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読書メモなど

読書メモ:我々みんなが科学の専門家なのか?(ハリー・コリンズ 著、鈴木俊洋 訳)

 

我々みんなが科学の専門家なのか? (叢書ウニベルシタス)

我々みんなが科学の専門家なのか? (叢書ウニベルシタス)

 

書名が面白い。『我々みんなが科学の専門家なのか?』。この疑問に対する本書の答えがこれ。

「我々みんなが科学の専門家であるわけではない。」(終章「結論」より)

書名で疑問を提起して、シンプルに「No」と答える。これだけだと何のことかわからないが、この自問自答の意味は、中身を読むとわかる。

それはどんな意味か。

「我々みんなが科学の専門家なのか?」を「誰が科学の専門家なのか?」と言い換えたほうが分かりすいかもしれない。これは、私たちの日々の生活にも関係する問題だ。たとえば、テレビに出てばかりの“自称”科学者(いわゆる「タレント学者」)や、政府や特定の産業の利益を代弁する「御用学者」の言うことを真に受けてはいけないと言われるが、では、タレント学者や御用学者と本物の科学者をどうやって区別すればいいのか。そういった、「どの科学者を信じるか」問題につながるのだ。

「誰が科学の専門家なのか?」に答えるためには、専門家を専門家たらしめているもの、つまり「専門性」や「専門知」とは何か、を考える必要がある*1

この問題に取り組んできた分野に、科学論(science studies)がある。科学論は、大きく科学史・科学哲学・科学社会論に分類され、本書の著者コリンズは3つ目の科学社会論で有名な研究者だそうだ。本書では、専門知をめぐる科学社会学(や科学論)の議論の大きな流れを概説しつつ、「誰が科学の専門家か?」に対する著者なりの答えを示している。著者の研究事例には踏み込まずにコンパクトにまとめられた、非専門家(「科学論」を専門としない読者)向けの入門書となっている。

科学の捉え方は時代とともに変わり、それに応じて「科学論」の扱うテーマも変わってきた。本書第1章では、科学論の主題の変遷を「3つの波」として整理している。科学への信頼を背景に「なぜ科学は上手くいくのか」を主題としていた「第1波」。科学といえども人々の合意でできているという側面にフォーカスし、科学を世俗的なものとして描いてきた「第2波」。そして、個々人の科学者が世俗的な存在であるとは認めつつも、「科学者の専門知はどう特別なのか」をもう一度テーマに据えるのが、著者が提唱する「第3波」ということになる。

「第2波」によって、「専門知は(狭い意味での)専門家だけのものではない」という考え方が広まった(だから「我々みんなが科学の専門家なのか?」という問いが意味をなす)。たしかに、患者が自分の病状について医者なみに詳しくなったり、大学や学会とは無関係に研究をしたりする人もいる。

でも、だからといって「今や誰もが専門家なのだ」とするのは行き過ぎだ。そう考える著者は、第2章にて、「専門知にもいくつかの種類がある」という議論を展開する。

ユビキタス専門知」、「スペシャリスト専門知」、「メタ専門知」、その下位のサブカテゴリ―としての「ビールマット専門知」、「一次資料知」、「対話的専門知」、「貢献的専門知」、「技術的見識眼」等々、独特な用語づかいで細かく分類がなされる。なかでも、とくに「一次資料知」「対話的専門知」「メタ専門知」の三つが重要となる。

  • 一次資料知(primary source knowledge):当該分野の原論文を読んで得られる専門知
  • 対話的専門知(interactional expertise):当該分野の専門家(実際に論文を書いて分野に貢献している専門家)のコミュニティとの交流によって得られる専門知
  • メタ専門知(meta-expertise):専門家を判定し、様々な専門家の中から一人を選ぶときに使われる専門知

「一次資料知」と「対話的専門知」は、その分野で実験をしたり論文を書いたりしているコアな科学者でなくても持てる点では共通している。しかし、大きな違いがある。それは、後者には「科学者コミュニティの共有している暗黙知」が含まれるが、前者には含まれないということだ。

一次資料知だけに頼ると、その分野にいれば誰もが知っていることを見落としてしまう。本書第3章では、一次資料知の弊害として、「偽の科学論争」を生んでしまうことが指摘される。その分野では全く評価されていない異端的な研究者の論文を素人が読んで真に受けると、それが「本当の科学論争」があるように見えてしまう。たとえば、HIVのワクチンの副作用についての異端的研究者の論文をもとに、ワクチン接種が(不当に)見送られた南アフリカの例が挙げられている。こうしたことを防ぐためも、専門家がコミュニティのなかで共有している「暗黙知」は重視されるべきであり、それゆえ一次専門知よりも対話的専門知に価値がある。

では、対話的専門知を持たない一般人は、科学的な判断にまったく関与できないのか。そうではない。当の専門家たちがちゃんと科学を遂行しているのかをチェックすることは一般人にもできるし、しなくてはいけないというのが、第4章のテーマとなっている。ただし、それは論文を読んで詳しくなること(=一次資料知を身に着けること)によるチェックではなく、「メタ専門知」を使って「誰が信用できる科学者か」を判断するという意味でのチェックである。具体的には、タバコ企業からお金をもらってタバコの害を小さく見せる論文を書いている科学者がいたら追求すべし、というようなことだ。

最後に、専門家コミュニティーを信じるべき理由は何かという疑問が残る。これについては、著者は手短に、普遍主義・懐疑主義・利害中立といった「科学者のエートス」を挙げている。科学は、一部の例外はあるにせよ、おおむね科学者のエートスをもって遂行されているので、その内部でなされた議論は一般人の議論と等価ではなく、リスペクトされるべきものとなる。

感想を少しだけ。

まず、「専門知を尊重すべし」という著者のスタンスには共感するし、「なぜ尊重すべきか」を科学社会学が説明してくれるなら素晴らしいと思う。ただ、本書だけでそれができているかというと、疑問もいくつかあった。たとえば、著者のいう「科学者のエートス」は、本当にあらゆる専門的科学者の集団で保たれているのか、分野ごと地域ごとに「劣化」するということがないのか、ということが気になった。

それでも、納得できる部分も多い本ではあった。とくに、以下のような個人的な教訓が得られた。

  • 本や論文を読んだだけで分かった気になるのは危険!
  • 専門家と会って話をするのが大事!
  • 主流派コミュニティとインタラクトしていない自称専門家には注意!(異端科学者の真価が分かるのも主流派科学者だけ!)

といったところだろうか。

あと、翻訳者の注釈と解説が充実していて、とても勉強になった。原著を読んでいたとしても買う価値のある邦訳本になっていると感じたし、学術書の翻訳書はこうでなくちゃいけないなと思った。

*1:「専門性」や「専門知」はどちらも“expertise”の訳語だということを今回初めて知った。なお、今回の翻訳では一貫して「専門知」が使われている。

読書メモ:科学とモデル(マイケル・ワイスバーグ著、松王政浩訳)

 

科学とモデル―シミュレーションの哲学 入門―

科学とモデル―シミュレーションの哲学 入門―

 

科学者は、ものごとを理解するのに「モデル」(数理モデルや模型)をつくる。あるいは、将来の現象の予測をするために「シミュレーション」を行う。本書はそうした「モデル」や「シミュレーション」について、科学哲学から迫った一冊である。

「モデルやシミュレーションとはいったい何なのか?」という問いは、科学に携わる人にとって核心をつくものだと思う。大学院で理論研究を少しだけ齧った私も、この問いには何度も躓いた記憶がある。

しかし、そう言ってもピンとこないかもしれない。どうして「モデルとは何か」を改めて考える必要があるのか。このことについて、本の中身に入る前に、思うところを少し書いてみたい。

「モデルとは何か」を知りたい理由

世界の仕組みについて「根っこのところから分かりたい」との思いから、私は大学で物理学を専攻することを選んだ。その後、どうやら一番の根っこは宇宙や素粒子の法則よりも「人間の脳」にあるらしいと気づいて(理論)神経科学の研究室へ移ったが、どちらの分野でもたくさんの「モデル」に出会った。物理学では、

などという伝統のあるモデルについて習ったし、神経科学の研究室では、

などに触れた。

これらはどちらかというと現象を「説明する(分かる)」ためのモデルになるが、科学ではもちろん、現象を「予測」するためのモデル・シミュレーションも重要だ。地球温暖化の影響を調べるためのシミュレーションや、構造物の強度を調べるための数値計算などはその典型だろう。

ものごとを「説明」・「予測」するために、数理モデルを作ったり数値シミュレーションを行ったりするのは当たり前のことのように思える。でも、ときどき、「モデルってそもそも何なんだ?」と分からなくなる瞬間がある。少なくとも私にはあった。

たとえば……

  • どんどん抽象的になる理論物理学のモデルに対して・・・大学で習う物理でも、「ゲージ理論」やら「繰り込み理論」が出てくると、私には数学的な抽象度が高すぎてついていけなくなった。「こんな難しいモデルによる理解は自分は求めていない」という気分になった。
  • 仔細な神経回路のモデルに対して・・・神経細胞集団の振る舞いを説明する数理モデルには、たしかにうまく実験結果を再現できているのだが、仮定やパラメータが多すぎて「キレイじゃないな」と思えるものがあった。

こんなふうに、モデルによる説明に「満足できない」という感想を持つことがある。また「予測」を目的にしたモデルについても、「本当にそのシミュレーションの結果を現実世界の意思決定に反映していいのか?」ということは、つねづね問題になる。

人間の全脳をシミュレートするとした欧州のヒューマン・ブレイン・プロジェクトなどは、「説明」に関しても「予測」に関してもその意義に疑義が突きつけられた例と言えるだろう。

こう考えていくと、私たちが何をもってモデルやシミュレーションの「良し悪し」を判断しているのか分からなくなる*1。たとえば、こんなことが疑問として浮かぶ。(以降、「モデルやシミュレーション」という意味で単に「モデル」と書く。)

  • モデルはなぜ役に立つのか。モデルと現実世界はどういう関係にあるのか。
  • 科学者は、何をもって良いモデルとするのか。モデルの「良さ」にいくつか種類があるとするなら、科学者はそれらをどう使い分けているのか。
  • モデルから導かれた予測を、どんな根拠でどれくらい信用すべきか。 

モデル研究は、多額の予算と時間を投入して行われる営みであるのに、それを評価する共通言語を私たちは実はもっていない。そのことに気づくと、「モデルとは何か」についての科学哲学が必要な気がしてくる。

前置きが長くなったが、本書『科学とモデル』は、上であげたような疑問について、「回答」とまではいかなくても、少なくとも「考えるための枠組み」を与えてくれる本だった。

各章の内容を、理解できた範囲でまとめてみる。

章構成

第1章では、本書の目的が提示される。それは、「モデリングという理論的探究行為」について理解することであり、ある種の「モデルに関するモデル」を示すことである。

第2章にて、著者は科学者がつくるモデルを「具象モデル」「数理モデル」「数値計算モデル」の3種類に大別し、それぞれ代表例を一つずつ挙げて説明している。

  • 「具象モデル」:実際に物理的につくられるモデル。その代表例に、20世紀中ごろにサンフランシスコの巨大ダム工事計画の影響を調べるために作られた模型=「サインフランシスコ・ベイモデル」を挙げている。
  • 数理モデル」:方程式で書かれるモデル。代表例として、生態系の被食者と捕食者の数的関係を微分方程式でモデル化した「ロトカ-ヴォルテラ・モデル」を挙げる。
  • 数値計算モデル」:アルゴリズムの形で書かれるモデル。代表例として、トーマス・シェリングによる「人種隔離シミュレーション」を挙げる。

著者は、科学で用いられるモデリングはこの区分でほぼカバーできると考えている。

第3章では、この3種類のモデルに共通する「構成要素」として、「構造」「モデル記述」「解釈」の三つがあることが述べられる。モデルは、物理的構造であれ、数学的構造であれ、アルゴリズムであれ、何らかの「構造」をもっており、それを表現するための何らかの「記述」(図面、模型、式、ソースコードなど)を伴う。ポイントは、そこに「解釈(construal)」が加わることだ。当該モデルが現実世界の何を表しているのか(=割り当て)、モデルのどこまでを現実世界と対応づけるのか(=範囲)、どのくらい現実世界に似ていることを要求するか(=忠実度基準)という、いわば科学者の「意図」が、モデルの「構成」には含まれている。

第4章は「モデルとは何か」、つまりモデル(主に数理モデル)の身分が問題にされる。とくに、「数理モデルとはある想像上のシステムである」とする「フィクション説」という科学哲学上の立場を取り上げ、なぜ著者がそれに反対かが説明される。たしかに科学者はモデルをつくるときに「何らかのイメージ」をもっている。しかし、必ずしもそれは現実に存在しうる対象のイメージ(=フィクション)でなくても構わない。そうした「科学者個人、および科学者共同体が抽象的な数学的対象に結びつける心象」を著者は「慣習的存在論」と呼ぶ。

第5章では、特定の対象を念頭においた「対象指向型」のモデリングのプロセスが検討される。モデリングは、「モデルの作り上げ(方程式を立てる、etc)」→「分析(方程式を解く、etc)」→「モデルと対象の比較」というステップで行われる。ここでモデルに比較されるのは現実世界そのものではなく、世界から恣意的に切り取った一側面(=「対象システム」)だということに著者は注意を促す。

第6章では、モデルの「理想化」について論じられる。モデリングにおいて「理想化」が行われる動機にはいくつかの種類がある。解けない数式を簡略して解きやすくするようなプラグマティックな理由による理想化(=「ガリレイ的理想化」)もあるが、ある現象にどの要因が効いているかを特定するためにあえて要素をそぎ落とす理想化(=「ミニマリストの理想化」)もある。また、予測精度を上げるためにいくつかの異なる理想化をしたモデルを組み合わせることも行われる。

第7章では、特定の対象をもたない抽象的なモデルが論じられる。著者はそうしたモデルを3種類に分けている。

  • 汎化モデリング:普遍性が高い現象を説明するモデル(有性生殖のメリットを説明するモデルなど)
  • 仮説的モデリング:現実には存在しない対象の性質を調べるためのモデル(現実のDNAとは分子構造が異なる「xDNA」のモデルや、熱力学の法則に反する「永久機関」のモデルなど)
  • 対象なしモデル:抽象的な意味でも現実の対象と結びついておらず、単にモデル自体の面白さから研究されるようなモデル(セルオートマトンなど)

ただし、著者によればこれらの区別は動的である。

最後の2章(終章を除く)は、具体的なモデルの話に戻る。第8章は、モデルと現実世界の「類似性」について。モデルが対象と「似ている」とはどういうことか。伝統的な説明は「写像」の概念を使ったものだが、著者はそれはうまくいかないと考え、独自の「モデルと世界の一致度を表す評価関数」を提案している。ミソは、この評価関数には科学者の「意図」を反映する重み係数がいくつか入っているところである。

私が示したいのは、モデル-世界間関係が、いかにモデルに対する理論化の解釈に依存し、さらに研究者共同体の背景知識、行為、そして彼らの研究目的に依存するかということである。

第9章では、モデルが信用できるのはどんなときかについて検討される。モデルをつくって何らかの結果を得たとして、これを実際の意思決定に生かすべきか。このモデルはどれくらい信用できるのか。こうしたことを判断する方法として、この章では「ロバスト分析」が紹介される。これは、パラメータを振ってみる・項を加えたり引いたりする・異なるモデルで結果を比較してみるなどにより、モデルの出力がどれくらいロバストなものかを調べるという方法。ロバスト分析の妥当性に対する批判とそれへの著者の反論が述べられている。

感想

科学哲学のプロ向けの記述も多く、理解できない部分も多かった(科学哲学の分野で本書が置かれている文脈については、「訳者解説」でとても丁寧に解説されている)。それでも、模型作りから数値シミュレーションまでの幅広い「モデリング」を統一的に扱えるような理解の枠組みを作ろうという意欲は感じたし、何より科学者にとってrelevantな本だと感じた。哲学は「科学者の実践には何も影響を与えない」と言われることもあるが、本書に関してはそれは当たらないと思う。

最初に書いたように、「モデルとは何か」について統一理解がないために、齟齬が生まれているケースは現実にあると思う。神経科学のモデル研究でも、「良いモデル」についての基準があいまいなまま、何となくモデルが作られていることもあるように思う。(もしかしたら「良いモデル」の一番の基準は「論文が通ること」ではないのか、という皮肉さえ言いたくなる。だとすれば、「なぜ今のその研究コミュニティでそのモデルがアクセプトされるのか」が、本当は問われないといけないのかもしれない。)今後、とくに脳科学の「意識の情報理論」などにおいては、「モデルで何がしたいのか」が重要になるように思う。これをはっきりさせないままだと、本当は科学者個人の「好き嫌い」が原因の不毛な宗教論争になってしまいかねない。それを避けるためにも、本書のような交通整理が必要と思う。

一つ疑問に思ったのが、モデルと「理論(法則)」、あるいはモデルと「アナロジー」はどう違うのか、ということだった。たとえばニュートン運動方程式は「モデル」とは言えないのだろうか。ニュートン運動方程式はかなりよく物理現象を再現するが、相対論的効果や量子力学的効果がない範囲で正しいにすぎない。その意味で、たとえばロトカ-ヴォルテラモデルと比べて、世界との当てはまりの良さは程度の差しかないとも言えそうな気がする。また、逆に「アナロジー」というものは、対象との対応がかなりルーズな「モデル」とは言えないのだろうか。科学哲学の議論の中で、「理論」「モデル」「アナロジー」に区別がどう引かれるのかということに興味が沸いた。

おわりに

科学哲学者だけでなく、多くの理系の読者に本書が読まれるといいと思う。研究者たちが、「ワイスバーグ式に言うと、君のモデルはここがイマイチだね」などと議論できるようになるのが理想だろうか。

*1:これまで私が読んだ「良いモデル」の説明で一番納得したのは、理論物理学者の田崎晴明氏によるこれだった:

「理論物理学における「優れたモデル」というのは、決して、実際の物質に忠実なモデルのことではない。むしろ、きわめて複雑な現実の系の中から、着目している普遍的な現象が生じるメカニズムそのものを集中的に研究できるようにしたものが、優れたモデルなのだ。これはほしい結果が出やすいような「やらせ」とはまったく違うことを注意しておこう。研究したい「物理」の本質的な難しさをも伝えるのが優れたモデルなのだ。」(『統計力学Ⅱ』(培風館))

読書メモ:Homo Deus (by Yuval Noah Harari) …サピエンスはどうなってしまうのか?

 

Homo Deus: A Brief History of Tomorrow

Homo Deus: A Brief History of Tomorrow

 

話題の歴史学者、ユヴァル・ノア・ハラリ氏の最新作。人類の全歴史を独自の切り口で描いた『サピエンス全史』に引き続き、本作では人間の「未来」を展望する。

これからホモ・サピエンスはどうなるのか? 著者は、今後数十年、長くても100年くらいのうちに、もはや別の生物種と言えるほど人間は今とは違う存在になるのではないかと予想する。

we will now aim to upgrade humans into gods, and turn Homo Sapiens into Homo Deus (Ch.1より引用)

ただし、ここでの「神(god, deus)」は「全知全能」というよりは「自ら生命を設計できる存在」という意味合いだ。さまざまな技術を編み出して貧困や病気を乗り越えてきた人類だが、その延長線上にある21世紀の遺伝子工学やサイボーグ技術は、ホモ・サピエンスを「ホモ・デウス」にアップグレードするだろうと著者は言う。

これだけ聞くと、またそんな話か、と思うかもしれない。「大半の職業がAIに奪われる」「シンギュラリティが到来する」「人生100年時代」といった未来予想を、近頃私たちはうんざりするほど聞かされている。それらとどこが違うのか。

未来予想は、常に、過去の事例を集めて、それを未来に外挿することによって行われる。その点、ハラリ氏の頭の中にある「ホモ・サピエンスの全歴史」は、未来予想で使いうるデータとしては最大のものと言える。それを生かした著者ならではの視点が、本書の見どころとなっている。

その視点とは、人間のもっている「価値観」の変化に焦点を当てていること。未来についてあれこれ考える私たちの思考の土台である「価値」そのものを相対化し、その変容も含めた未来予測を行っていることだ。

 

***

本書は3部で構成されており、それぞれが人間の「いままで」「いま」「これから」に対応している。「いま」私たちが共有している価値観とは何か。第2部にて詳しく説明されるが、端的に言えばそれは「ヒューマニズム」という価値観である。

For centuries humanism has been convincing us that we are the ultimate source of meaning, and that our free will is therefore the highest authority of all. (Ch.7)

ヒューマニズム。尊重されるべきは個々の人間であり、すべての物事に価値や意味を与えるのは個々人の心であるという考え方だ。現代社会の法制度・経済・教育はすべてヒューマニズムにもとづいている。リーダーは選挙で選び、商品の良し悪しは市場が決め、何にもまして人権が優先される。

しかし、ヒューマニズムホモ・サピエンスの行動を導いてきた普遍的な価値観というわけではないということが、先立つ第1部を読むとわかる。このパートでは、ヒューマニズムという価値観を人間が共有するまでの経緯が足早にたどられる(内容は一部『サピエンス全史』と重なる)。7万年前のサピエンスに起こった「認知革命」は、人間が大勢で協力することを可能にしたが、それは、主に大勢の人々が同じ幻想を共有することを通じて可能になった。この共同幻想は、ストーリー、虚構(fiction)、“宗教”などと著者は呼ぶが、これにはキリスト教仏教などの狭義の宗教だけでなく、「貨幣」「国」「会社」など現代社会に欠かせない約束事も含まれる。

Fiction isn't bad. It is vital. Without commonly accepted stories about things like money, states or corporations, no complex human society can function. (Ch.4)

そして、21世紀初頭の私たちが共有している最大の“宗教”こそ、「ヒューマニズム」である。ただし、ヒューマニズムをみんなが信奉するようになった理由は、それが絶対普遍的に正しいからではなく、いまこの時代において「うまくいく共同幻想」だからにすぎない。したがって、それは時代とともに変わっていく可能性がある。では今後、ヒューマニズムはどうなるのか。それが第3部のテーマとなる。

ヒューマニズムの理想は、人間を「より健康に」「より幸福に」することだった。しかし、次のように著者は言う。

attempting to realize this humanist dream will undermine its very foundations by unleashing new post humanist technology. (Ch.7)

ヒューマニズムを実現するための技術がヒューマニズムを切り崩していくとはどういうことか。著者の挙げる論点の一部をまとめると次のようになる。

  • 脳や遺伝子の生物学的解明が進むと、「自由意志」で説明されてきた人間の行動が、生物化学的プロセスによる説明で置き換えられていく。
  • ウェアラブルバイスのデータや23&meでわかる遺伝情報など)個人に関する生物学的データが増えてくると、個人の「気持ち」ではなくそうしたデータに意思決定をゆだねるほうが合理的になる。
  • 個人の「意思」や「欲望」自体を(脳への刺激などによって)変えることができるようになると、人々の「意思」を最上のものとすることが意味をなさなくなってしまう。

こうしてヒューマニズムはボロボロになり、時代遅れな“宗教”となってしまう。それに代わり、ある新しい“宗教”がでてくる。著者が「データイズム(dataism)」と名づける価値観である。データイズムは、生物を情報処理のデバイスとみなす。

Dataism thereby collapses the barrier between animals and machines, and expects electronic algorithms to eventually decipher and outperform biochemical algorithms. (Ch.11)

新しい“宗教”は、古い“宗教”を自分の枠組みの中で解体する。ヒューマニズムが「神は人間の心がつくったものだ」として一神教宗教を解体したのと同じく、こんどはデータイズムが「人間の心は生物化学的なアルゴリズムがつくったものだ」として、ヒューマニズムを解体する。

データイズムという“宗教”のなかでは、なるべく大きな情報の流れのなかに身を置き、そこに自分のデータを提供し、また周りのデータを活用することが「善」とされる。一見わかりにくい主張なのだが、次の一節などを読むと少し実感がわく。

Dataists believe that experieces are valueless if they are not shared, and that we need not -indeed cannot-find meaning within ourselves. (Ch.11)

10年前には自分がFacebookのようなサービスを使っていることを想像すらできなかったことを考えれば、こうしたデータイスト的価値観を急速に内面化しつつあることに、誰しも思い当たるのではないだろうか。また、蛇足になるが、こんな記述もあった。

Twenty years ago, Japanese tourists were a universal laughingstock because they always carried cameras and took pictures of everything in sight. Now everyone is doing it. (Ch.11)

たしかに。日本人は世界に先駆けてデータイスト化していたのだろうかなどと興味が沸く。

以上のように「ヒューマニズムからデータイズムへの変化」のシナリオを描いて著者は筆をおく。この変化についての、著者自身の価値判断については明言はしていない。

It won't be a necessarily bad world; it will, however, be a post-liberal world. (Ch.9)

印象としては、著者は「データイズム」に対しては「心をアルゴリズムに還元する」点で望ましくないと考えている一方、「ヒューマニズム」のほうも、人間以外の動物(家畜など)の不幸を顧みない点で賛同していないように感じた。

ともかくも、今、全人類の心に起こっている変化に目をひらかせてくれる一冊だった。日本語版が出れば、前作にも劣らない話題の書になるだろう。

 

 

 

読書メモ:『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ)を現代人が読むべき理由

 

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

 

  

サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福

 

ほうぼうで話題になっている『サピエンス全史』。読む気はなかったのだが、あまりに評判が良いので根負けして手に取った。(決定打は宮台真司氏がラジオで絶賛していたことだった。)

「サピエンスの歴史」という問題設定

いままで、「サピエンス」という言葉の括りというか、問題設定の規模感に関心が持てない自分がいた。「現生人類であるホモ・サピエンスはどこで誕生して、どうやって極東の島国までやってきたのか?」とか、「ネアンデルタール人との混血なのか?」などは、たびたび『日経サイエンス』などでテーマになっているが、私にとってはどこか興味の対象外だった。むしろ、「太陽系はどうやってできたのか?」や、あるいはもっと至近な「なぜ日本には天皇制があるのか?」のほうに興味を引かれる。「サピエンスの来歴」というテーマは、宇宙の歴史と比べるとやや些末すぎ、かといって日本の歴史などと比べると自分の日常とかけ離れすぎているように思えた。

だから、『サピエンス全史』がこれほど読まれていることが不思議だった。

サピエンスの歴史は、そんなにたくさんの現代人が知っておくべきことがらなのか? 最初は懐疑的だったのだが、本書を読んで「大ありだ!」という考え方に180度変わった。

この本については有名無名の人がたくさんの解説や書評を書いているはずなので、ここでは現代人が『サピエンス全史』を読むべき理由について考えてみたい。

こんな本

『サピエンス全史』は、もともとアフリカに生息していたホモ・サピエンスが、地球全体に広がって70億人に増えるまでの人間の歩みを一気に活写した本である。「認知革命」「農業革命」「科学革命」という3つの飛躍を軸に、興味深いエピソードとわかりやすい比喩をふんだんに使いながら、人類史の骨格を描いていく。

哺乳類の一種に過ぎなかったホモ・サピエンスがここまでの発展を遂げた理由を、著者は、7万年前の「認知革命」に帰している。「認知革命」は、人間の認知能力の向上をもたらした脳の進化のことで、著者は、この認知革命が「虚構(フィクション)」を語る能力を人に与えたという点を強調する。それによって、サピエンスは大勢で協力することができるようになった。たとえば、チンパンジーには「群れのボス」という概念はあるかもしれないが、会ったことのないチンパンジーを「総理大臣」とか「天皇」とか「社長」とみなすことはない。だから、「国家」も「会社」も作らない。それができるのはサピエンスだけだ。その後の人間の歴史は、宗教、帝国、貨幣、宗教、資本主義、科学など様々な「虚構」のたまものに他ならない。本書の主題(の一部)は、大まかにいうとこんな感じだ。「貨幣」「宗教」「科学」などそれぞれについて面白い話が無数にあるので、ぜひ読んでみていただきたい。

読むべき理由

さて、それでは、この本に書かれているようなマクロな歴史観を持つことは、2017年を生きる一介のサラリーマン(学生、主婦、自営業者、etc)にとってどんな意味があるのか。思うに、それは、私たちが日々頭を悩まえている「価値観の対立」の本質を教えてくれることだ。

価値観の対立というのは、たとえば次のようなことだ。

  • 家族観の対立 ex. 親子や兄弟は助け合うべき vs 場合によっては個人の権利を優先すべき
  • 国家観の対立 ex. 戦前の愛国教育にも良い面はある vs 教育勅語なんて時代錯誤
  • 科学観の対立 ex. 豊洲は安心できない vs 豊洲は安全

こういうイシューそれぞれに対して、相反する意見を持っている人たちがいる(それもかなり強い意見を)。しかも、となりで働いている同僚や、一緒に住んでいる家族でも意見が一致しないことがあるから要注意となる。うかつに話題に出すと、とても後味の悪い論争になったりするからだ。

自分はというと、どちらかといえば「リベラル」「合理的」「科学的」と形容されるような価値観を持っているように思う。人はどんな理由でも差別されてはいけないし、意思決定のプロセスは民主的に、科学的知識に基づいて行われなければならない。こうした考え方が「正しい」と思っている。

でも、価値観が異なる人に対してその「正しさ」を説得することは難しい。いかに理があると思っていた考え方も、突き詰めていけば根拠がないことに気づく。「自由」「平等」「人権」「真理」といったものに価値をおくべき理由を見つけることはできないのだ。それは、結局のところ、すべて人間が頭のなかで作り出した「虚構」にすぎないからだ。

『サピエンス全史』に戻ると、人間をほかの動物から分けたのは、「虚構」を持つことを可能にした「認知革命」だった。これによって、人間は自分たちの価値観をカスタマイズできるようになった。だから「生物学の視点に立つと、不自然なものなどない(p.187)」にもかかわらず、「民主主義」や「資本主義」がもっとも「自然」な考えかのように錯覚するまで、虚構を強化してきた。

でも、うえで見たように、全人類で価値観が統一されるということにはならず、必ず相反するものが共存している点が厄介だ。人々が異なる価値観のクラスターを作り、バトルを繰り広げている。

そこで、一度、自分の持つ価値観を疑うということが必要になる。私の価値観は、人類が、いつ、どこで獲得したものなのか。それを考えるために、歴史は多くのことを教えてくれる。たとえば「男女は平等であるべき」「科学には予算を割くべき」なども、ある歴史上の一時点に登場した価値観であって、決して人間の脳に刻み込まれたものではない。人間の生物学的な特性は「虚構を持つ」ということだけだ。

自分の価値観の出自を知り、それを選びなおすためにこそ、「サピエンスの歴史」を辿る意味があると考える。

読書メモ:工学部ヒラノ教授の中央大学奮戦記(今野浩 著)

 

工学部ヒラノ教授の中央大学奮戦記

工学部ヒラノ教授の中央大学奮戦記

 

大学事情に多少通じている人なら知っているように、国立大学の(偉い)先生は、定年になるとたいてい私立大学に移籍する。金融工学の第一人者である著者も例外ではなく、60歳で東工大を定年になったのち、中央大学に移って70歳の「第2の定年」まで教授を務めている。今回の「ヒラノ教授」はその10年間のお話だ。

学生時代、アメリカ留学時代、筑波大学助教授時代、東工大教授時代と、研究者人生のあらゆるステージを「ヒラノ教授シリーズ」に記してきた著者だが、今回の「中央大学奮戦記」で、またピースが一つ揃ったことになる。

中央大学は、著者にとっては理想的な再就職先だったらしい。後楽園の理工学部キャンパスは家からも近いし、研究費にも不足はないし、学生も「半分くらいは」優秀だったそうだ。とはいえ、そのポジションを得るまでには紆余曲折があり、赴任後もやはりもろもろの事件が勃発する。そうした顛末が、いつもの「ヒラノ教授節」で披瀝されていく。

「定年教授の再就職」に加え、今回は「日本の大学政策(の失敗)」がテーマの一つになっているように感じた。著者が中央大に移った2000年代前半というのは、まさに国立大学の「独立行政法人化」に代表されるような、大学改革が本格化した時期。そのころ国立大と私立大の両方の大学運営を経験した著者は、人一倍、文科省の大学政策に矛盾を感じたようだ。

たとえば、当時文科省が推し進めた「特許政策」。中央大の「知的財産本部」の長に任命された著者は、「利益相反問題」など一部の課題には手をつけたが、大学教員に特許取得を推奨するという文科省の方針は「ナンセンス」であると判断して無視したとのこと。その後を見ても、この特許政策が功を奏した形跡はないという。一時が万事で、最近の「スーパーグローバル大学構想」なども含めて、「わが国の大学政策は問題だらけである」と著者はいう。

東工大や中大だけではない。全国各地の大学風呂は、文科省の釜焚き政策のおかげで、かなり加熱している。このまま加熱が続けば、中にいる人間は、遠からず茹で上がってしまうのではなかろうか。(あとがき) 

大学の現場からもよく聞く声だ。ただ、従うところは従い、抗うところは抗ってきた著者だからこそ、ことさら重い警鐘に聞こえる。

本書で一番印象深かったのは、中央大学への転籍が内々に決まっていたとき、中大の3年生が東工大までやってきたエピソードだった。彼は新任の教授が著者であると当たりをつけて訪問し、見事、新研究室への配属を勝ち取り、その後著者の指導のもとで金融工学の研究者になったそうだ。すごいガッツだ。

というわけで、本書はぜひ、中央大学の関係者の方と、大学政策に関わる官僚の方と、研究室選びをしている大学3年生に読んでほしい。

読書メモ:The Knowledge Illusion(by Steven Sloman & Philip Fernbach)

たしか小学生のころ、「総理大臣ってすごいな」と思っていた。

自分は学校の宿題やら習い事やらで頭がいっぱいなのに、大人というのは自分以外のことにも気を配っている。たとえば通学路のガードレール。これが設置されるまでには、「この道にガードレールが必要だ」と誰かが考えて、製造・設置の段取りを考えたはずだ。そういうことに気を配れる大人ってすごいし、まして日本全体のことに気配りしなければいけない「総理大臣」はよほどの知識と判断力の持ち主なんだろう。総理になるつもりなどない自分も、大人になるまで勉強しなきゃいけないことが山ほどあるな。だいたい、ガードレールってどうやってつくるんだ…。(なぜかガードレールに拘っていた)

大人になってみると、総理大臣もそんなに偉いものではない(むしろ必要とされるのは別種の能力)ということがわかったし、ガードレールの作り方を知らなくても不自由なく暮らせることもわかった。たいして知識は増えていないのに、子供のころの「自分は何も知らない」という感覚は格段に薄まった。

ということを、“The Knowledge Illusion”を読んで思いだした。

The Knowledge Illusion: Why We Never Think Alone

The Knowledge Illusion: Why We Never Think Alone

 

Knowledge illusion(知識の錯覚)とは、自分の知識を過大評価しまう傾向のことだ。2人の認知科学者による本書は、人間の心のなかでknowlegde illusion生じる理由、それが引き起こす問題、それを踏まえてどうすべきかを論じた一冊となっている。

「自分の知識の過大評価している人」と聞くと、学校の先生や会社の上司の顔が思い浮かぶかもしれない。でも、多かれ少なかれ、誰もが「知識の錯覚」に陥っている。小学生のときの自分からすれば、今の自分は「知識の錯覚」だらけかもしれない。

本書の前半部では、こんな実験を紹介している。まず、被験者に「あなたは○○の仕組みについてどれだけ知っていますが?」という質問をし、1から7までのスコアで答えてもらう。○○は、「洋服のジッパー」「携帯電話」「ミシン」など。次に、「ではそれを説明してください」とお願いし、そのあとでもう一度「どれくらい知っていますか?」という最初と同じ質問をする。すると、説明を促した後のほうが、申告される理解度のスコアが有意に下がるそうだ。つまり、人はいざ説明しようとしてはじめて自分が知らないことに気づく。この実験を2002年に発表したRozenblitとKeilは、この現象を"illusion of explanatory depth"と名づけている。

どうして私たちは実際以上に知っていると思ってしまうのか。本書では前半の各章でいくつかの理由が示される。

  • 私たちは無自覚に直観的な推論(intuitive reasoning)に頼ってしまうため(4章)
  • 私たちは無自覚に身体知に頼っているため(5章)
  • 私たちは無自覚に他人の知識(communal knowledge)に頼っているため(6章)
  • 私たちは無自覚に、テクノロジーに頼っているため(7章)

中盤では、「知識の錯覚」が問題になる、2つの局面について論じている。

 

  • 「知識の錯覚」は、科学的知識の普及を妨害する(8章)
  • 「知識の錯覚」は、合理的な政治的判断を妨害する(9章)

後者の政治についての章では、"illusion of explanatory depth"を政治的イシューに応用した著者自身の研究を紹介している。それによると、人々は自分が「ある政策の効果を説明できない」と気づくことで、よりマイルドな政治的立場をとるようになることがわかったらしい。これは、昨今の政治的分断を解消するためのヒントにもなりうる結果かもしれない。

最後の2つの章では、こうした「知識の錯覚」があることを前提として、どうしていくべきかについての著者らの考えが述べられている。個人の知識を増やすばかりの教育はいい加減やめて、人と協力する能力を育むべきではないか、という主張には頷けた。

私たちが「知識」と言っているもののうち、自分一人の「脳」のなかにあるのはたかが知れていて、その外側の「身体」「他人」「社会」「技術」に多くを負っている。思ってみれば当たり前のことだが忘れがちなこのことを、「認知科学」の視点で整理してリマインドしてくれる一冊だった。

 

追悼メモ:羽野幸春先生を偲んで

高校時代の恩師、羽野幸春先生がお亡くなりになった。

羽野先生は社会科の倫理の先生で、私が教わったのは日比谷高校在任時代の2004~2006年。覚えているのは、白髪で背筋がぴんと伸びた、物静かな姿。近寄りがたさがある先生で、個人的にお話をした記憶はあまりない。

「倫理」という科目は、高校社会科のなかでは「おまけ」的な扱いで、身を入れて倫理の授業を聞こうという生徒は私を含めて少なかったように思う。しかも羽野先生は、いかにも憂鬱そうな顔でとつとつとしゃべるので、授業中に大半の生徒が寝ているのも珍しくなかった。

でも、いつからかこの授業を私は夢中で聞くようになり、いまでは「羽野先生に出会っていなければ自分はない」と言えるほど、大きな影響を受けることになった。

まず、知識量がすごかった。倫理の教科書や資料集の編纂にも関わっていた先生は、古今東西の思想史の概要がすべて頭のなかに入っていて、メモを見ずに語ることができた。しかも、単に知識を教えるだけでなく、熱がこもっていた。もの静かな調子の先生は、その日の核心に差し掛かると、しだいに身振り・手振りを大きくし、目を見開いて話された。

アリストテレスの政治学について、ヘーゲルの哲学について、上座部仏教の教えについて、実存主義の思想について。その日の登場人物がまるで先生に憑依したかのようだった。毎回の授業のあと、私はその日のプラトンなりニーチェなりに感化されて、一時放心状態になったのを覚えている。一番覚えているのはカントの回で、「純粋理性批判」の解説の中で出てきた「科学的理解の限界」というテーマは深く心に残った。

また、先生の授業は、「なんとなく人生がうまくいかない憂鬱さ」に対して、思想や哲学がある種の処方箋になることを教えてくれた。部活で頑張っていたり友人関係が充実しているクラスメートをわき目に劣等感を持っているタイプの高校生にとって、苦虫をつぶしたような顔で、それでいて嬉々として哲学を語る先生はまぶしかった。先生ご自身の人生も苦しいことが多かったらしく、「青春は苦痛でしかない」というようなことを言っておられた。

赴任した都立高校の卒業生にしか知られていないとすれば非常にもったいない、素晴らしい先生だった。ご冥福をお祈りします。

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読書メモ:科学報道の真相(瀬川至朗 著)

 

もと新聞記者で今は大学でジャーナリズムを教える著者が、日本の科学報道の問題点を整理・分析した一冊。

「日本の科学報道の問題」と聞けば、単純化しすぎの健康番組とか、根拠に乏しい「医療系まとめサイト」などが思い浮かぶかもしれない。しかしこの本で扱われているのはもう少しレベルの高い話。主に大手新聞社の科学部の報道に焦点を当て、それが抱える「構造的な問題」が論じられている。

本書で取り上げられる具体例は、STAP事件、福島の原発事故、地球温暖化にまつわる報道の三つ。いずれも著者が現役記者を退いた2008年以降の話なので、記者時代の経験を生かしつつも外部者の視点での分析となっている。

前半の各章の内容を、個人的に面白いと感じた点を中心に要約すると、

  • STAP騒動の報道では、Natureに論文が一本載った段階で「ノーベル賞受賞」のような報道をしてしまったことが問題だった。また、Nature誌のチェック機能の検証が十分ではなかった。(第1章)
  • 福島第一原発の報道では、新聞における「炉心溶融」という言葉の使われ方などを分析してみると、東京電力や政府の発表を流す「大本営発表」だったことがわかる。(第2章)
  • 地球温暖化問題の報道は、IPCCなどの公式発表に依拠している度合いが強く、米国に比べると日本は「温暖化懐疑論」の立場の報道が少ない。また、温暖化対策については、新聞社の科学部と経済部がそれぞれ環境省経産省から別々に情報を仕入れていることから、新聞内で温度差のある報道が併存している。(第3章)

など。

この3事例をもとに、後半の章では、著者の考える科学報道の「構造的な問題」と処方箋が論じられている。指摘される構造的問題の一つは、情報発信者(科学者や官庁)と記者との共存関係(=「マスメディア共同体」)ができてしまっていること。もう一つは、報道の「客観性」や「公平・中立」という原則が不適切に使われていることだという。

第5章ではそうした原則がジャーナリズム一般において保持困難であるという議論を紹介し、そのうえで著者は代案を示している。

 「客観報道」に代わる意義をもつ原則が「検証」であり、「公平・中立報道」に代わる意義をもつ原則が「独立性」であると、私は考える。

たとえば「客観性」を目指す科学報道は、「科学者(官庁)の発表を伝聞として流すだけ」ということにつながりかねない。また、「公平・中立」も、「懐疑論のようなマイナーな科学的立場をどこまで取り上げるのが中立といえるのか?」といった解決不能な問題を招く。それよりも、「検証」の方法論をしっかりすることと、情報源との「独立性」を確保することが必要だと著者は主張する。また、「公平・中立」などを求めてしまう原因として、「固い科学観」があることが指摘される。

科学ジャーナリストは、権力や権威に頼ることなく、研究者からの不適切なアプローチに自ら対抗できる力を身につける必要がある。また、科学は確実なものであるという「固い」科学観が日本の社会に広く流通しており、そのことが、マスメディアの科学報道を歪めている (序章)

 ***

各事例の分析は、単なる印象論を超える緻密さがあって説得力があった。後半の整理も納得感が高かった。日々、科学報道の担い手はもちろん受け手にとっても、本書で解説されているような「問題点」を把握しておくことは役に立つので、読んで損はない一冊だと思う。

一方、著者の主張する「固い科学観を脱する」「検証をしっかりする」「独立性を確保する」という方向性には賛成できても、現実問題としてすぐに舵を切るのは難しそうに感じた。メディア側には毎日記事を書くというノルマがあるし、科学者の側にもできるだけ研究を宣伝しなければというプレッシャーがあるので、両者とも「マスメディア共同体」から簡単には離れられないと思われるからだ。

そこで、マスメディアでも科学者でもない「第三者」が活躍できるのではないか、と思った。具体的には、それほど「マス」ではない特定の関心をもった層に対して、批判的視点を交えて科学的トピックを解説する、という活動に需要があるのではないか。媒体としては「書籍」や「ブログ」が適しているだろうか。

…このブログでこの前まで書いていた「記憶の脳科学」についての「探究メモ」で自分がやりたかったのもまさにそういうことだったな、などと思って、少し勇気が出てきた。

探究メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで明らかにしたのか〈第8回(最終回):まとめ〉

約1か月にわたり、本ブログでは脳科学は記憶の仕組みをどこまで明らかにしたのか」と題した計8回の記事を連載してきました。

 

 

まだ深めきれていないことは多く残っていますが、このあたりで一区切りとしたいと思います。最終回の今回は、ここまでの振り返りと総括を行います。

第0回~第7回の振り返り

本連載を始めたそもそものきっかけは、最近「記憶を書きかえることに成功!」などというニュース(研究発表)をよく目にするようになったことでした(第0回)。そうした最先端の記憶研究がどこまできているのかを知りたいと思い、勉強を開始しました。

「記憶を書きかえる」ためには、まずは記憶が脳のどこにしまわれているのかを知る必要があります。脳の中の記憶の物理的実体のことを「エングラム」とよびます(第2回)。コンピュータの生みの親であるジョン・フォン・ノイマンも、エングラム(彼の言葉では「脳の記憶装置」)の正体について高い関心を示していました。しかし、彼の時代(1950年代)の脳科学は未発達であり、ノイマンは推測を述べることしかできませんでした(第1回)

それから半世紀以上たち、脳科学がたくさんのことを解明してきたなかで、「エングラムを解明した」といえるような研究も出てきます。本ブログでは、二人のノーベル医学・生理学賞受賞者、Eric Kandel氏と利根川進氏の研究を取り上げました。

Kandel氏が明らかにしたのは、シナプスにおける記憶の機構です(第4回)。彼は単純な神経系をもつアメフラシを使って、ニューロン間をつなぐシナプスには可塑性があることを証明しました。また、アメフラシの示す単純な学習行動を研究し、その記憶が形成される仕組みを、分子・細胞レベルで徹底的に解明しました。

Kandel氏本人はそういう言い方はしないのですが、これは「アメフラシの記憶のエングラムを突き止めた研究」と言ってもよいと思います。実際、Kandelらが突き止めた特定の細胞に電気刺激をしたり、特定のシナプスセロトニンなどの物質を与えたりすることにより、アメフラシの学習行動を制御、つまり「記憶を書きかえる」ことができます。

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それに対し、利根川進氏らの研究は、ニューロン集団レベルで記憶を支える神経活動を発見しています(第5回)。利根川ラボはマウスのニューロンの活動を操作する技術(オプトジェネティクス)を駆使して、マウスが置かれた環境の記憶を担っているニューロン群を特定しました。Kandelのシナプス研究に比べるとまだまだ研究の蓄積は浅いですが、限定された意味においてはこれも「マウスの環境記憶のエングラムを突き止めた」研究です(そして実際に、利根川ラボはそう宣伝しています)。そして、こちらもすぐさま「記憶を書きかえる/記憶を消去する」という一連の論文発表につながっています。

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では、人間の脳についてはどうかというと、アメフラシやマウスのようにはエングラムの研究は進んでいないようです。記憶にかかわる脳部位を特定する脳画像計測や、記憶の障害につながる脳損傷を調べる研究はありますが、それらが「記憶の書きかえ」につながるかというと難しそうです。一方、人間に対しては、まったく別のアプローチでの「記憶の書きかえ」が実践されています。それは、警察の誘導尋問やある種の精神療法のような方法で過誤記憶(false memory)を植え付けるという研究です(第7回)。このように、人間の記憶研究は「細胞レベルのメカニズムはわからないが、記憶の脆弱性や「クセ」についてはいろいろとわかってきている」という状況にあります。

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今後の見ていくべきポイント

今後も、記憶の研究は実験動物・人間の両方で精力的に行われていくと思います。続々と驚くような研究発表が出てくるかもしれません。そうした展開をウォッチしていきたいと思いますが、その際に個人的に注目したいのは次の2点です。

  • 階層間のギャップを埋める研究が出てくるかどうか
  • エングラムの見方を変えていくような研究が出てくるかどうか

どういうことか、それぞれ説明してみます。

注目ポイント1:階層間のギャップ

先ほどのように記憶研究の発展をたどってみると、さまざまなレベルで記憶のプロセスについての理解は進んでいるものの、異なるレベルのエングラムの知識がつながっていないことがわかります。昭和の神経科学者の塚原仲晃氏は「異なる階層で記憶のメカニズムを明らかにしなければいけない」と言っていましたが(第3回)、それらを統合するという課題が残っていると言えそうです。

わかりやすいのは人の記憶とマウスの記憶のギャップですが、利根川ラボの「エングラム細胞」とKandelのシナプス記憶の間にも階層間ギャップがあります。というのも、利根川ラボが見つけた海馬の「エングラム細胞」がシナプスレベルでどのように作られるのかは、まだほとんど分かっていないからです。

話をうんと単純化して、アメフラシの記憶・マウスの記憶・人間の記憶のそれぞれのエングラムが、シナプスレベル・ニューロン集団レベル・心理学レベル(+脳画像レベル)において解明できていると考えてみます。各階層には、それぞれ「記憶を書きかえる方法」(=記憶改変技術)が存在します。

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アメフラシの記憶とマウスの記憶、マウスの記憶と人間の記憶の間には、断絶があります。今後出てくる研究のうち本当の意味で革新的と言えるのは、この階層間ギャップを埋めるような研究ではないかと考えます。

なお、ここで注目したいのは、それぞれの階層の記憶改変技術はその他の階層にも「使ってみる」ことはできるということです。具体的には、マウスの脳に電極を刺して刺激をしたり、(今は不可能ですが)人の脳にオプトジェネティクスを用いたりすれば、「何か」は起こります。しかし、エングラムが明らかになっていないために、その影響は予期できません。

筆者の個人的な予想として、人間の脳のエングラムが何らかの形で解明できるとしてもそれは大分先のことであり、それよりも先に、動物でうまくいった記憶改変技術が人間に試されてしまうのではないかと思います。また、そもそも、人間の脳のエングラムが動物の脳の研究で解明できるのか、という疑問もあります(第6回)。なので動物研究を「認知症治療」「記憶力増強」などに安易に結び付ける宣伝文句には、警戒したいところです。もちろん、細胞レベルでの機序がわかっていなくとも安全に使える治療法はありますが、しかし、現在マウスなどで行われているような「脳を開いて光を照射」のような侵襲性が高い技術については、使用が先走らないように私たち非専門家も注意してみていく必要があると思います。

注目ポイント2:エングラム観のアップデート

それに加えて、今回の勉強を通して感じたのは、少なくとも人間のエピソード記憶に関しては「エングラム」の捉え方を見直す必要があるのではないか、ということでした。

本連載もフォン・ノイマンから出発しましたが、私たちはエングラムをどうしても「コンピュータのメモリ」になぞらえがちです。この、いわば「素朴なエングラム観」によれば、過去のある時点の経験がエングラムとして脳に刻まれ、あとからそれを読み出すことで思い出すことができます。また、エングラムを外から入れ替える操作を行えば、「記憶を書きかえる」ことができます。

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しかし、第7回で見たのは、人間の記憶はもっと動的なものだということでした。以下のような点で「素朴なエングラム観」は不十分だと思われます。

  • 脳の中にはエングラムのネットワークが存在する。新しい記憶は既存の記憶に関連付けて記銘される
  • 想起はもとの経験の厳密な復元ではない。また、想起すること自体がエングラムを書きかえる
  • 一つのエングラムだけを取り出したり書きかえたりすることはできない
  • 人と話したり文章を書いたりするなかで、エングラムは時々刻々変化していく。その変化が、場合によっては過誤記憶につながる

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こう考えると、第0回で考えた下の絵のような「記憶の書きかえ」はナイーブすぎたことが分かります。

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人間の記憶の研究から見えてくるのはこのような「アップデートされたエングラム観」である一方、実験動物の研究では、どうしてもコンピュータになぞらえた「素朴なエングラム観」に基づいていることが多いような印象があります。今後、実験動物でも、より複雑で動的なエングラム観に基づく研究が出てくるかどうか、注目していきたいところです。

書けなかったこと

今回の連載で書こうと思って書けなかったことが二つあります。

一つは、記憶の計算論モデルの話題です。脳の記憶の理論的研究がどれくらい進んでいるのかや、それが人工知能にどの程度応用されているのかを調べてみたかったのですが、時間が足りませんでした。

もう一つは記憶の哲学についてです。「そもそも自然科学の方法で記憶を研究することに限界はないのか」という問題です。Kandel氏は「意識」まだ手に負えないから「記憶」を研究テーマに選んだと書いていましたが、本当に「記憶」は「意識」よりも簡単なのでしょうか。人間のエピソード記憶に関しては、「意識」と同等レベルの難しさがあるようにも思えます。記憶と脳の関係について、哲学者はどんなことを考えてきたのか、調べてみたい思いがあります。

今後、もし時間があれば、これらについても調べて書いてみたいと思っています。

おわりに

一か月間、文献を集め、読み込み、咀嚼していく作業はとても楽しいものでした。専門家にとっては常識であるようなことをなぞったにすぎませんが、個人的には大変勉強になりました。

また、読んでわかったことを「文章で書いておく」ことの大事さも痛感しました。せっかく本や論文を読んでも、時間がたつとすぐに内容を忘れてしまいます。その都度、いるかいないかわからない「架空の読者」に向けたブログを書くことで、自分なりの理解が固まり、そこを足掛かりに次の勉強に移っていけるのを感じました。もしかしたら「単著で本を書く」というのは究極の記憶術であり思考整理方法なのかな、などということも思いました。

読んでくださった皆様、ありがとうございました。引き続きご感想・ご指摘をいただければ大変ありがたいです。

参考図書

参考にした文献のうち、書籍として入手可能なものを挙げておきます。

  • フォン・ノイマン(著)柴田 裕之 (訳)『計算機と脳』ちくま学芸文庫, 2011. 
  • 塚原仲晃『脳の可塑性と記憶』岩波書店, 2010.
  • 池谷裕二『記憶力を強くする 最新脳科学が語る記憶のしくみと鍛え方』 講談社, 2001.
  • 榎本博明『ビックリするほどよくわかる記憶のふしぎ』SBクリエイティブ, 2012.
  • 理化学研究所 脳科学総合研究センター『つながる脳科学 「心のしくみ」に迫る脳研究の最前線』講談社, 2016.
  • ジュリア・ショウ(著)服部 由美 (訳)『脳はなぜ都合よく記憶するのか 記憶科学が教える脳と人間の不思議 』講談社, 2016.
  • ダニエル・L. シャクター (著) 春日井 晶子 (訳)『なぜ、「あれ」が思い出せなくなるのか―記憶と脳の7つの謎』日経新聞社, 2004.
  • イアン・ハッキング(著)北沢 格(訳)『記憶を書きかえる 多重人格と心のメカニズム』早川書房, 1998.
  • D.O.ヘッブ(著) 鹿取 廣人ほか(訳)『行動の機構――脳メカニズムから心理学へ(上)(下)』岩波書店, 2011.
  • Kandel, Eric R. In search of memory: The emergence of a new science of mind. WW Norton & Company, 2007.
  • LeDoux, Joseph. Anxious: Using the brain to understand and treat fear and anxiety. Penguin, 2015.
  • Hasselmo, Michael E. How we remember: brain mechanisms of episodic memory. MIT press, 2012.
  • Dittrich, Luke. Patient H.M.: A Story of Memory, Madness, and Family Secrets, Random House, 2016.

 

 

読書メモ:おさなごころを科学する(森口佑介 著)

 

おさなごころを科学する: 進化する幼児観

おさなごころを科学する: 進化する幼児観

 

図書館の「子育て本」コーナーで何気なく手にとった本。斜め読みですませるつもりが、予想外にしっかりした本で、しかも抜群の面白さだったため、時間をかけて読むことに。

いま、誕生後2か月の娘と一緒に暮らしている。お世話することにはだいぶ慣れてきたものの、泣いたり笑ったりいる赤ちゃんが何を考えているのかは、いまもって全くわからない。育児書には「赤ちゃんは周りがちゃんとわかっています。どんどん話しかけましょう」などと書いてあるけれど、すんなりと納得はできない。

本書は、発達心理学者が、乳幼児の心の研究の歴史から最先端の知見までを、非専門家に向けて解説した一冊である。

本書で扱うのは、主に乳幼児です。乳幼児は十分に言葉が発達していないので、自分の考えや気持ちを直接的に表現することができません。また、かつて私たちは乳幼児であったにもかかわらず、その頃のことを覚えていません。そのため、かつては、乳幼児は知ることも、考えることもできないとされていました。このような乳幼児が実際には何を考えているのかを調べることは、非常にエキサイティングな試みなのです。(はじめに)

訳知り顔の育児書と違って、本書は「赤ちゃんの心はわからない」ことを前提にして書いてくれている。

本書では、おさなごころについての見方を「乳幼児観」という言葉で表現し、乳幼児観の歴史的変遷と筆者の乳幼児観を述べます。その際に、本書では、理論、証拠、方法論の3点を考慮します。(はじめに)

本書では「乳幼児観」がキーワードになっている。耳慣れない言葉だが、読み進めるにつれ、これしかないと思えるようなピッタリの言葉に思えてくる。赤ちゃんの心は簡単にはわからないのだから、研究者や時代によっていろいろな「見方」=「乳幼児観」があるのだ、という視点に著者は立つ。種類の異なる乳幼児観を分かりやすくカテゴライズして章分けし、それぞれの代表的な実験や理論を解説している。

  • 1章:「無能な乳幼児」 発達心理学以前の、乳幼児は基本的には何もできない無能な存在だとする乳幼児観。
  • 2章:「活動的な乳幼児」 ピアジェらによる乳幼児の観察により得られた、さまざまな段階を経て発達するとする乳幼児観。
  • 3章:「かわいい乳幼児」 養育者の行動を引き出す無意識の行動など、乳児と他者の関係に着目した乳幼児観。
  • 4章:「有能な乳幼児」 ピアジェ以降、視線計測などの実験を通して実は論理・数・統計など様々な能力をもつことが明らかになってきてからの乳幼児観。
  • 5章:「社交的な乳幼児」 乳幼児が他者の心を理解する能力に着目した乳幼児観。
  • 6章:「コンピュータ乳幼児」 記憶容量や情報処理能力など、コンピュータとのアナロジーで心の発達を記述する乳幼児観。
  • 7章:「脳乳幼児観」 脳の神経系の発達の研究や、脳活動測定から見えてくる乳幼児観。
  • 8章:「仮想する乳幼児」 空想上の友達と遊ぶ行動などに着目し、そうした行動の適応的な意義を進化心理学的に位置づける乳幼児観。

「赤ちゃんはこういうもの」という観念は、新しい実験手法や実験パラダイムの登場によってかなり劇的に変わっていくものであることがよくわかった。

発達心理学に興味のある人はもちろん、「赤ちゃんって何を考えているんだろう?」という漠然とした関心を持っている人にとっても、一読の価値のある本だと思う。