重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

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読書メモ:デジタルで読む脳×紙の本で読む脳(メアリアン・ウルフ著、大田直子訳)

 

デジタルで読む脳 X 紙の本で読む脳 :「深い読み」ができるバイリテラシー脳を育てる

デジタルで読む脳 X 紙の本で読む脳 :「深い読み」ができるバイリテラシー脳を育てる

  • 作者:メアリアン・ウルフ
  • 出版社/メーカー: インターシフト (合同出版)
  • 発売日: 2020/02/06
  • メディア: 単行本
 

 

Reader, Come Home: The Reading Brain in a Digital World

Reader, Come Home: The Reading Brain in a Digital World

  • 作者:Maryanne Wolf
  • 出版社/メーカー: Harper
  • 発売日: 2018/08/07
  • メディア: ハードカバー
 

こんな声を聞くことが増えてきた。

「私、長い本を読むのが苦手で。」

「最近の人は難しい文章を読まないでしょ。」

面白く読んだ本を人に紹介しても、「うわ、長いね」、「読むのがしんどそう」と言われると、ちょっと寂しい。

私自身、読むのは苦手だと思ってきた。だから、長大で難解そうな本を手にとったときの、「自分に読めるだろうか」という不安な気持ちはよくわかる。でも、いつの間にか、自分がかなり「本を読めるほう」になっているのに気づき、驚くことがある*1

***

現代人の読む力の低下は深刻だ。読字・読書を専門に研究する神経科学・認知科学者のメアリアン・ウルフ氏は、そうした強い危機感を持つ一人である。最新刊『デジタルで読む脳 X 紙の本で読む脳』では、今日のデジタル環境が私たちの読む力に与えている(悪)影響を概観し、とくに子どもたちの読字教育について提言を行っている。*2

 

原題は、Reader, Come Home。ニュアンスは「読者たち、戻っておいで」という感じだろうか。読者たちはどこに出かけてしまったというのだろうか。

著者の見るところ、この10年ちょっとの間に、私たちの読むスキルが急速に失われた。主犯はデジタルメディアだ。

一日に「150~190回携帯電話をチェックする」現代人は、「めまぐるしいタスクの切り替え」、強い刺激、そして「退屈と感じるレベル」の低下を特徴とする「注意過多(hyperattention)」に陥っている。日々、10万語(日本語に直せば20万時相当?)ものテキストに触れる私たちは、いつしか「斜め読み(skimming)」をデフォルトにしてしまった。私たちは、ネット記事を「F字」のかたちで流し読む。「文脈をとらえるために文章全体ですばやくキーワードを広い(…)、最後の結論に突進し、それが正当な場合のみ、本文にもどって裏づけになる細部を選び出す」(p.107)読み方のことだ。

こうした「画面読み(screen reading)」の副作用は深刻だと著者はいう。紙の本で私たちが行ってきた「深い読み(deep reading)」は、共感(empathy)、類推思考(analogical reasoning)、批判的分析(critical analysis)を培ってくれた。今やそれらが失われ、長すぎるネット記事を指す「tl;dr (too long; didn’t read) 」という表現に象徴されるように、私たちは「認知的忍耐(cognitive patience)」を失った。大学教授たちも皆、「学生たちが、昔の緻密なアメリカ文学や著作に耐えられないことに当惑」(p.127)している。

 

私個人は、こうした「深い読み」の礼賛には、疑問を感じるところもある。たとえば、著者は次のようにいう。

幅広く深く読んでいない人は思い出せるものが少なく、ひいては推測、推論、類推思考の基盤が弱いので、フェイクニュースであれ、完全なでっち上げであれ、裏づけのない情報の犠牲になりがちです。(p.79)

深い読みができなくなったせいで、人々はフェイクニュースに騙されやすくなったというのは、本当だろうか。「深い読み」が良い結果をもたらすかは「何を読むか」に依存するはずだし、もっと言えば「何が良いか」に依存する。また、流し読み(スキミング)で大量のテキストに触れることは悪いことばかりではないはずだ。手放しに読む力を良いものとする論旨は、うのみにできないように思う。

そのうえで、感覚としては、私も著者の懸念に同意する。自分自身、新しいメディア環境に翻弄されている自覚があるからだ(このブログを書きながら、Twitterのタイムラインを開く衝動を抑えられない)。

 

後半は、子どもの教育、とくにデバイスをどのように教育に取り入れるべきかについて、ページが割かれる。著者の主張の一部を挙げれば、

  •  2歳~5歳の発育の過程で、デバイスは背景にはあってもよいが、子守や時間つぶしの道具として頻繁に使ってはいけない。
  • 小学校に上がる時点で、それまでにどれくらいの読み聞かせの機会に恵まれてきたかといった環境要因や、ディスレクシアなどの器質的要因により、読字能力にはすでに大きな差がついている。それぞれに合わせた指導が重要。

など。

著者は最後に、デジタルメディアと紙の本の両方の媒体のリテラシーをはじめから身につける教育=「バイリテラシー脳(biliterate brain)」の涵養を提唱する。バイリンガルの子どもは二つの言語をそれぞれ独立に身につけ、のちに両者を統合して高い能力を発揮する。そこからの類推で、子どもたちに従来型の読み方とデジタルでの読み方をそれぞれ身につけさせることで、今日の大人に見られる「画面読みの弊害」を防げるのではないか――これが、著者の「実証されていない仮説(my unproven hypothesis)」だという。

本書では、デジタル技術が読む力に与える悪影響についての、多数の認知科学神経科学的な実験結果が紹介されている。とはいえ、どれも決定的という印象は与えない。研究はまだまだこれからなのだろうし、技術が脳にどのように影響するかといったことは、究極的には知りえないのかもしない。本書はむしろ、実証的証拠が集まるよりも速く事態が進行していることに危機感を持った第一人者が、とりあえず今言えることを放出した一冊と読むべきだろう。

***

ウルフ氏は、「深い読み」の能力を、どんなにデジタル技術が発達しても守るべきものとして描く。一方、発達心理学者のアリソン・ゴプニック氏はそれとは少し違う、進歩的な見方をとっていた。

おそらくデジタル世代の孫たち〔60代のゴプニック氏の孫世代〕は、いまの私たちが狩猟の達人や六人の子の母親に対して抱くのと同じノスタルジックな畏怖を、読むことの達人に対しても抱くだろう。20世紀の高度な読み書きスキルは消滅はしなくても、少なくともとても特別にマニアックなものになるだろう。現在の狩猟、詩、ダンスのように。しかし人間の歴史がこれまでと同じ道をたどるならば、他のスキルがその代わりとなる。(『思いどおりになんて育たない』アリソン・ゴプニック著、渡会圭子訳、p.245)

これから、私たちの読書はどうなっていくのだろう。ゴプニック氏が言うように、長い本を書いたり読んだりするスキルは「マニアック」な特殊技能となっていくのだろうか。あるいは、ウルフ氏の「バイリテラシー脳」教育が功を奏して、「深い読み」は保持されるのだろうか。

どちらにしても、自分は本を読み続けるしかない。それで生きていけるニッチがあることを願って。

 

関連記事:

*1:まあ、他の人がスポーツをしたり、芸術活動をしたり、料理をしたりしている時間をすべて読書に費やしているのだから、当然なのかもしれない。

*2:なお、本書は最初日本語版を買ったものの、どうしても訳文が読みこなせず、原著をkindleで買って読んだ。たしかに原文は文体が凝っていて、翻訳向きではない感じだった。とはいえ、版元はもう少し訳者(大田直子氏はオリバー・サックス著などを手掛けた実力者だと思う)に推敲の時間を与えてもよかったのでは、と思う。あと、原注をWeb掲載にするのみならず、注の箇所のマークを本文から省くのはどうなんだろう。少なくとも「深い読み」を提唱する本書には似つかわしくなかったのではないか。そのほうが読みやすいという読者もいるのだとは思うが、一つの意見として書いておく。