重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

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読書メモ:科学とはなにか(佐倉統 著)…科学技術を「生態系」として語る

 

2020年はとくに「科学とはなにか?」を考えたくなる一年だった。

感染症対策で専門家会議や分科会が組織され、連日テレビには様々な科学者が出演して意見を述べていた。日本学術会議の問題では、政府への提言を行う学者組織に国費を投じる意義、期待される役割などが話題になった。

一連の出来事から見えてきたのは、

  • 私たちが、いかに科学者に頼っているか

ということ、しかし同時に、

  • いかに私たちが、科学者にどう頼ればいいのかをわかっていないか

ということではないだろうか。

日本は現在、多くの国家予算を科学に投じている。私たちは、科学者たちにどんな働きを期待しているのだろう。社会として何を負託しているのだろう。

今、日本の社会にとって「科学」とは何なのか?

2020年12月下旬に刊行された佐倉統『科学とはなにか』は、それを考えるのに絶好の一冊だ。軽快な文体でエッセイ風のエピソードも交えていて、「科学論」の入門書としてはこれ以上なく読みやすい本だと思う。

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科学とは何か。科学はどうあるべきか。国は科学にどれくらい投資すべきか。科学者は社会に対してどんな責任を負っているか。こうした問いに対して、本書は唯一の答えを出さない。むしろこれらの問いへの答えは、「時代により地域により、さまざまに変遷してきた」(p.69)と著者は言う。

どのように変化してきたのか。その歴史が第3,4章で足早にたどられる。もともと科学は「役に立ってこそ」のもの、「権力の道具」としての面が強かった。だからこそ、ダ・ヴィンチガリレオも、自らの知識の有用性をパトロンたちに売り込んだ。しかし1830年のジョン・ハーシェル『自然哲学研究試論』を皮切りに科学が技術と分離し、「科学のための科学」が登場する。20世紀に入ると「国家のための科学」が前面に出始め、科学を動員した世界大戦も起こる。その後もイノベーションの源泉としての基礎科学を国家が推し進めてきたが、20世紀後半には、科学技術の担い手が国家から民間企業に移る。

20世紀の最後の四半期は、19世紀後半に制度化された科学研究のあり方が大きく変質した時代であったと捉えたい。科学を駆動する原理が、知識の獲得や国家への貢献から、経済の原理へと変わったのだ。(p.130)

そして、20世紀の終わりになると、「社会のための科学」という考え方が前面に出てくる。「冷戦後の、あるいは21世紀の科学技術は、一般市民、生活者、社会のためのものである」(p.133)と著者は言う。出世から死亡まで、「人生そのものが科学技術に縁取られ」るようになり、科学技術をいかに「社会のため」に使うかが重視されてきている。科学と技術は本来異なる活動だが、このように現代では両者は融合してきている。そのため本書では「科学技術」という言葉が多用される。

現代が「社会のための科学技術の時代」であるとすると、科学を社会の中でどう使うかという課題が出てくる。いわば「科学的知識と日常的知識(あるいは日常知)の軋轢」(p.145)の問題である。厳格なプロセスが必要だったり、不確定性をもっていたりする科学的知識は、日常的に私たちが必要とする知識とは異なる。私たちは間違った仕方で科学的知識に飛びついてしまったり、使い物にならないと捨ててしまったりする。著者は、事実と価値の問題を混同しないことや、私たちの認知的傾向をなどを踏まえた科学的知識の「飼い慣らし方」が大事だと指摘する。

科学的知識と日常的知識とを、対立するものとして捉えるのではなく、相互に補完するものとして捉えるべきなのだ。p.151

何が善かは、ぼくたちが決める。その際に考慮すべきさまざまな――実にたくさんの、しかも多様な――条件や要件のひとつとして、科学的知見があるのだ。p.192

この理想は、なかなか実現しない。2011年の原発事故のあと、著者は、原発の専門家を批判しまくるジャーナリストと、市民の無知や行政のせいにする無責任な専門家を目の当たりにする。専門家が悪いのか、市民(行政)が悪いのか? コロナ対応でも繰り返される、不毛な責任の押し付け合いだ。

こうした苦い経験をふまえ、「科学の飼い慣らし方・実践編」と題した第6章にて、著者は踏み込んだ提案をする。「尊大な専門家主義と傲慢な反知性主義の、両方に戦いを挑む二正面作戦」だ。

あえて自らを二正面戦争状態において、勝ち目はあるのか? SNSでひたすらディスられるのが関の山ではないのか? いや、ここで勝てばよいのだ。二正面作戦に勝利するための戦略は二つある。ひとつは、今は当事者になっていない国〔人〕を引き込んで、敵も二正面戦争状態にすることである。もうひとつは、「敵」の中に同通者を増やすことである。p.166

「専門家・生活者両陣営内の共鳴者と連携していくこと」の実践として、自然科学における「新しい野の学問」、「市民科学(シチズン・サイエンス)」、「当事者研究」などが紹介されていく。とくに「生物学などの科学的な成果を使って、差別を受けたり抑圧されている立場の人々が、自分たちの存在の正当性を主張していく活動」である「生物学的市民権(biological citizenship)」の動きはとても面白いと思った。権力側からでなく当事者の側からの科学の「飼いならし」の事例として紹介されていて、なるほどと思った。

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科学技術は生態系である。このことを著者は何度も強調する。その心は、「科学」の在り方や役割はそれを取り囲む「環境」、つまり「社会」の在り方と相互依存的な関係になるということだ。したがって「日本の科学力が低下している」という問題意識も、「今」の「日本」の社会の現状や、そのなかでの科学の状況、科学に期待されること、科学の受益者である私たちの状態と切り離して議論しても意味がない。

日本の科学技術政策について、著者は手厳しく指摘する。

科学技術は歴史的な産物であり、生態系である。その多様な成立条件や経緯を無視して、近視眼的にシステムの一部だけを変えても、決してうまく機能しない。そのことは、国立大学法人化以降の、日本の科学技術の低迷ぶりが端的に示している。2004年に日本の国立大学が法人化されて以降、科学論文の生産数は激減している。その他にもさまざまな指標が同じ傾向を示していて、日本の科学技術力が急激に衰退していることは明らかである。これこそが、歴史的経緯を無視した近視眼的な制度改革の結果なのだと思う。p.216

そのうえで著者は、日本の科学の活路をあきらめない。テクノアニミズム、ミディアムサイエンス、衣食住など、いくつかのキーワードを出して日本の科学のアドバンテージの可能性を探っていく。また「社会のための科学」を研究者に押し付ける政策にも、著者は配慮が必要だという。

日本の研究者に対して、社会に貢献しろとか役に立つ研究をしろとか、もっと一般向けに情報発信しろとか、外側から強い圧力をあまりかけすぎないほうが良いのではないかと思う。ただでさえ、しんどい状況に置かれていて、自分の専門の研究分野で英語圏の研究者たちに伍してやっていくだけで、相当の負荷がかかっているのである。そこのところは、理解してあげてほしい。p.234

「しんどい状況」に置かれている研究者が何人も思い浮かぶので、ここは大きくうなずいた。

おわりに

以上、かなりざっくりと本書の内容を見てきた。そもそも著者が霊長類学から科学論に転向した経緯を記した第1章などには触れなかったが、そこも面白かった。

著者自身が「この本の書き方も、相当おおざっぱで荒っぽい」と書いているように、科学史や科学社会論のディテールを知るというよりは、大づかみに、科学の捉え方・語り方を知る本として読むのがよいと思う。個人的には、「生態系としての科学技術」という考え方が目からうろこで、今後使わせてもらうことになると思う。

分野を問わず「科学者の役割」や「科学との付き合い方」について考えたい人には、ぜひ読んでみてほしい。当事者でない人はいないはずだ。

誰の人生も、世界と一緒に動いている。科学技術と一緒に動いている。人と社会と科学技術は、複雑な生態系をなしている。p.119

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