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読書メモなど

読書メモ:工学部ヒラノ教授の終活大作戦(今野浩 著)

 

工学部ヒラノ教授の終活大作戦

工学部ヒラノ教授の終活大作戦

 

2013年に『工学部ヒラノ名誉教授の告白』を読んだとき、私は少し焦った。いつものようにユーモアたっぷりの筆致ながら、この本では初めて、ヒラノ教授(=著者)が人生の終わりを意識しているのが感じられたからだ。奥さんを看取り、研究も定年退職した著者にとって、『名誉教授の告白』にはもう続きはないのかもしれないと思った。

しかし、まったくそんなことはなかった。それ以降も、年に複数冊のペースでヒラノ教授シリーズは出続けたのだ。

そのいくつかは、このブログでも追いかけてきた:

読書メモ:工学部ヒラノ教授と昭和のスーパー・エンジニア - rmaruy_blog

読書メモ:工学部ヒラノ教授の介護日誌 - rmaruy_blog

読書メモ:工学部ヒラノ教授とおもいでの弁当箱(今野浩 著) - rmaruy_blog

読書メモ:工学部ヒラノ教授の中央大学奮戦記(今野浩 著) - rmaruy_blog

読書メモ:工学部ヒラノ教授のはじまりの場所(今野浩 著) - rmaruy_blog

著者は定年後、未発表のものも含めて22冊分の原稿を書いたそうだ。いろんな意味で異常だと思う。工学研究者が著述業に転身すること自体珍しいと思うが、それをおいておいても、このペースの速さは普通じゃない。そもそも、自叙伝的エッセイを10数冊も出した人がいるものだろうか。書いたとしても商業出版できないはずで、それができてしまうのは、それが毎度面白いからだ。そして、それを待っている(私のような)読者がいるからだ。

しかし、今度こそ(!)これで最後だという。テーマは「終活」。77歳、単身高齢者になって久しい著者が、どんな心構えで死を捉え、日々を過ごしているかが綴られている。

類書との差別化を図るため、これまでのヒラノ教授シリーズと同様、“具体的、定量的、かつ赤裸々”に記述するように心掛けた。 p.20

著者が目指すのは「二人称の望ましい死、すなわち、家族や親しい友人に対して迷惑をかけない、もしくは恥ずかしくない死」だという。「二人称」というのは、養老孟司氏の「死には一,二,三人称の3種類がある」という議論を引いたものだ。

この点から見ると、PPKは必ずしも望ましい死に方とは言えない。なぜなら、多くの未処理問題や大きな負債を残して突然死ぬと、残された家族が大迷惑するからである。 p.20

そのために、かつての数理工学の第一人者らしく緻密に計画を構築し、ときに失敗もしつつ、奮闘していく様が描かれる。

身辺整理、息子夫婦と同居しない理由、健康管理、相続の計画など、「終活本」の標準的であろうトピックをカバーしつつ、ヒラノ教授の現役時代の定番エピソードも挟まれている。家族とのつらいエピソードや、かつて抱いたという自殺願望についてなど、ドキッとする記述もある。90%のユーモアのなかに、10%の死への不安や一人暮らしの孤独感といった本音が滲み出ている、そんなバランスに感じられた。

著者と同年代の方が読んだら、共感したり、参考になったりする部分も多いのかもしれない。30歳の私は「終活」はまだリアルにイメージできないが、著者の半分でも、1/4でも、幸せな老後になればいいなと願う。そのためには、自分が「二人称の望ましい死」を目指せるような誰かがいてくれる必要があるし、著者のそれこそ百分の一でいいので、振りかえって語れる物語のある人生を生きねばと思う。

***

先に「本書で最後」と書いたが、最後なのはヒラノ教授シリーズの新原稿執筆であって、これからも未発表原稿を(「関係者が死に絶えてから」)出すかもしれないそうだ。それに加えて、初となるフィクション作品を準備中だという。もと工学部教授の、鮮烈な小説家デビューが楽しみでしかたない。

読書メモ:近代日本150年―科学技術総力戦体制の破綻(山本義隆 著)

 

 

今年は、明治維新から150年目だという。
言われてみれば、という感じだ。

150年というと、人生2回分くらいだろうか。明治という言葉からイメージするほど昔でもないようで、不思議な感覚を覚える。しかし、その間の技術や産業の発展を考えると、電気もガスも何もないところから、今の日本までたどりついたのだからすごい。

山本義隆氏の新刊『近代日本150年――科学技術総力戦体制の破綻』は、その150年の日本の科学技術の歴史をたどった一冊だ。当時の科学者の発言などを一次資料から引きつつ、最近の歴史学者科学史家・ジャーナリストの分析も多く引用しながら、著者なりの「近代日本の科学技術史」を描いている。

ただし、著者の経歴を知る人ならおそらく想像できるように、そのトーンは極めて批判的なものとなっている。たとえば、「おわりに」には次のような一節がある。

増殖炉開発計画の事実上の破綻と、福島第一原発の事故は、科学技術の限界を象徴し、幕末・明治以来の150年にわたって日本を支配してきた科学技術幻想の終焉を示している。 

原発に限らず、本書では科学技術に対する批判的視線が貫かれている。著者の言う科学技術の「限界」や「幻想」は、150年間のすべての時期に存在している。

***

明治の日本がいかに欧米の科学を取り込んだかというところから本書は始まる(第1~2章)。それは、福沢諭吉ら「幕末に欧米社会を直接見聞きした武士たち」によってなされた。彼は、軍事や経済における科学技術の威力を痛感し、科学の導入を急ぐ。そこでは、科学はつねに技術とセットだった。

(p.35)かくして明治期の日本では、科学は技術のための補助学として学ばれたのであり、今日にいたるまでの日本の科学教育は、世界観・自然観の涵養よりも、実用性に大きな比重をおいて遂行されることになった。 

1871年には技術者の養成機関「工部大学校」ができ、のちに東京大学と併合され1885年には「帝国大学工科大学」が設立される。明治維新からたった18年で、工学の高等教育を行う体制が整ったことになる。また、1886年建築学会、翌年には電気学会、1897年の機械学会と、国内に工学の研究コミュニティが次々とでき、それと合わせて産業も急速に発展する。鉄道・通信網、製糸業・紡績業。そして「欧米にくらべてせいぜい20年の遅れ」でなされた電気エネルギーの実用化。しかしその急速な工業化が、犠牲にしたものもある。たとえば、機械化がもたらした過重労働の問題。

(p.81-82)明治期における製紙業、そして日本の産業革命を代表する紡績業は、少なくとも明治の後期には、ともに「ウルトラ・ブラック企業」であった。(…)紡績業において若年女子による労働を可能にしたのがリング精紡機であったとすれば、労働時間の夜間への延長と昼夜二交代制を可能にしたのは、電燈の発明であった。(…)機械化は、それだけではけっして人間の労働を軽減させるものではないのである。 

また、足尾銅山鉱毒事件など、公害問題も発生している。働き方に無理が出たり、大規模な環境破壊が起こったりしても、日本を強くするためだから我慢すべきという考えがまかり通った。しかし、これは明治期だけのものではないと著者は言う。

(p.87)官民挙げての「国益」追求のためには、少数者の犠牲はやむをえないというこの論理は、その後、今日にいたるまで、水俣で、三里塚で、沖縄で、そして日本各地で、幾度も繰り返され、弱者の犠牲を生み出してきたのである。 

第3~4章では、戦前から戦中にかけての帝国主義と科学の関係が描かれる。地球物理学者による測量が戦場の調査の意味合いをもったことなどに代表されるように、科学者の研究は軍事に密接に結びついていた。

(p.118)帝国大学の理念が国家第一主義と実用主義とあっても、民間に先端産業の存在しない時代にあっては、そして軍事技術でいちはやく近代化をめざした日本では、その実用主義の協力対象はさしあたって軍ということになる。 

第一次世界大戦が勃発すると、いよいよ国による「科学動員」が始まる。1917年の理化学研究所設立もその一環だった。「日本の近代化学工業は、軍による火薬・爆薬の自給化政策から始まった」のであり、「結局、日本では自動車産業も航空機産業も、ともに兵器産業として育成された」。また、大規模な化学工場や発電所を朝鮮の植民地に設置されたことに触れ、「エネルギー革命による最新化学工業の発展は、植民地の資源と労働力の収奪に支えられていたのである」という。

当の科学者たちは、軍事に動員されることに対してどう抵抗したか。彼らは抵抗しなかった。むしろ科学技術振興は「科学者サイドから強く主張」され、その法整備に「多くの科学者が好意的だった」。

(p.189)大部分の理工系の学者は、研究費が潤沢であるかぎりで、科学動員による戦時下の科学技術ブームに満足していたのであった。 

小倉金之助という一人の数学史研究者を取り上げている。小倉は、戦前の科学が軍事に偏重していること、学者たちが狭い専門領域に囚われていることを批判し、「自然科学者に、反知性主義・反文化主義への抵抗を訴え」た。科学的精神の体現した、良識的な学者のように聞こえる。しかし、小倉のような研究者が、むしろ総動員体制を「科学研究の合理化」を進めるものとして歓迎していた。ここから著者は、科学精神だけでは「ファシズムと闘えない」という結論を下す。

(p.186)〔小倉たちは〕総動員体制にむけての研究体制の軍による上からの統制――全体主義的な国家統制を、封建的な人間関係や官僚主義として非合理的な学閥の類のものが力をもつ日本の学問世界の近代化を促進するものと肯定的に捉え、ファシズムへの協力を積極的に呼びかけたのである。…これは転向ではないし、偽装転向ですらない。 

(p.194) 後進資本主義国としての封建性の残滓や、右翼国粋主義者反知性主義による非合理にたいして、近代化と科学的合理性を対置し、社会全体の生産力の高度化にむけて科学研究の発展を第一義に置くかぎり、総力戦・科学戦にむけた軍と官僚による上からの近代化・合理化の攻勢にたいしては抵抗する論理を持ち合わせず、管理と統制に飲み込まれていったのである。 

第6章で時代は下って「戦後」になる。科学史家・広重徹は、70年代の『科学の社会史』において、戦後の科学研究体制は敗戦を機にゼロから再スタートしたのではなく、むしろ戦前からの延長線上にあると指摘した。その見方を著者も踏襲する。科学者はどう戦争を総括したかといえば、科学技術が不足していたから戦争に負けたという感想が多かった。先の小倉金之助の言葉が引用されている:「今日わが日本が民主主義的文化国家を建設するためには、科学の振興を絶対に必要とする」。今度は民主主義のために、科学が称揚されている。

高度成長を可能にした科学技術政策は、「戦後版の総力戦」だった。自動車や家電メーカーの躍進のイメージがあるが、その背後にも、朝鮮戦争ベトナム戦争の特需で各メーカーが潤ったという現実がある。

(p.220)ふたたび日本は、アジアの人たちを踏み台にして大国への道を歩んだのである。

水俣病などの公害問題においては、権威をもつ科学者たちが、企業サイドに都合の良い「対立説」を出して、被害者サイドの告発が相対化されてしまうということが繰り返されてきた。

(p.239)明治以来、国策大学として創られた帝国大学の学問は、多くの場合「専門家」の発する「科学的見解」として権威づけられることで、国家と大企業に奉仕してきたのである 

現在はどうか。いま、日本政府と財界が画策している「軍需生産の拡大と武器輸出」に注意を促す。軍事で経済を活性化することには、人道的な理由とは別に、明確な問題があると指摘する。

(p.251)軍需製品以外のものは、電気製品にしても自動車にしても、すべて何らかのかたちで消費生活か、あるいは再生産に役立つ。しかし軍需製品だけは、消費生活に資するものでもなければ、かといって再生産に資するものでもなく、地球規模で考えるならば単なる資源の浪費、それもおびただしい浪費である。

原発の話題は第7章にて別建てで論じてられている。通産省の主導で70年代から着々と増えていった原子炉だが、その技術には、労働者の被ばく・環境汚染の問題・使用済み燃料といった、「通常の商品では、これどれひとつがあっても、市場には出しえない」ような問題が残されている。そして、2011年の福島原発事故、2016年のもんじゅ廃炉決定、2017年の東芝原発事業の失敗による主力部門売却などの事象をうけ、「経済成長の強迫観念にとらわれた戦後の総力戦の破綻である」と総括する。

(p.287)福島の事故は、明治以来、「富国強兵」から「大東亜共栄圏」をへて戦後の「国際競争」にいたるまで一貫して国家目的として語られてきた「国富」の概念の、根本的な転換を迫っているのである。

 ***

以上、本書の内容をざっと見てきた。科学技術が、相当ネガティブに書かれていることがわかると思う。明示的には書かれていないが、本書に背後には、著者自身の科学者や科学コミュニティに対する怒りがあると感じられる。その中身は、3年前の著作『私の1960年代』を合わせて読むとよくわかる。最後に少しだけ『私の1960年代』からも引用しておきたい。

今からちょうど50年前の1960年代。当時、20代の著者は何をしていたかと言えば、東大全共闘の代表として闘っていた。たとえば、物理学会の費用の一部が米軍から出ていたにもかかわらずそれが隠されていたという事件に際して、署名運動をしたりしている。さらに、1968年、「明治維新からちょうど百年」の年、著者らは「「東京帝国主義大学解体」そして「東大解体」を掲げていた」。そこでの問題意識は、どんなものだったのか。

(『私の~』p.79) 私たちの立場は、軍の援助を得てまでして進めなければならないほど、研究が価値のあるものではない、ということになります。 

(『私の~』p.79) 科学研究が体制にすっぽり取り込まれている時代に、自身の研究がどのような社会的関連の中で営まれているのかについて反省的な捉え返しを抜きに科学至上主義を語ることは、自己の関心をただひたすら研究業績をあげることに限定することになります。そのような立場での研究費要求運動は、現状肯定・現状追従のうえに研究者としての既得権を擁護することでしかなく、普遍的な価値を持ちえないのです。 

本書『近代日本150年』は、学生時代からの著者の問題意識、まさに「自身の研究がどのような社会的関連の中で営まれているのかについて反省的な捉え返し」を、半世紀越しに行った作業だと読める。

この指摘を、科学技術にコミットしている現代人で直視できる人が何人いるだろうか。もちろん、研究者ではない自分も、科学の体制に寄生した業界で生計を立てているという意味で免れない批判だ。

***

本書や前著が描くのは、どこまでも「失敗まみれ」「嘘まみれ」の科学像だった。でもだからといって、今後の科学技術にまで絶望する必要はないのではないかと個人的には思う。科学の失敗は科学で取り返すしかないのではないかとも思う。また、今は「科学コミュニケーション」「科学社会論」など、科学の在り方の問題を議論する土台が整っている。本書は、半世紀にわたり筋を通した在野の学者による、おそらくもっとも厳しい科学体制批判の書だ。これを受けとめつつ、これからの科学を健全さを目指していく責任が私たちの世代にはあるのだろう。

(『近代日本150年』p.214 )「合理的」であること、「科学的」であることが、それ自体で非人間的な抑圧の道具ともなりうる

読書メモ:Altered Traits(Daniel Goleman & Richard Davidson)…「瞑想の脳科学」はどこまできたか

 

Altered Traits: Science Reveals How Meditation Changes Your Mind, Brain, and Body

Altered Traits: Science Reveals How Meditation Changes Your Mind, Brain, and Body

 

瞑想の科学的研究の第一人者らが、瞑想研究の歴史と最先端を概説した本。

著者らのプロフィールから言って、今後数年以内に出される「瞑想の科学」の本のなかでは決定版になるだろう。

いまでは脳科学の一大トピックとなった「瞑想」あるいは「マインドフルネス」だが、2016年の論文数は1113本にも上ったそうだ。しかし、著者ら研究を始めたばかりの1970年代には、瞑想はまだ科学研究の対象とは見られていなかった。

著者のGolemanとDavidsonは、ともに心理学者としてキャリアをスタートしている。瞑想へ関心をもち、学生のころから度々インドにわたっていわゆる「リトリート」を経験している(ちかごろ読む本の著者の多くが瞑想リトリートを経験しているのに驚く)。心理学者として瞑想の効果を検証しようと志すが、当時は周りの理解が得られず、とくに年長のGolemanは研究生活を中断したりもしている(彼は科学ライターになり、著書『EQ こころの知能指数』などで大ブレイクする)。

著者らが行った初期の研究は、瞑想中の人の心拍や発汗量を調べるというものだった。「ストレスが軽減されている」ことを示す結果は出たものの、今から思うと再現性などの面で問題が多かったと著者らは振り返っている。しかし、やがてEEGfMRIなど脳を測定する道具が発明されるにつれ、確固たる結果が得られるようになってくる。瞑想にはストレス軽減、他者への思いやりの増大、集中力向上などの効果があると言われているが、それを説明するような脳の変化が多く見つかっていく。本書では章ごとに、「ストレス」「共感」「注意」「自己」「痛み」「精神疾患」といった瞑想との関連が知られるテーマを取り上げ、これまでに知られている知見を紹介している。

本書の特色となっているのが、「瞑想する人の熟練度」を重視する点だ。著者らは瞑想の熟練度を生涯での瞑想の実践時間で測るのだが、たとえば1000時間、10000時間、60000時間の瞑想家では、脳に現れる効果が、安静時・瞑想時ともに大きく違うのだという。有意な結果が出ていないように見える実験でも、実践歴を考慮に入れると有意差が出たりするのだそうだ。

数時間だけ瞑想した人から60000時間の瞑想歴をもつ熟練ヨギの脳まで、段階的な変化がある。このことからかるのは、脳と心はどこまでも変えていけるということだ。脳のとある部位の大きさといった構造的特徴から、特定の波長の脳波(注意を集中しているときに出るガンマ波など)の増強といった機能的特徴まで、瞑想を実践すればするほど脳は変化していく。これまで多くの脳研究では、瞑想や薬物などに対して脳がその「瞬間」にどう状態を変えるか、つまり脳の「変性状態(altered state)」に注目してきたが、本当に重要なのはその変化がいかに定着するか、つまりの習性がどう変わるか(altered trait)なのだ。これが、本書のタイトルにも込められたメインメッセージとなっている。

なお、著者らは世界有数の瞑想スキルをもつヨギたちをアメリカのラボに連れてきて測定を行っている。そんなことができたのは、著者2名が瞑想の実践者であり、ヨギたちとの人脈をもっていたからだ。それにも増して大きかったのが、ダライ・ラマ14世の存在だという。ダライ・ラマは、1980年代に生物学者フランシスコ・ヴァレラらとともにMind and Life Instituteという研究機関を設立し、瞑想の科学的研究を促した。そのときの設立メンバーに、著者2人も入ったいたそうだ。

いまや瞑想は一大ブームとなり、「瞑想アプリ」もたくさん出ているほどだ(私も先日Googleのアプリをスマホに入れてみた)。このブームのおおもとに、瞑想に関心をもつ西洋の科学者と、科学に関心をもつ東洋の瞑想家の出会いがあったとは面白い。瞑想ブームの源流を知る実録としても読みごたえのある一冊だった。

文献メモ:ディープラーニングを人間の学習に近づける(Lake et al. 2017を読んで)

論文を一つ紹介します。

Lake, Brenden M., et al. "Building machines that learn and think like people." Behavioral and Brain Sciences 40 (2017). https://cims.nyu.edu/~brenden/LakeEtAl2017BBS.pdf

ニューヨーク大学のBrenden Lake、MITのJoshua Tenenbaumらによる総説論文です。

AI研究の現状と今後進むべき方向をうまくまとめていると感じたため、お正月休みに時間をとって読んでみました。ここ数日「2018年のAI研究のトレンド」のような記事がいろいろと出ていますが、この論文も頭を整理するためにはなかなか良い文献ではないかと思います。

ディープラーニング認知科学

この論文で著者らは、現状のディープラーニングを主としたAI技術に不足している点を指摘し、それを克服するための道筋を提案しています。中心となるのは、「認知科学、とくに発達途上の子供の心理学を参照すべきである」という主張です。

大事だと思ったポイントを拾ってみます:

  • 今のAIに足りないのは「少ないデータ」での「フレキシブル」な学習
  • 人間にそれができるのは、豊富な事前知識(rich prior)を持っているから
  • 神経科学的妥当性より、認知科学的妥当性が大事
  • 「予測=パターン認識」から「説明=モデル構築」としての学習へ

論文にはこれ以外のことも書かれていますし、上記4点もこの順番で論旨が組み立てられているるわけではないのですが、以下では私なりに、この4点に沿って内容(の一部)を紹介したいと思います。

「少ないデータ」での「フレキシブル」な学習ができない

著者らは、近年AI技術が大きく進展していること、その中心にはディープニューラルネットの成功があることを認めています。たとえば、手書き文字の画像データセットMNISTの認識でconvolutional neural netが既存手法だけでなく人間の識別精度も凌駕したこと(Ciresan, Meier, & Schmidhuber, 2012)、deep Q-network(DQN)によりアーケードゲームを人間のエキスパート並みにプレイできるようになったこと (V. Mnih et al., 2015)などに触れています。

しかし、人間の学習に大きく及ばない点もあります。

When comparing people and the current best algorithms in AI and machine learning, people learn from less data and generalize in richer and more flexible ways.(§6)

一つは学習に必要なデータ数が膨大なこと。たとえばDQNアーケードゲーム学習では、人間のエキスパートの500倍のプレイ回数が必要だそうです。またAlphaGoにしても、3000万回の自己対局をしているのに、人間のチャンピオンは生涯でせいぜい5万対局しか経験していないだろうという対比をしています。

もう一つは、機械学習には人間の学習のようなフレキシビリティがないこと。人間の棋士であれば、たとえば囲碁の碁盤のサイズが変わってもすぐに対応できます。あるいはアーケードゲームのルールやゴールが変更されても(たとえば、ゴールが「スコアを最大化する」から「アイテムを多く取る」に変わるなど)、人間のプレイヤーは問題なく適応できます。一方、シンプルなディープラーニング(本論文の言葉では"generic deep learning")では、一からデータセットを用意して学習し直さなければいけません。

人間がもつ「豊富な事前知識」

なぜ人間は少ないデータからフレキシブルな学習ができるのか? それは「ゼロから(from scratch)」の学習ではないからです。

People never start completely from scratch, or even close to “from scratch,” and that is the secret to their success. The challenge of building models of human learning and thinking then becomes: How do we bring to bear rich prior knowledge to learn new tasks and solve new problems so quickly? 

人間は新しい学習をするさいにすでに「豊富な事前知識(rich prior)」を持っている。なので、今後のAI研究の課題は、それが「人間に近づく」ことを目指すならば、その「豊富な事前知識」を特定し、いかに機械学習アルゴリズムに組み込むか、ということになります。

神経科学的妥当性より、認知科学的妥当性

「現実の人間について分かっていること」を、AIに積極的に組み込む必要がある。一つの方向性としては、生物の「脳」の構造や生理現象を真似ることが考えられます。実際、脳科学とAIを融合する研究は盛んになされています*1。しかしそのための脳科学のデータは限られており、神経科学的妥当性を追求するのはまだ早いというのが本論文の立場です。 

Unfortunately, what we “know” about the brain is not all that clear-cut. (...) In the long run, we are optimistic that neuroscience will eventually place more constraints on theories of intelligence. For now, we believe cognitive plausibility offers a surer foundation. (§5)

むしろ、いま追求すべきは認知科学に照らした妥当性(cognitive plausiblity)であると言います。

したがって、本論文での「豊富な事前知識(rich prior)」は、脳の解剖学や生理学上の制約ではなく、人間がもっている文字通りの「知識」を指すことになり、これを「人間知能の核となる要素(core ingredients of human intelligence)」と呼んでいます。

それはどんなものか? 言葉だけ列挙します。

まずは人間が幼少期からもっている、世界に関する知識の枠組み。著者らは「スタートアップ・ソフトウェア」(Developmental start-up software)と呼んでいます。

  • 直観的物理学(intuitive physics)…ものの動きや性質などに関する知識
  • 直観的心理学(intuitive psychology)…他人の行動の意図などに関する知識

また、速い学習を可能にする枠組みとして下記を挙げています:

  • 因果モデル(causal model)…「ああなれば、こうなる」というように、因果律に当てはめて理解する
  • 分割可能性(compositionality)…部分に分けて理解する
  • 学習の仕方を学習する(learning to learn)…他の学習にも流用できるような表現を学習する

これらは認知科学(心理学)の分野で研究されてきたテーマであり、これらを取り入れていくことで、機械学習、とりわけディープラーニングが人間の学習に近づくだろうと言います。実際、すでにこうした考え方で行われている研究は多数あるようで、論文内で列挙されています。

「予測=パターン認識」から「発見=モデル構築」としての学習へ

まっさらのニューラルネットの学習から、事前知識を与えた状態からの学習へ。こう聞くと「それはそうだよな」という気もするのですが、本論文ではこれにもう少し大きな意味を与えています。

それが、学習の捉え方を「予測=パターン認識」から「説明=モデル構築」に転換しよう、という主張です。

The statistical pattern recognition approach treats prediction as primary, usually in the context of a specific classification, regression, or control task. (...) The alternative approach treats models of the world as primary, where learning is the process of model-building. (...) The difference between pattern recognition and model-building, between prediction and explanation, is central to our view of human intelligence. (§1)

膨大なデータから何らかの「パターン」を学習し、新しいデータの属性を「予測」する。多くの機械学習がその考え方でなされてきたのに対し、人間の学習はそういうものじゃないだろう、と著者らは言います。むしろ、人間の学習とは、経験を重ねることによって「世界がどうなっているか」を理解する、つまり「モデルをつくる」ことにあるだろうということです。少ないデータから汎用的な学習を可能にするためにも、「パターン認識」から「モデルの学習へ」という発想の転換を促しています。

この方向を突き詰めたのが、著者らの2015年の研究です。

Lake, Brenden M., Ruslan Salakhutdinov, and Joshua B. Tenenbaum. "Human-level concept learning through probabilistic program induction." Science 350.6266 (2015): 1332-1338.

この論文で、LakeらはBayesian program learning(BPL)というアルゴリズムを提案し、BPLを使って手書き文字を効率よく学習するデモンストレーションを行っています。BPLは「概念を確率的なプログラム」とみなします。つまり、概念とは、新しい例(手書き文字)を生成するプログラムであり、プログラム(=生成モデル)を獲得することが、その概念を理解することに他ならないというわけです。

2015年の研究については、下記の動画で簡潔に説明されています。

実は本総説論文ではBPLが「これからのAI研究の新機軸」などとして大々的に紹介されているのかな、と予想して読み始めたのですが、そうではありませんでした。むしろBPLは「機械学習に人間の思考のクセを取り入れる」という大きな方向性の一事例として扱われていました。そもそもBPLはディープラーニングを使っておらず、著者らとしてもあくまでメインストリームはディープラーニングで、そこにBPL的な要素を入れていくことを有望視している印象でした。

 

おわりに

人工知能」は、その分野が始まった当初から「脳」や「心」の研究との接続を意識してきたと言います。ですが、本論文を読み、AI研究と認知科学の接近がますます本格化していきそうな印象を持ちました。

そもそもこの論文を読むきっかけになったは「日経サイエンス」2018年2月号の
「子どもの脳に学ぶAI」という記事でしたが、その著者アリソン・ゴプニック氏は子どもの心の発達を研究する認知科学者でした。日本でも、いわゆる「人文学部系の心理学」と「工学部系のAI研究」が接近する流れが来るのでしょうか。興味深いです。

(簡易的)読書メモ:文学問題(F+f)+(山本貴光 著)

 

文学問題(F+f)+

文学問題(F+f)+

 

以下は、とある会合の「おすすめの本の紹介文」として書いた文章。初読の印象だけの感想なのですが、記録のためにここにも載せておきます。

*** 

ゲーム作家でありながら、近年は著述家としての活躍がめざましい山本貴光さんの新刊。ユニークな本を次々と出されている山本さんですが、今回も夏目漱石の『文学論』を解説するという一風変わった本。前半部で『文学論』を“現代語訳”しつつ解説し、後半部で『文学論』の現代版へのアップデートを試みるという内容になっています。

なぜいま漱石? それも『文学論』? と思うわけですが、漱石の文学論そのものを研究するというよりは、自分の頭でゼロから考えようとした漱石の思考プロセスを辿りなおすことに著者の狙いがありそうです。漱石は『吾輩は猫である』や『草枕』と同時期に文学論を構想しており、「文学とは何か」とか「どういう要素があれば“良い文学”と言えるのか」についての「理論」を、先行研究も存在しないところから作ろうとしていたようなのです。文学研究者ではない著者が徒手空拳、こんな本を書いたしまった意図も、そんな漱石の心意気に学び、古今の文学を自分なりに理解するための(漱石の言葉で言えば「自己本位」の)探究をやってみようというところにあったのだろうと思います。

文学以外ではなくても何らかの文章の執筆・編集に関わる人ならきっと得るものがあると思います。私自身、理工書を編集しながら「理工書は科学にとってどんな存在なのか?」「よい理工書の条件は何か?」などを自分なりに考えてみたくなりました。

…それにしても傍注と参考文献の数が夥しく、編集の労力に頭がさがる(!)とともに、著者の読書量に圧倒される一冊でした。

今年読んだ本で振り返る2017年

年末がやってきた。

一年早かったなあと例年思うわけだけど、今年はその「一年早かったなあ」という思いすらまだ湧き上がってこない。

でも、出来事を一つずつ思い出していくと、1年間がそれなりに厚みのある時間に思えてくるのは不思議なもの。

自分の場合、その「一つ一つ出来事」は、ほぼイコール「読んだ本の1冊1冊」になるわけなのだけど。

というわけで、今年も読んだ本を挙げていきながら1年を振り返り、(若干無理やり?)2017年を締めたい。

 

ちなみに昨年の振り返りがこちら:今年読んだ本で振り返る2016年 - rmaruy_blog

 

*以下、今年私が読んだ本を紹介しています。今年がどんな年だったかを考えるのも目的の一つなので、「2017年に発行された本」に限定しました。(洋書の場合は原著か翻訳書のいずれかが今年刊行なら入れています。)このブログで取り上げたものはリンクを張っています。

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人工知能ブームはどうなったか

2015~2016年あたりに巻き起こった「人工知能ブーム」は、おおかたの予想通り沈静化してきた。シンギュラリティ論を論駁した『そろそろ、人工知能の真実を話そう』(ジャン=ガブリエル ガナシア)、機械学習アプローチの限界を小学生にもわかるお話に仕立てた『働きたくないイタチと言葉がわかるロボット』(川添愛)など、今般のAI技術の「本当のところ」を伝えようとする本が目立った。東大入試合格を目指していた「東ロボくん」プロジェクトが、逆に人の読解力の低下を問題視する方向に舵を切ったのも象徴的だった。

しかし、「AIが人間を超える」ことは当分ないとしても、それとは別の仕方でAI(というよりはビッグデータ)の影響は脅威となりうる。昨年の大ヒット『サピエンス全史』の続編にあたる『Homo Deus』(Yuval Noah Harari、読書メモ) では、「データ」とアルゴリズムによる判断が個人の意思よりも優先される「データイズム」の時代の到来が予言された。『atプラス32 人間の未来』(吉川浩満 編集協力)などを読んでも、「人間はどう変わってしまうのか」という問題意識が国内の人文系研究者のあいだでも共有されていることがうかがえた。

警戒するばかりではなく、むしろアルゴリズムの力を積極的に生活に取り入れてみようと提案するのが『アルゴリズム思考術』(B. クリスチャン&T. グリフィス、読書メモ:再掲)。こまごまとしたパソコン仕事をPythonでちゃちゃっとこなす術を指南する『退屈なことはPythonにやらせよう』(Al Sweigart、読書メモ)は画期的だった。データイズム化していく世界で主体性を保つためには、プログラミングやアルゴリズム思考は必須の教養になっていくのかもしれない。

いろいろとマズそうな日本

今年はアメリカではトランプ政権が誕生し、北朝鮮の情勢が危ういと聞かされ続けた。日本でも、負けず劣らず不可解なことがいろいろと起こった。立案の真の目的がよくわからないいくつかの法案、政権延命の戦術として行われた解散総選挙、行政のなかで原則を逸脱した何かが行われたらしい事案。何かおかしいと思っても、周りの人たちとそういう話をしづらい雰囲気がある。そのなかで、歴史学・経済学・政治学を横断しながら今の日本を考察した『大人のための社会科』(井手英策ほか)は、社会についてみんなで考えるきっかけにしたい本。

日本の企業にもいろいろと問題が発覚した。『東芝解体 電機メーカーが消える日』(大西康之)を読むと、東芝をはじめ電機メーカの苦境の構造的要因がよく分かった。『衰退の法則』(小城武彦、読書メモ)は、企業が腐敗していく要因としてどちらかというと属人的な面に着目し、学術研究としてまとめた一冊。自分のいる出版業界も相変わらず岐路に立っている。新旧のメディア業界で頑張る人々を取材した『なぜアマゾンは1円で本が売れるのか』(武田徹)、事業縮小中の大手出版社を舞台にした社会派エンタメ小説『騙し絵の牙』(塩田武士、読書メモ)の2冊は、出版ビジネスの新しい形を示唆していて目を開かされた。

大学も、来年には「2018年問題」に直面し、ますます生き残りが厳しくなる。『工学部ヒラノ教授の中央大学奮戦記』今野浩読書メモ)は私立大学の変化の一端がわかる一冊だった。

個人に目を転じると、匿名の文筆家による自伝的エッセイ『夫のちんぽが入らない』(こだま)では、夫との性生活の不全に象徴される、社会と適合できないゆえの様々な辛酸が描かれた。著者のような表現力を持たないだけで、同じような違和感をもって生きている人はたくさんいるかもしれない。『かがみの孤城』(辻村深月)は何らかの事情で学校に行けなくなった子供たちが登場する児童小説。この作品では、心ある大人がうまいこと彼らを導くが、現実もそうであればよいと思わされる。

行き詰まった会社、業界、人生が、今の日本にはなんと多いことか…。自室にこもって本を読んでいるだけでも、その一端がわかる。

科学者たちの野心

科学者たちが、普段の専門の研究とは別に、積極的に自分の分野を超えて発言しようとしていると感じる。『時間とはなんだろう』(松浦壮、読書メモ)は、素粒子物理学者が「時間」を軸に現代物理学全般を案内した一冊。『Your Brain is a Time Machine』(Dean Buonomano)ではさらに、時間の心理的神経科学の最先端を紹介し、「人間は時間をどこまで理解したか」がまとめられている。『物理学は世界をどこまで解明できるか』(マルセロ・グライサー、読書メモ)は、物理学者が「自分は物理学で何を知りうるか」に答えを出そうと格闘した一冊。『この宇宙の片隅に』(ショーン・キャロル、読書メモ)も同様に、生命も意識も道徳も社会もすべて一つの自然科学的世界観で描いて見せようという、野心作。その点、『佐藤文隆先生の量子論』(佐藤文隆読書メモ)での佐藤先生は、ショーンやグライサーの何周か先を行っている(と個人的には思う)。

無意識の行動から「どの政治的スタンスをとるか」にいたるまで、あらゆるスケールの人間の行動を生物学的に説明しようとした『Behave』(Robert Sapolsky、読書メモ)も、これまた大作だった。

ディープラーニングの延長線上にシンギュラリティがあるとは思われなくなってきた一方で、「AI×脳科学」の研究は着々と進んでいるように見える。意識研究が「コンピュータと人間の脳をつなぐ」という方法を真面目に議論している『脳の意識 機械の意識』(渡辺正峰、読書メモ)は衝撃的だった。

最後に、 『パパは脳研究者』(池谷裕二)には、専門知識を駆使してわが子の成長を楽しもうという限りなくbenignな科学者の「野心」が滲み出ており、温かい気持ちになった。

科学と共闘する哲学・メディア

時間、意識、社会など、あらゆる方面に関心を広がる科学に対して、哲学はどう応答したか? 「科学の暴走を食い止める」というよりは「一緒に前に進もう」という立場の本が今年は目についた。『自然主義入門』(植原亮、読書メモ)はずばり科学と哲学の共闘を掲げる「自然主義」の入門書。『現代思想12月増刊号 分析哲学』では、最先端の話題をつまみ食いしながら、分析哲学の何たるかを知ることができた。科学者が使うシミュレーションやモデルとは何なのかを議論した『科学とモデル』(マイケル・ワイスバーグ、読書メモ)は、科学者へ自分たちの方法を振り返る際の枠組みを提供する内容だった。専門家集団のなかで知識を磨くことの意義を論じた『我々みんなが科学の専門家なのか? 』(ハリーコリンズ、読書メモ)も、広い意味では科学へのエールと言えそうだ。

数学はなぜ哲学の問題になるのか』(イアン・ハッキング新刊紹介メモ)は、なぜある種の哲学的テーマが「そもそも問題になるのか」という問いの立て方が可能であることを教えてくれた。また『科学報道の真相』(瀬川至朗、読書メモ)では、メディアが科学をよりよく伝える方法が提言された。

科学、哲学、科学論、メディアは、以前よりも密に相互を参照し始めているように思える。来年以降、どんな展開になるか楽しみだ。

 「勉強」することに立ち返る

いままで僕ら日本人が前提にしてきた比較的安定した政治的・経済的状況は崩れ始めている。学問の世界では、これまでの分野の垣根が取り払われ始めている。そうしたなか、あらためて「勉強」の価値、それも誰かに言われてやる目先の勉強ではなく、自発的に始める「深い勉強」の価値が問い直される時代になっている。

正しい本の読み方』(橋爪大三郎)は、自分の頭で考えるための本の読み方を指南する。さらに深く「深い勉強」について考察しているのが『勉強の哲学』(千葉雅也、読書メモ)。勉強の負の側面にも触れたうえで、デメリットを抑え込むための方法を考案している斬新な一冊だった。『工学部ヒラノ教授のはじまりの場所』(今野浩読書メモ)は、昭和初期のエリート少年たちの姿を描いた貴重な実録。戦後の日本社会を作った世代も「深い勉強」で力を蓄えていったことがわかる。

「AI時代の学び」という最初のテーマに戻ると、『自動人形の城』(川添愛、読書メモ)は示唆に満ちていた。人間と(今の)AIを隔てる最大の能力は「言語を操る能力」だということ、どんな勉強も「言葉」から始まる。

年内ぎりぎりに読了した『文学問題(F+f)+』山本貴光)は怪書。物理学者たちの描き始めた「ビッグ・ピクチャー」とは別の仕方で「すべてを描いてみよう」という野心に満ちており、自発的な勉強の極致を見せつけられた1冊だった。


勉強をする人々に触発されて、今年は自分なりの勉強を二つしてみた:

探究メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで明らかにしたのか〈第8回(最終回):まとめ〉 - rmaruy_blog

思考整理メモ:科学コミュニケーションから考える量子力学の解釈問題(後編) - rmaruy_blog

まだまだ浅いが、まずは1歩を踏み出せたことで良しとしよう。

今年の一冊!

今年最も心を動かされた一冊として、『かくて行動経済学は生まれり』(原題:The Undoing Project、マイケル・ルイス)を挙げたい。リチャード・セイラ―氏のノーベル賞受賞に象徴されるようにだいぶ普及してきた行動経済学だが、その礎を気づいた二人の心理学者の物語。どんなに学問も、誰かが何かの問題意識をもって始めた「勉強」にルーツがあるということに立ち返らせてくれた。 

rmaruy.hatenablog.com

 

行動経済学に触れたついでに、『スター・ウォーズによると世界は』(キャス・サンスティーン、読書メモ)も触れておく。今年は「最後のジェダイ」の公開で幕を閉じた一年でした。

読書メモ:自動人形の城(川添愛 著)

 

また出ました。『働きたくないイタチと言葉がわかるロボット』に続く、今年2冊目の川添愛作品。

人工知能をつくる/使いこなす難しさ」という前作のテーマを引き継ぎつつ、物語の舞台は、『精霊の箱』にも似た(が接続はしていない)魔法と王国の世界となっている。

今回の主人公は11歳の王子様。甘やかされてわがまま放題の彼だったが、とある事件で城中の召使いたちをみな連れ去られてしまう。その代わりにやってきたのは、ロボットのような「人形」たち。優秀な召使いと違って、言葉で厳密な命令をしないと、人形たちは思うような動作をしない。人形たちは王子の「意図を汲む」ことができない。

人形たちと王子だけになってしまった城には、王国の転覆を狙う敵の気配が迫っている。父である王も、いまは外遊に出ている。王子はどうやってこの苦境を乗り越えればいいのか……? 

続きは本書で。

***

物語に込めれている表向きのメッセージは、「人間の思うとおり(≠言うとおり)に動いてくれるロボット(AI)をつくるのは、思われているほど簡単ではない」ということだろう。『働きたくないイタチ~』では、音声認識構文解析、意味理解といった自然言語処理のタスクがどんなに難しいかを描いていた。しかし、かりにイタチたちの「夢の機械」が完成したとしても、その先に「意図理解」というさらに大きな壁がある。たとえば「2つのカップにコーヒーと紅茶を入れて」といった簡単な命令でも、ロボットに人間の意図に沿う動作をするのは難しい(二つのカップにコーヒーと紅茶を半分ずつ入れたりしてしまう)。

本書では数々の王子様と人形のすれ違いを通して、様々なタイプの意図理解の難しさを例示していく。また、AIの「ユーモア理解」「道徳的判断」「価値の理解」などについても面白いエピソードが盛り込まれていて、考えさせられた。

 

・・・というのが本書の主たるテーマ。

だけど、本書にはもう一つ別の、大事なテーマがあるような気がしてならない。それは、『精霊の箱』にも通じる「勉強はあなたの『力』になり、苦境に立ったあなたを救ってくれる」というメッセージだ。

『精霊の箱』では、主人公はチューリングマシンの動作という高度な「魔術」を学んだ。いわば「専門知識」だ。だが、本書で王子が身に着けるのはもっとずっとベーシックなスキル、「言語を操ること」という誰もが必要とするスキルとなる。

王子の苦闘は、わが身を振り返れば、日々自分がサラリーマンとして直面している困難そのものだ。「取引先へのメールの意図が思うように伝わらない」、「上司の『意図』が読めず仕事が手戻りしてしまう」「企画書がうまく書けず提案が通らない」…。

会社に限らず、考えてみれば人が生きるのに必要なスキルの大半は「言葉をうまく使いこなすこと」に関係している。そして、そこに現代特有の要素として「機械に伝えるスキル」というのも加わる。人間の意図を汲み、他人に意図を伝える。意図を理解できない機械に適切に指示を与える(=プログラミングする)。どちらもとても難しく、(今のところ)機械学習ベースの人工知能にはできない。

手紙をうまく書けなかったり、自分の感情を言葉にできなくていだ立つ王子の不全感は、私たち大人であっても日々感じているものではないだろうか。しかし、「言葉を操る力」は訓練することができる。勉強を恐れず、勉強の与えてくれる力を信じて、力を身につけよう。物語の中盤で、王子を導く役回りのキャラクターが言うそのような趣旨のセリフには、自分自身が励まされているような気分になった。

(この「勉強観」は、先日読んだばかりの千葉雅也氏の『勉強の哲学』の勉強観と対照的なようでもあり、共通しているところがあるような気もする。じっくり考えてみたい。)

***

不完全なAI技術を使って繰り出された、「人工知能でつくりました」などというデモンストレーションに目をくらまされている暇があったら、言語能力とプログラミング能力を養おう。努力はきっと実るから。曲解かもしれないが、本書からそんな励ましをされているように思った。新井紀子先生のリーディングスキルにまつわる提言の、著者流のアプローチなのかもしれない。

「AIに仕事を奪われないために」系のビジネス書を読んだ方にこそ、ぜひ本書をすすめたい。

 

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読書メモ:勉強の哲学(千葉雅也 著)

 

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

ずっと気になっていた本。2017年を代表するヒット本の一冊として評価されてきているようなので、今年中に読めてよかった。

***

フランス現代哲学を専門とする著者が「勉強」の心構えと方法について指南するという、変わったコンセプトの本だ。

ただし本書の言う「勉強」は、「海外旅行に行く前に現地の言葉を勉強しておこう」とか、「仕事の幅を広げるためにマーケティングを勉強してみよう」などという勉強とはかなり違っている。

語学や資格の勉強のように、やればやるほど自分にとって「有利になる」もの。面倒くさいけど、やっておいて「損はない」もの。本書は、そうしたイメージと真逆の勉強観を提示する。

著者いわく、勉強とはノリが悪くなることである。場から浮くことである。もっと言えば「キモく」なることである。

決して人格が立派になったりするわけでもない。

勉強とは、まず、小賢しく「口ばっかり」になることです。僕は確信をもってそう言いたい。(p.168)

場の空気を読まずにベラベラしゃべってしまったり、逆に何も言えなくなってしまう。そういう人間をつくってしまうのが「深い勉強」。一方、プラス面としては、それは自分が知らないうちに支配されているノリ=「コード」から自由になることであり、自分が知らずにもってしまっている「こだわり」を解体することでもある。

ということで、本書は決して「勉強のススメ」ではなく、むしろ勉強せずにいられない人に対して、「勉強をこじらせない」ための心構えを伝える本となっている。著者独自の仕方で「勉強とは何か」を組み立て直し、「こういう勉強はやっちゃいけないよ」というメッセージを出している。

本書によれば、自分を変えてしまうような「深い勉強」は二つの方向へ進む。根拠を疑うこと(アイロニー=ツッコミ)と、見方を変えること(ユーモア=ボケ)。どちらもやりすぎると収集がつかなくなる。アイロニーは過剰な深追い、ユーモアは過剰な目移りという形で。

アイロニーに主導権をとらせたままならば、全方位に、あらゆる問題にツッコミを入れ続けながら、決して到達できない究極の真理を夢見続けるという、という人生になりかねないのです。(p.136)

コードの不確定性を最大限にまで拡張してしまえば、どんな発言をつないでもつながる、つながっていると解釈しさえすればいい、ということになる。(…)過剰なユーモアでは、話の「足場が多すぎて不在になる」のです。(p.98)

だからどこかで勉強を止めなくてはいけない。勉強を「有限化」する必要がある。「何でもあり」ではなく何かに重みを与えるために、自分が子供のころからこだわってきたこと(=個人的な享楽)を手掛かりにすることを本書は提案している。

後半の章では、勉強を健全に続けるためのノウハウを開示する。書籍の選び方、アプリや手書きノートの使い方。(書籍を、まず専門書と一般書に大別し、専門書を入門書/教科書/基本書に分けるというカテゴライズの仕方は新鮮だった。)日常生活と並行して「勉強のタイムライン」をつくること。そうして「一応の勉強を成り立たせ」、「中断しながら」勉強を進めることを推奨する。

感想

勉強について、うすうす思っていたけど誰も言ってくれなかったことが書かれていた。そうだよね、勉強って無害なものじゃないよね。のめり込みすぎるとヤバい人になってしまうよね。とても正しいと思った。

詳しくはわからないが、本書はドゥルーズガタリウィトゲンシュタインなどの哲学が学問的背景にあるらしい。たしかに、考えてみれば、「勉強とは何か」を語るには「知識とは何か」「わかるとはどういうことか」についてよほど深い哲学が必要になるのは当然だ。たとえば、「人は科学的方法によって真理に近づいていける」というナイーブな知識観を持っている人は、決して本書のような勉強論にはたどり着かないはず。ドゥルーズなどの哲学については何も知らないが、本書の内容が導出できるようなものなのならば、魅力的だと感じた。

「勉強の哲学」に無自覚な人は、もしかしたら生涯こじらせた勉強を続けることになってしまうのかもしれない。そう思うと恐ろしい。自分は30歳でこの本に出会えたが、20歳のときに読むことができていたら、違った20代を過ごせたかもしれない。

読書メモ:この宇宙の片隅に(ショーン・キャロル 著)

この宇宙の片隅に ―宇宙の始まりから生命の意味を考える50章―

この宇宙の片隅に ―宇宙の始まりから生命の意味を考える50章―

 

またもや物理学者が書いた大きな本が出た。それも600ページ超の大著だ。

まずは『この宇宙の片隅に』というタイトルに目がいく。去年の大ヒット映画をオマージュしたこの素敵な邦題を思いついたとき、訳者(編集者?)はほくそ笑んだかもしれない。

一方、原題は“The Big Picture”。世界のすべてを「一枚の絵」に描いてやろうという、大胆なタイトルだ。

邦題と原題が一見真逆にも思えるが、これから書くように、実はこの「謙虚さ」と「大胆さ」のバランスが、本書の特色になっている。

同じく今年出た『物理学は世界をどこまで解明できるか』(グライサー著、読書メモ)とも似て、本書も、理論物理学者である著者が物理学、ひいては科学の射程を見極めようという内容になっている。ただし、グライサー氏はどこか「考えながら書いている感」があったのに対し、キャロル氏のヴィジョンは練られていて完成度が高い。文章にも迷いがなく明快だった。

 

物理学を究めても、世界のほとんどのことはわからない?

中身を見ていく前に、著者に本書を書かせたモチベーションについて自分なりに少し想像してみる。 

物理学を志す人は、少なからず「世界をすべてわかりたい」という志向を持つ。より根本的な法則、より基本的な粒子や力の理解を求めて勉強を進める。すると、素粒子から宇宙までを記述する一通りの数式を扱えるようになる。一般人が知らないような「波動関数」「エントロピー」「曲率テンソル」といった概念にもなじんでくる。でも、それ以外のほとんどのことは何もわかっていないことにハタと気づく瞬間がある。生命について、人間の心について、社会について、経済について、「人生の意味」について、物理学が言えることはなさそうだということに、唖然とするタイミングがくるのだ(私自身は、物理学科の卒論を書き終えて出かけたインド旅行の最中にこの感覚を味わった)。

自分が知りえた物理法則と、それ以外の非物理学的だが「重要な(matterする)もの」の間の関係はどうなっているのか? 世界のことがわかりたくて、物理学の門を叩いたはずだった。この問いに答えを出しておかないと、物理学に人生をささげた自分が浮かばれない。……と著者が思ったかどうかはわからないが、それに近い気持ちで本書を書いたとしても不思議ではない。

 

…などと、「ビッグ・ピクチャー」を描きたくなる気持ちをシミュレーションしてみたところで、本の中身へ。

 

本書の内容

本書は6部構成になっており、各部が6~10章からなる。すべての話題を拾うことはとてもできないので、印象に残ったことを中心に取り上げたい。

第1部:「適宜自然主義」で宇宙を描く

第1部では、本書で著者がビッグ・ピクチャーを描く「方法」について説明する。最初のほうで、世界の記述の仕方の大きな3つの区分が示される。

  • (1)最も根本的な記述
  • (2)発現的*1(emergent)、実効的(effective)な記述
  • (3)人間の価値観が入る記述

これら3つに、それぞれ異なるレベルの「実在」が対応する。(1)には物理の最も根本的な法則で記述される「素粒子(ないしは量子場)」が対応し、(2)にはそこから「発現(創発)」する「温度」「エントロピー」などの高次の実在が対応する。(2)には「生命」「意識」といった生物学や心理学の概念も入る。そして(3)は「道徳」「目的」「意味」といった、人間の価値判断が関係する概念が含まれる。

(1)~(3)をすべて包括するような、「世界の整合的な記述」は可能だろうか? 一つには、すべてを(1)に、つまり物理法則に「還元」するという大胆な(横柄な?)やり方が考えられる。しかし、21世紀の物理学者として当然かもしれないが、著者はその道はとらない。そのかわりに提唱するのが、"poetic naturalism"と著者が名づけるスタンスだ。これに訳者は「適宜自然主義」の訳を当てている。自然主義、つまり「世界には観測できるものしかなく、すべては自然法則に従う」という考え方*2を取りつつも、その記述の方法は対象の種類ごとに「適宜」変えるべきだ、とする立場である。

これは一見、物理学の特権的な「守備範囲の広さ」を放棄しているようにも聞こえる。生物は生物学に、社会は社会学に任せよう、というふうに。しかしそうではない。この立場では(2)や(3)は、あくまで(1)から出てくるものだからだ。出てくるものであっても、「還元」はできない。人間の知識が有限だからだ。

たとえば、「自由意志」という概念がある。もし、現在の粒子の状態についての全ての知識(いわゆる「ラプラスの悪魔」の知識)を持っていたら、未来は100%予測できることになって、そこには人間の自由意志に基づく(と思われている)行動も含まれる。よって、自由意志が存在する余地がなくなる。しかし、現実にはラプラスの悪魔の知識を得ることはできない。だからこそ、「自由意志」という(2)のレベルの概念が「有用」になるわけだ。

人間の行動を決定されていると考えるかどうかは、私たちが何を知っているかによっている。(p.58)

個人的に面白かったのは、「記憶」や「因果」も創発的(発現的)な概念だとの主張だった。記憶についてだけ少しメモする。物理学的に考えると、「記憶」というのは「過去の宇宙の状態の推論を可能にするような『現在の』系の状態」のことにある。記憶から過去の推論が可能になるのは、「エントロピーが増える」という事実によっている。一方、根本的な物理法則のレベルでは「エントロピー」という概念は存在しない。ゆえに(1)のレベルには「記憶」も存在しない。なるほど。

ちなみにそこでは「時間の方向性」も存在しない。なぜ宇宙に時間の向きがあり、エントロピーは必ず増えるかと言えば、「宇宙が始まった時点のエントロピーが低かったから」という事実に行き着く(=過去仮説)。おお、そうか。

この議論にはハッとさせられた。因果律エントロピーと結びつけて考察するこのアイディアは、20世紀の物理学者、渡辺慧が『知るということ』という本に書いていた議論に通じるものを感じた。

第2部:それは確実か?

根本の物理法則があり、そこからすべては「発現(創発)する」。それはわかった。でも、なぜそう言えるのか? 適宜自然主義で知識の確かさはどう担保されるのかが、第2部のテーマとなる。

著者の結論としては、「確実」な知識にたどり着くことは永遠にできない。確固とした基礎のうえに知識を積み上げるというモデルは放棄して、信念の総体(本書の言葉で言うと「信念の惑星」)をより確かなものにしていくことしかできない。

「根本の物理法則」にしても、他の選択肢に比べて圧倒的に確からしい(ベイズ的な意味で大きな信念が持てる)から採用される、というところまでしか物理学者には言えない。この、「科学はベイズ的に前進する」という点の強調は、得られる実験データが少ないダークマターを研究テーマとする著者ならではの実感がこもっているかもしれない。

第3部:根本理論の姿

第3部から、「ビッグ・ピクチャー」の中身に入っていく。まずは、起点となる物理の根本法則とは具体的に何か。それは、著者が「コア理論」と呼ぶものだ。いわゆる素粒子の標準理論かと思いきや、ひとひねりがあって、「一般相対論」も加えた理論だという。

え、素粒子(量子物理)と一般相対論は統合されていないのでは? ……そうなのだが、日常的なスケールのエネルギー領域では、両者を取り入れた「実効理論」が作れるのだという。本書の付録には(物理学者ウィルチェックが提唱したという)コア理論の数式が示されており、そのシンプルさにちょっと感動する。

コア理論を手に、著者は「日常生活の根底にある物理学法則は完全に知られている」(p.249)と豪語する。

これは大胆であると同時に、実は著者にとっては謙虚な主張でもある。というのも、これが含意するのは、いま物理学者が追い求めている最前線の物理、たとえばダークマターや量子重力理論は、日常生活には一切関係ない(たとえそれが見つかったとしても「実効理論」に影響を与えない)という主張でもあるからだ。

有効場の理論はエネルギーがある限度より低く、距離が下限より上である限り、一定の場の集合に起きるすべてのことを記述する (p.266)

この人間スケールの「領域」では、もはや新しい粒子や力が見つかる可能性はない。その根拠を、量子場理論の"cross symmetry"という性質で説明していて興味深かった。

第4部:「複雑なもの」はコア理論からどうやって出てくるか?

以降、話題はより高次の記述、つまり物理法則から「発現(創発)するもの」に移る。第4部の冒頭ではまず、宇宙に複雑なものが生まれる理由を、エントロピーの概念を使って解説する。 宇宙は、ビッグバンという最小エントロピー状態から、いわゆる「熱的死」の最大エントロピー状態へ向かう途上にある。一般に、系はエントロピーが増える途中で「複雑性」を最大化させる(ミルクとコーヒーが混ざる途中で複雑な模様ができるように)。今の宇宙は、まさに複雑さを生成しつつある段階ということになる。

時間が経過してエントロピーが増えるとともに、宇宙にある物質の配置がいろいろな形をとり、いろいろな高次の語り方ができるようになる。(p.398)

後半では「生命の誕生」を取り上げる。ニック・レーンの『生命、エネルギー、進化』(読書メモ)で解説されていたような様々な学説を引きながら、いかに生命の誕生と進化にまつわる理論が、「複雑性の発現」という枠組みで語れるかを示していく。

第5部:「意識」はビッグ・ピクチャーにどう収まるか

適宜自然主義にとって、「意識」は最大の難関となる。意識だけは、コア理論とは別の、何らかの存在論なり第一法則が必要になるとする議論もある(チャーマーズやトノーニ)。しかし結論としては、著者はあくまでコア理論の範疇で意識が発現するという考え方をとる。ポール・チャーチランド心の哲学の教科書『物質と意識(第3版)』では、この立場を「相互作用二元論」などと呼んでいたように思う。その説得力の是非はともかく、この考えをとれば、著者の「ビッグ・ピクチャー」は意識のために新しい絵具(実在)を用意しなくて済む。

第6部:「価値」については何が語れるか

最後の第6部では、世界記述の3番目のタイプ、つまり「価値」が絡む事柄が話題となる。人生の「意味」やら、どう生きるべきかの「道徳」やらは、適宜自然主義ではどんな扱いになるのか。

著者はまず、「『である』と『べし』を混同するな」というヒュームの警告を紹介するところから始める。科学は価値の問題に白黒つけることはできない。とはいえ、だからといって「価値について何も語らない」とはならない。

適宜自然主義は倫理について言うことは(…)ほとんどない。しかしメタ倫理について言うことはある。(p.552)

「何をするべきか」は科学で答えを出せる問題ではないが、「メタ倫理」、つまり複数ある倫理体系の違いについての考察には、科学の出番がある。このあたりは若干歯切れが悪い感じもしたが、著者は何とかして「~べし」と言わずに、道徳に関する教訓を引き出そうとしている。すごく雑にまとまると、その主張は「(適宜)自然主義をとる者にとって、無条件に与えられる『人生の意味』や絶対的に正しい『道徳法則』などはない。それは自分で見つけなければならない」といったところだろうか。この部での著者のメッセージは、わりと宗教を意識したものだと感じた。

 

感想:ビッグ・ピクチャーを描く意義

意地悪な言い方をすれば、本書は様々な学説を寄せ集め、自分の気持ちに沿うものを選んで並べた本、とも言える。とくに第4~6部は著者の専門外のため、その感がある。しかし本書の凄いところは、その寄せ集めが整合する世界観(=ビッグ・ピクチャー)をなしているということにある。

著者がこの本を書いたのには、冒頭に書いた「物理学者としてすべてを知りたい」という個人的な動機もあると思う。けれどそれ以外にも、敢えて自分の専門を超え出て「ビッグ・ピクチャー」を描くことの意義はいくつかありそうだ。一つには、文字通り「すべて」について整合的な語り方を用意しておくことで、「価値」が絡む事柄など、科学者が沈黙を決め込んだり逆に口を滑らせたりがちなテーマについても、「科学者として言える範囲のことを言う」ための準備ができるという効果がありそうだ。もう一つは、アメリカなどに特有の事情ともいえるかもしれないが、「宗教」との対抗軸をつくるという意味があるかもしれない。科学とは相いれない「世界観」を提示する宗教に対抗するには、ニュートリノブラックホールだけについて語っているだけでは十分ではなくて、「すべてについての科学的語り方」を構築しないといけないという側面もあるのだろう。この2点については「訳者あとがき」での整理が分かりすかった。

本書は、理論物理学者によってとても緻密に描き込まれた「ビッグ・ピクチャー」である。ただし教科書ではない。この本自体から知識を吸収するというよりは、読んだあとに「著者の構図にほころびはないか?」とか「自分ならどう考えるか?」とかいろいろと考えるきっかけとすべき本だろう。

個人的には、もしかしたらこのビッグ・ピクチャーに収まらないかもしれない一つの疑問が気にかかっている。それは、「何が特定のレベルの記述を『有用』にするのか?」という疑問だ。そしてその答えをあくまで自然主義的に、たとえば人間の脳の性質に求めるとすると、「じゃあ人間の脳を記述するのに『有用』な概念は何か?」が問題になって、議論がぐるっと一周する。ここには、著者の「適宜自然主義」という刷毛で描かれた「ビッグ・ピクチャー」のほころびの気配がありそうだ……などと思ったりするが、まだまだ考えが熟さない。

*** 

 

以下は著者がGoogle社で行った講演の動画。英語ですが、本書のエッセンスが1時間にまとめられています。

www.youtube.com

*1:創発的と訳されることも多いが、翻訳書では「発現的」の訳が当てられている。

*2:本書での「自然主義」という言葉の使われ方、『自然主義入門』(植原亮、読書メモ)などで解説されている哲学的な立場としての「自然主義」がどれくらい一致しているのかは、ちょっとわからないが、ちゃんと考えてみるべきことだろうと思う。

読書メモ:脳の意識 機械の意識(渡辺正峰 著)

 

この本を書店でみて意外に思った。

ひところ意識の脳科学の翻訳本が固めて出された時期があったが、最近はひと段落した印象を受けていた。人工知能ブームのなかでも「機械が意識をもつ」という予測を含む「シンギュラリティ論」が一時期注目を浴びたが、今は落ち着いて、むしろ「弱いAI」路線にシフトしつつあるように見える。そうしたなか、本書のようなタイトルの本が出たのは驚きだった。それも日本人の著者による書き下ろし、しかも中公新書でだ。

著者は「意識の脳科学」を研究テーマとする脳神経科学者で、特筆すべきなのが、国内外の様々な分野のパイオニアに師事した経歴だ。あとがきには、師匠の名前として、合原一幸(脳の数理研究)、下條信輔認知心理学)、田中啓治(霊長類の脳測定)、そしてニコル・ロゴセシス(意識の脳科学)などのビッグネームたちが挙げられている。本書の内容も動物実験・心理学実験・哲学・情報理論・人工神経回路理論と幅広く、わたり歩いた多分野の知見が、著者のなかで融合していることが窺えた。こんな研究者がいたとは知らなかった。

本の内容も面白く、文章の切れ味も抜群で、一気に読まされた。と同時に、読後には身の毛のよだつような「怖さ」も感じた。

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中身を簡単にメモしておく。

第1章は、脳科学の研究課題としての「意識の問題」の紹介。「ニューロンとは」「シナプスとは」といった入門的解説にページを割いたうえで、この「ちょっとばかり手の込んだ電気回路にすぎない」脳(p.51)が、どのようにして「意識」、もう少し限定して言えば「クオリア」を生むのかが大問題なのだと説く。

第2章は、意識を生み出す脳部位を見つけるための一連の研究を振り返る。1990年代のロゴセシスによる「サルの両眼視野闘争」の研究により意識が本格的に研究対象となる。カギとなるのが「NCC(意識の神経相関)」の概念。とくに「一次視覚野(V1)」が意識に関わっているか否か(つまりNCCか否か)が焦点になってきたという。それぞれを支持する実験結果も出ていたが、著者らの実験では「意識」と「注意」の効果を分けることで「V1はNCCではない」との結論が得られた。どんどん複雑になる実験設定についていくのは難しかったが、研究の臨場感が味わえる解説だった。

第3章は、脳活動を測定するだけでなく、それに介入することによる意識の研究が紹介される。脳に磁気を与える刺激(TMS)により視界の一部が消えたり、何かが見えたりすることが知られており、局所的にTMSを与えることでNCCに関する情報を得ることができる。さらに著者らはオプトジェネティクスを使い細胞レベルでの介入に乗り出しており、ラットの「バックワードマスキング課題」という行動を利用して、部位特異的に活動を止めたときに意識(を持っていることを示すと思われる行動)が消えるかどうかを確かめ、それを通じてNCCの在りかを細かく突き止めていく予定だという。

 

……と、ここで終われば普通の(とても面白い)脳科学の本だろう。しかし、ここから本書はギアチェンジしていく。

 

第4章では、一転、ハード・プロブレムに踏み込む。どんなにNCCを突き止めても、それは「クオリア」を説明したことにならない。もっと言えば、従来の科学の方法でどんなに研究を進めても意識の問題は解けない。それは端的に「従来科学が客観のなかで閉じているから」だ(p.184)。意識を科学に組み込むには、新しい第一原理、著者の言う「意識の自然則」が必要になる。それ以上説明のつかない「法則」によって、脳には意識が生まれるのだという見方だ。

そして、ここから、ちょっと凄い議論が始まる。

生物の脳には何らかの自然則によって意識が生じている。では機械はどうか? 条件さえ満たせば機械も意識をもつだろう。ではその意識はどうやって検証すればよいか? それは、脳と機械を接続し、実験者の主観によって確かめるしかない。

…はあ?

このアイディアが思うほど荒唐無稽でないのは、「分離脳」に関する知見を下敷きにしているからだ。右脳と左脳の連絡を切った脳では、実質的に「二つの意識」が生じているらしいことが知られている。これは逆に言えば、健常者の脳の「半球」は、もう片側の「半球」の意識と普段は統合されているということだ。この理屈から次のことが言える。人間の脳を機械の「脳」につないだとき、機械の見ている世界が見えれば、それは機械の「意識」を覗いたことになるのではないか、と。

実際には、「高次の視覚野だけを密につなぐ」などの細かい条件はつく。とはいえ、この推論のロジックは通っているだろうか。私にはすぐには判断できない。

第5章では、さらに、著者が有望視する「意識の自然則」が展開される。良く知られているジュリオ・トノーニの情報統合理論(IIT)を説明したうえで、(統合された)「情報」が意識を生むのではなく、むしろ脳内の「アルゴリズム」が生むのではないかと著者は考える。

その意識の源泉とは、具体的には「生成モデル」である。生成モデルは、人工ニューラルネットワークの文脈でよく出てくる概念で、脳の高次(深層)のニューロンが表現する、低次のニューロンの活動(あるいは入力信号)の像のことだ。脳では、情報がニューラルネットワークを高次に進むにつれ、情報が抽象化される。たとえば、深層のあるニューロンは「猫」を表現するようになるといったことだ。そして、そもそもこの「猫のニューロン」をつくるプロセスが脳にはあり、それが生成モデルを作るということにあたる。著者の考えは、その生成モデル作成のプロセスが、意識を随伴しているのではないかというものだ。

この理論の妥当性も、私にはとても評価できない。ただ、非常に面白いのは、近年ディープラーニングを使って「ゴッホ風の絵」を作ったりしているあの手法が、もしかしたら単なる人間のおもちゃではなく、意識を生み出す宇宙の法則とつながっているかもしれないという、その可能性だ。本当にそうだとしたら面白い。

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本書は前半から後半になるにつれ、どんどんspeculativeになっていく。著者もある程度意図的に、ハードなサイエンスとSF的マッドさの要素を盛り込んだのだろうとは思う。

一見、本書は「意識について私たちは何もわかっていない」という主張と、「もしかしたら近いうちに機械が意識を持つかもしれない」という真逆の主張をしている。私としても、この二つの主張はつながらないし、論理の飛躍を見つけ、粗があれば批判したい気持ちが強くある。

しかし、次のことは間違いない。「機械と脳を接続する」という著者らの研究はちゃくちゃくと進んでおり、「意識の理論が正しいかどうか」には全く無関係に、何らかの結果は出てくるだろうということだ。つまり、原理がわかる前に、意識が何らかの変性を被るような実験が実現する可能性は高い(最初はネズミで、そのあと人間で)。その意味では、「意識とは何か分からない」と「機械が意識を持つかもしれない」は両立するのかもしれない。

そんな方法で脳の研究を進めてほしいかというと、自信をもって答えられない。脳に興味を持って以来初めて、「脳の仕組みを理解したい」と純粋に思えなくなっている自分がいる。