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読書メモなど

追悼メモ:羽野幸春先生を偲んで

高校時代の恩師、羽野幸春先生がお亡くなりになった。

羽野先生は社会科の倫理の先生で、私が教わったのは日比谷高校在任時代の2004~2006年。覚えているのは、白髪で背筋がぴんと伸びた、物静かな姿。近寄りがたさがある先生で、個人的にお話をした記憶はあまりない。

「倫理」という科目は、高校社会科のなかでは「おまけ」的な扱いで、身を入れて倫理の授業を聞こうという生徒は私を含めて少なかったように思う。しかも羽野先生は、いかにも憂鬱そうな顔でとつとつとしゃべるので、授業中に大半の生徒が寝ているのも珍しくなかった。

でも、いつからかこの授業を私は夢中で聞くようになり、いまでは「羽野先生に出会っていなければ自分はない」と言えるほど、大きな影響を受けることになった。

まず、知識量がすごかった。倫理の教科書や資料集の編纂にも関わっていた先生は、古今東西の思想史の概要がすべて頭のなかに入っていて、メモを見ずに語ることができた。しかも、単に知識を教えるだけでなく、熱がこもっていた。もの静かな調子の先生は、その日の核心に差し掛かると、しだいに身振り・手振りを大きくし、目を見開いて話された。

アリストテレスの政治学について、ヘーゲルの哲学について、上座部仏教の教えについて、実存主義の思想について。その日の登場人物がまるで先生に憑依したかのようだった。毎回の授業のあと、私はその日のプラトンなりニーチェなりに感化されて、一時放心状態になったのを覚えている。一番覚えているのはカントの回で、「純粋理性批判」の解説の中で出てきた「科学的理解の限界」というテーマは深く心に残った。

また、先生の授業は、「なんとなく人生がうまくいかない憂鬱さ」に対して、思想や哲学がある種の処方箋になることを教えてくれた。部活で頑張っていたり友人関係が充実しているクラスメートをわき目に劣等感を持っているタイプの高校生にとって、苦虫をつぶしたような顔で、それでいて嬉々として哲学を語る先生はまぶしかった。先生ご自身の人生も苦しいことが多かったらしく、「青春は苦痛でしかない」というようなことを言っておられた。

赴任した都立高校の卒業生にしか知られていないとすれば非常にもったいない、素晴らしい先生だった。ご冥福をお祈りします。

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読書メモ:科学報道の真相(瀬川至朗 著)

 

もと新聞記者で今は大学でジャーナリズムを教える著者が、日本の科学報道の問題点を整理・分析した一冊。

「日本の科学報道の問題」と聞けば、単純化しすぎの健康番組とか、根拠に乏しい「医療系まとめサイト」などが思い浮かぶかもしれない。しかしこの本で扱われているのはもう少しレベルの高い話。主に大手新聞社の科学部の報道に焦点を当て、それが抱える「構造的な問題」が論じられている。

本書で取り上げられる具体例は、STAP事件、福島の原発事故、地球温暖化にまつわる報道の三つ。いずれも著者が現役記者を退いた2008年以降の話なので、記者時代の経験を生かしつつも外部者の視点での分析となっている。

前半の各章の内容を、個人的に面白いと感じた点を中心に要約すると、

  • STAP騒動の報道では、Natureに論文が一本載った段階で「ノーベル賞受賞」のような報道をしてしまったことが問題だった。また、Nature誌のチェック機能の検証が十分ではなかった。(第1章)
  • 福島第一原発の報道では、新聞における「炉心溶融」という言葉の使われ方などを分析してみると、東京電力や政府の発表を流す「大本営発表」だったことがわかる。(第2章)
  • 地球温暖化問題の報道は、IPCCなどの公式発表に依拠している度合いが強く、米国に比べると日本は「温暖化懐疑論」の立場の報道が少ない。また、温暖化対策については、新聞社の科学部と経済部がそれぞれ環境省経産省から別々に情報を仕入れていることから、新聞内で温度差のある報道が併存している。(第3章)

など。

この3事例をもとに、後半の章では、著者の考える科学報道の「構造的な問題」と処方箋が論じられている。指摘される構造的問題の一つは、情報発信者(科学者や官庁)と記者との共存関係(=「マスメディア共同体」)ができてしまっていること。もう一つは、報道の「客観性」や「公平・中立」という原則が不適切に使われていることだという。

第5章ではそうした原則がジャーナリズム一般において保持困難であるという議論を紹介し、そのうえで著者は代案を示している。

 「客観報道」に代わる意義をもつ原則が「検証」であり、「公平・中立報道」に代わる意義をもつ原則が「独立性」であると、私は考える。

たとえば「客観性」を目指す科学報道は、「科学者(官庁)の発表を伝聞として流すだけ」ということにつながりかねない。また、「公平・中立」も、「懐疑論のようなマイナーな科学的立場をどこまで取り上げるのが中立といえるのか?」といった解決不能な問題を招く。それよりも、「検証」の方法論をしっかりすることと、情報源との「独立性」を確保することが必要だと著者は主張する。また、「公平・中立」などを求めてしまう原因として、「固い科学観」があることが指摘される。

科学ジャーナリストは、権力や権威に頼ることなく、研究者からの不適切なアプローチに自ら対抗できる力を身につける必要がある。また、科学は確実なものであるという「固い」科学観が日本の社会に広く流通しており、そのことが、マスメディアの科学報道を歪めている (序章)

 ***

各事例の分析は、単なる印象論を超える緻密さがあって説得力があった。後半の整理も納得感が高かった。日々、科学報道の担い手はもちろん受け手にとっても、本書で解説されているような「問題点」を把握しておくことは役に立つので、読んで損はない一冊だと思う。

一方、著者の主張する「固い科学観を脱する」「検証をしっかりする」「独立性を確保する」という方向性には賛成できても、現実問題としてすぐに舵を切るのは難しそうに感じた。メディア側には毎日記事を書くというノルマがあるし、科学者の側にもできるだけ研究を宣伝しなければというプレッシャーがあるので、両者とも「マスメディア共同体」から簡単には離れられないと思われるからだ。

そこで、マスメディアでも科学者でもない「第三者」が活躍できるのではないか、と思った。具体的には、それほど「マス」ではない特定の関心をもった層に対して、批判的視点を交えて科学的トピックを解説する、という活動に需要があるのではないか。媒体としては「書籍」や「ブログ」が適しているだろうか。

…このブログでこの前まで書いていた「記憶の脳科学」についての「探究メモ」で自分がやりたかったのもまさにそういうことだったな、などと思って、少し勇気が出てきた。

探究メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで明らかにしたのか〈第8回(最終回):まとめ〉

約1か月にわたり、本ブログでは脳科学は記憶の仕組みをどこまで明らかにしたのか」と題した計8回の記事を連載してきました。

 

 

まだ深めきれていないことは多く残っていますが、このあたりで一区切りとしたいと思います。最終回の今回は、ここまでの振り返りと総括を行います。

第0回~第7回の振り返り

本連載を始めたそもそものきっかけは、最近「記憶を書きかえることに成功!」などというニュース(研究発表)をよく目にするようになったことでした(第0回)。そうした最先端の記憶研究がどこまできているのかを知りたいと思い、勉強を開始しました。

「記憶を書きかえる」ためには、まずは記憶が脳のどこにしまわれているのかを知る必要があります。脳の中の記憶の物理的実体のことを「エングラム」とよびます(第2回)。コンピュータの生みの親であるジョン・フォン・ノイマンも、エングラム(彼の言葉では「脳の記憶装置」)の正体について高い関心を示していました。しかし、彼の時代(1950年代)の脳科学は未発達であり、ノイマンは推測を述べることしかできませんでした(第1回)

それから半世紀以上たち、脳科学がたくさんのことを解明してきたなかで、「エングラムを解明した」といえるような研究も出てきます。本ブログでは、二人のノーベル医学・生理学賞受賞者、Eric Kandel氏と利根川進氏の研究を取り上げました。

Kandel氏が明らかにしたのは、シナプスにおける記憶の機構です(第4回)。彼は単純な神経系をもつアメフラシを使って、ニューロン間をつなぐシナプスには可塑性があることを証明しました。また、アメフラシの示す単純な学習行動を研究し、その記憶が形成される仕組みを、分子・細胞レベルで徹底的に解明しました。

Kandel氏本人はそういう言い方はしないのですが、これは「アメフラシの記憶のエングラムを突き止めた研究」と言ってもよいと思います。実際、Kandelらが突き止めた特定の細胞に電気刺激をしたり、特定のシナプスセロトニンなどの物質を与えたりすることにより、アメフラシの学習行動を制御、つまり「記憶を書きかえる」ことができます。

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それに対し、利根川進氏らの研究は、ニューロン集団レベルで記憶を支える神経活動を発見しています(第5回)。利根川ラボはマウスのニューロンの活動を操作する技術(オプトジェネティクス)を駆使して、マウスが置かれた環境の記憶を担っているニューロン群を特定しました。Kandelのシナプス研究に比べるとまだまだ研究の蓄積は浅いですが、限定された意味においてはこれも「マウスの環境記憶のエングラムを突き止めた」研究です(そして実際に、利根川ラボはそう宣伝しています)。そして、こちらもすぐさま「記憶を書きかえる/記憶を消去する」という一連の論文発表につながっています。

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では、人間の脳についてはどうかというと、アメフラシやマウスのようにはエングラムの研究は進んでいないようです。記憶にかかわる脳部位を特定する脳画像計測や、記憶の障害につながる脳損傷を調べる研究はありますが、それらが「記憶の書きかえ」につながるかというと難しそうです。一方、人間に対しては、まったく別のアプローチでの「記憶の書きかえ」が実践されています。それは、警察の誘導尋問やある種の精神療法のような方法で過誤記憶(false memory)を植え付けるという研究です(第7回)。このように、人間の記憶研究は「細胞レベルのメカニズムはわからないが、記憶の脆弱性や「クセ」についてはいろいろとわかってきている」という状況にあります。

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今後の見ていくべきポイント

今後も、記憶の研究は実験動物・人間の両方で精力的に行われていくと思います。続々と驚くような研究発表が出てくるかもしれません。そうした展開をウォッチしていきたいと思いますが、その際に個人的に注目したいのは次の2点です。

  • 階層間のギャップを埋める研究が出てくるかどうか
  • エングラムの見方を変えていくような研究が出てくるかどうか

どういうことか、それぞれ説明してみます。

注目ポイント1:階層間のギャップ

先ほどのように記憶研究の発展をたどってみると、さまざまなレベルで記憶のプロセスについての理解は進んでいるものの、異なるレベルのエングラムの知識がつながっていないことがわかります。昭和の神経科学者の塚原仲晃氏は「異なる階層で記憶のメカニズムを明らかにしなければいけない」と言っていましたが(第3回)、それらを統合するという課題が残っていると言えそうです。

わかりやすいのは人の記憶とマウスの記憶のギャップですが、利根川ラボの「エングラム細胞」とKandelのシナプス記憶の間にも階層間ギャップがあります。というのも、利根川ラボが見つけた海馬の「エングラム細胞」がシナプスレベルでどのように作られるのかは、まだほとんど分かっていないからです。

話をうんと単純化して、アメフラシの記憶・マウスの記憶・人間の記憶のそれぞれのエングラムが、シナプスレベル・ニューロン集団レベル・心理学レベル(+脳画像レベル)において解明できていると考えてみます。各階層には、それぞれ「記憶を書きかえる方法」(=記憶改変技術)が存在します。

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アメフラシの記憶とマウスの記憶、マウスの記憶と人間の記憶の間には、断絶があります。今後出てくる研究のうち本当の意味で革新的と言えるのは、この階層間ギャップを埋めるような研究ではないかと考えます。

なお、ここで注目したいのは、それぞれの階層の記憶改変技術はその他の階層にも「使ってみる」ことはできるということです。具体的には、マウスの脳に電極を刺して刺激をしたり、(今は不可能ですが)人の脳にオプトジェネティクスを用いたりすれば、「何か」は起こります。しかし、エングラムが明らかになっていないために、その影響は予期できません。

筆者の個人的な予想として、人間の脳のエングラムが何らかの形で解明できるとしてもそれは大分先のことであり、それよりも先に、動物でうまくいった記憶改変技術が人間に試されてしまうのではないかと思います。また、そもそも、人間の脳のエングラムが動物の脳の研究で解明できるのか、という疑問もあります(第6回)。なので動物研究を「認知症治療」「記憶力増強」などに安易に結び付ける宣伝文句には、警戒したいところです。もちろん、細胞レベルでの機序がわかっていなくとも安全に使える治療法はありますが、しかし、現在マウスなどで行われているような「脳を開いて光を照射」のような侵襲性が高い技術については、使用が先走らないように私たち非専門家も注意してみていく必要があると思います。

注目ポイント2:エングラム観のアップデート

それに加えて、今回の勉強を通して感じたのは、少なくとも人間のエピソード記憶に関しては「エングラム」の捉え方を見直す必要があるのではないか、ということでした。

本連載もフォン・ノイマンから出発しましたが、私たちはエングラムをどうしても「コンピュータのメモリ」になぞらえがちです。この、いわば「素朴なエングラム観」によれば、過去のある時点の経験がエングラムとして脳に刻まれ、あとからそれを読み出すことで思い出すことができます。また、エングラムを外から入れ替える操作を行えば、「記憶を書きかえる」ことができます。

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しかし、第7回で見たのは、人間の記憶はもっと動的なものだということでした。以下のような点で「素朴なエングラム観」は不十分だと思われます。

  • 脳の中にはエングラムのネットワークが存在する。新しい記憶は既存の記憶に関連付けて記銘される
  • 想起はもとの経験の厳密な復元ではない。また、想起すること自体がエングラムを書きかえる
  • 一つのエングラムだけを取り出したり書きかえたりすることはできない
  • 人と話したり文章を書いたりするなかで、エングラムは時々刻々変化していく。その変化が、場合によっては過誤記憶につながる

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こう考えると、第0回で考えた下の絵のような「記憶の書きかえ」はナイーブすぎたことが分かります。

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人間の記憶の研究から見えてくるのはこのような「アップデートされたエングラム観」である一方、実験動物の研究では、どうしてもコンピュータになぞらえた「素朴なエングラム観」に基づいていることが多いような印象があります。今後、実験動物でも、より複雑で動的なエングラム観に基づく研究が出てくるかどうか、注目していきたいところです。

書けなかったこと

今回の連載で書こうと思って書けなかったことが二つあります。

一つは、記憶の計算論モデルの話題です。脳の記憶の理論的研究がどれくらい進んでいるのかや、それが人工知能にどの程度応用されているのかを調べてみたかったのですが、時間が足りませんでした。

もう一つは記憶の哲学についてです。「そもそも自然科学の方法で記憶を研究することに限界はないのか」という問題です。Kandel氏は「意識」まだ手に負えないから「記憶」を研究テーマに選んだと書いていましたが、本当に「記憶」は「意識」よりも簡単なのでしょうか。人間のエピソード記憶に関しては、「意識」と同等レベルの難しさがあるようにも思えます。記憶と脳の関係について、哲学者はどんなことを考えてきたのか、調べてみたい思いがあります。

今後、もし時間があれば、これらについても調べて書いてみたいと思っています。

おわりに

一か月間、文献を集め、読み込み、咀嚼していく作業はとても楽しいものでした。専門家にとっては常識であるようなことをなぞったにすぎませんが、個人的には大変勉強になりました。

また、読んでわかったことを「文章で書いておく」ことの大事さも痛感しました。せっかく本や論文を読んでも、時間がたつとすぐに内容を忘れてしまいます。その都度、いるかいないかわからない「架空の読者」に向けたブログを書くことで、自分なりの理解が固まり、そこを足掛かりに次の勉強に移っていけるのを感じました。もしかしたら「単著で本を書く」というのは究極の記憶術であり思考整理方法なのかな、などということも思いました。

読んでくださった皆様、ありがとうございました。引き続きご感想・ご指摘をいただければ大変ありがたいです。

参考図書

参考にした文献のうち、書籍として入手可能なものを挙げておきます。

  • フォン・ノイマン(著)柴田 裕之 (訳)『計算機と脳』ちくま学芸文庫, 2011. 
  • 塚原仲晃『脳の可塑性と記憶』岩波書店, 2010.
  • 池谷裕二『記憶力を強くする 最新脳科学が語る記憶のしくみと鍛え方』 講談社, 2001.
  • 榎本博明『ビックリするほどよくわかる記憶のふしぎ』SBクリエイティブ, 2012.
  • 理化学研究所 脳科学総合研究センター『つながる脳科学 「心のしくみ」に迫る脳研究の最前線』講談社, 2016.
  • ジュリア・ショウ(著)服部 由美 (訳)『脳はなぜ都合よく記憶するのか 記憶科学が教える脳と人間の不思議 』講談社, 2016.
  • ダニエル・L. シャクター (著) 春日井 晶子 (訳)『なぜ、「あれ」が思い出せなくなるのか―記憶と脳の7つの謎』日経新聞社, 2004.
  • イアン・ハッキング(著)北沢 格(訳)『記憶を書きかえる 多重人格と心のメカニズム』早川書房, 1998.
  • D.O.ヘッブ(著) 鹿取 廣人ほか(訳)『行動の機構――脳メカニズムから心理学へ(上)(下)』岩波書店, 2011.
  • Kandel, Eric R. In search of memory: The emergence of a new science of mind. WW Norton & Company, 2007.
  • LeDoux, Joseph. Anxious: Using the brain to understand and treat fear and anxiety. Penguin, 2015.
  • Hasselmo, Michael E. How we remember: brain mechanisms of episodic memory. MIT press, 2012.
  • Dittrich, Luke. Patient H.M.: A Story of Memory, Madness, and Family Secrets, Random House, 2016.

 

 

読書メモ:おさなごころを科学する(森口佑介 著)

 

おさなごころを科学する: 進化する幼児観

おさなごころを科学する: 進化する幼児観

 

図書館の「子育て本」コーナーで何気なく手にとった本。斜め読みですませるつもりが、予想外にしっかりした本で、しかも抜群の面白さだったため、時間をかけて読むことに。

いま、誕生後2か月の娘と一緒に暮らしている。お世話することにはだいぶ慣れてきたものの、泣いたり笑ったりいる赤ちゃんが何を考えているのかは、いまもって全くわからない。育児書には「赤ちゃんは周りがちゃんとわかっています。どんどん話しかけましょう」などと書いてあるけれど、すんなりと納得はできない。

本書は、発達心理学者が、乳幼児の心の研究の歴史から最先端の知見までを、非専門家に向けて解説した一冊である。

本書で扱うのは、主に乳幼児です。乳幼児は十分に言葉が発達していないので、自分の考えや気持ちを直接的に表現することができません。また、かつて私たちは乳幼児であったにもかかわらず、その頃のことを覚えていません。そのため、かつては、乳幼児は知ることも、考えることもできないとされていました。このような乳幼児が実際には何を考えているのかを調べることは、非常にエキサイティングな試みなのです。(はじめに)

訳知り顔の育児書と違って、本書は「赤ちゃんの心はわからない」ことを前提にして書いてくれている。

本書では、おさなごころについての見方を「乳幼児観」という言葉で表現し、乳幼児観の歴史的変遷と筆者の乳幼児観を述べます。その際に、本書では、理論、証拠、方法論の3点を考慮します。(はじめに)

本書では「乳幼児観」がキーワードになっている。耳慣れない言葉だが、読み進めるにつれ、これしかないと思えるようなピッタリの言葉に思えてくる。赤ちゃんの心は簡単にはわからないのだから、研究者や時代によっていろいろな「見方」=「乳幼児観」があるのだ、という視点に著者は立つ。種類の異なる乳幼児観を分かりやすくカテゴライズして章分けし、それぞれの代表的な実験や理論を解説している。

  • 1章:「無能な乳幼児」 発達心理学以前の、乳幼児は基本的には何もできない無能な存在だとする乳幼児観。
  • 2章:「活動的な乳幼児」 ピアジェらによる乳幼児の観察により得られた、さまざまな段階を経て発達するとする乳幼児観。
  • 3章:「かわいい乳幼児」 養育者の行動を引き出す無意識の行動など、乳児と他者の関係に着目した乳幼児観。
  • 4章:「有能な乳幼児」 ピアジェ以降、視線計測などの実験を通して実は論理・数・統計など様々な能力をもつことが明らかになってきてからの乳幼児観。
  • 5章:「社交的な乳幼児」 乳幼児が他者の心を理解する能力に着目した乳幼児観。
  • 6章:「コンピュータ乳幼児」 記憶容量や情報処理能力など、コンピュータとのアナロジーで心の発達を記述する乳幼児観。
  • 7章:「脳乳幼児観」 脳の神経系の発達の研究や、脳活動測定から見えてくる乳幼児観。
  • 8章:「仮想する乳幼児」 空想上の友達と遊ぶ行動などに着目し、そうした行動の適応的な意義を進化心理学的に位置づける乳幼児観。

「赤ちゃんはこういうもの」という観念は、新しい実験手法や実験パラダイムの登場によってかなり劇的に変わっていくものであることがよくわかった。

発達心理学に興味のある人はもちろん、「赤ちゃんって何を考えているんだろう?」という漠然とした関心を持っている人にとっても、一読の価値のある本だと思う。

 

探究メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで解明したのか? 〈第7回:人間の記憶を書きかえる〉

前々回、マウスの脳に「エングラム細胞」(=特定の記憶の保持を担う神経細胞群)を見つけたとする利根川ラボの研究を紹介しました。彼らは、エングラム細胞の操作を通じて「記憶を書きかえる」技術を実現しつつあると言います。しかし、こうした手法がすぐに人間に応用できるようにはなるかというと、そうは思えません。前回は、その理由の一つにマウスと人間の記憶には質的な違いがあることを述べ、そうした議論の一例として、Endel Tulvingの「エピソード記憶は人間だけのものだ」という主張を取り上げました。

では、人間の記憶は当面「書き換え」などできないと思ってよいのでしょうか。そんなことはありません。少し調べると、心理学の分野では「人間の記憶を操作する」研究がしばらく前から行われていることが分かります。ただし、その方法はKandelや利根川氏のように電気生理学や遺伝子工学を駆使したものではありません。脳に直接働きかけるのではなく、「被験者との対話する」という素朴な方法で記憶を操作するというものです。

今回取り上げたいのは、そうした過誤記憶(false memory)の研究です。「過誤記憶」とは、「実際には起こっていないのに、本物の出来事のように想起される記憶」のことです。

偽の記憶を植え付ける

過誤記憶研究の草分けとしてよく登場するのが、心理学者Elizabeth Loftus(エリザベス・ロフタス)が1990年代に行った「ショッピングモール迷子実験」("lost in the mall" experiment)です。これは、「あなたは5歳のときにショッピングモールで迷子になった」という偽の記憶を実験の被験者に植え付けるというものです。ちなみにWikipediaによると、この実験を考案したのはLoftus教授本人ではなく、彼女の講義を受けていた学部生だったそうです。ちょっと良いエピソードだと思います。

その後も、様々なバリエーションの「記憶を植え付ける実験」が実施されています。なぜこんな実験をするのか、こんな実験をして倫理的に問題ないのかが気になりますが、過誤研究の研究のモチベーションの一つに、刑事事件の冤罪を減らすということがあります。人間の記憶の操作されやすさを知ることは、事件の目撃証言や自白をどの程度信じるべきかということに示唆を与えるからです。

さらに進んだ研究が、最近邦訳が出たばかりの『脳はなぜ都合よく記憶するのか』(講談社、2016)という本で紹介されています。

 

脳はなぜ都合よく記憶するのか 記憶科学が教える脳と人間の不思議

脳はなぜ都合よく記憶するのか 記憶科学が教える脳と人間の不思議

 

 人の記憶が見せる様々なエラーについての科学的知見をわかりやすくまとめた科学書なのですが、本書の見どころとなっているのが著者本人による実験です。それはまさしく「犯罪を犯した記憶を植え付ける」というものです。どうやるのか。2015年の原論文*1を参照しながら、その実験の概要をまとめてみます。

  • 被験者としてカナダの大学生60人を選抜した。実験参加の報酬は50ドル。
  • あらかじめ保護者にアンケートをとり、本人の11~14歳の出来事について教えてもらった
  • 1週間おきに3回の面談を実施した(実験者と被験者の1対1の面談)
  • 最初の面談にて、本当の出来事と偽の出来事を一つずつ話題にあげ、それぞれヒントを与えながら思い出すように促した
  • 偽の出来事は「友達を暴行して警察に連れていかれた」「万引きをして警察に連れていかれた」など犯罪にまつわるものとした
  • 当然、偽の記憶を最初は思い出せないので、「あなたの親は○○と言っていました」と偽情報(misinformation)を与えたり、「努力すれば思い出せます」などと言ってプレッシャーをかけたりした
  • 面談後、家に帰ってもなるべく思い出すように指導した
  • 2,3回目の面談で何を思い出したかを聞いた
  • 最後の面談で、偽の記憶を思い出したと言い、なおかつ実験者が与えていない記憶のディテールを10個以上挙げた場合に「過誤記憶」ができたと判定した

これにより、なんと70%の被験者が架空の犯罪の過誤記憶をもつに至ったのだそうです。それも「もしかしたらやったかもしれない」というレベルではなく、映像や音声をも含む鮮明な記憶が作られたと言います。

一つ付け加えておくべきかもしれないのは、この結果は実験者のスキルに左右されるだろうということです。論文の中でも、多くの学生に過誤記憶が生じたのは「社交的な性格で、警察式のインタビュー術を身に着けた実験者のスキルによるところが大きいかもしれない」とあります(おそらくShaw氏のこと)。たしかに、若く*2才気あふれる雰囲気のJulia Shaw氏だからこその、職人芸的なテクニックと言えるかもしれません。

とはいえ、少なくとも熟練スキルがあれば「犯罪の記憶」を植え付けてしまえることをこの実験は示しています。となると、現実の事件の容疑者の自白で同じことが起きていてもおかしくありません。実際に、こうした過誤記憶による冤罪は多いそうです。そこで、過誤記憶研究の知見を生かし、たとえばニュージャージー州の裁判で陪審員に渡すインストラクションのなかには、「証言者の記憶が間違いやすい」ことや、「人種によるバイアスに注意すべき」などの具体的なアドバイスが記載されているそうです*3

ちなみに、犯罪とならんで過誤記憶が問題となる分野として、精神医学があります。解離性同一性障害(以前は「多重人格」とよばれていた精神疾患)の原因の一つに、抑圧された幼少期の虐待の記憶があるとされており、その失われた記憶を精神療法によって取り戻すことで治癒する、という治療法が一時流行していたそうです。Loftusらは、この治療の過程で偽の「幼児虐待」の記憶が植え付けられてしまう可能性を主張しました。精神療法で親の虐待を「思い出した」患者と、子供に心当たりのないことを糾弾されて当惑する親とを巻き込んだ一大論争(「記憶戦争」)が1990年代には巻き起こりました。その渦中で患者に訴えられたりした苦労を、Loftus氏は2013年のTEDトークで語っています。

www.ted.com

こうした刑事事件や幼児虐待の事例は、「記憶」が科学的に興味深いだけでなく法的・倫理的問題と結び付きやすいテーマであることを物語っています。

身近な過誤記憶?

なお、先の「記憶を植え付ける」実験の話を聞いたとき、多くの人は「自分だったら引っかかるとは思えない」と感じるのではないでしょうか。筆者はそうでした。しかし、普段の生活では悪意ある誘導尋問をされることなどはないので、想像しにくいだけかもしれません。

より身近に「過誤記憶」を実感する方法として、「できるだけ古い記憶」を思い出してみるのはよいかもしれません。筆者の場合、もっとも古い記憶はたぶん2歳のときの、叔父さんの結婚式に参列したときのものです。会場の雰囲気や周りの大人の様子を映像として記憶しています。ですが、発達心理学的にはエピソード記憶が保持されるのは3.5歳くらいかららしいので、これはおそらく後から作られた過誤記憶と思われます。

こういう幼少時の過誤記憶から類推すると、誘導尋問によって記憶が植え付けられてしまうこともなくはないかな、と思えてくるのですがどうでしょうか。

なぜ過誤記憶が生じるのか

電極を刺すまでもなく、最先端の遺伝子技術を使うまでもなく、人間の記憶は「書きかえられて」しまうようです。そのメカニズムについては、何かわかっているのでしょうか。

過誤記憶の実験では、いずれも本当の記憶に偽の記憶をうまく混ぜ込むのがポイントになっています。このことからもわかるように、記憶には

  • 既存の記憶の周りに、類似した新しい記憶が作られる
  • 思い出すときに、記憶が書き換わる

という性質があるようです。前者は連想活性化(associative activation)、後者には検索誘導性健忘(retrieval induced forgetting)というキーワードが関連しています。

また、前述の『脳はなぜ都合よく記憶するのか』では、ごく簡単にファジー痕跡理論(fuzzy trace theory)という理論への言及があります。これは記憶の痕跡は要旨痕跡(gist representation)と逐語痕跡(verbatim representation)に分かれていて、要旨記憶だけが与えられたときにそれと整合する逐語記憶を後から作り出す性質が脳にある。それにより過誤記憶が作られるのではないか、という理論だそうです。

ですが、この本に出てくる理論らしきものはそのくらいです。著者は記憶のメカニズムとして、カンデル氏の実験や利根川氏の実験に触れ、シナプス可塑性や細胞集団レベルの記憶研究を紹介してはいます。ですが、それと人間の過誤記憶がどう関係しているかになると、

エングラムが間違って結び付いてしまえば、記憶の幻想が起こる(p.101)

くらいの記述にとどまっています。具体的に何がエングラムなのか、その「混線」はどう起こるのかについての説明はありませんでした。

どうやら、心理学実験で過誤記憶が形成される仕組みは、神経細胞レベルではほとんど何も分かっていない、と言ってしまって良さそうです。とはいえ過誤記憶の研究は、

  • エングラムは図書館の本やアーカイブのビデオテープのように静的なものではなく、常に編集・改変されるダイナミックなものであること
  • エングラムは、意味的に近い記憶など、近接したエングラムに影響を受けて変わっていくものであること

など、重要なことを教えてくれています。

おわりに

過誤記憶の研究を一瞥して、人間の記憶はどうやらロボットの記憶のように緻密に書きかえることはできないが、人との会話のなかで書きかえられてしまうような脆さをもったものであることがわかりました。今後、心理学的な記憶研究がどう発展していくのかは気になるところです。

さて、そろそろ本連載にもひと区切りつけたいと思います。次回は、ここまで勉強してきたことのまとめを書く予定です。

*1:Shaw, Julia, and Stephen Porter. "Constructing rich false memories of committing crime." Psychological science 26.3 (2015): 291-301.

*2:著者は筆者と同じ1987生まれなので、まだ29歳か30歳です

*3:Schacter, Daniel L., and Elizabeth F. Loftus. "Memory and law: what can cognitive neuroscience contribute?." Nature neuroscience 16.2 (2013): 119-123.

探究メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで解明したのか? 〈第6回:エピソード記憶は人間だけのものか〉

少し間が空いてしまいましたが、もう少しだけ先へ進みたいと思います。

前回は、利根川進氏のチームが行った一連の研究を取り上げました。彼らは、「マウス海馬のニューロンのうち記憶に関わっているグループを標識して、強制的に活動させる技術」を開発しました。それにより、いわゆる「エングラム細胞(群)」を見つけることに成功しました。

この研究で分かったこと・分かっていないことは、「記憶工場」のメタファーで説明してみました。記憶に関わっている細胞群を特定したといっても、

  • 個々の細胞のはたらきはまだまだ分かっていないこと
  • 扱われている「記憶」の種類も、「恐怖刺激と条件づけられた環境(部屋)の記憶」という大雑把なものであること

を述べました。

いずれ人間にも使えるのか?

こうした限界があるとはいえ、「記憶の書きかえに成功した」などという研究発表の見出しにはインパクトがあります。それは、「この方法はいずれ人間に使えるようになるのだろうか?」という想像を搔き立てるからです。

第0回では、記憶研究の究極の目標を、「過去の具体的なエピソードの記憶がヒトの脳内でどのように表現されているかを、それを自由に書き換えられるくらいの精度で解明する」ことだとしてみましたが、利根川ラボのアプローチは、少なくとも原理的には、その究極目標へ至る道筋だと言えるのでしょうか。

「原理的には」と書いたのは、原理的には応用可能だとしても実際には無理だということが簡単に想像できるからです。利根川ラボの手法を人間で用いるには、

  • 生きている人の脳を一部切り開くこと
  • 特定のニューロンに様々な機能を持たせるための遺伝子改変を行うこと
  • 「嫌な記憶」を繰り返し覚えさせること

などが必要であり、どれをとっても倫理的・技術的な問題があります。ここでは、いったんそういう実際上の困難を置いておいて――あるいは、想像しにくいですが倫理面をクリアできるような非侵襲的な技術が開発されたと仮定して――考えてみたいのです。

そこで一つのポイントになるのが、「人間の記憶は、実験動物の記憶と同じか」という問題です。もし、人間の脳での仕組みが、マウスなどの実験動物の基本的には延長上にあるならば、マウスで見つかった「エングラム細胞」と同様のものがヒトにも見つかるのかもしれません。第3回あたりで見たように、細胞・分子レベルでは、ヒト・マウスを含む哺乳類からアメフラシなどの非脊椎動物に至るまで「シナプス可塑性」という同じメカニズムが使われていました。そこから類推して、細胞ネットワークレベルの記憶の仕組みに関しても、マウスから人間にいたるまで連続的な進化してきたというのもありえそうな話です。

しかし反対に、人間の記憶と動物の記憶とは断絶しているのだ、という立場もあり得ます。もしそうだとしたら、マウスで通用した方法は人間では効果が限定的ということになるかもしれません。

どちらが正しいのかは、筆者にはわかりませんし、専門家の間でも結論は出ていないと思います。そこで今回は、それに関連する面白い議論を一つ紹介したいと思います。それは、エピソード記憶は人間以外にも動物にもあるのか」という議論です。

Tulvingの問題提起

取り上げたいのは、Endel Tulving(エンデル・タルヴィング)が2005年に書いた "Episodic memory and autonoesis: Uniquely human" という論文*1(ブックチャプター)です。

Tulvingは記憶研究の第一人者(@Wikipedia)とされる心理学者で、1972年に「エピソード記憶」という概念を提唱した本人でもあります。その彼の立場は、エピソード記憶は人間にしかないのだ、というものです。

以下では、この論文の中身を簡単に見ていきたいと思います。

エピソード記憶とは

まず、エピソード記憶とは何でしょうか。教科書的には、それは「顕在記憶(explicit memory)」の一種ということになります。顕在記憶とは、意識的に思い出すことができる記憶のこと。「一輪車に乗るときの身体の動かし方」や、「梅干を見ると唾が出てしまうなどの条件反射」といった、無意識下で呼び覚まされる記憶と対比される概念です*2

そして顕在記憶には「意味記憶(semantic memory)」と「エピソード記憶(episodic memory)」があるというのが、1970年代のTulvingの提案です。簡単に言えば、意味記憶は知識として知っていること(knowing)、エピソード記憶は自分の体験として覚えていること(remembering)です。Tulvingは2005年の論文ではいろいろな言い方で「エピソード記憶」を定義しているのですが、その一つが次のような説明です。

たとえば、「現在のアメリカの大統領がドナルド・トランプ氏である」という記憶は意味記憶ですが、トランプ大統領の当選が決まったニュースを知ったときの記憶はエピソード記憶です。後者を思い出すときの心は、2016年11月の投票日への「タイムトラベル」を伴うのに対し、前者の想起にはそれが伴いません。

そして、前述のようにTulvingの主張はエピソード記憶をもつのは人間だけである」というものです。

ただし、この見方は決して主流ではなく、ほとんどの研究者は他の動物にもエピソード記憶はあると考えているようです。2005年当時、動物のもつエピソード記憶の代表例として注目されたのが鳥のカケス(scrub jay)の行動であり、Tulvingもそれに言及しています。

カケスは食べ残したエサを地面に隠します。そのエサを回収する際に、ナッツなどよりも腐りやすい虫などを優先して回収するそうです。ここからわかるのは、カケスが「どこにエサを隠したか」だけでなく「いつ隠したか」も覚えていることです。このように「どこ」と「いつ」を兼ね備えた記憶であるということから、エピソード記憶に該当する、とされます。ただし、この行動を研究したClaytonらは、やや慎重にこれをepisodic-like memory(エピソード様記憶)とよんだそうです。なお、Wikipedia英語版には"episodic-like memory"の項目があり、カケスだけなくラット、ミツバチ、霊長類など様々な動物の行動が紹介されています。

そこで、論点は「エピソード様記憶」を人間のもつ「エピソード記憶」にもつ範疇に含めるべきか、ということになります。多くの研究者とは違って、Tulvingは両者を区別すべきとの立場をとります。

その論拠は、ざっくりいうと

  • 人間の中にもエピソード記憶をもたない人がいる
  • 人間以外の動物は未来を想像することができない

の2点です。

健忘症患者と乳幼児

エピソード記憶をもたない人間としてTulvingがあげるのは、健忘症患者KCの症例と、4歳前後までの幼児です。

患者KC(本名:Kent Cochrane、2014年没)は、30歳のときに交通事故に遭い、エピソード記憶の能力を丸ごと失ってしまった人物です。1960年代に記憶研究を大きく前進させるきっかけとなった「前向性健忘」の患者HMと異なり、KCは、事故以前のことも含むすべてのエピソード記憶を失ったそうです。

しかし興味深いことに、KCの意味記憶は正常でした。自分の名前や誕生日をいうことはできたし、カードゲームのルールなども覚えていました。そのため、実家で両親と暮らしていくぶんには、問題なく生活を送ることができました。彼は「自分がホンダの車をもっていることを知っていたが、出かけたドライブ先を一つも覚えていなかった」そうです。

一方、人間の赤ちゃんも、エピソード記憶を形成できません。人が思い出すことができるのは4歳くらいからの記憶とされていますが、Tulvingはそれに関連する面白い実験を紹介しています。それは、3~5歳の子供に、引き出しの中に何があるかをあらかじめ教えておいて、あとから答えさせる、という実験です。引き出しの中身を教える際には、

  • 引き出しの中にものを入れる様子を「見せる」
  • 引き出しの中に何を入れたかを言葉で「聞かせる」
  • 答えは教えずにヒントを与えて「推測させる」

という3とおりの方法をとります。どの方法でも、中身を答えること自体は簡単なため、3歳児でも正解できます。しかし、ここで「君はどうやってそれを知ったの?」という質問については、5歳児は正しく答えることができるのに対し、3歳児は答えられないのだそうです。つまり、3歳児は引き出しの中身を「知識」として記憶していたのに対し、5歳児は教えてもらったという「経験」として覚えていた、ということになります。人間の幼児では4歳くらいを境目に、そうした記憶の質的な変化が起こるそうなのです。

健忘症患者KCや4歳に満たない人間の赤ちゃんも、ちゃんと生きているし、「意識」ももっています。彼らができないのは、「将来を想像すること」だとTulvingは言います。KCは、過去や将来についてどう思っているかと聞かれ、「空白(blank)です」と答えたそうです。両親と一緒に住み慣れた家で暮らすことはできても、新しい環境に適応することはまったくできないのです。

そしてここに、Tulvingは線を引こうとしています。普通の人間の大人がもっているが、患者KCや4歳までの子供がもっていないような種類を記憶をエピソード記憶と呼ぼうということです。

では、人間以外の動物は、このTulvingの言う意味でのエピソード記憶を持つのでしょうか?

動物に対して「あなたはエピソード記憶をもっていますか?」と聞くことはできないので、何らかの行動をもとに判断しなければなりません。

どうやって白黒つけるか?

そこでTulvingは、「スプーンテスト」というものを提案しています。エストニアで一般的に知られる、次のような寓話があるそうです。

ある女の子が、友達の誕生日会に呼ばれる夢を見た。そのパーティーではチョコレートプリンが出された。しかし、他の子はみんなスプーンを持ってきたのに、自分だけはスプーンを持っていなかったので食べられなかった。二度とそんな悲しい思いをしないために、次の晩、その子はスプーンを握りしめて寝床についた。

この話で女の子は「夢」と「現実」が混同してしまっていますが、その部分に目をつむれば、この女の子は、明らかにエピソード記憶を使って自分の行動を変えています。Tulvingの提案は、こういう種類の学習ができることを、エピソード記憶をもっているかどうかのテストにしてはどうかというものです。ポイントとなるのは、女の子の「次回のためにスプーンを用意しておく」という行動のように、特定の環境と条件づけられた行動ではないこと、現在の生理的欲求に基づいた行動ではないことです。

そして、Tulvingの見解では、少なくとも2005年の時点では、この「スプーンテスト」に合格する人間以外の動物はいません。

たとえば、犬は、自分が骨を埋めた場所を覚えることができます。これは、一見、「私(犬)はいつどこに骨を埋めた」というエピソード記憶を持っているようにも思えます。しかし、この犬は「あそこには骨が埋まっている」という意味記憶を使っているのだという解釈も可能です。実際、患者KCはそのような意味記憶だけをつなぎ合わせて生きていくことができました。そのように、エピソード記憶を持ち出さなくても説明できる行動については、「スプーンテスト」に合格したとは言えないのです。前述のカケスについても、意味記憶だけで説明可能だとTulvingは考えています。

されにこれは、より人間に近い類人猿などにも言えます。たとえばチンパンジーはすぐれた短期記憶を持つものの、「将来について考えることができない」と言われています。筆者は同様のことを京都大学霊長類研究所松沢哲郎氏の講演会で聞き、感銘を受けた記憶があります*3

Tulvingは、人類は進化の過程で過去と未来について考える能力、つまりエピソード記憶を獲得したことで、道具を作ったり、食べ物を貯蔵したり、ものを運んだりする能力、つまり「文化」を形成できたのではないか、と推測しています。

以上がTulvingの論文の要旨です。再度まとめると、

  • エピソード記憶は「mental time travel」する能力であり、「未来を想像する」ために必要である
  • しかし、エピソード記憶は動物の生存にとって必須ではない
  • 人間のなかにも、一部の健忘症患者や乳幼児など、エピソード記憶を持たない人がいる
  • 人間以外の動物で(Tulvingがいう意味での)エピソード記憶をもつものは、今のところ知られていない

最後の項目で「今のところ」と書きましたが、Tulvingは「他の動物は絶対にエピソード記憶をもたない」という頑なな主張をしているわけではありません。今後、スプーンテストに合格するような事例が見つかる可能性も認めています。つまり、「反証可能」な形で自説を展開していることを強調しています。このあたり、議論の提起の仕方がさすがだと感じます。

最初の疑問に戻って:人間の記憶は特殊か?

さて、この議論から考えるべきはどんなことでしょうか。

ちなみに、その後、Tulvingの「スプーンテスト」に人間以外の動物が合格したとする報告も出てきているようです*4。今後も、少しずつ彼の仮説は覆されていくのかもしれませんし、「エピソード記憶」の定義は移り変わっていくかもしれません。

それでも、少なくとも「人間とその他の動物がもつ記憶には質的に違っている」という一般的な指摘には説得力があるように思えます。ちなみに、こうした指摘は「記憶」に限ったものではなく、たとえば情動(emotion)研究の第一人者として知られるJoseph Ledoux(ジョセフ・ルドゥー)が、最近の著書で「人間の情動と、マウスなどの実験動物の情動は同一視しすぎてはいけない」という主張をしたりしています。


Tulvingの論文を読んで痛感したのは、「記憶の仕組み」について考える以前に、「記憶」そのものついてまだまだ分かっていないのだ、ということでした。

もしエピソード記憶なり何なり、人間にあってマウスに「存在しない」記憶があるならば、マウスを使った記憶研究が教えてくれることは限定的になります。

したがって、個人的には、利根川ラボの研究の延長線上に、「嫌な記憶を消し」たり、「都合の良い記憶を植え付け」たりできる技術が登場するという予想は疑わしいのでは、と思っています。オプトジェネティクスをつかった「エングラム細胞」の研究が「PTSDアルツハイマー病などの治療につながる」などという宣伝文句は、嘘ではないにせよ、割り引いて聞いておいたほうがよいかもしれません。

おわりに

今回は、ひとまず「人間とマウスはもっている記憶の種類からして違うのだから、マウスで開発された記憶改変技術が人間に使われる見込みは、技術的にも原理的にも薄い」という無難な結論に落ち着きました。

しかし、では「人間の記憶を操作する」ような未来は当分こないと思っていいのでしょうか。どうやら、そうでもなさそうです。なぜなら、細胞・分子レベルとは別の方法で、何十年も前から「記憶の操作」は行われてきているからです。

次回はそのあたりを見ていきたいと思います。

*1:Tulving, Endel. "Episodic memory and autonoesis: Uniquely human." The missing link in cognition: Origins of self-reflective consciousness (2005): 3-56.

*2:ここで「意識」という言葉が出てくることに対して、筆者などは「おや?」と思います。意識は、記憶にも増して定義があいまいな概念のようにも思えるからです。Tulvingや他の記憶研究者は、他の動物もある種の意識をもっていることは前提にしているようです。

*3:http://langint.pri.kyoto-u.ac.jp/ai/ja/l/What-is-uniquely-human=An-answer-from-the-study-of-chimpanzee-mind-page3.htmlなど。

*4:Scarf, Damian, Christopher Smith, and Michael Stuart. "A spoon full of studies helps the comparison go down: a comparative analysis of Tulving's spoon test." Frontiers in psychology 5 (2013): 893-893.

読書メモ:げんきな日本論(橋爪大三郎+大澤真幸)

 

 「日本論」とあるが「日本史」の本。

社会学者の橋爪大三郎さんと大澤真幸さんが、縄文時代から幕末までの日本史のトピックを取り上げて、「あれはこうことだったんじゃないか」などとあれこれ語り合う、という内容。目次は以下のとおり。

第一部 はじまりの日本
1、なぜ日本の土器は、世界で一番古いのか
2、なぜ日本には、青銅器時代がないのか
3、なぜ日本では、大きな古墳が造られたのか
4、なぜ日本には、天皇がいるのか
5、なぜ日本人は、仏教を受け入れたのか
6、なぜ日本は、律令制を受け入れたのか
第二部 なかほどの日本
7、なぜ日本には、貴族なるものが存在するのか
8、なぜ日本には、源氏物語が存在するのか
9、なぜ日本では、院政なるものが生まれるのか
10、なぜ日本には、武士なるものが存在するのか
11、なぜ日本には、幕府なるものが存在するのか
12、なぜ日本人は、一揆なるものを結ぶのか
第三部 たけなわの日本
13、なぜ信長は、安土城を造ったのか
14、なぜ秀吉は、朝鮮に攻め込んだのか
15、なぜ鉄砲は、市民社会をうみ出さなかったか
16、なぜ江戸時代の人びとは、儒学国学蘭学を学んだのか
17、なぜ武士たちは、尊皇思想にとりこまれていくのか
18、なぜ攘夷のはずが、開国になるのか

(……この目次だけで読みたくなりませんか!?)

 

目次を見て分かるように、本書の特徴は、「なぜ」を問うているところだと思う。

僕たちは学校で日本史を習った。『まんが・日本の歴史』も何回も読んだし、大人になってからも大河ドラマを見たりして、一通りの流れは頭に入っている。「もし明智光秀が信長暗殺に失敗していたら」など、歴史の「たら・れば」について頭をめぐらせたこともなくはない。

でも、「なぜ日本がこの道をたどったのか」については、あまり考えたことがないのではないか。少なくとも僕はなかった。たとえば

  • なぜ、日本人はひらがなとカタカナを併用し続けたのか
  • なぜ、誰も天皇制を覆そうとしなかったのか
  • なぜ、「武士道」などという変わった倫理規範が生まれたのか

など。言われてみれば、不思議なことだらけだ。

 

本書では、オールラウンドな著作で知られる橋爪大三郎さんと大澤真幸さんの二人が、そうした日本史の「なぜ」の問いを提示し、それぞれの解釈を述べあっていく。意表を突く視点が多くて勉強になる。

 

本書に通底する考え方を強引にまとめるとすれば、

  • 天皇や将軍による統治の正統性(レジティマシー)を確保するために、時の権力者がどのような体制を選び、思想を利用したかに注目する
  • 日本の歴史の普遍性と特殊性を、中国やヨーロッパやイスラム文化圏の歴史と比較することで考察する

などとなるだろうか。そうした視点を通して見えてくる18の「なぜ」への答えが気になる方は、ぜひ本書を読んでみて欲しい。

本書を読むと、いかに日本の歩みが偶然の産物かということがわかる。それは「○○の乱」とか「○○の変」とかの個々の出来事についてだけでなく、「イエ制度」とか「天皇制」など日本人としてのアイデンティティにかかわるものについても言える。そうした精神面のことがらも、平安時代の荘園制とか、戦国時代の結末とか、徳川幕府が選んだ統治の仕組みとか、そういう一つ一つの要素によって偶然的に出来上がってきたことがわかる。

「日本人は○○だ」と断定するような暗い日本論に対して、本書の日本史の読み解き方はとにかく自由で楽しくて明るい。まさに「げんきな日本論」という書名がぴったりだ。 

 

 

探究メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで解明したのか? 〈第5回:利根川ラボが発見した「エングラム細胞」〉

前回は、Eric Kandelによるアメフラシの研究を取り上げました。Kandel氏は、ミニマムな神経系をもつアメフラシを研究対象に選び、記憶の基本的メカニズムとしての「シナプス可塑性」について多くのことを明らかにしました。

1970年代以降、分子・細胞レベルの記憶研究は花開きました。ネズミなどの実験動物で研究が進展しただけでなく、fMRIという非侵襲的な測定技術が出てきたことで、人間でも本格的な研究が可能になりました。このブログでもそうした研究の歴史を簡単に追ってみようと思ったのですが、ここ50年の記憶研究の蓄積は想像したよりも膨大でした。それだけでなく、相反する説が並立していることもあり、それを簡単にまとめるのは至難の業だと思い知りました。

そこで、思い切って時計の針を進め、いま研究の最前線で行われていることを見たいと思います。具体的には、今回は、利根川進氏の研究室(以下「利根川ラボ」)が行ってきた一連の研究を取り上げます。理化学研究所とアメリカのMITに拠点をもつ利根川ラボは、現代の記憶研究を牽引している研究室の一つと言ってよいと思います。彼らの研究成果の意味を理解したいということが、このブログを書き始めた動機の一つでもありました。

記憶研究のフロンティア

Kandelがシナプス可塑性を見つけてから約半世紀たったいま、記憶研究のフロンティアはどこまで来ているのでしょうか。Kandel自身、2014年の総説論文*1の中で、次のように言っています(ちなみにKandel氏はまだ現役で研究をしているようです)。記憶研究にはまだまだオープン・クエスチョンが残っていると述べたうえで、こう書いています。

Recently developed tools for calcium imaging of large populations of neurons in behaving animals combined with optogenetic manipulation and activity-based genetic modification, supplemented with computational approaches, will likely cast light in the foreseeable future on these critical questions in memory research. (意訳)最近では、様々な実験ツールが開発されている。行動中の動物における大規模なニューロン集団からのカルシウムイメージング。光遺伝学的な操作技術や活動依存的な遺伝的改変技術。こうしたツールに計算論的なアプローチを組み合わせることによって、近い将来、記憶研究の核心的なクエスチョンが解明され始めるだろう。 

ここでKandelが言及している技術は、噛み砕いていえば、

  • (一つや二つではなく)たくさんのニューロン活動を同時に
  • (スライス標本や麻酔下などではなく)生きている動物から測定するとともに、
  • (全脳の細胞を無差別にではなく)特定のニューロンを狙って、恣意的なタイミングで活動をコントロールできる

ような技術です。こうした要件を満たす実験が、「カルシウムイメージング」や「オプトジェネティクス」とよばれるテクニックにより実現しており、Kandelがアメフラシの研究を始めたころには考えられなかったような記憶研究が可能になっています。なお、ここで「計算論的アプローチ」(computational approaches)の必要性についても触れられていることは注目に値すると思います。

そして、まさにこのようなツールの開発・利用で先駆けているのが、利根川ラボということになります。彼らはこのような技術を駆使して、Nature、Science級の研究成果を次々と出しています。以下、2012年以降に利根川ラボから出されたプレスリリースをいくつか拾ってみます。

  • 2012年03月23日 記憶が特定の脳神経細胞のネットワークに存在することを証明 ―自然科学で心を研究、心は物質の変化に基づいている―*2
  • 2013年07月26日 記憶の曖昧さに光をあてる -誤りの記憶を形成できることを、光と遺伝子操作を使って証明*3
  • 2014年08月28日 光で記憶を書き換える -「嫌な出来事の記憶」と「楽しい出来事の記憶」をスイッチさせることに成功-*4
  • 2015年05月29日 記憶痕跡回路の中に記憶が蓄えられる神経細胞同士のつながりの強化は記憶の想起には不要-*5
  • 2015年06月18日 光遺伝学によってマウスのうつ状態を改善 ―楽しかった記憶を光で活性化―*6 
  • 2016年03月17日 アルツハイマー病で記憶は失われていない可能性アルツハイマー病モデルマウスの失われた記憶の復元に成功-*7
  • 2016年09月30日 他人を記憶するための海馬の仕組み -記憶痕跡(エングラム)にアクセスし、社会性記憶を操作する-*8 

これらのプレスリリースのタイトルの内容をひとことで要約するとすれば、

  • 脳内に「エングラム細胞群」を見つけ、それを操作することで「記憶に介入」できるようになった

となるでしょうか。

具体的にはどんな実験がなされたのでしょうか。プレスリリースの説明が十分わかりやすいので、ここではごく簡単に実験の概要をまとめてみます。

  • 扱う動物はマウス。
  • 扱う脳部位は海馬(主に歯状回とCA1領域)。
  • 記憶の課題としては、主に「状況依存的恐怖条件づけ」(context-dependent fear conditioning)を採用。マウスをある部屋に入れ、脚への電気ショックを与える。すると、マウスはその部屋に入っただけで「すくみ行動」(freezing)をとるようになる。この記憶の形成には海馬が関わっていることが知られている。
  • 遺伝子改変したマウスをつくる。このマウスは、
  1. 特定の時間に活動した海馬のニューロンにチャネルロドプシンというタンパク質を発現させることができ、
  2. チャネルロドプシンが発現した細胞群は、ブルーライトを照射することで強制的に発火させることができる
  • この方法を使って、マウスが部屋を探索しているときに活動した細胞だけを標識しておき、その部屋で恐怖条件づけをする。あとからライトを当てて細胞群を活動させると、別の部屋にいても「すくみ」が生じる。これは、もとの部屋のことを思い出したためと考えられる。ちなみに、恐怖刺激を与えた部屋とは別の部屋でチャネルロドプシンを発現させたマウスは、ライトを当てても「すくみ」を生じない。

この方法を使って、2012年の論文では、海馬の歯状回という部位に、部屋の記憶の「エングラム細胞」を見つけたとしています。その後の論文では、部屋と結び付ける刺激を電気ショックではなくオスのマウスがメスのマウスと一緒に過ごすという「楽しい記憶」に変えたり、あらかじめマウスを「うつ病」や「アルツハイマー病」の状態にしておいてから記憶を操作するとどうなるか、などといった様々なバリエーションの研究が行われています。また、2016年の最後の論文では、恐怖条件づけ以外の実験パラダイムの研究成果となっています。これは具体的には、「他のマウス個体についての記憶を、海馬CA1領域への操作で書き換えることができた」とする内容で、ここにきて研究が新たなステージに入っていることを窺わせます。

実験の解釈

さて、2012年の研究で「エングラム細胞が見つかった」と言えるのはなぜでしょうか。

ある神経活動「a」が、脳の何らかの機能「A」の原因となっていることを実証するためには、

  • 神経活動aを阻害すると、(ほかの機能には影響を与えずに)機能Aが生じなくなる 
  • (他の神経活動は同じままで)神経活動aを引き起こすと、機能Aが生じる 

ことの両方を示す必要になります。前者は「loss of function」の証明、後者は「gain of function」の証明と言われます。この両方が示せてはじめて、aがAを引き起こす必要十分条件だといえるようになります。

2012年の研究で明らかになったのは、海馬歯状回の特定の一群の細胞を活動させると部屋の環境と条件づけられているはずの「すくみ行動」が引き起こされる、ということでした。このすくみ行動を「部屋の記憶」と読み替えれば、

  • 細胞群が活動 → 部屋の記憶が呼び起こされる

となります。よって、これは状況依存的恐怖条件づけ課題の記憶についての「gain of function」を証明した研究といえます。

では、loss of functionの証明はどうかというと、この論文内でそれが証明されているかどうかはちょっとわからないのですが、少なくとも他のいくつかの研究において、「海馬の細胞群の活動を止めると記憶が失われる」ことが分かっているようです(エングラム細胞について様々な研究は利根川氏の2015年のレビュー論文*9で網羅的に紹介されています。)

以上の証拠を合わせると、海馬の一群の細胞の活動は、ある種の記憶の想起を因果的に引き起こす、つまり「エングラム細胞」である、といえるわけです。ここで、「一群の細胞」とは記憶が形成されるときに活動していた細胞なので、記憶の符号化と想起が同じ場所で行われるということも分かります*10

海馬という「記憶工場」について分かったこと・分かっていないこと

うーん、理屈はわかるけど、それでエングラムを突き止めたと言えるのだろうか…?

この研究について初めて知ったとき、正直、筆者はそんなふうに思いました。

結局、一連の研究は何を明らかにして、まだ何がまだ分かっていないのでしょうか。あれこれ考えた結果、筆者は以下のような理解にたどり着きました。

海馬を「工場」に見立てます。「記憶工場」である海馬は、「経験」という原材料をもとに、記憶という「製品」をつくります。

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「A」という原材料(経験)に対しては、製品(記憶)「A」を、原材料「B」に対しては製品「B」が出力されます。

私たちはこの工場の仕組みに興味があるのですが、その中身はブラックボックスです。分かっているのは、間違いなく「製品」を作っているのがこの工場であるということ。なぜなら工場を破壊すると、製品(=記憶)が作られなくなるからです。もう一つ分かっているのは、この工場の中には、たくさんの従業員(=ニューロン)が働いていることです。従業員同士で誰と誰が連絡を取り合っているか(=シナプスを形成しているか)もある程度分かっています。しかし、従業員一人ひとりが何をしているのかはまったく分かりません。

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さて、「エングラム細胞」をめぐる一連の研究が達成したのは、この「記憶工場」で言えば

  • 各製品を作っている従業員のチームが特定できた

ということではないでしょうか。なぜそれが分かるかというと、

  • そのチームAが全員欠勤すると、製品Aができなくなる
  • チームAを強制的に働かせると、製品Aがつくられる

ことが判明したからです。ちなみに、チームAと別のチームBのメンバーは、一部重なっていることがありえます。複数のプロジェクトを兼務する従業員がいてもよいということです。

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これだけでも、はじめはブラックボックスだった工場(=海馬)のメカニズムについて、かなりのことがわかったと言えると思います。ですが、まだ不十分な点もあります。

  1. チームは特定できたが、従業員一人ひとり(ニューロン一つひとつ)が何をしているかは依然として分からない。製品製造のプロセスはチーム内でどのように分業されているのか。例えば、キーパーソンがいるのか、全員が平等に業務を分担しているのか、など。
  2. チームのメンバーが明らかにできたのは、ごく単純な製品(恐怖の記憶など)についてでしかない。もっと精巧な製品(複雑なエピソード記憶など)に対しても、同じようにチームが結成されるのかは分からない。

以上、ちょっとイメージが湧きやすいメタファーを考えてみたつもりなのですが、いかがでしょうか。

おわりに:「エングラム細胞」研究の今後

利根川氏が前述の2015年のレビュー論文*11で「今後の課題」について以下のように書いています。

While memory engram theory has clearly come of age, a number of important issues remain to be investigated. One is the nature of the ‘‘enduring changes’’ that occur in the engram cells and their connections.(…) Moreover, the integrative evidence for engram cells has been obtained to date in this one study, and only for contextual fear memory in DG (Ryan et al., 2015). Memory, however, appears in many different forms (e.g., emotional, procedural, working, semantic, perceptual), each supported by one or more distinct brain regions and systems(…)significant modifications of the technology may be needed to identify engram and engram cells for each type of memory. 

引用箇所では、今後の課題として

  • どのようなメカニズムでエングラム細胞が作られるのかや、エングラム細胞の生理学的な性質を明らかにすること
  • 恐怖条件づけ以外の種類の記憶に対するエングラム細胞や、他の脳部位におけるエングラム細胞を研究するための手法を開発すること

が挙げられています。前者については、「シナプス可塑性により機能的なニューロンのグループ(=セルアセンブリ)が形成される」というのが標準的なストーリーのようです。今後も利根川ラボを筆頭に、世界中の研究室から研究成果が出てくると思われます。

一方、本ブログの探究はどこへ向かえばよいでしょうか。利根川氏が挙げている二つの課題に対応するかたちで、筆者としても二つの疑問を持っています。

  • 疑問1:エングラム細胞のようなものがあるとして、その形成や読み出しのプロセスについてどんな可能性が考えうるか? つまり、記憶メカニズムの理論研究はどれほど進んでいるのか。
  • 疑問2:人の記憶についてはどこまでわかっているのか? ネズミの「エングラム細胞」の研究は、人の記憶について何を教えてくれるのか。

この二つを次回以降の課題としたいと思います。

*1:Kandel, Eric R., Yadin Dudai, and Mark R. Mayford. "The molecular and systems biology of memory." Cell 157.1 (2014): 163-186.

*2:(原論文)Xu Liu, Steve Ramirez, Petti T. Pang, Corey B. Puryear, Arvind Govindarajan, Karl Deisseroth, and Susumu Tonegawa “Optogenetic stimulation of a hippocampal engram activates fear memory recall”Nature,2012

*3:(原論文)Steve Ramirez, Xu Liu, Pei-Ann Lin, Junghyup Suh, Michele Pignatelli, Roger L. Redondo, Thomas J. Ryan, and Susumu Tonegawa. "Creating a false memory in the hippocampus".Science, 2013

*4:(原論文)Roger L Redondo, Joshua Kim, Autumn L Arons, Steve Ramirez, Xu Liu, Susumu Tonegawa. "Bidirectional reversal of the valence associated with the hippocampal memory engram." Nature, 2014

*5: Tomás J. Ryan, Dheeraj S. Roy, Michele Pignatelli, Autumn Arons and Susumu Tonegawa, "Engram Cells Retain Memory Under Retrograde Amnesia", Science, 2015

*6:Steve Ramirez, Xu Liu, Christopher J. MacDonald, Anthony Moffa, Joanne Zhou, Roger L. Redondo & Susumu Tonegawa, "Activating positive memory engrams suppresses depression-like behavior", Nature 2015

*7:Dheeraj S. Roy, Autumn Arons, Teryn I. Mitchell, Michele Pignatelli, Tomás J. Ryan and Susumu Tonegawa, "Memory retrieval by activating engram cells in mouse models of early Alzheimer’s disease", Nature, 2016 

*8:Teruhiro Okuyama, Takashi Kitamura, Dheeraj S. Roy, Shigeyoshi Itohara, and Susumu Tonegawa, "Ventral CA1 neurons store social memory.", Science, 2016

*9:Tonegawa, Susumu, et al. "Memory engram cells have come of age." Neuron 87.5 (2015): 918-931.

*10:なお、ここですごく気になるのは、それぞれの記憶に「何個のニューロンが関わっているのか」ということです。論文を細かく読めば分かるのかもしれませんが、残念ながらそこまで調べられていません。

*11:Tonegawa, Susumu, et al. "Memory engram cells have come of age." Neuron 87.5 (2015): 918-931.

探究メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで解明したのか? 〈第4回:Kandelの「徹底した還元主義的アプローチ」とその限界〉

前回は、「記憶の物理的実体(=エングラム)はシナプスにある」という考え方を紹介しました。それとともに、シナプスのレベルだけでなく、より小さな分子レベル、あるいはより大きな細胞集団のレベルなど、異なる階層ごとにエングラムを見出しうることも指摘しました。

【補足】 ×「統一見解」→○「暫定的な見解」

前回の記事では、上記のような考え方を「統一見解」として紹介したのですが、この点についてあるコメントをいただいたので、本論に入る前に触れておきたいと思います。

海馬の記憶メカニズムを第一線で研究されている@Kazu_ZT先生に、今後の内容についてtwitterで質問をしました。それに対するたいへん丁寧な回答をいただくとともに、「あくまで個人の考え方です」とされたうえで、次の旨の指摘をいただきました。

  • 「いまだ記憶のメカニズムは謎だらけ」であって、「現在の「エングラム」の見方も、今までの研究で利用された学習課題でのみ通用するもの」であること。

現役の研究者にこのような意見をいただいたということは、「シナプスの集団がエングラムである」という考え方は、とても「統一見解」とは言えないようです。むしろ「暫定的な見解」くらいに捉えておいたほうが良いのかもしれません。ついでに言えば、「エングラム」という言葉の使い方も一様ではないようです。たとえば、今回取り上げるKandel氏は、筆者の知る限り「エングラム」という言葉をそもそも用いていません(…なぜでしょうか?)。

このように、ごく基本的な部分ですら、記憶のメカニズムには確かな合意が存在しないということは、肝に銘じておきたいと思います。これはある意味、すごく面白いことだと思います。たとえば「意識」のように「難しすぎて扱われてこなかったテーマ」であれば未解決なのは納得できますが、100年以上前から研究者たちが継続的に取り組んできたにも関わらずまだ根本的なところで謎が残っているというのは、「記憶」という研究テーマの奥深さを物語っている気がします。

とはいえ、「シナプス可塑性が記憶のメカニズムの根本にある」とする見方を、現在の多くの研究者が共有していることは事実だと思います。今回は、そうなってきた経緯を見ていきます。

シナプス可塑性というアイディア

シナプス可塑性」というアイディア自体はいつからあったのでしょうか。

この話題になるとまず挙がるのが、Donald Hebb(ドナルド・ヘブ)という心理学者と、彼の1949年の著作『行動の機構』です。実際、可塑性をもつシナプスは「Hebbシナプス」とよばれたりします。しかし、この『行動の機構』は、いざ読んでみるとかなり難解な本で、Hebbの理論的貢献がどこにあるのかも分かりにくいところがあります。Hebbの理論は、「Hebbシナプス」よりも「セルアセンブリ」という考え方に力点があるように思うですが、意図的か意図せずか両者が一緒くたに引用されているケースが多い気がします。さらに個人的印象になりますが、脳科学におけるHebbの業績の扱いは、この分野の進み方を象徴しているような気がしています。それは、「過去の研究者がスペキュレーション(想像的な推論)に基づいて構想した概念を、都合良く参照しているうちにいつしかそれが既成事実化され、その上に新しい実験の解釈が積み重なっていく」というあり方です。これはまったく素人の感想にすぎないのですが……。

ともかく、一つはっきりしているのは、「シナプス可塑性」という考え方自体はHebbのオリジナルではないということで、神経細胞ニューロン)の発見者であるCajal(カハール)が1894年の講義で明確にその機構の可能性を予言しており、1948年にKonorskiという人が"synaptic plasticity"という言葉を初めて用いたとされています。

このように、シナプス可塑性のアイディア自体は、ニューロンの存在と同じくらい古くから考えられていたようです。しかし、実際にシナプスが可塑性をもつかどうかは、長らく明らかにされていませんでした。

シナプス可塑性の存在はどう証明され、記憶メカニズムの主役だとみなされるに至ったのでしょうか。

どの本を読んでも必ず紹介されているのは、

  • Eric Kandel(エリック・カンデル)のアメフラシの研究
  • Bliss&Lomo(ブリス&レモ)のLTPの発見

です。今回は主に前者についてみてきます。

Kandelの戦略

シナプス可塑性を初めて証明したのは、ポーランド出身のユダヤ人の神経科学者Eric Kandelであるとされます。Kandelの名前は、『カンデル神経科学』という教科書の著者として広く知られています。筆者の在籍していた大学院でも、この教科書を輪読していく講義がありました。

Kandelの研究については、彼の自叙伝がとても参考になります。 

In Search of Memory: The Emergence of a New Science of Mind

In Search of Memory: The Emergence of a New Science of Mind

 

 Kandel先生は今でこそ細胞生理学の権現のような人ですが、最初は精神分析の臨床医だったそうです。もともとフロイト精神分析に魅せられていた彼は、「エゴ」「イド」などの心の働きが脳でどのように実現しているのかという興味から、細胞生理学の道に入っていきます。しかし「自我」や「意識」などを生物学的に扱うのは時期尚早であると感じた彼は、「記憶」を生涯の研究テーマとすることに決めます。なお、この自伝で筆者が好きなエピソードがあります。Kandelは利根川進氏との交流があり、共著論文も書いたことがあるそうなのですが、免疫学でノーベル賞をとり、次は脳科学、それも「意識」をターゲットにしようとしていた利根川氏に対し、「意識はまだ難しいよ」と進言したのは他ならぬKandelだったそうです。

さて、Kandelが記憶の研究を始めた当時、患者HMの研究成果(Scoville & Milner 1957)が一世を風靡していました(HMについては昨年出た"Patient H.M. " (by Luke Dittrich)という本が大変面白いです。読書メモはこちら)。HMの症例が明らかにしたのは、どうやら記憶の形成には「海馬」が重要だということで、当時一般的であった記憶の非局在説に疑念を突きつけた点で大きなインパクトがありました。

そこで、Kandelも海馬の細胞生理学を始めます。やってみると、ニューロン自体の性質は、海馬も他の脳部位と変わったところがないことがわかります。そこで、Kandelはむしろ神経細胞同士の「つながり」が重要なのではと考え、「シナプス可塑性」を、記憶のメカニズムとして有望視し始めます。

しかし、当時の技術では、Kandelが扱っていたネコの海馬ではシナプスの研究を行うのは困難でした。そこで、彼が言うところの「徹底した還元主義的アプローチ」(radically reductionist approach)を取ります。具体的には、アメフラシ――グーグル画像検索などすると出てきますが、ナメクジみたいな軟体動物です——を使うことにしたのです。その理由は、ニューロン数の少ないことと、ニューロンのサイズが大きいことでした。当時アメフラシを研究していたのは世界2人しかいなかったそうで、そのうちの一人のフランス人Taucに面会を申し込み、共同研究を始めます。

アメフラシの潜在記憶の研究

シンプルな動物とはいえ、アメフラシにも記憶があります。具体的には、単純な非連合学習と古典的条件付けを行うことが知られています。ここで、「学習」と「記憶」の違いが気になるところですが、Kandelは「過去の経験によって行動を変えるのが学習」であり、「それが持続すれば記憶である」というようにあっさり説明しており、ここでは両者はほぼイコールと考えてよさそうです。

そうした「学習=記憶」の一つは、例えば次のようなものです。アメフラシの「水管(サイフォン)」とよばれる部分を刺激すると、アメフラシは驚いて「エラ」を引っ込めます。この行動は「エラ引き込め反射」 (gill withdrawal reflex)とよばれます。ただし、刺激が弱い場合には引き込めは起こりません。

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アメフラシで知られている「古典的条件付け学習」では、ここに尾(tail)への刺激を組み合わせます。何度か「尾を刺激→水管を刺激」という順序での刺激を繰り返すと、尾を刺激した後での水管の刺激が弱くても、エラ引き込め反射が起こるようになります。

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この効果がかなりの時間保持されることから、ある種の「学習=記憶」としてみなせる、ということになります。

このようなアメフラシを使うことに決めたKandelは、一度「行動」の部分は忘れて、純粋な電気生理学をやりました。つまり、アメフラシを解剖し、その神経細胞に電極を刺して、シナプスの性質を調べたのです。すると、二つのニューロンの間に、過去の刺激に応じた結合性の変化(具体的にはsensitization、habituation、classical conditioningに相当する変化)が起こることがわかりました。これが、シナプスが可塑性をもつことの初めての証明となります。

この可塑性は、実際にアメフラシの「記憶」に関わっているのか。それを確かめるためにKandelが次にやったことは、

でした。この作業に10年以上の歳月を費やし、記憶を研究するにふさわしいアメフラシの「行動」と、それに関与している神経経路を突き止めていきます。

その一つが、先に挙げたエラ引き込め反射の古典的条件付け学習でした。この行動には、「水管からの感覚ニューロン」、「エラにつながる運動ニューロン」、「尾の感覚ニューロンから接続を受ける介在ニューロン」の三つが関わっていました。

以下はかなり単純化した説明です。

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まず、水管の感覚ニューロンに入力があると、シナプスに伝達物質(グルタミン酸)を出し、エラの運動ニューロンに伝わります。

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このシナプス付近には尾からの介在ニューロンも軸索を伸ばしており、尾からの入力に際してセロトニンという物質を放出します。このセロトニンがあると、水管→エラのシナプスが強化(促通、facilitate)されます。それにより、弱い水管への刺激でも、尾への刺激と組み合わさることによって、エラ引き込めが起こります。

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Kandelは、このメカニズムを「異シナプス性促通」とよび、短期記憶の仕組みであるとみなしています。つまり、セロトニンが放出されている」という状態が、「尾が刺激された」という「記憶」の実体である、ということになります*1

その後、Kandelはこのセロトニンがどう作用しているのかを詳細に調べていき、細胞内の「セカンドメッセンジャー」の機構を突き止めたり、この学習が長期記憶になる仕組みとしてタンパク質の合成により新しいシナプス結合が作られる機構も明らかにしたりしています。そうした一連の研究に対して、2000年にKandelはノーベル医学・生理学賞を受賞しています。

以上は、「世界で初めて、ある特定の記憶のメカニズムを、細胞生理学レベルで明らかにした研究」と言えます。目の付け所といい、徹底的に調べつくす根気といい、驚くべき業績だと思います。

特筆すべきは、アメフラシの場合、行動レベルでの学習と、ニューロンレベルでの「学習」が一対一で対応している、ということです。どういうことかと言うと、

       ↓

  • 「細胞Cが、細胞Aと細胞Bの連合を学習した」

のように、「刺激」や「行動」という主語を、「ニューロン」に置き換えることができるということです。こうした対応関係を、Kandelは"neural analogs of learning" ――直訳すればニューロンにおける学習の類似物」——と呼んでいます。このアナロジーが成り立つために、「尾の刺激→水管刺激」という「記憶」の「エングラム」が、特定の三つの細胞が関与するシナプスの強度――さらに言えば、その細胞内の分子の振る舞いとして――完璧に突き止められた、ということになるのです*2

カンデルのアプローチの限界

さて、次に気になるのは、アメフラシの「記憶」が、もっと複雑な、私たちが興味のある種類の「記憶」とどれくらい共通しているのか、ということではないでしょうか。

シナプス可塑性」という仕組み自体に関しては、他の動物・他のニューロン・他の学習課題でも関与していることが次々に明らかになっていきました。その口火を切ったのが、BlissとLomoがネズミの海馬の標本スライスで長期増強(LTP:long term potentiation)という現象を発見したこととされています。LTPはほとんどの教科書に出てくるのでここでは割愛します。LTPやその他のシナプス可塑性が、様々な動物の様々な記憶に関わっている事例が、今日まで数多く明らかになっています。

とはいえ、カンデルがアメフラシで行った手法で複雑な記憶が説明できるかというと、そうは思えません。それは、筆者が思うに、それらの複雑な記憶では、Kandelの言う"neural analog"が成り立たないからです。たとえば、「哺乳類のエピソード記憶」ともなれば、アメフラシの反射行動とは比べ物にならないほど多くの細胞が関わっているはずだし、その細胞も生得的に決まったものではないと考えられます。

したがって、単一のシナプスではなく、「シナプスの集団」という階層を見ていく必要が出てきます。Kandelの言い方を借りれば、"neural circuit analogs of learning" (=学習の神経回路的類似物)が必要、などと言えるでしょうか。

 

おわりに

以上、記憶研究の一つの成功事例とされるKandelのアメフラシの研究について、簡単に見てきました。Kandelのアプローチは画期的であり、非常に多くのことを明らかにしました。その後Kandelは、1990年代にはアメフラシの研究に一区切りをつけ、ネズミの海馬などへフィールドを移してきています。そこでも、アメフラシで用いた生理学的・細胞分子学的アプローチは多くを明らかにすると思いますが、複雑な記憶に関しては、うえで述べたような理由から、アメフラシの学習のときのような「完全な解明」は無理だと考えられます。

そこでカギとなるのが、Hebbが提案したもう一つ仮説、「セルアセンブリ」です。最近の記憶研究は、主にこの「セルアセンブリ」のレベルでエングラムを探すものに移っているようです。

次回からはいよいよ、現代の記憶研究を見ていくことにします。

*1:なお、ここまで書いて何なのですが、この説明には腑に落ちないことが一つあります。尾と水管の刺激が「結び付けられる」のが古典的条件付けのはずで、「尾と水管の刺激のタイミングが同期していることによってシナプスが促通する」メカニズムが必要だと思うのですが、それについて説明されていない点です。長期記憶のメカニズムも含めて、どの文献を読んでも、そこの説明がどうなっているのかを突き止めることができませんでした…。

*2:ただし前述のようにKandel自身はエングラムという言葉は使っていません。

読書メモ:『現代思想 2017年3月臨時増刊号 知のトップランナー50人の美しいセオリー』

  ※記憶の脳科学の話は一回お休みとします。平常運転の読書メモです。

 

 

現代思想」の増刊号。様々な分野の学者・研究者が、「美しいセオリー」をテーマに、短い文章を寄せている。

お題を決めて寄稿を集めるこのフォーマットは、英語圏の名だたる科学者たちの出版エージェントを一手に手掛ける、ジョン・ブロックマン氏の"annual question"を踏襲したものだ。

寄稿者は、物理学者、脳科学者、数学者、哲学者、社会学者など、日本の知性を代表すると言ってよいような豪華メンバーが、気鋭から大御所まで50名。面白くないわけがない。

完読はできていないものの、興味を惹かれるものから順番に40本ほど読んだ。(目次はhttp://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3013で見ることできます。)

「美しいセオリー(理論)」として、アインシュタインの相対性原理やダーウィンの進化論などの定番を挙げる論者もいれば、「美しい理論とは何か」や「美しいとは何か」や「理論とは何か」を考察している論者もいる。さらに「理論は美しくあるべき」という先入観に対して、異論・違和感・懸念を表明している論者が少なからずいたのが印象的だった。

各論考に対する私の感想はいくつかに分かれた。

  1. 著者ならではの視点に、「この人らしいなあ」と思いながら心地よく読めたもの
  2. 平易に読めたが、あとからじわじわ新しい発見が得られたもの
  3. 難解で、「やっぱり何言っているかわからない」と思ったもの
  4. 度肝を抜かれ、意表をつかれたもの

1.は例えば、塚田稔氏、長谷川眞理子氏、細谷曉夫氏、津田一郎氏など。彼らの研究のバックボーンにある「美しいセオリー」を、著者らしい言葉で解説している。

2.は例えば、池田清彦氏の言う「学問が進むと美しい理論は破綻する」という逆説的な事実。または、山本貴光氏の「理論の理論」、つまり「人が理論を生み出すときの方法論」という着眼点など。また、高瀬正仁氏の、客観的に美しい数学理論というものはなく、「「無」から「有」を生み出そうとするかのような数学的想像の源泉」が、数学者にとって「美」なのだ、という指摘は目から鱗だった。

3.はいくつかあったけど省略。

4.は、例えば山極寿一氏の短い文章。常識を180度反転させるセオリーに衝撃が走った。あるいは、あえて今「功利主義」に光を当てる意味を論じた吉川浩満氏の論考。また一番驚いたという意味では三浦俊彦氏の統計学クイズの解説は衝撃的だった。

全体を通して一つ選ぶとしたら、坂井豊貴氏の「美は重要ではない」と題されたエッセイを挙げたい。経済学者が美しい理論に魅せられてしまうことの理由と危険性を見事に描いていて、ある意味で、この特集号全体のトーンが集約された文章になっていると感じた。

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ロックマンの"annual question"はどうしても回答に粗密・軽重があるのに対して、本書はどれをとっても読み応えがあった。まったく本家に負けてない、と思った。また作ってほしい。