重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

読書メモ、探究メモなど。

思考整理メモ:「科学」と「人生の問題」の関係はどうなっているのか?

※下記は、ここしばらく考えていることをまとめた、ラフスケッチとしての文章です。まだまだ考えが至らない点があると思いますので、ご批判・コメントをいただければ大変幸いです。

※誤植修正や表現の改善等の微修正は今後も行う予定です(4/22)

科学の二面性

科学の「ロマン」を語る人がいる。一方で、科学にロマンを求めるなという人がいる。科学者には、「情熱的に何かを追い求める人」というイメージもあるが、他方で「禁欲的に仕事をこなす専門家」のイメージもある。情熱的で血の通った科学と、クールで厳密な科学。科学のイメージのこの二面性が、つねづね気になってきた。

自然科学は、私たちの生きるこの世界がどんな場所なのかを、実験・観察・理論化によって明らかにしていく。私たちの立つ大地が、じつは球形の天体で、太陽の周りを回っていること。生物は遺伝情報をDNA分子に宿し、自然選択の原理によって進化してきたこと。人間の脳が860億個の神経細胞を持ち、それぞれが電気パルスを出すこと。その他さまざまな事実を、科学は解明してきている。

そんな世界のなかで、私たち一人一人が生きている。小説を読んで感動したり、誰かを嫌いになったり、仕事に退屈したり、週末の予定にワクワクしたりしながら日々を過ごす。そして、たまには「死」について考える。いずれは自分の人生が終わることを理解して、それまでの時間をどう過ごすかを思案したりする。

ここには、私たち全員の知的関心の対象となりうる、二つの領域がある:

  • ①科学の領域:世界がどうなっているかを知ること*1
  • ②人生の領域:自分の存在を意味づけ、どう生きるべきかを考えること

以下で考えたいのは、①と②の領域がどれくらいつながっているのか、あるいは断絶しているのか、ということである。

何をいまさら?

こんな声が聞こえてきそうだ。「①と②は関係ない、そんなの自明じゃないか」。世界がどうなっているかと、その世界でどう生きるかは別の問題であって、前者は科学の仕事、後者は倫理学あるいは宗教の範疇だろう。これを混ぜるからいろいろな問題が起こる。今さら、何が言いたいのか?

そう言われるだろうことは承知のうえで、それでも筆者は①と②の関係を気にしている。両者が混ざり合ったり、影響し合っているように思える場面が目につくからだ。たとえば次のようなこと。

  • 科学者が一般に向けて科学の魅力を語るとき、②に関係する語彙が使われていないだろうか?(例:宇宙物理学や進化生物学が、”我々はどこから来てどこにいくのか”を解き明かす探究として紹介されるなど。)
  • 科学者が科学の道に入る動機として、②に絡む要素がウェイトを占めていないだろうか?(引退した科学者が「意識」の問題に取り組み始めるケースがあるが、それも一つの兆候ではないか)

このように、「人生の領域の問題」は、じつは科学に入る動機や科学に興味を惹きつける重要な要素であるように思える。ここを解きほぐして、「うまく使う」ことは、科学コミュニケーションにとっての関心事となるかもしれない。しかし思うに、「人生の問題」は、科学にとって「客寄せ口上」であるだけではない。後述するように、

  • ①の領域で明らかになったことが、②の土台を揺るがす
  • じつは、科学の通常の営みのなかに、②に絡む価値判断が混入している

といったことがあるように思える。

筆者がこの問題(①と②の距離感)に関心があるのは、上記4点のような個人的な観測があるからだ。では、当の科学者や、科学を語ることを専門にする哲学者たちは何と言っているだろうか? 筆者の見るところ、そうした専門家の間でも、この問題についての一枚岩の見解は存在しない。

本稿の「問い」を、次のように提示してみよう。

  • 「世界がどうなっているかを知る」という「科学の領域」に属する知的営み(①)と、「自分の存在を意味づけ、どう生きるべきかを考える」という「人生の領域」に属する知的営み(②)とは、どのようにつながっているのか、あるいは断絶しているのか。

テンプレートとしての、四つの回答

これに対する回答を大雑把に用意するとしたら、まずは、「両者はつながっていない」という立場と、「つながっている」という立場があるだろう。仮に、次のように名前を付けてみる。

  • 峻別説*2:①と②には本質的なつながりはない
  • 結合説:①と②はつながっている

「結合説」をとる場合、それがどのようなつながりなのかが問題になる。三つくらい思いつく:

  • ②は①に回収できる。
  • ①が②の前提を決める。
  • ②が①の前提を決める。

これに峻別説を含めて、次のようにラベル付けしておこう:

  • A:峻別説
  • B:極端な自然主義
  • C:科学が人生観の土台を更新する
  • D:人生の問題が科学を方向づける

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人によって、この図のうちのどれがしっくりくるかは異なるはずだ。また、このいくつかは、誤解に満ちた、言語道断の見方に思えるかもしれない。しかし、このような立場はどれも、現にとられている/とられうるのである。そのことを、以下で駆け足で見ていく。

(なお、これら「四つの立場」は必ずしも相互に背反ではない。とくにCとDの両立可能性はわかりやすい。)

「A:峻別説」は、常識的な見方であるはずだから、Bから取り上げる。

B:人生の問題は科学の問題に

Bは、自然科学からは一見出てこないように見えるものの「価値」や「意味」、「道徳」といった概念すらも、実は科学の枠組みに収めることができるという立場だ。戸田山和久『哲学入門』(ちくま新書、2014年)は、そうした、科学で扱えなさそうな概念を「ありそでなさそでやっぱりあるもの」と名づけ、それらを一つ一つ「自然化」していく(=自然科学の世界観に描き込む)という構想のもとで書かれている。「おわりに」では、「人生の意味」に触れられている。

「科学が発展して科学的世界観が浸透していくと、人生の意味が失われるのではないかと恐れる人々がいる。まず言いたいのは、そんなことで失われる人生の意味なら、もともと大したものではないから、どうぞ失ってしまえば? ということだ。なくなった方がよいかもよ。」p.397
「人生総体の究極目標を求めてしまうのは、われわれが獲得した目的手段推論のための能力のある種の暴走だということだ」p.403

このように、自然主義にかかると、「人生の意味」さえも生物進化や物理学の言葉で語られる。この方向に突き進めば、「B:極端な自然主義」ともいうべき態度が想定できる。つまり、人生の領域の問題は、すべて科学の問題に回収しようという態度だ(戸田山氏がそこまでを目指しているかはともかく)。そこでは、「科学にロマンを感じる心」自体も科学の対象とすることで、冒頭で述べた科学の二面性は解消されることになるだろう*3

C:科学が人生観の土台を更新する

よりマイルドな仕方で「科学の領域」が「人生の領域」に与える影響を考えるのが、上で「C:科学が人生観に」と名づけた立場だ。科学は、宇宙や人間についての事実を明らかにすることを通して、私たちの自己イメージを変える。とくに、元来宗教や哲学が与えてきた人間のイメージが、自然科学によって変更を余儀なくされていることの影響は大きい。哲学者のトーマス・メッツィンガーは、これを「人間のイメージの自然主義的転回」*4と名づけている。

文筆家の吉川浩満もまた、一貫してこの問題に関心を寄せてきた一人であり、次のように書いている。

「19世紀に生まれた人間像の終焉後、21世紀の科学技術文明における人間本性論はどのようなものになるだろうか。じつはすでにだいたいできあがっている。それは、人間とは不合理なロボットである、というものだ。これが進化と認知にかんする諸科学が与える人間定義である。」*5

こうした新しい「人間のイメージ」あるいは「人間本性論」のもとで、私たちは自分の人生に何を望むかを考えていかなければならない。あるいは、科学がもたらす新しい技術を通して、私たちが人生を通してなしうることのオプションを変える。その意味で、科学の領域の問題が、人生の問題になる*6

D:人生観が科学の営みに滲み出る?

最後のDが、科学者には受け入れがたいかもしれない。人生観が科学に反映されるなんて、そんなことがあってよいのだろうか。この立場をとる論者として、科学ライターのジョン・ホーガンがいる。ホーガン氏は、心身問題(ないし「意識の科学」)に挑む科学者・哲学者へのインタビューを行ったMind-Body Problemsという本(オンラインの自己出版本)で、次のように述べている。

In a narrow, technical sense, the mind-body problem asks how matter generates mind, but it’s really about what we are, can be and should be, individually and as a species.

(私訳)狭義の、専門用語としての意味では、心身問題は物質がいかにして心を生み出すのかを問う。しかしそれは本当は、私たちが個人あるいは種として何であり、何でありえ、何であるべきかに関する問題なのだ。

Now science is converging on a definitive, objectively true solution to the mind-body problem, backed up by hard empirical evidence, or so some science enthusiasts claim. I argue that they’re wrong. Science has told us a lot about our minds and bodies, but in the end it’s just giving us more stories that we choose for subjective reasons, because we find them consoling, or beautiful, or meaningful.

(私訳)科学を支持する人はこう主張するかもしれない。今や科学は、確固とした証拠をたずさえて、心身問題の解、決定的で客観的に真なる解に向かって、収束しつつあるのだ、と。しかし私はそれは間違っていると言いたい。科学は私たちの心や身体について多くを教えてくれたが、結局のところ、それはもう一つの物語を提供してくれたに過ぎない。そして、私たちは、そうした物語を、安心感だとか、美しさだとか、意味深く思えるだとかいった主観的な理由で選んでいるのだ。

John Horgan 

So What? | Wrap-Up – Mind-Body Problems

読書メモ:Mind-Body Problems (by John Horgan)…心身問題はなぜ人生の問題になるのか? - 重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

ホーガンは、こと心身問題に関しては、科学は最終回答に至ることはないだろうという。なぜなら、心身問題へのアプローチや見出される解には、個々の研究者の人生観が反映されており、それは人によって異なるからだ(こう書くと、ホーガンはいわゆる「相対主義」をとっているように聞こえるが、別のところで自分はあくまで「truth-seeker」であるということも言っている)。

筆者自身は、ホーガンまではいかないまでも、実はDのような見方が可能だと思っている。科学は「世界がどうなっているかの理解」を求める営みだが、「どのように理解するか」という点において自由度があるように思える。「どのように理解するか」を決める要因には「どのように理解したいか」という私たちのニーズがあり、そこには「自分たちがどのような人生を生きたいか」という価値観が紛れ込んでいるのではないか、とにらんでいる*7

では、どうある「べき」なのか?

ここまでは、「科学の領域」と「人生の領域」の関係性がどのようなものであるか、ありうるかを考えてきた。やや戯曲化した立場も含めて、A~Dの四つの可能性をあげ、後半三つについてそれぞれに手短かに述べてきた。

しかし、「実際にどうであるか・ありうるか」と、「本来どうあるべきなのか?」というのは別の問題だ。事実としては科学の営みに「人生の問題」が紛れ込んでいたとしても、規範としてはそうあるべきではないということだってありうる。

この規範についてここでは触れないが、科学哲学者ヘザー・ダグラスによる「科学と価値」論は、参考になるかもしれない。一言でいうと、ダグラス氏は「科学は価値中立である」という理想は実態を捉えていないと棄却しつつ、ではどんな価値なら科学に入り込んでよいのか、という規範について議論をしている。

「価値は科学的判断に不可欠なものだが、その機能には一定の制約がなければならない。価値中立の理想を捨てるにしても,科学的プロセスにおける「証拠」と同じ役割を価値に認めるのはまずい。」「価値が果たす役割を区別・限定することが大事である。」(私訳)

rmaruy_blog | 科学は価値中立であるべき「ではない」理由 (書評:"Science, Policy, and the Value-Free Ideal")

また、本記事のテーマに深くかかわるが触れていないテーマに科学と宗教、スピリチュアリズムの問題がある。

おわりに:科学に「すがり」、「もよおす」私たち

『「科学にすがるな!」:宇宙と死をめぐる特別授業』(佐藤文隆・艸場よしみ)という本が、2013年に出ている。物理学者の佐藤文隆氏に、ライターの艸場が質問状を送り、数度にわたる個人レクチャーをもとに、ルポルタージュふうに書かれている。宇宙物理学者としての死生観を問われた佐藤氏は、ときには自身も「(死を思って)夜寝られないことだってある」と漏らしたうえで、こういう。

「だが冷静に考えたら、そのことに意味はないと自分でもわかるんです。もよおしたとき、どこにもどるか。やっぱり1+1=2だねえと、こうしてこうしてこうなると合理的に考えてみると、ああ馬鹿げていると気づくことがあります。死にひたって、青い鳥を探すみたいに根源を探したって、そんなものはないんだよ。考えても仕方のないことを考えて科学にすがるより、明日からどうやって仕事をするかを考えようと思うことが大事です」(p.71-2)

佐藤氏は、科学に応えられる以上のことを科学に求めてしまう心性を「もよおす」といった独特の言葉で表現する。

「わざと下品な言葉を使いたいんだが、小便をもよおすみたいに、放っておいたって何かに気持ちは高ぶるんです。」(p.58)

「ひたる」「もよおす」、そして科学に「すがる」。そうした心性を、その対極にある「合理性」で抑え込むのが科学だ。本記事でいう「峻別説」を、佐藤氏は推奨しているように読める。

しかし、筆者の見るところ、「ひたる」「もよおす」「すがる」といった言葉を繰り出す佐藤氏は、「もよおしてしまう」自身を強く自覚し、科学と人生観の分かちがたさを誰よりも考えてきた人のように思える。筆者にとって、佐藤文隆は、科学の「熱い」部分と「クールな」部分の二面性を併せ持つ科学者の象徴である。

おそらく、これからの世代の人々も、いろいろなものを科学に託すだろう。「世界を知りたい」「私を知りたい」「人生の意味を知りたい」。科学に「すがって」はいけない、わかってはいても、科学に求めるのをやめられない。自分のなかのそうした葛藤に気づき、はたと立ち止まったときなどに、ここで書いたようなことが頭を整理する一助になったりしたら嬉しい。

 

※本記事の草稿段階で、何人の方から非常に丁寧なコメントをいただきました。十分に反映できているとはとても言えませんが、深く感謝いたします。 今後もご議論をお願いします。

「科学にすがるな!」――宇宙と死をめぐる特別授業

「科学にすがるな!」――宇宙と死をめぐる特別授業

 

 

*1:世界がどうなっているかを知るのは「科学だけ」の領分なのかという疑問はある。いまだ「科学」とは呼べないが「真理探究」に関わる「哲学」もあるかもしれない。ここでは、それも含めて「広義の科学」と捉えたい。

*2:「峻別説/結合説」という言葉は、一ノ瀬正樹『英米哲学入門』(ちくま新書、2018年)から。同書は、「である」と「べき」の関係性をめぐる立場を 「峻別説/結合説」に二分している:「いずれにせよ私は、「である」と「べき」とは、ムーアのように峻別されることなく、結びついていると確信している。さしあたり、ヒュームやムーアのような立場を「峻別主義」(distinctionism)、ミルや私のような立場を「結合主義」(connexionism)と呼んで、区別しておこうか。」p.324

*3:現実には、「好奇心の進化心理学」などは端緒についたばかりのようだ。参考:読書メモ:Why?: What Makes Us Curious (by Mario Livio)…好奇心をめぐる好奇心 - 重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

*4:トーマス・メッツィンガー『エゴ・トンネル』岩波書店、2015年。
「死すべき存在であることは、私たちにとって客観的事実であるだけでなく、主観的な裂け目、私たちの現象的自己モデルに開いた傷口である。私たちは作りつけの実存的葛藤をもっており、その葛藤を意識的に経験することのできる、地球上で最初の生物であると思われる。」p.282
「私たちはすでに人間のイメージの自然主義的転回を経験し始めており、戻り道はないように思われる。」p.287
「意識革命の初期段階を先導する研究者には、私たちがこの第三局面を切り抜けられるように、道案内する責任がある。… 過去2500年もの間、人類が信じてきたすべてのことを破壊しながら、単に、科学業界での職業上の成功のために自らの野心や知力のすべてを注ぎ込むことはできないのである。」p.288

*5: 吉川浩満『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』( 河出書房新社、2018年)p.22 読書メモ:人間の解剖はサルの解剖のための鍵である(吉川浩満 著) - 重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

*6:筆者はとくに、「記憶の科学」が人生の問題にどんな含意をもつのかに強い関心がある。共有メモ:記憶をめぐる探究課題マップ(仮・工事中) - Google ドキュメント 

*7:たとえば、以前筆者は、「脳の多元的な理解の可能性」について考察したことがある。続・どうすれば脳を「理解」できるのか: 分かり方は一つじゃない~脳理解の多元主義へ~ - 重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)