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読書メモなど

読書メモ:Homo Deus (by Yuval Noah Harari) …サピエンスはどうなってしまうのか?

 

Homo Deus: A Brief History of Tomorrow

Homo Deus: A Brief History of Tomorrow

 

話題の歴史学者、ユヴァル・ノア・ハラリ氏の最新作。人類の全歴史を独自の切り口で描いた『サピエンス全史』に引き続き、本作では人間の「未来」を展望する。

これからホモ・サピエンスはどうなるのか? 著者は、今後数十年、長くても100年くらいのうちに、もはや別の生物種と言えるほど人間は今とは違う存在になるのではないかと予想する。

we will now aim to upgrade humans into gods, and turn Homo Sapiens into Homo Deus (Ch.1より引用)

ただし、ここでの「神(god, deus)」は「全知全能」というよりは「自ら生命を設計できる存在」という意味合いだ。さまざまな技術を編み出して貧困や病気を乗り越えてきた人類だが、その延長線上にある21世紀の遺伝子工学やサイボーグ技術は、ホモ・サピエンスを「ホモ・デウス」にアップグレードするだろうと著者は言う。

これだけ聞くと、またそんな話か、と思うかもしれない。「大半の職業がAIに奪われる」「シンギュラリティが到来する」「人生100年時代」といった未来予想を、近頃私たちはうんざりするほど聞かされている。それらとどこが違うのか。

未来予想は、常に、過去の事例を集めて、それを未来に外挿することによって行われる。その点、ハラリ氏の頭の中にある「ホモ・サピエンスの全歴史」は、未来予想で使いうるデータとしては最大のものと言える。それを生かした著者ならではの視点が、本書の見どころとなっている。

その視点とは、人間のもっている「価値観」の変化に焦点を当てていること。未来についてあれこれ考える私たちの思考の土台である「価値」そのものを相対化し、その変容も含めた未来予測を行っていることだ。

 

***

本書は3部で構成されており、それぞれが人間の「いままで」「いま」「これから」に対応している。「いま」私たちが共有している価値観とは何か。第2部にて詳しく説明されるが、端的に言えばそれは「ヒューマニズム」という価値観である。

For centuries humanism has been convincing us that we are the ultimate source of meaning, and that our free will is therefore the highest authority of all. (Ch.7)

ヒューマニズム。尊重されるべきは個々の人間であり、すべての物事に価値や意味を与えるのは個々人の心であるという考え方だ。現代社会の法制度・経済・教育はすべてヒューマニズムにもとづいている。リーダーは選挙で選び、商品の良し悪しは市場が決め、何にもまして人権が優先される。

しかし、ヒューマニズムホモ・サピエンスの行動を導いてきた普遍的な価値観というわけではないということが、先立つ第1部を読むとわかる。このパートでは、ヒューマニズムという価値観を人間が共有するまでの経緯が足早にたどられる(内容は一部『サピエンス全史』と重なる)。7万年前のサピエンスに起こった「認知革命」は、人間が大勢で協力することを可能にしたが、それは、主に大勢の人々が同じ幻想を共有することを通じて可能になった。この共同幻想は、ストーリー、虚構(fiction)、“宗教”などと著者は呼ぶが、これにはキリスト教仏教などの狭義の宗教だけでなく、「貨幣」「国」「会社」など現代社会に欠かせない約束事も含まれる。

Fiction isn't bad. It is vital. Without commonly accepted stories about things like money, states or corporations, no complex human society can function. (Ch.4)

そして、21世紀初頭の私たちが共有している最大の“宗教”こそ、「ヒューマニズム」である。ただし、ヒューマニズムをみんなが信奉するようになった理由は、それが絶対普遍的に正しいからではなく、いまこの時代において「うまくいく共同幻想」だからにすぎない。したがって、それは時代とともに変わっていく可能性がある。では今後、ヒューマニズムはどうなるのか。それが第3部のテーマとなる。

ヒューマニズムの理想は、人間を「より健康に」「より幸福に」することだった。しかし、次のように著者は言う。

attempting to realize this humanist dream will undermine its very foundations by unleashing new post humanist technology. (Ch.7)

ヒューマニズムを実現するための技術がヒューマニズムを切り崩していくとはどういうことか。著者の挙げる論点の一部をまとめると次のようになる。

  • 脳や遺伝子の生物学的解明が進むと、「自由意志」で説明されてきた人間の行動が、生物化学的プロセスによる説明で置き換えられていく。
  • ウェアラブルバイスのデータや23&meでわかる遺伝情報など)個人に関する生物学的データが増えてくると、個人の「気持ち」ではなくそうしたデータに意思決定をゆだねるほうが合理的になる。
  • 個人の「意思」や「欲望」自体を(脳への刺激などによって)変えることができるようになると、人々の「意思」を最上のものとすることが意味をなさなくなってしまう。

こうしてヒューマニズムはボロボロになり、時代遅れな“宗教”となってしまう。それに代わり、ある新しい“宗教”がでてくる。著者が「データイズム(dataism)」と名づける価値観である。データイズムは、生物を情報処理のデバイスとみなす。

Dataism thereby collapses the barrier between animals and machines, and expects electronic algorithms to eventually decipher and outperform biochemical algorithms. (Ch.11)

新しい“宗教”は、古い“宗教”を自分の枠組みの中で解体する。ヒューマニズムが「神は人間の心がつくったものだ」として一神教宗教を解体したのと同じく、こんどはデータイズムが「人間の心は生物化学的なアルゴリズムがつくったものだ」として、ヒューマニズムを解体する。

データイズムという“宗教”のなかでは、なるべく大きな情報の流れのなかに身を置き、そこに自分のデータを提供し、また周りのデータを活用することが「善」とされる。一見わかりにくい主張なのだが、次の一節などを読むと少し実感がわく。

Dataists believe that experieces are valueless if they are not shared, and that we need not -indeed cannot-find meaning within ourselves. (Ch.11)

10年前には自分がFacebookのようなサービスを使っていることを想像すらできなかったことを考えれば、こうしたデータイスト的価値観を急速に内面化しつつあることに、誰しも思い当たるのではないだろうか。また、蛇足になるが、こんな記述もあった。

Twenty years ago, Japanese tourists were a universal laughingstock because they always carried cameras and took pictures of everything in sight. Now everyone is doing it. (Ch.11)

たしかに。日本人は世界に先駆けてデータイスト化していたのだろうかなどと興味が沸く。

以上のように「ヒューマニズムからデータイズムへの変化」のシナリオを描いて著者は筆をおく。この変化についての、著者自身の価値判断については明言はしていない。

It won't be a necessarily bad world; it will, however, be a post-liberal world. (Ch.9)

印象としては、著者は「データイズム」に対しては「心をアルゴリズムに還元する」点で望ましくないと考えている一方、「ヒューマニズム」のほうも、人間以外の動物(家畜など)の不幸を顧みない点で賛同していないように感じた。

ともかくも、今、全人類の心に起こっている変化に目をひらかせてくれる一冊だった。日本語版が出れば、前作にも劣らない話題の書になるだろう。

 

 

 

読書メモ:『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ)を現代人が読むべき理由

 

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

 

  

サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福

 

ほうぼうで話題になっている『サピエンス全史』。読む気はなかったのだが、あまりに評判が良いので根負けして手に取った。(決定打は宮台真司氏がラジオで絶賛していたことだった。)

「サピエンスの歴史」という問題設定

いままで、「サピエンス」という言葉の括りというか、問題設定の規模感に関心が持てない自分がいた。「現生人類であるホモ・サピエンスはどこで誕生して、どうやって極東の島国までやってきたのか?」とか、「ネアンデルタール人との混血なのか?」などは、たびたび『日経サイエンス』などでテーマになっているが、私にとってはどこか興味の対象外だった。むしろ、「太陽系はどうやってできたのか?」や、あるいはもっと至近な「なぜ日本には天皇制があるのか?」のほうに興味を引かれる。「サピエンスの来歴」というテーマは、宇宙の歴史と比べるとやや些末すぎ、かといって日本の歴史などと比べると自分の日常とかけ離れすぎているように思えた。

だから、『サピエンス全史』がこれほど読まれていることが不思議だった。

サピエンスの歴史は、そんなにたくさんの現代人が知っておくべきことがらなのか? 最初は懐疑的だったのだが、本書を読んで「大ありだ!」という考え方に180度変わった。

この本については有名無名の人がたくさんの解説や書評を書いているはずなので、ここでは現代人が『サピエンス全史』を読むべき理由について考えてみたい。

こんな本

『サピエンス全史』は、もともとアフリカに生息していたホモ・サピエンスが、地球全体に広がって70億人に増えるまでの人間の歩みを一気に活写した本である。「認知革命」「農業革命」「科学革命」という3つの飛躍を軸に、興味深いエピソードとわかりやすい比喩をふんだんに使いながら、人類史の骨格を描いていく。

哺乳類の一種に過ぎなかったホモ・サピエンスがここまでの発展を遂げた理由を、著者は、7万年前の「認知革命」に帰している。「認知革命」は、人間の認知能力の向上をもたらした脳の進化のことで、著者は、この認知革命が「虚構(フィクション)」を語る能力を人に与えたという点を強調する。それによって、サピエンスは大勢で協力することができるようになった。たとえば、チンパンジーには「群れのボス」という概念はあるかもしれないが、会ったことのないチンパンジーを「総理大臣」とか「天皇」とか「社長」とみなすことはない。だから、「国家」も「会社」も作らない。それができるのはサピエンスだけだ。その後の人間の歴史は、宗教、帝国、貨幣、宗教、資本主義、科学など様々な「虚構」のたまものに他ならない。本書の主題(の一部)は、大まかにいうとこんな感じだ。「貨幣」「宗教」「科学」などそれぞれについて面白い話が無数にあるので、ぜひ読んでみていただきたい。

読むべき理由

さて、それでは、この本に書かれているようなマクロな歴史観を持つことは、2017年を生きる一介のサラリーマン(学生、主婦、自営業者、etc)にとってどんな意味があるのか。思うに、それは、私たちが日々頭を悩まえている「価値観の対立」の本質を教えてくれることだ。

価値観の対立というのは、たとえば次のようなことだ。

  • 家族観の対立 ex. 親子や兄弟は助け合うべき vs 場合によっては個人の権利を優先すべき
  • 国家観の対立 ex. 戦前の愛国教育にも良い面はある vs 教育勅語なんて時代錯誤
  • 科学観の対立 ex. 豊洲は安心できない vs 豊洲は安全

こういうイシューそれぞれに対して、相反する意見を持っている人たちがいる(それもかなり強い意見を)。しかも、となりで働いている同僚や、一緒に住んでいる家族でも意見が一致しないことがあるから要注意となる。うかつに話題に出すと、とても後味の悪い論争になったりするからだ。

自分はというと、どちらかといえば「リベラル」「合理的」「科学的」と形容されるような価値観を持っているように思う。人はどんな理由でも差別されてはいけないし、意思決定のプロセスは民主的に、科学的知識に基づいて行われなければならない。こうした考え方が「正しい」と思っている。

でも、価値観が異なる人に対してその「正しさ」を説得することは難しい。いかに理があると思っていた考え方も、突き詰めていけば根拠がないことに気づく。「自由」「平等」「人権」「真理」といったものに価値をおくべき理由を見つけることはできないのだ。それは、結局のところ、すべて人間が頭のなかで作り出した「虚構」にすぎないからだ。

『サピエンス全史』に戻ると、人間をほかの動物から分けたのは、「虚構」を持つことを可能にした「認知革命」だった。これによって、人間は自分たちの価値観をカスタマイズできるようになった。だから「生物学の視点に立つと、不自然なものなどない(p.187)」にもかかわらず、「民主主義」や「資本主義」がもっとも「自然」な考えかのように錯覚するまで、虚構を強化してきた。

でも、うえで見たように、全人類で価値観が統一されるということにはならず、必ず相反するものが共存している点が厄介だ。人々が異なる価値観のクラスターを作り、バトルを繰り広げている。

そこで、一度、自分の持つ価値観を疑うということが必要になる。私の価値観は、人類が、いつ、どこで獲得したものなのか。それを考えるために、歴史は多くのことを教えてくれる。たとえば「男女は平等であるべき」「科学には予算を割くべき」なども、ある歴史上の一時点に登場した価値観であって、決して人間の脳に刻み込まれたものではない。人間の生物学的な特性は「虚構を持つ」ということだけだ。

自分の価値観の出自を知り、それを選びなおすためにこそ、「サピエンスの歴史」を辿る意味があると考える。

読書メモ:工学部ヒラノ教授の中央大学奮戦記(今野浩 著)

 

工学部ヒラノ教授の中央大学奮戦記

工学部ヒラノ教授の中央大学奮戦記

 

大学事情に多少通じている人なら知っているように、国立大学の(偉い)先生は、定年になるとたいてい私立大学に移籍する。金融工学の第一人者である著者も例外ではなく、60歳で東工大を定年になったのち、中央大学に移って70歳の「第2の定年」まで教授を務めている。今回の「ヒラノ教授」はその10年間のお話だ。

学生時代、アメリカ留学時代、筑波大学助教授時代、東工大教授時代と、研究者人生のあらゆるステージを「ヒラノ教授シリーズ」に記してきた著者だが、今回の「中央大学奮戦記」で、またピースが一つ揃ったことになる。

中央大学は、著者にとっては理想的な再就職先だったらしい。後楽園の理工学部キャンパスは家からも近いし、研究費にも不足はないし、学生も「半分くらいは」優秀だったそうだ。とはいえ、そのポジションを得るまでには紆余曲折があり、赴任後もやはりもろもろの事件が勃発する。そうした顛末が、いつもの「ヒラノ教授節」で披瀝されていく。

「定年教授の再就職」に加え、今回は「日本の大学政策(の失敗)」がテーマの一つになっているように感じた。著者が中央大に移った2000年代前半というのは、まさに国立大学の「独立行政法人化」に代表されるような、大学改革が本格化した時期。そのころ国立大と私立大の両方の大学運営を経験した著者は、人一倍、文科省の大学政策に矛盾を感じたようだ。

たとえば、当時文科省が推し進めた「特許政策」。中央大の「知的財産本部」の長に任命された著者は、「利益相反問題」など一部の課題には手をつけたが、大学教員に特許取得を推奨するという文科省の方針は「ナンセンス」であると判断して無視したとのこと。その後を見ても、この特許政策が功を奏した形跡はないという。一時が万事で、最近の「スーパーグローバル大学構想」なども含めて、「わが国の大学政策は問題だらけである」と著者はいう。

東工大や中大だけではない。全国各地の大学風呂は、文科省の釜焚き政策のおかげで、かなり加熱している。このまま加熱が続けば、中にいる人間は、遠からず茹で上がってしまうのではなかろうか。(あとがき) 

大学の現場からもよく聞く声だ。ただ、従うところは従い、抗うところは抗ってきた著者だからこそ、ことさら重い警鐘に聞こえる。

本書で一番印象深かったのは、中央大学への転籍が内々に決まっていたとき、中大の3年生が東工大までやってきたエピソードだった。彼は新任の教授が著者であると当たりをつけて訪問し、見事、新研究室への配属を勝ち取り、その後著者の指導のもとで金融工学の研究者になったそうだ。すごいガッツだ。

というわけで、本書はぜひ、中央大学の関係者の方と、大学政策に関わる官僚の方と、研究室選びをしている大学3年生に読んでほしい。

読書メモ:The Knowledge Illusion(by Steven Sloman & Philip Fernbach)

たしか小学生のころ、「総理大臣ってすごいな」と思っていた。

自分は学校の宿題やら習い事やらで頭がいっぱいなのに、大人というのは自分以外のことにも気を配っている。たとえば通学路のガードレール。これが設置されるまでには、「この道にガードレールが必要だ」と誰かが考えて、製造・設置の段取りを考えたはずだ。そういうことに気を配れる大人ってすごいし、まして日本全体のことに気配りしなければいけない「総理大臣」はよほどの知識と判断力の持ち主なんだろう。総理になるつもりなどない自分も、大人になるまで勉強しなきゃいけないことが山ほどあるな。だいたい、ガードレールってどうやってつくるんだ…。(なぜかガードレールに拘っていた)

大人になってみると、総理大臣もそんなに偉いものではない(むしろ必要とされるのは別種の能力)ということがわかったし、ガードレールの作り方を知らなくても不自由なく暮らせることもわかった。たいして知識は増えていないのに、子供のころの「自分は何も知らない」という感覚は格段に薄まった。

ということを、“The Knowledge Illusion”を読んで思いだした。

The Knowledge Illusion: Why We Never Think Alone

The Knowledge Illusion: Why We Never Think Alone

 

Knowledge illusion(知識の錯覚)とは、自分の知識を過大評価しまう傾向のことだ。2人の認知科学者による本書は、人間の心のなかでknowlegde illusion生じる理由、それが引き起こす問題、それを踏まえてどうすべきかを論じた一冊となっている。

「自分の知識の過大評価している人」と聞くと、学校の先生や会社の上司の顔が思い浮かぶかもしれない。でも、多かれ少なかれ、誰もが「知識の錯覚」に陥っている。小学生のときの自分からすれば、今の自分は「知識の錯覚」だらけかもしれない。

本書の前半部では、こんな実験を紹介している。まず、被験者に「あなたは○○の仕組みについてどれだけ知っていますが?」という質問をし、1から7までのスコアで答えてもらう。○○は、「洋服のジッパー」「携帯電話」「ミシン」など。次に、「ではそれを説明してください」とお願いし、そのあとでもう一度「どれくらい知っていますか?」という最初と同じ質問をする。すると、説明を促した後のほうが、申告される理解度のスコアが有意に下がるそうだ。つまり、人はいざ説明しようとしてはじめて自分が知らないことに気づく。この実験を2002年に発表したRozenblitとKeilは、この現象を"illusion of explanatory depth"と名づけている。

どうして私たちは実際以上に知っていると思ってしまうのか。本書では前半の各章でいくつかの理由が示される。

  • 私たちは無自覚に直観的な推論(intuitive reasoning)に頼ってしまうため(4章)
  • 私たちは無自覚に身体知に頼っているため(5章)
  • 私たちは無自覚に他人の知識(communal knowledge)に頼っているため(6章)
  • 私たちは無自覚に、テクノロジーに頼っているため(7章)

中盤では、「知識の錯覚」が問題になる、2つの局面について論じている。

 

  • 「知識の錯覚」は、科学的知識の普及を妨害する(8章)
  • 「知識の錯覚」は、合理的な政治的判断を妨害する(9章)

後者の政治についての章では、"illusion of explanatory depth"を政治的イシューに応用した著者自身の研究を紹介している。それによると、人々は自分が「ある政策の効果を説明できない」と気づくことで、よりマイルドな政治的立場をとるようになることがわかったらしい。これは、昨今の政治的分断を解消するためのヒントにもなりうる結果かもしれない。

最後の2つの章では、こうした「知識の錯覚」があることを前提として、どうしていくべきかについての著者らの考えが述べられている。個人の知識を増やすばかりの教育はいい加減やめて、人と協力する能力を育むべきではないか、という主張には頷けた。

私たちが「知識」と言っているもののうち、自分一人の「脳」のなかにあるのはたかが知れていて、その外側の「身体」「他人」「社会」「技術」に多くを負っている。思ってみれば当たり前のことだが忘れがちなこのことを、「認知科学」の視点で整理してリマインドしてくれる一冊だった。

 

追悼メモ:羽野幸春先生を偲んで

高校時代の恩師、羽野幸春先生がお亡くなりになった。

羽野先生は社会科の倫理の先生で、私が教わったのは日比谷高校在任時代の2004~2006年。覚えているのは、白髪で背筋がぴんと伸びた、物静かな姿。近寄りがたさがある先生で、個人的にお話をした記憶はあまりない。

「倫理」という科目は、高校社会科のなかでは「おまけ」的な扱いで、身を入れて倫理の授業を聞こうという生徒は私を含めて少なかったように思う。しかも羽野先生は、いかにも憂鬱そうな顔でとつとつとしゃべるので、授業中に大半の生徒が寝ているのも珍しくなかった。

でも、いつからかこの授業を私は夢中で聞くようになり、いまでは「羽野先生に出会っていなければ自分はない」と言えるほど、大きな影響を受けることになった。

まず、知識量がすごかった。倫理の教科書や資料集の編纂にも関わっていた先生は、古今東西の思想史の概要がすべて頭のなかに入っていて、メモを見ずに語ることができた。しかも、単に知識を教えるだけでなく、熱がこもっていた。もの静かな調子の先生は、その日の核心に差し掛かると、しだいに身振り・手振りを大きくし、目を見開いて話された。

アリストテレスの政治学について、ヘーゲルの哲学について、上座部仏教の教えについて、実存主義の思想について。その日の登場人物がまるで先生に憑依したかのようだった。毎回の授業のあと、私はその日のプラトンなりニーチェなりに感化されて、一時放心状態になったのを覚えている。一番覚えているのはカントの回で、「純粋理性批判」の解説の中で出てきた「科学的理解の限界」というテーマは深く心に残った。

また、先生の授業は、「なんとなく人生がうまくいかない憂鬱さ」に対して、思想や哲学がある種の処方箋になることを教えてくれた。部活で頑張っていたり友人関係が充実しているクラスメートをわき目に劣等感を持っているタイプの高校生にとって、苦虫をつぶしたような顔で、それでいて嬉々として哲学を語る先生はまぶしかった。先生ご自身の人生も苦しいことが多かったらしく、「青春は苦痛でしかない」というようなことを言っておられた。

赴任した都立高校の卒業生にしか知られていないとすれば非常にもったいない、素晴らしい先生だった。ご冥福をお祈りします。

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読書メモ:科学報道の真相(瀬川至朗 著)

 

もと新聞記者で今は大学でジャーナリズムを教える著者が、日本の科学報道の問題点を整理・分析した一冊。

「日本の科学報道の問題」と聞けば、単純化しすぎの健康番組とか、根拠に乏しい「医療系まとめサイト」などが思い浮かぶかもしれない。しかしこの本で扱われているのはもう少しレベルの高い話。主に大手新聞社の科学部の報道に焦点を当て、それが抱える「構造的な問題」が論じられている。

本書で取り上げられる具体例は、STAP事件、福島の原発事故、地球温暖化にまつわる報道の三つ。いずれも著者が現役記者を退いた2008年以降の話なので、記者時代の経験を生かしつつも外部者の視点での分析となっている。

前半の各章の内容を、個人的に面白いと感じた点を中心に要約すると、

  • STAP騒動の報道では、Natureに論文が一本載った段階で「ノーベル賞受賞」のような報道をしてしまったことが問題だった。また、Nature誌のチェック機能の検証が十分ではなかった。(第1章)
  • 福島第一原発の報道では、新聞における「炉心溶融」という言葉の使われ方などを分析してみると、東京電力や政府の発表を流す「大本営発表」だったことがわかる。(第2章)
  • 地球温暖化問題の報道は、IPCCなどの公式発表に依拠している度合いが強く、米国に比べると日本は「温暖化懐疑論」の立場の報道が少ない。また、温暖化対策については、新聞社の科学部と経済部がそれぞれ環境省経産省から別々に情報を仕入れていることから、新聞内で温度差のある報道が併存している。(第3章)

など。

この3事例をもとに、後半の章では、著者の考える科学報道の「構造的な問題」と処方箋が論じられている。指摘される構造的問題の一つは、情報発信者(科学者や官庁)と記者との共存関係(=「マスメディア共同体」)ができてしまっていること。もう一つは、報道の「客観性」や「公平・中立」という原則が不適切に使われていることだという。

第5章ではそうした原則がジャーナリズム一般において保持困難であるという議論を紹介し、そのうえで著者は代案を示している。

 「客観報道」に代わる意義をもつ原則が「検証」であり、「公平・中立報道」に代わる意義をもつ原則が「独立性」であると、私は考える。

たとえば「客観性」を目指す科学報道は、「科学者(官庁)の発表を伝聞として流すだけ」ということにつながりかねない。また、「公平・中立」も、「懐疑論のようなマイナーな科学的立場をどこまで取り上げるのが中立といえるのか?」といった解決不能な問題を招く。それよりも、「検証」の方法論をしっかりすることと、情報源との「独立性」を確保することが必要だと著者は主張する。また、「公平・中立」などを求めてしまう原因として、「固い科学観」があることが指摘される。

科学ジャーナリストは、権力や権威に頼ることなく、研究者からの不適切なアプローチに自ら対抗できる力を身につける必要がある。また、科学は確実なものであるという「固い」科学観が日本の社会に広く流通しており、そのことが、マスメディアの科学報道を歪めている (序章)

 ***

各事例の分析は、単なる印象論を超える緻密さがあって説得力があった。後半の整理も納得感が高かった。日々、科学報道の担い手はもちろん受け手にとっても、本書で解説されているような「問題点」を把握しておくことは役に立つので、読んで損はない一冊だと思う。

一方、著者の主張する「固い科学観を脱する」「検証をしっかりする」「独立性を確保する」という方向性には賛成できても、現実問題としてすぐに舵を切るのは難しそうに感じた。メディア側には毎日記事を書くというノルマがあるし、科学者の側にもできるだけ研究を宣伝しなければというプレッシャーがあるので、両者とも「マスメディア共同体」から簡単には離れられないと思われるからだ。

そこで、マスメディアでも科学者でもない「第三者」が活躍できるのではないか、と思った。具体的には、それほど「マス」ではない特定の関心をもった層に対して、批判的視点を交えて科学的トピックを解説する、という活動に需要があるのではないか。媒体としては「書籍」や「ブログ」が適しているだろうか。

…このブログでこの前まで書いていた「記憶の脳科学」についての「探究メモ」で自分がやりたかったのもまさにそういうことだったな、などと思って、少し勇気が出てきた。

探究メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで明らかにしたのか〈第8回(最終回):まとめ〉

約1か月にわたり、本ブログでは脳科学は記憶の仕組みをどこまで明らかにしたのか」と題した計8回の記事を連載してきました。

 

 

まだ深めきれていないことは多く残っていますが、このあたりで一区切りとしたいと思います。最終回の今回は、ここまでの振り返りと総括を行います。

第0回~第7回の振り返り

本連載を始めたそもそものきっかけは、最近「記憶を書きかえることに成功!」などというニュース(研究発表)をよく目にするようになったことでした(第0回)。そうした最先端の記憶研究がどこまできているのかを知りたいと思い、勉強を開始しました。

「記憶を書きかえる」ためには、まずは記憶が脳のどこにしまわれているのかを知る必要があります。脳の中の記憶の物理的実体のことを「エングラム」とよびます(第2回)。コンピュータの生みの親であるジョン・フォン・ノイマンも、エングラム(彼の言葉では「脳の記憶装置」)の正体について高い関心を示していました。しかし、彼の時代(1950年代)の脳科学は未発達であり、ノイマンは推測を述べることしかできませんでした(第1回)

それから半世紀以上たち、脳科学がたくさんのことを解明してきたなかで、「エングラムを解明した」といえるような研究も出てきます。本ブログでは、二人のノーベル医学・生理学賞受賞者、Eric Kandel氏と利根川進氏の研究を取り上げました。

Kandel氏が明らかにしたのは、シナプスにおける記憶の機構です(第4回)。彼は単純な神経系をもつアメフラシを使って、ニューロン間をつなぐシナプスには可塑性があることを証明しました。また、アメフラシの示す単純な学習行動を研究し、その記憶が形成される仕組みを、分子・細胞レベルで徹底的に解明しました。

Kandel氏本人はそういう言い方はしないのですが、これは「アメフラシの記憶のエングラムを突き止めた研究」と言ってもよいと思います。実際、Kandelらが突き止めた特定の細胞に電気刺激をしたり、特定のシナプスセロトニンなどの物質を与えたりすることにより、アメフラシの学習行動を制御、つまり「記憶を書きかえる」ことができます。

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それに対し、利根川進氏らの研究は、ニューロン集団レベルで記憶を支える神経活動を発見しています(第5回)。利根川ラボはマウスのニューロンの活動を操作する技術(オプトジェネティクス)を駆使して、マウスが置かれた環境の記憶を担っているニューロン群を特定しました。Kandelのシナプス研究に比べるとまだまだ研究の蓄積は浅いですが、限定された意味においてはこれも「マウスの環境記憶のエングラムを突き止めた」研究です(そして実際に、利根川ラボはそう宣伝しています)。そして、こちらもすぐさま「記憶を書きかえる/記憶を消去する」という一連の論文発表につながっています。

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では、人間の脳についてはどうかというと、アメフラシやマウスのようにはエングラムの研究は進んでいないようです。記憶にかかわる脳部位を特定する脳画像計測や、記憶の障害につながる脳損傷を調べる研究はありますが、それらが「記憶の書きかえ」につながるかというと難しそうです。一方、人間に対しては、まったく別のアプローチでの「記憶の書きかえ」が実践されています。それは、警察の誘導尋問やある種の精神療法のような方法で過誤記憶(false memory)を植え付けるという研究です(第7回)。このように、人間の記憶研究は「細胞レベルのメカニズムはわからないが、記憶の脆弱性や「クセ」についてはいろいろとわかってきている」という状況にあります。

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今後の見ていくべきポイント

今後も、記憶の研究は実験動物・人間の両方で精力的に行われていくと思います。続々と驚くような研究発表が出てくるかもしれません。そうした展開をウォッチしていきたいと思いますが、その際に個人的に注目したいのは次の2点です。

  • 階層間のギャップを埋める研究が出てくるかどうか
  • エングラムの見方を変えていくような研究が出てくるかどうか

どういうことか、それぞれ説明してみます。

注目ポイント1:階層間のギャップ

先ほどのように記憶研究の発展をたどってみると、さまざまなレベルで記憶のプロセスについての理解は進んでいるものの、異なるレベルのエングラムの知識がつながっていないことがわかります。昭和の神経科学者の塚原仲晃氏は「異なる階層で記憶のメカニズムを明らかにしなければいけない」と言っていましたが(第3回)、それらを統合するという課題が残っていると言えそうです。

わかりやすいのは人の記憶とマウスの記憶のギャップですが、利根川ラボの「エングラム細胞」とKandelのシナプス記憶の間にも階層間ギャップがあります。というのも、利根川ラボが見つけた海馬の「エングラム細胞」がシナプスレベルでどのように作られるのかは、まだほとんど分かっていないからです。

話をうんと単純化して、アメフラシの記憶・マウスの記憶・人間の記憶のそれぞれのエングラムが、シナプスレベル・ニューロン集団レベル・心理学レベル(+脳画像レベル)において解明できていると考えてみます。各階層には、それぞれ「記憶を書きかえる方法」(=記憶改変技術)が存在します。

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アメフラシの記憶とマウスの記憶、マウスの記憶と人間の記憶の間には、断絶があります。今後出てくる研究のうち本当の意味で革新的と言えるのは、この階層間ギャップを埋めるような研究ではないかと考えます。

なお、ここで注目したいのは、それぞれの階層の記憶改変技術はその他の階層にも「使ってみる」ことはできるということです。具体的には、マウスの脳に電極を刺して刺激をしたり、(今は不可能ですが)人の脳にオプトジェネティクスを用いたりすれば、「何か」は起こります。しかし、エングラムが明らかになっていないために、その影響は予期できません。

筆者の個人的な予想として、人間の脳のエングラムが何らかの形で解明できるとしてもそれは大分先のことであり、それよりも先に、動物でうまくいった記憶改変技術が人間に試されてしまうのではないかと思います。また、そもそも、人間の脳のエングラムが動物の脳の研究で解明できるのか、という疑問もあります(第6回)。なので動物研究を「認知症治療」「記憶力増強」などに安易に結び付ける宣伝文句には、警戒したいところです。もちろん、細胞レベルでの機序がわかっていなくとも安全に使える治療法はありますが、しかし、現在マウスなどで行われているような「脳を開いて光を照射」のような侵襲性が高い技術については、使用が先走らないように私たち非専門家も注意してみていく必要があると思います。

注目ポイント2:エングラム観のアップデート

それに加えて、今回の勉強を通して感じたのは、少なくとも人間のエピソード記憶に関しては「エングラム」の捉え方を見直す必要があるのではないか、ということでした。

本連載もフォン・ノイマンから出発しましたが、私たちはエングラムをどうしても「コンピュータのメモリ」になぞらえがちです。この、いわば「素朴なエングラム観」によれば、過去のある時点の経験がエングラムとして脳に刻まれ、あとからそれを読み出すことで思い出すことができます。また、エングラムを外から入れ替える操作を行えば、「記憶を書きかえる」ことができます。

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しかし、第7回で見たのは、人間の記憶はもっと動的なものだということでした。以下のような点で「素朴なエングラム観」は不十分だと思われます。

  • 脳の中にはエングラムのネットワークが存在する。新しい記憶は既存の記憶に関連付けて記銘される
  • 想起はもとの経験の厳密な復元ではない。また、想起すること自体がエングラムを書きかえる
  • 一つのエングラムだけを取り出したり書きかえたりすることはできない
  • 人と話したり文章を書いたりするなかで、エングラムは時々刻々変化していく。その変化が、場合によっては過誤記憶につながる

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こう考えると、第0回で考えた下の絵のような「記憶の書きかえ」はナイーブすぎたことが分かります。

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人間の記憶の研究から見えてくるのはこのような「アップデートされたエングラム観」である一方、実験動物の研究では、どうしてもコンピュータになぞらえた「素朴なエングラム観」に基づいていることが多いような印象があります。今後、実験動物でも、より複雑で動的なエングラム観に基づく研究が出てくるかどうか、注目していきたいところです。

書けなかったこと

今回の連載で書こうと思って書けなかったことが二つあります。

一つは、記憶の計算論モデルの話題です。脳の記憶の理論的研究がどれくらい進んでいるのかや、それが人工知能にどの程度応用されているのかを調べてみたかったのですが、時間が足りませんでした。

もう一つは記憶の哲学についてです。「そもそも自然科学の方法で記憶を研究することに限界はないのか」という問題です。Kandel氏は「意識」まだ手に負えないから「記憶」を研究テーマに選んだと書いていましたが、本当に「記憶」は「意識」よりも簡単なのでしょうか。人間のエピソード記憶に関しては、「意識」と同等レベルの難しさがあるようにも思えます。記憶と脳の関係について、哲学者はどんなことを考えてきたのか、調べてみたい思いがあります。

今後、もし時間があれば、これらについても調べて書いてみたいと思っています。

おわりに

一か月間、文献を集め、読み込み、咀嚼していく作業はとても楽しいものでした。専門家にとっては常識であるようなことをなぞったにすぎませんが、個人的には大変勉強になりました。

また、読んでわかったことを「文章で書いておく」ことの大事さも痛感しました。せっかく本や論文を読んでも、時間がたつとすぐに内容を忘れてしまいます。その都度、いるかいないかわからない「架空の読者」に向けたブログを書くことで、自分なりの理解が固まり、そこを足掛かりに次の勉強に移っていけるのを感じました。もしかしたら「単著で本を書く」というのは究極の記憶術であり思考整理方法なのかな、などということも思いました。

読んでくださった皆様、ありがとうございました。引き続きご感想・ご指摘をいただければ大変ありがたいです。

参考図書

参考にした文献のうち、書籍として入手可能なものを挙げておきます。

  • フォン・ノイマン(著)柴田 裕之 (訳)『計算機と脳』ちくま学芸文庫, 2011. 
  • 塚原仲晃『脳の可塑性と記憶』岩波書店, 2010.
  • 池谷裕二『記憶力を強くする 最新脳科学が語る記憶のしくみと鍛え方』 講談社, 2001.
  • 榎本博明『ビックリするほどよくわかる記憶のふしぎ』SBクリエイティブ, 2012.
  • 理化学研究所 脳科学総合研究センター『つながる脳科学 「心のしくみ」に迫る脳研究の最前線』講談社, 2016.
  • ジュリア・ショウ(著)服部 由美 (訳)『脳はなぜ都合よく記憶するのか 記憶科学が教える脳と人間の不思議 』講談社, 2016.
  • ダニエル・L. シャクター (著) 春日井 晶子 (訳)『なぜ、「あれ」が思い出せなくなるのか―記憶と脳の7つの謎』日経新聞社, 2004.
  • イアン・ハッキング(著)北沢 格(訳)『記憶を書きかえる 多重人格と心のメカニズム』早川書房, 1998.
  • D.O.ヘッブ(著) 鹿取 廣人ほか(訳)『行動の機構――脳メカニズムから心理学へ(上)(下)』岩波書店, 2011.
  • Kandel, Eric R. In search of memory: The emergence of a new science of mind. WW Norton & Company, 2007.
  • LeDoux, Joseph. Anxious: Using the brain to understand and treat fear and anxiety. Penguin, 2015.
  • Hasselmo, Michael E. How we remember: brain mechanisms of episodic memory. MIT press, 2012.
  • Dittrich, Luke. Patient H.M.: A Story of Memory, Madness, and Family Secrets, Random House, 2016.

 

 

読書メモ:おさなごころを科学する(森口佑介 著)

 

おさなごころを科学する: 進化する幼児観

おさなごころを科学する: 進化する幼児観

 

図書館の「子育て本」コーナーで何気なく手にとった本。斜め読みですませるつもりが、予想外にしっかりした本で、しかも抜群の面白さだったため、時間をかけて読むことに。

いま、誕生後2か月の娘と一緒に暮らしている。お世話することにはだいぶ慣れてきたものの、泣いたり笑ったりいる赤ちゃんが何を考えているのかは、いまもって全くわからない。育児書には「赤ちゃんは周りがちゃんとわかっています。どんどん話しかけましょう」などと書いてあるけれど、すんなりと納得はできない。

本書は、発達心理学者が、乳幼児の心の研究の歴史から最先端の知見までを、非専門家に向けて解説した一冊である。

本書で扱うのは、主に乳幼児です。乳幼児は十分に言葉が発達していないので、自分の考えや気持ちを直接的に表現することができません。また、かつて私たちは乳幼児であったにもかかわらず、その頃のことを覚えていません。そのため、かつては、乳幼児は知ることも、考えることもできないとされていました。このような乳幼児が実際には何を考えているのかを調べることは、非常にエキサイティングな試みなのです。(はじめに)

訳知り顔の育児書と違って、本書は「赤ちゃんの心はわからない」ことを前提にして書いてくれている。

本書では、おさなごころについての見方を「乳幼児観」という言葉で表現し、乳幼児観の歴史的変遷と筆者の乳幼児観を述べます。その際に、本書では、理論、証拠、方法論の3点を考慮します。(はじめに)

本書では「乳幼児観」がキーワードになっている。耳慣れない言葉だが、読み進めるにつれ、これしかないと思えるようなピッタリの言葉に思えてくる。赤ちゃんの心は簡単にはわからないのだから、研究者や時代によっていろいろな「見方」=「乳幼児観」があるのだ、という視点に著者は立つ。種類の異なる乳幼児観を分かりやすくカテゴライズして章分けし、それぞれの代表的な実験や理論を解説している。

  • 1章:「無能な乳幼児」 発達心理学以前の、乳幼児は基本的には何もできない無能な存在だとする乳幼児観。
  • 2章:「活動的な乳幼児」 ピアジェらによる乳幼児の観察により得られた、さまざまな段階を経て発達するとする乳幼児観。
  • 3章:「かわいい乳幼児」 養育者の行動を引き出す無意識の行動など、乳児と他者の関係に着目した乳幼児観。
  • 4章:「有能な乳幼児」 ピアジェ以降、視線計測などの実験を通して実は論理・数・統計など様々な能力をもつことが明らかになってきてからの乳幼児観。
  • 5章:「社交的な乳幼児」 乳幼児が他者の心を理解する能力に着目した乳幼児観。
  • 6章:「コンピュータ乳幼児」 記憶容量や情報処理能力など、コンピュータとのアナロジーで心の発達を記述する乳幼児観。
  • 7章:「脳乳幼児観」 脳の神経系の発達の研究や、脳活動測定から見えてくる乳幼児観。
  • 8章:「仮想する乳幼児」 空想上の友達と遊ぶ行動などに着目し、そうした行動の適応的な意義を進化心理学的に位置づける乳幼児観。

「赤ちゃんはこういうもの」という観念は、新しい実験手法や実験パラダイムの登場によってかなり劇的に変わっていくものであることがよくわかった。

発達心理学に興味のある人はもちろん、「赤ちゃんって何を考えているんだろう?」という漠然とした関心を持っている人にとっても、一読の価値のある本だと思う。

 

探究メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで解明したのか? 〈第7回:人間の記憶を書きかえる〉

前々回、マウスの脳に「エングラム細胞」(=特定の記憶の保持を担う神経細胞群)を見つけたとする利根川ラボの研究を紹介しました。彼らは、エングラム細胞の操作を通じて「記憶を書きかえる」技術を実現しつつあると言います。しかし、こうした手法がすぐに人間に応用できるようにはなるかというと、そうは思えません。前回は、その理由の一つにマウスと人間の記憶には質的な違いがあることを述べ、そうした議論の一例として、Endel Tulvingの「エピソード記憶は人間だけのものだ」という主張を取り上げました。

では、人間の記憶は当面「書き換え」などできないと思ってよいのでしょうか。そんなことはありません。少し調べると、心理学の分野では「人間の記憶を操作する」研究がしばらく前から行われていることが分かります。ただし、その方法はKandelや利根川氏のように電気生理学や遺伝子工学を駆使したものではありません。脳に直接働きかけるのではなく、「被験者との対話する」という素朴な方法で記憶を操作するというものです。

今回取り上げたいのは、そうした過誤記憶(false memory)の研究です。「過誤記憶」とは、「実際には起こっていないのに、本物の出来事のように想起される記憶」のことです。

偽の記憶を植え付ける

過誤記憶研究の草分けとしてよく登場するのが、心理学者Elizabeth Loftus(エリザベス・ロフタス)が1990年代に行った「ショッピングモール迷子実験」("lost in the mall" experiment)です。これは、「あなたは5歳のときにショッピングモールで迷子になった」という偽の記憶を実験の被験者に植え付けるというものです。ちなみにWikipediaによると、この実験を考案したのはLoftus教授本人ではなく、彼女の講義を受けていた学部生だったそうです。ちょっと良いエピソードだと思います。

その後も、様々なバリエーションの「記憶を植え付ける実験」が実施されています。なぜこんな実験をするのか、こんな実験をして倫理的に問題ないのかが気になりますが、過誤研究の研究のモチベーションの一つに、刑事事件の冤罪を減らすということがあります。人間の記憶の操作されやすさを知ることは、事件の目撃証言や自白をどの程度信じるべきかということに示唆を与えるからです。

さらに進んだ研究が、最近邦訳が出たばかりの『脳はなぜ都合よく記憶するのか』(講談社、2016)という本で紹介されています。

 

脳はなぜ都合よく記憶するのか 記憶科学が教える脳と人間の不思議

脳はなぜ都合よく記憶するのか 記憶科学が教える脳と人間の不思議

 

 人の記憶が見せる様々なエラーについての科学的知見をわかりやすくまとめた科学書なのですが、本書の見どころとなっているのが著者本人による実験です。それはまさしく「犯罪を犯した記憶を植え付ける」というものです。どうやるのか。2015年の原論文*1を参照しながら、その実験の概要をまとめてみます。

  • 被験者としてカナダの大学生60人を選抜した。実験参加の報酬は50ドル。
  • あらかじめ保護者にアンケートをとり、本人の11~14歳の出来事について教えてもらった
  • 1週間おきに3回の面談を実施した(実験者と被験者の1対1の面談)
  • 最初の面談にて、本当の出来事と偽の出来事を一つずつ話題にあげ、それぞれヒントを与えながら思い出すように促した
  • 偽の出来事は「友達を暴行して警察に連れていかれた」「万引きをして警察に連れていかれた」など犯罪にまつわるものとした
  • 当然、偽の記憶を最初は思い出せないので、「あなたの親は○○と言っていました」と偽情報(misinformation)を与えたり、「努力すれば思い出せます」などと言ってプレッシャーをかけたりした
  • 面談後、家に帰ってもなるべく思い出すように指導した
  • 2,3回目の面談で何を思い出したかを聞いた
  • 最後の面談で、偽の記憶を思い出したと言い、なおかつ実験者が与えていない記憶のディテールを10個以上挙げた場合に「過誤記憶」ができたと判定した

これにより、なんと70%の被験者が架空の犯罪の過誤記憶をもつに至ったのだそうです。それも「もしかしたらやったかもしれない」というレベルではなく、映像や音声をも含む鮮明な記憶が作られたと言います。

一つ付け加えておくべきかもしれないのは、この結果は実験者のスキルに左右されるだろうということです。論文の中でも、多くの学生に過誤記憶が生じたのは「社交的な性格で、警察式のインタビュー術を身に着けた実験者のスキルによるところが大きいかもしれない」とあります(おそらくShaw氏のこと)。たしかに、若く*2才気あふれる雰囲気のJulia Shaw氏だからこその、職人芸的なテクニックと言えるかもしれません。

とはいえ、少なくとも熟練スキルがあれば「犯罪の記憶」を植え付けてしまえることをこの実験は示しています。となると、現実の事件の容疑者の自白で同じことが起きていてもおかしくありません。実際に、こうした過誤記憶による冤罪は多いそうです。そこで、過誤記憶研究の知見を生かし、たとえばニュージャージー州の裁判で陪審員に渡すインストラクションのなかには、「証言者の記憶が間違いやすい」ことや、「人種によるバイアスに注意すべき」などの具体的なアドバイスが記載されているそうです*3

ちなみに、犯罪とならんで過誤記憶が問題となる分野として、精神医学があります。解離性同一性障害(以前は「多重人格」とよばれていた精神疾患)の原因の一つに、抑圧された幼少期の虐待の記憶があるとされており、その失われた記憶を精神療法によって取り戻すことで治癒する、という治療法が一時流行していたそうです。Loftusらは、この治療の過程で偽の「幼児虐待」の記憶が植え付けられてしまう可能性を主張しました。精神療法で親の虐待を「思い出した」患者と、子供に心当たりのないことを糾弾されて当惑する親とを巻き込んだ一大論争(「記憶戦争」)が1990年代には巻き起こりました。その渦中で患者に訴えられたりした苦労を、Loftus氏は2013年のTEDトークで語っています。

www.ted.com

こうした刑事事件や幼児虐待の事例は、「記憶」が科学的に興味深いだけでなく法的・倫理的問題と結び付きやすいテーマであることを物語っています。

身近な過誤記憶?

なお、先の「記憶を植え付ける」実験の話を聞いたとき、多くの人は「自分だったら引っかかるとは思えない」と感じるのではないでしょうか。筆者はそうでした。しかし、普段の生活では悪意ある誘導尋問をされることなどはないので、想像しにくいだけかもしれません。

より身近に「過誤記憶」を実感する方法として、「できるだけ古い記憶」を思い出してみるのはよいかもしれません。筆者の場合、もっとも古い記憶はたぶん2歳のときの、叔父さんの結婚式に参列したときのものです。会場の雰囲気や周りの大人の様子を映像として記憶しています。ですが、発達心理学的にはエピソード記憶が保持されるのは3.5歳くらいかららしいので、これはおそらく後から作られた過誤記憶と思われます。

こういう幼少時の過誤記憶から類推すると、誘導尋問によって記憶が植え付けられてしまうこともなくはないかな、と思えてくるのですがどうでしょうか。

なぜ過誤記憶が生じるのか

電極を刺すまでもなく、最先端の遺伝子技術を使うまでもなく、人間の記憶は「書きかえられて」しまうようです。そのメカニズムについては、何かわかっているのでしょうか。

過誤記憶の実験では、いずれも本当の記憶に偽の記憶をうまく混ぜ込むのがポイントになっています。このことからもわかるように、記憶には

  • 既存の記憶の周りに、類似した新しい記憶が作られる
  • 思い出すときに、記憶が書き換わる

という性質があるようです。前者は連想活性化(associative activation)、後者には検索誘導性健忘(retrieval induced forgetting)というキーワードが関連しています。

また、前述の『脳はなぜ都合よく記憶するのか』では、ごく簡単にファジー痕跡理論(fuzzy trace theory)という理論への言及があります。これは記憶の痕跡は要旨痕跡(gist representation)と逐語痕跡(verbatim representation)に分かれていて、要旨記憶だけが与えられたときにそれと整合する逐語記憶を後から作り出す性質が脳にある。それにより過誤記憶が作られるのではないか、という理論だそうです。

ですが、この本に出てくる理論らしきものはそのくらいです。著者は記憶のメカニズムとして、カンデル氏の実験や利根川氏の実験に触れ、シナプス可塑性や細胞集団レベルの記憶研究を紹介してはいます。ですが、それと人間の過誤記憶がどう関係しているかになると、

エングラムが間違って結び付いてしまえば、記憶の幻想が起こる(p.101)

くらいの記述にとどまっています。具体的に何がエングラムなのか、その「混線」はどう起こるのかについての説明はありませんでした。

どうやら、心理学実験で過誤記憶が形成される仕組みは、神経細胞レベルではほとんど何も分かっていない、と言ってしまって良さそうです。とはいえ過誤記憶の研究は、

  • エングラムは図書館の本やアーカイブのビデオテープのように静的なものではなく、常に編集・改変されるダイナミックなものであること
  • エングラムは、意味的に近い記憶など、近接したエングラムに影響を受けて変わっていくものであること

など、重要なことを教えてくれています。

おわりに

過誤記憶の研究を一瞥して、人間の記憶はどうやらロボットの記憶のように緻密に書きかえることはできないが、人との会話のなかで書きかえられてしまうような脆さをもったものであることがわかりました。今後、心理学的な記憶研究がどう発展していくのかは気になるところです。

さて、そろそろ本連載にもひと区切りつけたいと思います。次回は、ここまで勉強してきたことのまとめを書く予定です。

*1:Shaw, Julia, and Stephen Porter. "Constructing rich false memories of committing crime." Psychological science 26.3 (2015): 291-301.

*2:著者は筆者と同じ1987生まれなので、まだ29歳か30歳です

*3:Schacter, Daniel L., and Elizabeth F. Loftus. "Memory and law: what can cognitive neuroscience contribute?." Nature neuroscience 16.2 (2013): 119-123.

探究メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで解明したのか? 〈第6回:エピソード記憶は人間だけのものか〉

少し間が空いてしまいましたが、もう少しだけ先へ進みたいと思います。

前回は、利根川進氏のチームが行った一連の研究を取り上げました。彼らは、「マウス海馬のニューロンのうち記憶に関わっているグループを標識して、強制的に活動させる技術」を開発しました。それにより、いわゆる「エングラム細胞(群)」を見つけることに成功しました。

この研究で分かったこと・分かっていないことは、「記憶工場」のメタファーで説明してみました。記憶に関わっている細胞群を特定したといっても、

  • 個々の細胞のはたらきはまだまだ分かっていないこと
  • 扱われている「記憶」の種類も、「恐怖刺激と条件づけられた環境(部屋)の記憶」という大雑把なものであること

を述べました。

いずれ人間にも使えるのか?

こうした限界があるとはいえ、「記憶の書きかえに成功した」などという研究発表の見出しにはインパクトがあります。それは、「この方法はいずれ人間に使えるようになるのだろうか?」という想像を搔き立てるからです。

第0回では、記憶研究の究極の目標を、「過去の具体的なエピソードの記憶がヒトの脳内でどのように表現されているかを、それを自由に書き換えられるくらいの精度で解明する」ことだとしてみましたが、利根川ラボのアプローチは、少なくとも原理的には、その究極目標へ至る道筋だと言えるのでしょうか。

「原理的には」と書いたのは、原理的には応用可能だとしても実際には無理だということが簡単に想像できるからです。利根川ラボの手法を人間で用いるには、

  • 生きている人の脳を一部切り開くこと
  • 特定のニューロンに様々な機能を持たせるための遺伝子改変を行うこと
  • 「嫌な記憶」を繰り返し覚えさせること

などが必要であり、どれをとっても倫理的・技術的な問題があります。ここでは、いったんそういう実際上の困難を置いておいて――あるいは、想像しにくいですが倫理面をクリアできるような非侵襲的な技術が開発されたと仮定して――考えてみたいのです。

そこで一つのポイントになるのが、「人間の記憶は、実験動物の記憶と同じか」という問題です。もし、人間の脳での仕組みが、マウスなどの実験動物の基本的には延長上にあるならば、マウスで見つかった「エングラム細胞」と同様のものがヒトにも見つかるのかもしれません。第3回あたりで見たように、細胞・分子レベルでは、ヒト・マウスを含む哺乳類からアメフラシなどの非脊椎動物に至るまで「シナプス可塑性」という同じメカニズムが使われていました。そこから類推して、細胞ネットワークレベルの記憶の仕組みに関しても、マウスから人間にいたるまで連続的な進化してきたというのもありえそうな話です。

しかし反対に、人間の記憶と動物の記憶とは断絶しているのだ、という立場もあり得ます。もしそうだとしたら、マウスで通用した方法は人間では効果が限定的ということになるかもしれません。

どちらが正しいのかは、筆者にはわかりませんし、専門家の間でも結論は出ていないと思います。そこで今回は、それに関連する面白い議論を一つ紹介したいと思います。それは、エピソード記憶は人間以外にも動物にもあるのか」という議論です。

Tulvingの問題提起

取り上げたいのは、Endel Tulving(エンデル・タルヴィング)が2005年に書いた "Episodic memory and autonoesis: Uniquely human" という論文*1(ブックチャプター)です。

Tulvingは記憶研究の第一人者(@Wikipedia)とされる心理学者で、1972年に「エピソード記憶」という概念を提唱した本人でもあります。その彼の立場は、エピソード記憶は人間にしかないのだ、というものです。

以下では、この論文の中身を簡単に見ていきたいと思います。

エピソード記憶とは

まず、エピソード記憶とは何でしょうか。教科書的には、それは「顕在記憶(explicit memory)」の一種ということになります。顕在記憶とは、意識的に思い出すことができる記憶のこと。「一輪車に乗るときの身体の動かし方」や、「梅干を見ると唾が出てしまうなどの条件反射」といった、無意識下で呼び覚まされる記憶と対比される概念です*2

そして顕在記憶には「意味記憶(semantic memory)」と「エピソード記憶(episodic memory)」があるというのが、1970年代のTulvingの提案です。簡単に言えば、意味記憶は知識として知っていること(knowing)、エピソード記憶は自分の体験として覚えていること(remembering)です。Tulvingは2005年の論文ではいろいろな言い方で「エピソード記憶」を定義しているのですが、その一つが次のような説明です。

たとえば、「現在のアメリカの大統領がドナルド・トランプ氏である」という記憶は意味記憶ですが、トランプ大統領の当選が決まったニュースを知ったときの記憶はエピソード記憶です。後者を思い出すときの心は、2016年11月の投票日への「タイムトラベル」を伴うのに対し、前者の想起にはそれが伴いません。

そして、前述のようにTulvingの主張はエピソード記憶をもつのは人間だけである」というものです。

ただし、この見方は決して主流ではなく、ほとんどの研究者は他の動物にもエピソード記憶はあると考えているようです。2005年当時、動物のもつエピソード記憶の代表例として注目されたのが鳥のカケス(scrub jay)の行動であり、Tulvingもそれに言及しています。

カケスは食べ残したエサを地面に隠します。そのエサを回収する際に、ナッツなどよりも腐りやすい虫などを優先して回収するそうです。ここからわかるのは、カケスが「どこにエサを隠したか」だけでなく「いつ隠したか」も覚えていることです。このように「どこ」と「いつ」を兼ね備えた記憶であるということから、エピソード記憶に該当する、とされます。ただし、この行動を研究したClaytonらは、やや慎重にこれをepisodic-like memory(エピソード様記憶)とよんだそうです。なお、Wikipedia英語版には"episodic-like memory"の項目があり、カケスだけなくラット、ミツバチ、霊長類など様々な動物の行動が紹介されています。

そこで、論点は「エピソード様記憶」を人間のもつ「エピソード記憶」にもつ範疇に含めるべきか、ということになります。多くの研究者とは違って、Tulvingは両者を区別すべきとの立場をとります。

その論拠は、ざっくりいうと

  • 人間の中にもエピソード記憶をもたない人がいる
  • 人間以外の動物は未来を想像することができない

の2点です。

健忘症患者と乳幼児

エピソード記憶をもたない人間としてTulvingがあげるのは、健忘症患者KCの症例と、4歳前後までの幼児です。

患者KC(本名:Kent Cochrane、2014年没)は、30歳のときに交通事故に遭い、エピソード記憶の能力を丸ごと失ってしまった人物です。1960年代に記憶研究を大きく前進させるきっかけとなった「前向性健忘」の患者HMと異なり、KCは、事故以前のことも含むすべてのエピソード記憶を失ったそうです。

しかし興味深いことに、KCの意味記憶は正常でした。自分の名前や誕生日をいうことはできたし、カードゲームのルールなども覚えていました。そのため、実家で両親と暮らしていくぶんには、問題なく生活を送ることができました。彼は「自分がホンダの車をもっていることを知っていたが、出かけたドライブ先を一つも覚えていなかった」そうです。

一方、人間の赤ちゃんも、エピソード記憶を形成できません。人が思い出すことができるのは4歳くらいからの記憶とされていますが、Tulvingはそれに関連する面白い実験を紹介しています。それは、3~5歳の子供に、引き出しの中に何があるかをあらかじめ教えておいて、あとから答えさせる、という実験です。引き出しの中身を教える際には、

  • 引き出しの中にものを入れる様子を「見せる」
  • 引き出しの中に何を入れたかを言葉で「聞かせる」
  • 答えは教えずにヒントを与えて「推測させる」

という3とおりの方法をとります。どの方法でも、中身を答えること自体は簡単なため、3歳児でも正解できます。しかし、ここで「君はどうやってそれを知ったの?」という質問については、5歳児は正しく答えることができるのに対し、3歳児は答えられないのだそうです。つまり、3歳児は引き出しの中身を「知識」として記憶していたのに対し、5歳児は教えてもらったという「経験」として覚えていた、ということになります。人間の幼児では4歳くらいを境目に、そうした記憶の質的な変化が起こるそうなのです。

健忘症患者KCや4歳に満たない人間の赤ちゃんも、ちゃんと生きているし、「意識」ももっています。彼らができないのは、「将来を想像すること」だとTulvingは言います。KCは、過去や将来についてどう思っているかと聞かれ、「空白(blank)です」と答えたそうです。両親と一緒に住み慣れた家で暮らすことはできても、新しい環境に適応することはまったくできないのです。

そしてここに、Tulvingは線を引こうとしています。普通の人間の大人がもっているが、患者KCや4歳までの子供がもっていないような種類を記憶をエピソード記憶と呼ぼうということです。

では、人間以外の動物は、このTulvingの言う意味でのエピソード記憶を持つのでしょうか?

動物に対して「あなたはエピソード記憶をもっていますか?」と聞くことはできないので、何らかの行動をもとに判断しなければなりません。

どうやって白黒つけるか?

そこでTulvingは、「スプーンテスト」というものを提案しています。エストニアで一般的に知られる、次のような寓話があるそうです。

ある女の子が、友達の誕生日会に呼ばれる夢を見た。そのパーティーではチョコレートプリンが出された。しかし、他の子はみんなスプーンを持ってきたのに、自分だけはスプーンを持っていなかったので食べられなかった。二度とそんな悲しい思いをしないために、次の晩、その子はスプーンを握りしめて寝床についた。

この話で女の子は「夢」と「現実」が混同してしまっていますが、その部分に目をつむれば、この女の子は、明らかにエピソード記憶を使って自分の行動を変えています。Tulvingの提案は、こういう種類の学習ができることを、エピソード記憶をもっているかどうかのテストにしてはどうかというものです。ポイントとなるのは、女の子の「次回のためにスプーンを用意しておく」という行動のように、特定の環境と条件づけられた行動ではないこと、現在の生理的欲求に基づいた行動ではないことです。

そして、Tulvingの見解では、少なくとも2005年の時点では、この「スプーンテスト」に合格する人間以外の動物はいません。

たとえば、犬は、自分が骨を埋めた場所を覚えることができます。これは、一見、「私(犬)はいつどこに骨を埋めた」というエピソード記憶を持っているようにも思えます。しかし、この犬は「あそこには骨が埋まっている」という意味記憶を使っているのだという解釈も可能です。実際、患者KCはそのような意味記憶だけをつなぎ合わせて生きていくことができました。そのように、エピソード記憶を持ち出さなくても説明できる行動については、「スプーンテスト」に合格したとは言えないのです。前述のカケスについても、意味記憶だけで説明可能だとTulvingは考えています。

されにこれは、より人間に近い類人猿などにも言えます。たとえばチンパンジーはすぐれた短期記憶を持つものの、「将来について考えることができない」と言われています。筆者は同様のことを京都大学霊長類研究所松沢哲郎氏の講演会で聞き、感銘を受けた記憶があります*3

Tulvingは、人類は進化の過程で過去と未来について考える能力、つまりエピソード記憶を獲得したことで、道具を作ったり、食べ物を貯蔵したり、ものを運んだりする能力、つまり「文化」を形成できたのではないか、と推測しています。

以上がTulvingの論文の要旨です。再度まとめると、

  • エピソード記憶は「mental time travel」する能力であり、「未来を想像する」ために必要である
  • しかし、エピソード記憶は動物の生存にとって必須ではない
  • 人間のなかにも、一部の健忘症患者や乳幼児など、エピソード記憶を持たない人がいる
  • 人間以外の動物で(Tulvingがいう意味での)エピソード記憶をもつものは、今のところ知られていない

最後の項目で「今のところ」と書きましたが、Tulvingは「他の動物は絶対にエピソード記憶をもたない」という頑なな主張をしているわけではありません。今後、スプーンテストに合格するような事例が見つかる可能性も認めています。つまり、「反証可能」な形で自説を展開していることを強調しています。このあたり、議論の提起の仕方がさすがだと感じます。

最初の疑問に戻って:人間の記憶は特殊か?

さて、この議論から考えるべきはどんなことでしょうか。

ちなみに、その後、Tulvingの「スプーンテスト」に人間以外の動物が合格したとする報告も出てきているようです*4。今後も、少しずつ彼の仮説は覆されていくのかもしれませんし、「エピソード記憶」の定義は移り変わっていくかもしれません。

それでも、少なくとも「人間とその他の動物がもつ記憶には質的に違っている」という一般的な指摘には説得力があるように思えます。ちなみに、こうした指摘は「記憶」に限ったものではなく、たとえば情動(emotion)研究の第一人者として知られるJoseph Ledoux(ジョセフ・ルドゥー)が、最近の著書で「人間の情動と、マウスなどの実験動物の情動は同一視しすぎてはいけない」という主張をしたりしています。


Tulvingの論文を読んで痛感したのは、「記憶の仕組み」について考える以前に、「記憶」そのものついてまだまだ分かっていないのだ、ということでした。

もしエピソード記憶なり何なり、人間にあってマウスに「存在しない」記憶があるならば、マウスを使った記憶研究が教えてくれることは限定的になります。

したがって、個人的には、利根川ラボの研究の延長線上に、「嫌な記憶を消し」たり、「都合の良い記憶を植え付け」たりできる技術が登場するという予想は疑わしいのでは、と思っています。オプトジェネティクスをつかった「エングラム細胞」の研究が「PTSDアルツハイマー病などの治療につながる」などという宣伝文句は、嘘ではないにせよ、割り引いて聞いておいたほうがよいかもしれません。

おわりに

今回は、ひとまず「人間とマウスはもっている記憶の種類からして違うのだから、マウスで開発された記憶改変技術が人間に使われる見込みは、技術的にも原理的にも薄い」という無難な結論に落ち着きました。

しかし、では「人間の記憶を操作する」ような未来は当分こないと思っていいのでしょうか。どうやら、そうでもなさそうです。なぜなら、細胞・分子レベルとは別の方法で、何十年も前から「記憶の操作」は行われてきているからです。

次回はそのあたりを見ていきたいと思います。

*1:Tulving, Endel. "Episodic memory and autonoesis: Uniquely human." The missing link in cognition: Origins of self-reflective consciousness (2005): 3-56.

*2:ここで「意識」という言葉が出てくることに対して、筆者などは「おや?」と思います。意識は、記憶にも増して定義があいまいな概念のようにも思えるからです。Tulvingや他の記憶研究者は、他の動物もある種の意識をもっていることは前提にしているようです。

*3:http://langint.pri.kyoto-u.ac.jp/ai/ja/l/What-is-uniquely-human=An-answer-from-the-study-of-chimpanzee-mind-page3.htmlなど。

*4:Scarf, Damian, Christopher Smith, and Michael Stuart. "A spoon full of studies helps the comparison go down: a comparative analysis of Tulving's spoon test." Frontiers in psychology 5 (2013): 893-893.