重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

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読書メモ:不定性からみた科学(吉澤剛)…科学の「暗さ」を見つめ、科学を語り合う

 

科学の語りがたさを語る教科書

科学とは何か。科学で何がわかるのか。自分たちにどんな恩恵があるのか。どうやって推進すべきなのか。誰が責任をもつのか。大学の役割とは、学問の価値とは……。

今ほど、多くの人が科学に関わり、そこに資金が投じられる時代はないだろう。そしてその影響も絶大だ――良しにつけ悪しきにつけ。インプットもアウトプットも肥大化する科学はどんどん複雑になり、それを語ることもますます難しくなっている。

社会の中での科学という営みをどうとらえ、どう語るか? 昨年末に出た佐倉統『科学とは何か』読書メモ)は、「生態系」としての科学技術の見方を提案する。科学について語り合うきっかけとして最適な一冊だった*1

佐倉著が「科学をどう語るか?」への入り口となる”入門書”だとすれば、今月の新刊である吉澤剛不定性からみた科学』は、より体系的に語り合うための”教科書”として読める一冊だ。

とはいっても、この本に何かの「答え」が書いてあるわけではない。むしろ、本書は科学の「分からなさ」をフィーチャーする。科学哲学、科学技術社会論、科学コミュニケーションなどで蓄積されてきた議論を広く紹介しながら、科学の語りがたさの理由を多角的に描き出していく。

理念としての「明るい科学」、現実の「暗い科学」

キーワードは不定性(incertitude)。「暗さ」という表現も使われる。定まっておらず、暗くて見通しが悪いということだ。そして科学の「暗さ」に向き合う態度、営みを、著者は「ダークサイエンス」と呼ぶ*2

科学はどんな意味で「暗い」のだろうか。本書の中身を見る前に、ブログ筆者なりの見取り図を描いてみたい。

思考の体操として、いっさいの「暗さ」がない科学を考えてみる。 ダークサイエンスを反転させた、いわば「ブライトサイエンス(bright science、明るい科学)」だ。

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すべてが白日のもとにある、理念的な「ブライトサイエンス(明るい科学)」※

※吉澤著『不定性からみた科学』における「ダークサイエンス」を反転させたものとして丸山が造語。

ブライトサイエンスは次のように営まれる。

  1. 明確に定義された「対象」に対して、適切な「方法」を用いた研究が行われ、「知識」が生み出される。
  2. 明確な基準により、研究者は「評価」を受ける。
  3. 生み出された知識は、産業や教育の場面でしかるべく「翻訳」され、
  4. 社会の中で「利用」される。
  5. よりよい未来に向けて、学問にさらなる負託がなされる。

もし科学という営みが、こんな風にシンプルに理解可能だったなら。科学の目的に照らして、その課題を見つけ、処方箋を示すことも簡単だったことだろう。しかし、現実の科学には、いたるところに暗さ=不定が存在する。以下の図は、ブログ筆者なりに『不定性からみた科学』で取り上げられる「科学の暗さ」を配置してみたものだ(注意:あくまで筆者の理解に基づく図解)。

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現実の科学には、あらゆるところに「暗さ」がある。

吉澤著『不定性からみた科学』の丸山(@rmaruy)の理解による図解。

上図が正確なまとめになりえているかはともかく、伝えたいポイントは、科学という営みのいたるところに「定まらなさ」があって、先ほどの「ブライトサイエンス」における「分かりやすさ」を阻んでいるというイメージだ。

科学の見通しを悪くする様々な「不定性」

第1~8章では、種々の「不定性」が取り上げられていく。ごくごくかいつまんで、その中身を紹介する。

  • 第1章「科学」:科学が扱う「対象」そのものに不定性がある。物理学の不確定性原理に象徴されるような「何が存在しているといえるのか」についての原理的な不定性(存在の不定)に加え、それをどう知覚し、意味づけ解釈するかというところにも不定性がある(認識の不定)。人文・社会科学の分野では、そうした存在や認識の不定性はなおさら大きなものになる。
  • 第2章「研究」:「対象」が定まったとしても、それについて知るために行われる研究のプロセスのなかにも、「アプローチの固有性、暗黙知の共有、偶然性の扱い、機器や設計への依存、観察者効果、研究者の作為」(p.38)などに起因する不定性がある。また、「その研究はやってよいのか?」というその時代・社会ごとの規範も、研究方法に制約を及ぼす(方法の不定)。
  • 第3章「組織」:科学は個人的な活動でははく、学会などのコミュニティの中で営まれる。「研究」の結果どんな知識が得られるかは、この組織の在り方にも依存する。近年は科学は科学で閉じなくなってきており(モード2の科学、ポスト通常科学)、それにより「科学は内部の論理や規範ばかりでなく組織的・社会的文脈によって活動が規定されることがあり、科学の共和国で脈々と累進させてきたはずの科学的知識は社会という文脈の不定に置かれている」(p.50)。学会にも社会との対話や分野を超えた協働など、新しい役割と責任が求められるようになっている。
  • 第4章「評価」:どんな研究結果が生まれるかは、研究がいかに「評価」されるかに影響を受ける。論文のピアレビューや引用件数に基づく評価も絶対ではなく(再現性、オーサーシップの問題、etc.)、新たな研究評価の方法は常に模索されている(評価の不定)。さらに、「学問における特定の分野や方法論に対する他の研究者コミュニティからの攻撃」(p.82)に端を発する「科学の戦い」(サイエンス・ウォーズ)もしばしば勃発するほか、事業仕分けで顕在化したように「研究者コミュニティと社会が衝突することもある」。
  • 第5章「大学」:大学という場で、論文等の形で無事「知識」が生み出されたとして、それが学生や学外へどのような形で伝わるかは分からない(翻訳の不定)。特許の獲得や大学発ベンチャーによる産業界への知識移転(アカデミック・キャピタリズム)を含む、大学の社会的責任としての「第三の使命」が求められるなか、「特に日本では、政府、大学経営陣、教授会、そして研究者個人という異なる階層間での意思疎通や信頼関係に乏しく、大学から社会への知識の移転・翻訳はもとより、各階層間での知識の移転・翻訳を進める意義も見出しにくい」(p.103)現状がある。
  • 第6章「社会」:科学が生んだ「知識」は社会のなかで「利用」されるが、その利用のされ方は予見できない(利用の不定)。とくに科学と政治のあいだには、どこまでが科学でどこまでが政治の領域なのかという、境界をめぐる闘争が常にある。また科学から社会への知識は一方通行ではなく、「社会的要請に応える形で知識生産を促し、研究者と実務者のそれぞれの知識を≪つなげる≫活動」としての知識交流(knowledge exchange)がなされる。したがって、科学に関して責任を担うのは科学者だけでなく、「科学に対するあらゆる関与者が共同で責任を担えるようなガバナンスの構築」(p.126)が必要とされている(責任ある研究・イノベーション、ELSI)。
  • 第7章「世界」:「研究活動およびその支援や評価、コミュニケーション、成果の普及や利用に関わる組織やネットワーク、制度や政策を包括する知識システム」(p.135)を含むものとして「学問」を捉えた場合、「なぜ学問をするのか」、「どこで誰が学問をするのか」ということも曖昧となる(学問の不定)。専業で研究をしていない人が学問の担い手になることもある(オープンサイエンス、市民科学)。また近年のデジタル化とグローバル化は、「個人と世界との頻繁で複雑な相互作用は、専門家と市民といった区分やお互いの責任を徐々に曖昧なものにしていく」(p.157)。
  • 第8章「未来」:学問の存在意義は、人々が「未来」をどのようなものと捉えるかに依存する。21世紀に入ると気候変動やパンデミックなどによる人類の存続リスク(existential risk) が語られ、プラネタリー・バウンダリーなどの議論が突きつけるような「未来についての知識がそれほど不定ではない」という意味での「未来の暗さ」に私たちは直面している。そうした「暗さ」への反応としては、先端技術に解決策を求める「解決主義(solutionism)」に(さもなくば「反知性主義」に)傾きがちだが、資本主義的に根ざした解決主義的な営みが人類の危機を助長したのも事実である。そこで「ダークサイエンス」を提唱する。

ダークサイエンスとは、科学があらゆる側面において資本主義の粘着性や人間の脆弱性と切り離せない現状にあって、理性を超えた存在の不安や不気味さ、未来の可能性の閉塞、学問という〔ママ〕存在意義のゆらぎという、存在、未来、学問の不定性がもたらす知性の暗さに向き合う反省的な科学的営為である。(p.174)

  • 「学際研究は、現在の問題に対する安易な解決策ではなく、未来に対して責任を持つものでなければ」ならず(p.175)、ポスト真実の時代には「学問の不定性に関するコミュニケーション」が求められる。(ここでは、その実践例として、香川県島根県で著者が関わったアートやフィールドワークを介して科学のコミュニケーションを図るプロジェクトが紹介される。)問題解決を基調とする「モード2」の科学から、踏み出していくことが求められている。

不定性に向き合い「踏み出す」態度

以上は各章の内容のごく一部を紹介したものだが、これだけからもわかるように、科学という営みには不定性=暗さが遍在している。誰一人として、個人ではその全体を照らし出すことはできない。たとえば、ある分野の研究者は、自身の研究がどう「利用」されるかは予見できないし、自身の分野が多分野や社会一般からどのように価値づけられるかはコントロールできない。科学に関する政策立案

者たちも、不良な視界のなかで一つ一つの判断をしていくしかない。

そこでは、ある特定の個人や立場からいかによい見晴らしを得るかということよりも、異なる立場どうしでコミュニケーションを行うことが重要になる。最後の第9章「知識の不定性」にて、著者は「未知」へ向き合う三つの態度の態度があるという:

  • 無知の知*3を認めて≪引きこもる≫」
  • 「自らの暗黙知を過信して≪踏み荒らす≫」
  • 「無知の無知の知を意識して≪踏み出す≫」

引きこもる」とは、自分にはあずかり知らぬ分野や論点があることを認め、そこにはタッチしないという態度のことだろう。「敬して遠ざける」態度と言い換えてもいいかもしれない。一方「踏み荒らす」人は、本来自分の経験や知識が及ばないテーマについても強気に出て、乱暴な言説をふりまいたりする*4。著者が推奨する第三の態度は、自分に見えていないものがあることを自覚しながら、対話に乗り出すことだ*5

自分の視角から「科学とは○○のため」「科学の恩恵は○○だ」「現行の科学政策の問題点は○○だ」と語りたくなる前に、まずは社会の中での科学という営みがはらむ様々な「不定性」を直視し、異なる立場の人との対話に乗り出そう、まずはそれからだ――本書から、そんな力強いメッセージを受け取った。

科学や研究のデジタル化やグローバル化、分野や職業のジャンル化、そしてそうした組織や評価、社会にしたがうことが学問であるという私たちの順応そのものが、学問の未知性を失わせている。(…)研究対象の文脈、研究の分野や方法論、研究する組織や制度、成果の発表媒体すらわからないような根源的未知と向き合った研究者はどれほどいるだろうか。(p.215)

根源的未知に向かうことができるのは、不定性を突き詰めた者だけである。(p.217) 

おわりに

以上、わりと強引に自分の関心に引き付けた感想文となってしまったが、本記事の文脈に限らず、科学技術政策や科学コミュニケーション論について一通りのトピックを押さえておきたい人は必携だと思う。とくに「註」がものすごく充実している。本文は「教科書」として、註は「資料集・文献ガイド」として、とても利用価値の高い内容となっている。

*1:開催記録メモ:2021/1/14『科学とはなにか』(佐倉統 著)オンライン読書会 - 重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

*2:「フォースのダークサイド(暗黒面)」のような「悪」のニュアンスはない。

*3:余談だが、「無知の知」という言葉については納富『哲学の誕生』が必読。読書メモ:哲学の誕生(納富信留 著)…無知の知から、不知の自覚へ - 重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

*4:佐倉統『科学とは何か』の「尊大な専門家主義」と「傲慢な反知性主義」におおまかに対応しているように感じる。

*5:一方個人的に要注意だと思うのは、自分では「踏み出している」つもりでも、実はまだまだ「引きこもって」いたり、意図せず「踏み荒らして」いたりする可能性についてだ(私自身、どちらの誹りを受けたこともある)。「踏み出す自分」を過信してはいけないだろう。