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読書メモなど

読書メモ:最近読んだビジネス書5冊

最近、企業経営に関する数冊の本を読んだ。

何冊も読むつもりはなかったのだが、一冊目が思いのほか面白く、芋づる式に買ってしまった。

今回分かったのが、経営の本というのは、いっかいの会社員が読んでも相当面白いということ。とくに、10年以上前のビジネス書で今も書店に残っているものというのは、それなりの理由があると思わされた。

 

備忘録として、簡単にメモしておく。

***

「経営の定石」の失敗学 傾く企業の驚くべき共通点

「経営の定石」の失敗学 傾く企業の驚くべき共通点

 

「現場主義」「ワイガヤ」「モチベーション経営」など、「定石」「セオリー」と呼ばれるような経営方針が間違って使われるとどんなひどいことになるか、そして「定石の誤用」で苦境に立っている企業はどう対処すればよいかを、経験豊富な経営コンサルタントが事例を交えて解説した本。

「経営のキーワード」というものは、「帰納によって導かれたものか、演繹的に導かれたものか」、「分析のためのものか、経営方針のためのものか」の2軸で4種類に分けられるという説明には納得感があった。いわゆる「経営の定石」は「帰納による✖経営方針のためのキーワード」であって、上手くいくかどうかは状況に依存する。当たり前だけど、それはそうだ。

経営者向けの内容が多いが、一介の社員に向けた「現場の人へ」という項目も設けられている。著者が一社員に向けて繰り返し書いているのが、「一度は本当のことを言って怒られろ」ということ。上に何かを報告・提案するとき、最初は忖度せずに本当のことを言い、否定されたらその後に「魂を売れ」という。有益なアドバイスだ。

 

組織戦略の考え方―企業経営の健全性のために (ちくま新書)

組織戦略の考え方―企業経営の健全性のために (ちくま新書)

 

日本企業の問題点を指摘した組織論の名著として知られる本。社内の意思決定のプロセスや人事制度などの問題点を、「権力」という観点で分析する。もし、大企業などに勤めている人で「なんかうちの会社、ダメな気がするなあ」と思っている人がいたら、この本を膝を打ちながら読めるかもしれない。「だからどうしろ」という具体的なアドバイスはあまりないが、閉塞感の正体を知ることで、少し立ち回りやすくなるかも。

  

衰退の法則

衰退の法則

 

 産業再生機構などで様々な企業の再建に関わってきた著者が、あえて博士課程に入学し、学術研究として「日本の企業が衰退するメカニズムは何か」をまとめた本。破綻した企業の社員・元社員・社外スタッフへのインタビューから、「衰退」の時期の企業の共通点、それが日本人の特性にどう関係しているか、そしてその特性を衰退に結び付けないためにどうすればよいかを考察している。以前『デスマーチはなぜなくならないのか』を読んだときにも思ったが、実務のなかで浮かんできた「疑問」なり「仮説」を、地道な学術的アプローチで解明しようという意欲はすごいし頭が下がる。

「衰退サイクル」 に入ってしまった企業の共通点とは、雑にまとめてしまうと、非オーナー系企業の場合は「社内調整にばかり労力が割かれるようになってしまうこと」、オーナー系企業の場合は「オーナーに意思決定力のすべてが集中していて、かつその決定が外部環境から逸れ始めること」。インタビュー調査や、その統計分析での裏付けは説得力があるように思えた。しいて言えば、研究の結果のなかに著者の最初の「仮説」をはみ出るサプライズ的要素がなかったのは、ちょっとだけ物足りなかった。

個人的に本書で一番インパクトがあったのは、多くのオーナー系企業では「オーナーの頭のなかだけでPDCAが回っている」という指摘だった。

 

 

ざっくり分かるファイナンス 経営センスを磨くための財務 (光文社新書)

ざっくり分かるファイナンス 経営センスを磨くための財務 (光文社新書)

 

 経営の本を読んでいるうちに、会計やファイナンスについて何も知らないことに気づいて読んでみた。「ざっくり分かる」とあるが、割と骨太な内容だと感じた(自分がまったく無知だったこともあると思うが)。損益だけを見ていてはダメ、キャッシュフローの視点が大事。資金調達が主に「銀行から」なのか「株主から」なのかによって、その企業の経営戦略も全く変わってくる。そうした基本的なことがいちいち勉強になる。

 

ロジカル・プレゼンテーション――自分の考えを効果的に伝える戦略コンサルタントの「提案の技術」
 

ビジネスパーソンがいかに「提案」を作り上げるべきかを指南した本。現場の社員向けに書かれたものなので、5冊のなかで実用性は一番高かった。「提案を通す」ためには、まずは論理をしっかりと組み立てること。そのうえで相手に合わせて、プレゼンを設計すること。論理構築・プレゼン設計の両方について、かなりわかりやすく解説される。

提案を受けた人が懐疑的になる理由は、「本当にそうなの?」と「それだけなの?」という二つの疑問しかないという。そのためには、「縦の論理」(因果関係)と「横の論理」(重複・漏れのなさ)が担保されていなければならない。そういわれるととてもシンプルで、目からうろこだった。

ビジネスの提案だけでなく、ブログの構成を考えるときなど、どんな表現をする際にも役に立つ汎用的な本だと感じた。

新刊紹介メモ:数学はなぜ哲学の問題になるのか(イアン・ハッキング著)

 

数学はなぜ哲学の問題になるのか

数学はなぜ哲学の問題になるのか

 

仕事で関わった書籍です。

発売日に合わせ、ここでも紹介させてもらいます。

 

興味のある方は、まずは訳者の大西琢朗先生の解説をぜひご覧ください。

イアン・ハッキング『数学はなぜ哲学の哲学の問題になるのか』 - Takuro Onishi

 

以下、一読者としての、メモ程度の紹介です。

***

本書の原著が出たのが3年前。

ハッキング氏の本を読んだことはなかったのですが、そのころ「数学の哲学」に俄かに興味が湧いていたこともあり、読んでみました。

 

数学の哲学。

この分野になじみがなくても、「数学を哲学したい気分」になったことがある人は多いはずです。私もその一人でした。

 

理由の一つは、「なぜ数学は役立つのか?」問題。

これは、よく「理屈に合わない有効性」というフレーズでも表現されます。頭のなかだけで出来る数学が、どうして実世界を相手にする「科学」や「工学」に使えるのかという不思議です。

 

もう一つは、「数学が分かるってどういうこと?」問題。

定理を証明したなどときの「なるほど、そうだよね、それしかあり得ないよね!」という感覚があります。

数学の専門家でなくとも、中学や高校レベルの数学でも味わえるものだと思います。私自身は、中学生のとき、はじめて自分で三平方の定理を証明できたときの、「おお、わかった!」という体験を、いまでも不思議と覚えています。

 

本書でハッキング氏は、主にこの二つの不思議、つまり「応用」と「証明」という二つの謎をめぐって、数学の哲学が存在してきたといいます。

 

プラトンに始まる古今の哲学者から、親交のある現代数学者の見解まで、ありとあらゆる哲学者・数学者を登場させ、紹介・論評をしてゆきます。

 

「○○主義」「××主義」などと、考え方の系譜は一応区分されるのですが、○○対××の論争が気づいてみたら△△対××にシフトしていたり、いつの間にか○○主義の人が××的な主張をして××主義の人が○○的な主張しているアベコベな状況になっていたりと、とにかく「数学の哲学」の展開が一本道ではないことがわかります。

 

ハッキングさんの語り口も独特です。

「そもそも証明って言っても、ライプニッツ的証明とデカルト的証明があってね」「数学の応用というけれど、それには7種類くらいあってね」などなど。私たちが無自覚に使っている概念のもつ複雑さを暴いてみせます。

 

それにしても難しい本です。

1章ずつ、気になるところから読むのがいいかもしれません。

本書を読み終えても、決して「数学を哲学したい気分」の原因となった「謎」は解消しません。人間の知性の最もピュアな部分の真相に触れることを期待して本書を手に取った私は、いかに事態が入り組んでいるかを知り、眩暈を覚えました。

ただ、これはちょっとおかしな感想かもしれませんが、本書を読んで、ちょっと安心しました。本書で登場するような錚々たる数学者・哲学者たちが議論を重ねてきたにもかかわらず「数学の謎」は、謎のまま残されている。本書の言葉でいえば、「数学の哲学は永続的である」。自分が素人として持っていた「数学を哲学したい気分」は、決して自分の無知ゆえだけでないことがわかり、ちょっとほっとしたところがありました。

 

「数学の哲学」について、もう少し体系的に整理することを指向して書かれた解説書としては、下記がおすすめです。本書と合わせて読まれるとよいかもしれません。 

数学を哲学する

数学を哲学する

 

 

 

思考整理メモ:科学コミュニケーションから考える量子力学の解釈問題(後編)

中編からの続きです。

量子力学の解釈問題について、いまの専門家たちは何と言っているか(続き)

●「うまくいっているのだから、認めよう」派

筆者は、大学2年生のときに、はじめて量子力学の講義を受けました。

その講義の先生は「量子力学にはいろいろと不思議なことがあるけれども、慣れるしかありません」ということを言っていたように記憶しています。私の周りの友人たちは、この言葉に忠実に、量子力学に「慣れる」ことを競うようになりました。自然と、「解釈問題を気にするのは未熟」という空気が醸成されていました。

こうした態度は、もっと明け透けに「Shut up and calculate!(黙って計算せよ!)」と表現されたりもします。量子力学が正しいのは間違いない。解釈問題など気にせず先へ進もうよ、ということです。

ところで、リチャード・ファインマンの有名な言葉に、

“It is safe to say, nobody understands quantum mechanics”
量子力学を理解している人なんていないと言っていいだろう。

というものがあります。これだけ聞くと「量子力学には人知を超えている」と言っているように思え、実際そのような文脈で引用されることも多い言葉です。しかしYouTubeで実際の発言を観てみると、むしろファインマンのポイントは「直観的に理解できないのは諦めて、皆さん勉強を進めようね」ということにあるようにも聞こえます。

www.youtube.com

もっと洗練されたかたちで表明する人もいます。

たとえば、物性物理学者の田崎晴明氏は以下のツイートをされていました。

また清水明氏の教科書『新版 量子論の基礎』(サイエンス社、2004年)にはこうあります。

量子論は、実験事実や理論的要求からの論理的必然として出てきたものではないのだが、今のところ、なぜか驚異的にうまくいっている理論体系なのである。(p.15)

両先生の書き方に共通しているのは、「人間のもつマクロな直観とのズレがあること」や「理論に論理的必然性がないこと」は担保しつつも、「それはそれとして、量子力学を受け入れよう」という立場だと思います。

以上のように、言い方の丁寧さ・雑さには違いがあっても、「うまくいっているのだから、認めようよ、先へ進もうよ」という立場は、かなり多くの物理学者に共有されているようです。

●「今後の解決に期待」派

その一方で、解釈問題は「未解決」であることを前面に出した解説も見かけます。解釈問題を、量子力学の成立以来続く「未解決問題」と捉える立場です。

つい最近、物理学会誌の付録として公開された「物理学70の不思議」という小冊子があります。34番目の不思議(物理学の未解決問題)として、「量子力学の不思議を実験的に検証する」が取り上げられています。

最後に残された未解決問題は,1935年にアインシュタインポドルスキー,ローゼンが提起したEPRパラドックスに代表される「観測問題」であろう.このパラドックスベルの不等式によって,局所実在性が正しいかという問題に還元され,実験で検証できることが示された.そして1982年,レーザーで励起した原子からの発光を観測したアスペの実験によって,局所実在性が否定され,量子もつれエンタングルメント)が実証されることになった.

次なる目標は,「波束の収縮」を理解することであろう.近年めざましく発展している量子情報理論と実験の進展によって,射影仮説,つまり波束の収束ではなく,観測するたびに世界が分岐するというエベレットの多世界解釈に収斂するかもしれないが,議論は分かれている.

ここでは、「波束の収縮」を「理解」することが、これからの「目標」に位置づけられていることがわかります*1。注目したいのは、「射影仮説」(=コペンハーゲン解釈)か「多世界解釈」かは、実験で白黒つけるべき問題という立場で書かれている点です。

なお、先日読んだ『物理学は世界をどこまで解明できるか』(読書メモ)の著者のグライサー氏は、かつて量子力学の基礎論の研究をやってみたくてジョン・ベル氏に師事を望んで断られたそうですが、当時の彼のモチベーションの背景にも、「量子力学の解釈問題は『科学の問題』として今後解決しうる」という考え方があったのだろうと思います。

●「説明を洗練させよう」派

最初の「認めよう」派や、後で出てくる「新しい解釈」派にも近いのですが、量子力学は正しいし実験的に何か白黒つける必要もないが、それでも「モヤモヤ」してしまうのは説明の仕方がまずいからだと言う人がいます。たとえば、吉田伸夫氏は『量子論はなぜわかりにくいのか』(技術評論社、2017年)で、「場の量子論」まで学ばないと量子力学は本当には理解できないという主張をしています。

このように、「量子力学の解釈に関する論争が絶えないのは、理解の道筋が整備されていないからだ」と考える立場です。

●「量子力学は未完成」派

ごく少数、というか思いつくのは一人だけですが、量子力学はまだ不完全だと考える人もいます。ロジャー・ペンローズ氏です。

近著"Fashion, Faith and Fantasy"では、「量子力学は現状の理論とコペンハーゲン解釈で完成している」というのは物理学界が共同でもっている「信念」(faith)に過ぎないのではと主張します。

I have not refrained from pointing out that there appears to be a fundametal inconsistency between the two bedrock procedures of quantum theory, namely unitary evolution (i.e. Shrodinger) evolution U and the state reduction R which takes upon quantum measurement. To most practitioners, this inconsistency is regarded as being something apparent, which is to be removed by the adoption of the right "interpretation" of the quantum formalism. (...) However, I am very dissatisfied with this subjective viewpoint, (...) I have argued that the quantum state (up to proportionality) should actually be given a genuinly objective ontological status. (Ch.2より)

ペンローズは量子状態は「真に客観的な存在論的身分」をもっているべきだと考え、果敢にも量子力学に重力の作用を取り入れた独自理論を構築しています。

●「理論・解釈を見直そう」派

既存の解釈に満足せず、新しい解釈を作ろうとしている人々がいます。これは、2番目の「今後の解決に期待」派とは違って、「実験」による解明ではなく、「理論」の変更に主眼を置きます。

量子力学の「理論」を、より理解しやすい形に作り替えるという方向です。

量子情報を専門とする物理学者の木村元氏は、2013年の日経サイエンスでこのように書いています。

実験で直接検証できる命題を「物理原理」と呼ぶ。例えば光速度不変〔という相対性理論〕の原理は物理原理だが、「物理量が演算子である」という〔量子力学の原理〕(…)は物理原理ではない。
(…)
目標は「この世界は、かくかくしかじかの情報技術が可能である/不可能であるようにできている」という実験で確かめられる物理原理から、今の量子力学の出発点となっている数学的な原理を導くことである。そうすれば、量子力学の全貌を、直感的に理解することができるはずだ。
(木村元,2013年,「情報から生まれる量子力学」)

情報の原理から、量子力学を作り直そうという方向性です。

別のアプローチとして、「QBism」の学派があります。QBismとは「量子ベイズ主義」のことで、彼らは量子力学波動関数を「ベイズ確率」を表すものとみなします。客観的な物理量という観念を手放すことと引き換えに、量子力学の奇妙さのいくつかを解消するという方向性です。

量子力学の解釈問題について、どんな「科学コミュニケーション」の課題があるといえるか

なぜ意見が分かれるのか?

以上、いろいろな考え方があることを見てきました。ここにあるのは、A陣営 vs B陣営のような単純な図式ではありません。誰が誰と、どの点で対立しているのかがとても分かりづらくなっています。

何がこのような立場の違いを生み出しているかと言えば、結局は、科学者個々人の「価値観」ではないでしょうか。

そもそも科学の価値とは何か? この質問への答えには、いくつかありえます。

  • 未来の現象を正しく予測する (ex. 何時何分に太陽フレアからの磁気嵐が到来する、など)
  • ものを作ったり制御できるようにする (ex.この素材の半導体を組み合わせれば、何Hzの電磁波を放出するLEDが作れる、など)
  • 物事を、深く、直感的に理解できるようにする

最初の二つを目指すのであれば、現状の量子力学で基本的には問題なく、「解釈」すら必要がないかもしれません。3つ目の「深い、直感的な理解」を目指すからこそ、論争が生まれます。

そして、何が「よりより理解か」というところで意見が分かれるために、様々な解釈が登場します。

どんなコミュニケーションを?

今回、いろいろな文献を読んでいて感じたのは、複数の立場を見比べることの大切さでした。

一つの文献を読んでいる限りでは、その著者の立場が唯一のものであるかのような印象を受けます。「みんなわかってないけど、実はこうなんだよ」というスタンスで書かれているものが多いからです。

でも、もし、量子力学をめぐる立場の違いの大部分の理由が「価値観」の違いなのだったら、もうちょっと違う言い方ができる気もします。「Aという価値観を大事にするなら、αが妥当だけど、Bの価値観ならβです」など。あまりこういうスタンスで書かれたものは見ませんでした。

ただ、もちろん、あるのは見かけ上の対立で、まともな科学者から見たら正しいのはどっちかだ、という可能性もあります。「地球温暖化懐疑論」「インテリジェント・デザイン説」などの例があります。しかし、私が見たところ、量子力学にはそれらの「疑似論争」と比較すれば、リアルな対立があるように思います。

以上、長々と書いてきましたが、要点をまとめておきます。

まとめ

  • 量子力学の解釈問題には、「どの解釈をとるか」とは別のレベルで、意見の不一致がある。
  • その意見の不一致は、科学者の価値観の違いによる
  • 量子力学の解釈をめぐる論争は、価値観とセットで考えたい

 

佐藤文隆さんの言葉を、もう一度引用しておきたいと思います。

〔私〕は、解釈問題には大事なものがあるという立場だが、それで量子力学の数理理論そのものが変わるというよりは、端的に言って科学を外から位置付ける話に関係しているというものである。それは、自然科学の専門的研究とは何をやっているのか、あるいは、社会の様々な営みのなかで科学は何を担っているのかといった、こういう科学のメタ理論に関係するという立場である。『佐藤文隆先生の量子論』より

時代ごとに、量子力学がどんな語られ方をするのかは、その時代の「科学観」を反映しているのかもしれません。今後も、5年後、10年後と定点観測する価値はありそうです。 

参考文献

Penrose, Roger. Fashion, faith, and fantasy in the new physics of the universe. Princeton University Press, 2016.

Fuchs, Christopher A. "QBism, the perimeter of quantum Bayesianism." arXiv preprint arXiv:1003.5209 (2010).

Von Baeyer, Hans Christian. QBism. Harvard University Press, 2016.

「物理学70の不思議」日本物理学会誌付録,2017.

デヴィッド・リンドリー.『量子力学の奇妙なところが思ったほど奇妙でないわけ』,松浦俊輔 (訳),青土社,1997.

デヴィッド・リンドリー.『そして世界に不確定性がもたらされた―ハイゼンベルクの物理学革命』,阪本芳久(訳),早川書房,2007.

吉田伸夫.『量子論はなぜわかりにくいのか 「粒子と波動の二重性」の謎を解く』,技術評論社,2017年.

清水明.『新版 量子論の基礎』,サイエンス社,2004.

森田邦久.『アインシュタイン vs. 量子力学: ミクロ世界の実在をめぐる熾烈な知的バトル』,化学同人,2015.

佐藤文隆.『佐藤文隆先生の量子論 干渉実験・量子もつれ・解釈問題』,講談社ブルーバックス,2017.

佐藤文隆.『量子力学は世界を記述できるか』,青土社,2011.

木村元. "情報から生まれる量子力学 (特集 量子の地平線)." 日経サイエンス 43.7 (2013): 46-53.

*1:ちなみにこの文章は「物理学会編」となっていて起草者の個人名が特定できません。

思考整理メモ:科学コミュニケーションから考える量子力学の解釈問題(中編)

前編からの続きです。

はじめに、「量子力学の解釈問題」のあらましを簡単に振り返っておきたいと思います。

量子力学では、なぜ「解釈」が必要になったのか?

前編にも書きましたが、量子力学には「解釈」があります。

考えてみれば不思議です。物理学の「理論」に「解釈」が必要なのは量子力学くらいではないでしょうか。

なぜ量子力学にだけ「解釈」が必要とされるようになったのでしょうか。

以下、その経緯を、ざっくりと整理してみます。

 

1.20世紀初頭、従来の物理学では説明のつかない現象がいくつか出てきた。とくに、当時明らかになりつつあった原子内の構造の理論としては、従来の物理はまったく使えないことが分かってきた。

 ↓

2.プランクアインシュタインやボーアなどの物理学者が、「系のエネルギーは離散的な値しか取れない」など、いくつかの大胆な仮定を置いて法則を作ってみた。すると、それらは実験結果を忠実に再現した。

 ↓

3.シュレーディンガーハイゼンベルクがそうした法則群の背後にある運動方程式を導いた。これが1925年~26年くらいのこと。ここで、ニュートン力学を置き換えるものとしての「量子力学」が成立した。

 ↓

4.ところが、そのように生まれた量子力学には不可解な点が残った。「波動関数」や「演算子」という、現実世界と直接対応づかない概念で理論が作られていたことや、実験結果を「観測」するときに起こるはずの状態変化を、運動方程式が記述できていなかったことなどである。

 ↓

5.そこで、何らかの「解釈」が必要になった。波動関数は粒子の状態の「確率」を表すとみなす「コペンハーゲン解釈」が提唱され、ボーアを中心に広められていった。

 

ここまでが、「解釈」が必要とされるようになったあらましです。

その後の流れも見ておきます。

 

6.主流派解釈に納得できない人もいた。彼らは、量子力学が導く様々な奇妙な現象を指摘した。「粒子と波動の二重性」「シュレディンガーの猫」「神がサイコロを振るか」など、奇妙さの表し方がいろいろと編み出された。

 ↓

7.量子力学への疑念は、アインシュタインらの1935年の論文(EPR論文)により、「量子力学は『局所実在論』を保持できない」という表現に集約されることなった。量子力学が正しければ、瞬時に離れた場所に作用が及ばない(=「局所性」)か、すべての物理量は常時客観的な値を持つ(=「実在論」)というそれまでの物理学の大前提のどちらかが破れてしまう。よって、量子力学は不完全ではないかとアインシュタインらは考えた。

 ↓

8.20世紀後半、実際に「局所実在論」は破られていることが理論と実験(ベルの不等式とアスペの実験)によって証明される。これで、アインシュタインたちの批判は当たっておらず、量子力学が正しいことがわかった。

 

そして今にいたる、ということになります。

 

 解釈問題について、いま専門家たちは何と言っているか

では、ここから現代の「解釈問題」を見ていきたいと思います。

20世紀後半の展開により、アインシュタインの目指した「量子力学の不備を暴く」試みは潰えました。そして「コペンハーゲン解釈」は健在です。

ならば、現代の物理学者たちは、「量子力学の解釈問題は終わった」と思っているのでしょうか。

そうでないことは分かります。というのは、「多世界解釈」を筆頭としたその他の解釈があって、物理学者によって採用する解釈が分かれるからです。ですが、より興味深いのは、前編で書いたように、量子力学の解釈問題そのものに対する温度差があるように見えることです。

ここではそうした異なる立場を分類して、以下のように名づけてみたいと思います。

  • 「うまくいっているんだからこれでいいのだ」派
  • 「解釈問題は未解決、今後に期待」派
  • 「説明のテクニックを洗練させよう」派
  • 量子力学が間違っている可能性を追求」派
  • 「新しい解釈を求める」派

次回、それぞれに当てはまる(と私が考える)事例を紹介します。

思考整理メモ:科学コミュニケーションから考える量子力学の解釈問題(前編)

ノーベル物理学賞が発表されたばかりで、世間的には「重力波」がトレンドなのかもしれませんが、今回は「量子力学」がテーマです。とくに「量子力学の解釈問題」について、近頃考えたことを書いてみたいと思います。

量子力学について、みんな違う意見を持っている?

先日、ふと思い立って、こんなアンケートをtwitterで流してみました。

回答者は30人。自分の拡散力の乏しさを思い知る結果になりましたが、それはともかく、票が割れたのは面白いと思いました。

もちろん、これはたった30人の、不特定の方の意見でしかありません。きちんと量子力学の専門家たちの間では、もうちょっと一致した見解があるのかもしれません。いま物理学界では、「量子力学の解釈問題」はどうなっているのか。それを知りたくて、いくつか本や論文を読んでみました。

分かったのは、どうやら専門家のなかでも、というかむしろ専門家のなかでこそ、議論が収束していないらしい、ということでした。

ちなみに、量子力学には、よく知られているように、いくつかの「解釈」があります。

…等々。

どの「解釈」を採用するかで意見が分かれているというのは周知のことです。先のアンケートでも、解釈が分かれていること自体は前提として、どれを支持するかはあえて問いませんでした。

今問題にしたいのは、それ以前の部分です。つまり、

  • (どの解釈をとるかはともかくとして)量子力学は物理理論として完成しているといえるか、いえないか
  • 量子力学の納得いく解釈が(少なくとも一つ)あるか、まだないか (≒奇妙さの有無)
  • 上二つをまとめて、量子力学の解釈問題は解決済みか、未解決か

というところでの、見解の相違です。もしその部分で見解が分かれるのなら、プロの物理学者を呼んできて先ほどのtwitterアンケートを取ったとしても、同じく票が割れることになります。やってみなければ分かりませんが、そうなる可能性は高いのではないか思います。

これは面白いです。

もちろん、科学者の意見が一致しないのは珍しいことではありません。「言語は人間の脳に生得的か後天的か」など、何でもいいですが、専門家の間で意見の一致を見ていないトピックはたくさんあります。というかそちらのほうが普通でしょう。

ですが、思うに、量子力学のケースは次の2点で特殊です。

  • 理論が完成してから90年も経っているのに、まだ議論が収束していないこと
  • 「科学観」「実在観」といった、量子力学に留まらない、科学者個人の根幹をなす「価値観」を反映しているように見えること

だからこそ、意見がどう一致していないのか、それはなぜなのかについて、考えてみる価値があるように思います。

量子力学については、膨大な数の一般向け解説書が出版され、いまでも出続けています。でもそのわりには、上記のような「専門家たちの立場の違い」は、一般人には伝わってこない印象があります。一般人の量子力学像と専門家集団内でのそれとにはギャップがあると言え、しかも、そのギャップには、物理学の一分野を超える示唆がどうやら隠れていそうです。このような考えから、量子力学の解釈問題というのは「科学コミュニケーション」の課題として面白いのではないかと思うにいたりました。

なお、宇宙物理学者の佐藤文隆氏は、表現は若干違うものの似たようなことを著作のなかで述べています。私もその影響を受けています。とくに先月発売の『佐藤文隆先生の量子論』は、このブログを書こうと思うきっかけにもなりました。

 

さて、前口上だけで前編が終わってしまいました。

後編では、次のような流れで書いていく予定です。

  • 量子力学にはなぜ「解釈」が必要か。
  • 量子力学の解釈問題について、専門家たちはどう考えているか。
  • 量子力学の解釈問題について、どんな「科学コミュニケーション」の課題があるといえるか。

 

注:筆者の立場

重要な注意として、今回の記事は量子力学のそれぞれの「解釈」や「立場」の妥当性を評価しようというものではありません。また、私は量子力学の中身を正確に理解しているわけではないことも明記します。

やりたいのは、あくまで「量子力学について専門家が何と言っているか」を、素人の立場から眺めること。そして、ときに相反する主張を突き合わせることで素人として受ける印象を整理することです。そこから、どんな量子力学にまつわる「科学コミュニケーション」がなされると嬉しいかについて、いち物理ファンとして、何か言えるとよいかなと思っています。

読書メモ:時間とはなんだろう(松浦壮著)

 

 

現役の素粒子物理学者による、講談社ブルーバックスの新刊。「時間」の話が軸にはなるものの、高校レベルの物理から最先端の量子重力理論まで、幅広い物理学のトピックを易しく解説した本になっている。

著者は、時間をめぐる素朴な実感・疑問からスタートする。

水や空気などよりも遥かにありふれた存在のはずなのに、その正体を捕まえようとしても実体が見えず、スルスルと手を逃れていくようなもどかしさがついてまわります。(p.5)

そんなとらえどころのない「時間」というものを、物理学はどのように扱ってきたのか。まず大事なのが、物理学にとっては、「時間」も「力」や「質量」と同じ一つの経験的な量だということだ。なので、新しい実験事実や新理論が出てくれば、その捉え方(=「時間観」)は変わっていくことになる。

そこでこの本では、これまで人類が知り得た「時間」の本質を、ものの動きの理解、運動法則の理解の中に求めながら、時間観の変遷を追体験していこうと思います(p.9)

各章では、物理学の運動法則が、ニュートン力学、マクスウェルの電磁気学アインシュタインの特殊/一般相対論、最先端の量子重力理論と進展していくなかで、どのように時間概念が変化していったかが紹介されていく。

まずニュートン力学では、時間というのはx(t)のような形で物体の位置を決める一つのパラメータであり、時間は「絶対時間」として扱われていた(第2章)。ニュートン力学の方程式は一見「時間の一方方向性」を説明できないのだが、このいわゆる「時間の矢」の謎はカオスと確率的な見方によって解消できる(第3章)。その後ニュートン力学アインシュタインの力学によって乗り越えられる。特殊相対性理論ができると「時間の問題は時間だけでは閉じず、空間も合わせた「時空」という構造物の一部として考えてみなければならなく」(p.109)なる(第4章)。さらに、慣性系を特別扱いしない一般相対論(第5章)は、時空が重力によってゆがめられることを明らかにした。(著者は「重力は時間経過そのものである」(p.134)という言い方をしていて、個人的には第5章のこの主張が本書のハイライトだった。10回くらい読み直してようやく「時間とは重力だ」の意味が理解できた。)

一般相対論までで、物体の運動と時空と「重力」の関係がわかったことになる。それ以外の力(電磁力)などを扱うために、第6、7章では、いったん時間の話題を離れて、電気磁気学から、量子論・場の量子論までの概説がなされる。その後、いよいよ第8章にて、場の量子論と重力の理論を統合するために、現在建設中の「量子重力理論」が登場する。それが描く時間観はまだ見えてこないのだが、「時間でも空間でも量子場でもない何か」が時間を生み出しているはずだという。

感想

物理学がバージョンアップするにつれて、「時間」の理解がダイナミックに変わっていく。そのさまが生き生きと描かれていて、たいへん勉強になった。

そのうえで、「時間とはなんだろう?」というタイトルの疑問に改めて戻ってみたい。

本書は、その疑問にどれくらい答えられているだろうか。

たしかに、物理学が進歩するなかで時間の概念は変わってきた。それは時間を「よりよく理解すること」には違いない。前書きには、次のように書かれている。

人間が見出した自然法則は、絶対不変の真実ではありません。むしろ、観測された自然現象を合理的に説明するために、時代とともに変化するものです。それは運動法則も同じで、この300年余りの間にもアップデートされ続けています。

そして時間が運動とセットである以上、このアップデートは時間観にも及びます。(…)

とくに20世紀に入ってからの進展は飛躍的で、私たちが素朴に描いていた自然観を大きく塗り替えるような発見がいくつもありました。そして21世紀を迎えた今、最先端の物理学は、人類史上初めて、時間の真の正体を捉えつつあるという静かな興奮の中にいます。(p.8、太字は付加)

おおむね同意できる。ただ、太字にした結論部分には、あえて疑問を呈してみたい。

疑問は二つある。

一つは「21世紀の物理」がそれほど特別なのか、という点。仮に「量子重力理論」が完成したとして、それがもたらす時間像が「最終回答」なのかという疑問だ。22世紀以降も、まだまだ新しい現象が見つかって、物理学の理論もアップグレードされていくと考えるのが自然ではないだろうか。ただ、これについては著者が本気で21世紀の物理が特別だと思っているかはわからない。読者に対するサービスの面もあるかもしれない。

二つ目のもっと本質的な疑問は、「時間の『真の正体』を明らかにするのが物理学なのか?」というものだ。物理学は、本書で解説されているように、「時間」の概念をどんどんリファインしていく。しかし、そうして得られた「時間」概念は、もともと「時間とはなんだろう?」と思ったときに念頭にあった「時間」概念とは別物になってはいないだろうか。確かに、時間を、たとえば特殊相対論のなかで整合的な物理量にするためには、それは「ミンコフスキー空間の一次元」として捉えなければならないというのはわかる。でもそれは、時間の「真の正体」に近づいたことになるのだろうか。むしろ、私たちが「時間」と呼んでいるものの一つの側面を、特殊相対論という物理理論(=モデル)に当てはまるものとして理解した、ということなのではないだろうか。「時間とは、実は○○なのです」と物理学に言われても、「いや、それは私が知りたいと思っていた時間とはちょっと違います」と言いたくなる感覚は残るのではないか。

もっとも、本書のなかでも、時間の問題は生物学や心理学や哲学からもアプローチすべきものだということは繰り返し言われているので、著者自身も「物理学ですべてがわかる」とは思っていないと思う。ただ、それだけに、「真の正体」という言葉づかいに、少し引っかかってしまった。

以上のことは、「『物理学的な時間』の真の正体」という言い方であれば何の問題もなく、著者の意図もそうであった可能性が高いので、本書の価値・面白さとは関係がない。ただ、個人的には、科学者の書く啓蒙書のなかに滲み出る、「実在観」や「科学観」に興味があるので、この点について、ぜひ著者の考え方を聞いてみたいと思った。

読書メモ:佐藤文隆先生の量子論(佐藤文隆 著)

 

突然ですが、量子力学の解釈問題についてどう思いますか?

 

……と聞かれて、もし、言いたいことが山ほど脳裏を駆け巡ったなら、これはあなたのための本です! ぜひ『佐藤文隆先生の量子論』を読みましょう(笑)。

量子力学の解釈問題についてあれこれ悩んだことがある、数冊本を読んだことがある、それでもどこかでモヤモヤと気になり続けている、そういった人のための本になっています。逆に言うと、「量子力学の解釈問題などもはや存在しない」という境地に達していて、かつ、冒頭の質問をされても心拍数が一切上がらなかったような物理学者のかたには、読む必要がない(著者の問題意識が理解できない)かもしれません。

著者は、宇宙論相対性理論を専門とし、分野を率いてきた理論物理学者の佐藤文隆氏。2001年に京都大学を退官してからは、科学史や哲学的観点も取り入れた広い見地から論筆をされており、とくに量子力学については著書が多くあります。私も『量子力学イデオロギー』『量子力学は世界を記述できるか』(2冊とも青土社)などを読んで佐藤先生のファンになっていたので、本書も迷わず買いました。

 

さて、今回は横書きのブルーバックスというフォーマットです。目次は次のようになっています。

第1章は、量子力学がいかに成立しアインシュタインがどう反論したかという、よくある黎明期の歴史紹介。第2章では量子力学の入門的内容をコンパクトにまとめ、第3章にて量子力学の奇妙さを実証した数々の実験を紹介していきます。第4章では様々な「解釈」の整理し、著者の本書における中心的主張がなされます。第5章では、量子力学の解釈問題を語る上で重要な概念を多く編み出したジョン・ホイラー(Wheeler)について触れ、終章にてさらに主張を展開するという構成になっています。

このように、著者がのびのびと書いたことを思わせるユニークな一冊です。途中でホイラーへの追悼文が丸々掲載されていたり、1930年代生まれの著者だからこそ知りうるエピソードが挿入されていたり、写真や図表が多いのも楽しいです。第2章~第3章の物理の解説の部分も、他書にないわかりやすい説明がなされていて、量子力学の勉強をするうえでも役に立つのではないかと思います。

とはいえ、やはり一番の見どころは本書の「中心的主張」の部分になります。

それはどんな主張なのでしょうか。

佐藤先生が量子力学を語る動機が重要です。前提として、

  • 量子力学の解釈問題など、いまさら悩むべき問題か?

という論点があります。これに対する多くの物理学者の答えは、私も学部のころ物理学科で学んでいたのでわかるのですが、「NO」のようです。「たしかに量子力学の理論には、われわれの頭には理解しがたい不思議な点があり、理論のなかには「解釈」で埋めなければいけないようなギャップがあるのも事実。しかし、量子力学はできてから90年間、間違っていると証明されたことはないし、ますます多くの実験が正しさを証明している。ならば自然はそういうものだと認めて、その先の応用などに進むべきではないのか?」という見方です。

それに反して佐藤先生は、「解釈問題を考えるのは大事」という立場をとります。ただしその理由は、かつてのアインシュタインや現在のごく少数(ロジャー・ペンローズなど)の物理学者のように

  • 量子力学は不完全であり、より完全な理論を求めるべきだから

でもなければ、多くの解釈問題関連の本の著者が目論むように

  • 量子力学の奇妙さを少しでも解消するようなよりよい「解釈」があるはずだから

でもありません。

では何が理由なのか。こんなふうに書いています。

本書は、解釈問題には大事なものがあるという立場だが、それで量子力学の数理理論そのものが変わるというよりは、端的に言って科学を外から位置付ける話に関係しているというものである。それは、自然科学の専門的研究とは何をやっているのか、あるいは、社会の様々な営みのなかで科学は何を担っているのかといった、こういう科学のメタ理論に関係するという立場である。(p.154)

かみ砕くと、量子力学は「科学そのもののイメージを変える」ポテンシャルをもってもおり、イメージが「どう変わるのか」を理解するためにこそ、「解釈問題」について一度深く考えておくことは役に立つ、というようなことだと思います。具体的に量子力学を通して科学のイメージがどう変わるかということについては、本書では

など、佐藤先生ならではの言葉遣いを駆使して語られています。これらの意味を解説することは現時点の私の力に余るのですが、まさにこの意味するところを行間から読み解くのが、本書の読者の宿題となっていると感じます。

量子力学の解釈問題については、いま関連書籍を読んで勉強中でもあるので、もう少し頭を整理して、あらためてブログに書きたいと思っています。

 

読書メモ:物理学は世界をどこまで解明できるか(マルセロ・グライサー著)

 

物理学は世界をどこまで解明できるか―真理を探究する科学全史

物理学は世界をどこまで解明できるか―真理を探究する科学全史

 

「このまま物理学の勉強(あるいは研究)を続けて、自分はどこまで知ることができるのだろうか?」

これは、物理学を本気で勉強したことのある人なら、誰しも突き当たるであろう疑問だ。

「宇宙の誕生の様子を知りたい」「最も基本的な素粒子の姿を見定めたい」といった好奇心で物理学を志したのはいいが、しばらくすると、しだいに雲行きが怪しくなってくる。

たとえば、実験装置の限界。

カミオカンデ」が「スーパーカンデ」になったように、物理学の実験装置はどんどん大規模になっていく。このままいくと、物理学で何か新しい発見をすることは、リソース・コスト的に難しくなっていくのではないだろうか。

あるいは、自然界に内在する、原理的な限界。

光の速度で到達できる範囲外の出来事(いわゆる事象の地平線の向こうの出来事)については、どんな手段を使っても知りえない。まして、「多宇宙(マルチバース)理論」など、仮にあったとしてもその存在は検証できない。直接的な検証が不可能な領域に、現代物理学は入っているのではないか。

さらには、人間の理解の限界がある。量子力学に象徴される、 感覚的には受け入れがたい「奇妙な理論」を、直観的理解をあきらめて「慣れる」しかないという状況が生まれる。

こうした様々な「限界」に思いいたるとき、物理学とは、日々の勉強・研究の手を一度止めて、あらためて問いたくなる。「我々人間は何を知りうるのか?」と。

本書は、超対称性理論などを専門とする理論物理学者が、その疑問に向き合った一冊である。

***

副題に「科学全史」とあるように、スコープは広い。

第1部ではギリシャの自然哲学から、最近の「多宇宙(マルチバース)理論」に至る、おもに「時間・空間の性質」「宇宙の姿」などをテーマにした科学の進展を概観する。

第2部では、こんどは主に物質の探究に焦点を当て、同じくデモクリトスのころの物質観から、現代の量子力学の問題までを取り上げる。

第3部では「人間の認識の限界」にまつわる、数学や哲学の議論を取り上げている。

「全部盛り」「総花的」と言ってよい内容で、その分、一つ一つのトピックの解説は短い。そのため、宇宙論なり量子力学なり、何らかの学びを求めて手に取った読者には物足りないかもしれない。

その一方で「で、結局私は何を知ることができるのか?」という疑問に一人の物理学者がどう答えを出したのか、という観点で読むと興味深い。著者の回答はそれほどクリアカットなものではないが、不確定性原理不完全性定理などによって「限界」はあり、量子的現象や事象の地平線の外側のことなど、「知りえない」こともある、というのが著者のひとまずの結論のようだ。

本書の原題は“Island of knowledge”。人類の知識を海に浮かぶ「島」にたとえ、著者は科学の前進を「知識の島」が少しずつ形を変えながら大きくなっていくイメージでとらえる。

***

この本は、読者を啓蒙する体裁で書かれてはいるが、本当のところは著者が著者自身の頭を整理するために書かれたのだろうと思う。自分のやっていることの意味を感じ取るために「そもそも人類は、いかにして〈知識の島〉を開発してきたのか」に関心が向かうのは自然だが、それをここまでのボリュームの科学書に仕上げられる人はなかなかいないだろう。

物理学を志している高校生・大学生に、ぜひ読んでみてほしい。もしかしたら、物理学への信頼、楽観的な期待は揺らぐかもしれない。それでも「知識の島」を少しでも広げてみたいと考えたならば、その人を心から応援したい。

 

探究メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで明らかにしたのか〈番外編1:論文紹介 Neuron 2017 "Memory Takes Time"〉

以前、本ブログでは「脳科学は記憶の仕組みをどこまで明らかにしたのか」と題した一連の記事を書きました。

その後も、記憶研究の動向は気にするようにしているのですが、先日ちょっと面白い論文を見つけたので、ここで紹介してみたいと思います*1

Nikolay Vadimovich Kukushkin, Thomas James Carew. Memory Takes Time. Neuron, 2017; 95 (2): 259 DOI: 10.1016/j.neuron.2017.05.029

ニューヨーク大学神経科学者2名によるレビュー論文です。科学系ニュースサイトやwired誌でも取り上げられています。

二つの紹介記事ではセンセーショナルな感じに取り上げられていますが、論文の中身はわりと地味で、玄人向けともいえる内容でした。また、日本語版wiredの記事のタイトル:「記憶のメカニズムの詳細が明らかに」は、けっこう語弊があるのではないかと思います。この論文は何か新しい「発見」を報告しているものではないからです。むしろ、既存の研究を広範にレビューしたうえで、「記憶をこんな風に捉えて、こんな風に研究していきませんか?」という、あくまで新しい見方を提案している論文です(レビュー論文というのは本来そういうものではないかと思います)。

論文のあらまし

2段組みで20ページにわたる、長めの論文です。本論の部分で、著者らは単一ニューロンにおいて、その応答性(シナプス入力を受けて発火するかどうか、など)を左右する様々な生理現象を列挙しています。著者らは便宜上、それらを五つのカテゴリーに分けています。

こうした多段階にわたる生理現象について、「こんなのもあります、あんなのもあります」という紹介がなされていきます。詳細はともかくとして、ポイントは、こうしたすべての現象が、トリガーされた時点から一定時間持続するものだということです。たとえば、シナプスで伝達物質を受けとったニューロンでは、活動電位が数ミリ秒持続して、細胞外の分子Aが数百ミリ秒間流入して、タンパク質Bが数秒間活性化されて……、などなど、それぞれ固有の時間幅をもった生理現象を引き起こします。こうした時間幅のことを、著者らは時間窓(time window)と名づけます。

ニューロン内の現象は、多くの時間窓の複雑な相互作用とみなすことができます。つまり、ニューロンのなかでは「Aというプロセスが持続しているという条件のもとでBが起こるとCが始まるが、Dが起こるとCは終わる」というような、「時間窓どうしの相互作用」が数多くあります。ひるがえって、こうした時間窓の存在は、過去の出来事が現在のニューロンの応答性が変えている、ということを意味します。記憶を「過去への適応」(adaptation to the past)のことだと捉えれば、時間窓をもつことはある種の「記憶」を持つことにほかなりません。しかも数ミリ秒から数日(~数年?)までにおよぶ時間窓をたくさん備えていることは、ニューロンが記憶に適したメカニズムを備えていることを意味します。

we argue that the nervous system's extraordinary ability to represent time at multiple timescales is a prerequisite for its unmatched capacity for information storage

〔訳〕神経系は、複数のスケールにまたがる時間を表象することにかけて並外れた能力をもっており、そのことこそが、神経系の類まれな情報貯蔵力を可能にしているとわれわれは主張したい。(introductionより) 

ここで"neuron"ではなく"nervous system"という言葉が使われていることからわかるように、著者らは「時間窓の相互作用=記憶メカニズム」という見方を、単一ニューロンレベルだけではなく、神経ネットワーク、果ては脳全体まで拡張できるはずだ、と見ています。そして、このように記憶を捉えなおすことによって、シナプス可塑性一辺倒」の記憶研究から脱却しようというのが、著者たちの提案のおおまなか概要となります。

「貯蔵庫モデル」から「余韻」モデルへ?

以上がだいたいのあらましです。本論文による問題提起を、私なりに次のように言い換えてみたいと思います。

  • 記憶の「貯蔵庫モデル」を捨てて、「余韻モデル」を採用しよう

「貯蔵庫モデル」というのは、要するに、脳内の記憶が「どこかにしまわれている」という見方です。過去の記憶が、図書館の蔵書のごとく分類・整理され、書庫で保管され、必要に応じて取り出される。フォン・ノイマンの記憶装置(連載の第1回参照)も、エングラム(第2回)も、おおまかにはこの発想に立った見方だと思います。そういえば、「インサイド・ヘッド」という映画では主人公の女の子の記憶が脳内世界ではボウリング玉のようなものとして描かれていましたが、まさにあんなイメージです。

一方、本論文では、過去の出来事が脳内の生理現象の「時間幅」として保存されている、という見方が提示されています。これを、過去のどこかの時点で脳のなかで鳴り始めた〈音〉が、〈余韻〉として響いているというイメージでとらえることができると思います。1秒前に鳴り始めた〈音〉、10年前から鳴っていてかすかに残存している〈余韻〉、そういったものの重ね合わせとして現在の脳があり、今の行動を決めている。この見方に立つと、「記憶は『どこに』あるの?」という問いはあまり意味をなしません。その答えは「あらゆるところに」だからです。むしろ問うべきは「『いつの』余韻(=時間窓)が、どの行動に結び付いているのか?」に変わります。

前回の連載の最終回では、今後の記憶研究に期待することとして、「(細胞レベル、全脳レベルなど)異なる階層をつなぐような理論が出てくること」と「素朴なエングラム観を乗り越える見方が出てくること」を挙げました。「素朴なエングラム観」というのは上記の「貯蔵庫モデル」のことです。今回の論文は、ある意味でこの両方をかなえる方向性が示されていたので、「わが意を得たり!」という気持ちで興味深く読みました。

おわりに

従来の記憶研究の盲点をつく重要な指摘だとはいえ、しかしながら、この「余韻モデル」(と私が勝手に名づけたもの)は、万能とまではいえなそうです。

まず、この見方は、「細胞にとっての記憶」と「個体のとっての記憶」を同じレベルで扱っています。究極的には「過去の出来事を情報を保持して現在の状態を決めるもの」をすべて「記憶」と呼んでいます。これは心理学の意味での「記憶」とはかけ離れており、これはこれで無用の混乱につながるかもしません。

また、細胞レベルの記憶現象であれば、何とか「時間窓の重ね合わせ」という描像で解析できるかもしれませんが、ニューロン集団、ましては全脳の「記憶」に当てはめるのは無謀といえるかもしれません。「今朝、納豆ごはんを食べた」という記憶は、「どこにエングラムとしてしまわれているのか?」ならまだイメージできますが、「どんな『時間窓』の重ね合わせとして表現されているのか?」となると、途方に暮れてしまいます。

とはいえ、それが記憶の本来の姿なのかもしれません。「脳の記憶装置は何か?」と問うたフォン・ノイマンは、自ら発明したコンピュータとのアナロジーに捕らわれて、問題を簡単化しすぎていたのかもしれません。

記憶研究の本来的な難しさに気づかせてくれる意味でも、味わい深い論文でした。

*1:素人が原論文を読んでわかった気になる危険性は十分にわきまえたいと思います。この記事は論文に対する論評ではなく、「こんな考え方もあるそうです」という紹介程度に読んでいただければと思います。

読書メモ:自然主義入門(植原亮 著)

 

自然主義入門: 知識・道徳・人間本性をめぐる現代哲学ツアー
 

最近、科学と哲学の距離が近くなっているのだろうか。科学者と哲学者が合同開催するシンポジウムとか、「○○の科学と哲学」といった題目の共同研究を目にする機会が増えた気がする。そうした場では、科学者と哲学者は互いから何を得るのだろうか。それは、科学と哲学の関係をどう捉えるかによるだろう。たとえば、

  • 科学と哲学は本質的には同じもの
  • 哲学の土台のうえに科学がある
  • 哲学が発展すると科学になる 
  • 科学と哲学は、目的も方法も異なる別ものである

などいろいろな見方がありえ、どれが正しいかということ自体、長年の哲学の問題になっている。そうした「科学と哲学の関係にまつわる立場」の中で、いま最も勢いのある(?)のが、本書のテーマ「自然主義」である。

自然主義は、科学と哲学をひとつながりのものと考える。科学は、地球が太陽の周りをまわっていることや、物質は分子で出来ていることなど、世界に関するいろいろなことを明らかにしてきた。そうした知識を可能にするのは人間に備わっている能力だが、その能力(理性とか知性とよばれるもの)自体について問うのは、科学ではなく哲学の領分とされてきた。つまり、「人間の心」だけは、科学にとっての「前提」ではあって「対象」ではなかった。でも、よく考えれば、人間もまた世界の一部であるわけで、自然法則に従う存在であるはずだ。そこで、「科学する人間の心」も含めて、自然科学の方法で探究すべきではないか。哲学自身、科学的な方法で前進するのだ。自然主義をとる哲学者はそのように考える。

こう言うと、「そんなの当たり前じゃん」と「本当にそれでいいのか」という反応が同時に湧き上がるのではないだろうか。私の頭のなかでも、両方の声が同居している。現代人にとっては、ある意味で当たり前なのだが、一方でどこか反発したくなる、そんな見方ではないだろうか。

本書『自然主義入門』は、自然主義がどんなものであり、自然主義の枠組みのなかで今どんな論点が取り上げられており、自然主義の魅力(あるいは必然性)がどこにあるのかについて、とことん易しく解説した一冊となっている。副題にあるとおり、まさに「ガイド付きツアー」という感じの懇切丁寧だった。勁草書房の哲学書だと思って身構えていた自分は、良い意味で裏切られた。

***

第1章では、著者は分析哲学クワインが用いた「ノイラートの船」という比喩を使って自然主義を説明する。「哲学者も科学者も、大海を漂い続ける一隻の船にみな乗り合わせて」いて、「力を合わせて航海という事業を続けるのである」(p.3)。この比喩は、哲学と科学は連続していること、そして「人間の知が共同性や歴史性を帯びることは避けられない」という自然主義の見方をよく表している。自然主義者は、人間の「心」の各側面を「自然化」すること、つまり、自然現象の一種として示すことを課題とする。

第2,3章では、そうした課題の一例として「道徳」が取り上げられる。道徳は、生まれつき人間に備わったものなのか(生得説)、あるいは生まれてからの経験で身につけるものなのか(経験主義)。道徳は、どの地域にも見られるが、内容は文化ごとに少しずつ違う。そうした道徳の普遍性と個別性をうまく説明することを競って考案された、生得説・経験主義の両陣営の様々な説が紹介される。

続く第4,5章では、「生得説」vs「経験主義」論争が、道徳だけではなく「心」一般でも行われていることが紹介される。「言語」「数学」「道徳」のようなそれぞれの領域ごとに専門にあつかう心のモジュールがあるとする「モジュール集合体仮説」。いや、すべては学習の結果であり、数・論理といった抽象的概念ですら生後に獲得されるとするジェシープリンツの議論まで、幅広く取り上げられる。

第6章では、生得説と経験主義の両方を統合する心の捉え方として、人間の心は、直観的・自動的な「システム1」と、理性的な「システム2」からなるとする「二重プロセス理論」を紹介する。さらに、人間のみが持つかのように見える「理性」を自然化する企てとして、環境の側を道具として取り込んで自分の心の一部とする能力をもった存在として人間を捉える、「拡張された心」「外的足場」等の考え方にも触れる。

以上、こうした「人間の本性」をめぐる議論はすべて、仮説づくりと実験や観察による検証という、自然科学と同じ方法でなされる。つまり、自然主義の枠組みのなかで行われている。このように、いかに自然主義が豊かであるかを見たうえで、後半ではいよいよ自然主義そのものの是非が論じられる。

第7章は、「規範」に関して自然主義に突きつけられた疑念に取り組む。自然主義は、たとえば人間の道徳とはどんなものであるかは教えてくれるが、「どんな道徳を持つべきか」は教えてくれないのではないか。著者の答え(の一つ)は「「べし」(規範)は「できる」(可能)を含意する」というもの。つまり、何ができるかを知っておかなければ、どうすべきかはわからない。道徳をよりよく設計するためには、「二重プロセス理論」などを通じて人間の心の特徴をつかんでおくことが有効になる。規範を考えるうえでも人間の道徳がどのようなものであるのか知ることが必須である点において、規範の問題は記述の問題と切り分けることはできない。

第8章は、自然主義に対する真正面からの挑戦に応答する。それは、「帰納は間違えるかもしれないではないか!」「どんなに科学で自分のことがわかった気になっても、もしかしたら僕らは培養槽の脳かもしれないじゃないか!」という「懐疑論」からの挑戦だ(後者は、映画マトリックスのような状況を引き合いに出して、経験だけから知りえたことが丸ごと間違っている可能性を指摘するもの)。これに対しては、本書は、では自然主義をとらないで物事を考えるにはどうすればいいか、と切り返す。懐疑論者は、経験によらない確実なところからスタートすべきと考えたデカルトの方法、つまり「アプリオリズム」を取らなければならない。しかし、信頼に足るアプリオリな能力などあるのか? アプリオリな能力そのものを科学で解き明かそうとする自然主義者にとって、デカルトの方法はとても心もとない。むしろ、懐疑論そのものが経験によって生まれたのではないか? 「懐疑論そのものが科学の内側から生じ、したがってまた科学の中で問われるほかないものなのだ」(クワインの引用p217)。さらに「培養層の脳」は、「同じ土俵に乗ったが最後、自然主義の側が必ず負けを強いられる」(p.223)ようなツッコミなので、その土俵には上がらずに、なぜそういうツッコミがなされるのかを自分の土俵で分析する。そのほうがよほど実りがある。

最後の第9章では、自然主義のもとで、哲学と科学はどのように協働するのかがテーマとなる。今まで自然科学が取り込めていなかった主題(道徳、理性など)について、哲学は論理地図を整備したり、あたらしい概念をつくったり、科学理論を評価したりすることにより、積極的に貢献できる。こうして考えると、「科学にとって哲学は避けられない」(p.247)し、「主題と方法のどちらの点についても、哲学と科学との間には埋めがたい溝はおろか明確な境界線さえ存在していない」(p.257)、そうした自然主義的な科学と哲学の関係の捉え方が導かれる。

***

以上、各章の内容をまとめてみた。曲解もあると思うし、本書自体が十分易しく書かれているので、ぜひ本文をたどってみていただきたい。

本書を読んでもなお、自然主義に100パーセント同意できない自分がいるのを感じる。自分の心が生物進化論や脳内生理学でどんなに説明されたとしても、それでは掬い取れない「何か」が残るのではないか。科学が明らかにする「人間の本性」をもとに「ではどう生きるか」を考えるのには、科学から切り離された何らかの「哲学」を要求するのではないか。とはいえ、自然主義のしぶとさを思い知った。自然主義はどこまでも、「科学がすべてではないというのなら、対案を出してください。あなたの対案で、何か有意義な議論ができますかね?」という形で、切り返してくる。なお、誤解がないように補足しておくと、著者は決して自然主義を押し売りしているわけではない。たとえば、こんな書き方をしている。

あくまでも自然主義のスタンスを貫き通すなら、答えの見つかる場所を含むこの自然的世界のほうかはないと覚悟して、科学とともに探究を進めていく以外に道はない。p.237

 「あくまでも自然主義のスタンスを貫き通すなら」という表現は、それ以外のスタンスがありうることを示唆しているように読めた。

自然主義の手ごわさと同時に、その魅力も感じることもできた。自然主義は決して「心を脳に還元する」というような凝り固まったものでなく、たとえば「環境中に拡張した心」など、従来の科学的説明から外れるような見方を取り入れる余地があることがわかった。哲学が「科学に浸食されていく」のではなく、むしろ哲学が科学をグレードアップさせる可能性があると考えると、むしろ積極的に自然主義を応援したくもなった。

盤石な哲学のうえに科学を築くようなことはできない。先へ進むためには、「ノイラートの船」に乗り込むしかない。ただし、せめて「船に乗らなかった自分を想像する」ことくらいは、忘れないでいたい。本書の読んだいま、しばらくそんなスタンスでいこうかと思っている。

かりに「自然主義」というワードにぴんと来なくても、「科学に対して哲学は何をしてくれるのか?」ということに関心のある理工系の人に、ぜひ読んでみてほしい。