重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

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鑑賞メモ:映画『In Silico』――巨大科学プロジェクト10年の顛末と教訓

映画『In Silico』(2020年、映画サイト)を見た。一般公開はされていないため、権利者と契約を交わして「バーチャル上映会」を実施する形となった。知り合いに紹介したりソーシャルメディア等で募るなどして、数十人の方に視聴いただいた(2022年3月11~12日に実施)。
その後2022年9月にストリーミング配信が始まり、いつでも見られるようになりました!

22歳の映画監督による「10年プロジェクト」

『In Silico』は、全脳のシミュレーションを目指す科学プロジェクトを追ったドキュメンタリー映画。当時22歳だった映画監督Noah Hutton氏が、2010年から10年かけて取材を続け、映画に仕上げた作品である。2021年には、科学系ノンフィクション作品を対象とした映画賞も受賞している*1

若きHutton氏をこの10年がかりのプロジェクトに駆り立てたのは、2008年のTEDトークだったという。神経科学者Henry Markram氏は、この講演で脳が現実の体験を生み出す不思議について、脳の詳細なシミュレーションがその謎の解明の初めての手段となる可能性について語った。そして、自身は10年でコンピュータ上に人間の脳を作る計画だと述べてトークを締める。

Markramは、十分に詳細な神経細胞レベルの脳のデジタルモデルを構築することによって、これまで実験室で行われていた多くの生物実験をシミュレーションで行えるようにすることを目指した。生体外で生物試料を扱う「in vitro実験」や生体内環境で行う「in vivo実験」に代わるものとして、シリコンチップ上の「in silicoな神経科学」を実現するのだというのが、Markramのビジョンだった。

大学で神経科学を学び、願わくば神経科学についての映画を撮りたいと考えていたHutton氏は、Markramのトークに魅せられ、この10年計画を丸ごと映画の題材にすることを決断する。Markramの計画が本当に実現するのならば、その目撃者となり、語り手となることには、自分の20代を丸ごと費やす価値があると思ったのだろう。

映画は、Hutton氏が取材を申し込み、Markram氏に受け入れられる経緯のナレーションから始まる:「こうして、僕自身の10年プロジェクトが始まった」。スイスのローザンヌの新築の研究施設にMarkramのBlue Brain Projectが入居するところからカメラが入り、設備のレイアウトを喜々と相談するMarkramや、シミュレーションの意義や初期の成果を興奮気味に語るラボメンバーのカットが続く。映画前半で伝わってくる「さあ、これからだ」という高揚感は、Hutton氏自身のものでもあっただろう。

ところが、現実はHutton氏が思い描いたようには進まない。Markramの当初の計画は、映画公開時点の2020年でも(そして今でも)ごく一部しか達成されていない。むしろこの映画は、彼が撮ろうとしていたような全脳シミュレーションの成功物語とは別の意味で、大きなテーマを扱う作品に結実していく。

10年の間に何が起こったか

何が起こったのか。

一つの転機は、Blue Brain Projectを軸に提案されたHuman Brain Project(HBP)が、「フラッグシップ(FET flagships)」と呼ばれる欧州委員会(EC)の大型科学プログラムに採択されたことだった。これは、10年間で10億€(ただし後述のようにECの予算で賄われるのは半分)という超大型ファンディングであり、これでMarkramの計画は加速するかに思われた。

しかしMarkramのアプローチの科学的妥当性にはもともと賛同者ばかりではなかったこと、またHBPに参画しようとしていた認知・システム神経科学のグループが除外されたことへの反発などもあり、Markramに対する激しい逆風が吹く。HBPのガバナンスが改善されない限り参加をボイコットする旨の文書(「オープンレター」)が公開され、そこにHBP内外の800名を超える神経科学者が署名をするという空前の事態となる。Markramは結局HBPからは退き、その後はスイス政府の支援のもとでBlue Brain Projectを継続することになる。

映画中盤では、Markramのアプローチに批判的な神経科学者たちへのインタビュー(「時間とお金の無駄ではないか」)と、それに対するMarkramの反論(「私のアプローチは伝統への挑戦であって、理解されにくいんだ」)が交互に挟まれ、緊張感がある。さらにHuman Brain Projectへの採択でMarkramの勝利かと思いきや、オープンレターからの急展開。後半は、どこかよどんだ空気が流れる研究所のシーン。それでもHuttonに会い続けるMarkramの、どこか引きつった、自嘲気味にも見える表情。コアメンバーの離脱などを経て、どこか初期の活気を失いゆく研究所の様子が映されていく。

このように、Markramの10年間を追った映画監督のHutton氏は、きわめて稀有な、しかし現代科学を象徴するような事案の一部始終を目撃することになった。しかし彼はそこで、一人のジャーナリストとして、この顛末を記録して伝えることに意義を見出すこととなる。

映画の視聴権とともに、「Disscusion Guide」と題されたPDFファイルが提供された。そこには、Hutton氏の次のようなメッセージがある。

一般向けの科学記事やドキュメンタリー映画などでは、科学は一枚岩なものとして、つまり神の力に導かれた客観的真理の追求のようなものとして、描かれることが多すぎるように思います。専門家たちは彼らの仮説へ反論を突きつけられたりしません。私は、科学に向き合う一つのモデルを示したいと思いました。それ自体が倫理にガイドされた科学的な手法によるジャーナリズムの一形態であり、未知へ開かれた心と幅広いデータへの感度を持って挑むようなやり方で、視聴者が将来、誇大広告された科学に出会ったときに応用できるような、批判的アプローチを示したいと考えました。*2

私はこの論争を一般の一般市民にアクセシブルにすることを望みます。この論争にかかっているのは人々の税金であり、そして(多くの場合)いずれは人々のメンタルヘルスなのです。私はジャーナリズムの厳格さと批判的なアプローチを維持するために、取材先の何名かやその仲間たちの評判を犠牲にすることをいといませんでした。*3

この映画は、個人に対しても、科学的なアプローチに対しても、何らかのジャッジメントを下すことはしていない。その代わり、映画を見る一人一人に考察を委ねている。たとえば前述のPDFには、視聴者への「観賞後のクエスチョン」として、以下のような問いが掲げられている。

  • Henry Markramの野心や目標について、どう思いましたか?
  • 映画で取り上げたプロジェクトが、論争や不同意を避ける形で運営できたと思いますか?
  • 神経科学のような分野ではどのようにファンディング(資金配分)がなされるのがよいと感じますか?
  • 科学における「ムーンショット(月面着陸のような野心的なゴール)」の役割をどう思いますか?
  • 人の意識現象を機械(コンピュータ)でとらえることができると思いますか?

Huttonさんの問いかけに触発され、私なりにも思考を巡らせた。BBPやHBPに関するいくつかの文献を読んだり、映画を見た方々と議論をする中で考えたことを以下メモしておきたい。

Markramを「渦中の人」にした、3つの要因

まず、この映画で描かれる一連の事象(Markramのリーダーシップによる欧州フラッグシップへのHuman Brain Project(HBP)採択、Markramへの批判とオープンレター、MarkramのHBP解任)を、Markram個人がもたらしたある種の「事件」だったとみなすことはふさわしくないと思う。

思うに、そこには、三つくらいの要素が組み合わさっているのではないだろうか。それは、1)Henry Markramという「ビジョナリー」な科学者の登場、2)データ集約型の脳研究への気運、3)統合的な科学プロジェクトを志向する欧州の政治経済的背景の3点である。

Henry Markramは、南アフリカ出身のイスラエル系の研究者。神経細胞の生理学で顕著な業績を残してきた、実験家の中の実験家である。彼は例のTEDトークを見るとわかるように大きなビジョンを語り、人々を巻き込む強い力を持っていた。映画の中でもTerrence SejnowskiはMarkramを「パイオニア」と表現し、「パイオニアの背中には矢が刺さるものだ」と肩を持つ。ときに話が大きくなる傾向にあったことは事実だろう。映画にも登場するSebastian SeungはMarkramのビジョンを「Grandiose(大言壮語)」、Christof KochはMarkramの研究にリスペクトを示しながらも「彼のメシア(預言者)的な一面が顔を出すと話が荒唐無稽(ridiculous)になる」と語っていた。自分が正しいと信じるシミュレーションのアプローチをやや大言壮語的に語り、リーダーシップを発揮した(しすぎた)ことが、一連の事象の起点にあるのは間違いないだろう*4

一方で、大規模にデータを統合する形で脳科学を進展させていこうという気運は、Markramだけのものではなかった。米国のAllen Instituteや、HBPの発表に直後に立て続けに始動した米国BRAIN Initiativeや日本の「革新脳」プロジェクトなどにも共通する潮流だといえる。Markramの力点がボトムアップなシミュレーションにありすぎた可能性はあるが、科学コミュニティのなかでもHuman Brain Projectのような大型プロジェクトを求める背景はあったし、そのなかでMarkramのような実績と野心とカリスマ性のある研究者がリーダーシップをとることになる必然性もあったのではないか。

とはいえ、のちに800人もの専門家が批判するようなプロジェクトをなぜ採択してしまったのかという疑問は残る。その点に関しては、欧州のFET Flagshipsプログラム設置につながる政治経済的背景が第三の要因として絡んでくる。そもそも、FET Flagshipは、2007年の金融危機を受けて欧州全体の研究開発の立て直しを象徴するICTプラットフォーム構築のためのファンディングプログラムとして設計されたものだった。イギリスの(これまた若い)社会学者・人類学者Tara Mahfoud氏は、HBPの関係者へのインタビューを行ったエスノグラフィーの研究をもとに、HBPには、散逸した神経科学研究の「統合」のイメージの中に、欧州地域の統合(integration)が仮託されていたと論じている*5。Mahfoud氏がインタビューしたHBPの幹部は、「EC(欧州委員会)にとって科学的内容は二次的なものであって、欧州として科学プロジェクトをやることや次世代の科学者を育ている教育効果のほうが重要なのだ」という旨を語ったという。統合の象徴としての科学プロジェクト(まさに皆で乗り込める「旗艦」=flagship造船)を計画する欧州の政策と、MarkramのHBP構想は、互いを求めていた側面があったのではないか。

上記の3要因のどれが欠けても、HBPは誕生しえず、映画『In Silico』も全く違ったものになっていたはずだ。そして一連の出来事をMarkram氏のみに帰すことはできない。

何が教訓なのか

しかしそうだとしても、「では、何がいけなかったのか?」と問いたくなる。科学の営みについて、この映画はどんな教訓を与えているのだろうか。2週間くらい考えてたどり着いた個人的な回答は、実は「(ほとんど)何もいけなくなかったのではないか?」というものだ。

HBPの一件は「失敗」ではないような気がする。特筆すべきは、HBPの発足後、1年足らずで科学者たちが声を上げたこと、しかもそれがきわめて効果的な声の挙げ方だったことだ。‘Open message to the EC concerning the Human Brain Project’と題された公開文書(「オープンレター」)は、「HBPの目標と実施体制が、脳の理解を深める欧州での共同作業の核を形成するものとして妥当か」どうかに強い疑念をつきつけた。特に懸念されたのが、欧州委員会(EC)のもとで支出される研究費は10億€の半額の5億€であり、残りの半分は各機関や各国政府から獲得しなければならなかった。そのリソースをMarkramのビジョンのもとに集めることに対して欧州だけでなく世界中の神経科学者が危機感を持った。

脳の大規模シミュレーションのアプローチは、大まかに「トップダウン」と「ボトムアップ」に分けることができる。トップダウンのアプローチでは、動物の行動やfMRIEEGといったマクロな脳測定のデータを使ってシミュレーションのパラメータを制約したり方向づけたりする。一方、ボトムアップのアプローチは、神経細胞などの素過程の挙動を逐一シミュレートすることを通して、ネットワークや個体レベルの挙動が「創発」することを期待する。Markramは明確にボトムアップ志向だった。しかし、ボトムアップアプローチには、「どこまで詳細にモデリングすればいいのか?」という大きな問題がある。シミュレーションに盛り込むデータの標準(standard)が必要になる。誰かがそれを「決める」必要がある。

ネズミの皮質カラムの31000個の神経回路をシミュレートした2005年の論文*6では、神経細胞の形態、接続、電気生理的性質とその分布など、調べられることをとことん調べて、それをシミュレーションしたことを報告している。

しかし「それで十分なのか?」という疑問は常に残る。Markram自身、かつてIBMのネコ脳のシミュレーションに対して、ニューロンを点として扱うpoint neuronの近似を用いていたことなどを理由に痛烈な批判をしている*7。一方、そのMarkramのアプローチは、Sebastian Seungのような研究者には「ボトムアップの全脳シミュレーションをするにはデータが足りない」と批判される。どれくらいのデータをもとに、どれくらい詳細な脳のシミュレーションをすれば、コンピュータシミュレーション内に脳の機能が「創発」するのか。ここに、多くの研究者が納得できる理屈を与えずに、マークラムという個人の「決め」で進んだ面がある。

先述のMahfoud氏のインタビューに対して、あるラボメンバーは「標準ではなくレガシーの問題なんだ」と話し、Markramの過去の仕事に親和的な実験手法のデータが使われる傾向にあることを認めたという。Mahfoud氏は次のように喝破する。

皮肉なことに、いわゆる「ボトムアップ」なモデルを構築することには、「トップダウン」のガバナンスと、共通の実験技術でおおよそ統一された神経科学コミュニティを必要とした*8。(Mahfoud 2021)

自身の経験値と洞察をもとに、正しいと信じるアプローチを追求するのは科学者として当たり前のことだ。Markramにとっては、あらゆる機会を捕まえて、自身の計画が最も早く実現するように動くのが当然のことだったろう。しかし、他の科学者はそのようなリソースの集中を良しとしなかった。だからこそオープンレターを書き、そこに多くの研究者が賛同した。これもまた、しごく当然のことに思える。

さらに注目すべきは、オープンレターを受けEC(欧州委員会)が迅速かつ適切にそれに対処した(ように見える)ことだ。その動きについては、「Human Brain Project Mediation Report」という文献に事細かに報告されている*9。それによると、ECはHBP内外の研究者・専門家による仲裁委員会(mediation commission)を設置し、2014年秋から仲裁プロセスを開始。「HBPの広報は穏当な期待値管理に失敗している」「中期、短期での具体的な目標を掲げる他の大規模プロジェクトに倣うべき」などと総括しつつ、HBPの科学的なアプローチをボトムアップのみから、マルチスケール、多角的モデリングへと広げること、そしてガバナンス体制の変更について詳しく提言している*10。この提言に沿って、現在のMarkram離脱後のHBPは、当初除外された認知・システム神経科学のプログラムを含む様々なアプローチを並走させつつ、データや計算手法を共有するプラットフォームとして続いている。一度走り始めた大型プロジェクトを、ここまで徹底的に精査し、迅速な軌道修正が図れるものなのかと驚く。

本件は、一見、「無謀なリーダーが無謀なプロジェクトを立ち上げ、それに多くの政策立案者や研究者が乗っかり、さすがにバックラッシュが起こって潰された」事案にも見える。しかし、起こったことを少し解像度を上げて調べていくと、むしろすべての関係者が合理的に動いていることも見えてくる。Markram氏がいなければ、Blue Brain Projectだけでなく、おそらく現在の姿のHBPは存在しなかった。だから、Markramは、――おそらく本人としては非常に不本意な形で——「パイオニア」としての貢献を、神経科学全体に対して残したともいえるのではないだろうか。

このように考えると、『In Silico』が描くHBPという大型科学プロジェクトの帰趨は、反面教師ではなく、あらゆる分野でデータ集約型(data-intensive)な科学が台頭する時代における科学の進め方・支え方について、むしろ積極的に参考すべき教訓を与えてくれているようにも思える。

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公式ツイッターによれば、『In Silico』は2022年中にストリーミングも始まるらしい(日本で視聴可能かは不明)。ぜひさらに多くの方に見ていただき、科学と社会の関わりについて議論するきっかけとなればよいと思う。

謝辞

参加費を払って配信を視聴いただいた方々、とくに視聴後に、専門的見地から大変充実した感想をお寄せくださった皆様にお礼申し上げます。また、『In Silico』について議論をさせていただき、本稿を書く上で様々な示唆をいただいた濱田太陽(@HiroTHamadaJP)さんにお礼申し上げます。

*1:InScience https://www.insciencefestival.nl/en/news/and-the-winners-are-in-silico-and-the-reason-i-jump/

*2:”Directors' Statement”より。(原文)In pop-science articles and some other documentary films, I believe that science is too often portrayed as a monolithic, voice-of-god force issuing objective truths, and experts are not challenged with critical objections to their hypotheses. I wanted to model for our audience a way to engage with science that uses an ethically-guided scientific method itself as a form of journalism, confronting the unknown with an openness and sharp attunement to the range of incoming data, in turn fostering a critical approach for our audience members to use in the future when they confront overhyped science.

*3: ”Directors' Statement”より。(原文)I want to make sure this debate is accessible to the general public, whose taxpayer dollars and-- in many cases-- eventual mental health depends on it. And I’m willing to sacrifice popularity among certain of my subjects and their allies for the orthodoxy of maintaining a journalistic rigor and critical approach to the topic.

*4:Markramの「Grandiose(大言壮語)」的な言明のうち、どこまでが狙った「セールストーク」でどこからが本音なのかはうかがい知れないところがある。たとえば、2008年のTEDトークや『In Silico』からは、Markramの脳の中を凝ったビジュアルで可視化することへのこだわりがわかる。これは、プロジェクトの広がりを印象付けるPR商材の側面もあったことだろう。しかし、彼の話を聞いていると、彼自身、脳活動をビジュアライズすることによって、「何かが見える」ことを信じているのではないか、と感じさせられる。しかしCPUの中を可視化したらコンピュータの計算原理が「わかる」だろうか。もし脳活動の詳細な可視化により「脳が現実を生み出すかがわかる」というのがMarkramの信念なのだとしたら、それは哲学的には全く自明ではない信念に思える。

*5:Mahfoud, T. (2021). Visions of unification and integration: Building brains and communities in the European Human Brain Project. New Media & Society, 23(2), 322-343.

*6:Markram, Henry, et al. "Reconstruction and simulation of neocortical microcircuitry." Cell 163.2 (2015): 456-492. https://doi.org/10.1016/j.cell.2015.09.029

*7:IBMに送った批判メールをメディアに公開している。Adee S (2009) Cat fight brews over cat brain.

*8:(原文)Developing so-called ‘bottom-up’ models ironically required ‘top-down’ governance and a neuroscientific community unified around similar experimental techniques.

*9:Mediation of the Human Brain Project (2015)

*10:Maufoud氏は、ここでも欧州の「多様性の中の統合(unitiy in diversity)」や「多元性(plurality)」という政治的イメージがアナロジーとして働いたと指摘する。