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読書メモなど

読書メモ:自然主義入門(植原亮 著)

 

自然主義入門: 知識・道徳・人間本性をめぐる現代哲学ツアー
 

最近、科学と哲学の距離が近くなっているのだろうか。科学者と哲学者が合同開催するシンポジウムとか、「○○の科学と哲学」といった題目の共同研究を目にする機会が増えた気がする。そうした場では、科学者と哲学者は互いから何を得るのだろうか。それは、科学と哲学の関係をどう捉えるかによるだろう。たとえば、

  • 科学と哲学は本質的には同じもの
  • 哲学の土台のうえに科学がある
  • 哲学が発展すると科学になる 
  • 科学と哲学は、目的も方法も異なる別ものである

などいろいろな見方がありえ、どれが正しいかということ自体、長年の哲学の問題になっている。そうした「科学と哲学の関係にまつわる立場」の中で、いま最も勢いのある(?)のが、本書のテーマ「自然主義」である。

自然主義は、科学と哲学をひとつながりのものと考える。科学は、地球が太陽の周りをまわっていることや、物質は分子で出来ていることなど、世界に関するいろいろなことを明らかにしてきた。そうした知識を可能にするのは人間に備わっている能力だが、その能力(理性とか知性とよばれるもの)自体について問うのは、科学ではなく哲学の領分とされてきた。つまり、「人間の心」だけは、科学にとっての「前提」ではあって「対象」ではなかった。でも、よく考えれば、人間もまた世界の一部であるわけで、自然法則に従う存在であるはずだ。そこで、「科学する人間の心」も含めて、自然科学の方法で探究すべきではないか。哲学自身、科学的な方法で前進するのだ。自然主義をとる哲学者はそのように考える。

こう言うと、「そんなの当たり前じゃん」と「本当にそれでいいのか」という反応が同時に湧き上がるのではないだろうか。私の頭のなかでも、両方の声が同居している。現代人にとっては、ある意味で当たり前なのだが、一方でどこか反発したくなる、そんな見方ではないだろうか。

本書『自然主義入門』は、自然主義がどんなものであり、自然主義の枠組みのなかで今どんな論点が取り上げられており、自然主義の魅力(あるいは必然性)がどこにあるのかについて、とことん易しく解説した一冊となっている。副題にあるとおり、まさに「ガイド付きツアー」という感じの懇切丁寧だった。勁草書房の哲学書だと思って身構えていた自分は、良い意味で裏切られた。

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第1章では、著者は分析哲学クワインが用いた「ノイラートの船」という比喩を使って自然主義を説明する。「哲学者も科学者も、大海を漂い続ける一隻の船にみな乗り合わせて」いて、「力を合わせて航海という事業を続けるのである」(p.3)。この比喩は、哲学と科学は連続していること、そして「人間の知が共同性や歴史性を帯びることは避けられない」という自然主義の見方をよく表している。自然主義者は、人間の「心」の各側面を「自然化」すること、つまり、自然現象の一種として示すことを課題とする。

第2,3章では、そうした課題の一例として「道徳」が取り上げられる。道徳は、生まれつき人間に備わったものなのか(生得説)、あるいは生まれてからの経験で身につけるものなのか(経験主義)。道徳は、どの地域にも見られるが、内容は文化ごとに少しずつ違う。そうした道徳の普遍性と個別性をうまく説明することを競って考案された、生得説・経験主義の両陣営の様々な説が紹介される。

続く第4,5章では、「生得説」vs「経験主義」論争が、道徳だけではなく「心」一般でも行われていることが紹介される。「言語」「数学」「道徳」のようなそれぞれの領域ごとに専門にあつかう心のモジュールがあるとする「モジュール集合体仮説」。いや、すべては学習の結果であり、数・論理といった抽象的概念ですら生後に獲得されるとするジェシープリンツの議論まで、幅広く取り上げられる。

第6章では、生得説と経験主義の両方を統合する心の捉え方として、人間の心は、直観的・自動的な「システム1」と、理性的な「システム2」からなるとする「二重プロセス理論」を紹介する。さらに、人間のみが持つかのように見える「理性」を自然化する企てとして、環境の側を道具として取り込んで自分の心の一部とする能力をもった存在として人間を捉える、「拡張された心」「外的足場」等の考え方にも触れる。

以上、こうした「人間の本性」をめぐる議論はすべて、仮説づくりと実験や観察による検証という、自然科学と同じ方法でなされる。つまり、自然主義の枠組みのなかで行われている。このように、いかに自然主義が豊かであるかを見たうえで、後半ではいよいよ自然主義そのものの是非が論じられる。

第7章は、「規範」に関して自然主義に突きつけられた疑念に取り組む。自然主義は、たとえば人間の道徳とはどんなものであるかは教えてくれるが、「どんな道徳を持つべきか」は教えてくれないのではないか。著者の答え(の一つ)は「「べし」(規範)は「できる」(可能)を含意する」というもの。つまり、何ができるかを知っておかなければ、どうすべきかはわからない。道徳をよりよく設計するためには、「二重プロセス理論」などを通じて人間の心の特徴をつかんでおくことが有効になる。規範を考えるうえでも人間の道徳がどのようなものであるのか知ることが必須である点において、規範の問題は記述の問題と切り分けることはできない。

第8章は、自然主義に対する真正面からの挑戦に応答する。それは、「帰納は間違えるかもしれないではないか!」「どんなに科学で自分のことがわかった気になっても、もしかしたら僕らは培養槽の脳かもしれないじゃないか!」という「懐疑論」からの挑戦だ(後者は、映画マトリックスのような状況を引き合いに出して、経験だけから知りえたことが丸ごと間違っている可能性を指摘するもの)。これに対しては、本書は、では自然主義をとらないで物事を考えるにはどうすればいいか、と切り返す。懐疑論者は、経験によらない確実なところからスタートすべきと考えたデカルトの方法、つまり「アプリオリズム」を取らなければならない。しかし、信頼に足るアプリオリな能力などあるのか? アプリオリな能力そのものを科学で解き明かそうとする自然主義者にとって、デカルトの方法はとても心もとない。むしろ、懐疑論そのものが経験によって生まれたのではないか? 「懐疑論そのものが科学の内側から生じ、したがってまた科学の中で問われるほかないものなのだ」(クワインの引用p217)。さらに「培養層の脳」は、「同じ土俵に乗ったが最後、自然主義の側が必ず負けを強いられる」(p.223)ようなツッコミなので、その土俵には上がらずに、なぜそういうツッコミがなされるのかを自分の土俵で分析する。そのほうがよほど実りがある。

最後の第9章では、自然主義のもとで、哲学と科学はどのように協働するのかがテーマとなる。今まで自然科学が取り込めていなかった主題(道徳、理性など)について、哲学は論理地図を整備したり、あたらしい概念をつくったり、科学理論を評価したりすることにより、積極的に貢献できる。こうして考えると、「科学にとって哲学は避けられない」(p.247)し、「主題と方法のどちらの点についても、哲学と科学との間には埋めがたい溝はおろか明確な境界線さえ存在していない」(p.257)、そうした自然主義的な科学と哲学の関係の捉え方が導かれる。

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以上、各章の内容をまとめてみた。曲解もあると思うし、本書自体が十分易しく書かれているので、ぜひ本文をたどってみていただきたい。

本書を読んでもなお、自然主義に100パーセント同意できない自分がいるのを感じる。自分の心が生物進化論や脳内生理学でどんなに説明されたとしても、それでは掬い取れない「何か」が残るのではないか。科学が明らかにする「人間の本性」をもとに「ではどう生きるか」を考えるのには、科学から切り離された何らかの「哲学」を要求するのではないか。とはいえ、自然主義のしぶとさを思い知った。自然主義はどこまでも、「科学がすべてではないというのなら、対案を出してください。あなたの対案で、何か有意義な議論ができますかね?」という形で、切り返してくる。なお、誤解がないように補足しておくと、著者は決して自然主義を押し売りしているわけではない。たとえば、こんな書き方をしている。

あくまでも自然主義のスタンスを貫き通すなら、答えの見つかる場所を含むこの自然的世界のほうかはないと覚悟して、科学とともに探究を進めていく以外に道はない。p.237

 「あくまでも自然主義のスタンスを貫き通すなら」という表現は、それ以外のスタンスがありうることを示唆しているように読めた。

自然主義の手ごわさと同時に、その魅力も感じることもできた。自然主義は決して「心を脳に還元する」というような凝り固まったものでなく、たとえば「環境中に拡張した心」など、従来の科学的説明から外れるような見方を取り入れる余地があることがわかった。哲学が「科学に浸食されていく」のではなく、むしろ哲学が科学をグレードアップさせる可能性があると考えると、むしろ積極的に自然主義を応援したくもなった。

盤石な哲学のうえに科学を築くようなことはできない。先へ進むためには、「ノイラートの船」に乗り込むしかない。ただし、せめて「船に乗らなかった自分を想像する」ことくらいは、忘れないでいたい。本書の読んだいま、しばらくそんなスタンスでいこうかと思っている。

かりに「自然主義」というワードにぴんと来なくても、「科学に対して哲学は何をしてくれるのか?」ということに関心のある理工系の人に、ぜひ読んでみてほしい。

 

読書メモ:退屈なことはPythonにやらせよう(Al Sweigart著)

めずらしく技術書をレビューしてみたいと思います。
就職してから5年半、「プログラミングを覚えたら仕事が楽になるかな?」と思うタイミングが何度かあり、PerlとExcelVBAの習得を試みたものの、途中でめんどくさくなり結局ものになりませんでした。今回、Pythonで3度目の挑戦に踏み切るきっかけになったのが、本書『退屈なことはPythonにやらせよう』でした。
約一月かけて、会社の休憩時間に読み進め、のべ16時間ほど取り組みました。なお、後半の14~18章は「とりいそぎは使わないかも」と判断したため未読です。
一言でいうと、とてもよくできた、ありがたい本だと感じました。優れているのは、まず、扱われているプロジェクトが読者(=ノンプログラマー)のやりたいことに即している点。フォルダの名前を一括変更したり、pdfを連結したり、Webサイトからjpegファイルをまとめてダウンロードしたり、普段「これ自動化できないものかな?」と思っているようなことを解決するコードを学べるので、読み進めるモチベーションが維持できました。もう一つは、自分でコードを書けるようになるための工夫が凝らされている点。長めのコードも、それを書くときに発想に立って丁寧に解説しているので、無理なく追っていけました。また各章の演習問題の難易度がちょうどよく、うまく動いたときには「できた!」という達成感がありました。そして何より、「Pythonと自分のスキルでどれくらいのことができそうか」という見通しが得られたのが、本書を読んでの一番の収穫だったと思います。
本書を読み終えれば、PythonでのWebスクレイピングの本を読んだり、もう少し日本語のpdfを扱えるモジュールを試してみたりなど、次のステップにも自然に進んでいけそうです。個人的には、自分の実務で動かせるようなコードをちょこちょこ書いていきたいです。
他言語も含めまったくのプログラミング初心者にとっては、躓く箇所はあるかもしれません。その場合でも、身近に助け合える仲間がいるならば、本書はベストチョイスではないかと思います。

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「AIによる生産性向上」などが叫ばれる昨今、本当は「ノンプログラマーがちょっとしたコーディングを身に着ける」ことが実は効果が一番大きいのではないかと思います。その意味でも、素人のレベルまで降りてきてくれる本書のような技術書は心底ありがたいな、と思います。

読書メモ(再掲):かくて行動経済学は生まれり(マイケル・ルイス著)

 

かくて行動経済学は生まれり

かくて行動経済学は生まれり

 

 『かくて行動経済学は生まれり』という邦題には意表を突かれた。副題の"Friendship"は残してもよかった気も…。あと、原著の青と赤の消しゴムのカバーは素敵だったのに…。とかいろいろ思ってしまったが、そこはやっぱりビジネスですね。

原著を読んだときの感想を(一部文章を整えて)再掲します。

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The Undoing Project: A Friendship That Changed Our Minds

The Undoing Project: A Friendship That Changed Our Minds

 

前から、ダニエル・カーネマンのことが気になっていた。

それは、おもに『ファスト&スロー』の著者として。

『ファスト&スロー』は2011年に出た本だが、これを読んだ人が、皆得意げに「システム1」だとか「○○バイアス」だとかいう、独特な言い回しを使い始めたことは印象的だった。カーネマンはこの本で、人間の心がいかに多くの偏見やバイアスによって誤った判断をしがちかを示している。人々の判断や意思決定は合理的ではなく、その間違え方には傾向と理由がある。そうした人の心の性質を踏まえて、よりよい意思決定をするにはどうすればよいかを論じる。たんに面白いだけではなく、実用的な本でもあった。

『ファスト&スロー』に出てくる多くの研究はカーネマン自身の手によるものだが、もちろんすべてを彼一人で行ったわけではない。とくに、ある人物の名前が頻出する。同じくイスラエル出身の心理学者、エイモス・トヴェルスキ―だ。カーネマンは、主要な研究のほとんどをトヴェルスキーの共同で行っており、2002年のノーベル経済学賞も、もしトヴェルスキ―が早くして亡くなっていなかったら、二人で共同受賞しただろうと言われている。

カーネマンは著書で何かにつけ「エイモスは…と言った」だとか「エイモスと私は…してみた」とか書いている。科学の歴史には共同研究がつきもの(代表例はワトソン&クリック)だとはいっても、カーネマンとトヴェルスキ―の親密さには、ちょっと尋常ならざるものがある。

彼らの共同研究は、どのようなものだったのか。二人は、いかにして心理学や経済学の革命をもたらすほどの業績を生み出すことができたのか。

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本書"The Undoing Project"(『かくて行動経済学は生まれり』)は、その経緯を克明に描いている。

著者は、映画『マネー・ボール』や『マネー・ショート』(原題"The Big Short")の原作者として知られるMichael Lewis氏。『マネー・ボール』は、メジャーリーグの弱小チームが、勘や経験ではなくデータに基づいたスカウトの仕組みを導入して強くなるまでを描いたノンフィクションだ。Lewis氏は、これを書いたあと、「マネーボール的な考え方」の背後にカーネマンらの業績があることを知った。それをきっかけにカーネマンに本人にも会い、やがて興味がカーネマンとトヴェルスキ―との関係に向かう。そうして、二人の物語を書くことにしたというのが、本書執筆の経緯だそうだ。

それぞれの生い立ちから、二人の出会い、共同研究の日々、そしてトヴェルスキ―病死による別れまでを、多くの人の証言をもとにして描いている。ストーリーテリングは流石で、最初から最後までひきこまれる。

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エイモス・トヴェルスキ―という人物は強烈だ。カーネマンより3歳年下だが、イニシアチブをとっていたのは常に彼だった。とにかく大胆不敵な性格で、「手紙は読まずに捨てる」「やりたいことしかやらない」タイプ。それでいて、みんなから好かれていたという(この人物像で私の脳裏に浮かんだのはリチャード・ファインマンだった)。兵役時には第一線で奮闘するようなフィジカルの強さも持っていたし、研究では論敵を徹底的にやっつけるような負けん気の持ち主だった。そして何より、頭がよかった。「トヴェルスキ―の賢さにどれくらい早く気付けるかが、その人の知能の高さを示す」と彼の同僚は話したという。

一方のカーネマンは、どちらかというと疑心暗鬼で、気難しい性格だった。彼のことを「ウディ・アレンみたいな人、ただしユーモアはない」と表現した同僚がいたそうだ。しかし、直観力にすぐれていて、他人の理論の穴に気づいたり、核心をつく質問をする能力に長けていた。

まさに陰と陽。真逆の二人。誰も彼らが一緒に何かをするとは予想もしていなかった。それでも、ある日を境に二人は共同研究をはじめ、お互いを補完する関係性になっていく。多くの場合、研究の種となるアイディアをカーネマンが出し、それをトヴェルスキ―が持ち前の明晰さで分析する。二人で実験を設計し、出てきた結果をもとに一緒に論文を書く。二人は研究室にこもると何時間も出てこなかったそうで、部屋からは始終大きな笑い声が聞こえてきたという。カーネマンが「もうアイディアが枯渇した」と嘆くと、トヴェルスキ―は「ダニーは誰よりもアイディアをもっているよ」と言って笑い飛ばす。"We were sharing a mind."(p.182)とカーネマンが振り返るような、とても濃密なコミュニケーションがそこには生まれていた。

前半部の二人の関係がすごく幸せそうなだけに、後半で二人がすれ違い始めるのが切なかった。著者はその原因を、カーネマンのトヴェルスキーに対する気おくれの感情に帰している。トヴェルスキ―だけが賞をもらったり、教授職のポストを打診されたりすることが重なるなかで、彼はトヴェルスキ―から距離をおく決断をする。

しかし、その矢先の余命宣告…。

本書のラストは、トヴィルスキー亡きあと、とある場面でのカーネマンの心理描写で締められている。そこに、原書タイトルの"Undoing Project"にちなんだ仕掛けがあって、著者の狙いどおりに思わず涙腺が緩んでしまった。

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著者のカーネマンへのまなざしは始終温かいのを感じた。自分を信じて物事をスパスパと切っていくトヴェルスキ―と対照的に、カーネマンは自分自身への疑いの目を向け続ける。自分とは違う見解に出会ったとき、トヴェルスキ―なら闘いを挑むところを、カーネマンは"What might that be true of?"と問うのを常としていた。この"What might that be true of?"、つまり「どんな前提に立つとそれは真とみなせるのか」が、著者が本書で何度か繰り返すキーセンテンスの一つになっている。カーネマンのこのような態度が、彼が人間の心の本質をつかむことを可能にしたのだろう。

カーネマンたちの業績は、今では、心理学や経済学を超えてあらゆる分野に影響を与えている。そんなパラダイムチェンジングな学術成果が、一人の天才の脳からでもなく、ゆるくつながった研究者集団からでもなく、「緊密に連結した二つの脳」から生み出されたという事実。なにか、とても良いことを知れた気分になった。

 

読書メモ:ブラックボックス化する現代(下條信輔 著)

 

認知科学者、下條信輔氏による社会評論。2010年から執筆を担当している朝日新聞デジタル版のコラムをまとめ直したものだそうだ。

扱っているテーマは幅広い。

  • 原発事故、Welq問題、五輪エンブレム問題、杭打ち偽装など、その時々に起こった「事件」の論評。なぜそういうことが起こるのか。こうした事件の背後にある、人々の心に起こっている変化をどう読み解けるか。
  • 人工知能、ロボット、ビッグデータなど、身の回りで進化を続ける技術への考察。そうした技術の進歩が、人々の心にどんな影響を及ぼしうるか。どんな心構えをすればいいか。
  • 科学政策や教育政策への、問題点の指摘と提言。STAP事件などに現れている日本の科学の問題点は何か。英語教育をどうすればよいか、など。

それぞれに数章を割いて、テンポよく論じていく。

その時々に著者が思ったことを書いているので、各章は独立している。これら一見バラバラな論考に「軸」を通すべく、(おそらく)あらたに書き下ろした「まえがき」や第1章のなかで、著者は「ブラックボックス化」というコンセプトを提示している。

使い方だけわかっていて動作原理がわからない状態を「ブラックボックス」ということがある。日常会話でも使われるが、本来の意味は「入力と出力の関係はわかっているが、中身の動作原理がわからない」あるいは「あえて隠されている」、そういう電気回路、機械、あるいは生物系などを指す。

私たちの現代社会は巨大化し複雑化して、丸ごとブラックボックス化してきたのではないか。(p.4)

いろいろな技術の進歩が、社会のしくみ、ひいては人間の「心」のブラックボックス化をも促している。現状をそのように捉え、さまざまな「近視眼的な判断」「偽装」あるいは「政治的な分断」を、ブラックボックス化の帰結として理解する。そのうえで、ブラックボックスの中身をもう一度吟味してみようと、(ときに厳しくときにやんわりと)提言する。

個別の評論・提言に説得力があるかは、読者によって意見が分かれると思う。私個人は、たとえば、

  • 潜在的認知の専門家として、無意識に働きかけるマーケティングの行き過ぎやポピュリズムを考察している点
  • 日・米の科学・教育の現場を知る当事者として(著者の現所属はカリフォルニア工科大学)、漠然とした「欧米のイメージ」ではない、リアルな現状認識に基づいて議論している点
  • 脳や心に働きかける介入技術を第一線で開発している張本人として、技術的進歩のポテンシャルを過大評価も過小評価もせずに論じている点

などは著者ならではの視点であり、傾聴に値すると思った。

どのトピックも、白か黒かではなく、「すぐには答えは出ないのでよく考えていこう」という結論になっている(たとえば、間違った科学論文が、明らかに「クロ」の研究不正であることは稀で多くの場合「グレー」であり、それらを丸ごと否定すべきではない、という立場に著者は立つ)。結論ではなく、どう筋道立てて考えていくか。瞬間的に何らかの「ポジション」をとってしまう自分の脳を、いかに「脱・ブラックボックス化」するか。そのことの大事さを教えてくれる一冊であった。

読書メモ:脳はいかにして意識をつくるのか(ゲオルク・ノルトフ 著、高橋洋 訳)

 

脳はいかに意識をつくるのか―脳の異常から心の謎に迫る

脳はいかに意識をつくるのか―脳の異常から心の謎に迫る

 

原題は“Neuro-Philosophy and the Healthy Mind: Learning form the Unwell Brain”。「意識」や「自己」や「アイデンティティ」の脳科学研究を手掛ける著者が、自身の研究のアプローチを一般向けに説明した一冊。原題の「神経哲学(neuro-philosophy)」という言葉に興味を引かれていたが、読むタイミングを逃していた。先日、東京で著者ノルトフ氏の講演があったので出かけていった。「面白かったけどよく分からなかった」というのが率直な感想だったため、会場で割引販売されていた本書を買って読んでみることにした。

結論からいうと、本も難しかった。「意識」については、ここ数年だけでもコッホ、ドゥアンヌ、ダマシオ、トノーニら著名な神経科学者による本が相次いで邦訳されているが、それら「意識の脳科学本」に比べると本書『脳は意識をつくるのか』は難度が高く、私には読みこなせなかった。

それでも、読後の印象を少しメモしておきたい。

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ノルトフ氏のアプローチとはどんなものか。

本書から読みとれた限りでは、それには三つの特徴がある。

一つは、研究対象を、健康な脳ではなく、不調をきたしている患者の脳(=“unwell brain”)としていること。臨床精神科医でもある著者は、植物状態統合失調症抑うつの患者を対象にしたfMRIなどの脳測定結果をもとに、「意識」「自己」「アイデンティティ」にまつわる仮説を打ち立てていく。病理への着目という点では、同じく臨床医であるトノーニ氏とも共通しているかもしれない。

二つめの特色は、脳の「安静時状態」に着目している点だ。「意識」の研究というと、心に何らかのイベントが生じた時点(ex: 両義図形の解釈が変わったときなど)の脳活動を捉えようとするのが普通だと思うが、ノルトフ氏はあえて「何もしていない」ときの脳に着目する。安静時の脳活動を測ると、ある部位(脳の中央付近の大脳皮質)において、うつ状態統合失調症に特有の活動パターンがある。また、同じあたりの脳部位の安静時活動は、植物状態の患者の意識レベルと相関する。さらに、その部位は、「自己」に関する刺激(その人の名前を呼ぶなど)にも特異的に反応する。そうした事実から、これらの脳部位の安静時脳活動が意識や自己を生み出す条件を用意していると考えられる。著者はこれをNCC(Neural Correlate of Consciousness)ならぬNPC(Neural Predisposition of Consciousness、訳は「意識の神経素因」)とみなすことを提案している。NCCからNPCに視点を移すことは、一見、目的から遠ざかるようにも思えるかもしれないが、個人的には正しい方向性に思える。意識は四六時中あるものだし、精神病の当事者の気持ちは分からないにしても「気分が変わる」という経験なら誰にもあり、そうした「意識の変化」の背後にある脳のベースライン状態の変化に関心が向かうのは自然なことだと思う。

最後の、そして最大の特色は、「哲学」を著者が頻繁に持ち出すことだ。ノルトフ氏は、本書の「精神病患者の脳の安静時脳活動を調べる」というアプローチが、心の哲学を書きかえる可能性をもつというような主張を繰り返している。たとえばこんな記述。

内因性の脳活動とその空間/時間構造を、意識の神経素因としてとらえることで、何世紀も議論され続けてきた心脳問題を検討するための新たな方法論的アプローチを考案できるだろう。このアプローチは、哲学的に心脳問題を考察するために心を方法論的出発点として措定する方法を、脳とその内因的な特性を出発点に据える方法で置き換えられる。(p.82)

何となくわからないでもないのだが、(1)この著者の立場が哲学的にどんな立場なのかが今一つわからない(個人的には、大づかみに言えば心を脳に還元することでハードプロブレムを消去する立場のように思った。が、違うかもしれない)、また、(2)本書で著者が示している症例や実験結果が、著者のいう「新しい哲学」へなぜ帰結するのかの論証のステップがよくわからない、という難しさがあった。

訳者解説によれば、ノルトフ氏は母国ドイツの現象学系の哲学だけでなく、日本の木村敏の著作などにも通じているそうだ。カントに由来するような「心はどれくらい時間・空間の枠組みをアプリオリにもつのか?」といった問題意識や、木村敏の「精神病患者の時間論」に、脳科学的にアプローチできるのだとしたらすごいことだと思うし、本書はそれをやろうとしているようにも読める。ただ、私には残念ながら本書からはそれがどの程度できているのかを読み取ることができなかった。「モチベーションが共感できるし結果も面白いのだが、そこに至る道筋が読み取れない」という読後の印象は、津田一郎先生の本を読んだときにも似ていた。

今後ノルトフ氏のような観点をもつ研究者が増え、より平易な著作が出されることに期待したい。

 

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ノルトフ先生にいただいたサイン(メッセージは“happy self and consciousness!”)。笑顔が素敵な方でした。

読書メモ:工学部ヒラノ教授のはじまりの場所(今野浩 著)

 

「出身高校は?」「都立日比谷高校です。」「あの日比谷ですか!」「そうです、『昔は』すごかった日比谷です」…。母校が話題になると、だいたいここまでがお決まりのやりとりとなる。ワン・オブ・ゼムの公立校になって久しい日比谷高校は、その昔は日本随一のエリート校として知られていた。

工学部教授の生態を赤裸々に綴り、人気を博した「工学部ヒラノ教授」シリーズ。異例のペースで続巻が出まくった結果、ヒラノ教授(=著者)の大学生時代から名誉教授の現在までが(ほぼ)カバーしつくされ、本作にいたってとうとう中学・高校が舞台となった。(twitterで誰かが「島耕作化している!」と言っていた。)そして、著者が通った高校こそ、あの黄金時代の「日比谷」なのだ。

大学教授の父、超学歴重視の母(「東大以外は大学ではない」が決め台詞)、大秀才の兄、という家庭環境のなかで1950年代の東京で10代を過ごした著者が、学大付属世田谷中というこれまたエリート中学校から(紆余曲折ありつつも)日比谷高に進学し、東大に合格するまでが描かれる。60年前のことを思い出しながら書いているとは信じられないほどディテール豊かなのだが、あとがきによれば「脚色」は5%未満だそうだ。

40年以上の時間の隔たりがあるにもかかわらず、自分の中学・高校時代を思い出させられる部分も多かった。魅力的なクラスメートに近づきたいという願い。勉強へのモチベ―ションの浮き沈み。運動部に入るも仲間ほど情熱を傾けていないことへの後ろめたさ。長らく忘れていた気持ちが蘇ってきた。

でも、やっぱり、1950年代の彼らの青春時代と、2000年代の僕らのそれは全然違っていた。

まず、当時の日比谷高(あるいは学大付属中)に集まっているタレントの濃密なこと。著者が中高時代につるんでいた友人たちは、大学教授、大企業の社長、著名エコノミスト等々として大成した人物ばかりだそうだ。

そういう振り切れたポテンシャルの生徒たちが集まると、彼らは何をするのか。たとえば、中学時代の著者とその親友はこんなことを話していたという。

では二人の少年は、どのようなことを語り合っていたのだろうか。数学・理科・英語のこと。日本の将来のこと。アメリカのこと。女子学生の品定め。栃錦 vs 若乃花論争。ベートーヴェン vs チャイコフスキージョージ・セル vs シャルル・ミュンシュ。ユーディ・メニューイン vs ナタン・ミルシュタインなどの音楽談義。大山康晴 vs 升田幸三の将棋哲学。セ・リーグ vs パ・リーグの野球論争。藪伊豆 vs 更科のそば比較。また力道山 vs シャープ兄弟のプロレス対決についても、熱く語り合ったはずだ。(p.63)

固有名詞を今のものに置き換えれば、中学生の会話内容としてはわりと普通?かもしれない。でも、このなかに「数学・理科・英語のこと」と「日本の将来のこと」が含まれているのに注目したい。スポーツや芸能についておしゃべりするのと同じ熱量で、そうしたことを語り合う仲間がいる中学生が、21世紀の日本にどれくらいいるか…。

自分のあの苦い10代、勉強はまずもって「効率よくこなす」べきものであり、勉強ができることは優等生的従順さの証明にしかならないという価値観のもと、勉強を頑張る同級生を牽制しあうような同調圧力を感じながら10代を送った自分にとっては、当たり前のように東大(とその先)をめがけて切磋琢磨する著者たちがまぶしすぎた。

…という愚痴は置いておいて。

昭和初期を舞台とした青春小説を読むようなつもりでも楽しめるし、今の日本をつくってきたエリートたち(名誉教授、名誉会長、政治家OB世代の人々)がどんな土壌から出てきたのかを知るための実録としても貴重な1冊。ぜひご一読を。

読書メモ:Behave(Robert Sapolsky著)

 

Behave: The Biology of Humans at Our Best and Worst

Behave: The Biology of Humans at Our Best and Worst

 

「なぜ私はどうでもいいことで怒ってしまうのか?」「あの人はなぜ浮気をしたのか?」「トランプ大統領を支持する人がいるのはなぜか?」――人間の行動に関するこうした「なぜ?」を、科学的に説明したいという欲求は根強い。じっさい、神経生理学・分子生物学発達心理学・進化生物学など様々な分野の専門家がそれを解明すべく研究しているし、「あなたのその行動は、○○が原因なのですよ」という本もたくさん出ている。この「○○」には、「神経細胞」「ホルモン」「遺伝子」「幼少期の体験」「進化的に獲得された本能」など、それぞれの分野のキーワードが入る。

でも、人間の行動の原因は決して一つではない。本来は、脳細胞の活動「も」、ホルモンの分泌「も」、幼少期の経験「も」、親から受け継いだ遺伝子「も」、すべてが複雑に組み合わさって行動が生まれる。なので「人は○○が9割」ということはありえない。

"Behave: The Biology of Humans at Our Best and Worst"は、そうした多階層にわたる「行動の科学」を、一挙に見渡すことを目指した本である。その壮大な構想にふさわしく、800ページ(ハードカバー版)というボリューム。著者Sapolsky氏は神経内分泌学と霊長類学の二足のワラジを履く研究者で、アフリカの野生のヒヒ(baboon)のストレスホルモンを調べた研究などが有名な人らしい。

前半部は、行動を説明する諸科学のレビューになっている。行動が起こった時点から、時間を遡っていく。動物(人)のある行動の直前には、まず、それを引き起こした脳細胞の活動がある。その脳活動は何らかの感覚刺激で引き起こされる。その刺激応答はさらに、数時間前の脳内のホルモンの分泌状況に左右される。脳細胞の配線は数日~数か月のスパンの神経可塑性のはたらきで決まり、さらにはその個体(人)が生まれてからの経験に依存する。そして、経験以前に、生まれ持った遺伝子がその個体の行動の傾向を左右する。さらに、人間(一部の動物も)の行動は数百年単位で蓄積された文化の影響を受ける。最後に、文化よりさらに長いスパンで遺伝子そのものを変化させる生物進化のプロセスがある。本書2章~10章は、神経生物学、内分泌学、神経可塑性発達心理学、遺伝学、文化論、進化論が取り上げられ、各領域で動物や人間の行動について明らかになっている結果が紹介されていく。

後半部は、こうした行動の生物学(心理学)が、"our best and worst behavior"と著者が呼ぶものについてどのような洞察をもたらすか、にページが割かれる。人が他人を思いやったり助けたりする「善い」行動と、人が他人を傷つけたり偏見をもったりする「悪い」行動の本性は、生物学的にどう理解できるのか。ここでは、具体的には「Us/Themの分断」「ヒエラルキーの形成」「道徳」「感情移入(共感)」というテーマが取り上げられ、それぞれ1章ずつ割かれている。この部分では、(1)霊長類など人間以外の動物にもこれらの行動(差別や道徳的行動)は見られるが、一方で(2)人間特有の要素も必ずある(人間は複数のヒエラルキーに属せるなど)ことが、繰り返し強調される。

 

以上は全く表面的な本書の概要。しかも最後の2章について触れていないので概要にすらなっていない。(興味のある方はご自身で読んでください。すみません。)

これだけのページ数を割いて分かることは何か。著者はいみじくも言う。

If you had to boil this book down to a single phase, it would be "It's complicated".

一つの階層の現象(神経活動、ホルモン分泌、etc)は、必ず他の階層の現象(遺伝子、環境、etc)と絡み合っているので「一概」なことは何も言えない。しかも、本書では「A」という学説に対して必ず「not A」の学説が紹介されていて、一つの領域内ですら一致が見られていないことがよくわかる。だから、結論は"It's complicated"なのだ。

決して分かりやすい本ではなく、話も蛇行していたりして読み進めにくい。そして何より長い。それでも、800ページのこの本を通読する価値があるとすれば、今後「○○は××の行動を引き起こします」といった説明を聞いたときに、この本を思い出して、「いや、ちょっとまて。ほかの階層ではどんな条件が前提されているのだろう?」などと立ち止まって考えられるようになることだろうか。 

 

読書メモ:我々みんなが科学の専門家なのか?(ハリー・コリンズ 著、鈴木俊洋 訳)

 

我々みんなが科学の専門家なのか? (叢書ウニベルシタス)

我々みんなが科学の専門家なのか? (叢書ウニベルシタス)

 

書名が面白い。『我々みんなが科学の専門家なのか?』。この疑問に対する本書の答えがこれ。

「我々みんなが科学の専門家であるわけではない。」(終章「結論」より)

書名で疑問を提起して、シンプルに「No」と答える。これだけだと何のことかわからないが、この自問自答の意味は、中身を読むとわかる。

それはどんな意味か。

「我々みんなが科学の専門家なのか?」を「誰が科学の専門家なのか?」と言い換えたほうが分かりすいかもしれない。これは、私たちの日々の生活にも関係する問題だ。たとえば、テレビに出てばかりの“自称”科学者(いわゆる「タレント学者」)や、政府や特定の産業の利益を代弁する「御用学者」の言うことを真に受けてはいけないと言われるが、では、タレント学者や御用学者と本物の科学者をどうやって区別すればいいのか。そういった、「どの科学者を信じるか」問題につながるのだ。

「誰が科学の専門家なのか?」に答えるためには、専門家を専門家たらしめているもの、つまり「専門性」や「専門知」とは何か、を考える必要がある*1

この問題に取り組んできた分野に、科学論(science studies)がある。科学論は、大きく科学史・科学哲学・科学社会論に分類され、本書の著者コリンズは3つ目の科学社会論で有名な研究者だそうだ。本書では、専門知をめぐる科学社会学(や科学論)の議論の大きな流れを概説しつつ、「誰が科学の専門家か?」に対する著者なりの答えを示している。著者の研究事例には踏み込まずにコンパクトにまとめられた、非専門家(「科学論」を専門としない読者)向けの入門書となっている。

科学の捉え方は時代とともに変わり、それに応じて「科学論」の扱うテーマも変わってきた。本書第1章では、科学論の主題の変遷を「3つの波」として整理している。科学への信頼を背景に「なぜ科学は上手くいくのか」を主題としていた「第1波」。科学といえども人々の合意でできているという側面にフォーカスし、科学を世俗的なものとして描いてきた「第2波」。そして、個々人の科学者が世俗的な存在であるとは認めつつも、「科学者の専門知はどう特別なのか」をもう一度テーマに据えるのが、著者が提唱する「第3波」ということになる。

「第2波」によって、「専門知は(狭い意味での)専門家だけのものではない」という考え方が広まった(だから「我々みんなが科学の専門家なのか?」という問いが意味をなす)。たしかに、患者が自分の病状について医者なみに詳しくなったり、大学や学会とは無関係に研究をしたりする人もいる。

でも、だからといって「今や誰もが専門家なのだ」とするのは行き過ぎだ。そう考える著者は、第2章にて、「専門知にもいくつかの種類がある」という議論を展開する。

ユビキタス専門知」、「スペシャリスト専門知」、「メタ専門知」、その下位のサブカテゴリ―としての「ビールマット専門知」、「一次資料知」、「対話的専門知」、「貢献的専門知」、「技術的見識眼」等々、独特な用語づかいで細かく分類がなされる。なかでも、とくに「一次資料知」「対話的専門知」「メタ専門知」の三つが重要となる。

  • 一次資料知(primary source knowledge):当該分野の原論文を読んで得られる専門知
  • 対話的専門知(interactional expertise):当該分野の専門家(実際に論文を書いて分野に貢献している専門家)のコミュニティとの交流によって得られる専門知
  • メタ専門知(meta-expertise):専門家を判定し、様々な専門家の中から一人を選ぶときに使われる専門知

「一次資料知」と「対話的専門知」は、その分野で実験をしたり論文を書いたりしているコアな科学者でなくても持てる点では共通している。しかし、大きな違いがある。それは、後者には「科学者コミュニティの共有している暗黙知」が含まれるが、前者には含まれないということだ。

一次資料知だけに頼ると、その分野にいれば誰もが知っていることを見落としてしまう。本書第3章では、一次資料知の弊害として、「偽の科学論争」を生んでしまうことが指摘される。その分野では全く評価されていない異端的な研究者の論文を素人が読んで真に受けると、それが「本当の科学論争」があるように見えてしまう。たとえば、HIVのワクチンの副作用についての異端的研究者の論文をもとに、ワクチン接種が(不当に)見送られた南アフリカの例が挙げられている。こうしたことを防ぐためも、専門家がコミュニティのなかで共有している「暗黙知」は重視されるべきであり、それゆえ一次専門知よりも対話的専門知に価値がある。

では、対話的専門知を持たない一般人は、科学的な判断にまったく関与できないのか。そうではない。当の専門家たちがちゃんと科学を遂行しているのかをチェックすることは一般人にもできるし、しなくてはいけないというのが、第4章のテーマとなっている。ただし、それは論文を読んで詳しくなること(=一次資料知を身に着けること)によるチェックではなく、「メタ専門知」を使って「誰が信用できる科学者か」を判断するという意味でのチェックである。具体的には、タバコ企業からお金をもらってタバコの害を小さく見せる論文を書いている科学者がいたら追求すべし、というようなことだ。

最後に、専門家コミュニティーを信じるべき理由は何かという疑問が残る。これについては、著者は手短に、普遍主義・懐疑主義・利害中立といった「科学者のエートス」を挙げている。科学は、一部の例外はあるにせよ、おおむね科学者のエートスをもって遂行されているので、その内部でなされた議論は一般人の議論と等価ではなく、リスペクトされるべきものとなる。

感想を少しだけ。

まず、「専門知を尊重すべし」という著者のスタンスには共感するし、「なぜ尊重すべきか」を科学社会学が説明してくれるなら素晴らしいと思う。ただ、本書だけでそれができているかというと、疑問もいくつかあった。たとえば、著者のいう「科学者のエートス」は、本当にあらゆる専門的科学者の集団で保たれているのか、分野ごと地域ごとに「劣化」するということがないのか、ということが気になった。

それでも、納得できる部分も多い本ではあった。とくに、以下のような個人的な教訓が得られた。

  • 本や論文を読んだだけで分かった気になるのは危険!
  • 専門家と会って話をするのが大事!
  • 主流派コミュニティとインタラクトしていない自称専門家には注意!(異端科学者の真価が分かるのも主流派科学者だけ!)

といったところだろうか。

あと、翻訳者の注釈と解説が充実していて、とても勉強になった。原著を読んでいたとしても買う価値のある邦訳本になっていると感じたし、学術書の翻訳書はこうでなくちゃいけないなと思った。

*1:「専門性」や「専門知」はどちらも“expertise”の訳語だということを今回初めて知った。なお、今回の翻訳では一貫して「専門知」が使われている。

読書メモ:科学とモデル(マイケル・ワイスバーグ著、松王政浩訳)

 

科学とモデル―シミュレーションの哲学 入門―

科学とモデル―シミュレーションの哲学 入門―

 

科学者は、ものごとを理解するのに「モデル」(数理モデルや模型)をつくる。あるいは、将来の現象の予測をするために「シミュレーション」を行う。本書はそうした「モデル」や「シミュレーション」について、科学哲学から迫った一冊である。

「モデルやシミュレーションとはいったい何なのか?」という問いは、科学に携わる人にとって核心をつくものだと思う。大学院で理論研究を少しだけ齧った私も、この問いには何度も躓いた記憶がある。

しかし、そう言ってもピンとこないかもしれない。どうして「モデルとは何か」を改めて考える必要があるのか。このことについて、本の中身に入る前に、思うところを少し書いてみたい。

「モデルとは何か」を知りたい理由

世界の仕組みについて「根っこのところから分かりたい」との思いから、私は大学で物理学を専攻することを選んだ。その後、どうやら一番の根っこは宇宙や素粒子の法則よりも「人間の脳」にあるらしいと気づいて(理論)神経科学の研究室へ移ったが、どちらの分野でもたくさんの「モデル」に出会った。物理学では、

などという伝統のあるモデルについて習ったし、神経科学の研究室では、

などに触れた。

これらはどちらかというと現象を「説明する(分かる)」ためのモデルになるが、科学ではもちろん、現象を「予測」するためのモデル・シミュレーションも重要だ。地球温暖化の影響を調べるためのシミュレーションや、構造物の強度を調べるための数値計算などはその典型だろう。

ものごとを「説明」・「予測」するために、数理モデルを作ったり数値シミュレーションを行ったりするのは当たり前のことのように思える。でも、ときどき、「モデルってそもそも何なんだ?」と分からなくなる瞬間がある。少なくとも私にはあった。

たとえば……

  • どんどん抽象的になる理論物理学のモデルに対して・・・大学で習う物理でも、「ゲージ理論」やら「繰り込み理論」が出てくると、私には数学的な抽象度が高すぎてついていけなくなった。「こんな難しいモデルによる理解は自分は求めていない」という気分になった。
  • 仔細な神経回路のモデルに対して・・・神経細胞集団の振る舞いを説明する数理モデルには、たしかにうまく実験結果を再現できているのだが、仮定やパラメータが多すぎて「キレイじゃないな」と思えるものがあった。

こんなふうに、モデルによる説明に「満足できない」という感想を持つことがある。また「予測」を目的にしたモデルについても、「本当にそのシミュレーションの結果を現実世界の意思決定に反映していいのか?」ということは、つねづね問題になる。

人間の全脳をシミュレートするとした欧州のヒューマン・ブレイン・プロジェクトなどは、「説明」に関しても「予測」に関してもその意義に疑義が突きつけられた例と言えるだろう。

こう考えていくと、私たちが何をもってモデルやシミュレーションの「良し悪し」を判断しているのか分からなくなる*1。たとえば、こんなことが疑問として浮かぶ。(以降、「モデルやシミュレーション」という意味で単に「モデル」と書く。)

  • モデルはなぜ役に立つのか。モデルと現実世界はどういう関係にあるのか。
  • 科学者は、何をもって良いモデルとするのか。モデルの「良さ」にいくつか種類があるとするなら、科学者はそれらをどう使い分けているのか。
  • モデルから導かれた予測を、どんな根拠でどれくらい信用すべきか。 

モデル研究は、多額の予算と時間を投入して行われる営みであるのに、それを評価する共通言語を私たちは実はもっていない。そのことに気づくと、「モデルとは何か」についての科学哲学が必要な気がしてくる。

前置きが長くなったが、本書『科学とモデル』は、上であげたような疑問について、「回答」とまではいかなくても、少なくとも「考えるための枠組み」を与えてくれる本だった。

各章の内容を、理解できた範囲でまとめてみる。

章構成

第1章では、本書の目的が提示される。それは、「モデリングという理論的探究行為」について理解することであり、ある種の「モデルに関するモデル」を示すことである。

第2章にて、著者は科学者がつくるモデルを「具象モデル」「数理モデル」「数値計算モデル」の3種類に大別し、それぞれ代表例を一つずつ挙げて説明している。

  • 「具象モデル」:実際に物理的につくられるモデル。その代表例に、20世紀中ごろにサンフランシスコの巨大ダム工事計画の影響を調べるために作られた模型=「サインフランシスコ・ベイモデル」を挙げている。
  • 数理モデル」:方程式で書かれるモデル。代表例として、生態系の被食者と捕食者の数的関係を微分方程式でモデル化した「ロトカ-ヴォルテラ・モデル」を挙げる。
  • 数値計算モデル」:アルゴリズムの形で書かれるモデル。代表例として、トーマス・シェリングによる「人種隔離シミュレーション」を挙げる。

著者は、科学で用いられるモデリングはこの区分でほぼカバーできると考えている。

第3章では、この3種類のモデルに共通する「構成要素」として、「構造」「モデル記述」「解釈」の三つがあることが述べられる。モデルは、物理的構造であれ、数学的構造であれ、アルゴリズムであれ、何らかの「構造」をもっており、それを表現するための何らかの「記述」(図面、模型、式、ソースコードなど)を伴う。ポイントは、そこに「解釈(construal)」が加わることだ。当該モデルが現実世界の何を表しているのか(=割り当て)、モデルのどこまでを現実世界と対応づけるのか(=範囲)、どのくらい現実世界に似ていることを要求するか(=忠実度基準)という、いわば科学者の「意図」が、モデルの「構成」には含まれている。

第4章は「モデルとは何か」、つまりモデル(主に数理モデル)の身分が問題にされる。とくに、「数理モデルとはある想像上のシステムである」とする「フィクション説」という科学哲学上の立場を取り上げ、なぜ著者がそれに反対かが説明される。たしかに科学者はモデルをつくるときに「何らかのイメージ」をもっている。しかし、必ずしもそれは現実に存在しうる対象のイメージ(=フィクション)でなくても構わない。そうした「科学者個人、および科学者共同体が抽象的な数学的対象に結びつける心象」を著者は「慣習的存在論」と呼ぶ。

第5章では、特定の対象を念頭においた「対象指向型」のモデリングのプロセスが検討される。モデリングは、「モデルの作り上げ(方程式を立てる、etc)」→「分析(方程式を解く、etc)」→「モデルと対象の比較」というステップで行われる。ここでモデルに比較されるのは現実世界そのものではなく、世界から恣意的に切り取った一側面(=「対象システム」)だということに著者は注意を促す。

第6章では、モデルの「理想化」について論じられる。モデリングにおいて「理想化」が行われる動機にはいくつかの種類がある。解けない数式を簡略して解きやすくするようなプラグマティックな理由による理想化(=「ガリレイ的理想化」)もあるが、ある現象にどの要因が効いているかを特定するためにあえて要素をそぎ落とす理想化(=「ミニマリストの理想化」)もある。また、予測精度を上げるためにいくつかの異なる理想化をしたモデルを組み合わせることも行われる。

第7章では、特定の対象をもたない抽象的なモデルが論じられる。著者はそうしたモデルを3種類に分けている。

  • 汎化モデリング:普遍性が高い現象を説明するモデル(有性生殖のメリットを説明するモデルなど)
  • 仮説的モデリング:現実には存在しない対象の性質を調べるためのモデル(現実のDNAとは分子構造が異なる「xDNA」のモデルや、熱力学の法則に反する「永久機関」のモデルなど)
  • 対象なしモデル:抽象的な意味でも現実の対象と結びついておらず、単にモデル自体の面白さから研究されるようなモデル(セルオートマトンなど)

ただし、著者によればこれらの区別は動的である。

最後の2章(終章を除く)は、具体的なモデルの話に戻る。第8章は、モデルと現実世界の「類似性」について。モデルが対象と「似ている」とはどういうことか。伝統的な説明は「写像」の概念を使ったものだが、著者はそれはうまくいかないと考え、独自の「モデルと世界の一致度を表す評価関数」を提案している。ミソは、この評価関数には科学者の「意図」を反映する重み係数がいくつか入っているところである。

私が示したいのは、モデル-世界間関係が、いかにモデルに対する理論化の解釈に依存し、さらに研究者共同体の背景知識、行為、そして彼らの研究目的に依存するかということである。

第9章では、モデルが信用できるのはどんなときかについて検討される。モデルをつくって何らかの結果を得たとして、これを実際の意思決定に生かすべきか。このモデルはどれくらい信用できるのか。こうしたことを判断する方法として、この章では「ロバスト分析」が紹介される。これは、パラメータを振ってみる・項を加えたり引いたりする・異なるモデルで結果を比較してみるなどにより、モデルの出力がどれくらいロバストなものかを調べるという方法。ロバスト分析の妥当性に対する批判とそれへの著者の反論が述べられている。

感想

科学哲学のプロ向けの記述も多く、理解できない部分も多かった(科学哲学の分野で本書が置かれている文脈については、「訳者解説」でとても丁寧に解説されている)。それでも、模型作りから数値シミュレーションまでの幅広い「モデリング」を統一的に扱えるような理解の枠組みを作ろうという意欲は感じたし、何より科学者にとってrelevantな本だと感じた。哲学は「科学者の実践には何も影響を与えない」と言われることもあるが、本書に関してはそれは当たらないと思う。

最初に書いたように、「モデルとは何か」について統一理解がないために、齟齬が生まれているケースは現実にあると思う。神経科学のモデル研究でも、「良いモデル」についての基準があいまいなまま、何となくモデルが作られていることもあるように思う。(もしかしたら「良いモデル」の一番の基準は「論文が通ること」ではないのか、という皮肉さえ言いたくなる。だとすれば、「なぜ今のその研究コミュニティでそのモデルがアクセプトされるのか」が、本当は問われないといけないのかもしれない。)今後、とくに脳科学の「意識の情報理論」などにおいては、「モデルで何がしたいのか」が重要になるように思う。これをはっきりさせないままだと、本当は科学者個人の「好き嫌い」が原因の不毛な宗教論争になってしまいかねない。それを避けるためにも、本書のような交通整理が必要と思う。

一つ疑問に思ったのが、モデルと「理論(法則)」、あるいはモデルと「アナロジー」はどう違うのか、ということだった。たとえばニュートン運動方程式は「モデル」とは言えないのだろうか。ニュートン運動方程式はかなりよく物理現象を再現するが、相対論的効果や量子力学的効果がない範囲で正しいにすぎない。その意味で、たとえばロトカ-ヴォルテラモデルと比べて、世界との当てはまりの良さは程度の差しかないとも言えそうな気がする。また、逆に「アナロジー」というものは、対象との対応がかなりルーズな「モデル」とは言えないのだろうか。科学哲学の議論の中で、「理論」「モデル」「アナロジー」に区別がどう引かれるのかということに興味が沸いた。

おわりに

科学哲学者だけでなく、多くの理系の読者に本書が読まれるといいと思う。研究者たちが、「ワイスバーグ式に言うと、君のモデルはここがイマイチだね」などと議論できるようになるのが理想だろうか。

*1:これまで私が読んだ「良いモデル」の説明で一番納得したのは、理論物理学者の田崎晴明氏によるこれだった:

「理論物理学における「優れたモデル」というのは、決して、実際の物質に忠実なモデルのことではない。むしろ、きわめて複雑な現実の系の中から、着目している普遍的な現象が生じるメカニズムそのものを集中的に研究できるようにしたものが、優れたモデルなのだ。これはほしい結果が出やすいような「やらせ」とはまったく違うことを注意しておこう。研究したい「物理」の本質的な難しさをも伝えるのが優れたモデルなのだ。」(『統計力学Ⅱ』(培風館))

読書メモ:Homo Deus (by Yuval Noah Harari) …サピエンスはどうなってしまうのか?

 

Homo Deus: A Brief History of Tomorrow

Homo Deus: A Brief History of Tomorrow

 

話題の歴史学者、ユヴァル・ノア・ハラリ氏の最新作。人類の全歴史を独自の切り口で描いた『サピエンス全史』に引き続き、本作では人間の「未来」を展望する。

これからホモ・サピエンスはどうなるのか? 著者は、今後数十年、長くても100年くらいのうちに、もはや別の生物種と言えるほど人間は今とは違う存在になるのではないかと予想する。

we will now aim to upgrade humans into gods, and turn Homo Sapiens into Homo Deus (Ch.1より引用)

ただし、ここでの「神(god, deus)」は「全知全能」というよりは「自ら生命を設計できる存在」という意味合いだ。さまざまな技術を編み出して貧困や病気を乗り越えてきた人類だが、その延長線上にある21世紀の遺伝子工学やサイボーグ技術は、ホモ・サピエンスを「ホモ・デウス」にアップグレードするだろうと著者は言う。

これだけ聞くと、またそんな話か、と思うかもしれない。「大半の職業がAIに奪われる」「シンギュラリティが到来する」「人生100年時代」といった未来予想を、近頃私たちはうんざりするほど聞かされている。それらとどこが違うのか。

未来予想は、常に、過去の事例を集めて、それを未来に外挿することによって行われる。その点、ハラリ氏の頭の中にある「ホモ・サピエンスの全歴史」は、未来予想で使いうるデータとしては最大のものと言える。それを生かした著者ならではの視点が、本書の見どころとなっている。

その視点とは、人間のもっている「価値観」の変化に焦点を当てていること。未来についてあれこれ考える私たちの思考の土台である「価値」そのものを相対化し、その変容も含めた未来予測を行っていることだ。

 

***

本書は3部で構成されており、それぞれが人間の「いままで」「いま」「これから」に対応している。「いま」私たちが共有している価値観とは何か。第2部にて詳しく説明されるが、端的に言えばそれは「ヒューマニズム」という価値観である。

For centuries humanism has been convincing us that we are the ultimate source of meaning, and that our free will is therefore the highest authority of all. (Ch.7)

ヒューマニズム。尊重されるべきは個々の人間であり、すべての物事に価値や意味を与えるのは個々人の心であるという考え方だ。現代社会の法制度・経済・教育はすべてヒューマニズムにもとづいている。リーダーは選挙で選び、商品の良し悪しは市場が決め、何にもまして人権が優先される。

しかし、ヒューマニズムホモ・サピエンスの行動を導いてきた普遍的な価値観というわけではないということが、先立つ第1部を読むとわかる。このパートでは、ヒューマニズムという価値観を人間が共有するまでの経緯が足早にたどられる(内容は一部『サピエンス全史』と重なる)。7万年前のサピエンスに起こった「認知革命」は、人間が大勢で協力することを可能にしたが、それは、主に大勢の人々が同じ幻想を共有することを通じて可能になった。この共同幻想は、ストーリー、虚構(fiction)、“宗教”などと著者は呼ぶが、これにはキリスト教仏教などの狭義の宗教だけでなく、「貨幣」「国」「会社」など現代社会に欠かせない約束事も含まれる。

Fiction isn't bad. It is vital. Without commonly accepted stories about things like money, states or corporations, no complex human society can function. (Ch.4)

そして、21世紀初頭の私たちが共有している最大の“宗教”こそ、「ヒューマニズム」である。ただし、ヒューマニズムをみんなが信奉するようになった理由は、それが絶対普遍的に正しいからではなく、いまこの時代において「うまくいく共同幻想」だからにすぎない。したがって、それは時代とともに変わっていく可能性がある。では今後、ヒューマニズムはどうなるのか。それが第3部のテーマとなる。

ヒューマニズムの理想は、人間を「より健康に」「より幸福に」することだった。しかし、次のように著者は言う。

attempting to realize this humanist dream will undermine its very foundations by unleashing new post humanist technology. (Ch.7)

ヒューマニズムを実現するための技術がヒューマニズムを切り崩していくとはどういうことか。著者の挙げる論点の一部をまとめると次のようになる。

  • 脳や遺伝子の生物学的解明が進むと、「自由意志」で説明されてきた人間の行動が、生物化学的プロセスによる説明で置き換えられていく。
  • ウェアラブルバイスのデータや23&meでわかる遺伝情報など)個人に関する生物学的データが増えてくると、個人の「気持ち」ではなくそうしたデータに意思決定をゆだねるほうが合理的になる。
  • 個人の「意思」や「欲望」自体を(脳への刺激などによって)変えることができるようになると、人々の「意思」を最上のものとすることが意味をなさなくなってしまう。

こうしてヒューマニズムはボロボロになり、時代遅れな“宗教”となってしまう。それに代わり、ある新しい“宗教”がでてくる。著者が「データイズム(dataism)」と名づける価値観である。データイズムは、生物を情報処理のデバイスとみなす。

Dataism thereby collapses the barrier between animals and machines, and expects electronic algorithms to eventually decipher and outperform biochemical algorithms. (Ch.11)

新しい“宗教”は、古い“宗教”を自分の枠組みの中で解体する。ヒューマニズムが「神は人間の心がつくったものだ」として一神教宗教を解体したのと同じく、こんどはデータイズムが「人間の心は生物化学的なアルゴリズムがつくったものだ」として、ヒューマニズムを解体する。

データイズムという“宗教”のなかでは、なるべく大きな情報の流れのなかに身を置き、そこに自分のデータを提供し、また周りのデータを活用することが「善」とされる。一見わかりにくい主張なのだが、次の一節などを読むと少し実感がわく。

Dataists believe that experieces are valueless if they are not shared, and that we need not -indeed cannot-find meaning within ourselves. (Ch.11)

10年前には自分がFacebookのようなサービスを使っていることを想像すらできなかったことを考えれば、こうしたデータイスト的価値観を急速に内面化しつつあることに、誰しも思い当たるのではないだろうか。また、蛇足になるが、こんな記述もあった。

Twenty years ago, Japanese tourists were a universal laughingstock because they always carried cameras and took pictures of everything in sight. Now everyone is doing it. (Ch.11)

たしかに。日本人は世界に先駆けてデータイスト化していたのだろうかなどと興味が沸く。

以上のように「ヒューマニズムからデータイズムへの変化」のシナリオを描いて著者は筆をおく。この変化についての、著者自身の価値判断については明言はしていない。

It won't be a necessarily bad world; it will, however, be a post-liberal world. (Ch.9)

印象としては、著者は「データイズム」に対しては「心をアルゴリズムに還元する」点で望ましくないと考えている一方、「ヒューマニズム」のほうも、人間以外の動物(家畜など)の不幸を顧みない点で賛同していないように感じた。

ともかくも、今、全人類の心に起こっている変化に目をひらかせてくれる一冊だった。日本語版が出れば、前作にも劣らない話題の書になるだろう。