重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

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読書メモ:記憶と人文学(三村尚央)…記憶の何が私/私たちにとって切実なのか

実家にいたころ、私の母は、毎日欠かさず一行日記をつけていた。それが全部手元にあるので、「何年の何月何日は〇〇していたよ」などと瞬時に調べてみせるのだった。そんなマメさが当時は少々不気味だったが、私もいつからか、日々の記録をつけるようになった(毎日とはいかないけれども)。かれこれノート20~30冊になる。

なぜ記録をつけるのか。あくまで私の場合だが、それは自分の「記憶」が頼りなく、そして、忘れてしまうことに感じるある種の「切なさ」のせいだと思う。別に何の変哲もない日々だし、ことさら鮮明に覚えていたいわけでもないし、正確に思い出せる必要性を感じているわけでもない。しかし今日という時間の流れが「無かったのと同じ」になってしまうかもしれないという、喪失感に耐えられないのだろう。日記を遡って読むことなどなにもかかわらず、ノートの束が押し入れにあることに謎の安心感を覚える。

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生物学の見地からすれば、記憶は「未来のため」にある。過去の出来事を踏まえて、将来適応的な行動をとる。それが記憶の「機能」だとされる。鳥がエサを隠した場所を覚えておくのは後で食べるためだし、実験室のマウスが電気ショックを受けた部屋を覚えておくのは、未来にそれを避けるためだ。

しかし、私(や母)が日記をつけて散逸を防ごうとしている「記憶」は、必ずしも「未来のため」ではない気がする。そこには、「生物学的機能」に回収できない、「甘酸っぱい」とか「ずきずき痛む」とか表現されるような、記憶のエモーショナルな側面が関与しているように思われる。

生物学に還元できない記憶の側面。いわく言い難いものではあるけれども、「一切語ることができない」というわけでもない。むしろ、多くの文学や映画作品の題材になってきたし、人文学からの多くの研究の蓄積がある。

先月刊行された『記憶と人文学』は、そうした人文学的な記憶研究の世界をガイドしてくれる一冊だ。豊富な文献・作品を取り上げ、丁寧に解題しながら、記憶の「私たちにとっての意義と意味」を掘り下げていく。

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生物の行動や生理現象を介して記憶を定量化する自然科学と違って、人文学が扱うのは私たちの第一人称的な記憶の体験だ。それは目で見ることはできないから、何らかの「媒体」を通して捉える必要がある。

本書前半では、写真(第1章)、身体(第2章)、場所(第3章)、物品(第4章)という各種の「媒体」に着目する。

第1章では、古い写真を見たときに湧き上がるなつかしさ(ノスタルジア)をとっかかりに、写真と記憶の多面的な関係性について論じられていく。写真は一見、過去の場面をそのまま映したもののようでいて、撮影者の演出や意図が反映されている。それは「改変可能性(可塑性)を大いに含みながらも、想起された記憶の「真実らしさ(本物らしさ、真正性)」(authenticity)」(p.38)を担保するようなメディアだという。また写真の登場により「私たちが日常的に見ているものの奥や裏には、肉眼ではとらえられない層が秘められている」(p.40)という現実観が立ち現われたことや、写真をあとから見る者たちが共同で記憶が「再構築」する側面が取り上げられる。

第2章は、身体と記憶の関係について。身体に刻まれた記憶というと、心理学的には「自転車の乗り方を覚えている」などの「手続き記憶」(「非陳述記憶」)が思い浮かべられるが、著者によれば身体と記憶の結びつきはそれだけではない。私たちの身体は、マルセル・プルーストが「無意志的記憶」と呼んだような「主体を圧倒するほどの力と自律性を備える「深い記憶」」(p.74)に不意に襲われることがある。

第3章は、記憶と場所について。古来より、空間的位置や建築物内の配置に紐づけて物事を覚える記憶術が存在してきたことからわかるように、記憶と空間(場所)の関係は深い。また、場所自体に記憶が宿る感覚(土地の霊:ゲニウス・ロキ)や、記念碑などを建てることによって、「集合的記憶」の装置としての場所についても論じられる。

第4章はスーザン・スチュワートの『憧憬論(On Longing)』などを軸に、「物品に込められた記憶」について論じている。記念品などの物品は、「経験や場所の真正性」と結びついている、それに触れることで感じられるのは過去との「親密な隔たり(intimate distance)」であり、その隔たり(ディスタンス)こそがノスタルジアなのだとスチュワートは論じた。さらに、博物館の収蔵物のように、自身が体験していない出来事に結びついた物品を通して、私たちは他者の記憶を受け取ることができる。「だれかの記憶の物語(ナラティブ)が別の他者とも共有されうる可能性」が開かれる。

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写真、身体、場所、物品。これらは消え去った「過去」ではなく「今」ここにあるものたちであり、だからこそ、記憶を捉える「媒体」となる。特筆すべきと思うのは、いずれの「媒体」も、多面的な仕方で記憶と関わっているということだ*1。これらは

  • どれも「記憶を伝える(補助する)媒体」でありながら、
  • 記憶を呼び起こす引き金(トリガー、キュー)としても働き、さらに
  • 私たちの記憶観を形作るメタファー(モデル)の源ともなる。

たとえば「写真」は、それが撮影された過去の記録でもあり、それを見るものに様々な記憶を喚起する引き金でもあり、さらに「写真」というメディア(技術)そのものが、記憶のもつ「真正性」や「再構築性」といったような性質のメタファー(モデル)となる。同じように、身体も場所も物品も、記憶の伝達媒体であり、記憶の引き金であり、「記憶とは何か?」のモデルとなりうる。

このように、記憶の構成要素である「媒体」たちが、そのまま私たちの記憶観の材料になっている。一筋縄にはいかない、記憶の奥深さを思い知る。

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第5章、第6章では、では「私たちは自分の記憶、あるいは他者の記憶とどのように付き合ってゆけばよいのか」(p.18)という実践的な問題に踏み込んでいく。

私たちは忘却を恐れ、技術を駆使してそれにあらがおうとする(例:私の日記)。しかし、外部記録は記録の代替物なのかといえば、それは違う。「記憶」と「忘却」の関係を、「記録」と「消去」の関係のようにみなすのは間違っている。むしろ、記憶の「再構築性」 や「可塑性」を踏まえれば、忘却は記憶に含まれるものだといえる。

記憶と忘却はきれいに弁別できる対立項のようなものではなく、互いを含みこむような影響関係のもとにある。(p.158)

だからこそ、テッド・チャンのSF中編作品「偽りのない事実、偽りのない気持ち」(『息吹』所収)で描かれる、ライフログから過去の正確な状況をいつでも再現してくれる装置「リメン」について、私たちは「不完全だが温かい人間的な記憶」が損なわれてしまうのでないかといった不安を抱く。

しかし、ここで大事なひねりが加わる。たしかに記録と記憶は違うのだが、両者は深い関係にもある。ベルナール・スティグレールは『時間と技術』等の著作にて、「自分の頭と精神を使った記憶」(プラトンアナムネーシス:想起)と、「文字をはじめとする外部記録技術」(ヒュポムネーシス)の対立を取り上げ、それらが、実は「対立するものではなく相互に影響をおよぼし合うもの」だと論じた。著者はここから、「リメン」に積極的な意義を見出し、技術と記憶が「両者が補完し合いながら、新たに自分の「物語」(すわなち主体性)を編みなおしていく可能性」(p.174)を見出したテッド・チャン著の主人公の境地を読み解いている*2

ここは大いに納得できる。私たちはもはや、記録技術と一体化した「記憶」とともに生きている。あとから見返すことのできる日記やTwitterのタイムラインは、すでに私の「記憶」を構成しているという実感がある。ただしそれは「外付けハードディスク」による「記憶拡張」といった平板な関係性ではなく、もっとニュアンスに富んだ複雑な関係だ。だからこそ、どうよりよく記憶の技術的環境を設計するかが、難しくも重要な課題として突きつけられつつある(「記憶のデザイン」by 山本貴光*3)。

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第6章「記憶を継承するために」では、私たちが共同的としてシェアする記憶が主題となり、「「何を」「どの程度」、そして「どのように」継承すべき(あるいは忘れるべき)なのか、という切実な問題」が問われる。オーウェル 『一九八四年』で描かれた、あるいはナチス・ドイツで実際に行われたような、「権力による記憶と忘却の支配」にどう立ち向かうか。ポール・リクール、アライダ・アスマンといった専門家だけでなく、カズオ・イシグロ氏も文学者としてこのテーマへのコミットを公言しているという。そこでは、「記憶を当時のままに記録しておくことが、記憶の継承のための唯一の手段では」なく、「対話的に想起すること」が重要となる。

対話を重ねてゆくことで、私たち一人ひとりと他者との記憶とが結ばれ、両者の境界があいまいとなって混ざり合い、自分のものであるかのようにそれを引き受けて、継承の物語を紡いでゆく希望にもなりうることを信じたい。(p.213)

こうした「対話」に、今の自分がどれくらい時間を使えているかと思うと心もとない。

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テッド・チャンカズオ・イシグロ村上春樹の小説、『君の名は』をはじめとする映画など、多くのフィクション作品も題材にした本書は、読んでいてとても楽しい。一方で、読みこなす難しさもあった。それは、純粋に記憶を人文学的に捉えることそのものからくる難しさなのだろうと思う。本読書メモでも、この本で捉えらえている記憶の多面性の本の一部しか触れられていないと思うし、今後も繰り返し読む中で、新たな学びが待っていると思う。

それでも、本書を通じて、いろいろと見えてきた。一つには、飽き症な私に日記ノートを続けてこさせた「記憶と忘却」への想いの正体の一端をつかむことができたように思う。また、「私たちの自己(アイデンティティ)の根幹を支え、人々のあいだでの営みを結び合わせる記憶」の「私たちにとっての意義と意味をとらえなおす」(p.14)には、本書のようなアプローチが必要だということは強く納得できた。

今後ますます、「記憶の科学(神経科学や認知科学)」や「記憶のテクノロジー」が進展していくだろう。その中で、記憶の「私たちにとっての意義と意味」が置き去りにされないためには、そうした科学・工学と人文学の密なインタラクションが必要に思える。記憶をめぐる(神経科学を中心とした)諸学問について勉強を続けている筆者としても、何か橋渡し的な役割が担えないものかと思案している。

関連記事: 

著者の三村尚央先生による訳書。重なる部分もあるが、切り口が少し異なり、本書を補完する内容だと思われる。

*1:ここは、本書を離れた個人的な整理。

*2:ドミニク・チェン氏が、著書『未来をつくる言葉』にて、娘の幼いころの写真を娘とともに見る時間を楽しみながらも、そのことが本人に与える影響について思案する、といったようなことを書いている一節のことを思い出した。

*3:読書メモ:記憶のデザイン(山本貴光) - 重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)