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読書メモなど

読書メモ(再掲):知ってるつもり――無知の科学(S. スローマン & P. ファーンバック)

 

知ってるつもり――無知の科学

知ってるつもり――無知の科学

 

ちょうど一年前に読んだ"The Knowledge Illusion"の翻訳。

この本の内容は、今年の日本ではとくにリアリティがあるかもしれません。これからいろいろなところで引用される文献になりそうです。

 

それにしても、推薦者がすごいですね…。

ハラリ、ピンカー、サンスティーンに加えて池谷裕二先生も。(売れないわけがありません。)

 

読書メモを再掲します。

  

***

たしか小学生のころ、「総理大臣ってすごいな」と思っていた。

自分は学校の宿題やら習い事やらで頭がいっぱいなのに、大人というのは自分以外のことにも気を配っている。たとえば通学路のガードレール。これが設置されるまでには、「この道にガードレールが必要だ」と誰かが考えて、製造・設置の段取りを考えたはずだ。そういうことに気を配れる大人ってすごいし、まして日本全体のことに気配りしなければいけない「総理大臣」はよほどの知識と判断力の持ち主なんだろう。総理になるつもりなどない自分も、大人になるまで勉強しなきゃいけないことが山ほどあるな。だいたい、ガードレールってどうやってつくるんだ…。(なぜかガードレールに拘っていた)

大人になってみると、総理大臣もそんなに偉いものではない(むしろ必要とされるのは別種の能力)ということがわかったし、ガードレールの作り方を知らなくても不自由なく暮らせることもわかった。たいして知識は増えていないのに、子供のころの「自分は何も知らない」という感覚は格段に薄まった。

ということを、“The Knowledge Illusion”を読んで思いだした。

The Knowledge Illusion: Why We Never Think Alone

The Knowledge Illusion: Why We Never Think Alone

 

Knowledge illusion(知識の錯覚)とは、自分の知識を過大評価しまう傾向のことだ。2人の認知科学者による本書は、人間の心のなかでknowlegde illusionが生じる理由、それが引き起こす問題、それを踏まえてどうすべきかを論じた一冊となっている。

「自分の知識の過大評価している人」と聞くと、学校の先生や会社の上司の顔が思い浮かぶかもしれない。でも、多かれ少なかれ、誰もが「知識の錯覚」に陥っている。小学生のときの自分からすれば、今の自分は「知識の錯覚」だらけかもしれない。

本書の前半部では、こんな実験を紹介している。まず、被験者に「あなたは○○の仕組みについてどれだけ知っていますが?」という質問をし、1から7までのスコアで答えてもらう。○○に入るのは、「洋服のジッパー」「携帯電話」「ミシン」など。次に、「ではそれを説明してください」とお願いし、そのあとでもう一度「どれくらい知っていますか?」という最初と同じ質問をする。すると、説明を促した後のほうが、申告される理解度のスコアが有意に下がるそうだ。つまり、人はいざ説明しようとしてはじめて自分が知らないことに気づく。この実験を2002年に発表したRozenblitとKeilは、この現象を"illusion of explanatory depth"と名づけている。

どうして私たちは実際以上に知っていると思ってしまうのか。本書では前半の各章でいくつかの理由が示される。

  • 私たちは無自覚に直観的な推論(intuitive reasoning)に頼ってしまうため(4章)
  • 私たちは無自覚に身体知に頼っているため(5章)
  • 私たちは無自覚に他人の知識(communal knowledge)に頼っているため(6章)
  • 私たちは無自覚に、テクノロジーに頼っているため(7章)

中盤では、「知識の錯覚」が問題になる、2つの局面について論じている。

 

  • 「知識の錯覚」は、科学的知識の普及を妨害する(8章)
  • 「知識の錯覚」は、合理的な政治的判断を妨害する(9章)

後者の政治についての章では、"illusion of explanatory depth"を政治的イシューに応用した著者自身の研究を紹介している。それによると、人々は自分が「ある政策の効果を説明できない」と気づくことで、よりマイルドな政治的立場をとるようになることがわかったらしい。これは、昨今の政治的分断を解消するためのヒントにもなりうる結果かもしれない。

最後の2つの章では、こうした「知識の錯覚」があることを前提として、どうしていくべきかについての著者らの考えが述べられている。個人の知識を増やすばかりの教育はいい加減やめて、人と協力する能力を育むべきではないか、という主張には頷けた。

私たちが「知識」と言っているもののうち、自分一人の「脳」のなかにあるのはたかが知れていて、その外側の「身体」「他人」「社会」「技術」に多くを負っている。思ってみれば当たり前のことだが忘れがちなこのことを、「認知科学」の視点で整理してリマインドしてくれる一冊だった。

 

読書メモ:数学セミナー(2018年4月号)…人はなぜ数学するのか?

 

数学セミナー 2018年 04 月号 [雑誌]
 

今回は雑誌の感想です。

数学セミナー』の最新号、特集テーマが「なぜ数学を学ぶのか」。

自分で数学をするよりも「数学する人(とそのモチベーション)」に興味がある私にとっては、たいへん惹かれる特集でした。

なにより、執筆陣が豪華。名だたる数学者だけでなく、数学教育・物理学・数理科学・統計学・物理学といった、「数学を使う」立場の諸分野からもビッグネームが集い、数学への想いを綴っています。

***

「なぜ数学を学ぶのか」というお題なのですが、ややあいまいな問いかけです。聞かれているのが

  • なぜ大学で数学を学ぶのか
  • なぜ小・中・高で数学を学ぶのか

のどちらなのか、つまり問題とされている「数学のレベル」によって答えは変わってくるはずですし、

  • なぜ「私は」数学は数学を学ぶのか
  • なぜ「人々は」数学を学ぶ「べき」なのか

のどちらの問いなのかという問題もあります。

この特集では、あえてそのどれを聞いているのかを限定しておらず、各寄稿者は好き好きに解釈して回答を寄せています。

誰がどんなことを言っているか、簡単に紹介したいと思います。

***

長岡亮介「そう問う君は幸いだ」

トップバッターは長岡亮介氏。今回の特集のなかで、最も広い視点で問いを捉え、包括的に答えているように感じました。長岡氏は、「なぜ学ぶのか」に対して、「常識的な回答」「現代的な回答」「古典的な回答」の、階層の異なる3つの答えを用意しています。

  • 常識的な回答は、数学は「普遍的な言語」であって、「他の領域への応用の可能性」が高い学問だから学ぶに値するのだ、というもの。
  • 現代的回答は、高度に技術化した現代を生きる私たちにとって、「世界の大潮流に飲み込まれてしま」わないために数学の基礎力が必要だから、というもの。
  • 古典的な回答は、数学が古代から「深い教養の鍛錬の舞台」とされており、その意義は現代でも形を変えて存在しているから、というもの。

ただし、冒頭では、「この解答のみが正当であると主張するつもりは、まったくない」と断っています。

「人生とは何か」とか「信念とは何か」、……などは典型的であるが、簡単な正解がたとえ存在しなくても、問い続けること、答えを探し続けることそのものには重要な意味がある。

「なぜ数学を学ぶのか?」――これもそのような問いの一つである。

さながら、本特集を総括するような一節。

こうして「数学をなぜ学ぶのか」を問い続ける態度こそが、数学教育を硬直化させないことにつながるという思いが筆者にはあるようです。

志賀弘典「なぜ数学を学ぶのか? 自問自答」

続く志賀氏は短いエッセイ風の文章。フランスの学習指導要領に「数学的活動とは何かを理解すること」が数学を学ぶ目標の一つとされているのを引きあいに出し、

日本の教育においては、数学という教科を、その学問的手法を内在化して、人の重要な柱にする、という観点はありません。

と言います。それでも、「たかだか150年で、日本の数学研究の水準は世界の最先端に立って」おり、それは数学を「日本的精神」で咀嚼してきた先人たちがいるからだ、というような論旨を展開。「なぜ学ぶのか」への直接的な答えは与えていませんが、「西洋で発祥した数学」という「文化的異物」を自分のなかに取り込みたいというモチベーションが筆者を突き動かしてきたことが窺えます。

竹山美宏「数学科で絶望しないために」

寄稿者のなかでは若手の竹山氏は、日々学生に触れる機会が多いからか、主に大学に入って数学に躓いた学生を想定して書いています。なぜ大学の数学は、高校までとは一変してしまうのか。それは、「具体的な問題を解く」ことから「定義と証明を学ぶ」ことに主眼が変わるから。なぜ「定義と証明」が重要か。それは、数学が正しさを伝達する手段であり、その正しさを支えるのが「定義と証明」だからだ。よく数学は「美しい」とか「役立つ」とか言われるが、まずもって数学は「正しい」から価値があるのだ。私なりに、筆者の「なぜ学ぶのか」への答えを引き出すとしたら、数学は(定義と証明を通して)正しいことを確かめ合う唯一無二のツールだから学ぶ価値があるのだ、となるでしょうか。

原田耕一郎「そこに山があるからだ」

登山好きでもあるらしい原田氏の答えは、端的に「そこに山(=数学)があるからだ」というもの。分数列の無限和があるものは収束し、あるものは無限に発散する例を見せておいて、筆者が数学に対して感じている「畏怖の念」の一端を伝えるエッセイとなっています。

伊庭幸人「データサイエンスを学ぶ理由、もしくはまだ覚醒していないあなたへ」

伊庭氏は主に自身の専門である「データサイエンス(統計学)」について語っています。近年「データサイエンスを学びたい」という人が増えたが、そのほとんどは「ビジネスなどで使いたい」という動機をもっている。しかし筆者はそうした人々とはちょっと距離を置きたい様子です。「役立つから」ではないデータサイエンスへの入門の仕方がある言います。それは、自然科学を真剣にやった末に、どうやら「データの扱い」や「統計」に「本質」があると「覚醒」するというパターンです。統計物理から統計学へ進んだ筆者自身と同様、そうしたルートでもデータサイエンスに入ってきてほしいと筆者は願っているようです。

これが「数学」の話とどうつながるか? データサイエンスが「面白い」と感じるような思考の方向性は、実は「広い意味での数学」なのではないかと言います。

数学の本質のひとつは「抽象化することで、ものごとの本質が理解しやすくなる」という考え方にあると思う。(…)その意味では「ヒストグラムの書き方」のような具体的で身近なことの背後に「データ解析とは何か」「知能とは何か」というような一般的な課題を見るような思考は手法の難易にかかわらず、それ自体が「数学的」といえるのかもしれない

「数学の本質的な良さ」とでもいうようなものがあるとして、それは大学レベルの数学を学ばなくても、統計学などの周辺分野からも触れられるものなのかもしれない。そんな希望を与えてくれる文章でした。

根上生也「数学的人格となれ」

なぜ数学を学ぶか、それは「数学的人格」となるためだ。根上氏の言う「数学的人格」とは「数学を学ぶことで培うことのできる人格」であり、「原理、構造を探究し、意味と価値を理解」し、

 思い込みや勘違いを排するために、お互いの間違いを責めず、みんなで共通の理解を生むように議論していく

ことができるのだそうです。数学的人格は、初等的な数学を学ぶことでも身につけることができ、多くの人が「数学的人格を志向するようになれば、民主主義も次の段階に進める気がする」とさえ言います。

筆者はおそらく、「数学」という場だからこそ、自覚的に極論を言っているのだと思います。それでも、ちょっと言いすぎではないかと感じました。民主主義の合意形成のプロセスには、「数学的な議論」だけでは足りないはず。「定義と証明」では答えの出せない問題がたくさんあるはずだからです。だからこそ、数学以外の様々な学問が知恵を蓄えてきたのではないでしょうか。筆者はそんなこと承知だとは思いますが。

小谷元子「数学はやめられない」

前半では、プロの数学者としての実感を語っています。数学の研究はとにかく「苦しい」。だが、「苦しいなかに本当に稀にではあるが強烈な喜びの瞬間」がある。だから、「数学はやめられない」と言います。

後半では転じて、数学の第3者的意義について述べています。数学を材料科学に応用するための研究機関に勤める筆者は、たびたび数学が思いがけず応用に結び付く経験をしてきたと言い、

しかし、それにしても不思議なほどに、数学が役に立つ

という感想を漏らしています。

甘利俊一「なぜ数学を学ぶのか 数理工学の立場から」

数学者としてではなく、工学のために数学を生かす、「数理工学」の立場から数学に取り組んできた甘利氏。その数学へのスタンスは以下の一節につきていると思います。

数学をなぜ学ぶのか、まさに面白いからである。数学は自由であり、いろいろな可能性がある。数理的に考えることが、人の脳の持つ特質である。数学を学んで本当によかった。

でもそれは「一個人の感想」ですよね? と返したくなる内容ですが、甘利先生に言われると普遍的真理のようにも思えてきます。

安生健一「映像のリアリティとは? CGにとっての数学の役割」

CGを作る際に使われる数学について簡単に解説し、現実をリアルに見せるために数学がなくてはならないツールであることを述べています。

山﨑雅人「論理と抽象のかなたに」

素粒子物理学者として、数学を学び、数学を使ってきた実感を語っています。

直観から出発し、そのことを忘れないこと。しかしその地に安住するのではなく、そこから一歩一歩進んで論理を積み上げ、やがてはその地平線の先に直観を超える世界にたどり着くこと。その地でまた直観と論理をやしない、さらなる旅へと出発していくこと。この絶え間ない営みこそが数学なのではないだろうか。

そうやって論理を積み上げて、高いレベルの直観が獲得される。それが素粒子物理学という、世界の在り方を理解する学問にも役立つのが面白いと思います。

杉原厚吉「数学を勉強するとどんないいことがあるの?」

最後の杉原氏は、おそらく主に中高生あたりに向けて「数学をなぜ勉強するのか」への答えを与えています。それは、とにかく数学が使えるから。ビルをつくるのにも、電気製品をつくるのにも数学が必須。また筆者の専門である「錯視の立体図形」も、その見え方の解析に方程式が使われていることを説明しています。中学や高校の先生が教える以上に数学は使われているんだよ、という内容です。

***

以上、11名の寄稿者の語っている「数学を学ぶ価値」についてざっと見てきました。

その多様なことにあらためて驚きます。

  • 役に立つ
  • 人格を陶冶できる
  • 現代社会を生きるリテラシー
  • 面白い
  • 直観をグレードアップできる
  • 畏怖の念を感じる

今回、「美しい」という観点(cf. G.H. Hardy)を出している人がいなかったのはちょっと興味深いです。

数学ほど、その「価値」の語られ方が多様な学問はないのではないでしょうか。

数学者が、自身が考える数学の良さについて丸ごと1冊を費やして語った本に、Micheal Harrisの"Mathematics without Apologies"があります。

また、数学とは何か、数学者は何をやっているのか、自分が数学に惹かれるのはなぜかを、言語化することで捉えようとした著作として、森田真生さんの『数学する身体』があります。

 

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読書メモ:The Elephant in the Brain(Kevin Simler & Robin Hanson)

 

The Elephant in the Brain: Hidden Motives in Everyday Life

The Elephant in the Brain: Hidden Motives in Everyday Life

 

最近邦訳が出た『全脳エミュレーションの時代』の著者、Robin Hanson氏の新刊。『全脳エミュレーションの時代』は読んでいないが、書店で見かけた印象では相当変わった本だった。

このRobin Hason氏の人物像がいま一つつかめない。社会科学者として大学に籍をおいているようだが、物理学出身だったり、ある時期は人工知能の研究をしたり、またある時期は政府系の未来予測のプロジェクトにかかわったりしている。10年ほど前から"Overcoming Bias"というタイトルのブログを運営し、人工知能、経済、人間心理などあらゆるテーマについてあれこれ書いている。とにかく「規格外の学者」らしいことしか把握できていない。

そのHanson氏が、IT系起業家で社会人大学院生のSimler氏と共に著した本書のテーマは"hidden motive"、つまり、私たち人間の「隠された動機」だ。メインタイトルの"Elephant in the Brain"は、「皆が見て見ぬふりをしている事象」を意味する"the elephant in the room"という慣用句をもじっている。

おおむね次のような主張をしている。

  1. 人々は、表向きの動機のほかに、隠された動機(hidden motive)をもつ。
  2. それは、他人に対して隠されているだけでなく、当の本人にさえ隠されている。
  3. 個々人の行動だけでなく、人間の集団行動や組織も、隠された動機で動いている。
  4. 隠された動機は、それなりに合理的な機能をもっている。

まず、1.だけ取り出せば、「本音と建前」があると言っているのと同じことなので、一般常識にすぎない。2.も、「無意識」として古くから知られたことだ。3.あたりから現代的になってくるが、行動経済学などでは「人々の無意識的なバイアスをどう利用してより良い制度設計をするか」といった議論がおなじみになっているし、4.も「"システム1"にも積極的役割がある」などと言われるように、よく聞く議論ではある。

ということで、この本に何か斬新な内容があるわけではない。著者らが自ら実験や調査をしているわけでもないし、新しい概念を提示しているわけでもない。中身の多くは、著名な進化心理学者、生物学者らの著作を引用・再構成したものとなっている。

そんな、「研究をつまみ食いした自己啓発本」と紙一重ともいえる本なのだが、そう切り捨てることができない、妙な説得力があった。

私自身、「啓発」される部分も少なくなかった。

***

本書で描かれるのは、とことん「穿った人間観」だ。

たとえば、「医療」の章ではこんなことを言っている。アメリカでは、過去何度か医療に関する段規模な社会実験が行われていて、その結果、予想に反して医療費と健康度は相関していないことがわかっているという。つまり、どうやら、人々は必要以上に病院に行ったり、それ以上健康にならないのに、薬を飲んだりしているようなのだ。なぜか? それは「医者(あるいは薬剤師)に診てもらった」という満足感を得るためではないかと著者らは結論する。ここには、「健康になる」という表向きの動機の裏に、「誰かにケアしてもらう」という動機が隠れているというのだ。

あるいは「教育」の章。人が学校に行く表向きの目的は「知識を得るため」だが、隠された目的として「有能であることの証明証書を得る」ことがあるという。

募金するのは「寛大だと他人に思われるため」、高級車を買うのは「人々が高級だと思っているものを所有するため」。一事が万事、本書ではこんな「穿った見方」が何十個も出てくる。

ここまでなら、「人って嘘や不純な動機だらけ」という話なのだが、本書のポイントは、そうした「不純な動機」は当人から隠されていて、しかもそれにはワケがある、というところにある。

その「ワケ」を、著者らは進化心理学的に説明している。

なんとなれば、人間は社会的な動物である。腕力が強い、性的な魅力があるというだけでは繁栄できない。人にとっての「力」は、自分を助けてくれる仲間がいること。そのためには、自分を「有能で役に立つ人」かつ「他人のために動いてくれるいい人」と思わせる必要がある。求められるのは、「利己的な動機で行動しつつ、他人には無私の心を持っていると思わせる」という高度な戦略。そこで人間の脳が編み出した方策とは、まずもって「自らをだます」ことだった! 

自分はピュアな動機で動いていると「自ら信じる」ことで、相手にもそう思ってもらいやすくなる。だから、自分の真の動機と、「隠された動機」の乖離が起こるのだ。

……駆け足に説明すると、著者らの描くストーリーは以上のような感じになる。

どうだろうか? 私は、なかなか説得力があると感じた。

***

穿った人間観」とその「進化論的説明」。

著者らは、学校制度や医療制度などを設計する際に、本書の議論を考慮に入れるのが役に立つと言って、自著の価値を訴えている。個人的には、もっと卑近な「自己啓発」のレベルで、本書のことを覚えておくとちょっと良いことがあるような気がしている。

 

効用1:他人の「不純な動機」に寛容になれること。

生きていると、周りの人に幻滅を味わうことがある。尊敬していた人の、自意識が滲み出たSNSアカウントを見つけてしまった。結局、あの人も、自分がかわいい人だったのか、がっかりだ――そんなとき、本書の「人間観」を思い出そう。どんな素敵な人にも「隠れた動機」があるのは普通のことであって、その人の心が「実は汚かった」ということにはならない。人間の本性なのだから、仕方ないのだ。そう思うことで、無駄に落ち込むことを避けられるかもしれない。

 

効用2:自分の「心の汚さ」に折り合いをつけられること。

生きていると、他人に幻滅する以上に、自分自身に嫌気がさすことがある。自分の動機の「ピュアさ」を疑い始めると、止まらなくなる。どこまでも自分が卑しい人間に思えてくる。そのときも、本書の人間観が抗生剤になってくれるかもしれない。人間の本性なのだから、仕方ないのだ。動機など、いくらでも後から都合よく繕って、生きていけばいいではないか。

 

…私が本の感想をブログに書く理由は、後からその本の内容を思い出しやすくするためです。決して、ブログのアクセス数が増えるのを見て快感を得るためではありません。

読書メモ:Enlightenment Now (Steven Pinker)

 

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress

 

昨年から出る出ると話題になっていた、スティーブン・ピンカーの新刊。

ここで紹介するまでもなく書評はあちこちで出る/出ていると思うし、ものすごく盛りだくさんな本なので、内容を網羅した読書メモを書くのは難しい。

印象だけ、簡単に書いておこう。

***

まず、ピンカーとはどんな人なのか?

言語学者で認知科学者。なぜかノーム・チョムスキーのお弟子さんだと思い込んでいたのだが、ウィキペディアを確認すると「チョムスキーに深く影響を受けた」とだけある。

多くのベストセラーの著者として知られる。“The Language Instinct”(『言語を生みだす本能』)、“The Stuff of Thought”(『思考する言語』)などの著作では、一貫して「人間とは何か」(=human nature)をテーマとしてきた。学生のころ、私も何冊かのピンカー本を読んだが、深いテーマを軽妙に、下世話な話題を高尚に、というユニークな書きぶりで、とにかく面白かった。アカデミックな内容を、学者らしく上品に、なおかつエンターテイニングに伝えることのできる、唯一無二の書き手だ。

2011年の著作、“The Better Angels of our Nature”(『暴力の人類史』)あたりから、少しずつ趣向が変わってくる。専門の言語学認知科学のテーマから離れ、現代社会を論じるようになる。言語や心が「どうなっているか」という科学の啓蒙から、「どう考えるべきか」という価値の啓蒙に、軸足を移しているように見える。

***

本書で、ピンカーがコミットしている価値とは、“Enlightenment ideal”(啓蒙思想の理念)である。啓蒙思想とは何かについて、本書ではいろんな言い方をしているが、たとえばそれは

that we can apply reason and sympathy to enhance human flourishing

人間は、理性と共感力を培うことで繁栄できる

という考え方だという。

啓蒙思想の理念の三本柱として、著者は以下を挙げる。

  1. 理性
  2. 科学
  3. ヒューマニズム

この三つが人間が幸せに生きるのに必要だというのは、一見、当たり前すぎるように思える。しかし、ピンカーに言わせれば、いまこれらの理念が、“whole hearted defense”(誠心誠意の擁護)を必要としている。

Enlightenment ideals, I hope to show, are timeless, but they have never been more relevant than they are right now. (Preface)

誰からの(何からの)擁護か。

もちろん、トランプ大統領に象徴される、ポピュリズム的な知性への軽視もある。だがそれ以上に、文系の知識人の間でも、「啓蒙思想の理念」は軽視されているという。

Intellectual magazines regularly denounce “scientism,” the intrusion of science into the territory of the humanities such as politics and the arts

(…)Science is commonly blamed for racism, imperialism, world wars, and the Holocaust . (Ch.3)

「安易な科学万能主義」を批判するあまり、「科学が世界をよくする」という考え方自体が否定されてしまっているという問題意識だ。

もちろん、こういうことを言ったのはピンカーが最初ではない。1959年、C. P. スノーは、有名な講演のなかで、科学者と文系知識人の間の断絶を問題にしている。

われわれの二つの文化のギャップをなくすることは、もっとも実際的な意味からも、もっとも抽象的、知的な意味からも、必要欠くべからざることである。この二つのものが離れてしまっているようであっては、いかなる社会も知恵をつかってものを考えていくことができないようになるであろう。知的生活のため、わが国の固有の危機のため、貧しい人たちに囲まれて不安におびえながら富んだ生活をしている西欧社会のため、世界中がもの解りよくなれば貧乏でいる必要もなくなる貧しい人々のため、われわれ、アメリカ人、全西欧人が教育というものを新鮮な眼で眺めることは義務である。—―C.P. スノー『二つの文化と科学革命』(みすず書房、p.51)

本書のなかでも、このスノーの議論は何度も引用されている。でも、スノーの議論は第二の文化(=文系)からは大変評判が悪かった。私自身、すぐさま

  • 「理性と科学が世界を良くする」なんてナイーブすぎるのでは?
  • 自分たちの価値観で人々を「啓蒙」しようだなんて、思い上がりでは?

というようなツッコミが思いつく。

***

スノーの講演から約60年後、ピンカーは再度「科学的知識が世界を良くする」という主張をしようとしている。しかし、その戦略が、大幅にアップデートされている。ピンカーの戦略とは、「科学的知識が世界を良くしているという証拠を、逐一見せていく」というものだ。

本書の最後の第3部(第21~23章)では、「理性」「科学」「ヒューマニズム」をそれぞれ擁護しているのだが、本書のページの大部分は、「世界は良くなっている」ことの証明をした第2部に充てられている。

***

世界は進歩(progress)している。

そのことを、ここ数十~百年のトレンド示す様々なデータを示しながら、例証していく。

まずは、寿命が伸び(5章)、病気も減り(6章)、飢餓は減り(7章)、富は増大し(8章)、絶対的な貧困は減少し(9章)、戦争が減り(11章)、災害で死ぬ人が減り(12章)、民主主義は広がった(14章)。

さらに、人々に心配を与えている格差の拡大(9章)、環境問題(10章)、テロリズム(13章)、核戦争などの実存的脅威(19章)についても、言われているほど悲観すべきでないという議論が展開される。

ここまで聞くと、こう言いたくなるのが現代人だろう。「物質的に豊かになったとしても、それが犠牲にしてきたものはないのか?」。

こうした紋切り型の疑問についても、著者は回答を用意している。余暇の時間など、QOLに関連するいくつかの指標はいずれも上がっており(17章)、幸福度も上がっており(18章)、人権意識は高まっている(15章)。

この第2部の冒頭には、オバマ大統領の言葉が引用されている。

If you had to choose a moment in history to be born  and you did not know ahead of time who you would be — you didn’t know whether you were going to be born into a wealthy family or a poor family, what country you’d be born in , whether you were going to be a man or a woman — if you had to choose blindly what moment you’d want to be born, you’d choose now . — Barack Obama 2016

ざっくりと言えば「平均的に見れば、現代が一番生きやすい時代だ」というメッセージだ。それが本当であることを、著者は豊富な情報量で立証してみせたことになる。こんなに多くの分野で、データを持ってきて議論を組み立てる力量(体力)は、すごいとしか言いようがない。

ただし、個別の議論に対しては、いろいろとツッコミどころはあるのかもしれない。個人的に気になったのは、環境問題の章で原発を推進している箇所だった。炭素排出や事故のリスクなどを総合的に考えたとき、原発は合理的な選択肢だと著者は結論づけていたが、福島原発事故とその後についてもう少し身近に知っている身としては、「環境負荷や経済合理性の側面に限っても、原発は合理的と言えるのだろうか? ディテールの考察が足りないのではないか?」と思えた。他の章でも、同様の「詰めの甘さ」が指摘される余地があるのかもしれない。

***

細かいところでの批判とは別に、21世紀に「啓蒙思想」や「進歩」を謳うスタンスそのものも、拒否感を引き起こしそうだ。しかしピンカーさんは敢えて、本能的反発を引き起こすような仕方で、高らかに「啓蒙思想」を打ち出している。それは、時代が「C. P. スノー」的な常識から、離れすぎているという現状認識からきているようだ。

悲観論/楽観論、科学賛美/科学批判などについて、どの立ち位置から発現するかは、「世間の空気」をどう捉えているかによるだろう。

たとえば、科学の評価。ピンカーさんはこう書く。

Science cannot be blamed for genocide and war, and does not threaten the moral and spiritual health of our nation. On the contrary, science is indispensable in all areas of human concern, including politics, the arts, and the search for meaning, purpose, and morality. (Ch.22)

一方、今年1月に出た岩波新書のなかで、科学史家の山本義隆氏はこう書く。

「合理的」であること、「科学的」であることが、それ自体で非人間的な抑圧の道具ともなりうる――山本義隆『日本近代一五〇年』p.214

前者は「科学は不当に悪者にされている」と感じ、後者は「科学は不当に持ち上げられている」と感じているからこそ、こういう書き方になるのだろう。けれども、よくよく考えてみれば、両者が言っていることは矛盾しない。「科学は良い価値観と組み合わされば、良い結果を生む」という形で、整合する。

ピンカーさんの感覚では、一般人も、知識人も、啓蒙思想的な常識を否定する方向に傾きすぎている。だからこそ、こんな本を書いたのだろうと思うし、自分の考え方(小学生の頃からなぜかもっていた「世界に対する根拠のない悲観」のようなもの)もかなり改めさせられた。

***

最後に、ピンカーは本書でとりわけ「ニーチェの悪影響」に言及しているのが目につく。

 Finally, drop the Nietzsche . His ideas may seem edgy, authentic, baaad, while humanism seems sappy, unhip, uncool. But what’s so funny about peace, love, and understanding? (Ch.23)

ニーチェはそんなに悪いのか?と思って、かつて読んだ本を引っ張り出してきたら、冒頭にこんな一節があった。

 ニーチェは世の中の、とりわけそれをよくするための、役には立たない。どんな意味でも役に立たない。だから、そこにはいかなる世の中的な価値もない。そのことが彼を、稀に見るほど偉大に哲学者にしていると、と私は思う。――永井均『これがニーチェだ』

***

もう一つだけ気になったこと。本書では、ユヴァル・ハラリ氏の「ヒューマニズムはDataismによって切り崩される」という議論への言及がなかった。本書のヒューマニズム擁護のうえでも、ハラリ氏の「Dataismの浸食」は有効な論点だと思う。著者の考え方を聞いてみたいと思った。

読書メモ:工学部ヒラノ教授の終活大作戦(今野浩 著)

 

工学部ヒラノ教授の終活大作戦

工学部ヒラノ教授の終活大作戦

 

2013年に『工学部ヒラノ名誉教授の告白』を読んだとき、私は少し焦った。いつものようにユーモアたっぷりの筆致ながら、この本では初めて、ヒラノ教授(=著者)が人生の終わりを意識しているのが感じられたからだ。奥さんを看取り、研究も定年退職した著者にとって、『名誉教授の告白』にはもう続きはないのかもしれないと思った。

しかし、まったくそんなことはなかった。それ以降も、年に複数冊のペースでヒラノ教授シリーズは出続けたのだ。

そのいくつかは、このブログでも追いかけてきた:

読書メモ:工学部ヒラノ教授と昭和のスーパー・エンジニア - rmaruy_blog

読書メモ:工学部ヒラノ教授の介護日誌 - rmaruy_blog

読書メモ:工学部ヒラノ教授とおもいでの弁当箱(今野浩 著) - rmaruy_blog

読書メモ:工学部ヒラノ教授の中央大学奮戦記(今野浩 著) - rmaruy_blog

読書メモ:工学部ヒラノ教授のはじまりの場所(今野浩 著) - rmaruy_blog

著者は定年後、未発表のものも含めて22冊分の原稿を書いたそうだ。いろんな意味で異常だと思う。工学研究者が著述業に転身すること自体珍しいと思うが、それをおいておいても、このペースの速さは普通じゃない。そもそも、自叙伝的エッセイを10数冊も出した人がいるものだろうか。書いたとしても商業出版できないはずで、それができてしまうのは、それが毎度面白いからだ。そして、それを待っている(私のような)読者がいるからだ。

しかし、今度こそ(!)これで最後だという。テーマは「終活」。77歳、単身高齢者になって久しい著者が、どんな心構えで死を捉え、日々を過ごしているかが綴られている。

類書との差別化を図るため、これまでのヒラノ教授シリーズと同様、“具体的、定量的、かつ赤裸々”に記述するように心掛けた。 p.20

著者が目指すのは「二人称の望ましい死、すなわち、家族や親しい友人に対して迷惑をかけない、もしくは恥ずかしくない死」だという。「二人称」というのは、養老孟司氏の「死には一,二,三人称の3種類がある」という議論を引いたものだ。

この点から見ると、PPKは必ずしも望ましい死に方とは言えない。なぜなら、多くの未処理問題や大きな負債を残して突然死ぬと、残された家族が大迷惑するからである。 p.20

そのために、かつての数理工学の第一人者らしく緻密に計画を構築し、ときに失敗もしつつ、奮闘していく様が描かれる。

身辺整理、息子夫婦と同居しない理由、健康管理、相続の計画など、「終活本」の標準的であろうトピックをカバーしつつ、ヒラノ教授の現役時代の定番エピソードも挟まれている。家族とのつらいエピソードや、かつて抱いたという自殺願望についてなど、ドキッとする記述もある。90%のユーモアのなかに、10%の死への不安や一人暮らしの孤独感といった本音が滲み出ている、そんなバランスに感じられた。

著者と同年代の方が読んだら、共感したり、参考になったりする部分も多いのかもしれない。30歳の私は「終活」はまだリアルにイメージできないが、著者の半分でも、1/4でも、幸せな老後になればいいなと願う。そのためには、自分が「二人称の望ましい死」を目指せるような誰かがいてくれる必要があるし、著者のそれこそ百分の一でいいので、振りかえって語れる物語のある人生を生きねばと思う。

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先に「本書で最後」と書いたが、最後なのはヒラノ教授シリーズの新原稿執筆であって、これからも未発表原稿を(「関係者が死に絶えてから」)出すかもしれないそうだ。それに加えて、初となるフィクション作品を準備中だという。もと工学部教授の、鮮烈な小説家デビューが楽しみでしかたない。

読書メモ:近代日本150年―科学技術総力戦体制の破綻(山本義隆 著)

 

 

今年は、明治維新から150年目だという。
言われてみれば、という感じだ。

150年というと、人生2回分くらいだろうか。明治という言葉からイメージするほど昔でもないようで、不思議な感覚を覚える。しかし、その間の技術や産業の発展を考えると、電気もガスも何もないところから、今の日本までたどりついたのだからすごい。

山本義隆氏の新刊『近代日本150年――科学技術総力戦体制の破綻』は、その150年の日本の科学技術の歴史をたどった一冊だ。当時の科学者の発言などを一次資料から引きつつ、最近の歴史学者科学史家・ジャーナリストの分析も多く引用しながら、著者なりの「近代日本の科学技術史」を描いている。

ただし、著者の経歴を知る人ならおそらく想像できるように、そのトーンは極めて批判的なものとなっている。たとえば、「おわりに」には次のような一節がある。

増殖炉開発計画の事実上の破綻と、福島第一原発の事故は、科学技術の限界を象徴し、幕末・明治以来の150年にわたって日本を支配してきた科学技術幻想の終焉を示している。 

原発に限らず、本書では科学技術に対する批判的視線が貫かれている。著者の言う科学技術の「限界」や「幻想」は、150年間のすべての時期に存在している。

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明治の日本がいかに欧米の科学を取り込んだかというところから本書は始まる(第1~2章)。それは、福沢諭吉ら「幕末に欧米社会を直接見聞きした武士たち」によってなされた。彼は、軍事や経済における科学技術の威力を痛感し、科学の導入を急ぐ。そこでは、科学はつねに技術とセットだった。

(p.35)かくして明治期の日本では、科学は技術のための補助学として学ばれたのであり、今日にいたるまでの日本の科学教育は、世界観・自然観の涵養よりも、実用性に大きな比重をおいて遂行されることになった。 

1871年には技術者の養成機関「工部大学校」ができ、のちに東京大学と併合され1885年には「帝国大学工科大学」が設立される。明治維新からたった18年で、工学の高等教育を行う体制が整ったことになる。また、1886年建築学会、翌年には電気学会、1897年の機械学会と、国内に工学の研究コミュニティが次々とでき、それと合わせて産業も急速に発展する。鉄道・通信網、製糸業・紡績業。そして「欧米にくらべてせいぜい20年の遅れ」でなされた電気エネルギーの実用化。しかしその急速な工業化が、犠牲にしたものもある。たとえば、機械化がもたらした過重労働の問題。

(p.81-82)明治期における製紙業、そして日本の産業革命を代表する紡績業は、少なくとも明治の後期には、ともに「ウルトラ・ブラック企業」であった。(…)紡績業において若年女子による労働を可能にしたのがリング精紡機であったとすれば、労働時間の夜間への延長と昼夜二交代制を可能にしたのは、電燈の発明であった。(…)機械化は、それだけではけっして人間の労働を軽減させるものではないのである。 

また、足尾銅山鉱毒事件など、公害問題も発生している。働き方に無理が出たり、大規模な環境破壊が起こったりしても、日本を強くするためだから我慢すべきという考えがまかり通った。しかし、これは明治期だけのものではないと著者は言う。

(p.87)官民挙げての「国益」追求のためには、少数者の犠牲はやむをえないというこの論理は、その後、今日にいたるまで、水俣で、三里塚で、沖縄で、そして日本各地で、幾度も繰り返され、弱者の犠牲を生み出してきたのである。 

第3~4章では、戦前から戦中にかけての帝国主義と科学の関係が描かれる。地球物理学者による測量が戦場の調査の意味合いをもったことなどに代表されるように、科学者の研究は軍事に密接に結びついていた。

(p.118)帝国大学の理念が国家第一主義と実用主義とあっても、民間に先端産業の存在しない時代にあっては、そして軍事技術でいちはやく近代化をめざした日本では、その実用主義の協力対象はさしあたって軍ということになる。 

第一次世界大戦が勃発すると、いよいよ国による「科学動員」が始まる。1917年の理化学研究所設立もその一環だった。「日本の近代化学工業は、軍による火薬・爆薬の自給化政策から始まった」のであり、「結局、日本では自動車産業も航空機産業も、ともに兵器産業として育成された」。また、大規模な化学工場や発電所を朝鮮の植民地に設置されたことに触れ、「エネルギー革命による最新化学工業の発展は、植民地の資源と労働力の収奪に支えられていたのである」という。

当の科学者たちは、軍事に動員されることに対してどう抵抗したか。彼らは抵抗しなかった。むしろ科学技術振興は「科学者サイドから強く主張」され、その法整備に「多くの科学者が好意的だった」。

(p.189)大部分の理工系の学者は、研究費が潤沢であるかぎりで、科学動員による戦時下の科学技術ブームに満足していたのであった。 

小倉金之助という一人の数学史研究者を取り上げている。小倉は、戦前の科学が軍事に偏重していること、学者たちが狭い専門領域に囚われていることを批判し、「自然科学者に、反知性主義・反文化主義への抵抗を訴え」た。科学的精神の体現した、良識的な学者のように聞こえる。しかし、小倉のような研究者が、むしろ総動員体制を「科学研究の合理化」を進めるものとして歓迎していた。ここから著者は、科学精神だけでは「ファシズムと闘えない」という結論を下す。

(p.186)〔小倉たちは〕総動員体制にむけての研究体制の軍による上からの統制――全体主義的な国家統制を、封建的な人間関係や官僚主義として非合理的な学閥の類のものが力をもつ日本の学問世界の近代化を促進するものと肯定的に捉え、ファシズムへの協力を積極的に呼びかけたのである。…これは転向ではないし、偽装転向ですらない。 

(p.194) 後進資本主義国としての封建性の残滓や、右翼国粋主義者反知性主義による非合理にたいして、近代化と科学的合理性を対置し、社会全体の生産力の高度化にむけて科学研究の発展を第一義に置くかぎり、総力戦・科学戦にむけた軍と官僚による上からの近代化・合理化の攻勢にたいしては抵抗する論理を持ち合わせず、管理と統制に飲み込まれていったのである。 

第6章で時代は下って「戦後」になる。科学史家・広重徹は、70年代の『科学の社会史』において、戦後の科学研究体制は敗戦を機にゼロから再スタートしたのではなく、むしろ戦前からの延長線上にあると指摘した。その見方を著者も踏襲する。科学者はどう戦争を総括したかといえば、科学技術が不足していたから戦争に負けたという感想が多かった。先の小倉金之助の言葉が引用されている:「今日わが日本が民主主義的文化国家を建設するためには、科学の振興を絶対に必要とする」。今度は民主主義のために、科学が称揚されている。

高度成長を可能にした科学技術政策は、「戦後版の総力戦」だった。自動車や家電メーカーの躍進のイメージがあるが、その背後にも、朝鮮戦争ベトナム戦争の特需で各メーカーが潤ったという現実がある。

(p.220)ふたたび日本は、アジアの人たちを踏み台にして大国への道を歩んだのである。

水俣病などの公害問題においては、権威をもつ科学者たちが、企業サイドに都合の良い「対立説」を出して、被害者サイドの告発が相対化されてしまうということが繰り返されてきた。

(p.239)明治以来、国策大学として創られた帝国大学の学問は、多くの場合「専門家」の発する「科学的見解」として権威づけられることで、国家と大企業に奉仕してきたのである 

現在はどうか。いま、日本政府と財界が画策している「軍需生産の拡大と武器輸出」に注意を促す。軍事で経済を活性化することには、人道的な理由とは別に、明確な問題があると指摘する。

(p.251)軍需製品以外のものは、電気製品にしても自動車にしても、すべて何らかのかたちで消費生活か、あるいは再生産に役立つ。しかし軍需製品だけは、消費生活に資するものでもなければ、かといって再生産に資するものでもなく、地球規模で考えるならば単なる資源の浪費、それもおびただしい浪費である。

原発の話題は第7章にて別建てで論じてられている。通産省の主導で70年代から着々と増えていった原子炉だが、その技術には、労働者の被ばく・環境汚染の問題・使用済み燃料といった、「通常の商品では、これどれひとつがあっても、市場には出しえない」ような問題が残されている。そして、2011年の福島原発事故、2016年のもんじゅ廃炉決定、2017年の東芝原発事業の失敗による主力部門売却などの事象をうけ、「経済成長の強迫観念にとらわれた戦後の総力戦の破綻である」と総括する。

(p.287)福島の事故は、明治以来、「富国強兵」から「大東亜共栄圏」をへて戦後の「国際競争」にいたるまで一貫して国家目的として語られてきた「国富」の概念の、根本的な転換を迫っているのである。

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以上、本書の内容をざっと見てきた。科学技術が、相当ネガティブに書かれていることがわかると思う。明示的には書かれていないが、本書に背後には、著者自身の科学者や科学コミュニティに対する怒りがあると感じられる。その中身は、3年前の著作『私の1960年代』を合わせて読むとよくわかる。最後に少しだけ『私の1960年代』からも引用しておきたい。

今からちょうど50年前の1960年代。当時、20代の著者は何をしていたかと言えば、東大全共闘の代表として闘っていた。たとえば、物理学会の費用の一部が米軍から出ていたにもかかわらずそれが隠されていたという事件に際して、署名運動をしたりしている。さらに、1968年、「明治維新からちょうど百年」の年、著者らは「「東京帝国主義大学解体」そして「東大解体」を掲げていた」。そこでの問題意識は、どんなものだったのか。

(『私の~』p.79) 私たちの立場は、軍の援助を得てまでして進めなければならないほど、研究が価値のあるものではない、ということになります。 

(『私の~』p.79) 科学研究が体制にすっぽり取り込まれている時代に、自身の研究がどのような社会的関連の中で営まれているのかについて反省的な捉え返しを抜きに科学至上主義を語ることは、自己の関心をただひたすら研究業績をあげることに限定することになります。そのような立場での研究費要求運動は、現状肯定・現状追従のうえに研究者としての既得権を擁護することでしかなく、普遍的な価値を持ちえないのです。 

本書『近代日本150年』は、学生時代からの著者の問題意識、まさに「自身の研究がどのような社会的関連の中で営まれているのかについて反省的な捉え返し」を、半世紀越しに行った作業だと読める。

この指摘を、科学技術にコミットしている現代人で直視できる人が何人いるだろうか。もちろん、研究者ではない自分も、科学の体制に寄生した業界で生計を立てているという意味で免れない批判だ。

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本書や前著が描くのは、どこまでも「失敗まみれ」「嘘まみれ」の科学像だった。でもだからといって、今後の科学技術にまで絶望する必要はないのではないかと個人的には思う。科学の失敗は科学で取り返すしかないのではないかとも思う。また、今は「科学コミュニケーション」「科学社会論」など、科学の在り方の問題を議論する土台が整っている。本書は、半世紀にわたり筋を通した在野の学者による、おそらくもっとも厳しい科学体制批判の書だ。これを受けとめつつ、これからの科学を健全さを目指していく責任が私たちの世代にはあるのだろう。

(『近代日本150年』p.214 )「合理的」であること、「科学的」であることが、それ自体で非人間的な抑圧の道具ともなりうる

読書メモ:Altered Traits(Daniel Goleman & Richard Davidson)…「瞑想の脳科学」はどこまできたか

 

Altered Traits: Science Reveals How Meditation Changes Your Mind, Brain, and Body

Altered Traits: Science Reveals How Meditation Changes Your Mind, Brain, and Body

 

瞑想の科学的研究の第一人者らが、瞑想研究の歴史と最先端を概説した本。

著者らのプロフィールから言って、今後数年以内に出される「瞑想の科学」の本のなかでは決定版になるだろう。

いまでは脳科学の一大トピックとなった「瞑想」あるいは「マインドフルネス」だが、2016年の論文数は1113本にも上ったそうだ。しかし、著者ら研究を始めたばかりの1970年代には、瞑想はまだ科学研究の対象とは見られていなかった。

著者のGolemanとDavidsonは、ともに心理学者としてキャリアをスタートしている。瞑想へ関心をもち、学生のころから度々インドにわたっていわゆる「リトリート」を経験している(ちかごろ読む本の著者の多くが瞑想リトリートを経験しているのに驚く)。心理学者として瞑想の効果を検証しようと志すが、当時は周りの理解が得られず、とくに年長のGolemanは研究生活を中断したりもしている(彼は科学ライターになり、著書『EQ こころの知能指数』などで大ブレイクする)。

著者らが行った初期の研究は、瞑想中の人の心拍や発汗量を調べるというものだった。「ストレスが軽減されている」ことを示す結果は出たものの、今から思うと再現性などの面で問題が多かったと著者らは振り返っている。しかし、やがてEEGfMRIなど脳を測定する道具が発明されるにつれ、確固たる結果が得られるようになってくる。瞑想にはストレス軽減、他者への思いやりの増大、集中力向上などの効果があると言われているが、それを説明するような脳の変化が多く見つかっていく。本書では章ごとに、「ストレス」「共感」「注意」「自己」「痛み」「精神疾患」といった瞑想との関連が知られるテーマを取り上げ、これまでに知られている知見を紹介している。

本書の特色となっているのが、「瞑想する人の熟練度」を重視する点だ。著者らは瞑想の熟練度を生涯での瞑想の実践時間で測るのだが、たとえば1000時間、10000時間、60000時間の瞑想家では、脳に現れる効果が、安静時・瞑想時ともに大きく違うのだという。有意な結果が出ていないように見える実験でも、実践歴を考慮に入れると有意差が出たりするのだそうだ。

数時間だけ瞑想した人から60000時間の瞑想歴をもつ熟練ヨギの脳まで、段階的な変化がある。このことからかるのは、脳と心はどこまでも変えていけるということだ。脳のとある部位の大きさといった構造的特徴から、特定の波長の脳波(注意を集中しているときに出るガンマ波など)の増強といった機能的特徴まで、瞑想を実践すればするほど脳は変化していく。これまで多くの脳研究では、瞑想や薬物などに対して脳がその「瞬間」にどう状態を変えるか、つまり脳の「変性状態(altered state)」に注目してきたが、本当に重要なのはその変化がいかに定着するか、つまりの習性がどう変わるか(altered trait)なのだ。これが、本書のタイトルにも込められたメインメッセージとなっている。

なお、著者らは世界有数の瞑想スキルをもつヨギたちをアメリカのラボに連れてきて測定を行っている。そんなことができたのは、著者2名が瞑想の実践者であり、ヨギたちとの人脈をもっていたからだ。それにも増して大きかったのが、ダライ・ラマ14世の存在だという。ダライ・ラマは、1980年代に生物学者フランシスコ・ヴァレラらとともにMind and Life Instituteという研究機関を設立し、瞑想の科学的研究を促した。そのときの設立メンバーに、著者2人も入ったいたそうだ。

いまや瞑想は一大ブームとなり、「瞑想アプリ」もたくさん出ているほどだ(私も先日Googleのアプリをスマホに入れてみた)。このブームのおおもとに、瞑想に関心をもつ西洋の科学者と、科学に関心をもつ東洋の瞑想家の出会いがあったとは面白い。瞑想ブームの源流を知る実録としても読みごたえのある一冊だった。

文献メモ:ディープラーニングを人間の学習に近づける(Lake et al. 2017を読んで)

論文を一つ紹介します。

Lake, Brenden M., et al. "Building machines that learn and think like people." Behavioral and Brain Sciences 40 (2017). https://cims.nyu.edu/~brenden/LakeEtAl2017BBS.pdf

ニューヨーク大学のBrenden Lake、MITのJoshua Tenenbaumらによる総説論文です。

AI研究の現状と今後進むべき方向をうまくまとめていると感じたため、お正月休みに時間をとって読んでみました。ここ数日「2018年のAI研究のトレンド」のような記事がいろいろと出ていますが、この論文も頭を整理するためにはなかなか良い文献ではないかと思います。

ディープラーニング認知科学

この論文で著者らは、現状のディープラーニングを主としたAI技術に不足している点を指摘し、それを克服するための道筋を提案しています。中心となるのは、「認知科学、とくに発達途上の子供の心理学を参照すべきである」という主張です。

大事だと思ったポイントを拾ってみます:

  • 今のAIに足りないのは「少ないデータ」での「フレキシブル」な学習
  • 人間にそれができるのは、豊富な事前知識(rich prior)を持っているから
  • 神経科学的妥当性より、認知科学的妥当性が大事
  • 「予測=パターン認識」から「説明=モデル構築」としての学習へ

論文にはこれ以外のことも書かれていますし、上記4点もこの順番で論旨が組み立てられているるわけではないのですが、以下では私なりに、この4点に沿って内容(の一部)を紹介したいと思います。

「少ないデータ」での「フレキシブル」な学習ができない

著者らは、近年AI技術が大きく進展していること、その中心にはディープニューラルネットの成功があることを認めています。たとえば、手書き文字の画像データセットMNISTの認識でconvolutional neural netが既存手法だけでなく人間の識別精度も凌駕したこと(Ciresan, Meier, & Schmidhuber, 2012)、deep Q-network(DQN)によりアーケードゲームを人間のエキスパート並みにプレイできるようになったこと (V. Mnih et al., 2015)などに触れています。

しかし、人間の学習に大きく及ばない点もあります。

When comparing people and the current best algorithms in AI and machine learning, people learn from less data and generalize in richer and more flexible ways.(§6)

一つは学習に必要なデータ数が膨大なこと。たとえばDQNアーケードゲーム学習では、人間のエキスパートの500倍のプレイ回数が必要だそうです。またAlphaGoにしても、3000万回の自己対局をしているのに、人間のチャンピオンは生涯でせいぜい5万対局しか経験していないだろうという対比をしています。

もう一つは、機械学習には人間の学習のようなフレキシビリティがないこと。人間の棋士であれば、たとえば囲碁の碁盤のサイズが変わってもすぐに対応できます。あるいはアーケードゲームのルールやゴールが変更されても(たとえば、ゴールが「スコアを最大化する」から「アイテムを多く取る」に変わるなど)、人間のプレイヤーは問題なく適応できます。一方、シンプルなディープラーニング(本論文の言葉では"generic deep learning")では、一からデータセットを用意して学習し直さなければいけません。

人間がもつ「豊富な事前知識」

なぜ人間は少ないデータからフレキシブルな学習ができるのか? それは「ゼロから(from scratch)」の学習ではないからです。

People never start completely from scratch, or even close to “from scratch,” and that is the secret to their success. The challenge of building models of human learning and thinking then becomes: How do we bring to bear rich prior knowledge to learn new tasks and solve new problems so quickly? 

人間は新しい学習をするさいにすでに「豊富な事前知識(rich prior)」を持っている。なので、今後のAI研究の課題は、それが「人間に近づく」ことを目指すならば、その「豊富な事前知識」を特定し、いかに機械学習アルゴリズムに組み込むか、ということになります。

神経科学的妥当性より、認知科学的妥当性

「現実の人間について分かっていること」を、AIに積極的に組み込む必要がある。一つの方向性としては、生物の「脳」の構造や生理現象を真似ることが考えられます。実際、脳科学とAIを融合する研究は盛んになされています*1。しかしそのための脳科学のデータは限られており、神経科学的妥当性を追求するのはまだ早いというのが本論文の立場です。 

Unfortunately, what we “know” about the brain is not all that clear-cut. (...) In the long run, we are optimistic that neuroscience will eventually place more constraints on theories of intelligence. For now, we believe cognitive plausibility offers a surer foundation. (§5)

むしろ、いま追求すべきは認知科学に照らした妥当性(cognitive plausiblity)であると言います。

したがって、本論文での「豊富な事前知識(rich prior)」は、脳の解剖学や生理学上の制約ではなく、人間がもっている文字通りの「知識」を指すことになり、これを「人間知能の核となる要素(core ingredients of human intelligence)」と呼んでいます。

それはどんなものか? 言葉だけ列挙します。

まずは人間が幼少期からもっている、世界に関する知識の枠組み。著者らは「スタートアップ・ソフトウェア」(Developmental start-up software)と呼んでいます。

  • 直観的物理学(intuitive physics)…ものの動きや性質などに関する知識
  • 直観的心理学(intuitive psychology)…他人の行動の意図などに関する知識

また、速い学習を可能にする枠組みとして下記を挙げています:

  • 因果モデル(causal model)…「ああなれば、こうなる」というように、因果律に当てはめて理解する
  • 分割可能性(compositionality)…部分に分けて理解する
  • 学習の仕方を学習する(learning to learn)…他の学習にも流用できるような表現を学習する

これらは認知科学(心理学)の分野で研究されてきたテーマであり、これらを取り入れていくことで、機械学習、とりわけディープラーニングが人間の学習に近づくだろうと言います。実際、すでにこうした考え方で行われている研究は多数あるようで、論文内で列挙されています。

「予測=パターン認識」から「発見=モデル構築」としての学習へ

まっさらのニューラルネットの学習から、事前知識を与えた状態からの学習へ。こう聞くと「それはそうだよな」という気もするのですが、本論文ではこれにもう少し大きな意味を与えています。

それが、学習の捉え方を「予測=パターン認識」から「説明=モデル構築」に転換しよう、という主張です。

The statistical pattern recognition approach treats prediction as primary, usually in the context of a specific classification, regression, or control task. (...) The alternative approach treats models of the world as primary, where learning is the process of model-building. (...) The difference between pattern recognition and model-building, between prediction and explanation, is central to our view of human intelligence. (§1)

膨大なデータから何らかの「パターン」を学習し、新しいデータの属性を「予測」する。多くの機械学習がその考え方でなされてきたのに対し、人間の学習はそういうものじゃないだろう、と著者らは言います。むしろ、人間の学習とは、経験を重ねることによって「世界がどうなっているか」を理解する、つまり「モデルをつくる」ことにあるだろうということです。少ないデータから汎用的な学習を可能にするためにも、「パターン認識」から「モデルの学習へ」という発想の転換を促しています。

この方向を突き詰めたのが、著者らの2015年の研究です。

Lake, Brenden M., Ruslan Salakhutdinov, and Joshua B. Tenenbaum. "Human-level concept learning through probabilistic program induction." Science 350.6266 (2015): 1332-1338.

この論文で、LakeらはBayesian program learning(BPL)というアルゴリズムを提案し、BPLを使って手書き文字を効率よく学習するデモンストレーションを行っています。BPLは「概念を確率的なプログラム」とみなします。つまり、概念とは、新しい例(手書き文字)を生成するプログラムであり、プログラム(=生成モデル)を獲得することが、その概念を理解することに他ならないというわけです。

2015年の研究については、下記の動画で簡潔に説明されています。

実は本総説論文ではBPLが「これからのAI研究の新機軸」などとして大々的に紹介されているのかな、と予想して読み始めたのですが、そうではありませんでした。むしろBPLは「機械学習に人間の思考のクセを取り入れる」という大きな方向性の一事例として扱われていました。そもそもBPLはディープラーニングを使っておらず、著者らとしてもあくまでメインストリームはディープラーニングで、そこにBPL的な要素を入れていくことを有望視している印象でした。

 

おわりに

人工知能」は、その分野が始まった当初から「脳」や「心」の研究との接続を意識してきたと言います。ですが、本論文を読み、AI研究と認知科学の接近がますます本格化していきそうな印象を持ちました。

そもそもこの論文を読むきっかけになったは「日経サイエンス」2018年2月号の
「子どもの脳に学ぶAI」という記事でしたが、その著者アリソン・ゴプニック氏は子どもの心の発達を研究する認知科学者でした。日本でも、いわゆる「人文学部系の心理学」と「工学部系のAI研究」が接近する流れが来るのでしょうか。興味深いです。

(簡易的)読書メモ:文学問題(F+f)+(山本貴光 著)

 

文学問題(F+f)+

文学問題(F+f)+

 

以下は、とある会合の「おすすめの本の紹介文」として書いた文章。初読の印象だけの感想なのですが、記録のためにここにも載せておきます。

*** 

ゲーム作家でありながら、近年は著述家としての活躍がめざましい山本貴光さんの新刊。ユニークな本を次々と出されている山本さんですが、今回も夏目漱石の『文学論』を解説するという一風変わった本。前半部で『文学論』を“現代語訳”しつつ解説し、後半部で『文学論』の現代版へのアップデートを試みるという内容になっています。

なぜいま漱石? それも『文学論』? と思うわけですが、漱石の文学論そのものを研究するというよりは、自分の頭でゼロから考えようとした漱石の思考プロセスを辿りなおすことに著者の狙いがありそうです。漱石は『吾輩は猫である』や『草枕』と同時期に文学論を構想しており、「文学とは何か」とか「どういう要素があれば“良い文学”と言えるのか」についての「理論」を、先行研究も存在しないところから作ろうとしていたようなのです。文学研究者ではない著者が徒手空拳、こんな本を書いたしまった意図も、そんな漱石の心意気に学び、古今の文学を自分なりに理解するための(漱石の言葉で言えば「自己本位」の)探究をやってみようというところにあったのだろうと思います。

文学以外ではなくても何らかの文章の執筆・編集に関わる人ならきっと得るものがあると思います。私自身、理工書を編集しながら「理工書は科学にとってどんな存在なのか?」「よい理工書の条件は何か?」などを自分なりに考えてみたくなりました。

…それにしても傍注と参考文献の数が夥しく、編集の労力に頭がさがる(!)とともに、著者の読書量に圧倒される一冊でした。

今年読んだ本で振り返る2017年

年末がやってきた。

一年早かったなあと例年思うわけだけど、今年はその「一年早かったなあ」という思いすらまだ湧き上がってこない。

でも、出来事を一つずつ思い出していくと、1年間がそれなりに厚みのある時間に思えてくるのは不思議なもの。

自分の場合、その「一つ一つ出来事」は、ほぼイコール「読んだ本の1冊1冊」になるわけなのだけど。

というわけで、今年も読んだ本を挙げていきながら1年を振り返り、(若干無理やり?)2017年を締めたい。

 

ちなみに昨年の振り返りがこちら:今年読んだ本で振り返る2016年 - rmaruy_blog

 

*以下、今年私が読んだ本を紹介しています。今年がどんな年だったかを考えるのも目的の一つなので、「2017年に発行された本」に限定しました。(洋書の場合は原著か翻訳書のいずれかが今年刊行なら入れています。)このブログで取り上げたものはリンクを張っています。

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人工知能ブームはどうなったか

2015~2016年あたりに巻き起こった「人工知能ブーム」は、おおかたの予想通り沈静化してきた。シンギュラリティ論を論駁した『そろそろ、人工知能の真実を話そう』(ジャン=ガブリエル ガナシア)、機械学習アプローチの限界を小学生にもわかるお話に仕立てた『働きたくないイタチと言葉がわかるロボット』(川添愛)など、今般のAI技術の「本当のところ」を伝えようとする本が目立った。東大入試合格を目指していた「東ロボくん」プロジェクトが、逆に人の読解力の低下を問題視する方向に舵を切ったのも象徴的だった。

しかし、「AIが人間を超える」ことは当分ないとしても、それとは別の仕方でAI(というよりはビッグデータ)の影響は脅威となりうる。昨年の大ヒット『サピエンス全史』の続編にあたる『Homo Deus』(Yuval Noah Harari、読書メモ) では、「データ」とアルゴリズムによる判断が個人の意思よりも優先される「データイズム」の時代の到来が予言された。『atプラス32 人間の未来』(吉川浩満 編集協力)などを読んでも、「人間はどう変わってしまうのか」という問題意識が国内の人文系研究者のあいだでも共有されていることがうかがえた。

警戒するばかりではなく、むしろアルゴリズムの力を積極的に生活に取り入れてみようと提案するのが『アルゴリズム思考術』(B. クリスチャン&T. グリフィス、読書メモ:再掲)。こまごまとしたパソコン仕事をPythonでちゃちゃっとこなす術を指南する『退屈なことはPythonにやらせよう』(Al Sweigart、読書メモ)は画期的だった。データイズム化していく世界で主体性を保つためには、プログラミングやアルゴリズム思考は必須の教養になっていくのかもしれない。

いろいろとマズそうな日本

今年はアメリカではトランプ政権が誕生し、北朝鮮の情勢が危ういと聞かされ続けた。日本でも、負けず劣らず不可解なことがいろいろと起こった。立案の真の目的がよくわからないいくつかの法案、政権延命の戦術として行われた解散総選挙、行政のなかで原則を逸脱した何かが行われたらしい事案。何かおかしいと思っても、周りの人たちとそういう話をしづらい雰囲気がある。そのなかで、歴史学・経済学・政治学を横断しながら今の日本を考察した『大人のための社会科』(井手英策ほか)は、社会についてみんなで考えるきっかけにしたい本。

日本の企業にもいろいろと問題が発覚した。『東芝解体 電機メーカーが消える日』(大西康之)を読むと、東芝をはじめ電機メーカの苦境の構造的要因がよく分かった。『衰退の法則』(小城武彦、読書メモ)は、企業が腐敗していく要因としてどちらかというと属人的な面に着目し、学術研究としてまとめた一冊。自分のいる出版業界も相変わらず岐路に立っている。新旧のメディア業界で頑張る人々を取材した『なぜアマゾンは1円で本が売れるのか』(武田徹)、事業縮小中の大手出版社を舞台にした社会派エンタメ小説『騙し絵の牙』(塩田武士、読書メモ)の2冊は、出版ビジネスの新しい形を示唆していて目を開かされた。

大学も、来年には「2018年問題」に直面し、ますます生き残りが厳しくなる。『工学部ヒラノ教授の中央大学奮戦記』今野浩読書メモ)は私立大学の変化の一端がわかる一冊だった。

個人に目を転じると、匿名の文筆家による自伝的エッセイ『夫のちんぽが入らない』(こだま)では、夫との性生活の不全に象徴される、社会と適合できないゆえの様々な辛酸が描かれた。著者のような表現力を持たないだけで、同じような違和感をもって生きている人はたくさんいるかもしれない。『かがみの孤城』(辻村深月)は何らかの事情で学校に行けなくなった子供たちが登場する児童小説。この作品では、心ある大人がうまいこと彼らを導くが、現実もそうであればよいと思わされる。

行き詰まった会社、業界、人生が、今の日本にはなんと多いことか…。自室にこもって本を読んでいるだけでも、その一端がわかる。

科学者たちの野心

科学者たちが、普段の専門の研究とは別に、積極的に自分の分野を超えて発言しようとしていると感じる。『時間とはなんだろう』(松浦壮、読書メモ)は、素粒子物理学者が「時間」を軸に現代物理学全般を案内した一冊。『Your Brain is a Time Machine』(Dean Buonomano)ではさらに、時間の心理的神経科学の最先端を紹介し、「人間は時間をどこまで理解したか」がまとめられている。『物理学は世界をどこまで解明できるか』(マルセロ・グライサー、読書メモ)は、物理学者が「自分は物理学で何を知りうるか」に答えを出そうと格闘した一冊。『この宇宙の片隅に』(ショーン・キャロル、読書メモ)も同様に、生命も意識も道徳も社会もすべて一つの自然科学的世界観で描いて見せようという、野心作。その点、『佐藤文隆先生の量子論』(佐藤文隆読書メモ)での佐藤先生は、ショーンやグライサーの何周か先を行っている(と個人的には思う)。

無意識の行動から「どの政治的スタンスをとるか」にいたるまで、あらゆるスケールの人間の行動を生物学的に説明しようとした『Behave』(Robert Sapolsky、読書メモ)も、これまた大作だった。

ディープラーニングの延長線上にシンギュラリティがあるとは思われなくなってきた一方で、「AI×脳科学」の研究は着々と進んでいるように見える。意識研究が「コンピュータと人間の脳をつなぐ」という方法を真面目に議論している『脳の意識 機械の意識』(渡辺正峰、読書メモ)は衝撃的だった。

最後に、 『パパは脳研究者』(池谷裕二)には、専門知識を駆使してわが子の成長を楽しもうという限りなくbenignな科学者の「野心」が滲み出ており、温かい気持ちになった。

科学と共闘する哲学・メディア

時間、意識、社会など、あらゆる方面に関心を広がる科学に対して、哲学はどう応答したか? 「科学の暴走を食い止める」というよりは「一緒に前に進もう」という立場の本が今年は目についた。『自然主義入門』(植原亮、読書メモ)はずばり科学と哲学の共闘を掲げる「自然主義」の入門書。『現代思想12月増刊号 分析哲学』では、最先端の話題をつまみ食いしながら、分析哲学の何たるかを知ることができた。科学者が使うシミュレーションやモデルとは何なのかを議論した『科学とモデル』(マイケル・ワイスバーグ、読書メモ)は、科学者へ自分たちの方法を振り返る際の枠組みを提供する内容だった。専門家集団のなかで知識を磨くことの意義を論じた『我々みんなが科学の専門家なのか? 』(ハリーコリンズ、読書メモ)も、広い意味では科学へのエールと言えそうだ。

数学はなぜ哲学の問題になるのか』(イアン・ハッキング新刊紹介メモ)は、なぜある種の哲学的テーマが「そもそも問題になるのか」という問いの立て方が可能であることを教えてくれた。また『科学報道の真相』(瀬川至朗、読書メモ)では、メディアが科学をよりよく伝える方法が提言された。

科学、哲学、科学論、メディアは、以前よりも密に相互を参照し始めているように思える。来年以降、どんな展開になるか楽しみだ。

 「勉強」することに立ち返る

いままで僕ら日本人が前提にしてきた比較的安定した政治的・経済的状況は崩れ始めている。学問の世界では、これまでの分野の垣根が取り払われ始めている。そうしたなか、あらためて「勉強」の価値、それも誰かに言われてやる目先の勉強ではなく、自発的に始める「深い勉強」の価値が問い直される時代になっている。

正しい本の読み方』(橋爪大三郎)は、自分の頭で考えるための本の読み方を指南する。さらに深く「深い勉強」について考察しているのが『勉強の哲学』(千葉雅也、読書メモ)。勉強の負の側面にも触れたうえで、デメリットを抑え込むための方法を考案している斬新な一冊だった。『工学部ヒラノ教授のはじまりの場所』(今野浩読書メモ)は、昭和初期のエリート少年たちの姿を描いた貴重な実録。戦後の日本社会を作った世代も「深い勉強」で力を蓄えていったことがわかる。

「AI時代の学び」という最初のテーマに戻ると、『自動人形の城』(川添愛、読書メモ)は示唆に満ちていた。人間と(今の)AIを隔てる最大の能力は「言語を操る能力」だということ、どんな勉強も「言葉」から始まる。

年内ぎりぎりに読了した『文学問題(F+f)+』山本貴光)は怪書。物理学者たちの描き始めた「ビッグ・ピクチャー」とは別の仕方で「すべてを描いてみよう」という野心に満ちており、自発的な勉強の極致を見せつけられた1冊だった。


勉強をする人々に触発されて、今年は自分なりの勉強を二つしてみた:

探究メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで明らかにしたのか〈第8回(最終回):まとめ〉 - rmaruy_blog

思考整理メモ:科学コミュニケーションから考える量子力学の解釈問題(後編) - rmaruy_blog

まだまだ浅いが、まずは1歩を踏み出せたことで良しとしよう。

今年の一冊!

今年最も心を動かされた一冊として、『かくて行動経済学は生まれり』(原題:The Undoing Project、マイケル・ルイス)を挙げたい。リチャード・セイラ―氏のノーベル賞受賞に象徴されるようにだいぶ普及してきた行動経済学だが、その礎を気づいた二人の心理学者の物語。どんなに学問も、誰かが何かの問題意識をもって始めた「勉強」にルーツがあるということに立ち返らせてくれた。 

rmaruy.hatenablog.com

 

行動経済学に触れたついでに、『スター・ウォーズによると世界は』(キャス・サンスティーン、読書メモ)も触れておく。今年は「最後のジェダイ」の公開で幕を閉じた一年でした。