今、生涯でかつてないほど家にいる。しかも、数か月後の未来が予想できず、どんな優先度で何に取り組めばいいかもよくわからなくて、そわそわする。
そんななか、改めて「本」の良さを実感している。家にいながら心休まらない日々でも、本にはどこか安定感がある。できれば、少し前の本がいい。5、10年、あるいは200年前に書かれた素晴らしい本に出逢うと、「人類のなかには、こんなに切れた頭で、こんなにものごとを広く/深く考えた人がいるものか」と、感動する。そんなふうに年単位の時を超えて深い思考の跡に直接触れられるのは、本というメディアの醍醐味だと思う。
そんな「本」の未来について、最近いろいろと考えている。
断片的だし、特に目新しくもない内容になるかもしれないが、思考が散逸しないうちにまとめることにする。
本を書いてほしい vs 書きすぎないでほしい
筆者は、理工系の専門書・教科書を発行する出版社に勤務している。その立場から、昨年、以下のブログ記事を書いた。
要点としては、
- 研究者はどんどん多忙化しており、本を書く暇なんかない
- それでも本を書く意義は大きい、本を書いてほしい
- 商業出版社・職業的編集者を利用するメリットはあるし、編集者・出版社はメリットを伸ばし、かつPRしていかければいけない
ということを書いたつもりだった。今でもその考えに変わりはないのだが、 以下では、一見これと真逆のことを言おうとしている。つまり、
- できれば本を書きすぎないでほしい
- 商業出版社・職業編集者が関与する出版の限界と弊害がある
ということを――今回は一読者の立場から――最近考えている。
出版産業 vs 本の文化
冒頭で書いたように、人類は「書籍出版」というとても素晴らしい「文化」を持っている。
今、その文化をメインで担っているのは、出版社・取次・書店を中心とする出版産業だ。でも、産業が追求するものは利益であって、必ずしも文化としての良さは第一義ではない。
本の企画・編集・制作・流通を専業とする人々に給料が払われるためには、本が一定額以上売れないといけない。しかし、近年(というか過去20年くらい?)、本が十分に売れていないと言われる。各出版社は、売り上げを何とか確保するために、新刊をどんどん出さざるをえない。とはいえ多少なりとも「売れる」本を書ける著者の数は限られている。だから、必然的に「書ける著者」に執筆依頼が殺到する。先ほど「本を書きすぎないでほしい」といったのは、そのようにして殺到する執筆オファーに気前よく応えてしまう著者についてだ。
あくまで個人的な印象に過ぎないが、執筆を職業とする専業作家でない限り、本を一年に複数冊のペースで書き続ける、というのはちょっと無理があるのではないかと思う。やはり、仕込み期間がそれなりに必要ではないか。とくに、そうして年数冊のペースで書かれた本の一冊が、20年後も読まれ続けるということはちょっと想像しにくい。
今の出版産業のなかからは、どうしても
- 5カ月で書き上げて、発行後1年たてばほぼ読まれなくなる本
が多く出る。そういう本があってもいいと思う。でも、それなら、むしろ論文やブログ、メーリングリストなど、より適したメディアがある気もする。
個人的にはやはり
- 5年かけて書かれ、30年後も読まれ続けるような一冊
に惹かれる。そのために、あくまで一読者としてはだが、著者にはじっくりと時間を書けて本を書いてほしいと思ってしまう。
けれども、出版産業にいる限り、そんな思いは業績というインセンティブの前にはかき消される。「今年中にこの本を出す」ことが、何にもまして大事なゴールになる。
(もちろん、「5年かけて書かれ、30年後も読まれ続ける本」が結果として生まれることはあると思う。でもそれは、出版社・編集者の努力ではなく、むしろ出版社・編集者の「手を打って早く出してください」という圧力に耐えた著者の誠実さのたまものなのだ!)
こうした構造的な問題に、先ほど書いた「商業出版社・職業編集者が関与する出版の限界と弊害」を感じる。
提案:新しい文化
じゃあどうしたらいいのだろうか。
何となく考えているのは、「5年かけて書かれ、30年間読まれる本」は、出版「産業」ではなく、新しい出版「文化」から生まれるのではないかということだ。
もう少し具体的に書こう。
現状、書籍が構想され、執筆を経て、発行後読者に読まれるまでの流れは、うんと単純化すれば下の図のようになっている。
- 最初の「構想」段階では、基本的には著者と編集者のあいだでなされる。そこでは編集者=出版社側の「自社の売り上げに貢献するかどうか」という判断基準が強く加味される。
- 「執筆」は、基本的には著者の孤独なマラソンになる。それをいかにアシストするかが、編集者の腕の見せ所であり存在意義となる*1。
- 書籍「発行後」は、本の購入者がそれぞれに本を読む。
前の記事に書いたように、1.と2.のような職業編集者が書籍の「構想と執筆」に関与することには、それなりの合理性とメリットがあると思っている。とくに、本の「売上」に本気でコミットした立場で編集者が関与することは、最終的な本の「商品としての出来」にかなり貢献しているのではないだろうか。しかし、一方でそれによる弊害があることは上述したとおりだ。
ここしばらく、私が漠然と考えていた「本の未来」は、上図を次のように書き換えたものになる。
- 著者はそもそも本の種になるような議論を行う(複数の)コミュニティに属している。そのコミュニティ内で「構想」が生まれ、編集者との相談も交えて企画がまとまる。
- 「執筆」は、随時コミュニティからの支援を受ける。適宜進捗報告を行いレビューを受けながら、本をブラッシュアップしていく。
- 書籍「発行後」、その本について話し合うコミュニケーションの場が生まれる。そこに著者自身や担当編集者が加わってもいい。そこで生じた読者コミュニティのなかから、次の本の企画が生まれたりもする。
ポイントは、とにかく全部の工程を著者と編集者だけで完結させないこと、本の企画、草稿、発行後の本を媒介としたコミュニケーションを生み出すことにある。それによって何が起こるかというと、「商業出版物」として成立しなかったときのリスクが減る、もしくはなくなる。たとえば執筆の段階で、出版社の意向や期待に添わない内容になっていったとしても、執筆支援のコミュニティ内での有意義な議論ができたからそれでよし、ということにもなりうる。書籍出版がゼロかイチかではなくなり、商業出版は「コミュニケ―ション手段の一つ」として相対化される。一度中止した企画が、紆余曲折を経て、数年がかりで出版に漕ぎつける、というパターンもありうるかもしれない。
上で図にしたような「新しい文化」は、じつはすでにある。わかりやすいのは「発行後」の読者コミュニティとしての「読書会」だろう。筆者も、コロナ下で「会わない読書会」をやってみたが、これは非常に楽しく有意義だった。
開催記録メモ:「会わない(読んで書くだけの)読書会」という試み - 重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)
また、書籍の企画と執筆をコミュニティで支援するという試みも存在する。有名なのは酒井泰斗さんの「執筆互助会」(単著等執筆準備作業進捗報告互助会 - socio-logic.jp)で、筆者は内実は知らないものの、ウェブサイトや伝え聞く話から、とても先駆的な試みだと感じる。
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先日イベントでお会いした、ある話題書の著者の方が、次のような趣旨のことを話してくれた。
「自分は、同時代の人に本がたくさん売りたいという気持ちはそれほどない。むしろ、たとえば何十年か後に、ブックオフでたまたま自著を見つけた若者が、『うわ、面白い、こんなこと考えてた人がいたんだ』と思ってくれるかもしれない。そんな想像が執筆のモチベーションになる。」
まさに、そんな本を書いてほしい、と思った。
現在の出版「産業」は、残念ながらそうしたタイプの本の後押しをする駆動力は備えていないかもしれない。でも、そういう本が生まれやすくなる方向に、少しずつ「文化」を更新していけるのではないか。いつまで続くともわからない在宅勤務の合間に、そんなことを考えた。
*1:自分のことは棚に上げています。