重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

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探究メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで解明したのか? 〈第6回:エピソード記憶は人間だけのものか〉

少し間が空いてしまいましたが、もう少しだけ先へ進みたいと思います。

前回は、利根川進氏のチームが行った一連の研究を取り上げました。彼らは、「マウス海馬のニューロンのうち記憶に関わっているグループを標識して、強制的に活動させる技術」を開発しました。それにより、いわゆる「エングラム細胞(群)」を見つけることに成功しました。

この研究で分かったこと・分かっていないことは、「記憶工場」のメタファーで説明してみました。記憶に関わっている細胞群を特定したといっても、

  • 個々の細胞のはたらきはまだまだ分かっていないこと
  • 扱われている「記憶」の種類も、「恐怖刺激と条件づけられた環境(部屋)の記憶」という大雑把なものであること

を述べました。

いずれ人間にも使えるのか?

こうした限界があるとはいえ、「記憶の書きかえに成功した」などという研究発表の見出しにはインパクトがあります。それは、「この方法はいずれ人間に使えるようになるのだろうか?」という想像を搔き立てるからです。

第0回では、記憶研究の究極の目標を、「過去の具体的なエピソードの記憶がヒトの脳内でどのように表現されているかを、それを自由に書き換えられるくらいの精度で解明する」ことだとしてみましたが、利根川ラボのアプローチは、少なくとも原理的には、その究極目標へ至る道筋だと言えるのでしょうか。

「原理的には」と書いたのは、原理的には応用可能だとしても実際には無理だということが簡単に想像できるからです。利根川ラボの手法を人間で用いるには、

  • 生きている人の脳を一部切り開くこと
  • 特定のニューロンに様々な機能を持たせるための遺伝子改変を行うこと
  • 「嫌な記憶」を繰り返し覚えさせること

などが必要であり、どれをとっても倫理的・技術的な問題があります。ここでは、いったんそういう実際上の困難を置いておいて――あるいは、想像しにくいですが倫理面をクリアできるような非侵襲的な技術が開発されたと仮定して――考えてみたいのです。

そこで一つのポイントになるのが、「人間の記憶は、実験動物の記憶と同じか」という問題です。もし、人間の脳での仕組みが、マウスなどの実験動物の基本的には延長上にあるならば、マウスで見つかった「エングラム細胞」と同様のものがヒトにも見つかるのかもしれません。第3回あたりで見たように、細胞・分子レベルでは、ヒト・マウスを含む哺乳類からアメフラシなどの非脊椎動物に至るまで「シナプス可塑性」という同じメカニズムが使われていました。そこから類推して、細胞ネットワークレベルの記憶の仕組みに関しても、マウスから人間にいたるまで連続的な進化してきたというのもありえそうな話です。

しかし反対に、人間の記憶と動物の記憶とは断絶しているのだ、という立場もあり得ます。もしそうだとしたら、マウスで通用した方法は人間では効果が限定的ということになるかもしれません。

どちらが正しいのかは、筆者にはわかりませんし、専門家の間でも結論は出ていないと思います。そこで今回は、それに関連する面白い議論を一つ紹介したいと思います。それは、エピソード記憶は人間以外にも動物にもあるのか」という議論です。

Tulvingの問題提起

取り上げたいのは、Endel Tulving(エンデル・タルヴィング)が2005年に書いた "Episodic memory and autonoesis: Uniquely human" という論文*1(ブックチャプター)です。

Tulvingは記憶研究の第一人者(@Wikipedia)とされる心理学者で、1972年に「エピソード記憶」という概念を提唱した本人でもあります。その彼の立場は、エピソード記憶は人間にしかないのだ、というものです。

以下では、この論文の中身を簡単に見ていきたいと思います。

エピソード記憶とは

まず、エピソード記憶とは何でしょうか。教科書的には、それは「顕在記憶(explicit memory)」の一種ということになります。顕在記憶とは、意識的に思い出すことができる記憶のこと。「一輪車に乗るときの身体の動かし方」や、「梅干を見ると唾が出てしまうなどの条件反射」といった、無意識下で呼び覚まされる記憶と対比される概念です*2

そして顕在記憶には「意味記憶(semantic memory)」と「エピソード記憶(episodic memory)」があるというのが、1970年代のTulvingの提案です。簡単に言えば、意味記憶は知識として知っていること(knowing)、エピソード記憶は自分の体験として覚えていること(remembering)です。Tulvingは2005年の論文ではいろいろな言い方で「エピソード記憶」を定義しているのですが、その一つが次のような説明です。

たとえば、「現在のアメリカの大統領がドナルド・トランプ氏である」という記憶は意味記憶ですが、トランプ大統領の当選が決まったニュースを知ったときの記憶はエピソード記憶です。後者を思い出すときの心は、2016年11月の投票日への「タイムトラベル」を伴うのに対し、前者の想起にはそれが伴いません。

そして、前述のようにTulvingの主張はエピソード記憶をもつのは人間だけである」というものです。

ただし、この見方は決して主流ではなく、ほとんどの研究者は他の動物にもエピソード記憶はあると考えているようです。2005年当時、動物のもつエピソード記憶の代表例として注目されたのが鳥のカケス(scrub jay)の行動であり、Tulvingもそれに言及しています。

カケスは食べ残したエサを地面に隠します。そのエサを回収する際に、ナッツなどよりも腐りやすい虫などを優先して回収するそうです。ここからわかるのは、カケスが「どこにエサを隠したか」だけでなく「いつ隠したか」も覚えていることです。このように「どこ」と「いつ」を兼ね備えた記憶であるということから、エピソード記憶に該当する、とされます。ただし、この行動を研究したClaytonらは、やや慎重にこれをepisodic-like memory(エピソード様記憶)とよんだそうです。なお、Wikipedia英語版には"episodic-like memory"の項目があり、カケスだけなくラット、ミツバチ、霊長類など様々な動物の行動が紹介されています。

そこで、論点は「エピソード様記憶」を人間のもつ「エピソード記憶」にもつ範疇に含めるべきか、ということになります。多くの研究者とは違って、Tulvingは両者を区別すべきとの立場をとります。

その論拠は、ざっくりいうと

  • 人間の中にもエピソード記憶をもたない人がいる
  • 人間以外の動物は未来を想像することができない

の2点です。

健忘症患者と乳幼児

エピソード記憶をもたない人間としてTulvingがあげるのは、健忘症患者KCの症例と、4歳前後までの幼児です。

患者KC(本名:Kent Cochrane、2014年没)は、30歳のときに交通事故に遭い、エピソード記憶の能力を丸ごと失ってしまった人物です。1960年代に記憶研究を大きく前進させるきっかけとなった「前向性健忘」の患者HMと異なり、KCは、事故以前のことも含むすべてのエピソード記憶を失ったそうです。

しかし興味深いことに、KCの意味記憶は正常でした。自分の名前や誕生日をいうことはできたし、カードゲームのルールなども覚えていました。そのため、実家で両親と暮らしていくぶんには、問題なく生活を送ることができました。彼は「自分がホンダの車をもっていることを知っていたが、出かけたドライブ先を一つも覚えていなかった」そうです。

一方、人間の赤ちゃんも、エピソード記憶を形成できません。人が思い出すことができるのは4歳くらいからの記憶とされていますが、Tulvingはそれに関連する面白い実験を紹介しています。それは、3~5歳の子供に、引き出しの中に何があるかをあらかじめ教えておいて、あとから答えさせる、という実験です。引き出しの中身を教える際には、

  • 引き出しの中にものを入れる様子を「見せる」
  • 引き出しの中に何を入れたかを言葉で「聞かせる」
  • 答えは教えずにヒントを与えて「推測させる」

という3とおりの方法をとります。どの方法でも、中身を答えること自体は簡単なため、3歳児でも正解できます。しかし、ここで「君はどうやってそれを知ったの?」という質問については、5歳児は正しく答えることができるのに対し、3歳児は答えられないのだそうです。つまり、3歳児は引き出しの中身を「知識」として記憶していたのに対し、5歳児は教えてもらったという「経験」として覚えていた、ということになります。人間の幼児では4歳くらいを境目に、そうした記憶の質的な変化が起こるそうなのです。

健忘症患者KCや4歳に満たない人間の赤ちゃんも、ちゃんと生きているし、「意識」ももっています。彼らができないのは、「将来を想像すること」だとTulvingは言います。KCは、過去や将来についてどう思っているかと聞かれ、「空白(blank)です」と答えたそうです。両親と一緒に住み慣れた家で暮らすことはできても、新しい環境に適応することはまったくできないのです。

そしてここに、Tulvingは線を引こうとしています。普通の人間の大人がもっているが、患者KCや4歳までの子供がもっていないような種類を記憶をエピソード記憶と呼ぼうということです。

では、人間以外の動物は、このTulvingの言う意味でのエピソード記憶を持つのでしょうか?

動物に対して「あなたはエピソード記憶をもっていますか?」と聞くことはできないので、何らかの行動をもとに判断しなければなりません。

どうやって白黒つけるか?

そこでTulvingは、「スプーンテスト」というものを提案しています。エストニアで一般的に知られる、次のような寓話があるそうです。

ある女の子が、友達の誕生日会に呼ばれる夢を見た。そのパーティーではチョコレートプリンが出された。しかし、他の子はみんなスプーンを持ってきたのに、自分だけはスプーンを持っていなかったので食べられなかった。二度とそんな悲しい思いをしないために、次の晩、その子はスプーンを握りしめて寝床についた。

この話で女の子は「夢」と「現実」が混同してしまっていますが、その部分に目をつむれば、この女の子は、明らかにエピソード記憶を使って自分の行動を変えています。Tulvingの提案は、こういう種類の学習ができることを、エピソード記憶をもっているかどうかのテストにしてはどうかというものです。ポイントとなるのは、女の子の「次回のためにスプーンを用意しておく」という行動のように、特定の環境と条件づけられた行動ではないこと、現在の生理的欲求に基づいた行動ではないことです。

そして、Tulvingの見解では、少なくとも2005年の時点では、この「スプーンテスト」に合格する人間以外の動物はいません。

たとえば、犬は、自分が骨を埋めた場所を覚えることができます。これは、一見、「私(犬)はいつどこに骨を埋めた」というエピソード記憶を持っているようにも思えます。しかし、この犬は「あそこには骨が埋まっている」という意味記憶を使っているのだという解釈も可能です。実際、患者KCはそのような意味記憶だけをつなぎ合わせて生きていくことができました。そのように、エピソード記憶を持ち出さなくても説明できる行動については、「スプーンテスト」に合格したとは言えないのです。前述のカケスについても、意味記憶だけで説明可能だとTulvingは考えています。

されにこれは、より人間に近い類人猿などにも言えます。たとえばチンパンジーはすぐれた短期記憶を持つものの、「将来について考えることができない」と言われています。筆者は同様のことを京都大学霊長類研究所松沢哲郎氏の講演会で聞き、感銘を受けた記憶があります*3

Tulvingは、人類は進化の過程で過去と未来について考える能力、つまりエピソード記憶を獲得したことで、道具を作ったり、食べ物を貯蔵したり、ものを運んだりする能力、つまり「文化」を形成できたのではないか、と推測しています。

以上がTulvingの論文の要旨です。再度まとめると、

  • エピソード記憶は「mental time travel」する能力であり、「未来を想像する」ために必要である
  • しかし、エピソード記憶は動物の生存にとって必須ではない
  • 人間のなかにも、一部の健忘症患者や乳幼児など、エピソード記憶を持たない人がいる
  • 人間以外の動物で(Tulvingがいう意味での)エピソード記憶をもつものは、今のところ知られていない

最後の項目で「今のところ」と書きましたが、Tulvingは「他の動物は絶対にエピソード記憶をもたない」という頑なな主張をしているわけではありません。今後、スプーンテストに合格するような事例が見つかる可能性も認めています。つまり、「反証可能」な形で自説を展開していることを強調しています。このあたり、議論の提起の仕方がさすがだと感じます。

最初の疑問に戻って:人間の記憶は特殊か?

さて、この議論から考えるべきはどんなことでしょうか。

ちなみに、その後、Tulvingの「スプーンテスト」に人間以外の動物が合格したとする報告も出てきているようです*4。今後も、少しずつ彼の仮説は覆されていくのかもしれませんし、「エピソード記憶」の定義は移り変わっていくかもしれません。

それでも、少なくとも「人間とその他の動物がもつ記憶には質的に違っている」という一般的な指摘には説得力があるように思えます。ちなみに、こうした指摘は「記憶」に限ったものではなく、たとえば情動(emotion)研究の第一人者として知られるJoseph Ledoux(ジョセフ・ルドゥー)が、最近の著書で「人間の情動と、マウスなどの実験動物の情動は同一視しすぎてはいけない」という主張をしたりしています。


Tulvingの論文を読んで痛感したのは、「記憶の仕組み」について考える以前に、「記憶」そのものついてまだまだ分かっていないのだ、ということでした。

もしエピソード記憶なり何なり、人間にあってマウスに「存在しない」記憶があるならば、マウスを使った記憶研究が教えてくれることは限定的になります。

したがって、個人的には、利根川ラボの研究の延長線上に、「嫌な記憶を消し」たり、「都合の良い記憶を植え付け」たりできる技術が登場するという予想は疑わしいのでは、と思っています。オプトジェネティクスをつかった「エングラム細胞」の研究が「PTSDアルツハイマー病などの治療につながる」などという宣伝文句は、嘘ではないにせよ、割り引いて聞いておいたほうがよいかもしれません。

おわりに

今回は、ひとまず「人間とマウスはもっている記憶の種類からして違うのだから、マウスで開発された記憶改変技術が人間に使われる見込みは、技術的にも原理的にも薄い」という無難な結論に落ち着きました。

しかし、では「人間の記憶を操作する」ような未来は当分こないと思っていいのでしょうか。どうやら、そうでもなさそうです。なぜなら、細胞・分子レベルとは別の方法で、何十年も前から「記憶の操作」は行われてきているからです。

次回はそのあたりを見ていきたいと思います。

*1:Tulving, Endel. "Episodic memory and autonoesis: Uniquely human." The missing link in cognition: Origins of self-reflective consciousness (2005): 3-56.

*2:ここで「意識」という言葉が出てくることに対して、筆者などは「おや?」と思います。意識は、記憶にも増して定義があいまいな概念のようにも思えるからです。Tulvingや他の記憶研究者は、他の動物もある種の意識をもっていることは前提にしているようです。

*3:http://langint.pri.kyoto-u.ac.jp/ai/ja/l/What-is-uniquely-human=An-answer-from-the-study-of-chimpanzee-mind-page3.htmlなど。

*4:Scarf, Damian, Christopher Smith, and Michael Stuart. "A spoon full of studies helps the comparison go down: a comparative analysis of Tulving's spoon test." Frontiers in psychology 5 (2013): 893-893.