何気なく手に取ったこの本、非常に面白く、ためになる内容だった。タイトルに「学術出版」とあるが、「学術書」というよりは「学術誌」(いわゆる「ジャーナル」)が主題だ。
私の予備知識は以下のようなところだった。
- 研究者は、論文を書くことで成果を発表し、そのことで業績を認められる。
- 論文は、エルゼビア、シュプリンガーなど一握りの出版社が刊行する学術誌に掲載される。
- 近年はインターネット上でアクセスできるようになっているが、論文数の急増、雑誌の購読料の高騰など、様々な構造的問題が指摘されている。
…ここまでは、自分も何となく知っていた。
しかし、ではそうした学術界と出版界の関係がどのように構築されてきたのか。なぜ、大手出版からたびたび研究者から非難を浴びながらも、そのビジネスを続けられているのか*1。学術書の出版社にいた私も実はこのあたりは何も知らなかった。
本書『学術出版の来た道』は、現役の生命科学者が、上記のような問いを歴史的に掘り下げた一冊である。
なぜ大学や研究所の図書館は高いと文句を言いながら学術誌を買い続けるのか。需要と供給のバランスはどうなっているのか。本書の目的は、この構造的な問題を歴史的な視点から解き明かすことにある。(p.3)
学術誌出版の歩み
第3章から、学術誌出版の歩みがたどられていく。学術誌は17世紀のイングランドとフランスにて始まるが、今日見られるような商業出版が躍進したのは1960年代以降である(第3,4章)。たとえばElsevierは1880年に古書の出版社としてスタートしたが、初めての英文誌刊行は1947年。Springerは1842年ベルリンの本屋として誕生し、ドイツの科学書の出版社として地位を築く。
第5章では「学術出版を変えた男」として、ロバート・マスクウェルという人物がフィーチャーされる。第二次世界大戦後、物資のブローカーをしていたマクスウェルは、Springerの書籍の英国への輸出を手掛け、1951年に、自身の学術出版社Pergamon Pressを創業。「学術出版が代替の利かない特異な産業であること、科学の発展とともに安定した利益をもたらすこと」を見抜いたマクスウェルの才覚だという。1955年の国際会議で彼は科学者たちに「伝説的な接待」を実施し、未編集の論文を編集して、学術書シリーズを刊行する。マクスウェルは「迅速かつ見栄えのする仕事をモットーと」し、コンピュータ、分子生物学、脳科学など融合領域の学術誌を次々と創刊する。Pergamonの学術誌は値段が高く、大学図書館からは不満が噴出するも、研究者には人気だったそうだ。1991年、PergamonはElsevierへ売却され、Elsevierは急拡大する。
もう一人、ユージン・ガーフィールドという起業家が登場する(第6章)。ガーフィールドは、1972年Nature論文にてインパクト・ファクターに基づく学術誌のランキングを発表した「学術評価の第一人者」である(彼の創業したISI社は何度かの売却を経て現在はClarivate Analytics社につながる)。ガーフィールドのテーマが研究の「顕彰(recognition)の計量化」にあり、彼の発明したインパクト・ファクターにより、研究者はますます論文執筆に駆り立てられ、論文数が増え、大学図書館や研究者の負担が増加していく。
1994年に英国の研究者スティーブン・ハーナッド氏は「商業出版社の転覆」(A Subversive Proposal)を提案する(第7章)。商業出版各社は危機感を募らせるなか、アカデミックプレス社が「起死回生」の策を出す。同社の学術誌をオンラインで読み放題というプランを用意し、それを英国高等教育助成会議(HEFCE)の負担で購入するというスキームが実現したのだ。これが「ビッグディール(Big Deal)」と呼ばれる学術誌の包括オンライン契約として普及する。
ビッグディールは図書館ごとに契約金が異なり、毎年6%ずつ価格が上昇することから、「独饅頭」だといわれる。小規模出版社の論文誌は買われなくなり、学術出版社は統廃合の時代に入っていく。そうしたなか、学術誌の高額化に怒る研究者らによって、学術誌のオープンアクセス化を目指すPLoSプロジェクトが始動。PLoSは、2003年に自ら出版社となり学術誌「PLoS Biology」を創刊する。
ここでまたもやビジネスパーソンが出てくる。映画製作を志した後に「たまたま学術出版に参入」した投資家のVitek Tracz(トラッチ)氏である。「伝統出版社とアカデミアの対立をチャンスととらえた」トラッチ氏は、2000年にオープンアクセスの商業出版社BMC(BioMed Central)を創業し、「様々なオープンアクセス誌を立ち上げ、論文が氾濫する時代を作り上げた仕掛人」となる。BMCは2008年にSpringerに買収される。
もともとハーナッドらが目指したのは研究者ら自身でOA(オープンアクセス)化を進める「グリーンOA」だったが、しかし現実に進んだのは出版社が研究者からの掲載料をもとにOA化を進める「ゴールドOA」であった。
さらに、PLoSが実験誌「PLoS ONE」を創刊。これは、科学的な手続きさえ踏んでいれば分野や体裁を問わないというもので、当初の掲載料は14万円だった。「当初のもくろみは、従来のピア・レビューにかわる新しい評価制度、民主的な科学の構築だった」ものの、結果は違っていた。
商業出版に対抗して結成されたプロスだったが、皮肉にも、商業OAというパンドラの箱を開けたのである(p.103)
ビッグディールで疲弊しきった大学図書館からは、購読料の増収を期待できない。そこで出版社は、研究者個人の研究費という新たな金脈に群がったのだ。(p.105)
論文単位でOA化を行うハイブリッド誌(OA化の費用は40万円前後!)や、「PLoS ONE」の成功を受け、Natureが「Scientific Reports」を創刊(2011年)するといった動きも出てくる。
日本でもOA論文の割合増加(年間7万本のうち、2割がOA出版)し、OAの掲載料は2017年で32億円に上る(第8章)。「捕食出版」や「ハゲタカ出版」としてたびたび問題にされるが、それらにも需要があり、詐欺とは言えない。問題は、システム全体の構造のほうにある。たとえばイタリアでは、被引用件数を業績評価に入れたところ、自国の引用が顕著に増加した。
2010年代には、行き過ぎた数値化への反対が相次ぐ:
- 2012年「サンフランシスコ宣言(DORA)」…PLoSやNatureも署名
- 2015年、Nature誌に「ライデン声明」…Elsevierも賛同
しかし、「残念ながら、口先だけの宣言や声明では研究の評価体制は改善されない」。
最近の動きとしては、2018年、HEFCEのディレクターなどが、改革案「プランS」を起草した。これは、当初は2021年以降は論文の発表を即時かつ完全OAな論文誌に限るという内容であり、欧州11各国の政府系研究助成機関が採用(助成総額は年間1兆円)。大手商業出版や学会出版もプランSに反対したが、その後、基準が軟化し、毎年一定の割合でOA割合を上昇させ、全体の75%を超えたところで完全OAに転換すればよいことになる。NatureやElsevierなども、プランS対応を進める。プランSは「学術体系の根幹に関わる重要提案」であり、国内ではもっと議論が必要だと著者は強調する。
最後の第9章では、学術誌と「学術データベース」の関係について触れられている。
「今の学術出版は、国家が科学につぎ込む資金を目当てにした政商に近い」
このように、本書を読んでわかるのは、研究という営みのインフラをなす学術誌出版というシステムが、研究者サイドの都合というよりは、むしろビジネス側の商機を見出す才覚によってつくられてきたという現実だ。しかも、現状を問題視する研究者たちの問題意識と運動が、次のビジネスチャンスに利用されるパターンが反復されていく。
本書での歴史的振り返りを踏まえて、著者は「おわりに」にて、強いメッセージを発している。いわく、かつては、国際集会でも予稿集などの編集は研究者がボランティアで行っていたが、今はすべて外注できるようなった。そうした「学術誌の商業化」の問題は、その費用が公費(税金)で賄われている点だという。
今の学術出版の有様は、国家が科学につぎ込む資金を目当てにした政商に近い。その変化が研究者や政策立案者に認識されていないがために、学術誌の購読料だけで日本の大学図書館が毎年300億円も払う事態に陥っている。(p.145)
研究者は、成果の発信・流通をもっと自分たちの手で制御すべきであり、とくに日本は
現状では高価な機器や薬品を海外から買い、汗水流した研究の成果を海外の学術誌に投稿して著作権を渡し、そして掲載された学術誌を割高な価格で購読している。(p.146)
そうした現実を直視し、むしろ
日本独自の考え方や哲学を世界に発信すること、それができる人材の育成こそが重要だ(p.146)
という。
感想
歴史の読み物としても大変面白いし、多少研究の世界に関与している立場からしても、知っておかねばならないことがまとまっていて、大変有益な本だった。論文執筆から掲載までの流れなども丁寧に書かれているので、その経験が少なくても読みやすく、ありがたかった。
このテーマについては、「誰も現状でよいとは思えないが、どのように手を打ってよいかもわからない」といった込み入った状況があることがよくわかった。大手出版社を悪者にすればいいというものではないし、大手出版社が学問にポジティブに貢献している面も多々あるだろう。よくよく検討が必要だが、欧州の研究助成機関がプランSを採用したように、政策的に効果的な介入をする余地もあるのだろう。