重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

読書メモ、探究メモなど。

2020年の一冊:『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』

2020年もあと数時間。COVID-19の日次感染者数は指数関数の上昇カーブのさなかにある大晦日の今日は、何かを「振り返る」タイミングには向いていないのかもしれない。とはいえ年が変わる。まがりなりも時間に句点(読点?)を打っておきたい。

今年は、どんな年だっただろう。

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昨年の今ごろ自分の頭を占めていたのは、2019年10月の台風19号のことだった。そこにコロナがきた。台風とのダブルパンチで、今年の秋はいよいよ「Xデイ」が来るかと思った(自分自身が何かに”被災”する日を心の中でそう呼んでいる)が、そうはならなかった。8月の「第2波」は収束し、台風は関東に直撃しなかった。

「新しい日常」という標語が登場した。「ニューノーマル」や「新しい行動様式」はまだしも、この言葉はしっくりこなかった。「新しい日常」を唱えながら「従前の日常」を続けている人の隣に、「非日常」もしくは「非常」事態を生きている人がいる。そもそもコロナ以前に定常的な「日常」などあっただろうか。どこか性急な言葉に聞こえた。

一方、「新しい現実」なら飲み込みやすい。世界はだいたいこうなっている、自分はそのなかでだいたいこう生きている、という意味での「現実」だ。2020年を経て、たぶんみな、何らかの意味で「新しい現実」を生きているのではないか。

緊急事態宣言が出て、子どもの保育園が休園し、会社がテレワークになった。これも一つの「新しい現実」だった。外からの強制的な変化に加えて、自ら現実を変えたいという気持ちも出てきた。読書会を開いてみたり(開催メモ)、YouTube動画をつくってみたり(YouTubeチャンネル)、いろいろ手を出した。初めての転職もした(転職時に書いた思考整理メモ)。

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例年どおり、ここから今年読んだ本の紹介をするはずだった。が、今年は時間切れになってしまった(無念)。いきなり、「今年の一冊」に行きたい。

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現実を掴み、咀嚼し、それと折り合いをつけるうえでは、「言葉」が大きな武器になる。そのことを今年一番教えてくれたのは、何冊か読んだ哲学書よりもむしろ、次の一冊だった。

著者は漫才コンビ「オードリー」の若林正恭。一人で計画して出かけた、三つの海外旅行について綴ったエッセイだ。

キューバには社会主義を、モンゴルには定住しない家族を、アイスランドには自然を見に行った」(p.324)という著者。過密スケジュールの合間を縫った弾丸一人旅だけあって、切実な個人的テーマをそれぞれの旅に託している。

「自意識過剰でプライドが高く、協調性もない。少数派のくせに一人で立つ勇気を持たず、出る杭のくせに打たれ弱くて、口が悪いのにナイーブで、それなのに多数派に賛同できない」という「欠落」を自認する著者は、呼吸するスペースを探すがごとく、東京を発つ。

5日間、この国の価値観からぼくを引き離してくれ。同調圧力と自意識過剰が及ばないところまでぼくを連れ去ってくれ。…ぼくは今から5日間だけ、灰色の街と無関係になる。p.42

遠く離れた地の空気を吸い、解放感を味わいながら、その中で初めて、自分を苦しめてきたものの正体を、丁寧な言葉でつかまえていく。

この目で見たかったのは競争相手ではない人間同士が話している時の表情だったのかもしれない。…キューバの一番のお勧めの観光名所を紹介するとしたら、それはマレコン通り沿いの人々の顔だ。スマホが普及するまでの期間限定で見られる名所である。p.207

2020年に書き下ろされた文庫版のあとがきもよい。ギラギラ/キラキラした目をして新自由主義的な「勝ち組」になるか、生気のない目をして「世間」に埋もれて孤独に生きるか、その二択を強いてくるかのようなこの日本・東京の息苦しさ。それに対する苦々しさ。そこから逃れられない自らの弱さも含めて、見事に文章化している。

数年来の(そんなにヘビーではない)若林さんのファンである自分も、本書における筆致には意表を突かれた。著者一流の構成力・演出力が発揮されているのはたしかだが、それを差し引いても、本書には、著者が自分自身のために言葉を探した形跡がある。

著者の現実観に共感するか否かにかかわらず、「自分のための言葉」で「現実」を紡ぐ態度は、さらなる「新しい現実」に直面するであろう2021年を生きるうえで、体得したいものだ。