重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

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読書メモ:精神を切る手術(橳島次郎 著)

 

生命倫理や科学政策を専門する著者による、2012年の単著。脳神経倫理では繰り返し言及される文献であり、いつか読まねばと思っていた。残念ながら絶版となっているのだが、今回意を決してプレミア価格で購入した。

タイトルから想像していた内容とはかなり違っており、よい意味で裏切られた。また、非常に丁寧に書かれていて読みやすい本でもあった。以下、内容の紹介を多めに、メモにしておく。

※下記メモはブログ筆者が着目し、解釈した限りでの本書の論旨です。引用の際は原書に当たっていただくようお願いします(といっても入手しづらいのですが)。

「精神を切る手術」とは

主題の「精神を切る手術」は、一見、インパクト狙いのタイトルにも思える。しかしよく考えるとそうではない。なぜなら、本書のテーマは「精神外科(psychosurgery)」であり、その字面上での意味はまさに「精神」の「手術」だからだ。

精神外科とは、「脳に外科手術を施して精神疾患を治そうとする試み」(p.5)である。今では悪名高い「ロボトミー」に代表される精神外科手術は、20世紀半ばでは、欧米だけではなく日本でも盛んに行われた。しかし、ある時期を境にほとんど行われなくなる。人格変容など重い副作用もあったことから、現在では「過去の過ち」とみなされることが多い。特に日本では本書で丹念に記述される経緯により、顧みられることがほとんどない(現在行われている脳の手術は「神経外科(neurosurgery)」である)。

しかし、本当に精神外科は過去の過ちなのか?

著者は二つの観点から、精神外科の歴史に向き合う現代的な意義を提起する。

  • 医療の手段としての精神外科を冷静に評価することは、脳という臓器はどこまで特別か、「治療目的の脳への介入」がどこまで許されるのか、という倫理的問いにつながる。
  • 精神外科が可能にした脳科学の進展を適切に評価することは、「科学の名の下での脳への介入」がどこまで許されるのかという倫理的問いにつながる。

精神外科にとどまらないこれらの問いを念頭に、著者は近年の医学誌研究や独自の文献調査をもとに、世界、そして日本の精神外科の歴史をたどっていく。

第1章 「偉大で絶望的な治療」:欧米での精神外科の発端と展開

第1章では、世界での精神外科の歴史を記述している。

「精神外科(psychosurgery)」の命名は、ポルトガル神経科医エガス・モニスによる。1935年にモニスは退行性うつ病の患者に「前頭前野白質切載(prefrontal leucotomy)」と名付けた手術を実施する。翌年、米国では精神神経科医ウォルター・フリーマンが白質切載を実施。独自に開発した自身の手法を「ロボトミー」と命名する。フリーマンは30年以上にわたり、3000人以上もの患者にロボトミーを実施した。

ロボトミーの科学的根拠は、精神疾患が「前頭前野と基底部の相互作用の不具合」によって起こるという理論にあった。実際に治療後に退院したり仕事に復帰したりできる事例も多かった。当初フリーマンらはうつ病、不安障害に限定していたが、その後、慢性の統合失調症患者にも拡大していく。

ロボトミーのピークは1940年代であり、主に米国、英国、北欧で行われた。ロボトミーの安全性と効果については、記録は残っているものの、正確な医学的評価は難しい。

ロボトミーが実施された背景には「社会からの要請」があった。患者があふれる精神病院において、「手術を受けて退院し就労できた患者は、「税金を食う人から払う人に変わった」と評価された」。こうしたある種のニーズに基づき、ロボトミーの適用が広がっていく。

患者層が私的診療の顧客から、社会経済的により低い階層の公立病院の入所者に移り、その処遇についての決定が、少数の専門医の手から離れ、世論に左右されやすい議員や官僚に移ったことが、ロボトミーの歯止めを失わせたと〔医学史家プレスマンは〕いうのである。(p.28)

その後、脳外科医ウィリアム・スコヴィルによる眼窩皮質下白質切載(orbital undercutting)や、脳を固定して限局した部位だけを切る定位脳手術(stereotaxy)など、代替手法の開発が進む。1960~70年代には4種類の定位脳手術が開発され、主要技術として定着する。一般的には、ロボトミーは1950年代に発見された向精神薬クロルプロマジンによって駆逐されたと言われるが、医学史家プレスマンは定位脳手術が大きかったとする。

1970年代になると、ロボトミーはほとんど行われなくなっているにもかかわらず、映画『カッコーの巣の上で』(1975年)での精神医療の描き方に象徴されるように、社会からの非難が強まる。受刑者に行われた精神外科手術の報道などが背景にあった。フリーマンはそうした逆風のなか、1967年の最後の執刀後も、キャンピングカーで患者を一人一人訊ねて回るといった、長期にわたる予後調査を手がける。著者は、その伝記からは「頑迷で孤独な意思の哀愁」を感じたという。

その後、医療の現場では「タブー視の陰でか細いながらも地位を占め、それなりに定着」(p.55)していく。1960年以降は、脳深部刺激DBSなど電気的刺激の両方が確立。最後の選択肢(last resort)としての精神外科は生き残ってきた。

脳への外科的介入は、精神疾患の治療の選択肢として、なお私たちの前にある。(p.63)

 

第2章 封印された過去:日本の精神外科の歴史

では日本ではどうだったのか。

1938年、新潟医科大学外科教授の中田瑞穂が、精神外科の一種であるロベクトミー(前頭葉切除)を実施。しかし治療目的で多くのロボトミーを実施したのは、松沢病院精神科医である廣瀬貞雄だった。戦時中、軍医として重傷兵の治療として外科手術を経験していた廣瀬は、1947年に初めてのロボトミー手術を統合失調症患者に行う。

1940年代末~50年代が日本で精神外科が最も実施された時期であり、米英の最盛期と重なっている。廣瀬が1954年に発表した「ロボトミー後の人格像」という論文では、「「欲動および情動の興奮性の減弱、感情の動きの単純・浅薄化、感受性の減弱、自我への関心の減弱、自発性・創意性の減弱、抑制の減弱」が起こることを認めている」。しかし松沢病院のような精神病院では欠かせない医療手段であり、精神外科の目標は「社会的適応性」のを獲得させることであって「治療というより一種の矯正術と言えるところもある」と廣瀬は書いた。

米国と同じように、その後、定位脳手術も入ってくる。1962年には日本定位脳手術研究会、設立。(現在は、日本定位・機能神経外科学会として存続。http://www.jssfn.org/about/index.html 〕。

1971年、廣瀬らも関わった51年のロボトミー手術にて、患者の脳組織が不当に採取され、実験に使われたとする告発文書が出される。1975年、日本精神神経学会は「神経外科を否定する決議」を採択。その理由は、一つのは精神外科が「悲惨な結果」を残したことだったが、客観的なデータは示されなかった。また、精神障害受刑者に対する「保安処分」として利用される危険も理由とされた。さらには、大学紛争なども背景に、「1970年代半ばの精神外科否定の動きは、政治的色彩が非常に濃いものだった」。

1972年を最後に、廣瀬は精神外科の執刀を中止。1975年、定位脳手術研究会でも「精神外科はやらない」と宣言がなされた(公開はされていないが、著者による取材で明らかになったという)。患者・家族による損害賠償を求める裁判、脳性まひの子どもにロボトミー手術を行うという設定の手塚治虫ブラックジャック』への抗議、ロボトミー手術を受けた患者が15年後に殺人事件を起こした「ロボトミー殺人事件」など、精神外科の否定的なイメージが広まっていく。

そうしたなかで正当に精神外科の治療的評価がなされてこなかった。それには、社会復帰した患者を予後調査をした執刀医と、入院を続ける患者を診る精神科医での認識の違いもあるだろうと著者は指摘する。

精神外科手術を受けても効果がなく、その後も長く入院生活を余儀なくされた患者を多く見てきた精神科医が、ロボトミーに否定的になることはよくわかる。だが、退院した患者の追跡調査を続け、曲がりなりにも家庭や地域、職場で生活できるようになった例を多く見てきたフリーマンや廣瀬が、精神外科の有用性を信じたことも、また理解できるといわざるを得ない。(p.108)

日本では定位脳手術についての医学的評価がなされぬまま、「精神外科=ロボトミー=悪」というスティグマだけが残る。一方、日本定位・機能神経外科学会にて、脳深部刺激(DBS)の着目など、精神疾患への応用の関心の復活の兆しはあるという。

第3章 脳への介入の「根拠」と「成果」:脳科学と精神外科の脳神経回路説

第3章は、精神外科と科学の関係を扱う。

モニスは「神経細胞の異常なつながりが固着することで精神疾患が生じるとの説」に依拠し、フリーマンらは「前頭葉視床をつなぐ神経回路の機能の異常が精神疾患の原因であり、そこに介入することが治療につながるとの理論」の基づいていた。このように、「ロボトミーは、前頭葉の機能の重要性に注目する脳科学研究の知見を取り入れることで、その医学的正当性を主張し、一定の需要を勝ち得た」(p.130)。

たとえば臨床が脳研究の進展に寄与した例として、「大脳辺縁系(limbic system)という概念の確立」がある。「辺縁系の神経回路とのつながりから皮質の機能を捉えることで、前頭葉の果たす役割の理解が格段に進んだ」(p.133)のだという。

精神外科が脳科学に劇的に寄与した特異的な事例として、著者は患者HMを取り上げる。ウィリアム・スコヴィルが、重篤てんかん患者HMに対して実行した側頭葉切除は、HMの短期記憶の能力を奪う。その後HMは記憶の研究に長年協力しその生涯では100人を超える研究者が関わった。著者はこの事例を、「精神外科の臨床と脳科学の研究との相互交渉のなかから生まれた、意図せざる驚異的な「成果」だった」と表現する。

HMのケースが比類ない大きな意義を脳科学研究に対し持ちえたのは、熟練した外科医によって、脳のなかで海場周辺の特定の部位だけが選択的に取り除かれ、ほかの部位にはいっさい損傷が加えられなかったためである。(p.140)

もちろん、「彼が外科手術による重篤な後遺症に障害苦しんだ医療被害者であるという事実を忘れてはいけない」と著者はいう。

脳と精神の臨床と科学研究の間には、倫理的にはっきり黒白がつけられない、断罪か賞賛かどちらかではすまない、複雑な歴史がある。(p.144)

このような「複雑な歴史」は終わったわけではない。現在でも行われている強迫性障害(OCD)や難治性の不安障害や気分障害への精神外科手術においても、「まだ神経生物学的メカニズムの多くは未知のまま」である。従って、脳がわかることによってどこを切ればいいかわかり、治療的介入の結果によって脳がわかるという「精神外科と脳研究の相互依存・相互促進関係」は今も続いている。

終章 脳科学に何を求めるべきか:社会への応用に対する科学研究のあり方

1980~90年代には、PETやfMRIなどの脳画像が可能になった。脳に侵襲しなくても、脳について調べられるようになったかのようにも思われる。しかし著者は脳画像を用いた研究に、2つの疑問を抱くという。

  • 侵襲がないと言いきっていいのか。人の脳への介入に伴う侵襲は「ある・ない」ではなく、「大きいか小さいか」で考えるべきではないのか。
  • 今の画像研究でヒトの脳の機能を本当に解明できるのか。脳に介入する別の手法が必要になるのではないか。

要するに、「侵襲」だからだめで「非侵襲」だからよい、という単純な話ではないだろうということだろう。

いくら非侵襲的であっても、科学的に必要かつ妥当でない実験研究を人に行なうことは認められない。逆に、科学的に必要であり、そこで決められた目標を達成できる妥当なデザインを備えた研究であるならば、侵襲的でも認められる場合はありうる。(p.180)

この文の後半は目を引く。著者は「科学的に必要」であることを積極的に評価する。つまり脳をわかりたいという動機は、脳への(侵襲的な)介入を許す倫理的根拠になりうるというのだ。もちろん、何でも認められるというわけではない。科学目的での脳への介入の可否の線を引くのは社会である。科学と社会には「強いやりとり」が必要であり、「甘い共存はない」という。

著者が危惧するのは、脳への介入の倫理的基準が、応用面からのみ議論されることで、ロボトミーが精神病院や刑務所で多用されたように、野放図に拡大していくことにあるようだ。とくに脳科学は「応用、実用の視点にゆがめられやすい」。しかし、

脳科学は、まだ社会が変わらなければならないほどの成果を出していないと私は考える。社会の求める実用に脳科学のほうが流されているのが、その証拠である。p.191) 

実用を求める社会の価値基準が、科学の価値基準の中に入り込んでしまった結果、現状では、脳科学の社会への応用は、短絡的で底の浅いものになっている。(p.185)

むしろ、社会は脳研究としての脳へ介入の価値を評価しなければならない。

物質・生命と精神の関係の解明という目標に達するために何が必要かを真の課題としていない脳科学研究に対しては、私たちは低い評価を下さなければならない。目先の実用に役に立つかどうかで評価するのではなく。…実利を求めるだけの社会には、科学を規制できる資格も力もない。(p.191)

非専門家である「社会」にここまで求めるのはとても高い要求だが、理想としては非常に正しい方向性であるように思える。

なんとなく居心地の悪いものには蓋をして、あるいはないことにして、議論なしで済ませようとする態度は、技術の暴走をもたらすこともあれば、科学の進展を閉ざしてしまうことにもなり得る。本書は、「精神外科」という題材を通して、そのことをまざまざと教えてくれる。

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3年前に少し調べて書いた脳神経倫理に関するメモ。研究者の興味関心の充足を「ゼロ査定しない」とここで書いた時に考えていたことが、橳島著では大いに展開されていて感銘を受けた。

患者HMことヘンリー・モライゾン氏と彼を取り巻く科学者たちのアナザー・ストーリー。

ロボトミーの後に来る外科的介入である脳深部刺激(DBS)のルーツを丹念にたどるノンフィクション。橳島著と併せて読むと、歴史は繰り返すことがよくわかる。