重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

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読書メモ:暇と退屈の倫理学 [増補新版](國分功一郎 著)…のふわっとした感想

 

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)
 

初版が出たのが2011年。出版社を変えて新版が出たのが2015年。「暇と退屈」と「倫理学」という言葉の組み合わせが意外に感じられて、ずっと気になっていた本だった。

今回読んでみて、まずは発見だったのは「暇と退屈の倫理学」が決して著者独自のニッチなテーマ設定ではないということ。著者や多くの人にとって切実な人生上の問題であるとともに、パスカル、ルソー、ラッセル、ハイデッガーといった哲学者たちがまじめに取り組んできた主題でもあるようだ。

なぜ「暇と退屈」なのか。こう問うてみるといいかもしれない。人のすることで「暇つぶし」や「退屈しのぎ」ではないことはどれくらいあるか。睡眠と食事、そして育児・介護などを除けば、ほとんどがその実「退屈しのぎ」とも言えなくはないだろうか。テレビをつける、twitterを眺める、飲みに行く。大学に行く、会社に入る、社会貢献活動をするといったことにいたるまで、その背後に「退屈を味わいたくない」という動機がないだろうか。

自分自身は、この「退屈」を「むなしさ」という言葉で捉えてきた。小学5年生のとき、突如として「何をしていてもつまらない」という感覚に襲われた。人間はどうせ死ぬ。何をやっても、意味があるようには思えない。むなしい。その絶望感は強烈だった。それ以降、この「むなしさ」から目をそらし続けているのが自分の人生にほかならない(そして、その逃避にいまのところは成功している)。

著者に本書を書かせた「退屈」をめぐる「悩み」も、上記の「むなしさ」と同種のものではないかと想像する。しかし、著者は哲学者である。「哲学とは、問題を発見し、それに対応するための概念を作り出す営みである」(p.2)。哲学者として、著者は「暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきかという問い」に挑む。それが「暇と退屈の倫理学」である。

倫理学」にたどり着くまでに、本書では暇と退屈をめぐる様々な観点が扱われる。人はいつから退屈を感じることになったのか。暇と退屈は市場経済とのどのような共依存関係にあったのか。人類学、経済学、社会学的考察を経たうえで、暇と退屈の「哲学」が本書の山場となる。ここではハイデッガーの退屈論をベースとしつつ、著者独自の見解が示される。最後に、それを踏まえての「倫理学」にいたる。

議論の中身、著者の結論については本書を参照してほしい。人生が退屈で耐えがたくなってきたら、まずはこの本を再読するように(→未来の自分へ)。

とはいえ、少しだけ。本書の結論のなかで覚えておきたい部分を自分なりにパラフレーズするならば、「退屈をねじ伏せようとするな」となるだろうか。

僕らはすぐに、「ミッション」が定まった人生や、「ライフワーク」をもっている人に憧れる。ミッションやライフワークを見つければ、退屈やむなしさの深淵を二度と見なくて済むような気がするからだ。しかし、著者によれば、それは罠だ。本書の言葉でいうならば、その「決断」はハイデッガーの退屈論の「第一形式」へ回帰してしまうことを意味し、それこそが「何かの奴隷になること」、「考えることの契機となる何かを受けとる余裕」を失うことにつながるのだ。

この結論は読者の自分に確かに響いた。「哲学とは、問題を発見し、それに対応するための概念を作り出す営みである(p.2)」と著者は言う。著者は、本書で、過去の思想の徹底的な読み込みと自身の独創とを絡み合わせて、人生の指針となる新しい概念を作り上げてみせている。これまで、どちらかというと「すでにある概念の意味を明晰にする」タイプの哲学に触れることが多かったので、本書は鮮烈だった。こういう哲学もあるのか、と思った。

ちなみに、新版には「傷と運命」と題された論考が付け加えられている。ここでは、退屈の心理学的な起源をめぐる著者の新説が提唱されている。退屈というのは、心がそれまでの人生で負ったきた心理的な傷(記憶)が痛みだす現象なのではないか、という説だ。

絶えざる刺激には耐えられないのに、刺激がないことにも耐えられないのは、外側のサリエンシー〔慣れていない刺激のこと〕が消えると、痛む記憶が内側からサリエンシーとして人を悩ませるからではないか。(p.428)

一見唐突に思えたが、人々の「退屈への耐性の差」がうまく説明できることに思い至ると、それなりに説得力があるように思えてきた。ここまで精神医学や神経科学の領域に近づくと、具体的な療法につながっていきそうな気もする。たとえば、瞑想や薬で退屈を緩和することはできそうだ。退屈という「問題を発見(再発見?)」した本書は、科学や医学にとっての新しい課題をつくったともいえるのかもしれない。