重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

読書メモ、探求メモなど。

猛暑日の夜に人生を振り返って苦々しく思うこと

今日は暑かった。

ここ数年、暑いのが怖い。暑いから冷房の効いた部屋に閉じこもるわけだけど、その冷房が世界をさらに暑くしているのは明白で、「暑いでしょうけど、こっちを冷やすので電力が限界なので、そちらでは冷房は使えません」という日はいつかくるのか。自分の生きている間だろうか。

暑いだけならまだいい。豪雨、水害、火災。幸い去年のような災害は日本ではまだ起こっていない。が、それは私の素人理解では、たまたま「暖気と寒気の境目のうねうね」の「ひっこみ(でっぱり?)」に日本列島が収まっていたからで、地球の反対側で逆に「でっぱり(ひっこみ)」に入った欧州はひどいことになったようだ。そしてその「うねうね」が、温暖化により年々激しく、手に負えなくなっている。

北極の氷は融け、ますます温暖化は加速すると言われる。もはや、地球に人類の居場所はなくなりつつあるんじゃないか。そんな恐怖に、夏が来るたびに苛まれる。しかし、誰にも話したことはないのだが、恐怖心と同時に、うっすらと個人的な「苦々しさ」というか「怒り」に近い感情を覚えるのである。ここらで、一度文章にすることで、その感情を成仏させたい。うまくできるか分からないが、とりあえず書いてみる。

***

私は1987年生まれだ。たぶん私の世代は、小さいころから「環境問題」という言葉を刷り込まれている。私も、小学校低学年ではテレビでやっていた「もう東京にはゴミ捨て場がない」という番組に衝撃を受け、高学年からは「温室効果ガスによる温暖化」を深刻に受け取った。1997年の京都議定書が9歳のときで、2006年のアル・ゴア氏の映画『不都合な真実』が18歳。ものごころついてからずっと、「地球が大変!」というメッセージに触れつづけてきた。

生真面目だった私は、大学生になるころには、すっかり「グリーン・コンシャス」な人間になっていた。これからのライフスタイルは、環境負荷を第一に考えなければいけない。余計な物は買わない。冷暖房を使わなくて済むよう、なるべく大学や公共施設で過ごす。成長期は終わったのだから、肉よりは野菜を食べる。自家用車をもつなどもってのほか。……実際にどれくらい実行していたかは別として、意識だけは高かった。たまの帰省のときに、両親がまだ使える家電を買い替えたりしていると、無性に腹が立ったりもした。

そんな大げさな、と思われるかもしれない。が、少数ながら似たようなメンタリティの学生はいた。サークルの先輩は私にこう言った。「人は生きているだけで環境に負荷を与える。だから私は自分をマイナスの存在だと思っている。少しでも地球に良いことをして、プラスに変えなければいけないと考えているよ」。彼女の言葉に、私は深くうなずいた。私よりも徹底して、薄暗い部屋で消費エネルギーを切り詰めている友人もいた。

しかし、2009年ころになると、リーマンショックの影響などもあり、人々の関心は雇用や貧困の問題に向き、急に「環境問題」は語られなくなっていった。大学3年生の私は、勢いあまって環境省の採用説明会に参加したが、同省の若手官僚たちからは、当時の私が期待していたほどの環境問題に対する熱意が感じられず、がっかりしたのを覚えている。そのころから、私自身の意識も、だんだん冷めてくる。一時は省エネのための材料開発をしている研究室に入ろうかとも考えたが、どうせ社会は真剣に取り組まないらしい。だったら、自分の本当に興味のあることをやろうと考えた。

それからは基本的には環境問題を忘れ、好きなことをしてきた。それでも、「地球の未来」は怖かった。妻と付き合い始めたばかりのころ、「自分は地球環境についてまったく悲観している。だからその観点を抜きにした人生設計など考えられない」ということを彼女に言った。妻はそのときは「心配性なんだね、君らしい」などと返した(恋愛初期だからそういう表現になったのであって、内心は「何言ってんだ、こいつ」だったかもしれない)。

***

そして今。

夏が来るたびに、子どものころに聞かされた警鐘は正しかったと思い知らされる。と同時に、自分のなかに渦巻く気持ちが二つある。

「どうせこうなるなら、自分ひとりがあんなに心配する意味などなかったじゃないか」

地球環境問題について意識的であることは、少なくとも私にとっては、どこかしら自分の生を否定する要素があった。できるだけ負荷をかけないように、できるだけ「マイナス」を減らすように。さもなくば、地球が壊れてしまう。でも、気候変動が既定路線で進むのならば、そんな恐怖と自責がない混ぜになったような感情を、10代の私が持ち続ける必要などなかったじゃないか。資源を浪費することを恐れたりせず、もっと青春を謳歌することもできたのではないか——これが、猛暑日の夜に私の心をかすめる「苦々しさ」の正体だ。たぶん。

一方、二つ目として、「でも、自分もいつの間にか『考えない側の人』になっていたな」という思いもある。

子どものころの自分は、「本当は考えていない大人」に、むやみに恐怖心と自責の念を植え付けられてきたかもしれない。でも、今や私は大人だ。大人が本当の問題から目を背けたら、それこそ子どもに顔向けできない。

もう、私は、我慢しない。がんがんに冷房も入れるし、肉も食べる。ときどきは飛行機にも乗りたい。その代わり、もう一度、地球環境問題(今の言葉で言えば「気候変動」)について――「やばい」「怖い」だけじゃなくその「対策」について、それも道徳的次元ではなく実務・政策レベルで――話し始めるべきじゃないのか。

そんな気持ちで、以上を書いてみた。