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読書メモ:記憶のデザイン(山本貴光)

 

記憶のデザイン (筑摩選書)

記憶のデザイン (筑摩選書)

  • 作者: 山本貴光, 
  • 発売日: 2020/10/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

自分の記憶、大丈夫か? と、時々不安になる。人やものの名前が思い出せなかったり、漢字が書けなかったり、というのは前からあるが、それとはちょっと違う。

むしろ、最近深刻だと感じるのは、日々触れる情報が多すぎて、自分の頭がゴミ溜めのようになってやいないか、という不安感だ。

スマホを起動する。タイムラインを眺める。気になる記事に飛び、読んでいる途中にSNSのメッセージが入る。「この記事読んだ?」とある。さっそくリンク先を読み始めると、どことなく既視感がある。あれ、これ前に読まなかったっけ。そもそも、この人に紹介したの、自分じゃなかったっけ? 

……あれ、いま何してるんだっけ?

こんなふうに、自分がいつ、なぜ、どんな情報に触れていたのか、それを誰に伝え、何をか考えたのか、わからなくなってしまっている自分に、ハタと気づく瞬間がある。

気づかぬうちにとっちらかってしまった自分の記憶。ちょっとやばくない?

いま、誰しもが直面しているであろう「自分の記憶の課題」。これに正面から向き合ったのが、山本貴光さんの新刊『記憶のデザイン』である。

この本で考えてみたいのは、膨大な情報を扱えるようになった現在の情報環境と、それを使う人間の、とりわけ記憶のあいだに、よりよい関係を結ぶような仕組みをつくれないか、という課題である。言い換えれば、現在の情報環境を前提として、自分の記憶をよりよく世話するためにはなにができるか、という課題である。p.19

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まず、そもそも記憶とはいかなるものかの考察から始める(第1章)。たとえば、記憶とネット検索とを同列にとらえる人がいる。

私はこれまで、「ググれば分かるから、いちいちものを覚えなくてよくなった」と目の前の誰かが言うのを何度も耳にしてきた。(…)実際のところ、この主張はどこまで妥当だろうか。p.32

記憶しなくても、いまでは情報はネットにあるのだから、検索すればすむじゃん。著者は、こうした記憶観は間違っているという。ネットで検索するとき、人はすでに記憶を使っているからだ。

いくらネットという外部記憶装置に膨大な情報やデータがあり、それを検索で見つけて短期記憶に入れることができたとしても、肝心の自分の内部記憶、つまり長期記憶がそれを理解できるようになっていなければ意味がな〔い〕 p.75

プリンタが動かないとき、プリンタドライバーのエラーをネット検索して直せる人と直せない人がいる。それは、どんな検索語を使って、検索結果をどう使うかのところに能力差があり、それはその人のもつ「記憶」の差にほかならない。コンピュータの「記憶(メモリ)」と人の「記憶」は、混同してはいけない。

(…)ここで「外部記憶装置」と呼んできたコンピュータの記憶装置という名称は、一種の擬人法であることに注意しよう。コンピュータをいわば人間の脳に見立てて「記憶(memory)」と呼ぶわけだが、これはいささか紛らわしい。その正体は、データを記録する装置である。p.75

明示的に検索語を設定して情報を取り出すネット検索と違って、人間の記憶の想起は勝手に、「非意志的」に起こる。これが、人間の記憶の大きな特徴だ。だから記憶は意のままにはならない。本書の中盤(第2~6章)は、記憶がどれくらい私たちのコントロールの外にあるかを、「エコロジー」というキーワードをもとに考察していく。

個人の記憶というものが、自分だけでは成り立っているものではない、という次第を確認しておきたかった。私たちの記憶は、自然、社会、技術といった各種のエコロジーとの関わり合いの中で生じている。p.147

とはいえ、記憶はまったくコントロール不能かというと、そうでもない。最後の第7章「記憶のデザイン」は、記憶のコントロール可能な部分に着目する。

まず直視すべきは、スマホやネットや、各種アルゴリズムによって、私たちが記憶の自律性が奪われている事実だ。

 

コンピュータが提供する自動サーヴィスは、見方を変えれば人間にとって他律的な状況でもある。(…)コンピュータの自動処理によって便利になる反面、(…)自分の記憶を世話するという観点では、必ずしもありがたくない効果もある。そのからくりを弁えた上で使い方を工夫するのが、記憶のデザインを考える上では肝心なのだ。p.128

現在の情報環境に生きる私たちは、目覚めながら夢を見続けているようなものかもしれない。恒常的に健忘症に似た状態を体験し続けていると見立ててみることもできる。p.149

著者は「ネットにアクセスする回数を減らそう」という「ミモフタモナイ」案に加えて、自身の蔵書を見直し、「本を中心として自分の記憶のためのビオトープをつくる」という提案を行う。

なぜ本かといえば、(…)それぞれの本はモノとして一つのインデックスにもなり、それは記憶に資する材料でもあるからだ。p.167

本はそれぞれが、ある外見や重さや手触りや匂いを備えている。(…)背表紙はその内容に対するインデックス(索引)のようなものとして機能する。p.182

本は「本ごとに四感〔本の見た目、ページをめくる音、におい、触り心地〕が違っている」。だから、物質として本は記憶のキューとなりうる。

住んでいる場所で、目に入るように本が置かれていることにはいくつかの効果がある。なかでも私が重要だと思うのは、日常生活のなかで意識しなくてもそれらの本を繰り返し目にするという効果だ。(…)そして、自分の身近にどんな本をどのように置くかということは、比較的コントロールしやすい。p.180

どの本がどこにあるかの 「見当識」を養うことによって、ごちゃごちゃしていた頭が整理される。一定数の蔵書をもつ人なら暗黙的に知っていたはずのことかもしれないが、改めて言われると、はっとする。

では電子書籍など、ディジタルデータは? 著者は続けて、コンピュータ上のデータの環境の整え方について、いくつかのアイディアを提示していく。

現状のOSは、扱えるデータ量と、それを見たり操作したりするインターフェイスとのあいだに齟齬がある。簡単に言えば、扱いづらいのである。p.191

人にとってフレンドリーではない現状のOSへの不満から、著者は 「知識OS」と呼ぶシステムを開発(実験)しているという。「知識OS」は、コンピュータの何千個ものファイルを、仮想的な3次元空間のなかに並べる。

単純といえば単純な仕組みだが、 単なる平面と比べて、空間の記憶を使うことができるので、ユーザーの脳裡にもどこになにがあるかという見当識をつくりやすいと思われる。p.203

完成した暁には、ぜひ使ってみたい。やがては、自分のコンピュータのなかにVR空間をつくり、そのなかを「歩き回って」ファイルを探したり取り出したりするのが当たり前になるのかもしれない。いわれてみると、理にかなっているように思えてくる。

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以上、『記憶のデザイン』のあらましを足早に見てきた。「記憶をいかに世話するか」。超重要なのに、正面から語られてこなかったテーマではないだろうか。

本書は、著者が自ら「エッセイ」と呼ぶように、まだまだ「試論」の段階だ。「記憶のデザイン」を通して「記憶のウェルビーイング」を目指すためには、今後も神経科学・認知科学・社会科学・哲学・文学・歴史学・各種の工学など、多くの分野の研究が力を合わせなければならないだろう。

個人的にも、さらに考えてみたいことがいくつか湧いてくる。

たとえば、本書では記憶をデザインするツールとして「本」に着目していたが、私たちの「非意志的な想起」を補助するものは、もちろん本だけじゃない。部屋に飾る写真、備忘のための付箋紙、旅行先のお土産、スマホの通知――そういったあらゆる「記憶のキュー」をどう「デザイン」するのがよいのだろうか。

ここには、そもそも「記憶のウェルビーイング」とは何か、という大問題もある。記憶のまずい状態、いわば「記憶のill-being」はわりとはっきりしている――ネットサーフィンが止められず、頭の中がごみ溜めのようになった状態などだ。しかし、「記憶のウェルビーイング」が何か、つまり私たちは記憶に何を求めているのか。著者は本書で、次のような記述にとどめている。

ウェルビーイングとは「良好な状態」という意味だ。もちろんなにが良好であるかは、人それぞれという側面もある。ここでは「あるべき状態」を押し付けようというわけではない。p.37

しかし、「自分にとっての記憶のウェルビーイング」とは何かを、私含め多くの人は実は知らないのではないだろうか。考え始めると、とても奥深いテーマに思える。

『記憶のデザイン』は、こんなふうに「記憶」についての思考にいざなってくれる素敵な一冊だ。「より良好な記憶」とその「デザイン」についてみんなで考え始めるきっかけになるといい。

 

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私が編集で関わった近刊『Mind in Motion』は、人間の心がいかに「空間」という枠組みを使ってものごとを考えているか、そして空間のなかに身体や人工物を配置することによって自らの思考をいかに推し進めているかを縦横に論じた一冊。「記憶のデザイン」を考える上でも参考になると思われる。

いまのところ神経科学が記憶のしくみについてどれくらい明らかにしてきたのかについては、下記参照。筆者の見るところ、「記憶のデザイン」に神経科学的な技術(脳に直接記憶を書き込むなど)が効いてくるのはまだ先になりそうだ。