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読書メモ:「人工知能」前夜(杉本舞 著)…本気の科学史からAIを考える

 

「人工知能」前夜

「人工知能」前夜

 

1940~1960年代の計算機科学と人工知能研究史をたどった一冊。著者の杉本舞氏は20世紀の科学技術史、とくに1930~1950年代のコンピューティングの歴史を専門とする科学史家だそうだ。

ブーム到来と言われて久しい人工知能(AI)だが、研究分野としてのAIはどんな歴史を経て現在にいたっているのか。最近のAI関連書や解説記事では、「チューリングフォン・ノイマンがいて、『ダートマス会議』で初めてAIという言葉が登場して、その後3回のブームと2回の『冬の時代』があって……」という説明がお決まりになっている。でも、これだけでは、AIという定義があいまいな概念の正体をつかむには足りない。もっと本気の科学史が必要だ。

第3次AIブームがひと段落しかけて、みんなが「AIって何だったっけ?」と考え始めている今だからこそ、AI研究の「源流」をたどった本書はまさに待望の一冊と言えるだろう。相当期待して読んだが、その期待をはるかに上回る面白さだった。

「AI=脳」のアナロジーはいつから?

本書には「コンピュータと脳は似ているか」という副題がつけられている。

たしかに、AIはよく「脳」になぞらえて紹介される。研究レベルでも、「脳から学んだ機械学習の方法を使う」「人工知能を人の脳に近づける」といった掛け声が聞かれるし、「脳と機械を一体化させる」といった試みすら行われている。

では、いつから機械(計算機)と脳は類比されるようになったのか。そして人々は、そのアナロジーをどう正当化してきたのだろうか。この気になる問いを軸に、本書は構成されている。

21世紀の私たちは、ともすればこう考えてしまうかもしれない:

  1. まず、コンピュータが発明され、計算機科学が登場した(?)
  2. 次に、「人工知能(AI)」の分野が成立した(?)
  3. 最近になってAIが十分に進歩したので、「脳」との対応が考えられるようになった。(?)

しかし、本書を読むとわかるように、実際の歴史の順番は、これの真逆なのである:

  1. まず、計算する機械があった。人々はそれを脳になぞらえた。
  2. 計算をする機械はコンピュータと呼ばれるようになり、その動作を数学的な理論によって説明したり、生物の神経系と結びつけるような研究が進展していった。
  3. 20世紀中盤になって、計算機科学と人工知能の概念がほぼ同時に誕生した。

このことだけでも、私たち現代人には十分な意外性があるはずだ。本書はさらに、この大きな流れを構成するディテールを描くことで、大小さまざまな通説的理解を覆してくれる。

人工知能」前夜:1章~5章

第1章ではまず、20世紀初頭の計算機と脳科学の状況を概観し、「計算機=脳」の比喩がこの時期にすでに登場していたことが紹介される。微分などの演算を歯車や電流を使って行うアナログ計算機や、射撃制御装置といった初期の計算機に対して、当時の一般向け科学雑誌は「機械の脳」といった比喩表現を多用していたのだという。自動車を「ウマなし馬車」と呼んだ感覚に近いだろうか。

続く第2章では、そうした比喩的な一般向け説明の典型例として、エドモンド・バークリーが1949年に書いた『巨大頭脳(Giant Brain)』という本を取り上げる。バークリーは計算機の可能性に魅せられてその普及に注力した人物で、啓発書を書いただけでなく、コンピュータの動作を理解させるための教育用キットを開発するなどしている。今でいう、精力的な「科学コミュニケーター」といったところだろうか。そのバークリーもまた、「コンピュータ=頭脳」の比喩を多用した。とりわけ著者は、バークリーが1938年のシャノンの論文をその比喩のよりどころとしていたことに着目する。実際にはしかし、シャノンの論文が直接的に計算機の開発者たちに影響を与えた形跡は少なく、バークリーによるシャノン論文の援用は、自分の世界観を構成するための単純化だった。わかりやすさの落とし穴という、現代の科学コミュニケーションにも通じる問題が垣間見える章だった。

第3~5章は、それぞれウィーナー、フォン・ノイマンチューリングという3人の研究者たちが取り上げられ、彼らがそれぞれどんなスタンスで計算機と脳のアナロジーに向き合ったかが描かれていく。

まず、ウィーナーは「サイバネティクス」という学際領域をぶち上げた。サイバネティクスは、何らかの目的を達成するシステムが必ず「ネガティブフィードバック」という共通のしくみを用いていることに着目し、その視点から生物と機械とを統一的に扱おうというムーブメントだった。ウィーナーは計算機開発の中心にいたフォン・ノイマンを巻き込み、サイバネティクスの運動を盛り上げようとしていく。が、そこにはウィーナーが意図したような「フィードバック制御」を軸とする立場とは違う研究者たちも集ってくることになり、一つにまとまらない。結局、サイバネティクスは「1950年代に至って次第に下火になって」いく。

しかし、ウィーナーは一つ重要な役目を果たした。それは、フォン・ノイマンにマカロック&ピッツの1943年の論文を紹介したことだ。この論文との出会いが、フォン・ノイマンがまじめに脳と計算機の対応を考えるきっかけとなる。彼は、それまでのフワッとした比喩ではなく、計算素子レベル、つまり脳のニューロンと計算機の真空管(など)の対応をまじめに考え始める。第4章ではフォン・ノイマンの講演が引用されているのだが、そのなかで脳と計算機を比較することを「心をそそる楽しいこと」と語っている。まさに、20世紀最大級の天才は「脳はどんな機械なのか? 機械はいかにして脳になれるのか?」という問題に好奇心を向けていたことがわかる。しかし、これらに直接挑むのは難しすぎるということで、フォン・ノイマンはシンプルな生物にターゲットを変え、自己増殖オートマトンなどの(いまでいう「人工生命」的な?)研究を始める。いずれは「機械と脳の類比」の研究に戻るつもりだった形跡はあるが、その前に生涯を終えてしまう。

3人目はチューリング。1936年の論文では「チューリングマシン」の概念を発明し、後年の論文「計算機と知能」にて「チューリングテスト」の概念を提案したチューリングなので、彼がコンピュータとAIの分野に与えた影響が計り知れないのは当然だ。けれども、ウィーナーやフォン・ノイマンと違って主に英国で活動していたチューリングは割と独自路線をいっており、「脳と計算機の類比」に関しても二人とはまた違う考え方を持っていた。とくにこの第5章で興味深いのが、マカロック&ピッツは「脳をチューリング機械として扱うこと」を意図したのに対し、チューリングはむしろ脳はチューリングマシン以上のものだと考えていたという指摘だ。アメリカの研究者が、いかに脳がチューリングマシン並みの計算力をもっているかを示そうとしているときに、当のチューリングチューリングマシンは脳にはかなわないと考えていたというのは、皮肉というかなんというか、とにかく面白い。チューリングも、後年にはいったんコンピュータと知能の研究からは離れ、その間に死を遂げてしまう。

人工知能」登場:6章

最終章では、いよいよ「人工知能(AI)」という言葉が登場するダートマス会議(1956年)と、その前段となった論文集が主題となる。この会議や論文集では、マーヴィン・ミンスキージョン・マッカーシーといった、ウィーナーやフォン・ノイマンの一世代下の研究者が中心となる。彼らのアプローチの特徴は、「知能をもつものと同じ構造の機会を作るというのではなく、内部構造の類比にかかわらず機械に知能がおこなうような仕事をさせるという方向へ舵を切っ」たことだった。「空を飛ぶのに鳥の翼でなくてもいい」というやつだろうか。こうして、黎明期の「AI」研究は、「プログラミングを用いて機能を模擬的に実現する」というスタイルとなった。そしてこの時期に特筆すべき事象として「計算機科学(computer science)」が誕生する。計算機をプログラムするために学ぶべき内容が、カリキュラムとして整備され、大学で教えられるようになったのだ。それが、ちょうどAIが誕生した時期と同じだったというのは面白い。

さらに、第2次、第3次ブームの今へとつながる流れを足早にたどったところで、本書は終わっている。

第3次AIブームの「脳=AI」の対比をどう捉えればいいか?

以上、私が面白いと思ったところを中心に、本書の流れをざっと見てきた。フォン・ノイマンサイバネティクスに加わりながらも微妙にウィーナーの議題設定には乗っかってこないところとか、チューリングは意外とアメリカの大きな流れとは没交渉だったりとか、丹念に歴史資料を調べた本書だからこそ知れたことが多かった。

最後に一つだけ、おそらく多くの情報系研究者が突っ込むだろう点を、敢えて取り上げておきたい。それは、本書ラストにおける現在のAIブームの評され方についてだ。そこでは、たとえばこんな記述がある。

しかし、依然として脳との類比でコンピュータを理解しようとする一般人は今でも多く、そのように一般向けに解説しようとしている記事も少なくない。これには、1940年代や1950年代の研究に端を発する専門用語が今も断片的に残っていたり、チェスやゲームをするコンピュータ(あるいはプログラム)に代表されるような、1940年代当時からの伝統ある研究課題が現在も継続していたりすること、そしてそういった研究が注目されやすいことも影響しているだろう。そういう意味では、現在の人工知能研究は、研究手法や研究内容も実は新しいものであるのに、その捉えられ方だけが昔の名残をとどめているように見える。(p.208-209)

ここに書かれていることはたぶん正しい。「脳との類比でコンピュータを理解しようとする一般人」の多くは、確かに古いイメージで誤解しているだろう。また、1940~50年代の歴史を知っていれば防げる誤解もたくさんあるだろう。

ただ、一部の研究者からこんな声が聞こえてきそうだ。「今度こそ、私たちは脳を作ろうとしているのだ」。実際、1960年代に脳から離れる方向に振れたAI研究の振り子は、いままた脳に戻ってきているように思える(ごく一例を挙げれば、20年以上前に書かれた強化学習のバイブルと呼ばれるSutton&Barto著は、今年出版の第2版にて強化学習神経科学の対応についての記述が何百ページも追加されている)。私たちは今、マカロック&ピッツやフォン・ノイマンのころとは比較にならないほど精緻な、学習機械と脳とのアナロジーを手にしている。だから、今後登場するコンピュータの一部は、本当に脳との類比に耐えうるものなのだ!

もしこのように主張する人がいたとして、この意見は正当化できるだろうか?

もちろん、20世紀半ばの研究史をテーマとする本書にその答えを期待するのは間違っているし、そもそも今はまだ誰にも答えられないだろう。むしろ、50年後の科学史家が、いまの状況をどのように概括しているかを想像してみるのが楽しいかもしれない。個人的な予想は、「あの頃の脳とコンピュータ(ディープラーニング)のアナロジーは、相当緩かったね」「そもそも人工知能ってなんだったんだろうね」となるというものだが、さして根拠はない。

 

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フォン・ノイマンについては、記憶の脳科学について調べた際に行き当たっており、下記で触れた。やっぱり、フォン・ノイマンというのは「脳とコンピュータの類比」について歴史上一番真剣に考えた人なのかもしれない。

あとがきで言及されていた、キャシー・オニール著。