rmaruy_blog

読書メモなど

読書メモ:地球にちりばめられて(多和田葉子)

 

地球にちりばめられて

地球にちりばめられて

 

面白かった。

以下は、印象をとどめておくためのメモ。

舞台はヨーロッパ。多国籍の若者たちが出会い、意図せず道連れとなる。「日本」という言葉は出てこないが、中心人物の一人は日本人と思しき女性。しかし、彼女の母国はどういうわけか消滅したらしい。永遠の「移民」となってしまった彼女は、彼女の母語(日本語)をもう一度使うことを夢見て、同邦人を探す旅に出る。

海外を旅行したり、海外の人と話をしたりすると、何とも言えない解放感を味わうことがある。それは、日本で、日本人の社会の中に生きることの、普段は意識されない「息苦しさ」の裏返しだ。言葉にしなくても共有していることを期待されている「常識」、日本人であるからには当然察しなければいけない「空気」、そういったものに支配されている。海外の人と不自由な言葉だけを通して分かり合えたとき、そのことを強く感じたりする。

登場人物たちは、彼らの出自や出身国について回るもの(ステレオタイプなど)を認識しつつも、自らはそれを乗り越えた「地球人」として振る舞う。と同時に——主に「言語」を通じて——お互いの違いも意識する。隣にいる友人が、いつも自分と話しているのと違う言語を話し始めたときの発音、言葉づかい、そうしたものに鋭い関心を寄せ、そこから立ち上がるものを味わおうとする。

日本が消えてなくなっている。そんなSF的設定から追体験できるのは、糸の切れた凧のように、「日本という空気」に縛られずに歩ける解放感。もう一つは、何気なく使っている日本語や、自分をとりまく衣食住の文化のかけがえのなさ。

本を閉じれば、日本はあるし、自分はそこに生きている。でも、少しだけ、自由な気持ちになっている。

思考整理メモ:理工書の「良い企画」についての考察

2018年のゴールデンウィーク最終日。

連休中にあれこれ考えていたことを、文章に残しておきたい。

考えていたのは、理工書の「良い企画」とは何か、について。

 

※以下、主に備忘録用の、自分の仕事についてのちょっとしたメモです。多くの人には関係がないうえ、キャリアも何もない編集者が「編集者とは何か」を頭の中だけで考えて書いたような文章ですので、時間をとって読んでいただくようなものではないと思います(連休中に終えるのが目標だったため、推敲もあまりできてません)。ただ、ひょっとすると理工書の読み手にとっても、何かの思考のきっかけになる部分があるかもしれません。そのことを期待し、ここに載せます。

 

***

考え始めるきっかけになったのは、先日の技術書典だった。技術書典にて、「技術書」という書籍のジャンルを改めて意識することになった。

考えてみれば、「技術書」と括られる本は、自分は数えるほどしか読んだことがない。それゆえ読者の気持ちがわかっているとはとても言えない。にもかかわらずそんな自分が、理工書の出版社で「技術書」の企画もやらせてもらっている。「技術書の良さ」を肌感覚ではわからない自分は、一度は理屈で考えてみる必要があると感じた。

以下は、現時点での自分なりの理解をまとめたもの。

この整理が的を射ているか分からないし、1年後も同じ考えかどうかの自信もない。ただ、考えを深めていく参照点にはなると思いたい。

***

技術書の話がきっかけとはなったものの、考えたいのは「良い理工書の企画とは何か」だった。

理工書とは何か。これは英語でSTEMと括られるジャンルとほぼイコールと思って良いと思う。つまり、科学・技術・工学・数学を扱う書籍の総称だ。

このように幅広いので、「理工書の良さ」も、その種別ごとに考える必要があるだろう*1。どう分けるのがいいだろうか? 理工書の分類には、理学書/工学書、専門書/入門書、教科書/独習書など、いろいろある。しかし、これらのどの切り分け方でも、うまくその「良さの基準」を捉えることができないように感じてきた。

今回、私がひとまず出した結論は、次のようになる。 

  • 理工書の企画にとって本質的なのは、「課題解決型の理工書」と「視野拡張型の理工書」の区別。
  • 両者には別の「良さの基準」があり、理工書を企画するときには、 どちらをつくるのかを意識することが役に立つ。

唐突に「課題解決型の理工書」と「視野拡張型の理工書」という言葉を出したが、これは、読者が理工書に何を求めているかに基づく二分法だ。

  • 課題解決型の理工書(以下、「課題解決書」):読者は、自身の課題(少なくともその一部)が解決されることを求めている。このタイプの本が提供するのは、その課題解決にいたるための「ルートマップ」である。 
  • 視野拡張型の理工書(以下、「視野拡張書」):読者は、自分の知らないものとの出会いを求めている。このタイプの本が提供するのは、当該分野の「ガイデッドツアー」である。

これは「技術書」と「学術書」の分け方に近い(が、後で書くようにイコールではない)。「理工書」を扱う出版社の多くは、このどちらか一方に主軸を置いていて、そもそもが「理工書出版社」ではなく「技術書出版社」か「学術書出版社」のいずれかをアイデンティティとしているので、この2分法自体が問題にならないかもしれない。

ただ、同じテーマで本を書く(企画する)にも、「課題解決書」的な本と「視野拡張書」的な本のどちらにするのかを選ばなければいけない場面があるような気がしている。だから、あえて「理工書」というカテゴリーを立て、2種類の「良さ」を考えてみたい。

課題解決書の良さ

「課題解決書」の読者が求めているのは、何らかのゴールへ最短経路でたどり着くこと。ゴールは、「手持ちのデータセットディープラーニングを実装する」でも、「ある概念(ブロックチェーンルベーグ積分、etc.)を理解する」でもいい。

普通、そうしたゴールへ自力だけでたどり着くのは大変すぎる。プログラミングの「マニュアル」や、ネット上の解説記事を広い読めば解決できることもあるが、膨大な時間がかかってしまう。そんなとき、先に同じ道を通った人が「ルートマップ」としての本を書いてくれればとても役に立つ。

課題解決書では、ゴールまでの道筋はもちろんだが、(登山地図になぞらえて言えば)「大体半日の道のりだよ」「途中に足場の悪い道があるから気を付けて」「服装や装備は○○がおすすめだよ」といったtipsも提供される。

書き手に求められるのは、そのエリアを歩き回った経験値だ。回り道、バリエーションルートの開拓、(ときには)遭難といった、豊富な経験があることが望ましい。そして自身の経験のなかから、読者の課題解決に役立つ部分だけを、整理して書く。

良い課題解決書とはどんなものだろうか? 三つくらい思いつく。

  • マップが正確であること。具体的には、サンプルプログラムがちゃんと動いたり、数式変形に間違いがなかったりすること。
  • マップのゴール地点が、読者の目的と合っていること。いくらルートが正確でも、目的地が誰も見向きをしないような、マイナーな場所では意味がない。多くの人が共通して目指しているであろう到達地点をいくつか想定し、それに沿った目次構成になっているとよい。
  • マップのスタート地点が、読者の現状にマッチしていること。ゴール直前の難所のマップを示すだけで役立つのか、麓からのマップが必要とされているのかは、本によって違う。そこを見誤らず、読者の前提知識の想定を適切になされているとよい。

私はタイプの本の読書経験は乏しいが、『退屈なことはPythonにやらせよう』という本は、自分の技術レベル(つまりほぼゼロ)にも目的(Pythonで業務効率化したい)にもマッチしていたし、そこにいたる道筋も明朗だった。その意味では3条件をクリアしており、自分にとってとてもよい本だと感じられた。

 読書メモ:退屈なことはPythonにやらせよう(Al Sweigart著) - rmaruy_blog

  

視野拡張書の良さ

一方、「視野拡張書」の読者が求めているのは、これまで知らなかった分野の概念、方法、視点に触れることで、知的好奇心を満たすこと、あるいは、自分の研究や仕事へのインスピレーションとすることだ。

未知の分野の学問・技術について、自ら研究論文を読み解いて勉強をするのは、これまた大変すぎる。そこで、その分野の専門家が書いた「書籍」が役に立つ。

「視野拡張書」の書き手には、その学問の蓄積を熟知していること、一次資料で学んだ経験、専門家コミュニティで研究活動をしていることなどが求められる。そのような著者が、専門知を背景に、そのテーマをなるべく見通しよく概観できるよう、わかりやすく説明する。

良い視野拡張書とは?

  • 学問として大事なところを押さえていること。観光のツアーに喩えて言えば、街のツアーガイドがその街の歴史についてあやふやでは困る。
  • 面白い部分を伝えていること。研究コミュニティにとって焦点となっている部分と、分野外の読者が知りたい部分が一致していないことはよくある。初めての京都観光の案内をする人には、まずは代表的な寺社仏閣をいくつか見せてほしい。

  •  読者の前提知識をよく踏まえていること。これは「課題解決書」と同じ。 

なお、「課題解決書」は、ほぼ学術書に重なる。学術書の書き方、編集の心得については、すでに下記2冊の本が出ているので、ここで書くまでもなかったかもしれない。

課題解決と視野拡張は本のテーマでは決まらない

以上、理工書を二つのタイプに分け、それぞれの「良さの基準」を整理してみた。そのうえで本記事で言いたいのは、理工書を書く(企画する)前に、その本がどちらのタイプなのか考えることが役立つのではないか、ということだ。

テーマでおのずと決まってくるのでは、と思うかもしれないが、そうとも限らない。たとえば「組み合わせ数理最適化」というテーマについて、

  • 『今日から使える!組合せ最適化 離散問題ガイドブック』穴井 宏和(著)、講談社
  • 『驚きの数学 巡回セールスマン問題』ウィリアム・J・クック(著)、青土社

という2冊の本がある。どちらも素晴らしい本だと思うが、前者は明らかに「課題解決書」、後者は明らかに「視野拡張書」に分類できる。

また、科学(理学)の本は一見すべて「視野拡張本」になりそうな気もするが、そんなこともなく、数学や物理の

「今度こそわかる ○○(量子力学ルベーグ積分 etc.)」

と言ったタイトルの本は、「○○を理解したい」という明確な目的意識をもった読者に向けて書かれているという点で「課題解決書」に入る。「脳科学」といった分野でも、たとえば、エンジニアリング的視点から脳科学を概説した

『メカ屋のための脳科学』高橋宏和(著)、日刊工業新聞社

などは、課題解決本の領域に入るとも言えそうだ。「脳」のように、純粋な学術研究の対象も、やがて一般人レベルでも操作(ハック?)できる対象に変わっていくとともに、それを扱う理工書は「視野拡張本」から「課題解決本」に広がっていくという風に言えるかもしれない。

もう一つ注意したいのが、「技術書」のなかにも、読者の動機を「視野拡張」と捉えたほうがよいように思える場合があることだ。これは、自分にはなかなか理解できない感覚なのだが、「新しい技術に触れ、学ぶこと自体を喜びとする」人たちがいる(とても尊敬します)。だから、特定の目的があるようには見えない本(企画)も、実は読者には「視野拡張本」として受け入れられる可能性がある。技術書の「良さ」を「課題解決」の面からだけ捉えていた場合、「どんな課題解決ができるのか不明だから出しても売れないだろう」という誤った判断がされかねない。

最後に、ハイブリッドな本たち

「課題解決書」と「視野拡張書」を、区別して捉えるのがたぶん大事だということを書いてきた。そのうえで、しかしながら、ロングセラーとして読み継がれることになる「理工書」は、結局のところ両方の要素が共存した本なのではないかとも思う。

特定の課題解決のために読まれうるが、読んでいるうちに全く新しい光景が見えてくる本。

あるいは、何となく面白そうだからと読んでいくうちに、本格的な技術や知識が身についてしまう本。

思いつくままに挙げてみる(もっとあるはずだけど、ぱっと思いつくものだけ)。

 『虚数の情緒』吉田武(著)
 『精霊の箱』 川添愛(著)
 『統計力学1,2』田崎晴明(著) 
 『ゼロから作るディープラーニング 』斎藤康毅(著)
 『データ解析のための統計モデリング入門』久保 拓弥(著)

編集者としては、こんな本を作ることに関われたら幸せだ。もちろん。でも、たぶん、いきなりハイブリッドを目指すのは無謀だろう(高校球児が大谷翔平を目指すようなもの?)。

なので、まずは狙いを「良き課題解決本」「良き視野拡張本」のどちらかに絞って、企画を立てるのが良いだろう。それが、この連休にあれこれ考えてひとまず出た結論です。

*1:理工書という媒体に固有の「良さ=価値」があるかということは、それ自体問われてよいことだと思いますが、ここでは前提にしています。

読書メモ:英米哲学入門(一ノ瀬正樹 著)

 

英米哲学入門 (ちくま新書)

英米哲学入門 (ちくま新書)

 

副題の『「である」と「べき」の交差する世界』に惹かれて買った。

「である」と「べき」の線引き問題については、以前から気になっていたからだ。まず、そのことについて少し書いてみたい。

「である vs べき」が気になるわけ

「である」とは「世界はどうなっているか」という事実の問題のことで、「べき」は「私たちはどう振る舞うべきか」という規範の問題のこと。一見すると、二つはまったく別の領域に属する問いに思える。

部活で「代々1年生が球拾いをしてきたのである」からといって、「だから今年の新入生も球拾いすべき」とはならないはずだし、「人類史上多くの文化で一夫一妻制がとられてきたのである」からといって、無条件に「それ以外の婚姻は認めるべきではない」ともならないはずだ。なので私などは、第一感では「“である”と“べき”は別問題ですよね」と片付けたくなるのだが、しかし最近、どうもそう単純でもなさそうだ、ということに気づき始めた。

たとえば、下記のポッドキャストでもこの問題が議論されていた。

このツイートでは、私は依然「べき」と「である」は峻別されるという側に賛同している。でもその後、ハリス氏以外にも、「である」と「べき」の区別は私が思うほどクリアに引けないとする立場の専門家が少なくないことを知った。

なぜ「である/べき問題」が気になるのだろうか。

一つは、「科学者の役割の範疇」について興味があるからだと思う。科学者は「である」にだけ関わっていて、「べき」を議論するのは科学ユーザーである市民。そう割り切れればスッキリするけれど、果たしてそれでよいのか、という問題。

もう一つ、自分の周りの人とのコミュニケーションに影響してくるという、より切実な理由もある。「日本に移民を受け入れるべきかどうか」「原発を再稼働すべきかどうか」あるいは「夕飯を食べるときテレビを消すべきかどうか」について、身近な人と意見が食い違ったとする*1。その見解の相違は、どの程度まで「事実の認識」の問題なのだろうか。「移民の経済効果」「原発の故障確率」「テレビ視聴と自律神経の関係」、その他もろもろの「事実」に関して合意することが、対立解消にどれくらい役に立つのか、あるいはまったく無駄なのか、ということは知りたい。

あるいは、そのうち自分が直面するだろう問題として、子供に「理屈抜きの規範」、つまり、「理由はないけど、こうすべきなんだよ」ということをどれくらい教える必要があるのか、ある程度は「こうすると相手は傷つくよ」とか「この伝統にはこういう合理性があるのだよ」という「である」を教えるだけでよいのか、ということにもつながってくる。。

……などなど、意外と身近で重大な問題な気がするのです。

英米哲学入門』を読んで

そんな「である/べき」問題に、何か有用な示唆が得られることを期待して読んだこの本。

まあ、自分には、難しかった。

体裁としては、著者の分身である「シッテルン博士」が、噛んで含めるように解説してくれ、各章末で生徒役のキャラクターの質疑応答までしてくれる。が、内容自体は本格的。「あとがき」にて

哲学に入門してもらうとは、本当に「分からない」、という体験をしてもらうことにほかならない

ともあるように、手加減せずに、一部はプロレベルの(?)哲学的議論が展開されている。

読みこなせなかった部分も多かったが、面白いと思った部分を中心に、感想を書いてみる。

まず、「である/べき」問題についての著者のスタンスは、両者は峻別できるものではないが、完全に一体というわけでもない、といったあたりになる。

「べき」には「である」に対して何かグラデーションをなすような、程度的な関係があるんじゃないかって思うんだよ。「である」を濃密に含む「べき」と、「である」に薄くしか依拠しない「べき」と、そのはざまに混合の割合のグラデーションがあるように思うんだよ。(p.344)

このような考え方に基づきつつ、タイトルどおり、英米哲学での主要なテーマが取り上げられていく。

全3章からなる。

第1章では、「世界はどうなっているか」についてラディカルな観念論をとったバークリの哲学がメインに紹介される。そのなかでは、「何かがある」というときに使われる言葉の選択のうちに、すでに規範に基づいた制約が入っていることが指摘される。つまり、「である」のなかにはじめから「べき」が入っている。第2章では、「必然性」と「因果関係」が主なテーマとなる。「責任」と「原因」の二分法が、「べき」と「である」の区分に対応するという構図が示される。責任と原因は、一見違うもののように思えるが、たとえばギリシャ語では「アイティア」という一つの言葉で表されるのだという。

私は、現象間の因果関係と、「報い」としての因果応報は、因果性として同種である、少なくとも基本的性質を共有している、とさしあたり仮定して論じてみたい。(p.135)

いやいや、違うでしょ、別物でしょ、と私などは応答したくなる。その反応の理由を、著者は言い当てている。

「ピュシス」と「ノモス」、すなわち、自然と人為という区別がその深淵をなしていると言えるだろうね。自然的現象と、人為的制度とは異なる、という基本的な世界理解だ。(p.129)

そのとおりで、自然現象には確固とした因果関係があると普通は思う。しかしよくよく考えてみると、それは怪しい。「因果関係は存在しない」とまで論じたヒュームを紹介し、素朴な因果関係の理解の浅さを浮き彫りにしていく。第3章では、では因果概念をどう捉えたらよいかについての、主として著者独自の理論が説明されていく。それは、まさに「べき=責任」を入れたかたちでの因果理解となっている。「~だったから~だった」という因果の理解には「~すべきだった(すべきでなかった)」という規範についての判断が入り込んでいる。本書を読んでみてほしいが、因果の常識的な考え方からはまず出てこない、面白い理論だと感じられた。

***

この本を手に取ったのは、「である/べき」についての疑問からだったと書いた。読み終えて、その疑問はどうなったか? 雑なまとめかたをしてしまうと、

  • 「である」から「べき」がどれくらい出てくるかを気にしていたのに、本気で哲学をすると、そもそも疑っていなかった「である」の下に「べき」が潜り込んでくることが分かった

となるだろうか。もうちょっと表層的な部分で考えが整理されることを期待していたのだが、本書を読んでさらに「とっちらかって」しまった、というのが正直な感想だ。でも、それが哲学というものなのだろうとも思う。

 

*1:実際の事例ではないのですが。

読書メモ:数学がいまの数学になるまで(Zvi Artstein著)

数学がいまの数学になるまで

数学がいまの数学になるまで

 

人生で何度か、「数学は好き?」と聞かれたことがある。

そのたび、困ってしまう。

「好きです」とは言えない。むしろ、ずっと苦手意識をもっていた。中学や高校での「問題が解けなかった経験」のせいだと思う。数学の問題で、どれだけ考えても答えが出せない。自分の頭の鈍さを思い知らされる。そんなことが続いて、数学は私にとって憂鬱な科目になってしまった。

でも、それと同時に、数学にはどこかしら惹かれるところもあった。初めて三角関数を習ったとき、あるいはlog xの微分が1/xになることを知ったときに味わった、少しだけ新しい世界が開けたような気分。その気分は、もしかしたら「好き」の萌芽だったかもしれない。

ある面については苦手だが、ある面には少し興味がある。そんな数学について考え出すと、数学とは何か、よくわからなくなってくる。というか、そもそも知らなかったことに気づく。数学っていったい何なんだ。何だか知らないものを好きかと聞かれても、答えに窮するのも当然だ。

***

数学について知らないのは、大学の数学科を出ていないのだから当たり前だと言われるかもしれない。でも、数学の捉えどころのなさは、法学を専攻していない人が法学の何たるかを知らないのとは、別次元のものに思える。

…数学とは何か?

歴史学とは何か?」とか「天文学とは何か?」であれば、「歴史/天体についての学問」で一応答えになっている。しかし、数学については、「数についての学問」では明らかに不十分だ。「数や、図形や、集合や、多様体や、etcについての学問」としたところで、よくわからない。

たぶん、こと数学に関しては、数学の教科書を読んでも、百科事典の説明を読んでも、はたまた数学を実践してさえ、その何たるかは理解できない。

そして、思うにその理由は、

  • 数学は、ほかの学問とは方法論(頭の使い方)がまったく違うこと
  • 数学は、時代ごとの跳躍をいくつも経て現代の形になってきていること
  • 数学は、ほかの学問に「応用」でき、その基礎となってきたこと

などにあるのではないだろうか。だとすると、「数学とは何か?」に答えるためには、

  1. 数学は、どのような頭の使い方をする学問か
  2. 数学は、どのように作られてきたか
  3. 数学は、ほかの学問とどう関係しているか

を知らなければいけないはずだ。

少なくとも私は、学校ではこれらのどれも教わった記憶がない。

***

前置きが長くなった。

今日ご紹介したいのは、2018年3月に翻訳が出た『数学がいまの数学になるまで』という本。まさに、上記の1~3の観点から、「数学とは何か」を教えてくれる一冊となっている。

著者はイスラエルの数学者。力学系最適化問題、制御理論など数学分野で業績があり、数学教育にも造詣が深い人らしい。

本書の前半部は、邦題のとおり、数学の発展がたどってきた歴史的道のりが描かれていく。初期の文明の数学がどんなものだったか(第1章)、ギリシャ人たちがいかに自分たちの世界観を数学に結びつけたか(第2章)、そして近代になり、科学の方法論と数学がいかに密接に結びつくようになったか(第3,4章)などが、興味深いエピソードや人物紹介とともに語られていく。

本書の特徴といえるのが、第1章が、古代文明からさらにさかのぼって「動物の数学」の話から始まっていることだ。カラスなどの一部の動物は数える能力をもっていたりするが、人間の数学的能力は、明らかにそうした進化が用意した能力の延長線上にあると著者は指摘する。一方で、人間の数学は、生物進化で想定された機能を大きく超えて発展してきている。この、「進化に有利な数学」と「進化と関係なく人間が作っていった数学」の区別があることは、本書のメインの主張の一つになっている。たとえば、最後のほうで、数学教育について次のような提言をしている。

数学におけるいくつかのテーマは数百万年の進化を通じて発達した人間の直観に整合していますが、そのほかのものは進化の闘争において何ら利益をもたらすことがなく、自然な直観に反しています。この区別は、教授法や学習法に反映されるべきです。(p.381)

中盤は、確率論・統計学の誕生と発展を扱う第5章「ランダム性の数学」、経済学や社会学でどう数学が使われてきたかを解説した第6章「人間行動の数学」、計算機科学と数学との関係を描いた第7章「計算とコンピューター」というように、重要な応用分野と数学との関わりを、各章で一つずつ取り上げている。

そして終盤では、さらに核心をつくテーマが3つ並ぶ。

第8章「本当に疑いがないか」では、20世紀初頭のいわゆる「数学の危機」の時代にどういう問題意識で数学基礎論が発展していったかについて、そして現代の数学は本当のところでは「正しさ」についてコンセンサスがないままである事情について説明している。第9章「数学における研究の性格」では、現代の数学者が実際にやっていることについての素描がなされる。そのなかでは、「数学に特有の『数学的思考』などというものはない」、「応用数学純粋数学の区別は人為的なものであって、そもそも純粋数学という概念自体が有効ではない」という、ややラディカルな持論も展開されている。最後の第10章では、数学の教育法について、著者の子供の学校のPTAでの経験なども織り交ぜて、著者の意見が披歴される。先に引用したように「進化が用意した数学的能力に注意を払うこと」が著者の主張の中心に位置となっている。それに加えて、「数学にとってテクニックやひらめきは本質ではない」という主張がなされていて、個人的には心強かった。

***

以上、ざっくりと本書の流れを紹介したが、触れることができたのは、本書の内容のほんの一部。もっともっと多くのことが書かれている。

本書を読んだいま、「数学とは何か」という問いに対して、格段に見通しがよい地点に立っている実感がある。もちろん、数学についての核心的な問いは残る:

  • 数学の正しさとは何か(≒数学の証明とは何か)
  • 数学はなぜ応用できるのか

これら二つ(「証明」と「応用」)は、イアン・ハッキングが「数学の哲学が存在する理由」として挙げているくらいで、もちろん本書でも、オープンクエスチョンとして残されている。

それらの哲学史上の謎は残るにしても、本書からは数学について多くのことが学べる。私個人が、本書から感じたとったことをあえて一言にまとめるならば、

  • 数学の歴史は、人類が自らの思考能力のハードウェア的限界を押し広げてきた歴史である

となるだろうか。別の言い方をすると、人間が進化的に獲得してきた思考法とは違うしかたで考えることを最も純粋なかたちで学べるのが「数学」なのではないかと思える。そう考えると、中学や高校で習う数学というのは、人類の知的飛躍というものを追体験できる恰好の機会だったのかもしれない。「三角関数」や「対数関数」という「概念」を学んだときの高校生の自分も、もしかしたら、その一端を感じ取っていたかもしれない。

***

『数学がいまの数学になるまで』は、少しでも「数学ってなんだろう?」と思ったことがある人には、おすすめしたい。きっと予想を超えた数学の姿が見えてくると思う。縦書き二段組というハードそうな見た目とはうらはらに、とても読みやすい本ですので。

読書メモ(再掲):知ってるつもり――無知の科学(S. スローマン & P. ファーンバック)

 

知ってるつもり――無知の科学

知ってるつもり――無知の科学

 

ちょうど一年前に読んだ"The Knowledge Illusion"の翻訳。

この本の内容は、今年の日本ではとくにリアリティがあるかもしれません。これからいろいろなところで引用される文献になりそうです。

 

それにしても、推薦者がすごいですね…。

ハラリ、ピンカー、サンスティーンに加えて池谷裕二先生も。(売れないわけがありません。)

 

読書メモを再掲します。

  

***

たしか小学生のころ、「総理大臣ってすごいな」と思っていた。

自分は学校の宿題やら習い事やらで頭がいっぱいなのに、大人というのは自分以外のことにも気を配っている。たとえば通学路のガードレール。これが設置されるまでには、「この道にガードレールが必要だ」と誰かが考えて、製造・設置の段取りを考えたはずだ。そういうことに気を配れる大人ってすごいし、まして日本全体のことに気配りしなければいけない「総理大臣」はよほどの知識と判断力の持ち主なんだろう。総理になるつもりなどない自分も、大人になるまで勉強しなきゃいけないことが山ほどあるな。だいたい、ガードレールってどうやってつくるんだ…。(なぜかガードレールに拘っていた)

大人になってみると、総理大臣もそんなに偉いものではない(むしろ必要とされるのは別種の能力)ということがわかったし、ガードレールの作り方を知らなくても不自由なく暮らせることもわかった。たいして知識は増えていないのに、子供のころの「自分は何も知らない」という感覚は格段に薄まった。

ということを、“The Knowledge Illusion”を読んで思いだした。

The Knowledge Illusion: Why We Never Think Alone

The Knowledge Illusion: Why We Never Think Alone

 

Knowledge illusion(知識の錯覚)とは、自分の知識を過大評価しまう傾向のことだ。2人の認知科学者による本書は、人間の心のなかでknowlegde illusionが生じる理由、それが引き起こす問題、それを踏まえてどうすべきかを論じた一冊となっている。

「自分の知識の過大評価している人」と聞くと、学校の先生や会社の上司の顔が思い浮かぶかもしれない。でも、多かれ少なかれ、誰もが「知識の錯覚」に陥っている。小学生のときの自分からすれば、今の自分は「知識の錯覚」だらけかもしれない。

本書の前半部では、こんな実験を紹介している。まず、被験者に「あなたは○○の仕組みについてどれだけ知っていますが?」という質問をし、1から7までのスコアで答えてもらう。○○に入るのは、「洋服のジッパー」「携帯電話」「ミシン」など。次に、「ではそれを説明してください」とお願いし、そのあとでもう一度「どれくらい知っていますか?」という最初と同じ質問をする。すると、説明を促した後のほうが、申告される理解度のスコアが有意に下がるそうだ。つまり、人はいざ説明しようとしてはじめて自分が知らないことに気づく。この実験を2002年に発表したRozenblitとKeilは、この現象を"illusion of explanatory depth"と名づけている。

どうして私たちは実際以上に知っていると思ってしまうのか。本書では前半の各章でいくつかの理由が示される。

  • 私たちは無自覚に直観的な推論(intuitive reasoning)に頼ってしまうため(4章)
  • 私たちは無自覚に身体知に頼っているため(5章)
  • 私たちは無自覚に他人の知識(communal knowledge)に頼っているため(6章)
  • 私たちは無自覚に、テクノロジーに頼っているため(7章)

中盤では、「知識の錯覚」が問題になる、2つの局面について論じている。

 

  • 「知識の錯覚」は、科学的知識の普及を妨害する(8章)
  • 「知識の錯覚」は、合理的な政治的判断を妨害する(9章)

後者の政治についての章では、"illusion of explanatory depth"を政治的イシューに応用した著者自身の研究を紹介している。それによると、人々は自分が「ある政策の効果を説明できない」と気づくことで、よりマイルドな政治的立場をとるようになることがわかったらしい。これは、昨今の政治的分断を解消するためのヒントにもなりうる結果かもしれない。

最後の2つの章では、こうした「知識の錯覚」があることを前提として、どうしていくべきかについての著者らの考えが述べられている。個人の知識を増やすばかりの教育はいい加減やめて、人と協力する能力を育むべきではないか、という主張には頷けた。

私たちが「知識」と言っているもののうち、自分一人の「脳」のなかにあるのはたかが知れていて、その外側の「身体」「他人」「社会」「技術」に多くを負っている。思ってみれば当たり前のことだが忘れがちなこのことを、「認知科学」の視点で整理してリマインドしてくれる一冊だった。

 

読書メモ:数学セミナー(2018年4月号)…人はなぜ数学するのか?

 

数学セミナー 2018年 04 月号 [雑誌]
 

今回は雑誌の感想です。

数学セミナー』の最新号、特集テーマが「なぜ数学を学ぶのか」。

自分で数学をするよりも「数学する人(とそのモチベーション)」に興味がある私にとっては、たいへん惹かれる特集でした。

なにより、執筆陣が豪華。名だたる数学者だけでなく、数学教育・物理学・数理科学・統計学・物理学といった、「数学を使う」立場の諸分野からもビッグネームが集い、数学への想いを綴っています。

***

「なぜ数学を学ぶのか」というお題なのですが、ややあいまいな問いかけです。聞かれているのが

  • なぜ大学で数学を学ぶのか
  • なぜ小・中・高で数学を学ぶのか

のどちらなのか、つまり問題とされている「数学のレベル」によって答えは変わってくるはずですし、

  • なぜ「私は」数学は数学を学ぶのか
  • なぜ「人々は」数学を学ぶ「べき」なのか

のどちらの問いなのかという問題もあります。

この特集では、あえてそのどれを聞いているのかを限定しておらず、各寄稿者は好き好きに解釈して回答を寄せています。

誰がどんなことを言っているか、簡単に紹介したいと思います。

***

長岡亮介「そう問う君は幸いだ」

トップバッターは長岡亮介氏。今回の特集のなかで、最も広い視点で問いを捉え、包括的に答えているように感じました。長岡氏は、「なぜ学ぶのか」に対して、「常識的な回答」「現代的な回答」「古典的な回答」の、階層の異なる3つの答えを用意しています。

  • 常識的な回答は、数学は「普遍的な言語」であって、「他の領域への応用の可能性」が高い学問だから学ぶに値するのだ、というもの。
  • 現代的回答は、高度に技術化した現代を生きる私たちにとって、「世界の大潮流に飲み込まれてしま」わないために数学の基礎力が必要だから、というもの。
  • 古典的な回答は、数学が古代から「深い教養の鍛錬の舞台」とされており、その意義は現代でも形を変えて存在しているから、というもの。

ただし、冒頭では、「この解答のみが正当であると主張するつもりは、まったくない」と断っています。

「人生とは何か」とか「信念とは何か」、……などは典型的であるが、簡単な正解がたとえ存在しなくても、問い続けること、答えを探し続けることそのものには重要な意味がある。

「なぜ数学を学ぶのか?」――これもそのような問いの一つである。

さながら、本特集を総括するような一節。

こうして「数学をなぜ学ぶのか」を問い続ける態度こそが、数学教育を硬直化させないことにつながるという思いが筆者にはあるようです。

志賀弘典「なぜ数学を学ぶのか? 自問自答」

続く志賀氏は短いエッセイ風の文章。フランスの学習指導要領に「数学的活動とは何かを理解すること」が数学を学ぶ目標の一つとされているのを引きあいに出し、

日本の教育においては、数学という教科を、その学問的手法を内在化して、人の重要な柱にする、という観点はありません。

と言います。それでも、「たかだか150年で、日本の数学研究の水準は世界の最先端に立って」おり、それは数学を「日本的精神」で咀嚼してきた先人たちがいるからだ、というような論旨を展開。「なぜ学ぶのか」への直接的な答えは与えていませんが、「西洋で発祥した数学」という「文化的異物」を自分のなかに取り込みたいというモチベーションが筆者を突き動かしてきたことが窺えます。

竹山美宏「数学科で絶望しないために」

寄稿者のなかでは若手の竹山氏は、日々学生に触れる機会が多いからか、主に大学に入って数学に躓いた学生を想定して書いています。なぜ大学の数学は、高校までとは一変してしまうのか。それは、「具体的な問題を解く」ことから「定義と証明を学ぶ」ことに主眼が変わるから。なぜ「定義と証明」が重要か。それは、数学が正しさを伝達する手段であり、その正しさを支えるのが「定義と証明」だからだ。よく数学は「美しい」とか「役立つ」とか言われるが、まずもって数学は「正しい」から価値があるのだ。私なりに、筆者の「なぜ学ぶのか」への答えを引き出すとしたら、数学は(定義と証明を通して)正しいことを確かめ合う唯一無二のツールだから学ぶ価値があるのだ、となるでしょうか。

原田耕一郎「そこに山があるからだ」

登山好きでもあるらしい原田氏の答えは、端的に「そこに山(=数学)があるからだ」というもの。分数列の無限和があるものは収束し、あるものは無限に発散する例を見せておいて、筆者が数学に対して感じている「畏怖の念」の一端を伝えるエッセイとなっています。

伊庭幸人「データサイエンスを学ぶ理由、もしくはまだ覚醒していないあなたへ」

伊庭氏は主に自身の専門である「データサイエンス(統計学)」について語っています。近年「データサイエンスを学びたい」という人が増えたが、そのほとんどは「ビジネスなどで使いたい」という動機をもっている。しかし筆者はそうした人々とはちょっと距離を置きたい様子です。「役立つから」ではないデータサイエンスへの入門の仕方がある言います。それは、自然科学を真剣にやった末に、どうやら「データの扱い」や「統計」に「本質」があると「覚醒」するというパターンです。統計物理から統計学へ進んだ筆者自身と同様、そうしたルートでもデータサイエンスに入ってきてほしいと筆者は願っているようです。

これが「数学」の話とどうつながるか? データサイエンスが「面白い」と感じるような思考の方向性は、実は「広い意味での数学」なのではないかと言います。

数学の本質のひとつは「抽象化することで、ものごとの本質が理解しやすくなる」という考え方にあると思う。(…)その意味では「ヒストグラムの書き方」のような具体的で身近なことの背後に「データ解析とは何か」「知能とは何か」というような一般的な課題を見るような思考は手法の難易にかかわらず、それ自体が「数学的」といえるのかもしれない

「数学の本質的な良さ」とでもいうようなものがあるとして、それは大学レベルの数学を学ばなくても、統計学などの周辺分野からも触れられるものなのかもしれない。そんな希望を与えてくれる文章でした。

根上生也「数学的人格となれ」

なぜ数学を学ぶか、それは「数学的人格」となるためだ。根上氏の言う「数学的人格」とは「数学を学ぶことで培うことのできる人格」であり、「原理、構造を探究し、意味と価値を理解」し、

 思い込みや勘違いを排するために、お互いの間違いを責めず、みんなで共通の理解を生むように議論していく

ことができるのだそうです。数学的人格は、初等的な数学を学ぶことでも身につけることができ、多くの人が「数学的人格を志向するようになれば、民主主義も次の段階に進める気がする」とさえ言います。

筆者はおそらく、「数学」という場だからこそ、自覚的に極論を言っているのだと思います。それでも、ちょっと言いすぎではないかと感じました。民主主義の合意形成のプロセスには、「数学的な議論」だけでは足りないはず。「定義と証明」では答えの出せない問題がたくさんあるはずだからです。だからこそ、数学以外の様々な学問が知恵を蓄えてきたのではないでしょうか。筆者はそんなこと承知だとは思いますが。

小谷元子「数学はやめられない」

前半では、プロの数学者としての実感を語っています。数学の研究はとにかく「苦しい」。だが、「苦しいなかに本当に稀にではあるが強烈な喜びの瞬間」がある。だから、「数学はやめられない」と言います。

後半では転じて、数学の第3者的意義について述べています。数学を材料科学に応用するための研究機関に勤める筆者は、たびたび数学が思いがけず応用に結び付く経験をしてきたと言い、

しかし、それにしても不思議なほどに、数学が役に立つ

という感想を漏らしています。

甘利俊一「なぜ数学を学ぶのか 数理工学の立場から」

数学者としてではなく、工学のために数学を生かす、「数理工学」の立場から数学に取り組んできた甘利氏。その数学へのスタンスは以下の一節につきていると思います。

数学をなぜ学ぶのか、まさに面白いからである。数学は自由であり、いろいろな可能性がある。数理的に考えることが、人の脳の持つ特質である。数学を学んで本当によかった。

でもそれは「一個人の感想」ですよね? と返したくなる内容ですが、甘利先生に言われると普遍的真理のようにも思えてきます。

安生健一「映像のリアリティとは? CGにとっての数学の役割」

CGを作る際に使われる数学について簡単に解説し、現実をリアルに見せるために数学がなくてはならないツールであることを述べています。

山﨑雅人「論理と抽象のかなたに」

素粒子物理学者として、数学を学び、数学を使ってきた実感を語っています。

直観から出発し、そのことを忘れないこと。しかしその地に安住するのではなく、そこから一歩一歩進んで論理を積み上げ、やがてはその地平線の先に直観を超える世界にたどり着くこと。その地でまた直観と論理をやしない、さらなる旅へと出発していくこと。この絶え間ない営みこそが数学なのではないだろうか。

そうやって論理を積み上げて、高いレベルの直観が獲得される。それが素粒子物理学という、世界の在り方を理解する学問にも役立つのが面白いと思います。

杉原厚吉「数学を勉強するとどんないいことがあるの?」

最後の杉原氏は、おそらく主に中高生あたりに向けて「数学をなぜ勉強するのか」への答えを与えています。それは、とにかく数学が使えるから。ビルをつくるのにも、電気製品をつくるのにも数学が必須。また筆者の専門である「錯視の立体図形」も、その見え方の解析に方程式が使われていることを説明しています。中学や高校の先生が教える以上に数学は使われているんだよ、という内容です。

***

以上、11名の寄稿者の語っている「数学を学ぶ価値」についてざっと見てきました。

その多様なことにあらためて驚きます。

  • 役に立つ
  • 人格を陶冶できる
  • 現代社会を生きるリテラシー
  • 面白い
  • 直観をグレードアップできる
  • 畏怖の念を感じる

今回、「美しい」という観点(cf. G.H. Hardy)を出している人がいなかったのはちょっと興味深いです。

数学ほど、その「価値」の語られ方が多様な学問はないのではないでしょうか。

数学者が、自身が考える数学の良さについて丸ごと1冊を費やして語った本に、Micheal Harrisの"Mathematics without Apologies"があります。

また、数学とは何か、数学者は何をやっているのか、自分が数学に惹かれるのはなぜかを、言語化することで捉えようとした著作として、森田真生さんの『数学する身体』があります。

 

rmaruy.hatenablog.com

 

rmaruy.hatenablog.com

読書メモ:The Elephant in the Brain(Kevin Simler & Robin Hanson)

 

The Elephant in the Brain: Hidden Motives in Everyday Life

The Elephant in the Brain: Hidden Motives in Everyday Life

 

最近邦訳が出た『全脳エミュレーションの時代』の著者、Robin Hanson氏の新刊。『全脳エミュレーションの時代』は読んでいないが、書店で見かけた印象では相当変わった本だった。

このRobin Hason氏の人物像がいま一つつかめない。社会科学者として大学に籍をおいているようだが、物理学出身だったり、ある時期は人工知能の研究をしたり、またある時期は政府系の未来予測のプロジェクトにかかわったりしている。10年ほど前から"Overcoming Bias"というタイトルのブログを運営し、人工知能、経済、人間心理などあらゆるテーマについてあれこれ書いている。とにかく「規格外の学者」らしいことしか把握できていない。

そのHanson氏が、IT系起業家で社会人大学院生のSimler氏と共に著した本書のテーマは"hidden motive"、つまり、私たち人間の「隠された動機」だ。メインタイトルの"Elephant in the Brain"は、「皆が見て見ぬふりをしている事象」を意味する"the elephant in the room"という慣用句をもじっている。

おおむね次のような主張をしている。

  1. 人々は、表向きの動機のほかに、隠された動機(hidden motive)をもつ。
  2. それは、他人に対して隠されているだけでなく、当の本人にさえ隠されている。
  3. 個々人の行動だけでなく、人間の集団行動や組織も、隠された動機で動いている。
  4. 隠された動機は、それなりに合理的な機能をもっている。

まず、1.だけ取り出せば、「本音と建前」があると言っているのと同じことなので、一般常識にすぎない。2.も、「無意識」として古くから知られたことだ。3.あたりから現代的になってくるが、行動経済学などでは「人々の無意識的なバイアスをどう利用してより良い制度設計をするか」といった議論がおなじみになっているし、4.も「"システム1"にも積極的役割がある」などと言われるように、よく聞く議論ではある。

ということで、この本に何か斬新な内容があるわけではない。著者らが自ら実験や調査をしているわけでもないし、新しい概念を提示しているわけでもない。中身の多くは、著名な進化心理学者、生物学者らの著作を引用・再構成したものとなっている。

そんな、「研究をつまみ食いした自己啓発本」と紙一重ともいえる本なのだが、そう切り捨てることができない、妙な説得力があった。

私自身、「啓発」される部分も少なくなかった。

***

本書で描かれるのは、とことん「穿った人間観」だ。

たとえば、「医療」の章ではこんなことを言っている。アメリカでは、過去何度か医療に関する段規模な社会実験が行われていて、その結果、予想に反して医療費と健康度は相関していないことがわかっているという。つまり、どうやら、人々は必要以上に病院に行ったり、それ以上健康にならないのに、薬を飲んだりしているようなのだ。なぜか? それは「医者(あるいは薬剤師)に診てもらった」という満足感を得るためではないかと著者らは結論する。ここには、「健康になる」という表向きの動機の裏に、「誰かにケアしてもらう」という動機が隠れているというのだ。

あるいは「教育」の章。人が学校に行く表向きの目的は「知識を得るため」だが、隠された目的として「有能であることの証明証書を得る」ことがあるという。

募金するのは「寛大だと他人に思われるため」、高級車を買うのは「人々が高級だと思っているものを所有するため」。一事が万事、本書ではこんな「穿った見方」が何十個も出てくる。

ここまでなら、「人って嘘や不純な動機だらけ」という話なのだが、本書のポイントは、そうした「不純な動機」は当人から隠されていて、しかもそれにはワケがある、というところにある。

その「ワケ」を、著者らは進化心理学的に説明している。

なんとなれば、人間は社会的な動物である。腕力が強い、性的な魅力があるというだけでは繁栄できない。人にとっての「力」は、自分を助けてくれる仲間がいること。そのためには、自分を「有能で役に立つ人」かつ「他人のために動いてくれるいい人」と思わせる必要がある。求められるのは、「利己的な動機で行動しつつ、他人には無私の心を持っていると思わせる」という高度な戦略。そこで人間の脳が編み出した方策とは、まずもって「自らをだます」ことだった! 

自分はピュアな動機で動いていると「自ら信じる」ことで、相手にもそう思ってもらいやすくなる。だから、自分の真の動機と、「隠された動機」の乖離が起こるのだ。

……駆け足に説明すると、著者らの描くストーリーは以上のような感じになる。

どうだろうか? 私は、なかなか説得力があると感じた。

***

穿った人間観」とその「進化論的説明」。

著者らは、学校制度や医療制度などを設計する際に、本書の議論を考慮に入れるのが役に立つと言って、自著の価値を訴えている。個人的には、もっと卑近な「自己啓発」のレベルで、本書のことを覚えておくとちょっと良いことがあるような気がしている。

 

効用1:他人の「不純な動機」に寛容になれること。

生きていると、周りの人に幻滅を味わうことがある。尊敬していた人の、自意識が滲み出たSNSアカウントを見つけてしまった。結局、あの人も、自分がかわいい人だったのか、がっかりだ――そんなとき、本書の「人間観」を思い出そう。どんな素敵な人にも「隠れた動機」があるのは普通のことであって、その人の心が「実は汚かった」ということにはならない。人間の本性なのだから、仕方ないのだ。そう思うことで、無駄に落ち込むことを避けられるかもしれない。

 

効用2:自分の「心の汚さ」に折り合いをつけられること。

生きていると、他人に幻滅する以上に、自分自身に嫌気がさすことがある。自分の動機の「ピュアさ」を疑い始めると、止まらなくなる。どこまでも自分が卑しい人間に思えてくる。そのときも、本書の人間観が抗生剤になってくれるかもしれない。人間の本性なのだから、仕方ないのだ。動機など、いくらでも後から都合よく繕って、生きていけばいいではないか。

 

…私が本の感想をブログに書く理由は、後からその本の内容を思い出しやすくするためです。決して、ブログのアクセス数が増えるのを見て快感を得るためではありません。

読書メモ:Enlightenment Now (Steven Pinker)

 

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress

 

昨年から出る出ると話題になっていた、スティーブン・ピンカーの新刊。

ここで紹介するまでもなく書評はあちこちで出る/出ていると思うし、ものすごく盛りだくさんな本なので、内容を網羅した読書メモを書くのは難しい。

印象だけ、簡単に書いておこう。

***

まず、ピンカーとはどんな人なのか?

言語学者で認知科学者。なぜかノーム・チョムスキーのお弟子さんだと思い込んでいたのだが、ウィキペディアを確認すると「チョムスキーに深く影響を受けた」とだけある。

多くのベストセラーの著者として知られる。“The Language Instinct”(『言語を生みだす本能』)、“The Stuff of Thought”(『思考する言語』)などの著作では、一貫して「人間とは何か」(=human nature)をテーマとしてきた。学生のころ、私も何冊かのピンカー本を読んだが、深いテーマを軽妙に、下世話な話題を高尚に、というユニークな書きぶりで、とにかく面白かった。アカデミックな内容を、学者らしく上品に、なおかつエンターテイニングに伝えることのできる、唯一無二の書き手だ。

2011年の著作、“The Better Angels of our Nature”(『暴力の人類史』)あたりから、少しずつ趣向が変わってくる。専門の言語学認知科学のテーマから離れ、現代社会を論じるようになる。言語や心が「どうなっているか」という科学の啓蒙から、「どう考えるべきか」という価値の啓蒙に、軸足を移しているように見える。

***

本書で、ピンカーがコミットしている価値とは、“Enlightenment ideal”(啓蒙思想の理念)である。啓蒙思想とは何かについて、本書ではいろんな言い方をしているが、たとえばそれは

that we can apply reason and sympathy to enhance human flourishing

人間は、理性と共感力を培うことで繁栄できる

という考え方だという。

啓蒙思想の理念の三本柱として、著者は以下を挙げる。

  1. 理性
  2. 科学
  3. ヒューマニズム

この三つが人間が幸せに生きるのに必要だというのは、一見、当たり前すぎるように思える。しかし、ピンカーに言わせれば、いまこれらの理念が、“whole hearted defense”(誠心誠意の擁護)を必要としている。

Enlightenment ideals, I hope to show, are timeless, but they have never been more relevant than they are right now. (Preface)

誰からの(何からの)擁護か。

もちろん、トランプ大統領に象徴される、ポピュリズム的な知性への軽視もある。だがそれ以上に、文系の知識人の間でも、「啓蒙思想の理念」は軽視されているという。

Intellectual magazines regularly denounce “scientism,” the intrusion of science into the territory of the humanities such as politics and the arts

(…)Science is commonly blamed for racism, imperialism, world wars, and the Holocaust . (Ch.3)

「安易な科学万能主義」を批判するあまり、「科学が世界をよくする」という考え方自体が否定されてしまっているという問題意識だ。

もちろん、こういうことを言ったのはピンカーが最初ではない。1959年、C. P. スノーは、有名な講演のなかで、科学者と文系知識人の間の断絶を問題にしている。

われわれの二つの文化のギャップをなくすることは、もっとも実際的な意味からも、もっとも抽象的、知的な意味からも、必要欠くべからざることである。この二つのものが離れてしまっているようであっては、いかなる社会も知恵をつかってものを考えていくことができないようになるであろう。知的生活のため、わが国の固有の危機のため、貧しい人たちに囲まれて不安におびえながら富んだ生活をしている西欧社会のため、世界中がもの解りよくなれば貧乏でいる必要もなくなる貧しい人々のため、われわれ、アメリカ人、全西欧人が教育というものを新鮮な眼で眺めることは義務である。—―C.P. スノー『二つの文化と科学革命』(みすず書房、p.51)

本書のなかでも、このスノーの議論は何度も引用されている。でも、スノーの議論は第二の文化(=文系)からは大変評判が悪かった。私自身、すぐさま

  • 「理性と科学が世界を良くする」なんてナイーブすぎるのでは?
  • 自分たちの価値観で人々を「啓蒙」しようだなんて、思い上がりでは?

というようなツッコミが思いつく。

***

スノーの講演から約60年後、ピンカーは再度「科学的知識が世界を良くする」という主張をしようとしている。しかし、その戦略が、大幅にアップデートされている。ピンカーの戦略とは、「科学的知識が世界を良くしているという証拠を、逐一見せていく」というものだ。

本書の最後の第3部(第21~23章)では、「理性」「科学」「ヒューマニズム」をそれぞれ擁護しているのだが、本書のページの大部分は、「世界は良くなっている」ことの証明をした第2部に充てられている。

***

世界は進歩(progress)している。

そのことを、ここ数十~百年のトレンド示す様々なデータを示しながら、例証していく。

まずは、寿命が伸び(5章)、病気も減り(6章)、飢餓は減り(7章)、富は増大し(8章)、絶対的な貧困は減少し(9章)、戦争が減り(11章)、災害で死ぬ人が減り(12章)、民主主義は広がった(14章)。

さらに、人々に心配を与えている格差の拡大(9章)、環境問題(10章)、テロリズム(13章)、核戦争などの実存的脅威(19章)についても、言われているほど悲観すべきでないという議論が展開される。

ここまで聞くと、こう言いたくなるのが現代人だろう。「物質的に豊かになったとしても、それが犠牲にしてきたものはないのか?」。

こうした紋切り型の疑問についても、著者は回答を用意している。余暇の時間など、QOLに関連するいくつかの指標はいずれも上がっており(17章)、幸福度も上がっており(18章)、人権意識は高まっている(15章)。

この第2部の冒頭には、オバマ大統領の言葉が引用されている。

If you had to choose a moment in history to be born  and you did not know ahead of time who you would be — you didn’t know whether you were going to be born into a wealthy family or a poor family, what country you’d be born in , whether you were going to be a man or a woman — if you had to choose blindly what moment you’d want to be born, you’d choose now . — Barack Obama 2016

ざっくりと言えば「平均的に見れば、現代が一番生きやすい時代だ」というメッセージだ。それが本当であることを、著者は豊富な情報量で立証してみせたことになる。こんなに多くの分野で、データを持ってきて議論を組み立てる力量(体力)は、すごいとしか言いようがない。

ただし、個別の議論に対しては、いろいろとツッコミどころはあるのかもしれない。個人的に気になったのは、環境問題の章で原発を推進している箇所だった。炭素排出や事故のリスクなどを総合的に考えたとき、原発は合理的な選択肢だと著者は結論づけていたが、福島原発事故とその後についてもう少し身近に知っている身としては、「環境負荷や経済合理性の側面に限っても、原発は合理的と言えるのだろうか? ディテールの考察が足りないのではないか?」と思えた。他の章でも、同様の「詰めの甘さ」が指摘される余地があるのかもしれない。

***

細かいところでの批判とは別に、21世紀に「啓蒙思想」や「進歩」を謳うスタンスそのものも、拒否感を引き起こしそうだ。しかしピンカーさんは敢えて、本能的反発を引き起こすような仕方で、高らかに「啓蒙思想」を打ち出している。それは、時代が「C. P. スノー」的な常識から、離れすぎているという現状認識からきているようだ。

悲観論/楽観論、科学賛美/科学批判などについて、どの立ち位置から発現するかは、「世間の空気」をどう捉えているかによるだろう。

たとえば、科学の評価。ピンカーさんはこう書く。

Science cannot be blamed for genocide and war, and does not threaten the moral and spiritual health of our nation. On the contrary, science is indispensable in all areas of human concern, including politics, the arts, and the search for meaning, purpose, and morality. (Ch.22)

一方、今年1月に出た岩波新書のなかで、科学史家の山本義隆氏はこう書く。

「合理的」であること、「科学的」であることが、それ自体で非人間的な抑圧の道具ともなりうる――山本義隆『日本近代一五〇年』p.214

前者は「科学は不当に悪者にされている」と感じ、後者は「科学は不当に持ち上げられている」と感じているからこそ、こういう書き方になるのだろう。けれども、よくよく考えてみれば、両者が言っていることは矛盾しない。「科学は良い価値観と組み合わされば、良い結果を生む」という形で、整合する。

ピンカーさんの感覚では、一般人も、知識人も、啓蒙思想的な常識を否定する方向に傾きすぎている。だからこそ、こんな本を書いたのだろうと思うし、自分の考え方(小学生の頃からなぜかもっていた「世界に対する根拠のない悲観」のようなもの)もかなり改めさせられた。

***

最後に、ピンカーは本書でとりわけ「ニーチェの悪影響」に言及しているのが目につく。

 Finally, drop the Nietzsche . His ideas may seem edgy, authentic, baaad, while humanism seems sappy, unhip, uncool. But what’s so funny about peace, love, and understanding? (Ch.23)

ニーチェはそんなに悪いのか?と思って、かつて読んだ本を引っ張り出してきたら、冒頭にこんな一節があった。

 ニーチェは世の中の、とりわけそれをよくするための、役には立たない。どんな意味でも役に立たない。だから、そこにはいかなる世の中的な価値もない。そのことが彼を、稀に見るほど偉大に哲学者にしていると、と私は思う。――永井均『これがニーチェだ』

***

もう一つだけ気になったこと。本書では、ユヴァル・ハラリ氏の「ヒューマニズムはDataismによって切り崩される」という議論への言及がなかった。本書のヒューマニズム擁護のうえでも、ハラリ氏の「Dataismの浸食」は有効な論点だと思う。著者の考え方を聞いてみたいと思った。

読書メモ:工学部ヒラノ教授の終活大作戦(今野浩 著)

 

工学部ヒラノ教授の終活大作戦

工学部ヒラノ教授の終活大作戦

 

2013年に『工学部ヒラノ名誉教授の告白』を読んだとき、私は少し焦った。いつものようにユーモアたっぷりの筆致ながら、この本では初めて、ヒラノ教授(=著者)が人生の終わりを意識しているのが感じられたからだ。奥さんを看取り、研究も定年退職した著者にとって、『名誉教授の告白』にはもう続きはないのかもしれないと思った。

しかし、まったくそんなことはなかった。それ以降も、年に複数冊のペースでヒラノ教授シリーズは出続けたのだ。

そのいくつかは、このブログでも追いかけてきた:

読書メモ:工学部ヒラノ教授と昭和のスーパー・エンジニア - rmaruy_blog

読書メモ:工学部ヒラノ教授の介護日誌 - rmaruy_blog

読書メモ:工学部ヒラノ教授とおもいでの弁当箱(今野浩 著) - rmaruy_blog

読書メモ:工学部ヒラノ教授の中央大学奮戦記(今野浩 著) - rmaruy_blog

読書メモ:工学部ヒラノ教授のはじまりの場所(今野浩 著) - rmaruy_blog

著者は定年後、未発表のものも含めて22冊分の原稿を書いたそうだ。いろんな意味で異常だと思う。工学研究者が著述業に転身すること自体珍しいと思うが、それをおいておいても、このペースの速さは普通じゃない。そもそも、自叙伝的エッセイを10数冊も出した人がいるものだろうか。書いたとしても商業出版できないはずで、それができてしまうのは、それが毎度面白いからだ。そして、それを待っている(私のような)読者がいるからだ。

しかし、今度こそ(!)これで最後だという。テーマは「終活」。77歳、単身高齢者になって久しい著者が、どんな心構えで死を捉え、日々を過ごしているかが綴られている。

類書との差別化を図るため、これまでのヒラノ教授シリーズと同様、“具体的、定量的、かつ赤裸々”に記述するように心掛けた。 p.20

著者が目指すのは「二人称の望ましい死、すなわち、家族や親しい友人に対して迷惑をかけない、もしくは恥ずかしくない死」だという。「二人称」というのは、養老孟司氏の「死には一,二,三人称の3種類がある」という議論を引いたものだ。

この点から見ると、PPKは必ずしも望ましい死に方とは言えない。なぜなら、多くの未処理問題や大きな負債を残して突然死ぬと、残された家族が大迷惑するからである。 p.20

そのために、かつての数理工学の第一人者らしく緻密に計画を構築し、ときに失敗もしつつ、奮闘していく様が描かれる。

身辺整理、息子夫婦と同居しない理由、健康管理、相続の計画など、「終活本」の標準的であろうトピックをカバーしつつ、ヒラノ教授の現役時代の定番エピソードも挟まれている。家族とのつらいエピソードや、かつて抱いたという自殺願望についてなど、ドキッとする記述もある。90%のユーモアのなかに、10%の死への不安や一人暮らしの孤独感といった本音が滲み出ている、そんなバランスに感じられた。

著者と同年代の方が読んだら、共感したり、参考になったりする部分も多いのかもしれない。30歳の私は「終活」はまだリアルにイメージできないが、著者の半分でも、1/4でも、幸せな老後になればいいなと願う。そのためには、自分が「二人称の望ましい死」を目指せるような誰かがいてくれる必要があるし、著者のそれこそ百分の一でいいので、振りかえって語れる物語のある人生を生きねばと思う。

***

先に「本書で最後」と書いたが、最後なのはヒラノ教授シリーズの新原稿執筆であって、これからも未発表原稿を(「関係者が死に絶えてから」)出すかもしれないそうだ。それに加えて、初となるフィクション作品を準備中だという。もと工学部教授の、鮮烈な小説家デビューが楽しみでしかたない。

読書メモ:近代日本150年―科学技術総力戦体制の破綻(山本義隆 著)

 

 

今年は、明治維新から150年目だという。
言われてみれば、という感じだ。

150年というと、人生2回分くらいだろうか。明治という言葉からイメージするほど昔でもないようで、不思議な感覚を覚える。しかし、その間の技術や産業の発展を考えると、電気もガスも何もないところから、今の日本までたどりついたのだからすごい。

山本義隆氏の新刊『近代日本150年――科学技術総力戦体制の破綻』は、その150年の日本の科学技術の歴史をたどった一冊だ。当時の科学者の発言などを一次資料から引きつつ、最近の歴史学者科学史家・ジャーナリストの分析も多く引用しながら、著者なりの「近代日本の科学技術史」を描いている。

ただし、著者の経歴を知る人ならおそらく想像できるように、そのトーンは極めて批判的なものとなっている。たとえば、「おわりに」には次のような一節がある。

増殖炉開発計画の事実上の破綻と、福島第一原発の事故は、科学技術の限界を象徴し、幕末・明治以来の150年にわたって日本を支配してきた科学技術幻想の終焉を示している。 

原発に限らず、本書では科学技術に対する批判的視線が貫かれている。著者の言う科学技術の「限界」や「幻想」は、150年間のすべての時期に存在している。

***

明治の日本がいかに欧米の科学を取り込んだかというところから本書は始まる(第1~2章)。それは、福沢諭吉ら「幕末に欧米社会を直接見聞きした武士たち」によってなされた。彼は、軍事や経済における科学技術の威力を痛感し、科学の導入を急ぐ。そこでは、科学はつねに技術とセットだった。

(p.35)かくして明治期の日本では、科学は技術のための補助学として学ばれたのであり、今日にいたるまでの日本の科学教育は、世界観・自然観の涵養よりも、実用性に大きな比重をおいて遂行されることになった。 

1871年には技術者の養成機関「工部大学校」ができ、のちに東京大学と併合され1885年には「帝国大学工科大学」が設立される。明治維新からたった18年で、工学の高等教育を行う体制が整ったことになる。また、1886年建築学会、翌年には電気学会、1897年の機械学会と、国内に工学の研究コミュニティが次々とでき、それと合わせて産業も急速に発展する。鉄道・通信網、製糸業・紡績業。そして「欧米にくらべてせいぜい20年の遅れ」でなされた電気エネルギーの実用化。しかしその急速な工業化が、犠牲にしたものもある。たとえば、機械化がもたらした過重労働の問題。

(p.81-82)明治期における製紙業、そして日本の産業革命を代表する紡績業は、少なくとも明治の後期には、ともに「ウルトラ・ブラック企業」であった。(…)紡績業において若年女子による労働を可能にしたのがリング精紡機であったとすれば、労働時間の夜間への延長と昼夜二交代制を可能にしたのは、電燈の発明であった。(…)機械化は、それだけではけっして人間の労働を軽減させるものではないのである。 

また、足尾銅山鉱毒事件など、公害問題も発生している。働き方に無理が出たり、大規模な環境破壊が起こったりしても、日本を強くするためだから我慢すべきという考えがまかり通った。しかし、これは明治期だけのものではないと著者は言う。

(p.87)官民挙げての「国益」追求のためには、少数者の犠牲はやむをえないというこの論理は、その後、今日にいたるまで、水俣で、三里塚で、沖縄で、そして日本各地で、幾度も繰り返され、弱者の犠牲を生み出してきたのである。 

第3~4章では、戦前から戦中にかけての帝国主義と科学の関係が描かれる。地球物理学者による測量が戦場の調査の意味合いをもったことなどに代表されるように、科学者の研究は軍事に密接に結びついていた。

(p.118)帝国大学の理念が国家第一主義と実用主義とあっても、民間に先端産業の存在しない時代にあっては、そして軍事技術でいちはやく近代化をめざした日本では、その実用主義の協力対象はさしあたって軍ということになる。 

第一次世界大戦が勃発すると、いよいよ国による「科学動員」が始まる。1917年の理化学研究所設立もその一環だった。「日本の近代化学工業は、軍による火薬・爆薬の自給化政策から始まった」のであり、「結局、日本では自動車産業も航空機産業も、ともに兵器産業として育成された」。また、大規模な化学工場や発電所を朝鮮の植民地に設置されたことに触れ、「エネルギー革命による最新化学工業の発展は、植民地の資源と労働力の収奪に支えられていたのである」という。

当の科学者たちは、軍事に動員されることに対してどう抵抗したか。彼らは抵抗しなかった。むしろ科学技術振興は「科学者サイドから強く主張」され、その法整備に「多くの科学者が好意的だった」。

(p.189)大部分の理工系の学者は、研究費が潤沢であるかぎりで、科学動員による戦時下の科学技術ブームに満足していたのであった。 

小倉金之助という一人の数学史研究者を取り上げている。小倉は、戦前の科学が軍事に偏重していること、学者たちが狭い専門領域に囚われていることを批判し、「自然科学者に、反知性主義・反文化主義への抵抗を訴え」た。科学的精神の体現した、良識的な学者のように聞こえる。しかし、小倉のような研究者が、むしろ総動員体制を「科学研究の合理化」を進めるものとして歓迎していた。ここから著者は、科学精神だけでは「ファシズムと闘えない」という結論を下す。

(p.186)〔小倉たちは〕総動員体制にむけての研究体制の軍による上からの統制――全体主義的な国家統制を、封建的な人間関係や官僚主義として非合理的な学閥の類のものが力をもつ日本の学問世界の近代化を促進するものと肯定的に捉え、ファシズムへの協力を積極的に呼びかけたのである。…これは転向ではないし、偽装転向ですらない。 

(p.194) 後進資本主義国としての封建性の残滓や、右翼国粋主義者反知性主義による非合理にたいして、近代化と科学的合理性を対置し、社会全体の生産力の高度化にむけて科学研究の発展を第一義に置くかぎり、総力戦・科学戦にむけた軍と官僚による上からの近代化・合理化の攻勢にたいしては抵抗する論理を持ち合わせず、管理と統制に飲み込まれていったのである。 

第6章で時代は下って「戦後」になる。科学史家・広重徹は、70年代の『科学の社会史』において、戦後の科学研究体制は敗戦を機にゼロから再スタートしたのではなく、むしろ戦前からの延長線上にあると指摘した。その見方を著者も踏襲する。科学者はどう戦争を総括したかといえば、科学技術が不足していたから戦争に負けたという感想が多かった。先の小倉金之助の言葉が引用されている:「今日わが日本が民主主義的文化国家を建設するためには、科学の振興を絶対に必要とする」。今度は民主主義のために、科学が称揚されている。

高度成長を可能にした科学技術政策は、「戦後版の総力戦」だった。自動車や家電メーカーの躍進のイメージがあるが、その背後にも、朝鮮戦争ベトナム戦争の特需で各メーカーが潤ったという現実がある。

(p.220)ふたたび日本は、アジアの人たちを踏み台にして大国への道を歩んだのである。

水俣病などの公害問題においては、権威をもつ科学者たちが、企業サイドに都合の良い「対立説」を出して、被害者サイドの告発が相対化されてしまうということが繰り返されてきた。

(p.239)明治以来、国策大学として創られた帝国大学の学問は、多くの場合「専門家」の発する「科学的見解」として権威づけられることで、国家と大企業に奉仕してきたのである 

現在はどうか。いま、日本政府と財界が画策している「軍需生産の拡大と武器輸出」に注意を促す。軍事で経済を活性化することには、人道的な理由とは別に、明確な問題があると指摘する。

(p.251)軍需製品以外のものは、電気製品にしても自動車にしても、すべて何らかのかたちで消費生活か、あるいは再生産に役立つ。しかし軍需製品だけは、消費生活に資するものでもなければ、かといって再生産に資するものでもなく、地球規模で考えるならば単なる資源の浪費、それもおびただしい浪費である。

原発の話題は第7章にて別建てで論じてられている。通産省の主導で70年代から着々と増えていった原子炉だが、その技術には、労働者の被ばく・環境汚染の問題・使用済み燃料といった、「通常の商品では、これどれひとつがあっても、市場には出しえない」ような問題が残されている。そして、2011年の福島原発事故、2016年のもんじゅ廃炉決定、2017年の東芝原発事業の失敗による主力部門売却などの事象をうけ、「経済成長の強迫観念にとらわれた戦後の総力戦の破綻である」と総括する。

(p.287)福島の事故は、明治以来、「富国強兵」から「大東亜共栄圏」をへて戦後の「国際競争」にいたるまで一貫して国家目的として語られてきた「国富」の概念の、根本的な転換を迫っているのである。

 ***

以上、本書の内容をざっと見てきた。科学技術が、相当ネガティブに書かれていることがわかると思う。明示的には書かれていないが、本書に背後には、著者自身の科学者や科学コミュニティに対する怒りがあると感じられる。その中身は、3年前の著作『私の1960年代』を合わせて読むとよくわかる。最後に少しだけ『私の1960年代』からも引用しておきたい。

今からちょうど50年前の1960年代。当時、20代の著者は何をしていたかと言えば、東大全共闘の代表として闘っていた。たとえば、物理学会の費用の一部が米軍から出ていたにもかかわらずそれが隠されていたという事件に際して、署名運動をしたりしている。さらに、1968年、「明治維新からちょうど百年」の年、著者らは「「東京帝国主義大学解体」そして「東大解体」を掲げていた」。そこでの問題意識は、どんなものだったのか。

(『私の~』p.79) 私たちの立場は、軍の援助を得てまでして進めなければならないほど、研究が価値のあるものではない、ということになります。 

(『私の~』p.79) 科学研究が体制にすっぽり取り込まれている時代に、自身の研究がどのような社会的関連の中で営まれているのかについて反省的な捉え返しを抜きに科学至上主義を語ることは、自己の関心をただひたすら研究業績をあげることに限定することになります。そのような立場での研究費要求運動は、現状肯定・現状追従のうえに研究者としての既得権を擁護することでしかなく、普遍的な価値を持ちえないのです。 

本書『近代日本150年』は、学生時代からの著者の問題意識、まさに「自身の研究がどのような社会的関連の中で営まれているのかについて反省的な捉え返し」を、半世紀越しに行った作業だと読める。

この指摘を、科学技術にコミットしている現代人で直視できる人が何人いるだろうか。もちろん、研究者ではない自分も、科学の体制に寄生した業界で生計を立てているという意味で免れない批判だ。

***

本書や前著が描くのは、どこまでも「失敗まみれ」「嘘まみれ」の科学像だった。でもだからといって、今後の科学技術にまで絶望する必要はないのではないかと個人的には思う。科学の失敗は科学で取り返すしかないのではないかとも思う。また、今は「科学コミュニケーション」「科学社会論」など、科学の在り方の問題を議論する土台が整っている。本書は、半世紀にわたり筋を通した在野の学者による、おそらくもっとも厳しい科学体制批判の書だ。これを受けとめつつ、これからの科学を健全さを目指していく責任が私たちの世代にはあるのだろう。

(『近代日本150年』p.214 )「合理的」であること、「科学的」であることが、それ自体で非人間的な抑圧の道具ともなりうる