重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

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思考整理メモ:本の価値と編集者の役割~8年間の出版社勤めを終えて~

本日、2020年11月30日をもって、8年8カ月勤務した理工系出版社を退職した。明日からは出版を離れ、違う業界で働くことになる。

本とは何か、出版・編集とはどんな仕事なのか、自分なりに模索し続けてきた日々だった。気持ちがまだ編集者であるうちに、いまの考えを書いておこうと思う。

 

「出版業界ってどうなの?」「本もこれから大変だろうね」。出版社に内定が決まって以来、何度となく投げかけられてきた言葉だ。自分としても、「本の役割」や「出版社・編集者の存在意義」について、入社以前から自問自答してきた*1

  • いまの時代、本は要るのか?
  • 出版社は要るのか?
  • 編集者は要るのか?
  • これらへ「Yes」と答える場合、その理由をどう言語化できるか?

あたりまえだが、ひとりで答えを出せるわけなどない。一口に「本」と言っても千差万別だし、出版という仕事の捉え方も、出版社・編集者の数だけあるだろう。以下はあくまで、私のごく限られた経験をもとにした、「個人的」で「暫定的」で完全に「主観的」な回答でしかない。

出版社勤めに区切りをつけるいま、あらためて自分に何が言えるだろうか。

できたこと、できなかったこと

その前に、自分がやってきたことを簡単に。私は社員30名程度の理工系出版社に勤め、もっぱら書籍の企画・編集をしてきた。「企画→編集→発行」の工程すべてに携わった本は29冊で、企画のみ・編集のみの担当書や教科書改訂企画などを含めるとその2倍程度になる。主な分野は数学・物理学・情報科学・ビジネス系技術書・科学哲学など。タイトルの一覧を脚注に記載した*2

29冊は、どれも個性がキラリと光る素敵な本ばかりだ。企画をこちらから持ち掛けたものもあれば、著者から持ち込まれたものもある。編集での貢献度もまちまちだが、「おかげでよい本になりました」と著者(・訳者)に言っていただくことも少なからずあった。これらの本の発行に関われたことを、心から嬉しく思う。

一方、編集者としてのパフォーマンス、つまり「担当書の売上(額)」の面では、成績良好だったとはいえない。担当書のなかには重版を重ねたものもあるが、目立つベストセラーはないし、トータルでも及第点とは言えないだろう。せっかくの原稿を商業的成功につなげられなかったことは、著者の先生方に対して申し訳なく、悔しくてならない。なお、この「編集者としての業績」という話題には、また後半で触れる。

……あとは誤植が多かった(泣)。担当書のAmazonコメントやTwitterなどで「間違いが多い」と書かれ、自己嫌悪と申し訳なさで寝付けなかったことも一度や二度ならず。チェックの甘さと注意散漫の点では、編集者に向いてなかったとつくづく思う。退職後も担当書は世に出回り続けるので、「誤植の恐怖」からはしばらく逃げられそうにない。

本を「書きたい人」「読みたい人」はいなくならない

ここからは自分のことは棚に上げて、「本の価値」や 「編集者の役割」について思うことを書いてみる。

まずは、「出版業界ってどうなの?」という問いかけについて。こう聞いてくる人には、「出版=斜陽産業」というイメージがあるのだろう。出版産業の将来性や課題について、自分は俯瞰的な分析はできていない。ただ、出版物の供給体制が過剰なのは確かなようだ。つまり、「読みたい人」「書きたい人」の数に比べて、出版社と編集者が多すぎるということだ。

供給力に比べて「書きたい人」が多い状況なら、出版社はフィルターないしはゲートキーパーとして、よい企画を「選別」すればいい*3。しかし、いまの日本の出版業界は「出版社が企画を選べる」状況からはほど遠い。各社は著者を発掘して一冊でも多く新刊を出すことに血道をあげている。そうしないと会社がもたないからだ。この出版社過多・編集者過多に陥った原因については、再販制度などの問題点、メディアの多様化による読書量の減少など、いろいろ言われているが、はっきりした理由は自分にはわからない。

本の供給体制と需要とのアンバランスは、今後も拡大するのだろうか。本を「読みたい人」「書きたい人」は減り続け、やがては希少な存在になってしまうのか?

これについては、私は確信をもって「ならない」と予想する。むしろこの8年間、「本を読みたい人」「本を書きたい人」は意外なほどいるのだということを実感してきた。大学を回って出会ったほとんどの研究者は、「時間さえあれば、いつか本を書いてみたい」と話していた。新刊の刊行記念イベントや、プライベートで参加してきた読書会では、本に向き合う時間に価値をおく多くの人たちに出会ってきた。現状の出版産業の規模を維持するのに十分ではなかったとしても、「著者」と「読者」はちゃんといるし、いなくなることはないはずだ。

「本ってこれからどうなの?」という人も、自身が思っている以上に本を欲し、本に頼っている場合が、実は多い気がしている。

本には「作品」としての価値がある

「情報ならいくらでもWebにある」、「最新の知見なら論文に当たればいい」などとも言われる。にもかかわらず、本に書く・読む価値があるとすれば、それは何だろうか?

「本」と言ってもいろいろあるので、ここでは自分が携わってきた、「研究者・技術者によって書かれる学術書・技術書」に限定しよう*4。また、ここでは「紙の本」と「電子書籍」をひっくるめて「本」と呼ぶことにする*5

学術書・技術書の、「本ならでは」の価値とは何だろうか。

「体系性」?「信頼性」?「自己完結性」?「可読性」? 本であることの意義はいろいろな言葉で語られるし、自分も語ってきた(新卒向けの説明会などで)。しかし、一番大事なのは「作品性」だと、いまは言ってみたい*6。著者が創り上げた「作品」であるという側面が、論文やWeb記事やその他のメディアに比べて本では強い。著者の「作品」として一冊の本を享受すること。読者が本に求めているのは、第一にそのことではないだろうか。

こういうと、元同僚や上司たちからの反論が聞こえてくる。「文芸書や人文書ならともかく、理系の学術書や技術書に求められるのは『知識』や『情報』でしょ?」「読者がその本を読んで『何ができるようになるか』が大事でしょ?」と。もちろん、知識や情報やノウハウを得るための本に価値があることは否定しないし、自分自身お世話になってきた。ただ、そういう「教材」ならば、「本」である強い必然性はなく、本に変わるよりよいメディアが出てくることも想像できる(もうあるかもしれない)。

まだ不満げな顔が見える。ではこれはどうだろう。会社帰りに、書店で学術書なり技術書なりを買ったときのことを思い出してほしい(そういう経験がある人は)。レジで会計をして、カバンにしまって、「帰ったらこの本を読み始めるんだ」と思いながら帰路につく。そのとき、どこか「ホクホク」とした気持ち、なんとも言えない期待感を味わったことはないだろうか。本が好きな人なら、身に覚えがあるはずだ*7

そしてこのとき、そんな期待感を味わえるのは、「○○研究会編」「○○学会著」などの組織名義の著作よりは、著者名(ペンネームでも)が冠されている本ではなかっただろうか。前者は「資料」であり「情報」としての価値はあっても、後者におけるような「この人の本を読むんだ」というワクワク感が欠けている。この差が、本の「作品性」ではないかと思うのだ*8

これは、著者オリジナルの研究が含まれる「学術書」だけでなく、「技術書」にも言える。たとえば『Pythonによる機械学習』といったタイトルのものでも、著者の名義で書かれた本には個性がある。たとえゴール地点は同じでも、そこに至るルート選びにオリジナリティと、著者の込めた思いがあるものだ。ときには「寄り道」もするかもしれない。私が担当した本でも、「脚注が深くて良かった」とか「コラムが一番面白かった」などと言ってもらえることがあった。「寄り道」としての脚注やコラムは、本の作品性を感じやすい部分なのだろう。

著者が自身がたどってきた思考の道筋、そこで得た知見、アイディア、世界観を、不特定多数の人々に向けた「作品」に仕立てて提示する。読者は「作品としての本」を通して、著者の思考の道筋に触れる。もちろん本にはそれ以外の役割もあるだろう。しかし、「本にしか持ちえない力」は、「作品の創作と享受」の側面からくるのではないだろうか。

「書かなくてもいい」ものだからこそ、本に力が宿る

なぜ「作品」としての強い力が本には宿るのだろうか。それは、逆説的だが、本は「別に書かなくてもいいもの」だからではないかと思う。

編集者として仕事をしているなかで、最大の悩みでありフラストレーションが「著者が執筆に時間を割いてくれない」ことだった*9。それもそのはずで、学術書・技術書の著者たち(の多く)は、本を書くことを本業としていない。

本業でないばかりか、「書籍執筆は業績にはカウントされない」場合が多い(理工系ではとくに)。研究者たちは日々、 熾烈な競争にさらされている。ポストを得るため、ポストにとどまるため、研究費を得るため。競合相手に先駆けて業績を出さなければならない。職業的成功・職業的生存のための「ポイント稼ぎ」――あえて低俗な表現としたが揶揄する意図はない――をしなければならないのだ。その意味では、1点のポイントにもつながらない「書籍執筆」に割く時間などない。一時期、私はこのインセンティブの構造に問題があると考え、何とか研究者の「本業」と「書籍執筆」とをオーバーラップさせられないものかと思案した。

しかしいま思えば、「ポイント稼ぎ」の営みでないというまさにそのことが、著者を書籍執筆に向かわせるのではないか。研究者としての成功・生存に無関係だからこそ、「あえて本を書く」ことに魅力があるのではないか。「別に書かなくてもいいもの」だからこそ、研究者が胸に秘める打算のない内発的なパッションが、筆を握る(キーボードを叩く)指には込もる。そこには、本業の評価軸では測れない価値、未知なる読者とのコミュニケーションへの希求がある*10。そして読者は、そんな著者のパッションに触れることを、意識せずとも本に期待しているのではないだろうか。

本は「編集者がつくる」のではない

本とは、著者が内発的動機から生み出す「作品」である。こう捉えると、編集者の役割もおのずと限定されてくる。

編集者がたまに口にする「本をつくる」という言い方がある(例:「いまつくっている本」「過去につくってきた本」)。個人的にこれにはやや違和感があり、自分では極力言わないようにしてきた。たしかに、世の中には、著者の関与が少なく、まぎれもなく「編集者・出版社がつくった本」があるのは事実だろう。ただ一読者としては、「編集者がつくった本」よりは「著者が書いた本」が読みたい、本は「著者の作品」であってほしいと思ってきた*11

私にとって編集の作業は、むしろ「原稿の近傍の局所最適解を探すこと」だった。あくまで「素材」は著者がもっている。伝えたいというパッションも、著者の側にある。ただし、著者が起草する構成案や原稿には(ほぼ)必ず改善の余地がある。目次構成、文章表現、見出しのつけ方、図表の作り込み、具体例や比喩の選び方、記述の深度など、あらゆる観点から、「こうすればベターになる」というポイントが見えてくる。改善の余地を見出し、著者と共に原稿を「局所最適」に落とし込んでいく。編集の仕事を、そんなふうにイメージしてきた。

著者と編集者の「同床異夢」が生む奇跡

では、編集者はそうした「局所最適化」を手伝ってくれる「お助けマン」的な存在にとどまるのだろうか。それだけではない、と思う。

さきほど、著者にとっての書籍執筆は、本業の職業的成功(ポイント稼ぎ)と関係のない、内発的な営みだと書いた。一方で、編集者にとって、担当書の企画・編集は職業的成功・生存のための「ポイント稼ぎ」そのものだ。

編集者は(たぶん)みな、自ら手掛けた本の売上を気にする。私も、担当書のAmazonランキングのチェックし、Twitterで担当書についてのコメントがないか巡回するのを日課としてきた。担当書の売上はボーナスなど金銭的報酬に直接つながるだけでなく、社内における「次の企画の通しやすさ」にも効いてくる。私の場合、社内の全員一致で企画を通せたことはほとんどなく、常に「本当にそれで売れるの?」という疑い含みで進行を許されていた。結果が出なければ「やっぱり駄目だったじゃん」となり、次回の企画会議での交渉力を失ってしまう。そうした焦りもあり、担当書の売上を日々歯ぎしりしながらモニターしてきた。編集者にとって、著者の原稿こそが「生きる糧」であり、職業的成功・生存のための「条件」なのだ。

そのため、編集者のインセンティブと、著者の思いはしばしば対立する。とくに、「もっと原稿をブラッシュアップしたいので、あと半年ください」と言われたときのガッカリ感たるや……(「そんな…この原稿は今年の担当書にできるはずだったのに!」)。これは在職中、何度か経験した。

しかし同時に、ここが面白いところだと思うのだが、編集者は、自身にとっての「ポイント稼ぎ」だからこそ、著者の「作品」が少しでも広く届くことに本気になれる。「こんなものを書いて何になるだろうか」と弱気になる著者を、「絶対に面白いです、重要です」と激励する。あるいは逆に著者の前に立ちはだかり、「ここはこう直さないと出せません」と迫る。口ぶりは穏やかでも編集者の目は本気のはずだ。生活がかかっているから。

一方著者は、編集者・出版社が商業主義のもとに突き付けてくる「通り一遍」の提案をはねつけることもできる。「それじゃ面白くないんだ、意味がないんだ」と。編集者は、納得すれば引き下がり、今度は会社を説得する側にまわる。

そうした相克の末に完成した本は、著者と編集者両者にとって、予見しえぬ出来栄えになっていることがある。何十年も読み継がれ、研究者たちの「本業」の世界にもパラダイムシフトをもたらすような「名著」もまた、そうしたプロセスで生まれてきたのではないだろうか。

一つの原稿をめぐる著者と編集者の「同床異夢性」。そこから生じる「相克」。これが、出版の醍醐味だと感じている。私が「この本の編集ができて良かったなあ」ととくに思った本の多くは、スケジュールから大幅に遅れながらも、著者が粘りに粘り、こちらも忍びに忍んで仕上がった本だった。

まとめよう。著者の「作品」がより広い読者に届く力を得るには、自らの職業的成功を賭けている編集者という存在が、不可欠とは言わずとも有用である。これを、「編集者の存在意義は?」に対する、いまの自分の答えとしたい*12

おわりに

冒頭に書いたように、明日からは出版の仕事を離れることになりました。このあと少なくとも数年は、書籍編集以外の「学術コミュニケーション」の経験を積む期間にしたいと考えています。とはいえ本とは一読者として関わり続けたいですし、書籍編集にもまたいつか携われたら、とも思います(適性があるかはともかくとして)。

当ブログでも、相変わらず読んだ本のことを書いていきますので、今後もお付き合いいただければ幸いです。 

末筆になりますが、この8年8カ月お世話になった著者の皆様、組版・印刷・製本・装丁・物流・書店など取引先の皆様、森北出版の同僚たちと上司の皆様に、(一人ずつお伝え済みではありますが、この場でも)心からお礼申し上げます。 

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*1:4年半前の所信表明(自己紹介のかわりに) - 重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

*2:丸山(ブログ筆者)が企画→編集→発行まで携わった本の一覧:

*3:あるアメリカのユニバーシティ・プレス(UP、大学出版)の方から、そのUPでは発行に値するかどうかの社外審議会を設けていて、そこを通過したもののみが発行されるのだと聞いたことがある。英語圏では、出版社の「供給体制」<「本を書きたい人」という、まだしも健全な状況があるのかなと想像する。

*4:本を分類する言葉は、専門書/入門書、理学書/工学書、実践書/理論書などたくさんある。どんな言葉で本をジャンル分けするかには、各編集者がどんな仕事を経験してきたかが色濃く出るように思う。本記事では、現時点で自分がしっくりきている「学術書/技術書」を使う。思考整理メモ:理工書の「良い企画」についての考察 - 重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

*5:両者の違いや、「紙の本でなければならない理由」についてもいろいろなことが言われてきたが、まだ決定的なことは言えないようだ。たとえばメアリアン・ウルフ『デジタルで読む脳×紙の本で読む脳』など。読書メモ:デジタルで読む脳×紙の本で読む脳(メアリアン・ウルフ著、大田直子訳) - 重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

*6:本というメディア特有の価値を捉えるうえでの「作品性」という概念は、橘宗吾『学術書の編集者』、さらに同書が引いている長谷川一『出版と知のメディア論』に負う(長谷川著は未読)。読書メモ:学術書の編集者(橘宗吾 著) - 重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

*7:もちろん、「本が好き」な人が世の中では少数派だということはわきまえないといけない。

*8:ただし、著者名が出ていない文章にも作品性を見ることは可能かもしれない。「極端にいえば、数学や物理学や哲学や社会学の論文や本、あるいは給与明細や組織の辞令でも、読者の情緒が動いたら「文芸」と分類できるわけである。漱石は、科学論文では読者の情緒は動かないだろうと考えたが、他方で数式や理論に美を感じる科学者もいる。」山本貴光『文学問題(F+f)+』p.486

*9:思考整理メモ:「本など書く暇があったら研究したい」研究者に、それでも本を書いてほしい編集者の弁 - 重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

*10:そしてしばしば、本を書くことは著者自身を変える、自己変容の作業でもある。なぜなら本を書くことは、新しい思考の道筋を切り拓く旅でもあるからだ。

*11:もちろん、「本をつくった」という表現は、多くの場合「造本」といった程度の限られた意味で使われている。編集者の仕事は「たて・とり・つくり」であると言われたりする。ただ個人的には、自分が担当した本を「つくった」ということが憚られた。

*12:だからといって出版や編集者の在り方がこのままでいいとも思わない。出版の文化を残しつつ、アップデートしていく様々なチャレンジが必要になるように思う。思考整理メモ:30年後も読まれる本を育む、「本の文化」のアップデートを夢想する - 重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)