こちらの本が翻訳出版されていました。原書の読書メモを再掲します。だいぶ変わった本なのですが、邦題のサブタイトル「自己欺瞞の進化心理学」は、本書の内容を表す言葉としてはとてもよいチョイスと感じます。
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The Elephant in the Brain: Hidden Motives in Everyday Life
- 作者: Kevin Simler,Robin Hanson
- 出版社/メーカー: Oxford Univ Pr
- 発売日: 2018/01/02
- メディア: ハードカバー
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最近邦訳が出た『全脳エミュレーションの時代』の著者、Robin Hanson氏の新刊。『全脳エミュレーションの時代』は読んでいないが、書店で見かけた印象では相当変わった本だった。
このRobin Hason氏の人物像がいま一つつかめない。社会科学者として大学に籍をおいているようだが、物理学出身だったり、ある時期は人工知能の研究をしたり、またある時期は政府系の未来予測のプロジェクトにかかわったりしている。10年ほど前から"Overcoming Bias"というタイトルのブログを運営し、人工知能、経済、人間心理などあらゆるテーマについてあれこれ書いている。とにかく「規格外の学者」らしいことしか把握できていない。
そのHanson氏が、IT系起業家で社会人大学院生のSimler氏と共に著した本書のテーマは"hidden motive"、つまり、私たち人間の「隠された動機」だ。メインタイトルの"Elephant in the Brain"は、「皆が見て見ぬふりをしている事象」を意味する"the elephant in the room"という慣用句をもじっている。
おおむね次のような主張をしている。
- 人々は、表向きの動機のほかに、隠された動機(hidden motive)をもつ。
- それは、他人に対して隠されているだけでなく、当の本人にさえ隠されている。
- 個々人の行動だけでなく、人間の集団行動や組織も、隠された動機で動いている。
- 隠された動機は、それなりに合理的な機能をもっている。
まず、1.だけ取り出せば、「本音と建前」があると言っているのと同じことなので、一般常識にすぎない。2.も、「無意識」として古くから知られたことだ。3.あたりから現代的になってくるが、行動経済学などでは「人々の無意識的なバイアスをどう利用してより良い制度設計をするか」といった議論がおなじみになっているし、4.も「"システム1"にも積極的役割がある」などと言われるように、よく聞く議論ではある。
ということで、この本に何か斬新な内容があるわけではない。著者らが自ら実験や調査をしているわけでもないし、新しい概念を提示しているわけでもない。中身の多くは、著名な進化心理学者、生物学者らの著作を引用・再構成したものとなっている。
そんな、「研究をつまみ食いした自己啓発本」と紙一重ともいえる本なのだが、そう切り捨てることができない、妙な説得力があった。
私自身、「啓発」される部分も少なくなかった。
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本書で描かれるのは、とことん「穿った人間観」だ。
たとえば、「医療」の章ではこんなことを言っている。アメリカでは、過去何度か医療に関する段規模な社会実験が行われていて、その結果、予想に反して医療費と健康度は相関していないことがわかっているという。つまり、どうやら、人々は必要以上に病院に行ったり、それ以上健康にならないのに、薬を飲んだりしているようなのだ。なぜか? それは「医者(あるいは薬剤師)に診てもらった」という満足感を得るためではないかと著者らは結論する。ここには、「健康になる」という表向きの動機の裏に、「誰かにケアしてもらう」という動機が隠れているというのだ。
あるいは「教育」の章。人が学校に行く表向きの目的は「知識を得るため」だが、隠された目的として「有能であることの証明証書を得る」ことがあるという。
募金するのは「寛大だと他人に思われるため」、高級車を買うのは「人々が高級だと思っているものを所有するため」。一事が万事、本書ではこんな「穿った見方」が何十個も出てくる。
ここまでなら、「人って嘘や不純な動機だらけ」という話なのだが、本書のポイントは、そうした「不純な動機」は当人から隠されていて、しかもそれにはワケがある、というところにある。
その「ワケ」を、著者らは進化心理学的に説明している。
なんとなれば、人間は社会的な動物である。腕力が強い、性的な魅力があるというだけでは繁栄できない。人にとっての「力」は、自分を助けてくれる仲間がいること。そのためには、自分を「有能で役に立つ人」かつ「他人のために動いてくれるいい人」と思わせる必要がある。求められるのは、「利己的な動機で行動しつつ、他人には無私の心を持っていると思わせる」という高度な戦略。そこで人間の脳が編み出した方策とは、まずもって「自らをだます」ことだった!
自分はピュアな動機で動いていると「自ら信じる」ことで、相手にもそう思ってもらいやすくなる。だから、自分の真の動機と、「隠された動機」の乖離が起こるのだ。
……駆け足に説明すると、著者らの描くストーリーは以上のような感じになる。
どうだろうか? 私は、なかなか説得力があると感じた。
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「穿った人間観」とその「進化論的説明」。
著者らは、学校制度や医療制度などを設計する際に、本書の議論を考慮に入れるのが役に立つと言って、自著の価値を訴えている。個人的には、もっと卑近な「自己啓発」のレベルで、本書のことを覚えておくとちょっと良いことがあるような気がしている。
効用1:他人の「不純な動機」に寛容になれること。
生きていると、周りの人に幻滅を味わうことがある。尊敬していた人の、自意識が滲み出たSNSアカウントを見つけてしまった。結局、あの人も、自分がかわいい人だったのか、がっかりだ――そんなとき、本書の「人間観」を思い出そう。どんな素敵な人にも「隠れた動機」があるのは普通のことであって、その人の心が「実は汚かった」ということにはならない。人間の本性なのだから、仕方ないのだ。そう思うことで、無駄に落ち込むことを避けられるかもしれない。
効用2:自分の「心の汚さ」に折り合いをつけられること。
生きていると、他人に幻滅する以上に、自分自身に嫌気がさすことがある。自分の動機の「ピュアさ」を疑い始めると、止まらなくなる。どこまでも自分が卑しい人間に思えてくる。そのときも、本書の人間観が抗生剤になってくれるかもしれない。人間の本性なのだから、仕方ないのだ。動機など、いくらでも後から都合よく繕って、生きていけばいいではないか。
…私が本の感想をブログに書く理由は、後からその本の内容を思い出しやすくするためです。決して、ブログのアクセス数が増えるのを見て快感を得るためではありません。