重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

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読書メモ:トラウマをめぐる3冊(ピーター・ラヴィーン著、ベッセル・ヴァン・デア・コーク著、宮地尚子 著)+中井久夫【追記】

「トラウマ」にまつわる本を3冊読んだ。

最初の2冊は、トラウマ治療に長年関わってきたアメリカの臨床医が、トラウマについての科学的知識とその治療法を解説した本。いずれも、脳だけでなく「身体」の記憶という視点を重視している。3冊目の岩波新書は、「脳」と「身体」にさらに「社会」という観点を加え、社会全体でトラウマとどう向き合えばよいかを考察した一冊。

トラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復

トラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復

 

 

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法

 

 

トラウマ (岩波新書)

トラウマ (岩波新書)

 

トラウマについては、身近に当事者がいるわけでもなく、知識はまったくなかった。この3冊がどれくらい「トラウマ入門」として適した選書になっているかはわからないが、今回知ったこと・思ったことをメモしておく。

トラウマとは何か?

トラウマは、日本語では「心的外傷」と訳される。もともとは単に「傷」を意味する言葉だったそうだ。身体にできる傷とのアナロジーで、「心が負う傷」=「サイコロジカル・トラウマ」という言葉ができ、それが短く「トラウマ」と呼ばれるようになったということらしい。

トラウマを定義するのは簡単ではありませんが、精神医学や心理学の分野では、過去の出来事によって心が耐えられないほどの衝撃を受け、それが同じような恐怖や不快感をもたらし続け、現在まで影響を及ぼし続ける状態と捉えられています。 宮地『トラウマ』p.3

「過去の出来事」としては、戦争や自然災害など、過去の特定の出来事もあれば、幼少期に受けた虐待や差別など、心へのダメージが繰り返されるものもある。そうした出来事によって、自律神経が乱れたり、何かの拍子に突然当時の記憶が(その時の情動や身体反応とともに)蘇ったり、そうした反応をトリガーするものを無自覚に回避したりといった症状が出る。

トラウマとして診断することの是非

このような定義を聞くと、ほとんどの精神的な不調には「トラウマ」が関わっているのではないかとも思える。しかし、「トラウマ」は、素人が思うほどには、精神医学の中心テーマとなっているわけではないらしい。

トラウマという見方を嫌う精神科医も少なくありません。単純な因果関係を想定しすぎる、過去に原因を帰することが回復の妨げになる、といった理由からです。宮地『トラウマ』p.95

歴史的にも、その概念は19世紀の心理学者が提唱しているにもかかわらず、長いこと忘れられてきた。1980年代になって多数のベトナム戦争の帰還兵がトラウマ障害を負っていたことをきっかけに、PTSD心的外傷後ストレス障害)という診断名がようやく登場する。

その後、PTSDは定着した一方で、PTSDに含まれないトラウマ障害はなかなか光が当たらないようだ。ヴァン・デア・コーク氏は、幼少期の逆境的な体験がもたらすトラウマに診断名がないことを問題にし、DSM精神障害の診断マニュアル)に「発達性トラウマ」という診断を加えることを提唱した。しかし、「児童期の逆境的体験が発達に重大な悪影響を及ぼすという見解は、研究に基づく事実というよりもむしろ臨床的直感である」(『身体はトラウマを記録する』p.266)として退けられたという。

たしかに、「震災」や「戦争」など、日時が特定できる出来事ならまだしも、「幼少期の体験」となると時間的ギャップが大きすぎて、今の身体的反応との因果関係を「科学的」に実証するのは難しそうだ。「臨床的直感」と言われてしまうのも、しかたない面もあるのかもしれない。

脳と体の記憶

トラウマと言うと「記憶の病」というイメージがある。確かにその通りなのだが、そこでの「記憶」の意味が重要になる。

レヴィ―ン著やヴァン・デア・コーク著では、トラウマ記憶と普通の記憶の違いが何度も強調されている。トラウマ記憶は、求められれば自由に思い出せる普通の(顕在)記憶とは違って、断片的で言語化が難しい。また、記憶が情動に結び付いていて、フラッシュバックのときには身体が当時の状態(凍り付いたり、心拍数があがったり)に戻ってしまう。その意味で、一般用語としての「記憶」というよりは、まさに「身体に刻み込まれた記録」のイメージに近い。

不適応な手続き記憶と情動記憶が長期にわたって存続することが、社会的な、あるいは人間関係の問題の根幹となっており、すべてのトラウマのもとにある中心的な作用機序を形成しているといってよいだろう。 レヴィ―ン『トラウマと記憶』p.60

レヴィ―ン氏はさらに踏み込んで、トラウマ体験の最中に身体が行おうとしていた行動(レイプの加害者を手で押しのけるとか)が「未完了」であることが不適応な身体反応を生んでいると考え、その行動を安全な環境で「完了」させることでトラウマを癒すという発想のもとで、「ソマティック・エクスペリエンシング」という治療アプローチを確立している。

治療法

一方、ヴァン・デア・コーク氏は、特定の療法に拘るのではなく、トラウマの様々な治療法を実践している。

人によってふさわしい手法は異なるので、私は特定の治療法にこだわることはなく、本書で論じる治療法をすべて実践している。 ヴァン・デア・コーク『身体はトラウマを記録する』p.16

薬を使う、眼球を動かしながら記憶を探る、グループでロールプレイングのようなことをする、(後述する)ニューロフィードバック、演劇を利用したセラピー、などなど。『身体はトラウマを記録する』の後半では、それぞれの方法で回復した患者の事例が紹介されている。

ためしに厚労省のウェブサイトを見てみた。すると、「持続エクスポージャー療法」だけが紹介されている。これは、同サイトから引用すると「トラウマの安全な治療の中でトラウマへの記憶を思い出させ、トラウマの恐怖に慣れるとともに、思い出しても危険はないことや、言葉にすることによってトラウマを乗り越えられることを学習する治療法」*1。しかし、とくにレヴィ―ン氏は、この持続エクスポ―ジャーは脳だけに働きかけるもので、逆に危険だとして否定的に紹介している。

一方で宮地尚子著『トラウマ』では、「患者と医者」で行われる治療を超えて、さらに社会のなかでトラウマを抱えた人とどう付き合うか、またジェンダーやマイノリティに絡んだ集団的なトラウマをどう考えるか、という視点での考察に多くのページが割かれている。これは「トラウマの本」の内容としては予期していなかったもので、目を開かされた。(宮地氏の著者紹介には「専攻は文化精神医学、医療人類学」とある。どちらも聞いたことのない学問だったが、興味がわいた。)

薬で記憶を消去することの是非 

未来の治療法についてはどうか。以前ブログでも書いたように、近年は脳科学で記憶の操作、具体的には「特定の記憶消去を消す」といった研究も盛んに行われている。しかし、ここまで書いたことからも分かるように、トラウマというのは、意識できる表層的な記憶だけでなく、身体のレベルまで深く痕跡を残している。そのとき、薬などの介入でトラウマの痕跡の「すべて」を取り除くことができるかはかなり疑問だ。

記憶消去についての一番の懸念は、記憶の性質や機能、宣言的記憶エピソード記憶を含む顕在記憶と、情動記憶と手続き記憶を含む潜在記憶など、複数の記憶系の関係について、まだ統一的な理解がなされていないことだ。レヴィ―ン『トラウマと記憶』p.219

加えて、当然のことだが、悪い記憶とはいえそれを消すことの倫理的・哲学的な問題もある。宮地著では最終章でトラウマが人の創造性にもつながっていることに触れており、そのうえで次のように書いている。

効果的な治療法ができたとしてそれを使っていいのだろうか、という疑問もわいてきます。(…)トラウマが簡単に治療されるということは、人間とは何か、生きることとは何か、苦悩に意味はあるのか、暴力や戦争・紛争は減るのかといった、より根源的な問いにも抵触してきます。宮地『トラウマ』p.97

ニューロフィードバック

同じ「脳科学の知見を使った脳への介入」でも、より副作用が小さいと思われる方法がある。『身体はトラウマを記録する』のなかで、1章割いて紹介されている「ニューロフィードバック」だ。脳波計を頭につけ、その結果をモニターで表示することで、特定の脳波を出せるように訓練する。それによって、患者がトラウマによって「くせ」になってしまった脳活動のパターンを変更することができるという。

恐れのパターンが緩和されると、脳は自動的なストレス反応に前ほど影響されにくくなり、通常の出来事にうまく意識を集中できるようになる。(…)ニューロフィードバックは単に、脳を安定させ、回復力を増加させることによって、私たちがどう反応するかという選択の幅を広げてくれる。 ヴァン・デア・コーク『身体はトラウマを記録する』p.524

ニューロフィードバックは治療目的以外にも注目されている手法だが、素人目にもこれは有望ではないかと感じた。(ちなみ、この章を読んだことがきっかけの一つとなって、個人的に脳波計を購入した。)

トラウマとどう付き合うか 

自分自身には、医学的な意味での「トラウマ」があるとは思わない。それでも、二つの意味で、自分の生活とも無縁ではないと感じた。一つは、今後、自分や自分の身の回りの人が、トラウマを抱えることが今後十分にありうるという(明らかな)理由から。生涯でPTSDになりうる危険な体験をする確率はかなり高いらしい。もう一つは、トラウマまでには至らないけれど、自分の行動に潜在的に影響を与えている「過去の記憶」があるように思えたこと。たとえば、繰り返し夢に見る「中学生時代の嫌な記憶」がある。そうした自分の心の深層にある「記憶」は、どうすればいいだろう。いままでどおり「ないもの」として過ごすか、そこから何かをくみ取ろうとするか。いずれにしても、そこには一度考えてみるに値する問題があることを、トラウマ障害の存在は教えてくれるのではないだろうか。

いずれにしても、ますますギスギスした世の中を生きていくなかで、「トラウマ」という概念は大事になっていくと思う。「その労働時間は対価に見合っているか」などには目が向きがちになっている反面、「その生活環境はトラウマを癒すか、助長するか」といった視点で物事をみることはほとんどない。でもそっちも同じくらい大事ではないだろうか。

今回、3冊の本を読んでみて、私たちは「トラウマ」という言葉をもっと積極的に(ただし、もちろん正しい意味で)使っていくべきなのではと感じた。

 

***

2018/6/12 追記

その後、ふと思いたち、以前買っていた中井久夫の本をめくってみた。そのなかのトラウマにまつわる論考は、かなり腑に落ちる部分があった。上記3冊で知ったことを補完する内容なので、以下メモしておく。 

徴候・記憶・外傷

徴候・記憶・外傷

 

今回読んだのは、この本のなかの「外傷性記憶とその治療――一つの指針」と題された論文。

中井の言う「外傷」とは「心的外傷」、つまり「トラウマ」のこと。論考のメインの主張は、「幼児性記憶」と「外傷性(トラウマ)記憶」は似ている、というもの。それらの共通点を挙げ、そこから両者は同じメカニズムの記憶ではないかと持論を展開している。

私は、二歳半から三歳半のクリティカルな時期において幼児性記憶が消去されるという仮説を立てる。(…)ただ、その記憶機制は残り、非常事態においては顕在化し、突出してくる。それが外傷性記憶であると考える。 中井久夫『徴候・記憶・外傷』p.170

とすると、「普通の記憶 vs トラウマ記憶」という対比は、「大人の記憶 vs 幼児の記憶」に言い換えられることになる。幼児の記憶には、「危険回避」という大事な機能がある。それが誤作動してしまったのがトラウマだという理解だ。

また、トラウマ治療の目的を次のように表現している。

 理念的にいえば、外傷性記憶の治療は、最初に挙げた外傷性記憶の十条件〔鮮明、言語化困難、感覚性が強い等々〕に変えることであるが、そういうことは可能であろうか。目標は決して外傷性記憶の消去ではない。もし、記憶を消去する薬物なり心理的操作法が開発されれば、それは容易にファシズムに利用されるであろう。 同 p.173

終わりのほうでは、著者のトラウマ治療のスタンスが記されている。もし、自分や自分に近い人が今後トラウマに見舞われることがあったら、ぜひ思い出したい一節だ。

私は外傷患者とわかった際には、①症状は精神病や神経症の症状が消えるようには消えないこと、②外傷以前に戻るということが外傷神経症の治癒ではないこと、それは過去の歴史を消せないのと同じであり、かりに記憶を機械的に消去する方法が生じればファシズムなどに悪用される可能性があること、③しかし、症状の間隔が間遠になり、その衝撃力が減り、内容が恐ろしいものから退屈、矮小、滑稽なものになってきて、事件の人生における比重が減って、不愉快なエピソードの一つになってゆくなら、それは成功である。これが外傷神経症の治り方である。④今後の人生をいかに生きるかが、回復のために重要である。⑤薬物は多少の助けになるかもしれない。以上が、外傷としての初診の際に告げることである。