重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

読書メモ、探究メモなど。

「35歳からの探究活動」心得

2022年度から高校では「総合的な探究の時間」という新科目が始まったと聞くが、私は大人になってから、細々と、自分のためだけの「探究活動」を行ってきた(「独学」*1でも「勉強」*2でもいい)。

面白そうな本を読んで感想を書いたり、気になるテーマについて文献を拾い集め、分かったことを文章にまとめたり、といったことだ*3

とにかく「自分は何も分かっていない」という感覚が出発点である。宇宙の成り立ち、自分の身体を構成する細胞のメカニズム、社会がどう成立しているか、人々の幸せや不幸、死に向かう心構えの作り方。何一つわけが分からないまま生かされている感じがあり、そのなかで暫定的でもいいから自分なりの「理解」をつかみたいというのが、日々書籍やブログ執筆に向かうモチベーションとなってきた。

素人でも、一定の期間(短ければ数日、長くて1ヶ月くらい)集中的に調べたり考えたりしていると、なんとなく「見取り図」が描けてくる感覚がある。ピースがカチッとはまり、「理解」と呼べるストーリーの道筋が見えてくる。それが楽しくて、かれこれ15年ほど(!)そんな生活を続けてきた。

しかし、ここに来て、探究(独学、勉強)がなんとなく苦しくなってきた。もちろん、「時間がない」が自明かつ最大の理由なのだが、それだけではない、「心のブレーキ」のようなものを感じている。

もうすぐ35歳。この行き詰まりの理由と、今後の方針について、所見を文章化しておこうと思う。

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30代半ばにして出てきた、「分かりたいことについて調べて理解する」という趣味の探究活動へ心理的ブレーキには、いくつかの要素が混じっている気がする。

ブレーキ1:専門家の覚悟、払ってきたコストへの引け目。この年月では、それなりに各分野の研究者など専門家との接点も出てくる。その人が読みこなしてきた文献の量、鍛錬の時間を知るにつれ、自分に「その努力をする覚悟」はとてもなく、このテーマについて考える「資格」なんてないような気がしてくる。また、実際に専門家からお叱りを受ける経験をすると(それは大方私の発信の仕方に問題があるのだけども)、そのたびに「もうやめたほうがいいか」という気持ちになる。

ブレーキ2:自分の「市場価値」を守る意識。調べたこと、理解したことが誰かの求める情報なり知識であるような場合、それが自分の「市場価値」につながる側面がある。趣味の範疇だったはずの探究活動が、いつの間にか立身のための拠り所、生存のための「商材」に変わってくる。知らず知らず、自分が持っている「比較優位」な知識を伸ばしニッチを守る意識が芽生えてしまい、本来知りたかったこととずれる。その結果、「なんか楽しくない」時間になってしまう。

ブレーキ3:自分への見切り。15年の蓄積を振り返れば、自分が何ができたのかが一目瞭然となる。このペースで次の15年続けたとして、たくさんブログは書けるだろうし、いくつかの気づきも得るだろうが、大して遠くへはいけないだろうということが見えてくる。20代の頃と違って、過去からの外挿ができてしまう。それが、なんとなくの「しらけ」につながる。

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こうした心境の変化を踏まえ、探究活動をやめる、あるいはトーンダウンしていくのも一つの手だ。自分の生きる糧と、世の役に立つことに集中するのもいいかもしれないし、たぶん倫理的なのだろう。

けれど、「わけのわからなさ」は私の中で募るばかりで、決して「知りたい」気持ちの灯火は消えていない。30代後半も探究活動を諦めないためには、自覚的な心がけが必要なように思える。以下、箇条書きにしておく。

「35歳からの探究活動」心得3箇条

1.ニッチ獲得活動と切りなはす:人材のマーケットの中で生きている以上、自分の市場価値を高めることは必要だ。しかし、探究活動に確保した時間(一日5分?10分?30分?)は、そのための「ポイント稼ぎ」とは切り離しておく。この活動は一切の「業績」にはならない、しない。知識生産し論文で発表する研究者とも、情報と洞察を顧客に売るコンサルタントとも違う、自分本位のゲームをプレイしていることを自覚する。

2.問いの大きさを譲らない:私が知りたいのは、たとえば「記憶の脳内メカニズムは何か」「世界を変えるようなイノベーションはどのように生まれるのか」「ロシアに戦争をやめさせるにはどうすればいいか」などの、答えの出しようのない巨大な問いばかりだ。自分が何か「貢献」する、比較優位な知識を持つという観点からすると、もっと問いを切り分けて挑んだ方が得策だろう。しかし、本当に知りたいのがそれでないならば、堂々と本山に挑めばいい。そして自力で登るのでなく、「誰がどのルートを開拓しているのか」を知ることが入り口になる*4。そのうえで、自分なりの「理解」を模索していく。

3.使える時間のなかで最善の努力をする:素人の勉強だからといって、不確かな情報を垂れ流していいということにはもちろんならない*5。査読論文のようなサーベイをすることは無理だとしても、何かを発信するときには、使える時間のなかでできるだけ調べておく。どこまで調べたか、何が分かっていないのかについて開示し、必ず何に依拠したのかの出典を示す。批判可能な形で晒し、フィードバックを学びの機会とする。

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もちろん、この3箇条に従ったところで、大したことはできないだろうことは変わらない。しかし少なくとも、どこか苦しさを抱えながら、自分の頼りない足跡を見て見ぬふりをし、不純な動機に毒された勉強を惰性で続けるよりはずっとよいだろう。

 

*1:掬読メモ:独学大全(読書猿)…独学はブートストラップできる - 重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

*2:読書メモ:勉強の哲学(千葉雅也 著) - 重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

*3:個人的にとくに力を入れたのが脳科学関連のテーマ:探究メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで解明したのか? 〈第0回:連載を始めるにあたって〉 - 重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)、どうすれば脳を「理解」できるのか:「コンピュータチップの神経科学」から考える - 重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

*4:私の探究が「勉強」であって「研究」ではないことは一貫したスタンス。非研究者として『在野研究ビギナーズ』を読んで考えたこと - 重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

*5:かといって何も外に出さないというわけにも行かない。「自分のためだけ」の探究とはいっても、本質的に「理解する」ための言語活動は他者との共同作業であって、誰かにその理解をシェアすることは不可欠だと考えている。もちろんそこに承認欲求のような動機が混じっていることは否定しない。