重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

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読書メモ:一人の科学ファンとして『ブルーノ・ラトゥールの取説』(久保明教)を読む

記:丸山隆一(@rmaruy)

 

ブルーノ・ラトゥールの取説 (シリーズ〈哲学への扉〉)
 

 

久保明教による『ブルーノ・ラトゥールの取説』(以下、『取説』)は、ブルーノ・ラトゥールという哲学者の著作について、その学術的文脈から説きつつ、なぜラトゥールの議論が力をもち、なぜときに反発も招くのかを――ラトゥールの著作を未読の者でも分かったと思わされるほど整理された形で――論じる。そのうえで、読者一人一人がラトゥールの思想にどう向き合い、自身の探究や生活のなかでどう「使える」かを考える土台を提供する一冊である。

本書は、ラトゥールの議論がいかに構成されており、様々な環境下でいかに動き、それをどのように用いることができるかについての基本的な部分を示す取り扱い説明書(取説)として書かれている。(『取説』p.25)

本メモは、『取説』から少なからぬ衝撃を受け、また再読を重ねるうちに動揺の度合いを深めている一読者による、『取説』という本の受け止め方のサンプルケースを提示できればと思い、書いている。

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『取説』を通して触れるラトゥールの見方は、私にとっては「怖い」ものだった。本能的な忌避感をおぼえたと言っていいかもしれない。それでいて、「こういう見方もあるのか、でも自分とは関係ないや」で済ますことができなかった。この本はどこかの時点で、本気に受け取らざるを得ないと感じた。

ラトゥールを真面目に読むことができるし/真面目に読みすぎてはいけないのは研究者に限った話ではない。諸学が前提とする発想を相対化するものである以上、ラトゥールの議論の射程は、専門的な学問領域を超えて人々の日常生活全般にまで及んでくる。(p.23)

著者は、非研究者でも、「ラトゥールを真面目に読むことができるし/真面目に読みすぎてはいけない」という。しかし『取説』は、真面目に読むことを投げ出したくなるポイントに入念に先回りし、そこに的確な補足説明を加えてくる。「変なことを言っていると思うでしょ、でもラトゥールが言っているのはこういうことなんですよ」と。それで結局、目を白黒させながらも最後まで読み通すことを余儀なくされる。

何か、ものすごく変なことが言われている。にもかかわらず、目を離すことができない。これは何なんだろう。このメモで考えをまとめたいのは次の二点である。

  1. なぜ、私(丸山)にとって、ラトゥールの議論はこんなに受け入れがたいのか
  2. にもかかわらず、なぜ私は、それを何らかの形で受けとるべきだと思うのか

冒頭書いたように、これはあくまでも一読者としての、『取説』の受け止め方のサンプルである。「本体」(ラトゥールの原著群)を手にも取らずに「取説」だけで済まそうとしているという意味ではとても不真面目。一方、自分の世界観・人生観を変える――少なくとも多少は不安定化させる――用意があるという意味では、真面目な試みのつもりである。

※本稿は、『取説』の全5章を通読したうえでの感想文ですが、内容的に触れているのは主に技術と科学を扱っている第1章と第2章です。とくに第4章「近代とは何か」における「近代」というキーワード、ならびにラトゥールの「存在様態論」についてはまったく触れることができていません。

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1.なぜ、私(丸山)にとって、ラトゥールの議論はこんなに受け入れがたいのか

端的に言えば、ラトゥールの議論が受け入れがたいのは、私個人が生きる拠り所にしているヴィジョンを打ち壊すものだからだと思う。それは、「集団として、恒久的な真理に近づくわれわれ人間」といったイメージのことだ。

少しだけ、陳腐な回顧をさせてもらう。私は、小学5年生のときに初めて抑うつ的な心理状態を経験した。何かの拍子に「人生の意味は何か?」という問いに気づき立ち止まってしまった。学校の勉強も、週末家族と過ごす時間も、放課後友達と遊ぶことも、急に何もかも「むなしく」なった。何も手につかず、寝室の窓辺のまぶしすぎる陽光のなかで涙を流し続ける、そんな情景が残っている(20年以上前の記憶だから相当編集されているはずで、数日間はこんな感じだった気がするが、もしかしたらたった数時間のことかもしれない)。たしかなのは、母に「何のために生きているのか分からない」と言ったこと。母は「お父さんに聞いてみなさい」と言い、そして父は、「僕は大人になるまで考えたことがなかったけど、たぶん、人間は進歩するために生きているんだと思う」みたいなことを言った。それを聞いた翌朝、自分のなかの「むなしさ」がずいぶん薄まっていた。

父がどんな意味で「進歩」と言ったのかは分からない。しかし私は折に触れてこの言葉を反芻するなかで、「人類が総体として持つ、世界についての知識の増進」という意味で捉えるようになった。たしかに、僕はいつ死ぬし、僕の人生にあらかじめ与えられた「意味」なんてないのだろう。でも、「総体としての人類」は、世界のありようについて非常に多くのことを明らかにしてきたし、これからも明らかにしていくだろう。これは偉大なことだ。願わくば、自分の取るに足らない人生を通して、少しでも多くその叡智を把握したいし、その進歩を見届けたい。自然に、科学に傾倒していった。そしてこの「ヴィジョン」の支えがあったからこそ、小学5年生の時に感じた「むなしさ」に引き戻されることなく生きてこれたと思っている。

「集団として恒久的な真理に近づくわれわれ人間」。このヴィジョンはしかし、私だけでなく、多くの現代人に共有されているものではないだろうか。たとえば、今から1000年後、31世紀の地球には人類が絶滅していたとする(気候変動、紛争、その他によって)。それでも、人類がその歴史のなかで発見・発明したさまざまな知識や技術は、消えてなくなりはしないのではないだろうか。地球外生命体が人類文明の残骸を見れば、私たちが知り得た数学の定理、物理学の基礎方程式、生物の遺伝子を操作する高度な技術などなどの痕跡を見て、われわれの「到達点」を知ることになるのではないか。このような「人類(あるいは何らかの知的生物)がいなくなっても保存される知識」というイメージは、多くのSF小説の題材にもなっている(最近読んだものでは、テッド・チャン『息吹』や劉慈欣の『三体』など)。

しかし『取説』が紹介するラトゥールの議論を受け容れれば、そうしたイメージは破壊される。彼によれば、私たち(もしくは私)が恒久的な真理だと思(いたが)っているものは、「一時的な産出」にすぎないからだ。どういうことなのか。

『取説』の序論は、「対応説」という言葉の導入から始まる。対応説とは、「ある対象を外から眺めて、その対象を的確に捉える言葉を与えること」(p.1)ができたときに我々は何かを知るのだ、という見方だ。この対応説こそが、「私たち人間の認識とは無関係にこの世界に存在するものがあり、科学はそれを捉える最良の手段だ」という「近代社会における常識的な論理と倫理」(p.88)として、科学的探究を駆動してきた。

ラトゥールは対応説を棄却する。するとどうなるか。おそらく『取説』に出てくる(私のような読者にとって)最もショッキングな例は、「乳酸発酵素はパストゥール以前には存在しなかった」という主張だろう。ラトゥールによれば、乳酸発酵素という存在は、19世紀の科学者パストゥールが、発酵という現象がある微生物によって引き起こされていることを示したときに「制作」された。常識的には、パストゥールがいようがいまいが、乳酸発酵素はこの世界に存在している。科学者がそれを「発見」したのだ。ラトゥールの見解は、こうした科学を成り立たせている常識と大きく食い違う。

どうしてラトゥールは、こんなことを考えるに至ったのか。『取説』の序論および第1章では、その学説史的背景が整理されている。まず、「対応説」に対する「フィルター付き対応説」が紹介される。「あらゆる知識はこの世界の内側に生きるものによって獲得されるものであるから純粋に外在的な知識など存在せず、したがって絶対に正しい知識などありえない、とする立場」(p.12)であり、われわれが素朴に真理だと思うものは、実は「社会的なフィルター」によって正しさを規定されてきたのだとする見方だ。科学といえども、人間が集団として行っている営みである以上、科学的真理も社会的に作られる(相対主義/社会構築主義ポストモダンの発想)。そういう考え方のもと、「科学知識の社会学(SSK)」や「テクノロジーの社会的構成(SCOT)」といった学問分野が出てきた。

しかし、ラトゥールの目には、「対応説」も「フィルター付き対応説」も不十分に映った。両者は、ものごとを「自然」と「社会」のどちらかに還元するかで争っていた。そのどちらも無理がある。そのどちらにも還元しない視点はもてないものか(「非還元の原理」)。そう考えたラトゥールは、「科学的実践を「自然」にも「社会」にも還元せずに捉え」(p.90)、「世界への内在を前提として外在的とされる知識を捉え直す」(p.13)ことを選ぶ。

「知る」ということは、世界と厳密に対応する言明を与えることではない。それは、世界の内側において他の存在者と様々な関係を取り結ぶことそれ自体であり、対応説的な正しさはその派生的な効果の一つでしかない。(p.15)

そして、1980年代に科学論で提唱されていた「アクターネットワーク論(ANT)」に着目する。

ANTの可能性を存分に精査し、近代的発想を前提とせずに近代社会を考察する方法論まで育て上げたのがブルーノ・ラトゥールである。(p.54)

ANTによれば、自然科学者や社会学者のみならず、研究対象となる生物や非生物、実験道具などもすべて、互いに影響を及ぼし合うアクターであり、そのネットワークのなかから様々な事実が生成してくる。そこには、多くの科学者を動員する「固い事実」から、生活者としての素朴な実感に根差す「柔らかい事実」にいたるグラデーションはあれど、それらのあいだに本質的な違いはない。

「より固い事実」はより多くのアクターを動員する。…人間に限定されない膨大なアクターを緊密に結びつけ、データの取得や整理において諸要素ができるだけ同じ形の関係を結ぶように隊列に整えられることによって、…一つの歪曲されない事実が生み出される。(改行)科学的知識は、より多数のアクターをより緊密により近似した形で結びつける、より長いネットワークを志向する運動によって支えられている。(p.96)

こうした発想のもとでは、パストゥールと名もなき微生物という「アクター」どうしの関わりあいのなかで、「乳酸発酵素」という存在が産出されるのだということになる。「アクターの隊列が整えられ」て始めて、何かが安定的に存在するといえるようになる。

ラトゥールのこの考え方が私にとって「怖い」のは、この議論を未来に外挿したときの帰結である。つまり、今の私たちが「科学的真理」だと思っているものも、将来アクターがほどけてしまえば、消滅してしまうということになる。

たとえば、アインシュタインの一般相対論を考えてみよう。私は、これは人類が到達した記念碑的な知識だと思う。時空の本当の姿と重力現象のつながりを、アインシュタインはリーマン幾何学を使って予測し、しかもそれが、無類な精度で実験的に確証されている。さらに、一般相対論の知識はGPSなどの測定機器の較正にも不可欠であり、地球上の大多数の人々の暮らしを支えている。

しかし、この一般相対論ですら、「一時的な産出」なのだとしたら……。人類が地球からいなくなり、それを理論的に効果を測定するための測定装置、その効果を利用した精密機器も散逸し、「アクターの隊列」が完全にほどけてしまったあかつきには、一般相対論はこの世界から消え去る。誰も認識できなくなるだけではなく、いかなる意味でも、この世界に存在しなくなるのだ。

科学者が自らの実践の外にある自然の事実を発見したと言えるような状況は、科学者が内在する世界自身が――科学的な作業を通じて――攪拌され変換されることによって一時的に現れる。(p.118)

こういう主張に対して、私は忌避感をおぼえる。『取説』が想定するとおりに。

しかしながら、どうして私たちは「乳酸発酵素はパストゥールがやってくるまでは存在しなかった」というラトゥールの主張にこれほどの拒否感を覚えるのだろうか。それは、論理的なだけでなく倫理的なニュアンスを伴った、嫌悪に近い感覚である。だからこそ、ラトゥールの議論は真面目に扱うべきものではないように思えてくる。(p.123)

そして私にとっては、これはあの「小5のむなしさ」へと引きずり込まれてしまうのではないかという恐怖につながっている。

注記:本稿に目を通していただいた方より、上記はラトゥールに対する特有の感想もに見えないとのコメントをいただいた。トマス・クーンのパラダイム論などでも、将来、一般相対論と通約不可能な理論が出てくる可能性が想定され、その「恒久的な真理」のイメージは壊されるのではないのか。たしかに、「ラトゥールのラディカルさに驚いた例」として「一般相対論が将来真理ではなくなるかもしれない」というのは不適だったのかもしれない。自分としては、クーンの言う意味で新しいパラダイムが登場する可能性を認めることと、ラトゥールの世界観を引き受けたときの含意には大きな差があるような気がしているが、どちらも勉強不足のためまだうまく言えない。

なお、私は科学哲学(より広く科学論)をきちんと勉強したことはないものの、クーンのパラダイム論や、SSKや相対主義、社会構築論的なものに触れたことがないわけではなかった。それらや科学哲学のなかの「反実在論」の立場でも、「集団として恒久的な真理に近づくわれわれ人間」のイメージはすでに壊されているのかもしれない。ただ、『取説』で受けたほどのショックを、それらの議論に触れたときに感じたことはなかった。なぜだろう。これもおいおい考えていきたいが、一つには、私のいた科学系のコミュニティのなかでは、「ポストモダン」というラベルが「すでに決着のついた科学へのいちゃもん」というイメージで語られることが多く、そこまで真面目に考えなくてもよいだろう、という安心感があったのかもしれない。もう一つは、『取説』が解説しているように、科学の営みをすべて科学者の社会的合意に還元するような考え方は「明らかにおかしい」と思えたからかもしれない。さらに言うと、私は「反実在論」とラベル付けされるような科学哲学の議論にも、一定のシンパシーをおぼえてきたような気がしている。まだ考察は足りない。

 

2.にもかかわらず、なぜ私は、ラトゥールの見方を何らかの形で受けとるべきだと思うのか

忌避感、恐怖、「そんなわけないだろ」と振り払いたくなる気持ち。にもかかわらず、『取説』を反芻し、個々から何かを汲み取らなければと思うのはなぜなのだろうか。それは、私自身のなかに、「集団として、恒久的な真理に近づくわれわれ人類」というイメージへの疑念があるからではないか。そして、そのイメージにのみすがって生きていくことに、どこか無理を感じているからではないだろうか。

ここでまた、ある思い出が蘇ってくる。学部生のときに二度、インドにいった。2回目は一人旅で、ムンバイから入り、インド西部の都市をめぐり、首都デリーを終着点とする2週間の行程だった。先輩に同行した1回目の旅行とは勝手が違っていた。駅に着いた時点で狙いをつけられ、複数の男に追い回された。深夜に到着した街で空きの宿が見つからず、悪質なリクシャ(オート三輪車)のドライバーに息のかかったホテルに連れていかれ、翌朝も迎えに来るからと言われたので早朝に逃げ出した。やっと乗り込んだ12時間の長距離バスの途中で下痢に見舞われる。運賃を二重取りしようとしてくるドライバーに、発熱で消耗しつくした体力をふり絞って抗議する……。

日本を発つ前、私は大学で物理学を勉強していた。その勉強は楽しく、重要に思えた。電磁場を相対論的に記述すると電場と磁場が相互に変換されること、気体と液体の平衡状態が統計力学の大分配関数から導出されること。そうした一つ一つに驚き、魅了され、「世界の真の在り方」を知りつつあるのだという手応えを掴んでいたと思う。しかし、インドに踏み入れたとたん、物理学は遠いものになった。ここから生きて帰れないかもという恐怖、目にしたことのないスケールの砂漠や建造物の美しさ、圧倒されるばかりの人々の善意と悪意とエネルギーは、自分がせっせと身につけようとしていた「物理学的な世界理解」と接点を持たないように思われた。私と物理学というアクター間の結びつきがほどけたのかもしれない。

もちろん、普通に考えれば、これは私がたった2週間物理学の勉強を中断しただけだ。インドでも物理法則はちゃんと成り立っている。旅中に乗った鉄道や旅客機にしたって、電磁気学流体力学の知識を利用している。その意味で、私は決して物理学的知識のネットワークから完全に切り離されたわけでもない。しかし、週の大半を大学図書館で物理学の本を読んでいた生活から、バックパック旅行に飛び出すというコントラストの強さもあり、自分の居場所によって知識体系への遠近感・リアリティがここまで変わるのかという、印象的な経験となった。

自分の中でこの体験が教訓として残っているのは、未来に同じことが起こる予感があるからだ。たとえば、首都圏に大地震が来て、あるいは大水害が起きて、自宅の蔵書はすべて破損、仕事も失い、今のような「本を読んで考える」ということが一切できない人生になったらどうだろう(蓋然性は低くないと思う)。そのときには、インド旅行で感じた以上の、「科学的知識体系から切り離された感」を味わうのではないだろうか。

『取説』を読むまでは、次のように考えていた。たしかに、そうなったら、自分は科学の進展をフォローすることはおろか、そもそも科学や学問について考えることがまったくできなくなるかもしれない。でも、そこまでに自分が知り得た知識は減らないし、人類総体としての蓄積はその後も増えこそすれ減ったりなくなったりしない。これがまさしく、冒頭で述べた「集団として、恒久的な真理に近づくわれわれ人間」のイメージであり、だからこそ、できる間に勉強しておこうというモチベーションの源にもなってきた。いつかどこかの時点で自分はきっと「被災者」になる。それも、待っていれば誰かが手を差し伸べてくれるローカルな災害ではなく、現在の生活を不可逆的に喪失するほどのグローバルな災害の。そして、私の「真理探究」は、それまでの「残された時間」のなかでの勝負なのだ。

今思ったが、このように言語化することによって、私を支えてきたはずのイメージの「苦しさ」が際立ってくる。逆に、そのイメージを壊すかに見えたラトゥールの思想が、今度は別の魅力を放ち始める。つまり、対応説的なヴィジョンによれば、「不可逆の被災者」になることは、私は「真理」へのアクセスを断たれただけの存在になることを意味する。一方、ラトゥールのヴィジョンに立てば、その私にはその私なりの、ネットワークのかかわり方が生じる。真理から遠ざかるのではなく(そんなものははじめからない)、たまたま「長く安定したネットワークに連なっていた自分」から、「短く可変的なネットワークに参画する自分」に変わるだけということになる。

事故や故障を例外的な事態とするための膨大な努力によって仲介項に囲まれた私たちの「安心・安全」が損なわれる状況にこそ、私たちと諸アクターの媒介項同士としての基礎的な関わりあいが現われる。(p.150) 

以上のように、私の場合は、インド旅行の思い出と、「不可逆的に被災する自分」のイメージという迂回路を経ることで、『取説』のいう「知のデトックス」の意味が、おぼろげながら分かるような気がする。

近代人としての私たちは非還元主義による知のデトックスを必要とするのであり、分析するものとしての私たちは噛み合わないまま話し続けていく技法を培うべきであり、生活者としての私たちは「経験的‐超越論的二重体」としての人間から離脱して、世界の絶えざる構築に参与することの受動性を引き受ける道筋を探るべきものである。(p.254)

※注:もう一つ書きたかったことが実はある。それは、今の科学自体が、自身の「内在性」を意識する方向に振れているのではないか、と思えることだ。「科学的に理解するとはどういうことか?」という問いは、「何が理解かは、我々がどのように技術や知識とかかわってきたかによって変わる」という発想につながる。実際、私自身、「脳を理解するとはどういうことか」という問いを深める作業を通じて、そのような道筋を辿ってきた感覚がある。また、より直接的に「脳とAIを繋ぐ」といった、「テクノロジーへの生成」を方法論として取り入れているかに見える研究も出てきている。そうしたことについて、『取説』を踏まえて考えてみることは今後の課題である。

おわりに

『取説』を介して触れたブルーノ・ラトゥールの哲学への強烈な違和感と、かすかな希望。あくまで私個人の学問への向き合い方という観点から、それらを文章にすることを試みてきた。もちろん、ラトゥールの著作の受け取り方としては、非常に一面的かつ特殊なものだろう。一方、ラトゥールの哲学を「生活者」として「どう使うか」を考えるよう促す『取説』の一つの読み方としては、ありなのではないかと思っている。

では、このあと私はどれくらい「ラトゥールを真面目に受けとって」生きていくのだろうか? いきなりすべてのものごとをラトゥール式に見るというのは無理だろう。もしかしたら、1年後にはすっかり自分のなかでこの動揺は薄れてしまうかもしれないし、逆により大きくなっているかもしれない。

自然がまだ見ぬ秘密を隠していると直観し、新しい科学的発見にワクワクすること。一方で、自分が世界に内在していることを自覚し、自分が何かを理解するとき非人間を含むアクターたちによって「自分もまた変えられている」と意識すること。その両方のあいだを揺らぎながら、不安に慄きつつ、ふらふらと進んでいくのだろう。

謝辞

ラトゥールの議論に通じている(ご本人いわく「血肉化」している)Sさんには、内容的なアドバイスというよりも、本稿を書く上で心の支えになっていただきました。これからもよろしくお願いします。

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同著者による、人類学の実践の書。


筆者が唯一読んだ、ラトゥールの著書。