人間でも本格的な研究が可能になりました。このブログでもそうした研究の歴史を簡単に追ってみようと思ったのですが、ここ50年の記憶研究の蓄積は想像したよりも膨大でした。それだけでなく、相反する説が並立していることもあり、それを簡単にまとめるのは至難の業だと思い知りました。

そこで、思い切って時計の針を進め、いま研究の最前線で行われていることを見たいと思います。具体的には、今回は、利根川進氏の研究室(以下「利根川ラボ」)が行ってきた一連の研究を取り上げます。理化学研究所アメリカのMITに拠点をもつ利根川ラボは、現代の記憶研究を牽引している研究室の一つと言ってよいと思います。彼らの研究成果の意味を理解したいということが、このブログを書き始めた動機の一つでもありました。

記憶研究のフロンティア

Kandelがシナプス可塑性を見つけてから約半世紀たったいま、記憶研究のフロンティアはどこまで来ているのでしょうか。Kandel自身、2014年の総説論文*1の中で、次のように言っています(ちなみにKandel氏はまだ現役で研究をしているようです)。記憶研究にはまだまだオープン・クエスチョンが残っていると述べたうえで、こう書いています。

Recently developed tools for calcium imaging of large populations of neurons in behaving animals combined with optogenetic manipulation and activity-based genetic modification, supplemented with computational approaches, will likely cast light in the foreseeable future on these critical questions in memory research. (意訳)最近では、様々な実験ツールが開発されている。行動中の動物における大規模なニューロン集団からのカルシウムイメージング。光遺伝学的な操作技術や活動依存的な遺伝的改変技術。こうしたツールに計算論的なアプローチを組み合わせることによって、近い将来、記憶研究の核心的なクエスチョンが解明され始めるだろう。 

ここでKandelが言及している技術は、噛み砕いていえば、

  • (一つや二つではなく)たくさんのニューロン活動を同時に
  • (スライス標本や麻酔下などではなく)生きている動物から測定するとともに、
  • (全脳の細胞を無差別にではなく)特定のニューロンを狙って、恣意的なタイミングで活動をコントロールできる

ような技術です。こうした要件を満たす実験が、「カルシウムイメージング」や「オプトジェネティクス」とよばれるテクニックにより実現しており、Kandelがアメフラシの研究を始めたころには考えられなかったような記憶研究が可能になっています。なお、ここで「計算論的アプローチ」(computational approaches)の必要性についても触れられていることは注目に値すると思います。

そして、まさにこのようなツールの開発・利用で先駆けているのが、利根川ラボということになります。彼らはこのような技術を駆使して、Nature、Science級の研究成果を次々と出しています。以下、2012年以降に利根川ラボから出されたプレスリリースをいくつか拾ってみます。

  • 2012年03月23日 記憶が特定の脳神経細胞のネットワークに存在することを証明 ―自然科学で心を研究、心は物質の変化に基づいている―*2
  • 2013年07月26日 記憶の曖昧さに光をあてる -誤りの記憶を形成できることを、光と遺伝子操作を使って証明*3
  • 2014年08月28日 光で記憶を書き換える -「嫌な出来事の記憶」と「楽しい出来事の記憶」をスイッチさせることに成功-*4
  • 2015年05月29日 記憶痕跡回路の中に記憶が蓄えられる神経細胞同士のつながりの強化は記憶の想起には不要-*5
  • 2015年06月18日 光遺伝学によってマウスのうつ状態を改善 ―楽しかった記憶を光で活性化―*6 
  • 2016年03月17日 アルツハイマー病で記憶は失われていない可能性アルツハイマー病モデルマウスの失われた記憶の復元に成功-*7
  • 2016年09月30日 他人を記憶するための海馬の仕組み -記憶痕跡(エングラム)にアクセスし、社会性記憶を操作する-*8 

これらのプレスリリースのタイトルの内容をひとことで要約するとすれば、

  • 脳内に「エングラム細胞群」を見つけ、それを操作することで「記憶に介入」できるようになった

となるでしょうか。

具体的にはどんな実験がなされたのでしょうか。プレスリリースの説明が十分わかりやすいので、ここではごく簡単に実験の概要をまとめてみます。

  • 扱う動物はマウス。
  • 扱う脳部位は海馬(主に歯状回とCA1領域)。
  • 記憶の課題としては、主に「状況依存的恐怖条件づけ」(context-dependent fear conditioning)を採用。マウスをある部屋に入れ、脚への電気ショックを与える。すると、マウスはその部屋に入っただけで「すくみ行動」(freezing)をとるようになる。この記憶の形成には海馬が関わっていることが知られている。
  • 遺伝子改変したマウスをつくる。このマウスは、
  1. 特定の時間に活動した海馬のニューロンにチャネルロドプシンというタンパク質を発現させることができ、
  2. チャネルロドプシンが発現した細胞群は、ブルーライトを照射することで強制的に発火させることができる
  • この方法を使って、マウスが部屋を探索しているときに活動した細胞だけを標識しておき、その部屋で恐怖条件づけをする。あとからライトを当てて細胞群を活動させると、別の部屋にいても「すくみ」が生じる。これは、もとの部屋のことを思い出したためと考えられる。ちなみに、恐怖刺激を与えた部屋とは別の部屋でチャネルロドプシンを発現させたマウスは、ライトを当てても「すくみ」を生じない。

この方法を使って、2012年の論文では、海馬の歯状回という部位に、部屋の記憶の「エングラム細胞」を見つけたとしています。その後の論文では、部屋と結び付ける刺激を電気ショックではなくオスのマウスがメスのマウスと一緒に過ごすという「楽しい記憶」に変えたり、あらかじめマウスを「うつ病」や「アルツハイマー病」の状態にしておいてから記憶を操作するとどうなるか、などといった様々なバリエーションの研究が行われています。また、2016年の最後の論文では、恐怖条件づけ以外の実験パラダイムの研究成果となっています。これは具体的には、「他のマウス個体についての記憶を、海馬CA1領域への操作で書き換えることができた」とする内容で、ここにきて研究が新たなステージに入っていることを窺わせます。

実験の解釈

さて、2012年の研究で「エングラム細胞が見つかった」と言えるのはなぜでしょうか。

ある神経活動「a」が、脳の何らかの機能「A」の原因となっていることを実証するためには、

  • 神経活動aを阻害すると、(ほかの機能には影響を与えずに)機能Aが生じなくなる 
  • (他の神経活動は同じままで)神経活動aを引き起こすと、機能Aが生じる 

ことの両方を示す必要になります。前者は「loss of function」の証明、後者は「gain of function」の証明と言われます。この両方が示せてはじめて、aがAを引き起こす必要十分条件だといえるようになります。

2012年の研究で明らかになったのは、海馬歯状回の特定の一群の細胞を活動させると部屋の環境と条件づけられているはずの「すくみ行動」が引き起こされる、ということでした。このすくみ行動を「部屋の記憶」と読み替えれば、

  • 細胞群が活動 → 部屋の記憶が呼び起こされる

となります。よって、これは状況依存的恐怖条件づけ課題の記憶についての「gain of function」を証明した研究といえます。

では、loss of functionの証明はどうかというと、この論文内でそれが証明されているかどうかはちょっとわからないのですが、少なくとも他のいくつかの研究において、「海馬の細胞群の活動を止めると記憶が失われる」ことが分かっているようです(エングラム細胞について様々な研究は利根川氏の2015年のレビュー論文*9で網羅的に紹介されています。)

以上の証拠を合わせると、海馬の一群の細胞の活動は、ある種の記憶の想起を因果的に引き起こす、つまり「エングラム細胞」である、といえるわけです。ここで、「一群の細胞」とは記憶が形成されるときに活動していた細胞なので、記憶の符号化と想起が同じ場所で行われるということも分かります*10

海馬という「記憶工場」について分かったこと・分かっていないこと

うーん、理屈はわかるけど、それでエングラムを突き止めたと言えるのだろうか…?

この研究について初めて知ったとき、正直、筆者はそんなふうに思いました。

結局、一連の研究は何を明らかにして、まだ何がまだ分かっていないのでしょうか。あれこれ考えた結果、筆者は以下のような理解にたどり着きました。

海馬を「工場」に見立てます。「記憶工場」である海馬は、「経験」という原材料をもとに、記憶という「製品」をつくります。

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「A」という原材料(経験)に対しては、製品(記憶)「A」を、原材料「B」に対しては製品「B」が出力されます。

私たちはこの工場の仕組みに興味があるのですが、その中身はブラックボックスです。分かっているのは、間違いなく「製品」を作っているのがこの工場であるということ。なぜなら工場を破壊すると、製品(=記憶)が作られなくなるからです。もう一つ分かっているのは、この工場の中には、たくさんの従業員(=ニューロン)が働いていることです。従業員同士で誰と誰が連絡を取り合っているか(=シナプスを形成しているか)もある程度分かっています。しかし、従業員一人ひとりが何をしているのかはまったく分かりません。

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さて、「エングラム細胞」をめぐる一連の研究が達成したのは、この「記憶工場」で言えば

  • 各製品を作っている従業員のチームが特定できた

ということではないでしょうか。なぜそれが分かるかというと、

  • そのチームAが全員欠勤すると、製品Aができなくなる
  • チームAを強制的に働かせると、製品Aがつくられる

ことが判明したからです。ちなみに、チームAと別のチームBのメンバーは、一部重なっていることがありえます。複数のプロジェクトを兼務する従業員がいてもよいということです。

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これだけでも、はじめはブラックボックスだった工場(=海馬)のメカニズムについて、かなりのことがわかったと言えると思います。ですが、まだ不十分な点もあります。

  1. チームは特定できたが、従業員一人ひとり(ニューロン一つひとつ)が何をしているかは依然として分からない。製品製造のプロセスはチーム内でどのように分業されているのか。例えば、キーパーソンがいるのか、全員が平等に業務を分担しているのか、など。
  2. チームのメンバーが明らかにできたのは、ごく単純な製品(恐怖の記憶など)についてでしかない。もっと精巧な製品(複雑なエピソード記憶など)に対しても、同じようにチームが結成されるのかは分からない。

以上、ちょっとイメージが湧きやすいメタファーを考えてみたつもりなのですが、いかがでしょうか。

おわりに:「エングラム細胞」研究の今後

利根川氏が前述の2015年のレビュー論文*11で「今後の課題」について以下のように書いています。

While memory engram theory has clearly come of age, a number of important issues remain to be investigated. One is the nature of the ‘‘enduring changes’’ that occur in the engram cells and their connections.(…) Moreover, the integrative evidence for engram cells has been obtained to date in this one study, and only for contextual fear memory in DG (Ryan et al., 2015). Memory, however, appears in many different forms (e.g., emotional, procedural, working, semantic, perceptual), each supported by one or more distinct brain regions and systems(…)significant modifications of the technology may be needed to identify engram and engram cells for each type of memory. 

引用箇所では、今後の課題として

  • どのようなメカニズムでエングラム細胞が作られるのかや、エングラム細胞の生理学的な性質を明らかにすること
  • 恐怖条件づけ以外の種類の記憶に対するエングラム細胞や、他の脳部位におけるエングラム細胞を研究するための手法を開発すること

が挙げられています。前者については、「シナプス可塑性により機能的なニューロンのグループ(=セルアセンブリ)が形成される」というのが標準的なストーリーのようです。今後も利根川ラボを筆頭に、世界中の研究室から研究成果が出てくると思われます。

一方、本ブログの探究はどこへ向かえばよいでしょうか。利根川氏が挙げている二つの課題に対応するかたちで、筆者としても二つの疑問を持っています。

  • 疑問1:エングラム細胞のようなものがあるとして、その形成や読み出しのプロセスについてどんな可能性が考えうるか? つまり、記憶メカニズムの理論研究はどれほど進んでいるのか。
  • 疑問2:人の記憶についてはどこまでわかっているのか? ネズミの「エングラム細胞」の研究は、人の記憶について何を教えてくれるのか。

この二つを次回以降の課題としたいと思います。

rmaruy.hatenablog.com

*1:Kandel, Eric R., Yadin Dudai, and Mark R. Mayford. "The molecular and systems biology of memory." Cell 157.1 (2014): 163-186.

*2:(原論文)Xu Liu, Steve Ramirez, Petti T. Pang, Corey B. Puryear, Arvind Govindarajan, Karl Deisseroth, and Susumu Tonegawa “Optogenetic stimulation of a hippocampal engram activates fear memory recall”Nature,2012

*3:(原論文)Steve Ramirez, Xu Liu, Pei-Ann Lin, Junghyup Suh, Michele Pignatelli, Roger L. Redondo, Thomas J. Ryan, and Susumu Tonegawa. "Creating a false memory in the hippocampus".Science, 2013

*4:(原論文)Roger L Redondo, Joshua Kim, Autumn L Arons, Steve Ramirez, Xu Liu, Susumu Tonegawa. "Bidirectional reversal of the valence associated with the hippocampal memory engram." Nature, 2014

*5: Tomás J. Ryan, Dheeraj S. Roy, Michele Pignatelli, Autumn Arons and Susumu Tonegawa, "Engram Cells Retain Memory Under Retrograde Amnesia", Science, 2015

*6:Steve Ramirez, Xu Liu, Christopher J. MacDonald, Anthony Moffa, Joanne Zhou, Roger L. Redondo & Susumu Tonegawa, "Activating positive memory engrams suppresses depression-like behavior", Nature 2015

*7:Dheeraj S. Roy, Autumn Arons, Teryn I. Mitchell, Michele Pignatelli, Tomás J. Ryan and Susumu Tonegawa, "Memory retrieval by activating engram cells in mouse models of early Alzheimer’s disease", Nature, 2016 

*8:Teruhiro Okuyama, Takashi Kitamura, Dheeraj S. Roy, Shigeyoshi Itohara, and Susumu Tonegawa, "Ventral CA1 neurons store social memory.", Science, 2016

*9:Tonegawa, Susumu, et al. "Memory engram cells have come of age." Neuron 87.5 (2015): 918-931.

*10:なお、ここですごく気になるのは、それぞれの記憶に「何個のニューロンが関わっているのか」ということです。論文を細かく読めば分かるのかもしれませんが、残念ながらそこまで調べられていません。

*11:Tonegawa, Susumu, et al. "Memory engram cells have come of age." Neuron 87.5 (2015): 918-931.