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読書メモなど

読書メモ(再掲): 心と体をゆたかにするマインドエクササイズの証明(ダニエル・ゴールマン&リチャード・デビッドソン著)

 

心と体をゆたかにするマインドエクササイズの証明 (フェニックスシリーズ)

心と体をゆたかにするマインドエクササイズの証明 (フェニックスシリーズ)

  • 作者: ダニエル・ゴールマン,リチャード・J・デビッドソン,藤田美菜子
  • 出版社/メーカー: パンローリング株式会社
  • 発売日: 2018/07/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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原書を読んだのが今年のお正月。もう翻訳が出ました。 

邦題に「瞑想」も「マインドフルネス」も入っていないのはやや意外でした(自分なら『瞑想の科学』とでも付けたいところ)。

瞑想をすでに実践している人も、瞑想ブームに懐疑的な人にも、ぜひおすすめしたい一冊です。

以下に感想を再掲します。

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Altered Traits: Science Reveals How Meditation Changes Your Mind, Brain, and Body

Altered Traits: Science Reveals How Meditation Changes Your Mind, Brain, and Body

 

瞑想の科学的研究の第一人者らが、瞑想研究の歴史と最先端を概説した本。

著者らのプロフィールから言って、今後数年以内に出される「瞑想の科学」の本のなかでは決定版になるだろう。

いまでは脳科学の一大トピックとなった「瞑想」あるいは「マインドフルネス」だが、2016年の論文数は1113本にも上ったそうだ。しかし、著者ら研究を始めたばかりの1970年代には、瞑想はまだ科学研究の対象とは見られていなかった。

著者のGolemanとDavidsonは、ともに心理学者としてキャリアをスタートしている。瞑想へ関心をもち、学生のころから度々インドにわたっていわゆる「リトリート」を経験している(私が最近読んだ本の著者にも「瞑想リトリート」の経験者が多くて驚く)。

心理学者として瞑想の効果を検証しようと志すが、当時は周りの理解が得られず、とくに年長のGolemanは研究生活を中断したりもしている(彼は科学ライターになり、著書『EQ こころの知能指数』などで大ブレイクする)。

著者らが行った初期の研究は、瞑想中の人の心拍や発汗量を調べるというものだった。「ストレスが軽減されている」ことを示す結果は出たものの、今から思うと再現性などの面で問題が多かったと著者らは振り返っている。しかし、やがてEEGfMRIなど脳測定の手段が発明されるにつれて、確たる結果が得られるようになってくる。瞑想にはストレス軽減、他者への思いやりの増大、集中力向上などの効果があると言われているが、それを説明するような脳の変化が多く見つかっていったのだ。

本書では章ごとに、「ストレス」「共感」「注意」「自己」「痛み」「精神疾患」といった瞑想との関連が知られるテーマを取り上げ、これまでに知られている知見を紹介している。

著者らの研究の特色となっているのが、「瞑想する人の熟練度」を重視する点だ。著者らは瞑想の熟練度を生涯での瞑想の実践時間で測るのだが、たとえば1000時間、10000時間、60000時間の瞑想家では、脳に現れる効果が、安静時・瞑想時ともに大きく違うのだという。有意な結果が出ていないように見える実験でも、実践歴を考慮に入れると有意差が出たりするらしい。

数時間だけ瞑想した人から60000時間の瞑想歴をもつ熟練ヨギの脳まで、段階的な変化がある。このことからわかるのは、脳と心はどこまでも変えていけるということだ。脳のとある部位の大きさといった構造的特徴から、特定の波長の脳波(注意を集中しているときに出るガンマ波など)の増強といった機能的特徴まで、瞑想を実践すればするほど脳は変化していく。これまで多くの脳研究では、瞑想や薬物などに対して脳がその「瞬間」にどう状態を変えるか、つまり脳の「変性状態(altered state)」に注目してきたが、本当に重要なのはその変化がいかに定着するか、つまりの習性がどう変わるか(altered trait)なのだ。これが、タイトル(原題)にもなっている本書のメインメッセージである。

なお、著者らは世界有数の瞑想スキルをもつヨギたちをアメリカのラボに連れてきて測定を行っている。そんなことができたのは、著者2名が瞑想の実践者であり、ヨギたちとの人脈をもっていたからだ。それにも増して大きかったのが、ダライ・ラマ14世の存在だという。ダライ・ラマは、1980年代に生物学者フランシスコ・ヴァレラらとともにMind and Life Instituteという研究機関を設立し、瞑想の科学的研究を促した。そのときの設立メンバーに、著者2人も入ったいたそうだ。

いまや瞑想は一大ブームとなり、「瞑想アプリ」もたくさん出ているほどだ(私も先日Googleのアプリをスマホに入れてみた)。このブームのおおもとに、瞑想に関心をもつ西洋の科学者と、科学に関心をもつ東洋の瞑想家の出会いがあったとは面白い。瞑想ブームの源流を知る実録としても読みごたえのある一冊だった。

読書メモ:記憶をめぐる人文学(アン・ホワイトヘッド 著、三村尚央 訳)

 本ブログでは、折に触れて「記憶の脳科学」を扱ってきた。

  • 脳科学は記憶の仕組みをどこまで明らかにしたのか?
  • 記憶を「書き換える」技術は、もうすぐ実現されるのか?

そんな素朴な疑問から出発して、連載ブログを書いたのが1年と少し前。

そのときにたどり着いた私なりの結論は、「記憶観のアップデート」が必要ではないかということだった。ともすると、私たちは「コンピュータのメモリ」になぞらえて記憶を考えがち。でも、どうやら人や動物の記憶は、その素朴な比喩ではうまく記述できそうにない。ならば今後の「記憶の脳科学」や「記憶の改変技術」は、「コンピュータメモリ」ないし「貯蔵庫」のアナロジーを覆すような実験なり理論によって前に進むのではないか――そんなふうに、ひとまずは考えた。

その後、「単純な貯蔵庫モデルはやめよう」という趣旨のレビュー論文を見つけて、読んでみたりした:

探哲学者たちは究メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで明らかにしたのか〈番外編1:論文紹介 Neuron 2017 "Memory Takes Time"〉 - rmaruy_blog

神経科学者たちも、「記憶観のアップデート」の必要性を感じていることがわかって嬉しかった。

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そうしたなかで、ずっと気にかかっていたことがあった。

それは、「哲学は、記憶について何を考えてきたのか」ということ。人々は「脳科学」(あるいは「心理学」)が登場してから、慌てて記憶の正体について考え始めたのか? そんなはずはない。昔から、哲学者たちは記憶について思考を巡らせてきただろう。そこから脳科学が学べることはないのだろうか。

古今の哲学者たちは、どう記憶を捉えてきたのか?

それを真正面から書いた本が、昨年出ていることに気づいた。

記憶をめぐる人文学

記憶をめぐる人文学

 

原題は単に"Memory"だが、日本語版は「~をめぐる人文学」をつけている。

その邦題どおり、西洋の哲学と文学のなかで「記憶」がどう扱われてきたかを俯瞰的に描いた1冊となっている。

序章の次の一節が、著者のアプローチを要約している。

本書は、このように記憶という概念についての歴史的な変化を記述する。この作業のなかで私が強調したいのは、記憶がもつ意味や価値は時代によって劇的に変化するものだということである。p.17

「記憶という概念」は、歴史を通して変化してきている。そのことを、古代ギリシア時代から20世紀まで、多くの歴史上の哲学・文学のテキスト、そして近年の研究者によるその読解を紹介することによって証明していく。

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記述の難易度は高く、残念ながら私には読みこなすことができなかった(人文学の素養の要求度も高く、プラトンアリストテレス、ロック、ルソー、ベルクソンなどの一次文献については、少なくとも概要は頭に入っていることが前提にされているようだった)。

本書で取り上げられる多彩な「記憶観」をいくつか挙げると、

  • 古代ローマの、弁論術の一環をなす「アート=技術」としての記憶
  • ロックやヒュームの時代に登場した、アイデンティティや自己を成立させるものとしての記憶
  • 20世紀はじめころに「病」として認められ始めた、コントロールできない過剰な記憶
  • 家族、民族、国家単位で保持される、「集合的記憶

など。ただ、本書ではこれらの記憶観が「AからBになった」というような単純なストーリーでは説明しておらず、それも本書の難しさ(本格的な学術書らしさ)の一因になっている。

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消化不良で終わってしまったが、収穫も大きかった。

まずは、人文学(とくに欧米の人文学?)で「記憶」が一つの重要なテーマとなっているのがわかった。“memory studies”という分野があり、盛り上がっているらしいことを初めて知った(検索すると、多くの論文や講演動画が出てきた)。主にホロコーストや戦争記憶の政治性などが問題意識になっているような印象だが、脳科学の記憶理論へ示唆を与えたり、記憶改変技術をどう使うかという倫理的問題とも無縁ではないはずだ。

また、本書で垣間見ることができた記憶観の変遷は興味深かった。文学や哲学ならではの、「記憶は脳のなかだけにあるのではない」という記憶観は重要。つまり「身体がもっている」と言ってよい記憶もあるし、「人間の集団がもつ」記憶もある。また、古代ギリシア、ローマの人々が考えたように、人間の思考力にとって実は記憶が重要なパーツであるという見方も面白い(CPUとメモリは、コンピュータのようには分けられないのかもしれない)。

最後に、訳者のあとがきから引用:

今後の記憶研究においては、科学的な知見と人文学的な表象という双方のアプローチの深まりと広がりを比較しながら密接に関係づけてゆくことで、記憶と精神活動の神秘についての知見がこれまで以上に濃密なものとなっていくことが期待できるだろう。(訳者あとがき より)

完全に同意するし、私も同じ方向性で一素人なりにあれこれ考えていきたいと思っている。

読書メモ: あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠(キャシー・オニール著)

 

あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠

あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠

 

原書タイトルは"Weapons of Math Destruction"。

大量破壊兵器」をもじった造語で、訳書本文中では「数学破壊兵器」と訳されている。「兵器」というワードに一瞬ぎょっとするが、いわゆるAI(人工知能)やビッグデータが社会や個人に与える悪影響を強調するために、あえて選ばれた言葉なのだろう。

AIの危険性については、今回のAIブーム開始直後から議論されてきたし、本もたくさん出た。最初は拡散していた論点も、だんだんと整理されてきている*1

 

2016年末に、このテーマについてはブログに書いた。

この記事では、データを分析する側と、データ分析の影響を被る側の間にもっと「コミュニケーション」が必要ではないか、というようなことを書いた。けれど、具体的にAI・データ利用の何が「危険」なのかは、はっきりイメージできていなかったように思う。

本書『あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠』には、その答えがある。まさに「AIやビッグデータ、なんか危うくない?」という感覚の正体が言い当てられていて、ものすごく腑に落ちた。

著者キャシー・オニール氏のプロフィールが面白い。数学の大学教授職を手放し、金融業界でクオンツとして働き、その後はデータサイエンス業界へ。アメリカの科学者が「最優秀層がみんな金融業界へ吸い寄せられてしまう」と嘆くのを読んだことがあるが、その道を地で行った著者だ。やがてデータサイエンティストとしての自分の仕事にも疑問を抱き、会社を辞める。中を知っているだけに、説得力がある。

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「AI・ビッグデータの危うさ」をテーマとした本のなかで、本書が際立つ一番の点は、「すでに起こっている事例を扱っていること」だろう。

著者が「数学破壊兵器」と呼ぶもの、それは人々や社会に害をなす数理モデル(ないしはアルゴリズム)のことだ。本書で取り上げられているもののなかからいくつか挙げると、

  • 広告会社が、特定の個人に対して、どんな広告が効果的かを割り出すモデル
  • 警察が、街のなかで犯罪が起こりやすい場所を割り出すモデル
  • 司法が、再犯の可能性が高い囚人を割り出すモデル
  • 保険会社が、ある人に対して、最適な保険料を割り出すモデル
  • 企業が、採用応募者のなかから有望な人を絞り込むモデル

など。いずれも、アメリカの企業や行政によって、すでに使われているものだ。なかには、いわゆるAIやビッグデータを使っていないシンプルな数理モデルもある。

これらが「数学の悪用」と言えるのは、弱者からの搾取、格差の固定化と拡大、人々の政治的分断などにつながるからだ。たとえば、「広告」の章では、アメリカの私立大学のターゲティング広告の事例が出てくる。一部の悪質な大学では、貧困層をターゲットに、各人のコンプレックスを突くような広告を投げ、入学者を獲得しているという。こうして入学した人は高い学費によってさらに苦境に陥ってしまう。ここまで露骨な「悪意」がなくても、たとえば雇用や保険の例では、その人の「人種」が原因で会社や保険に入りにくくなるなど、結果としての差別が発生している。そして、こうしたモデルを使うこと自体が、モデルにフィットしやすい状況を作り出すことに貢献するという、悪循環が生まれてしまう。

これらの「ヤバさ」を知るには本書を読むのが一番なので、まずは手に取ってみてほしい。

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本書で挙げられている事例の多くは、アメリカだからこそ起こったものも多いだろう。ただ、日本でも、悪質な「AI導入」「データ活用」が浸透し始めているように感じる。思いつくのは

  • オンラインゲームのユーザーに課金を促すためのデータ分析
  • 退職可能性の高い従業員を割り出す「AI」

などだ。本書では、悪いモデルの共通点として

  • モデルの中身が不透明であること
  • そのサービスや事業の目的に関係のない変数が取り入れていること(※表現はブログ筆者の意訳)

が挙げられているが、上記の二例もそれに該当するだろう。

もちろん、企業が利益をあげるために、客単価向上や人事業務のコスト削減に努力するのは当然で、そのためにできることは何でもやるというのはわかる。だからこそ、消費者(市民)の側で意識を高めて、企業や行政に「公正なデータ活用」を行う圧力をかける必要がある。少なくとも、「セクシー」だとか「最強」だとか「導入が急務」だとか、データ分析やAIを無条件に是とする雰囲気は、そろそろ変えていったほうがよさそうだ。

……まずは、今年から全国にでき始めている「データサイエンス学部」で、本書を教科書にしてはと思いますが、いかがでしょうか。

*1:たとえば、丸山宏による下記スライドでは、「私たちが備えるべきAI」を「汎用人工知能」「デジタル化の浸透」「機械学習によるシステムの登場」に分類している。

 

 

読書メモ:「イノベーターのジレンマ」の経済学的解明(伊神満 著)

 

「イノベーターのジレンマ」の経済学的解明

「イノベーターのジレンマ」の経済学的解明

 

経済学者による、経済学研究の入門書。クレイトン・クリステンセンの「イノベーターのジレンマ」を、経済学的な実証分析で検証するという内容だ。

中身は決して簡単ではなく、論理を追いきれないところもあった。しかし、びっくりするほど面白く、読ませる1冊だった。噛んで含めるような説明をしつつ、「面白いからついてきてね!」と言わんばかりに、ぐいぐい飛ばしていく。アメリカに籍を置く若手研究者の本で感じることの多い、勢いのある筆致が印象的だった。

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「イノベーターのジレンマ」とは、ある産業分野で優位に立った企業が、その成功ゆえに次のイノベーションを起こせずに、新興企業に取って代わられてしまう現象(とその状況に既存企業を追い込む構造的要因)のことだ。経営学では言わずと知れた理論で、門外漢の私も、会社の上司が口にするのをたびたび耳にしたことがあった。(私自身は『イノベーションのジレンマ』(邦題)は未読だが、クリステンセンの別の本を1冊読んだことがあった。)

クリステンセンは、業界レポートや関係者のインタビューなど、「経営学史的」な方法により、次のイノベーションと既存商品がバッティングすること(=「共食い」)など、いくつかのジレンマの要因を挙げている。しかし、多くのビジネスパーソンたちが目からうろこを落とすであろうところで、経済学者である著者は納得しない。

「能力」と「結果」の因果関係などというのは、 そんなに簡単に実証できるものではない。 業界誌を読んだり経営者にインタビューしたくらいでは(というのがクリステンセンの分析手法だった)、本来全く歯が立たないはずの実証課題である。

そこで、著者は博士論文研究として、「イノベーターのジレンマの実証」に乗り出した。具体的には、クリステンセンが主な研究対象としていたHDDメーカーの新旧交代を取り上げ、過去のHDD業界の実際のデータをもとに分析を行っている。

分析の詳細としては、

  • 新旧HDDの2財間の価格の交差弾力性の算出をもとにした、「共食い」の効果の定量
  • 実際の価格・販売数量の推移をもとにした、新規参入やイノベーションのコストの推計

などをしている。各数値が導かれる論理は入り組んでいて、ミクロ経済学の知識も要求されるので、完全に理解するのは難しい。それでも、「こういうことをやるのか」という雰囲気は伝わってくる。

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本書の内容は、企業経営者や、イノベーション政策にかかわる官僚の人には大変役立つものだと思う。とくに政策決定に携わる人には、「何となく説得力のある理論」ではなく、本書のような、鮮やかさはなくても実証に裏付けられた研究をもとに議論してほしいものだ。

一方、「イノベーターのジレンマ」自体にはそれほど関心がない(私のような)読者にとっては、本書は「経済学研究の姿を知る」ためには恰好の本だと思う。著者もそうした読者を意識していて、研究テーマの決め方、問題へのアプローチ、どんなツールを使い、どんな仮定を置くかなど、「研究の心得」的な持論をあちこちで述べている。

「理論」 の補助線なしに、 現実を解釈したり因果関係を見出すことは出来ない。 

結局何が言いたいかというと、そのまま放っておいたら「データは何も語らない」ということだ。むしろ私たちは積極的に「データに耳を傾ける」必要がある。

しかし実証・応用において、「問いのない研究」は「オチのないお笑い」のようだ。「モデルの拡張」「手法の応用」「業界の調査」。いずれも結構だが、

・なぜその作業をするのか?

・それが出来たら何が嬉しいのか?

そういう「動機」に裏打ちされていないと虚しい。

 等々。

イノベーションの起こしやすさ」などといった漠然とした概念は、研究者のセンスで巧みに数値化し、モデル化し、手持ちのデータから導ける数値で議論できるように料理しなければ、「科学」の俎上に載らない。本書は、その「プロの技」がどんなものかを、素人にも分かるように伝えてくれる。

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とにかく、「学術研究の一般向け解説書」の模範のような本だった。(…本書の場合は著者の力が大きいと想像するが、もし博士論文を本書のような入門書に「変換」できる編集者がいたら最強だ。)

学術書系の編集者はもちろん、広く科学コミュニケーションに関わる人にとって参考にすべきところが多いはず。

読書メモ:トラウマをめぐる3冊(ピーター・ラヴィーン著、ベッセル・ヴァン・デア・コーク著、宮地尚子 著)+中井久夫【追記】

「トラウマ」にまつわる本を3冊読んだ。

最初の2冊は、トラウマ治療に長年関わってきたアメリカの臨床医が、トラウマについての科学的知識とその治療法を解説した本。いずれも、脳だけでなく「身体」の記憶という視点を重視している。3冊目の岩波新書は、「脳」と「身体」にさらに「社会」という観点を加え、社会全体でトラウマとどう向き合えばよいかを考察した一冊。

トラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復

トラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復

 

 

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法

 

 

トラウマ (岩波新書)

トラウマ (岩波新書)

 

トラウマについては、身近に当事者がいるわけでもなく、知識はまったくなかった。この3冊がどれくらい「トラウマ入門」として適した選書になっているかはわからないが、今回知ったこと・思ったことをメモしておく。

トラウマとは何か?

トラウマは、日本語では「心的外傷」と訳される。もともとは単に「傷」を意味する言葉だったそうだ。身体にできる傷とのアナロジーで、「心が負う傷」=「サイコロジカル・トラウマ」という言葉ができ、それが短く「トラウマ」と呼ばれるようになったということらしい。

トラウマを定義するのは簡単ではありませんが、精神医学や心理学の分野では、過去の出来事によって心が耐えられないほどの衝撃を受け、それが同じような恐怖や不快感をもたらし続け、現在まで影響を及ぼし続ける状態と捉えられています。 宮地『トラウマ』p.3

「過去の出来事」としては、戦争や自然災害など、過去の特定の出来事もあれば、幼少期に受けた虐待や差別など、心へのダメージが繰り返されるものもある。そうした出来事によって、自律神経が乱れたり、何かの拍子に突然当時の記憶が(その時の情動や身体反応とともに)蘇ったり、そうした反応をトリガーするものを無自覚に回避したりといった症状が出る。

トラウマとして診断することの是非

このような定義を聞くと、ほとんどの精神的な不調には「トラウマ」が関わっているのではないかとも思える。しかし、「トラウマ」は、素人が思うほどには、精神医学の中心テーマとなっているわけではないらしい。

トラウマという見方を嫌う精神科医も少なくありません。単純な因果関係を想定しすぎる、過去に原因を帰することが回復の妨げになる、といった理由からです。宮地『トラウマ』p.95

歴史的にも、その概念は19世紀の心理学者が提唱しているにもかかわらず、長いこと忘れられてきた。1980年代になって多数のベトナム戦争の帰還兵がトラウマ障害を負っていたことをきっかけに、PTSD心的外傷後ストレス障害)という診断名がようやく登場する。

その後、PTSDは定着した一方で、PTSDに含まれないトラウマ障害はなかなか光が当たらないようだ。ヴァン・デア・コーク氏は、幼少期の逆境的な体験がもたらすトラウマに診断名がないことを問題にし、DSM精神障害の診断マニュアル)に「発達性トラウマ」という診断を加えることを提唱した。しかし、「児童期の逆境的体験が発達に重大な悪影響を及ぼすという見解は、研究に基づく事実というよりもむしろ臨床的直感である」(『身体はトラウマを記録する』p.266)として退けられたという。

たしかに、「震災」や「戦争」など、日時が特定できる出来事ならまだしも、「幼少期の体験」となると時間的ギャップが大きすぎて、今の身体的反応との因果関係を「科学的」に実証するのは難しそうだ。「臨床的直感」と言われてしまうのも、しかたない面もあるのかもしれない。

脳と体の記憶

トラウマと言うと「記憶の病」というイメージがある。確かにその通りなのだが、そこでの「記憶」の意味が重要になる。

レヴィ―ン著やヴァン・デア・コーク著では、トラウマ記憶と普通の記憶の違いが何度も強調されている。トラウマ記憶は、求められれば自由に思い出せる普通の(顕在)記憶とは違って、断片的で言語化が難しい。また、記憶が情動に結び付いていて、フラッシュバックのときには身体が当時の状態(凍り付いたり、心拍数があがったり)に戻ってしまう。その意味で、一般用語としての「記憶」というよりは、まさに「身体に刻み込まれた記録」のイメージに近い。

不適応な手続き記憶と情動記憶が長期にわたって存続することが、社会的な、あるいは人間関係の問題の根幹となっており、すべてのトラウマのもとにある中心的な作用機序を形成しているといってよいだろう。 レヴィ―ン『トラウマと記憶』p.60

レヴィ―ン氏はさらに踏み込んで、トラウマ体験の最中に身体が行おうとしていた行動(レイプの加害者を手で押しのけるとか)が「未完了」であることが不適応な身体反応を生んでいると考え、その行動を安全な環境で「完了」させることでトラウマを癒すという発想のもとで、「ソマティック・エクスペリエンシング」という治療アプローチを確立している。

治療法

一方、ヴァン・デア・コーク氏は、特定の療法に拘るのではなく、トラウマの様々な治療法を実践している。

人によってふさわしい手法は異なるので、私は特定の治療法にこだわることはなく、本書で論じる治療法をすべて実践している。 ヴァン・デア・コーク『身体はトラウマを記録する』p.16

薬を使う、眼球を動かしながら記憶を探る、グループでロールプレイングのようなことをする、(後述する)ニューロフィードバック、演劇を利用したセラピー、などなど。『身体はトラウマを記録する』の後半では、それぞれの方法で回復した患者の事例が紹介されている。

ためしに厚労省のウェブサイトを見てみた。すると、「持続エクスポージャー療法」だけが紹介されている。これは、同サイトから引用すると「トラウマの安全な治療の中でトラウマへの記憶を思い出させ、トラウマの恐怖に慣れるとともに、思い出しても危険はないことや、言葉にすることによってトラウマを乗り越えられることを学習する治療法」*1。しかし、とくにレヴィ―ン氏は、この持続エクスポ―ジャーは脳だけに働きかけるもので、逆に危険だとして否定的に紹介している。

一方で宮地尚子著『トラウマ』では、「患者と医者」で行われる治療を超えて、さらに社会のなかでトラウマを抱えた人とどう付き合うか、またジェンダーやマイノリティに絡んだ集団的なトラウマをどう考えるか、という視点での考察に多くのページが割かれている。これは「トラウマの本」の内容としては予期していなかったもので、目を開かされた。(宮地氏の著者紹介には「専攻は文化精神医学、医療人類学」とある。どちらも聞いたことのない学問だったが、興味がわいた。)

薬で記憶を消去することの是非 

未来の治療法についてはどうか。以前ブログでも書いたように、近年は脳科学で記憶の操作、具体的には「特定の記憶消去を消す」といった研究も盛んに行われている。しかし、ここまで書いたことからも分かるように、トラウマというのは、意識できる表層的な記憶だけでなく、身体のレベルまで深く痕跡を残している。そのとき、薬などの介入でトラウマの痕跡の「すべて」を取り除くことができるかはかなり疑問だ。

記憶消去についての一番の懸念は、記憶の性質や機能、宣言的記憶エピソード記憶を含む顕在記憶と、情動記憶と手続き記憶を含む潜在記憶など、複数の記憶系の関係について、まだ統一的な理解がなされていないことだ。レヴィ―ン『トラウマと記憶』p.219

加えて、当然のことだが、悪い記憶とはいえそれを消すことの倫理的・哲学的な問題もある。宮地著では最終章でトラウマが人の創造性にもつながっていることに触れており、そのうえで次のように書いている。

効果的な治療法ができたとしてそれを使っていいのだろうか、という疑問もわいてきます。(…)トラウマが簡単に治療されるということは、人間とは何か、生きることとは何か、苦悩に意味はあるのか、暴力や戦争・紛争は減るのかといった、より根源的な問いにも抵触してきます。宮地『トラウマ』p.97

ニューロフィードバック

同じ「脳科学の知見を使った脳への介入」でも、より副作用が小さいと思われる方法がある。『身体はトラウマを記録する』のなかで、1章割いて紹介されている「ニューロフィードバック」だ。脳波計を頭につけ、その結果をモニターで表示することで、特定の脳波を出せるように訓練する。それによって、患者がトラウマによって「くせ」になってしまった脳活動のパターンを変更することができるという。

恐れのパターンが緩和されると、脳は自動的なストレス反応に前ほど影響されにくくなり、通常の出来事にうまく意識を集中できるようになる。(…)ニューロフィードバックは単に、脳を安定させ、回復力を増加させることによって、私たちがどう反応するかという選択の幅を広げてくれる。 ヴァン・デア・コーク『身体はトラウマを記録する』p.524

ニューロフィードバックは治療目的以外にも注目されている手法だが、素人目にもこれは有望ではないかと感じた。(ちなみ、この章を読んだことがきっかけの一つとなって、個人的に脳波計を購入した。)

トラウマとどう付き合うか 

自分自身には、医学的な意味での「トラウマ」があるとは思わない。それでも、二つの意味で、自分の生活とも無縁ではないと感じた。一つは、今後、自分や自分の身の回りの人が、トラウマを抱えることが今後十分にありうるという(明らかな)理由から。生涯でPTSDになりうる危険な体験をする確率はかなり高いらしい。もう一つは、トラウマまでには至らないけれど、自分の行動に潜在的に影響を与えている「過去の記憶」があるように思えたこと。たとえば、繰り返し夢に見る「中学生時代の嫌な記憶」がある。そうした自分の心の深層にある「記憶」は、どうすればいいだろう。いままでどおり「ないもの」として過ごすか、そこから何かをくみ取ろうとするか。いずれにしても、そこには一度考えてみるに値する問題があることを、トラウマ障害の存在は教えてくれるのではないだろうか。

いずれにしても、ますますギスギスした世の中を生きていくなかで、「トラウマ」という概念は大事になっていくと思う。「その労働時間は対価に見合っているか」などには目が向きがちになっている反面、「その生活環境はトラウマを癒すか、助長するか」といった視点で物事をみることはほとんどない。でもそっちも同じくらい大事ではないだろうか。

今回、3冊の本を読んでみて、私たちは「トラウマ」という言葉をもっと積極的に(ただし、もちろん正しい意味で)使っていくべきなのではと感じた。

 

***

2018/6/12 追記

その後、ふと思いたち、以前買っていた中井久夫の本をめくってみた。そのなかのトラウマにまつわる論考は、かなり腑に落ちる部分があった。上記3冊で知ったことを補完する内容なので、以下メモしておく。 

徴候・記憶・外傷

徴候・記憶・外傷

 

今回読んだのは、この本のなかの「外傷性記憶とその治療――一つの指針」と題された論文。

中井の言う「外傷」とは「心的外傷」、つまり「トラウマ」のこと。論考のメインの主張は、「幼児性記憶」と「外傷性(トラウマ)記憶」は似ている、というもの。それらの共通点を挙げ、そこから両者は同じメカニズムの記憶ではないかと持論を展開している。

私は、二歳半から三歳半のクリティカルな時期において幼児性記憶が消去されるという仮説を立てる。(…)ただ、その記憶機制は残り、非常事態においては顕在化し、突出してくる。それが外傷性記憶であると考える。 中井久夫『徴候・記憶・外傷』p.170

とすると、「普通の記憶 vs トラウマ記憶」という対比は、「大人の記憶 vs 幼児の記憶」に言い換えられることになる。幼児の記憶には、「危険回避」という大事な機能がある。それが誤作動してしまったのがトラウマだという理解だ。

また、トラウマ治療の目的を次のように表現している。

 理念的にいえば、外傷性記憶の治療は、最初に挙げた外傷性記憶の十条件〔鮮明、言語化困難、感覚性が強い等々〕に変えることであるが、そういうことは可能であろうか。目標は決して外傷性記憶の消去ではない。もし、記憶を消去する薬物なり心理的操作法が開発されれば、それは容易にファシズムに利用されるであろう。 同 p.173

終わりのほうでは、著者のトラウマ治療のスタンスが記されている。もし、自分や自分に近い人が今後トラウマに見舞われることがあったら、ぜひ思い出したい一節だ。

私は外傷患者とわかった際には、①症状は精神病や神経症の症状が消えるようには消えないこと、②外傷以前に戻るということが外傷神経症の治癒ではないこと、それは過去の歴史を消せないのと同じであり、かりに記憶を機械的に消去する方法が生じればファシズムなどに悪用される可能性があること、③しかし、症状の間隔が間遠になり、その衝撃力が減り、内容が恐ろしいものから退屈、矮小、滑稽なものになってきて、事件の人生における比重が減って、不愉快なエピソードの一つになってゆくなら、それは成功である。これが外傷神経症の治り方である。④今後の人生をいかに生きるかが、回復のために重要である。⑤薬物は多少の助けになるかもしれない。以上が、外傷としての初診の際に告げることである。 

読書メモ:地球にちりばめられて(多和田葉子)

 

地球にちりばめられて

地球にちりばめられて

 

面白かった。

以下は、印象をとどめておくためのメモ。

舞台はヨーロッパ。多国籍の若者たちが出会い、意図せず道連れとなる。「日本」という言葉は出てこないが、中心人物の一人は日本人と思しき女性。しかし、彼女の母国はどういうわけか消滅したらしい。永遠の「移民」となってしまった彼女は、彼女の母語(日本語)をもう一度使うことを夢見て、同邦人を探す旅に出る。

海外を旅行したり、海外の人と話をしたりすると、何とも言えない解放感を味わうことがある。それは、日本で、日本人の社会の中に生きることの、普段は意識されない「息苦しさ」の裏返しだ。言葉にしなくても共有していることを期待されている「常識」、日本人であるからには当然察しなければいけない「空気」、そういったものに支配されている。海外の人と不自由な言葉だけを通して分かり合えたとき、そのことを強く感じたりする。

登場人物たちは、彼らの出自や出身国について回るもの(ステレオタイプなど)を認識しつつも、自らはそれを乗り越えた「地球人」として振る舞う。と同時に——主に「言語」を通じて——お互いの違いも意識する。隣にいる友人が、いつも自分と話しているのと違う言語を話し始めたときの発音、言葉づかい、そうしたものに鋭い関心を寄せ、そこから立ち上がるものを味わおうとする。

日本が消えてなくなっている。そんなSF的設定から追体験できるのは、糸の切れた凧のように、「日本という空気」に縛られずに歩ける解放感。もう一つは、何気なく使っている日本語や、自分をとりまく衣食住の文化のかけがえのなさ。

本を閉じれば、日本はあるし、自分はそこに生きている。でも、少しだけ、自由な気持ちになっている。

思考整理メモ:理工書の「良い企画」についての考察

2018年のゴールデンウィーク最終日。

連休中にあれこれ考えていたことを、文章に残しておきたい。

考えていたのは、理工書の「良い企画」とは何か、について。

 

※以下、主に備忘録用の、自分の仕事についてのちょっとしたメモです。多くの人には関係がないうえ、キャリアも何もない編集者が「編集者とは何か」を頭の中だけで考えて書いたような文章ですので、時間をとって読んでいただくようなものではないと思います(連休中に終えるのが目標だったため、推敲もあまりできてません)。ただ、ひょっとすると理工書の読み手にとっても、何かの思考のきっかけになる部分があるかもしれません。そのことを期待し、ここに載せます。

 

***

考え始めるきっかけになったのは、先日の技術書典だった。技術書典にて、「技術書」という書籍のジャンルを改めて意識することになった。

考えてみれば、「技術書」と括られる本は、自分は数えるほどしか読んだことがない。それゆえ読者の気持ちがわかっているとはとても言えない。にもかかわらずそんな自分が、理工書の出版社で「技術書」の企画もやらせてもらっている。「技術書の良さ」を肌感覚ではわからない自分は、一度は理屈で考えてみる必要があると感じた。

以下は、現時点での自分なりの理解をまとめたもの。

この整理が的を射ているか分からないし、1年後も同じ考えかどうかの自信もない。ただ、考えを深めていく参照点にはなると思いたい。

***

技術書の話がきっかけとはなったものの、考えたいのは「良い理工書の企画とは何か」だった。

理工書とは何か。これは英語でSTEMと括られるジャンルとほぼイコールと思って良いと思う。つまり、科学・技術・工学・数学を扱う書籍の総称だ。

このように幅広いので、「理工書の良さ」も、その種別ごとに考える必要があるだろう*1。どう分けるのがいいだろうか? 理工書の分類には、理学書/工学書、専門書/入門書、教科書/独習書など、いろいろある。しかし、これらのどの切り分け方でも、うまくその「良さの基準」を捉えることができないように感じてきた。

今回、私がひとまず出した結論は、次のようになる。 

  • 理工書の企画にとって本質的なのは、「課題解決型の理工書」と「視野拡張型の理工書」の区別。
  • 両者には別の「良さの基準」があり、理工書を企画するときには、 どちらをつくるのかを意識することが役に立つ。

唐突に「課題解決型の理工書」と「視野拡張型の理工書」という言葉を出したが、これは、読者が理工書に何を求めているかに基づく二分法だ。

  • 課題解決型の理工書(以下、「課題解決書」):読者は、自身の課題(少なくともその一部)が解決されることを求めている。このタイプの本が提供するのは、その課題解決にいたるための「ルートマップ」である。 
  • 視野拡張型の理工書(以下、「視野拡張書」):読者は、自分の知らないものとの出会いを求めている。このタイプの本が提供するのは、当該分野の「ガイデッドツアー」である。

これは「技術書」と「学術書」の分け方に近い(が、後で書くようにイコールではない)。「理工書」を扱う出版社の多くは、このどちらか一方に主軸を置いていて、そもそもが「理工書出版社」ではなく「技術書出版社」か「学術書出版社」のいずれかをアイデンティティとしているので、この2分法自体が問題にならないかもしれない。

ただ、同じテーマで本を書く(企画する)にも、「課題解決書」的な本と「視野拡張書」的な本のどちらにするのかを選ばなければいけない場面があるような気がしている。だから、あえて「理工書」というカテゴリーを立て、2種類の「良さ」を考えてみたい。

課題解決書の良さ

「課題解決書」の読者が求めているのは、何らかのゴールへ最短経路でたどり着くこと。ゴールは、「手持ちのデータセットディープラーニングを実装する」でも、「ある概念(ブロックチェーンルベーグ積分、etc.)を理解する」でもいい。

普通、そうしたゴールへ自力だけでたどり着くのは大変すぎる。プログラミングの「マニュアル」や、ネット上の解説記事を広い読めば解決できることもあるが、膨大な時間がかかってしまう。そんなとき、先に同じ道を通った人が「ルートマップ」としての本を書いてくれればとても役に立つ。

課題解決書では、ゴールまでの道筋はもちろんだが、(登山地図になぞらえて言えば)「大体半日の道のりだよ」「途中に足場の悪い道があるから気を付けて」「服装や装備は○○がおすすめだよ」といったtipsも提供される。

書き手に求められるのは、そのエリアを歩き回った経験値だ。回り道、バリエーションルートの開拓、(ときには)遭難といった、豊富な経験があることが望ましい。そして自身の経験のなかから、読者の課題解決に役立つ部分だけを、整理して書く。

良い課題解決書とはどんなものだろうか? 三つくらい思いつく。

  • マップが正確であること。具体的には、サンプルプログラムがちゃんと動いたり、数式変形に間違いがなかったりすること。
  • マップのゴール地点が、読者の目的と合っていること。いくらルートが正確でも、目的地が誰も見向きをしないような、マイナーな場所では意味がない。多くの人が共通して目指しているであろう到達地点をいくつか想定し、それに沿った目次構成になっているとよい。
  • マップのスタート地点が、読者の現状にマッチしていること。ゴール直前の難所のマップを示すだけで役立つのか、麓からのマップが必要とされているのかは、本によって違う。そこを見誤らず、読者の前提知識の想定を適切になされているとよい。

私はタイプの本の読書経験は乏しいが、『退屈なことはPythonにやらせよう』という本は、自分の技術レベル(つまりほぼゼロ)にも目的(Pythonで業務効率化したい)にもマッチしていたし、そこにいたる道筋も明朗だった。その意味では3条件をクリアしており、自分にとってとてもよい本だと感じられた。

 読書メモ:退屈なことはPythonにやらせよう(Al Sweigart著) - rmaruy_blog

  

視野拡張書の良さ

一方、「視野拡張書」の読者が求めているのは、これまで知らなかった分野の概念、方法、視点に触れることで、知的好奇心を満たすこと、あるいは、自分の研究や仕事へのインスピレーションとすることだ。

未知の分野の学問・技術について、自ら研究論文を読み解いて勉強をするのは、これまた大変すぎる。そこで、その分野の専門家が書いた「書籍」が役に立つ。

「視野拡張書」の書き手には、その学問の蓄積を熟知していること、一次資料で学んだ経験、専門家コミュニティで研究活動をしていることなどが求められる。そのような著者が、専門知を背景に、そのテーマをなるべく見通しよく概観できるよう、わかりやすく説明する。

良い視野拡張書とは?

  • 学問として大事なところを押さえていること。観光のツアーに喩えて言えば、街のツアーガイドがその街の歴史についてあやふやでは困る。
  • 面白い部分を伝えていること。研究コミュニティにとって焦点となっている部分と、分野外の読者が知りたい部分が一致していないことはよくある。初めての京都観光の案内をする人には、まずは代表的な寺社仏閣をいくつか見せてほしい。

  •  読者の前提知識をよく踏まえていること。これは「課題解決書」と同じ。 

なお、「課題解決書」は、ほぼ学術書に重なる。学術書の書き方、編集の心得については、すでに下記2冊の本が出ているので、ここで書くまでもなかったかもしれない。

課題解決と視野拡張は本のテーマでは決まらない

以上、理工書を二つのタイプに分け、それぞれの「良さの基準」を整理してみた。そのうえで本記事で言いたいのは、理工書を書く(企画する)前に、その本がどちらのタイプなのか考えることが役立つのではないか、ということだ。

テーマでおのずと決まってくるのでは、と思うかもしれないが、そうとも限らない。たとえば「組み合わせ数理最適化」というテーマについて、

  • 『今日から使える!組合せ最適化 離散問題ガイドブック』穴井 宏和(著)、講談社
  • 『驚きの数学 巡回セールスマン問題』ウィリアム・J・クック(著)、青土社

という2冊の本がある。どちらも素晴らしい本だと思うが、前者は明らかに「課題解決書」、後者は明らかに「視野拡張書」に分類できる。

また、科学(理学)の本は一見すべて「視野拡張本」になりそうな気もするが、そんなこともなく、数学や物理の

「今度こそわかる ○○(量子力学ルベーグ積分 etc.)」

と言ったタイトルの本は、「○○を理解したい」という明確な目的意識をもった読者に向けて書かれているという点で「課題解決書」に入る。「脳科学」といった分野でも、たとえば、エンジニアリング的視点から脳科学を概説した

『メカ屋のための脳科学』高橋宏和(著)、日刊工業新聞社

などは、課題解決本の領域に入るとも言えそうだ。「脳」のように、純粋な学術研究の対象も、やがて一般人レベルでも操作(ハック?)できる対象に変わっていくとともに、それを扱う理工書は「視野拡張本」から「課題解決本」に広がっていくという風に言えるかもしれない。

もう一つ注意したいのが、「技術書」のなかにも、読者の動機を「視野拡張」と捉えたほうがよいように思える場合があることだ。これは、自分にはなかなか理解できない感覚なのだが、「新しい技術に触れ、学ぶこと自体を喜びとする」人たちがいる(とても尊敬します)。だから、特定の目的があるようには見えない本(企画)も、実は読者には「視野拡張本」として受け入れられる可能性がある。技術書の「良さ」を「課題解決」の面からだけ捉えていた場合、「どんな課題解決ができるのか不明だから出しても売れないだろう」という誤った判断がされかねない。

最後に、ハイブリッドな本たち

「課題解決書」と「視野拡張書」を、区別して捉えるのがたぶん大事だということを書いてきた。そのうえで、しかしながら、ロングセラーとして読み継がれることになる「理工書」は、結局のところ両方の要素が共存した本なのではないかとも思う。

特定の課題解決のために読まれうるが、読んでいるうちに全く新しい光景が見えてくる本。

あるいは、何となく面白そうだからと読んでいくうちに、本格的な技術や知識が身についてしまう本。

思いつくままに挙げてみる(もっとあるはずだけど、ぱっと思いつくものだけ)。

 『虚数の情緒』吉田武(著)
 『精霊の箱』 川添愛(著)
 『統計力学1,2』田崎晴明(著) 
 『ゼロから作るディープラーニング 』斎藤康毅(著)
 『データ解析のための統計モデリング入門』久保 拓弥(著)

編集者としては、こんな本を作ることに関われたら幸せだ。もちろん。でも、たぶん、いきなりハイブリッドを目指すのは無謀だろう(高校球児が大谷翔平を目指すようなもの?)。

なので、まずは狙いを「良き課題解決本」「良き視野拡張本」のどちらかに絞って、企画を立てるのが良いだろう。それが、この連休にあれこれ考えてひとまず出た結論です。

*1:理工書という媒体に固有の「良さ=価値」があるかということは、それ自体問われてよいことだと思いますが、ここでは前提にしています。

読書メモ:英米哲学入門(一ノ瀬正樹 著)

 

英米哲学入門 (ちくま新書)

英米哲学入門 (ちくま新書)

 

副題の『「である」と「べき」の交差する世界』に惹かれて買った。

「である」と「べき」の線引き問題については、以前から気になっていたからだ。まず、そのことについて少し書いてみたい。

「である vs べき」が気になるわけ

「である」とは「世界はどうなっているか」という事実の問題のことで、「べき」は「私たちはどう振る舞うべきか」という規範の問題のこと。一見すると、二つはまったく別の領域に属する問いに思える。

部活で「代々1年生が球拾いをしてきたのである」からといって、「だから今年の新入生も球拾いすべき」とはならないはずだし、「人類史上多くの文化で一夫一妻制がとられてきたのである」からといって、無条件に「それ以外の婚姻は認めるべきではない」ともならないはずだ。なので私などは、第一感では「“である”と“べき”は別問題ですよね」と片付けたくなるのだが、しかし最近、どうもそう単純でもなさそうだ、ということに気づき始めた。

たとえば、下記のポッドキャストでもこの問題が議論されていた。

このツイートでは、私は依然「べき」と「である」は峻別されるという側に賛同している。でもその後、ハリス氏以外にも、「である」と「べき」の区別は私が思うほどクリアに引けないとする立場の専門家が少なくないことを知った。

なぜ「である/べき問題」が気になるのだろうか。

一つは、「科学者の役割の範疇」について興味があるからだと思う。科学者は「である」にだけ関わっていて、「べき」を議論するのは科学ユーザーである市民。そう割り切れればスッキリするけれど、果たしてそれでよいのか、という問題。

もう一つ、自分の周りの人とのコミュニケーションに影響してくるという、より切実な理由もある。「日本に移民を受け入れるべきかどうか」「原発を再稼働すべきかどうか」あるいは「夕飯を食べるときテレビを消すべきかどうか」について、身近な人と意見が食い違ったとする*1。その見解の相違は、どの程度まで「事実の認識」の問題なのだろうか。「移民の経済効果」「原発の故障確率」「テレビ視聴と自律神経の関係」、その他もろもろの「事実」に関して合意することが、対立解消にどれくらい役に立つのか、あるいはまったく無駄なのか、ということは知りたい。

あるいは、そのうち自分が直面するだろう問題として、子供に「理屈抜きの規範」、つまり、「理由はないけど、こうすべきなんだよ」ということをどれくらい教える必要があるのか、ある程度は「こうすると相手は傷つくよ」とか「この伝統にはこういう合理性があるのだよ」という「である」を教えるだけでよいのか、ということにもつながってくる。。

……などなど、意外と身近で重大な問題な気がするのです。

英米哲学入門』を読んで

そんな「である/べき」問題に、何か有用な示唆が得られることを期待して読んだこの本。

まあ、自分には、難しかった。

体裁としては、著者の分身である「シッテルン博士」が、噛んで含めるように解説してくれ、各章末で生徒役のキャラクターの質疑応答までしてくれる。が、内容自体は本格的。「あとがき」にて

哲学に入門してもらうとは、本当に「分からない」、という体験をしてもらうことにほかならない

ともあるように、手加減せずに、一部はプロレベルの(?)哲学的議論が展開されている。

読みこなせなかった部分も多かったが、面白いと思った部分を中心に、感想を書いてみる。

まず、「である/べき」問題についての著者のスタンスは、両者は峻別できるものではないが、完全に一体というわけでもない、といったあたりになる。

「べき」には「である」に対して何かグラデーションをなすような、程度的な関係があるんじゃないかって思うんだよ。「である」を濃密に含む「べき」と、「である」に薄くしか依拠しない「べき」と、そのはざまに混合の割合のグラデーションがあるように思うんだよ。(p.344)

このような考え方に基づきつつ、タイトルどおり、英米哲学での主要なテーマが取り上げられていく。

全3章からなる。

第1章では、「世界はどうなっているか」についてラディカルな観念論をとったバークリの哲学がメインに紹介される。そのなかでは、「何かがある」というときに使われる言葉の選択のうちに、すでに規範に基づいた制約が入っていることが指摘される。つまり、「である」のなかにはじめから「べき」が入っている。第2章では、「必然性」と「因果関係」が主なテーマとなる。「責任」と「原因」の二分法が、「べき」と「である」の区分に対応するという構図が示される。責任と原因は、一見違うもののように思えるが、たとえばギリシャ語では「アイティア」という一つの言葉で表されるのだという。

私は、現象間の因果関係と、「報い」としての因果応報は、因果性として同種である、少なくとも基本的性質を共有している、とさしあたり仮定して論じてみたい。(p.135)

いやいや、違うでしょ、別物でしょ、と私などは応答したくなる。その反応の理由を、著者は言い当てている。

「ピュシス」と「ノモス」、すなわち、自然と人為という区別がその深淵をなしていると言えるだろうね。自然的現象と、人為的制度とは異なる、という基本的な世界理解だ。(p.129)

そのとおりで、自然現象には確固とした因果関係があると普通は思う。しかしよくよく考えてみると、それは怪しい。「因果関係は存在しない」とまで論じたヒュームを紹介し、素朴な因果関係の理解の浅さを浮き彫りにしていく。第3章では、では因果概念をどう捉えたらよいかについての、主として著者独自の理論が説明されていく。それは、まさに「べき=責任」を入れたかたちでの因果理解となっている。「~だったから~だった」という因果の理解には「~すべきだった(すべきでなかった)」という規範についての判断が入り込んでいる。本書を読んでみてほしいが、因果の常識的な考え方からはまず出てこない、面白い理論だと感じられた。

***

この本を手に取ったのは、「である/べき」についての疑問からだったと書いた。読み終えて、その疑問はどうなったか? 雑なまとめかたをしてしまうと、

  • 「である」から「べき」がどれくらい出てくるかを気にしていたのに、本気で哲学をすると、そもそも疑っていなかった「である」の下に「べき」が潜り込んでくることが分かった

となるだろうか。もうちょっと表層的な部分で考えが整理されることを期待していたのだが、本書を読んでさらに「とっちらかって」しまった、というのが正直な感想だ。でも、それが哲学というものなのだろうとも思う。

 

*1:実際の事例ではないのですが。

読書メモ:数学がいまの数学になるまで(Zvi Artstein著)

数学がいまの数学になるまで

数学がいまの数学になるまで

 

人生で何度か、「数学は好き?」と聞かれたことがある。

そのたび、困ってしまう。

「好きです」とは言えない。むしろ、ずっと苦手意識をもっていた。中学や高校での「問題が解けなかった経験」のせいだと思う。数学の問題で、どれだけ考えても答えが出せない。自分の頭の鈍さを思い知らされる。そんなことが続いて、数学は私にとって憂鬱な科目になってしまった。

でも、それと同時に、数学にはどこかしら惹かれるところもあった。初めて三角関数を習ったとき、あるいはlog xの微分が1/xになることを知ったときに味わった、少しだけ新しい世界が開けたような気分。その気分は、もしかしたら「好き」の萌芽だったかもしれない。

ある面については苦手だが、ある面には少し興味がある。そんな数学について考え出すと、数学とは何か、よくわからなくなってくる。というか、そもそも知らなかったことに気づく。数学っていったい何なんだ。何だか知らないものを好きかと聞かれても、答えに窮するのも当然だ。

***

数学について知らないのは、大学の数学科を出ていないのだから当たり前だと言われるかもしれない。でも、数学の捉えどころのなさは、法学を専攻していない人が法学の何たるかを知らないのとは、別次元のものに思える。

…数学とは何か?

歴史学とは何か?」とか「天文学とは何か?」であれば、「歴史/天体についての学問」で一応答えになっている。しかし、数学については、「数についての学問」では明らかに不十分だ。「数や、図形や、集合や、多様体や、etcについての学問」としたところで、よくわからない。

たぶん、こと数学に関しては、数学の教科書を読んでも、百科事典の説明を読んでも、はたまた数学を実践してさえ、その何たるかは理解できない。

そして、思うにその理由は、

  • 数学は、ほかの学問とは方法論(頭の使い方)がまったく違うこと
  • 数学は、時代ごとの跳躍をいくつも経て現代の形になってきていること
  • 数学は、ほかの学問に「応用」でき、その基礎となってきたこと

などにあるのではないだろうか。だとすると、「数学とは何か?」に答えるためには、

  1. 数学は、どのような頭の使い方をする学問か
  2. 数学は、どのように作られてきたか
  3. 数学は、ほかの学問とどう関係しているか

を知らなければいけないはずだ。

少なくとも私は、学校ではこれらのどれも教わった記憶がない。

***

前置きが長くなった。

今日ご紹介したいのは、2018年3月に翻訳が出た『数学がいまの数学になるまで』という本。まさに、上記の1~3の観点から、「数学とは何か」を教えてくれる一冊となっている。

著者はイスラエルの数学者。力学系最適化問題、制御理論など数学分野で業績があり、数学教育にも造詣が深い人らしい。

本書の前半部は、邦題のとおり、数学の発展がたどってきた歴史的道のりが描かれていく。初期の文明の数学がどんなものだったか(第1章)、ギリシャ人たちがいかに自分たちの世界観を数学に結びつけたか(第2章)、そして近代になり、科学の方法論と数学がいかに密接に結びつくようになったか(第3,4章)などが、興味深いエピソードや人物紹介とともに語られていく。

本書の特徴といえるのが、第1章が、古代文明からさらにさかのぼって「動物の数学」の話から始まっていることだ。カラスなどの一部の動物は数える能力をもっていたりするが、人間の数学的能力は、明らかにそうした進化が用意した能力の延長線上にあると著者は指摘する。一方で、人間の数学は、生物進化で想定された機能を大きく超えて発展してきている。この、「進化に有利な数学」と「進化と関係なく人間が作っていった数学」の区別があることは、本書のメインの主張の一つになっている。たとえば、最後のほうで、数学教育について次のような提言をしている。

数学におけるいくつかのテーマは数百万年の進化を通じて発達した人間の直観に整合していますが、そのほかのものは進化の闘争において何ら利益をもたらすことがなく、自然な直観に反しています。この区別は、教授法や学習法に反映されるべきです。(p.381)

中盤は、確率論・統計学の誕生と発展を扱う第5章「ランダム性の数学」、経済学や社会学でどう数学が使われてきたかを解説した第6章「人間行動の数学」、計算機科学と数学との関係を描いた第7章「計算とコンピューター」というように、重要な応用分野と数学との関わりを、各章で一つずつ取り上げている。

そして終盤では、さらに核心をつくテーマが3つ並ぶ。

第8章「本当に疑いがないか」では、20世紀初頭のいわゆる「数学の危機」の時代にどういう問題意識で数学基礎論が発展していったかについて、そして現代の数学は本当のところでは「正しさ」についてコンセンサスがないままである事情について説明している。第9章「数学における研究の性格」では、現代の数学者が実際にやっていることについての素描がなされる。そのなかでは、「数学に特有の『数学的思考』などというものはない」、「応用数学純粋数学の区別は人為的なものであって、そもそも純粋数学という概念自体が有効ではない」という、ややラディカルな持論も展開されている。最後の第10章では、数学の教育法について、著者の子供の学校のPTAでの経験なども織り交ぜて、著者の意見が披歴される。先に引用したように「進化が用意した数学的能力に注意を払うこと」が著者の主張の中心に位置となっている。それに加えて、「数学にとってテクニックやひらめきは本質ではない」という主張がなされていて、個人的には心強かった。

***

以上、ざっくりと本書の流れを紹介したが、触れることができたのは、本書の内容のほんの一部。もっともっと多くのことが書かれている。

本書を読んだいま、「数学とは何か」という問いに対して、格段に見通しがよい地点に立っている実感がある。もちろん、数学についての核心的な問いは残る:

  • 数学の正しさとは何か(≒数学の証明とは何か)
  • 数学はなぜ応用できるのか

これら二つ(「証明」と「応用」)は、イアン・ハッキングが「数学の哲学が存在する理由」として挙げているくらいで、もちろん本書でも、オープンクエスチョンとして残されている。

それらの哲学史上の謎は残るにしても、本書からは数学について多くのことが学べる。私個人が、本書から感じたとったことをあえて一言にまとめるならば、

  • 数学の歴史は、人類が自らの思考能力のハードウェア的限界を押し広げてきた歴史である

となるだろうか。別の言い方をすると、人間が進化的に獲得してきた思考法とは違うしかたで考えることを最も純粋なかたちで学べるのが「数学」なのではないかと思える。そう考えると、中学や高校で習う数学というのは、人類の知的飛躍というものを追体験できる恰好の機会だったのかもしれない。「三角関数」や「対数関数」という「概念」を学んだときの高校生の自分も、もしかしたら、その一端を感じ取っていたかもしれない。

***

『数学がいまの数学になるまで』は、少しでも「数学ってなんだろう?」と思ったことがある人には、おすすめしたい。きっと予想を超えた数学の姿が見えてくると思う。縦書き二段組というハードそうな見た目とはうらはらに、とても読みやすい本ですので。

読書メモ(再掲):知ってるつもり――無知の科学(S. スローマン & P. ファーンバック)

 

知ってるつもり――無知の科学

知ってるつもり――無知の科学

 

ちょうど一年前に読んだ"The Knowledge Illusion"の翻訳。

この本の内容は、今年の日本ではとくにリアリティがあるかもしれません。これからいろいろなところで引用される文献になりそうです。

 

それにしても、推薦者がすごいですね…。

ハラリ、ピンカー、サンスティーンに加えて池谷裕二先生も。(売れないわけがありません。)

 

読書メモを再掲します。

  

***

たしか小学生のころ、「総理大臣ってすごいな」と思っていた。

自分は学校の宿題やら習い事やらで頭がいっぱいなのに、大人というのは自分以外のことにも気を配っている。たとえば通学路のガードレール。これが設置されるまでには、「この道にガードレールが必要だ」と誰かが考えて、製造・設置の段取りを考えたはずだ。そういうことに気を配れる大人ってすごいし、まして日本全体のことに気配りしなければいけない「総理大臣」はよほどの知識と判断力の持ち主なんだろう。総理になるつもりなどない自分も、大人になるまで勉強しなきゃいけないことが山ほどあるな。だいたい、ガードレールってどうやってつくるんだ…。(なぜかガードレールに拘っていた)

大人になってみると、総理大臣もそんなに偉いものではない(むしろ必要とされるのは別種の能力)ということがわかったし、ガードレールの作り方を知らなくても不自由なく暮らせることもわかった。たいして知識は増えていないのに、子供のころの「自分は何も知らない」という感覚は格段に薄まった。

ということを、“The Knowledge Illusion”を読んで思いだした。

The Knowledge Illusion: Why We Never Think Alone

The Knowledge Illusion: Why We Never Think Alone

 

Knowledge illusion(知識の錯覚)とは、自分の知識を過大評価しまう傾向のことだ。2人の認知科学者による本書は、人間の心のなかでknowlegde illusionが生じる理由、それが引き起こす問題、それを踏まえてどうすべきかを論じた一冊となっている。

「自分の知識の過大評価している人」と聞くと、学校の先生や会社の上司の顔が思い浮かぶかもしれない。でも、多かれ少なかれ、誰もが「知識の錯覚」に陥っている。小学生のときの自分からすれば、今の自分は「知識の錯覚」だらけかもしれない。

本書の前半部では、こんな実験を紹介している。まず、被験者に「あなたは○○の仕組みについてどれだけ知っていますが?」という質問をし、1から7までのスコアで答えてもらう。○○に入るのは、「洋服のジッパー」「携帯電話」「ミシン」など。次に、「ではそれを説明してください」とお願いし、そのあとでもう一度「どれくらい知っていますか?」という最初と同じ質問をする。すると、説明を促した後のほうが、申告される理解度のスコアが有意に下がるそうだ。つまり、人はいざ説明しようとしてはじめて自分が知らないことに気づく。この実験を2002年に発表したRozenblitとKeilは、この現象を"illusion of explanatory depth"と名づけている。

どうして私たちは実際以上に知っていると思ってしまうのか。本書では前半の各章でいくつかの理由が示される。

  • 私たちは無自覚に直観的な推論(intuitive reasoning)に頼ってしまうため(4章)
  • 私たちは無自覚に身体知に頼っているため(5章)
  • 私たちは無自覚に他人の知識(communal knowledge)に頼っているため(6章)
  • 私たちは無自覚に、テクノロジーに頼っているため(7章)

中盤では、「知識の錯覚」が問題になる、2つの局面について論じている。

 

  • 「知識の錯覚」は、科学的知識の普及を妨害する(8章)
  • 「知識の錯覚」は、合理的な政治的判断を妨害する(9章)

後者の政治についての章では、"illusion of explanatory depth"を政治的イシューに応用した著者自身の研究を紹介している。それによると、人々は自分が「ある政策の効果を説明できない」と気づくことで、よりマイルドな政治的立場をとるようになることがわかったらしい。これは、昨今の政治的分断を解消するためのヒントにもなりうる結果かもしれない。

最後の2つの章では、こうした「知識の錯覚」があることを前提として、どうしていくべきかについての著者らの考えが述べられている。個人の知識を増やすばかりの教育はいい加減やめて、人と協力する能力を育むべきではないか、という主張には頷けた。

私たちが「知識」と言っているもののうち、自分一人の「脳」のなかにあるのはたかが知れていて、その外側の「身体」「他人」「社会」「技術」に多くを負っている。思ってみれば当たり前のことだが忘れがちなこのことを、「認知科学」の視点で整理してリマインドしてくれる一冊だった。