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読書メモなど

探究メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで解明したのか? 〈第5回:利根川ラボが発見した「エングラム細胞」〉

前回は、Eric Kandelによるアメフラシの研究を取り上げました。Kandel氏は、ミニマムな神経系をもつアメフラシを研究対象に選び、記憶の基本的メカニズムとしての「シナプス可塑性」について多くのことを明らかにしました。

1970年代以降、分子・細胞レベルの記憶研究は花開きました。ネズミなどの実験動物で研究が進展しただけでなく、fMRIという非侵襲的な測定技術が出てきたことで、人間でも本格的な研究が可能になりました。このブログでもそうした研究の歴史を簡単に追ってみようと思ったのですが、ここ50年の記憶研究の蓄積は想像したよりも膨大でした。それだけでなく、相反する説が並立していることもあり、それを簡単にまとめるのは至難の業だと思い知りました。

そこで、思い切って時計の針を進め、いま研究の最前線で行われていることを見たいと思います。具体的には、今回は、利根川進氏の研究室(以下「利根川ラボ」)が行ってきた一連の研究を取り上げます。理化学研究所とアメリカのMITに拠点をもつ利根川ラボは、現代の記憶研究を牽引している研究室の一つと言ってよいと思います。彼らの研究成果の意味を理解したいということが、このブログを書き始めた動機の一つでもありました。

記憶研究のフロンティア

Kandelがシナプス可塑性を見つけてから約半世紀たったいま、記憶研究のフロンティアはどこまで来ているのでしょうか。Kandel自身、2014年の総説論文*1の中で、次のように言っています(ちなみにKandel氏はまだ現役で研究をしているようです)。記憶研究にはまだまだオープン・クエスチョンが残っていると述べたうえで、こう書いています。

Recently developed tools for calcium imaging of large populations of neurons in behaving animals combined with optogenetic manipulation and activity-based genetic modification, supplemented with computational approaches, will likely cast light in the foreseeable future on these critical questions in memory research. (意訳)最近では、様々な実験ツールが開発されている。行動中の動物における大規模なニューロン集団からのカルシウムイメージング。光遺伝学的な操作技術や活動依存的な遺伝的改変技術。こうしたツールに計算論的なアプローチを組み合わせることによって、近い将来、記憶研究の核心的なクエスチョンが解明され始めるだろう。 

ここでKandelが言及している技術は、噛み砕いていえば、

  • (一つや二つではなく)たくさんのニューロン活動を同時に
  • (スライス標本や麻酔下などではなく)生きている動物から測定するとともに、
  • (全脳の細胞を無差別にではなく)特定のニューロンを狙って、恣意的なタイミングで活動をコントロールできる

ような技術です。こうした要件を満たす実験が、「カルシウムイメージング」や「オプトジェネティクス」とよばれるテクニックにより実現しており、Kandelがアメフラシの研究を始めたころには考えられなかったような記憶研究が可能になっています。なお、ここで「計算論的アプローチ」(computational approaches)の必要性についても触れられていることは注目に値すると思います。

そして、まさにこのようなツールの開発・利用で先駆けているのが、利根川ラボということになります。彼らはこのような技術を駆使して、Nature、Science級の研究成果を次々と出しています。以下、2012年以降に利根川ラボから出されたプレスリリースをいくつか拾ってみます。

  • 2012年03月23日 記憶が特定の脳神経細胞のネットワークに存在することを証明 ―自然科学で心を研究、心は物質の変化に基づいている―*2
  • 2013年07月26日 記憶の曖昧さに光をあてる -誤りの記憶を形成できることを、光と遺伝子操作を使って証明*3
  • 2014年08月28日 光で記憶を書き換える -「嫌な出来事の記憶」と「楽しい出来事の記憶」をスイッチさせることに成功-*4
  • 2015年05月29日 記憶痕跡回路の中に記憶が蓄えられる神経細胞同士のつながりの強化は記憶の想起には不要-*5
  • 2015年06月18日 光遺伝学によってマウスのうつ状態を改善 ―楽しかった記憶を光で活性化―*6 
  • 2016年03月17日 アルツハイマー病で記憶は失われていない可能性アルツハイマー病モデルマウスの失われた記憶の復元に成功-*7
  • 2016年09月30日 他人を記憶するための海馬の仕組み -記憶痕跡(エングラム)にアクセスし、社会性記憶を操作する-*8 

これらのプレスリリースのタイトルの内容をひとことで要約するとすれば、

  • 脳内に「エングラム細胞群」を見つけ、それを操作することで「記憶に介入」できるようになった

となるでしょうか。

具体的にはどんな実験がなされたのでしょうか。プレスリリースの説明が十分わかりやすいので、ここではごく簡単に実験の概要をまとめてみます。

  • 扱う動物はマウス。
  • 扱う脳部位は海馬(主に歯状回とCA1領域)。
  • 記憶の課題としては、主に「状況依存的恐怖条件づけ」(context-dependent fear conditioning)を採用。マウスをある部屋に入れ、脚への電気ショックを与える。すると、マウスはその部屋に入っただけで「すくみ行動」(freezing)をとるようになる。この記憶の形成には海馬が関わっていることが知られている。
  • 遺伝子改変したマウスをつくる。このマウスは、
  1. 特定の時間に活動した海馬のニューロンにチャネルロドプシンというタンパク質を発現させることができ、
  2. チャネルロドプシンが発現した細胞群は、ブルーライトを照射することで強制的に発火させることができる
  • この方法を使って、マウスが部屋を探索しているときに活動した細胞だけを標識しておき、その部屋で恐怖条件づけをする。あとからライトを当てて細胞群を活動させると、別の部屋にいても「すくみ」が生じる。これは、もとの部屋のことを思い出したためと考えられる。ちなみに、恐怖刺激を与えた部屋とは別の部屋でチャネルロドプシンを発現させたマウスは、ライトを当てても「すくみ」を生じない。

この方法を使って、2012年の論文では、海馬の歯状回という部位に、部屋の記憶の「エングラム細胞」を見つけたとしています。その後の論文では、部屋と結び付ける刺激を電気ショックではなくオスのマウスがメスのマウスと一緒に過ごすという「楽しい記憶」に変えたり、あらかじめマウスを「うつ病」や「アルツハイマー病」の状態にしておいてから記憶を操作するとどうなるか、などといった様々なバリエーションの研究が行われています。また、2016年の最後の論文では、恐怖条件づけ以外の実験パラダイムの研究成果となっています。これは具体的には、「他のマウス個体についての記憶を、海馬CA1領域への操作で書き換えることができた」とする内容で、ここにきて研究が新たなステージに入っていることを窺わせます。

実験の解釈

さて、2012年の研究で「エングラム細胞が見つかった」と言えるのはなぜでしょうか。

ある神経活動「a」が、脳の何らかの機能「A」の原因となっていることを実証するためには、

  • 神経活動aを阻害すると、(ほかの機能には影響を与えずに)機能Aが生じなくなる 
  • (他の神経活動は同じままで)神経活動aを引き起こすと、機能Aが生じる 

ことの両方を示す必要になります。前者は「loss of function」の証明、後者は「gain of function」の証明と言われます。この両方が示せてはじめて、aがAを引き起こす必要十分条件だといえるようになります。

2012年の研究で明らかになったのは、海馬歯状回の特定の一群の細胞を活動させると部屋の環境と条件づけられているはずの「すくみ行動」が引き起こされる、ということでした。このすくみ行動を「部屋の記憶」と読み替えれば、

  • 細胞群が活動 → 部屋の記憶が呼び起こされる

となります。よって、これは状況依存的恐怖条件づけ課題の記憶についての「gain of function」を証明した研究といえます。

では、loss of functionの証明はどうかというと、この論文内でそれが証明されているかどうかはちょっとわからないのですが、少なくとも他のいくつかの研究において、「海馬の細胞群の活動を止めると記憶が失われる」ことが分かっているようです(エングラム細胞について様々な研究は利根川氏の2015年のレビュー論文*9で網羅的に紹介されています。)

以上の証拠を合わせると、海馬の一群の細胞の活動は、ある種の記憶の想起を因果的に引き起こす、つまり「エングラム細胞」である、といえるわけです。ここで、「一群の細胞」とは記憶が形成されるときに活動していた細胞なので、記憶の符号化と想起が同じ場所で行われるということも分かります*10

海馬という「記憶工場」について分かったこと・分かっていないこと

うーん、理屈はわかるけど、それでエングラムを突き止めたと言えるのだろうか…?

この研究について初めて知ったとき、正直、筆者はそんなふうに思いました。

結局、一連の研究は何を明らかにして、まだ何がまだ分かっていないのでしょうか。あれこれ考えた結果、筆者は以下のような理解にたどり着きました。

海馬を「工場」に見立てます。「記憶工場」である海馬は、「経験」という原材料をもとに、記憶という「製品」をつくります。

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「A」という原材料(経験)に対しては、製品(記憶)「A」を、原材料「B」に対しては製品「B」が出力されます。

私たちはこの工場の仕組みに興味があるのですが、その中身はブラックボックスです。分かっているのは、間違いなく「製品」を作っているのがこの工場であるということ。なぜなら工場を破壊すると、製品(=記憶)が作られなくなるからです。もう一つ分かっているのは、この工場の中には、たくさんの従業員(=ニューロン)が働いていることです。従業員同士で誰と誰が連絡を取り合っているか(=シナプスを形成しているか)もある程度分かっています。しかし、従業員一人ひとりが何をしているのかはまったく分かりません。

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さて、「エングラム細胞」をめぐる一連の研究が達成したのは、この「記憶工場」で言えば

  • 各製品を作っている従業員のチームが特定できた

ということではないでしょうか。なぜそれが分かるかというと、

  • そのチームAが全員欠勤すると、製品Aができなくなる
  • チームAを強制的に働かせると、製品Aがつくられる

ことが判明したからです。ちなみに、チームAと別のチームBのメンバーは、一部重なっていることがありえます。複数のプロジェクトを兼務する従業員がいてもよいということです。

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これだけでも、はじめはブラックボックスだった工場(=海馬)のメカニズムについて、かなりのことがわかったと言えると思います。ですが、まだ不十分な点もあります。

  1. チームは特定できたが、従業員一人ひとり(ニューロン一つひとつ)が何をしているかは依然として分からない。製品製造のプロセスはチーム内でどのように分業されているのか。例えば、キーパーソンがいるのか、全員が平等に業務を分担しているのか、など。
  2. チームのメンバーが明らかにできたのは、ごく単純な製品(恐怖の記憶など)についてでしかない。もっと精巧な製品(複雑なエピソード記憶など)に対しても、同じようにチームが結成されるのかは分からない。

以上、ちょっとイメージが湧きやすいメタファーを考えてみたつもりなのですが、いかがでしょうか。

おわりに:「エングラム細胞」研究の今後

利根川氏が前述の2015年のレビュー論文*11で「今後の課題」について以下のように書いています。

While memory engram theory has clearly come of age, a number of important issues remain to be investigated. One is the nature of the ‘‘enduring changes’’ that occur in the engram cells and their connections.(…) Moreover, the integrative evidence for engram cells has been obtained to date in this one study, and only for contextual fear memory in DG (Ryan et al., 2015). Memory, however, appears in many different forms (e.g., emotional, procedural, working, semantic, perceptual), each supported by one or more distinct brain regions and systems(…)significant modifications of the technology may be needed to identify engram and engram cells for each type of memory. 

引用箇所では、今後の課題として

  • どのようなメカニズムでエングラム細胞が作られるのかや、エングラム細胞の生理学的な性質を明らかにすること
  • 恐怖条件づけ以外の種類の記憶に対するエングラム細胞や、他の脳部位におけるエングラム細胞を研究するための手法を開発すること

が挙げられています。前者については、「シナプス可塑性により機能的なニューロンのグループ(=セルアセンブリ)が形成される」というのが標準的なストーリーのようです。今後も利根川ラボを筆頭に、世界中の研究室から研究成果が出てくると思われます。

一方、本ブログの探究はどこへ向かえばよいでしょうか。利根川氏が挙げている二つの課題に対応するかたちで、筆者としても二つの疑問を持っています。

  • 疑問1:エングラム細胞のようなものがあるとして、その形成や読み出しのプロセスについてどんな可能性が考えうるか? つまり、記憶メカニズムの理論研究はどれほど進んでいるのか。
  • 疑問2:人の記憶についてはどこまでわかっているのか? ネズミの「エングラム細胞」の研究は、人の記憶について何を教えてくれるのか。

この二つを次回以降の課題としたいと思います。

*1:Kandel, Eric R., Yadin Dudai, and Mark R. Mayford. "The molecular and systems biology of memory." Cell 157.1 (2014): 163-186.

*2:(原論文)Xu Liu, Steve Ramirez, Petti T. Pang, Corey B. Puryear, Arvind Govindarajan, Karl Deisseroth, and Susumu Tonegawa “Optogenetic stimulation of a hippocampal engram activates fear memory recall”Nature,2012

*3:(原論文)Steve Ramirez, Xu Liu, Pei-Ann Lin, Junghyup Suh, Michele Pignatelli, Roger L. Redondo, Thomas J. Ryan, and Susumu Tonegawa. "Creating a false memory in the hippocampus".Science, 2013

*4:(原論文)Roger L Redondo, Joshua Kim, Autumn L Arons, Steve Ramirez, Xu Liu, Susumu Tonegawa. "Bidirectional reversal of the valence associated with the hippocampal memory engram." Nature, 2014

*5: Tomás J. Ryan, Dheeraj S. Roy, Michele Pignatelli, Autumn Arons and Susumu Tonegawa, "Engram Cells Retain Memory Under Retrograde Amnesia", Science, 2015

*6:Steve Ramirez, Xu Liu, Christopher J. MacDonald, Anthony Moffa, Joanne Zhou, Roger L. Redondo & Susumu Tonegawa, "Activating positive memory engrams suppresses depression-like behavior", Nature 2015

*7:Dheeraj S. Roy, Autumn Arons, Teryn I. Mitchell, Michele Pignatelli, Tomás J. Ryan and Susumu Tonegawa, "Memory retrieval by activating engram cells in mouse models of early Alzheimer’s disease", Nature, 2016 

*8:Teruhiro Okuyama, Takashi Kitamura, Dheeraj S. Roy, Shigeyoshi Itohara, and Susumu Tonegawa, "Ventral CA1 neurons store social memory.", Science, 2016

*9:Tonegawa, Susumu, et al. "Memory engram cells have come of age." Neuron 87.5 (2015): 918-931.

*10:なお、ここですごく気になるのは、それぞれの記憶に「何個のニューロンが関わっているのか」ということです。論文を細かく読めば分かるのかもしれませんが、残念ながらそこまで調べられていません。

*11:Tonegawa, Susumu, et al. "Memory engram cells have come of age." Neuron 87.5 (2015): 918-931.

探究メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで解明したのか? 〈第4回:Kandelの「徹底した還元主義的アプローチ」とその限界〉

前回は、「記憶の物理的実体(=エングラム)はシナプスにある」という考え方を紹介しました。それとともに、シナプスのレベルだけでなく、より小さな分子レベル、あるいはより大きな細胞集団のレベルなど、異なる階層ごとにエングラムを見出しうることも指摘しました。

【補足】 ×「統一見解」→○「暫定的な見解」

前回の記事では、上記のような考え方を「統一見解」として紹介したのですが、この点についてあるコメントをいただいたので、本論に入る前に触れておきたいと思います。

海馬の記憶メカニズムを第一線で研究されている@Kazu_ZT先生に、今後の内容についてtwitterで質問をしました。それに対するたいへん丁寧な回答をいただくとともに、「あくまで個人の考え方です」とされたうえで、次の旨の指摘をいただきました。

  • 「いまだ記憶のメカニズムは謎だらけ」であって、「現在の「エングラム」の見方も、今までの研究で利用された学習課題でのみ通用するもの」であること。

現役の研究者にこのような意見をいただいたということは、「シナプスの集団がエングラムである」という考え方は、とても「統一見解」とは言えないようです。むしろ「暫定的な見解」くらいに捉えておいたほうが良いのかもしれません。ついでに言えば、「エングラム」という言葉の使い方も一様ではないようです。たとえば、今回取り上げるKandel氏は、筆者の知る限り「エングラム」という言葉をそもそも用いていません(…なぜでしょうか?)。

このように、ごく基本的な部分ですら、記憶のメカニズムには確かな合意が存在しないということは、肝に銘じておきたいと思います。これはある意味、すごく面白いことだと思います。たとえば「意識」のように「難しすぎて扱われてこなかったテーマ」であれば未解決なのは納得できますが、100年以上前から研究者たちが継続的に取り組んできたにも関わらずまだ根本的なところで謎が残っているというのは、「記憶」という研究テーマの奥深さを物語っている気がします。

とはいえ、「シナプス可塑性が記憶のメカニズムの根本にある」とする見方を、現在の多くの研究者が共有していることは事実だと思います。今回は、そうなってきた経緯を見ていきます。

シナプス可塑性というアイディア

シナプス可塑性」というアイディア自体はいつからあったのでしょうか。

この話題になるとまず挙がるのが、Donald Hebb(ドナルド・ヘブ)という心理学者と、彼の1949年の著作『行動の機構』です。実際、可塑性をもつシナプスは「Hebbシナプス」とよばれたりします。しかし、この『行動の機構』は、いざ読んでみるとかなり難解な本で、Hebbの理論的貢献がどこにあるのかも分かりにくいところがあります。Hebbの理論は、「Hebbシナプス」よりも「セルアセンブリ」という考え方に力点があるように思うですが、意図的か意図せずか両者が一緒くたに引用されているケースが多い気がします。さらに個人的印象になりますが、脳科学におけるHebbの業績の扱いは、この分野の進み方を象徴しているような気がしています。それは、「過去の研究者がスペキュレーション(想像的な推論)に基づいて構想した概念を、都合良く参照しているうちにいつしかそれが既成事実化され、その上に新しい実験の解釈が積み重なっていく」というあり方です。これはまったく素人の感想にすぎないのですが……。

ともかく、一つはっきりしているのは、「シナプス可塑性」という考え方自体はHebbのオリジナルではないということで、神経細胞ニューロン)の発見者であるCajal(カハール)が1894年の講義で明確にその機構の可能性を予言しており、1948年にKonorskiという人が"synaptic plasticity"という言葉を初めて用いたとされています。

このように、シナプス可塑性のアイディア自体は、ニューロンの存在と同じくらい古くから考えられていたようです。しかし、実際にシナプスが可塑性をもつかどうかは、長らく明らかにされていませんでした。

シナプス可塑性の存在はどう証明され、記憶メカニズムの主役だとみなされるに至ったのでしょうか。

どの本を読んでも必ず紹介されているのは、

  • Eric Kandel(エリック・カンデル)のアメフラシの研究
  • Bliss&Lomo(ブリス&レモ)のLTPの発見

です。今回は主に前者についてみてきます。

Kandelの戦略

シナプス可塑性を初めて証明したのは、ポーランド出身のユダヤ人の神経科学者Eric Kandelであるとされます。Kandelの名前は、『カンデル神経科学』という教科書の著者として広く知られています。筆者の在籍していた大学院でも、この教科書を輪読していく講義がありました。

Kandelの研究については、彼の自叙伝がとても参考になります。 

In Search of Memory: The Emergence of a New Science of Mind

In Search of Memory: The Emergence of a New Science of Mind

 

 Kandel先生は今でこそ細胞生理学の権現のような人ですが、最初は精神分析の臨床医だったそうです。もともとフロイト精神分析に魅せられていた彼は、「エゴ」「イド」などの心の働きが脳でどのように実現しているのかという興味から、細胞生理学の道に入っていきます。しかし「自我」や「意識」などを生物学的に扱うのは時期尚早であると感じた彼は、「記憶」を生涯の研究テーマとすることに決めます。なお、この自伝で筆者が好きなエピソードがあります。Kandelは利根川進氏との交流があり、共著論文も書いたことがあるそうのですが、免疫学でノーベル賞をとり、次は脳科学、それも「意識」をターゲットにしようとしていた利根川氏に対し、「意識はまだ難しいよ」と進言したのは他ならぬKandelだったそうです。

さて、Kandelが記憶の研究を始めた当時、患者HMの研究成果(Scoville & Milner 1957)が一世を風靡していました(HMについては昨年出た"Patient H.M. " (by Luke Dittrich)という本が大変面白いです。読書メモはこちら)。HMの症例が明らかにしたのは、どうやら記憶の形成には「海馬」が重要だということで、当時一般的であった記憶の非局在説に疑念を突きつけた点で大きなインパクトがありました。

そこで、Kandelも海馬の細胞生理学を始めます。やってみると、ニューロン自体の性質は、海馬も他の脳部位と変わったところがないことがわかります。そこで、Kandelはむしろ神経細胞同士の「つながり」が重要なのではと考え、「シナプス可塑性」を、記憶のメカニズムとして有望視し始めます。

しかし、当時の技術では、Kandelが扱っていたネコの海馬ではシナプスの研究を行うのは困難でした。そこで、彼が言うところの「徹底した還元主義的アプローチ」(radically reductionist approach)を取ります。具体的には、アメフラシ――グーグル画像検索などすると出てきますが、ナメクジみたいな軟体動物です——を使うことにしたのです。その理由は、ニューロン数の少ないことと、ニューロンのサイズが大きいことでした。当時アメフラシを研究していたのは世界2人しかいなかったそうで、そのうちの一人のフランス人Taucに面会を申し込み、共同研究を始めます。

アメフラシの潜在記憶の研究

シンプルな動物とはいえ、アメフラシにも記憶があります。具体的には、単純な非連合学習と古典的条件付けを行うことが知られています。ここで、「学習」と「記憶」の違いが気になるところですが、Kandelは「過去の経験によって行動を変えるのが学習」であり、「それが持続すれば記憶である」というようにあっさり説明しており、ここでは両者はほぼイコールと考えてよさそうです。

そうした「学習=記憶」の一つは、例えば次のようなものです。アメフラシの「水管(サイフォン)」とよばれる部分を刺激すると、アメフラシは驚いて「エラ」を引っ込めます。この行動は「エラ引き込め反射」 (gill withdrawal reflex)とよばれます。ただし、刺激が弱い場合には引き込めは起こりません。

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アメフラシで知られている「古典的条件付け学習」では、ここに尾(tail)への刺激を組み合わせます。何度か「尾を刺激→水管を刺激」という順序での刺激を繰り返すと、尾を刺激した後での水管の刺激が弱くても、エラ引き込め反射が起こるようになります。

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この効果がかなりの時間保持されることから、ある種の「学習=記憶」としてみなせる、ということになります。

このようなアメフラシを使うことに決めたKandelは、一度「行動」の部分は忘れて、純粋な電気生理学をやりました。つまり、アメフラシを解剖し、その神経細胞に電極を刺して、シナプスの性質を調べたのです。すると、二つのニューロンの間に、過去の刺激に応じた結合性の変化(具体的にはsensitization、habituation、classical conditioningに相当する変化)が起こることがわかりました。これが、シナプスが可塑性をもつことの初めての証明となります。

この可塑性は、実際にアメフラシの「記憶」に関わっているのか。それを確かめるためにKandelが次にやったことは、

でした。この作業に10年以上の歳月を費やし、記憶を研究するにふさわしいアメフラシの「行動」と、それに関与している神経経路を突き止めていきます。

その一つが、先に挙げたエラ引き込め反射の古典的条件付け学習でした。この行動には、「水管からの感覚ニューロン」、「エラにつながる運動ニューロン」、「尾の感覚ニューロンから接続を受ける介在ニューロン」の三つが関わっていました。

以下はかなり単純化した説明です。

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まず、水管の感覚ニューロンに入力があると、シナプスに伝達物質(グルタミン酸)を出し、エラの運動ニューロンに伝わります。

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このシナプス付近には尾からの介在ニューロンも軸索を伸ばしており、尾からの入力に際してセロトニンという物質を放出します。このセロトニンがあると、水管→エラのシナプスが強化(促通、facilitate)されます。それにより、弱い水管への刺激でも、尾への刺激と組み合わさることによって、エラ引き込めが起こります。

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Kandelは、このメカニズムを「異シナプス性促通」とよび、短期記憶の仕組みであるとみなしています。つまり、セロトニンが放出されている」という状態が、「尾が刺激された」という「記憶」の実体である、ということになります*1

その後、Kandelはこのセロトニンがどう作用しているのかを詳細に調べていき、細胞内の「セカンドメッセンジャー」の機構を突き止めたり、この学習が長期記憶になる仕組みとしてタンパク質の合成により新しいシナプス結合が作られる機構も明らかにしたりしています。そうした一連の研究に対して、2000年にKandelはノーベル医学・生理学賞を受賞しています。

以上は、「世界で初めて、ある特定の記憶のメカニズムを、細胞生理学レベルで明らかにした研究」と言えます。目の付け所といい、徹底的に調べつくす根気といい、驚くべき業績だと思います。

特筆すべきは、アメフラシの場合、行動レベルでの学習と、ニューロンレベルでの「学習」が一対一で対応している、ということです。どういうことかと言うと、

       ↓

  • 「細胞Cが、細胞Aと細胞Bの連合を学習した」

のように、「刺激」や「行動」という主語を、「ニューロン」に置き換えることができるということです。こうした対応関係を、Kandelは"neural analogs of learning" ――直訳すればニューロンにおける学習の類似物」——と呼んでいます。このアナロジーが成り立つために、「尾の刺激→水管刺激」という「記憶」の「エングラム」が、特定の三つの細胞が関与するシナプスの強度――さらに言えば、その細胞内の分子の振る舞いとして――完璧に突き止められた、ということになるのです*2

カンデルのアプローチの限界

さて、次に気になるのは、アメフラシの「記憶」が、もっと複雑な、私たちが興味のある種類の「記憶」とどれくらい共通しているのか、ということではないでしょうか。

シナプス可塑性」という仕組み自体に関しては、他の動物・他のニューロン・他の学習課題でも関与していることが次々に明らかになっていきました。その口火を切ったのが、BlissとLomoがネズミの海馬の標本スライスで長期増強(LTP:long term potentiation)という現象を発見したこととされています。LTPはほとんどの教科書に出てくるのでここでは割愛します。LTPやその他のシナプス可塑性が、様々な動物の様々な記憶に関わっている事例が、今日まで数多く明らかになっています。

とはいえ、カンデルがアメフラシで行った手法で複雑な記憶が説明できるかというと、そうは思えません。それは、筆者が思うに、それらの複雑な記憶では、Kandelの言う"neural analog"が成り立たないからです。たとえば、「哺乳類のエピソード記憶」ともなれば、アメフラシの反射行動とは比べ物にならないほど多くの細胞が関わっているはずだし、その細胞も生得的に決まったものではないと考えられます。

したがって、単一のシナプスではなく、「シナプスの集団」という階層を見ていく必要が出てきます。Kandelの言い方を借りれば、"neural circuit analogs of learning" (=学習の神経回路的類似物)が必要、などと言えるでしょうか。

 

おわりに

以上、記憶研究の一つの成功事例とされるKandelのアメフラシの研究について、簡単に見てきました。Kandelのアプローチは画期的であり、非常に多くのことを明らかにしました。その後Kandelは、1990年代にはアメフラシの研究に一区切りをつけ、ネズミの海馬などへフィールドを移してきています。そこでも、アメフラシで用いた生理学的・細胞分子学的アプローチは多くを明らかにすると思いますが、複雑な記憶に関しては、うえで述べたような理由から、アメフラシの学習のときのような「完全な解明」は無理だと考えられます。

そこでカギとなるのが、Hebbが提案したもう一つ仮説、「セルアセンブリ」です。最近の記憶研究は、主にこの「セルアセンブリ」のレベルでエングラムを探すものに移っているようです。

次回からはいよいよ、現代の記憶研究を見ていくことにします。

*1:なお、ここまで書いて何なのですが、この説明には腑に落ちないことが一つあります。尾と水管の刺激が「結び付けられる」のが古典的条件付けのはずで、「尾と水管の刺激のタイミングが同期していることによってシナプスが促通する」メカニズムが必要だと思うのですが、それについて説明されていない点です。長期記憶のメカニズムも含めて、どの文献を読んでも、そこの説明がどうなっているのかを突き止めることができませんでした…。

*2:ただし前述のようにKandel自身はエングラムという言葉は使っていません。

読書メモ:『現代思想 2017年3月臨時増刊号 知のトップランナー50人の美しいセオリー』

  ※記憶の脳科学の話は一回お休みとします。平常運転の読書メモです。

 

 

現代思想」の増刊号。様々な分野の学者・研究者が、「美しいセオリー」をテーマに、短い文章を寄せている。

お題を決めて寄稿を集めるこのフォーマットは、英語圏の名だたる科学者たちの出版エージェントを一手に手掛ける、ジョン・ブロックマン氏の"annual question"を踏襲したものだ。

寄稿者は、物理学者、脳科学者、数学者、哲学者、社会学者など、日本の知性を代表すると言ってよいような豪華メンバーが、気鋭から大御所まで50名。面白くないわけがない。

完読はできていないものの、興味を惹かれるものから順番に40本ほど読んだ。(目次はhttp://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3013で見ることできます。)

「美しいセオリー(理論)」として、アインシュタインの相対性原理やダーウィンの進化論などの定番を挙げる論者もいれば、「美しい理論とは何か」や「美しいとは何か」や「理論とは何か」を考察している論者もいる。さらに「理論は美しくあるべき」という先入観に対して、異論・違和感・懸念を表明している論者が少なからずいたのが印象的だった。

各論考に対する私の感想はいくつかに分かれた。

  1. 著者ならではの視点に、「この人らしいなあ」と思いながら心地よく読めたもの
  2. 平易に読めたが、あとからじわじわ新しい発見が得られたもの
  3. 難解で、「やっぱり何言っているかわからない」と思ったもの
  4. 度肝を抜かれ、意表をつかれたもの

1.は例えば、塚田稔氏、長谷川眞理子氏、細谷曉夫氏、津田一郎氏など。彼らの研究のバックボーンにある「美しいセオリー」を、著者らしい言葉で解説している。

2.は例えば、池田清彦氏の言う「学問が進むと美しい理論は破綻する」という逆説的な事実。または、山本貴光氏の「理論の理論」、つまり「人が理論を生み出すときの方法論」という着眼点など。また、高瀬正仁氏の、客観的に美しい数学理論というものはなく、「「無」から「有」を生み出そうとするかのような数学的想像の源泉」が、数学者にとって「美」なのだ、という指摘は目から鱗だった。

3.はいくつかあったけど省略。

4.は、例えば山極寿一氏の短い文章。常識を180度反転させるセオリーに衝撃が走った。あるいは、あえて今「功利主義」に光を当てる意味を論じた吉川浩満氏の論考。また一番驚いたという意味では三浦俊彦氏の統計学クイズの解説は衝撃的だった。

全体を通して一つ選ぶとしたら、坂井豊貴氏の「美は重要ではない」と題されたエッセイを挙げたい。経済学者が美しい理論に魅せられてしまうことの理由と危険性を見事に描いていて、ある意味で、この特集号全体のトーンが集約された文章になっていると感じた。

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ロックマンの"annual question"はどうしても回答に粗密・軽重があるのに対して、本書はどれをとっても読み応えがあった。まったく本家に負けてない、と思った。また作ってほしい。

探究メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで解明したのか? 〈第3回:記憶はシナプスに宿るという統一見解〉

前回は「エングラム」という概念を紹介しました。記憶の研究者たちは、一貫して、このエングラム、つまり脳の中の記憶の物理的実体を探してきました。

エングラムの所在についての「統一見解」

では、エングラムの所在について、現在の脳科学はどう考えているのでしょうか。

一例として、2016年に出された次の論文を見てみます。

  • Mu-ming Poo. "What is memory? The present state of the engram." BMC biology 14.1 (2016): 40. (corresponding author Michele Pignatelli, Tomás J. Ryan, Susumu Tonegawa,corresponding author Tobias Bonhoeffer, Kelsey C. Martin, Andrii Rudenko, Li-Huei Tsai, Richard W. Tsien, Gord Fishell, Caitlin Mullins, J. Tiago Gonçalves, Matthew Shtrahman, Stephen T. Johnston, Fred H. Gage, Yang Dan, John Long, György Buzsáki, and Charles Stevens. )

この『記憶とは何か?エングラムの現況』と題された論文には、第一線の神経科学者たちが「エングラムはどこにあるか」についての意見を寄せています。寄稿者には利根川進氏の名もあります。編者のMu-ming Poo氏は、冒頭で次のように述べています。

There is a clear consensus on where the memory engram is stored—specific assemblies of synapses activated or formed during memory acquisition—and a substantial body of knowledge on how the engram is generated and maintained in the brain. However, knowing the building blocks and their properties is far from understanding the architecture of the “memory palace”. (粗訳:記憶エングラムがどこに貯蔵されているかに関しては明確なコンセンサスが存在する。それは、エングラムは記憶の獲得時に活性化あるいは形成される特定のシナプスの集合にある、というものである。また、エングラムが脳内でどのように生成され、保持されるのかに関しても、多くの体系化された知識が得られている。しかしながら、エングラムの部品やその性質を知ることと、「記憶の宮殿」のアーキテクチャを知ることはまったく別である。)

前半部分を読むと、「エングラムはシナプスの集団に存在する」という見方がコンセンサスになっているとされています。

説明は不要だと思いますが、シナプスとは、神経細胞ニューロン)間の結合部のことです。シナプスは可塑性、つまり、様々な条件によってその強度が変える性質が知られています。シナプスの「強度」とは、ニューロンが隣のニューロンに信号を伝えるときの伝わりやすさのことです。このメカニズムを通して、脳は記憶をシナプス強度のパターンとして保持することができます。これが、現在の神経科学者たちの一致した見解となっているようです。

ここで「記憶の種類」や「生物種」についての限定がないことは特筆すべきと思います。つまり、このメカニズムは潜在的記憶/顕在的記憶、短期記憶/長期記憶、非脊椎動物の記憶/哺乳類の記憶といった区別を問わず、あらゆる記憶に共通するものなのです。これはなかなかすごいことで、この機構は、「生物の体は細胞でできている」「遺伝情報はDNAで伝達される」などと並ぶような、生物学の中でもとくに普遍性の高い原理と言えるかもしれません。

もちろん、先の引用の後半でMu-ming Poo氏も述べているとおり、「シナプス可塑性が記憶を支えている」という事実だけをもってして記憶が「解明」されたことにはなりません。たとえば、自動車が走る仕組みを説明する際、「ガソリンが必要」というだけでは不十分で、「エンジンの構造」や「燃料の化学エネルギーが力学的エネルギーに変換される仕組み」を説明しなければなりません。それと同じで、

  • シナプスの集合は、具体的に、どのように記憶を形成しているのか?

が次なる疑問となります。そこのところを、利根川氏はじめ第一線の研究者たちがどう考えているのかを調べるのが、この連載の終盤での主題になると思います。

そこに行く前に、ここでちょっと立ち止まって、次のことも押さえておきたいです。

  • なぜそれシナプス可塑性が記憶のメカニズムだということ)が言えるのか?

つまり、どんな実験事実を根拠に「シナプス可塑性が記憶を支える」ということが定説になったのでしょうか。それ以外の可能性は本当に排除されたと言えるのでしょうか。

シナプス説 vs 分子説

ある脳内現象がエングラムであると言えるためには、人(や動物)の経験に応じて、その現象が何らかの変更を受け、その変更をあとから何らかの方法で読み出せる、ということが必要です。第1回では、フォン・ノイマンが「記憶装置」の候補として様々な可能性を列挙したことを紹介しましたが、ノイマンの書きぶりからは、当時はとくに「シナプス説」が有力というわけではなかったことが窺えます。

シナプス説が常識になる以前、それに並ぶ仮説として「分子説」というものがあったそうです。これは、記憶が脳内の「分子」に蓄えられているという考え方で、DNAの発見に大きく影響を受けています。遺伝情報がDNAという巨大分子によって担われているのと同じように、脳内の記憶も、何らかの分子が担っているのではないかという発想です。とくに1960年代から70年代にかけては、細胞内のRNA分子が記憶の貯蔵に関与しているのではないか、という説が検討されていました。

なかでも興味深いのは「記憶の転移(memory transfer)」に関する研究です。これは、ある記憶が記銘されているRNAを他の動物に注入することでその記憶を移すことができる、というアイディアでした。たとえば、1962年にMcConnellという人は、扁形動物のプラナリアに条件付け学習を行い、その体を別のプラナリアの個体に食べさせて移植する、という実験を行いました。すると、驚くべきことに、もとの個体の学習結果が継承されました。こうした研究成果をもって「RNA=記憶分子」ではないかという機運が高まったそうなのですが、その後、McConnellの実験を含め、一連の研究の解釈に誤りがあったことが判明します。たとえば、プラナリアRNA移植の実験は、移植操作自体によって学習が転移したかのような効果が出てしまっていた、と解釈されているそうです*1

分子説は棄却されたのか

RNAが記憶分子であるという考え方はおおむね否定されました。それでは、「エングラム=分子」説は、全体として棄却されたと言えるのでしょうか。

二つの意味で、そうではないと思います。

第一に、依然として「記憶分子」が存在する可能性が残されています。例えば前述の"What is Memory"論文のなかで、Andrii RudenkoとLi-Huei Tsaiらは、ニューロンの核の中にあるDNAのエピジェネティックな修飾が、記憶を担っている可能性があることを提唱しています。これは「分子説の見事な復活」とも言えるかと思います。

第二に、シナプス説と分子説は必ずしも矛盾するものではない」ということがあります。

このことをはっきり書いているのが、『脳の可塑性と記憶』という本です。 

脳の可塑性と記憶 (岩波現代文庫)

脳の可塑性と記憶 (岩波現代文庫)

 

この本は、昭和の神経科学者、塚原仲晃(つかはら・なかあきら)氏が30年ほど前に書いたものです(2010年に岩波書店から復刊)。実は著者が執筆途中で御巣鷹山の墜落機に乗り合わせたため死去し、一部の章が未完に終わっています。非常に分かりやすく、かつ詳細に記憶の脳科学を解説しており、「こんな学識の高い神経科学者がいたのか!」と驚きます。この本の現代版を、ぜひどなたかに書いていただきたいです。(そうすれば、このブログは不要になります(汗)。)

説明の「階層」

さて、実は記憶の「分子説」「シナプス説」という言葉遣いは、実はこの本に倣ったものでした。塚原は、両方の説について説明したうえで、両者が必ずしも矛盾しないと言います。

記憶の分子説とシナプス説との論争は、かつての光の粒子説と波動説に似た情況にあるといえようか。(…)量子力学の登場は、まったく異なる次元でこの二つの対立を止揚したのである。(…)同様に、シナプスとは脳における物質=分子の存在様式であり、これがその物質=分子と切り離しては考えられないからである。(…)ただ、この二つの説は、いまだ統一的に説明されるレベルにまで到達していない。統一されるためには、それぞれの立場での問題点が浮き彫りにされなければならないからである。(p.101)

量子力学を引き合いに出してちょっと高尚な感じに書いていますが、ここで著者が言おうとしているのは、具体的には、記憶の説明には分子のレベルの説明とシナプスのレベルの説明があり、両立し得るということです。これは、シナプスの現象も、さらに細かく見れば分子の現象として記述できるからです。さらに以下のように続けています。

脳を研究する上で分離できるいくつかの階層がある。それぞれの階層には、基本的素子が存在していて、神経細胞やそのシナプスは一つの基本的な階層であり、また蛋白質核酸といった分子はその下の階層での構成要素である。ことの順番からいえば、記憶が神経細胞のレベルで明らかにならないで、分子のレベルで明らかになることはありえないのであって、ひとまず神経細胞のレベルで把握された上で、その分子的機序が明らかにされたとき、はじめて光の粒子説と波動説とが統一されたような形で終結するのではあるまいかと考えられるのである。

そして当然、階層はシナプスでは終わりません。

しかし、シナプスの可塑性が記憶とか学習へつながっていくためには、次の階層、すなわち神経回路網のレベルでの可塑性が問題になる。(p.102)

このように、「階層」というのはとても大事な考え方だと思います。極言すれば、脳内現象のあらゆる階層それぞれにエングラムが見出せるのかもしれません。

おわりに

以上の塚原の論点を踏まえて、最初に述べた「シナプス可塑性=エングラム」という「統一見解」にあらためて戻ってみます。すると、これはつまり、

数ある階層のうち、少なくとも「シナプスのレベル」では、シナプス可塑性がエングラムとなっている

ということだと解釈できます。他の階層のことは分からないけれども、少なくともシナプスという階層において、普遍的な記憶のメカニズムが存在している、ということなのだと思います。

シナプス可塑性が学習や記憶に重要だということを確証したのは、1970年代以降の一連の研究でした。次回はその流れを見ていきたいと思います。

*1:Chapouthier, Georges. "From the search for a molecular code of memory to the role of neurotransmitters: a historical perspective." Neural plasticity 11.3-4 (2004): 151-158.

探究メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで解明したのか? 〈第2回:エングラムとは何か〉

前回フォン・ノイマン著作を取り上げ、彼が「脳の「記憶装置」は何か?」を問うたことを紹介しました。ノイマンはコンピュータから発想したので、「記憶装置」(原文だとおそらく単に“memory”=メモリ)という言い方をしていましたが、神経科学の本でよく使われているのは記憶痕跡(memory trace)、あるいはエングラム(engram)という言葉です。

「エングラム」は聞き慣れない言葉ですが、20世紀前半のドイツの生物学者、リチャード・ジーモン(Richard Semon)による造語だそうです。『つながる脳科学』(講談社、2016)で利根川進氏は次のように解説しています。

ジーモンが名づけた「エングラム(記憶の痕跡)」とは、記憶に伴う脳内の変化のことです。記憶そのものの情報といってもいいでしょう。エングラムという言葉は、おそらくデザインを石などに刻む、彫刻する」という意味の英語「engrave」からの造語です。(p.24)

つまりエングラムとは脳の中の記憶の物理的実体のことであり、ノイマンの「記憶装置」と同じものだと思ってよさそうです。ちなみに、同書ではこの引用箇所のすぐあとで、利根川氏は

そのエングラムを保持するニューロン群、「エングラムセル」を〔私たちが〕発見しました

と続けているのですが、その話はまたあとで。

「エングラム」とはいかなる概念か

ここでちょっと気になるのが、エングラムという概念の定義です。エングラムという言葉が初めて登場するのは、1921年のジーモンの論文の中だと言われています。

しかし、脳の中に記憶の物質的実体があるという考え方自体は、ジーモン以前からあったようです。そうした考え方の元祖として、解説書でよく出てくるのはデカルトです。たとえば、池谷裕二氏の『記憶力を強くする』(講談社ブルーバックス、2001年)では、デカルトが『情念論』という本のなかで「記憶の痕跡」について語っていることが紹介されています。デカルトは記憶痕跡を脳の中の「気孔」や「精気」といったものの働きとして説明しており、池谷氏はこれをシナプス可塑性を先取りした考え方だとして注目しています(『記憶力を強くする』p.148あたり)。

 

記憶力を強くする―最新脳科学が語る記憶のしくみと鍛え方 (ブルーバックス)
 

脳の中に記憶の痕跡があるという考え方が、少なくともデカルトの時代からあったなら、なぜわざわざそれに学術用語を割り当てる必要があったのでしょうか。ジーモンの記憶理論を詳しく論じた、次の論文を見つけたので読んでみました。

Schacter, Daniel L., James Eric Eich, and Endel Tulving. "Richard Semon's theory of memory." Journal of Verbal Learning and Verbal Behavior 17.6 (1978): 721-743.

出版が1978年とかなり古いものですが、著者のダニエル・シャクターはジーモンについての伝記(“Forgotten ideas, neglected pioneers: Richard Semon and the story of memory”, 2001)の著者でもある神経科学者、また、共著者のエンデル・タルヴィングは「エピソード記憶」の概念の提唱者として有名な人です。

この論文では、まず、「エングラム」はメモリートレース(=記憶痕跡)と同義である、ということが書かれています。ジーモンはよく「忘れられた研究者」(シャクターの著書のタイトルでも“neglected pioneers”とされています)と言われるのですが、その理由の一つが、「エングラム」など独自の用語を作りすぎたからではないか、と著者らは推測しています。

そのほか、この論文を読んで分かるのは次のことでした。 

  1. 当時は、記憶が物質的であるということは常識ではなかった。記憶の実体がphysicalなものかpsychicalなものか、という未決着の論争があった。
  2. ジーモンは単に「エングラム」という言葉をつくっただけでなく、記憶のメカニズムについての具体的な理論を提唱していた。とくに記憶の「想起(retrieval)」のプロセスに着目した点で当時としては新しく、今日の記憶研究を先取りする考え方だった。

1.のpsychicalというのは、心的、あるいは霊的と訳せばよいでしょうか。つまり、20世紀初頭においては、「脳がすべて物質の働きで説明できる」という考え方はそれほど自明ではなかった。そのため、物質的な記憶痕跡、つまり「エングラム」の存在自体が、仮説(セオリー)と言える状態だったようです。

2.の点においては、ジーモンは記憶の本質を捉えていました。しかし、肝心の「エングラムの正体」については、彼は憶測を述べるのを避けたそうです。

Semon declined to hypothesize about the precise form of this biological storage, arguing that in the limited state of then contemporary physiology, such speculation was unwarranted. (粗訳:ジーモンは、この生物学的な〔記憶の〕貯蔵の具体的な形式については、仮説を立てることはしなかった。当時の生理学の限定的な状況では、そうした推測を裏付けることはできない、と彼は主張した。)

「エングラム」という言葉は残った

ジーモンの理論は、シャクターら一部の研究者を除いてはあまり省みられることなく、忘れられました。しかし彼の作った「エングラム」という用語だけは残り、神経科学の標準的なボキャブラリーとして定着したようです。

記憶の研究者たちは一貫して、この「エングラム」を探してきたと言えます。じっさい、Google scholarで調べてみると、時代ごとの記憶研究の第一人者たちが、以下のような「エングラムは見つかったのか?」というようなレビュー論文を書いています。

  • Lashley, Karl S. "In search of the engram." (1950).
  • Thompson, Richard F. "The search for the engram." American Psychologist 31.3 (1976): 209.
  • Ledoux, Joseph E. "The Continuing Search for the Engram." Psyccritiques 30.3 (1985): 202.
  • Josselyn, Sheena A., Stefan Köhler, and Paul W. Frankland. "Finding the engram." Nature Reviews Neuroscience 16.9 (2015): 521-534.
  • Eichenbaum, Howard. "Still searching for the engram." Learning & behavior 44.3 (2016): 209-222.

ジーモンの論文から95年が経った2016年ですら、“still searching for the engram"なのが面白いと思いました。

おわりに

長々書いてきましたが、今回わかったことは、結局

「エングラム」には「記憶の痕跡」という以上の深い意味はない

ということでした*1。特殊な意味を持たないからこそ、100年近く生き延びてきたのかもしれません。

では、研究者たちはエングラムをどう探求してきたのか。神経科学者たちのコンセンサスとなっている見方を、次回は探っていきたいと思います。

*1:ただ一つ思ったのは、「痕跡」というと静的なイメージがあり、なんらかのダイナミクスのなかに記憶があるという可能性を暗黙のうちに除外してしまっていて、その点、「エングラ厶」という言葉は余計なニュアンスを含まないのが良いのかもしれません。このあたりはぜひ研究者の方の意見を聞いてみたいところです。

探究メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで解明したのか? 〈第1回:フォン・ノイマンの考えたこと〉

見切り発車ぎみにスタートした本連載ですが、何はともあれ書いていきたいと思います。

前回の「第0回」では、やりたいことの概要を説明しました。あらためて、本連載を通して分かりたいのは次のようなことです。

「過去のエピソードなどをヒトの脳が記憶する仕組み」を、いまの脳科学はどれくらい解明しているのか?

前回触れたように、最近では「記憶を操作することに成功した」などとする研究発表が出てきており、そうした研究が何を達成しているのかを知ることが、ひとまずこの問いの答えになると思われます。ゆくゆくは最先端の研究の中身を見ていきたいのですが、その前に、準備というか、回り道をしたいと思っています。

「記憶を解明するとはどういうことか」をもう少し考えておきたいのです。そうしないと、最新の研究成果をうまく解釈できないと思うからです。プレスリリースなどでは、たいてい、「Aという条件でBという結果が得られました」という具体的な実験事実に対して、「初めて記憶の仕組みを解明!」といった分かりやすい見出しがつけれられます。しかし、ここで前者から後者がどれくらい言えているかを判断するには、そもそものゴール(=記憶を解明する)がどういうことなのかを、自分なりによくよく考えておく必要があると思います。さもないと「へえ、すごい! でも、記憶一般について何がわかったのか、今一つわからない…」という感想で終わってしまいかねません。

そこで、やや回りくどくなってしまいますが、最初の1,2回(3,4回になってしまうかもしれませんが…)は、やや古めの文献を参考にしながら、記憶の仕組みについての考え方について、少し考えてみたいと思います。

*なお、本記事の趣旨に照らせば、脳についての解剖学や生理学の基本から始めるのが自然なのかもしれません。たしかに、脳の構造とか、神経細胞の性質とか、神経科学の基本的な実験手法について知らないと、最先端の研究の理解はおぼつかないと思います。じっさい、記憶の脳科学を扱う科学書は、すべてそうした説明から始まります。脳は大脳と小脳とがあって、神経細胞には細胞体と軸索と樹状突起があって、シナプスがあって、などです。ですが、本ブログでは、正確に書ける自信がないこと、多くの教科書やウェブサイトで解説を参照できることから、そうした記述は省く予定です。

コンピュータと比較する、という方法

いっそのこと、脳科学について何も知らないと仮定してみてはどうでしょうか。前提知識を持たずに、「脳の記憶の仕組みを解明したい」と思った人は、どこから考え始めることになるでしょうか。

現代の技術的環境の中で生きる人なら、誰しもまずは「コンピュータのメモリ」になぞらえて記憶を理解したくなるのではないでしょうか。私たちは、コンピュータがどのように「記憶」しているのかを「理解している」と言えます。ならば、脳とコンピュータを比較して、コンピュータの仕組みと脳の仕組みを対応づけることができれば、脳の記憶も解明できるのではないかと思えます。

コンピュータの父、フォン・ノイマンもそう考えたようです。彼の遺作に、『計算機と脳』(ちくま学芸文庫、2011)という薄い本があります。ノイマンが1957年に亡くなる1年前、大学での講義用に準備していた未完成の講義録だそうです。この本の前半部でノイマンはコンピュータの基本的な機構の解説をし、後半では、それと脳の機構を比較しています。筆者は本書に出会ったとき、ノイマンが脳に並々ならぬ興味をもっていたということに感動を覚えました。卓越した数学者・計算機科学者であったノイマンも、「心」に強い関心があったようです。

 

計算機と脳 (ちくま学芸文庫)

計算機と脳 (ちくま学芸文庫)

 

この本ではコンピュータと脳の「計算能力」全般が主題となっていますが、そのなかでもノイマンは「脳の記憶装置が何なのか」に強い関心を向けています。ノイマンが考案したプログラム内蔵型(=ノイマン型)コンピュータにとって、記憶装置が本質的に重要だったからです。

ちなみに、ノイマンが本書を書いた1956年は、脳の記憶メカニズムについてほとんど何もわかっていなかったと言ってよいと思います。たとえば、海馬が記憶形成に重要な役割を果たしていることを明らかした、有名な「患者HM」の論文(Scoville&Milner)が出たのが、その翌年の1957年です。いまでは常識となっている実験事実も得られていなかった当時、天才フォン・ノイマンは、脳の記憶の仕組みについてどんな考察をしたのでしょうか。

フォン・ノイマンの考察

さすがに、神経細胞が脳の動作の基本的なパーツであることは、ノイマンも知っていました。

神経系の基本素子は神経細胞、すなわち「ニューロン」であり、ニューロンの通常の機能は神経インパルスを発生・伝播させることだ。(p.73)

コンピュータの基本的な素子が真空管トランジスタであるのに対し、脳の素子はニューロンです。また、「脳の中に記憶装置がある」ということをノイマンは議論の前提にしています。

神経系内に記憶装置――あるいは、複数の記憶装置かもしれない――が存在することは推測の域を出ないが、人工の計算自動機械(オートマトン)から私たちが得た経験はすべて、その存在を示唆し、裏付けている (p.94)

ところが、それが何かは全く分かっていない。

ギリシア人は心が横隔膜にあると考えたが、記憶装置の特質と位置に関しては、私たちのもつ知識もギリシア人並みに乏しい。(p.94)

そのうえで、ノイマンは「記憶の様々な物理的実体の候補」を挙げていきます。たとえば、

  • 種々の神経細胞閾値が(…)は、その細胞に応じて時間とともに変わるという説がある。(…)これが正しければ、記憶は刺激基準の変動に等しいことになる。(p.94)

そのほか、

  • 神経細胞の接続が時間とともに変化し、それが記憶になる
  • 遺伝にかかわる記憶系が存在する可能性もある
  • ある部位の化学組成の特徴が永続的なもので、したがって記憶素子であることもありうる
  • 互いに刺激しあう神経細胞の系(真空管トランジスタでつくられる「フリップフロップ回路」に相当する仕組み)

などを挙げてみせます。一方のコンピュータはどうかというと、アメリカ初の電子計算機ENIACは一次記憶装置としてフリップフロップ回路のみに頼った。しかし、「「基本的な能動素子でできている記憶装置」と呼ぶにふさわしい記憶装置は、どう考えようと、非常に高くつく」ため、「今日の計算機は … 静電系(陰極線管)、強磁性コアの集合体などが記憶装置になっている」(p.100)と言います。ここで「高くつく」とは、詳しく書かれてはいないのですが、「スペースを食う」とか「エネルギー効率が悪い」とかいうことだと思います。

ノイマンは一連の考察を、

こうした事柄は、神経系の構造を理解する上で非常に重要に思えるが、今のところ、ほとんどが未解明のままになっているようだ。(p.100)

と締めくくっています。

このように、ノイマンはいろいろ考察を巡らせたうえで、結論を出さず(出せず)に終わっているわけですが、上記のような、あらゆる可能性を除外しない考え方は興味深いものだと思います。

ちなみに、ノイマンが挙げている「可能な記憶の実体」の中に、シナプス可塑性に相当するものが含まれていることは注意を引きます。これは、1949年にドナルド・ヘブが提唱した仮説を踏まえたものだと思われます。ヘブの仮説についてはいずれ取り上げることになると思います。

 

 

フォン・ノイマンが亡くなって60年がたった今、どこまで彼の疑問は解決されたのでしょうか。彼が挙げた様々な可能性の中に、正解はあったのか、あるいはまだ決着がついていないのでしょうか。筆者には今のところわかりませんが、それを今後調べていきたいと思います。

次回は、記憶研究のキーワードとなっている「エングラム」を取り上げます。

 

探究メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで解明したのか? 〈第0回:連載を始めるにあたって〉

このブログは、筆者が趣味で読んだ本(たいていは一般向けの科学書・哲学書)の感想を中心に、備忘録として書いているものです。

このあと数回の投稿では、特定の本の紹介ではなく、ある一つのテーマの文献をあれこれ調べ、自分なりに分かったことを書いていきたいと思います。

テーマは、「記憶の脳科学です。

今回は「第0回」として、なぜこのテーマで記事を書こうかと思ったかと、自分なりの問題意識および方法について述べます。

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記憶研究が今、すごいことになっている?

筆者は、学生のころから「記憶の脳科学」へ関心がありました。大学院で在席していた研究室は、脳の海馬を対象とした理論研究をテーマの一つとしており、ネズミの脳を使って記憶(など)の研究をしている生物系の研究室と一緒に、論文や教科書を読んだりしていました。5年前に大学院を出てからしばらく遠ざかっていたのですが、いま改めてこの分野の状況を知りたくなりました。

というのも、最近、この分野で目を引く研究成果によく出くわすようになったからです。近年、下記のようなプレスリリースが出されています。

これらの見出しからは、記憶研究な相当な段階まできていることが分かります。

また、昨年出版された『つながる脳科学』(講談社)の中で、利根川進氏は次のように書いています。

記憶の研究は、「新しい時代(new era)」に入った、と言われています。かつては、非常に大雑把な方法でしか記憶の研究はできませんでした。それが今では、非常に正確かつ精密に研究できるようになっていますし、しかも細胞レベル、遺伝子レベルで記憶を操作できるようにまでなったのです。(p.56)

記憶の仕組みの解明だけでなく、記憶を消したり、書き換えたりといった、SFのような話が現実化しようとしていると言います。

しかし、こうした表現に、筆者は若干違和感を覚えたのも事実です。

筆者が一学生として脳研究をフォローしていたのは5年ほど前です。あくまで個人的見解となりますが、当時、脳が記憶する仕組みは「ほとんど分かっていない」段階にあったと言っていいと思います。いかに実験手法のイノベーションが起こっているとは言っても、たった数年でそこまで大きな変化があるとは思えません。

とはいえ、研究者たちが嘘の発表をしているわけではないとすれば、どういうことなのか。答えは当然、プレスリリースの見出しの背後にあるディテールの部分にあるわけです。じっさい、上であげたプレスリリースの本文を読むと、これらの研究が明らかにしたことは記憶の一側面であり、ある特定の実験動物の、特定の種類の記憶のみを扱ったものであることがわかります。なので、さきほどの利根川先生の言葉やプレスリリースの見出しから私たちが受ける印象ほどには、分かっていること多くないと考えられます。

そこで、一度立ち止まって、いまどこまで記憶が解明されているのかを、一素人の目線で見定めてみたい、と思いました。

記憶を解明するとは?

一口に「記憶を解明する」と書きましたが、これだけだと意味が曖昧です。記憶には心理学的にいくつもの種類があるし、どのような説明をもって分かりたいか、ということにもいくつかの選択肢があるためです。

このブログでは、仮に、記憶研究の最終目標を次のことだとしてみます。

「過去の具体的なエピソードの記憶がヒトの脳内でどのように表現されているかを、それを自由に書き換えられるくらいの精度で解明する」

たとえば、「私は朝ごはんに納豆を食べた」や「私は大学の卒業旅行でインドに行った」という記憶は、脳内の何らかの機構で保持されているはずで、それを思い出すことに対応する何らかの脳内活動があるはずです。(そんな対応があることは自明じゃないという哲学の議論もありえますが、ここではおいておきます。)

ここでコンピュータと比べたくなります。人間の設計したコンピュータなら、メモリを書き換えることで、自由に記憶を書き換えり消去したりできます。

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これと同じことを、電気刺激や薬物を使って脳でできるためには、コンピュータのメモリの仕組みと同じくらいの精度で、脳内の記憶のメカニズムについて知る必要があると思います(むしろ、それができたことをもって、記憶のメカニズムが解明されたとなるのかもしれません)。

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数時間前の朝ごはんのメニューや、数年前の旅行先といった、個別の記憶の在り処を突き止めるのを最終到達点としたとき、今の脳科学はどこまでそこに接近しているのか。

そんな大雑把な問いを出発点に、少し勉強してみようという趣旨の試みになります。

今後の記事でやりたいこと

資料としては、一般向けに書かれた科学書、プレスリリース、無料で公開されている総説論文などを使う予定です。原論文には、一部を除いて原則として当たらないと思います。理由は、アクセスしづらいことと、筆者に読み込む力量がないことです。

また、専門家のチェックを受けずに書くので、間違った解釈で書いてしまう可能性がかなりあります。高望みにすぎると思いますが、もしこのブログを読んでくれた専門家の方がいて、内容への訂正や指摘をいただけたら大変嬉しいです。

一方で、一般の読者が普段見ないようなものにも目を通すことには心がけるつもりです。そのことで、1次情報としての研究成果が、一般向けに広報されていく過程でどのように加工されていくか(=盛られていくか)を浮き彫りすることはできるかも、と期待しています。

具体的に扱いたいと思っているのは、下記のような内容です。

  • 記憶研究の中心的仮説とされる「セルアセンブリ仮説」とは何か
  • 記憶改変の技術はどこまで進んでいるか
  • 人工知能の「記憶」は脳の記憶をどこまで模倣しているか
  • 記憶研究の第一人者たちは、どのように解説しているか

これらに「答えを出す」というよりは、「調べて分かったこと/分からなかったことを羅列する」という形になると思います。

どこまでできるか分かりませんが、もし読んでくれる方が一人でもいたら嬉しいです。

 

 

 

読書メモ(再掲):The Myth of Mirror Neurons (by Gregory Hickok)

 

The Myth of Mirror Neurons: The Real Neuroscience of Communication and Cognition

The Myth of Mirror Neurons: The Real Neuroscience of Communication and Cognition

 

 2014年に読んだこの本。著者のツイートによると、最近、立て続けにポーランド語版と中国語版が出たようです。

 

 

相次いで翻訳版が出ていることは、「ミラーニューロン」概念に対する批判的な見方が一般的になってきたことを示しているのでしょうか。日本語版が出る予定があるのかはわかりませんが、日本でもこうした議論が広まると面白いのではないかと思います。以下、前のブログに書いた感想を載せておきます。

 

 

*2014年9月のブログ記事を再掲

The Myth of Mirror Neurons 読了.

ミラーニューロン神話」というタイトルだが,ミラーニューロンを全否定する本ではなかった.ミラーニューロンは確かに「ある」し,脳を理解するうえでの重要な手がかりともなりうる.ただし,ミラーニューロンの機能についての拡大しすぎた解釈には問題がある.本書での著者の立場は,大体そんな感じだったように思う.

著者は,脳の発話や言語処理の専門家.はじめは遠くからミラーニューロンブームを見ていたのだが,次第に自分の専門である「言語」にもミラーニューロン理論が入り込んでくるようになり,段々と無視できない存在になってきたという.そこで,過去の文献を調査し,分かったことをブログに書き始めるなどしていたところ,「ミラーニューロンってなんか釈然としないな」という漠然とした疑問は,次第にミラーニューロンの通念は間違っているという確信になった.それが本書に結実した,ということらしい.

ただ,最終章で,

This book isn't just a barn-kicking excersise. 

(これは単に理論をぶち壊すだけのための本じゃない.)

とあるように,必ずしもミラーニューロンの研究成果や考え方を否定してはいない.ミラーニューロンにまつわる実験について冷静にレビューして,そこから何が言えて何がいえないのかをしっかり考えた本だった.

 

【内容】

1章
ミラーニューロン理論の基になっているのは,1992年にイタリア・パルマ大学のグループによって偶然に発見されたある一つの現象である.すなわち,サルが何かの行動をするときに発火するニューロンが,同じ行動を他者をするのを見ただけでも発火する.1996年には,同グループにより実験結果が再現されるとともに,この現象を示す細胞が「ミラーニューロン」と命名される.

2章
ラマチャンドラン氏がミラーニューロンを「DNAに匹敵する大発見」と表現するなど,ミラーニューロン理論は一躍,注目を集める.ミラーニューロンはマカクザルの「F5」という部位に見つかったのだが,それは,ヒトでいうと言語をつかさどるブローカ野に相当する.そこから,心理学や精神医学におよぶ「理論」に発展する.それは,ミラーニューロンは,人が他人を心を理解する能力(心の理論)や,言語の獲得のメカニズムのカギになっているのではないかというもの.自閉症の原因がミラーニューロンが正常に働いていないことにあるのではないかなど,具体的な症状や病気についての仮説も多く生まれる.

3章
ヒトにもミラーニューロンがあるらしいということが分かってくる.2009年にはfMRI habituation experimentという手法を使った実験によって,ヒトにもマカクザルと同じ意味でのミラーシステムがあるという,割と直接的な証拠が見つかった(実験の手法が異なりニューロンレベルでは確かめられていないため,「システム」という言葉が使われる).ただ,著者に言わせれば,他人の行動に応じて自分の行動を決める人間の脳に,なんらかの 「ミラーシステム」にあるのは論理的に当たり前.問題は,むしろ「ミラーシステムはなにをしているのか」という,解釈の部分にある.

4章
ミラーニューロンは行動の”理解”するためのメカニズムである」というミラーニューロン理論には,それと寄り添わない「アノマリー」が事象がいくつもある.例えば,

  • 発話の理解には,発話能力は必要ないことが知られている
  • メビウス症候群という表情を作れない症状をもつ人も,他人の表情を読み取ることができる
  • ミラーシステムは可塑性がある.
  • ミラーニューロンが「理解」をつかさどるとすると,これまで知られてきた脳の解剖学的な機能区分と齟齬をきたす

など.これらのアノマリーは,どれもミラーニューロン理論を捨て去る決定打にはならないものの,これだけ多いとなれば,別理論を考えたほうがいいのではないか.

5章
言語の獲得にミラーニューロンが役割を果たしているという仮説がある.これは,50年以上前に流行った"the motor theory of speech perception"という理論と深い関係がある.1980年代にはmotor theoryは否定されたにも関わらず,2000年代に復活.しかし,発話の理解に運動機能は必要ないことは証明されている.

6章
ミラーニューロン仮説の背後には「身体化された認知(embodied cognition)」という,流行のアイディアがある.心理学の流れを振り返ると,まず行動主義があり,それに対するアンチテーゼとして,「計算論的な心の理論」(あるいは「情報処理」モデル)が出てくる."embodied cognition"の考え方が出てきたのは,素朴な「情報処理モデル」が前提とする,脳が感覚入力→高次の情報処理→運動出力という3段階の構造になっているというモデルに合わない事実が明らかになってきたからだった.そのような3段階の構造は,"classical sandwich conception of the mind"として,悪役に仕立てられた.しかし,著者に言わせれば,「身体化された認知」は,単に抽象的な概念が「感覚」や「運動」と切り離せないことを明らかにしただけで,本質的に「情報処理モデル」と対立するものではない.

7章
ミラーニューロンが「理解のメカニズムである」という説が怪しいとすると,本当の「理解」はどこで起こっているのか.ミラーニューロン理論より良いモデルは作れるか.著者のよりどころとなるのは,脳が持つ階層的な構造と,「”なに”経路」と「”どうやって”経路」の2経路に分けて脳が計算タスクを二つに分けて処理している,という事実である.そこから,著者が"hybrid, hierarchical model of conceptual representation"と呼ぶ情報処理の機構を提示する.

8章
ミラーニューロンは本当は何をしているのか.主流のミラーニューロン理論によると,ミラーニューロンは模倣(イミテーション)を可能にし,模倣は相手の心を理解する(=「心の理論」)ことの第一歩だとされる.しかし,著者の意見では,それは論理的誤りである.イミテーションは意外と難しい.ミラーニューロンをもつマカクザルは実は模倣しない.つまり,ミラーニューロンだけではイミテーションできない.Cecilia Heyesという心理学者の説では,ミラーニューロンの持つ性質は,純粋な連合学習によってつくられる.つまり,自分の行動とその視覚との結びつけで形成されるというのだ.著者の解釈も「古典的な条件づけ」というもの.また,パルマの実験では,ミラーニューロンの中には実はミラーしていないニューロンもあった.むしろ「観察した行動」に応じた「自分の行動」をするようなニューロンの活動も見られた.初期の段階で,それらの「鏡になってない」ミラーニューロンにはじめから注目していたら,違う理論が構築されてきたんじゃないか,と著者は指摘する.

9章
自閉症ミラーニューロンを結びつけた「壊れた鏡」理論は,今では否定的な研究者も多い.著者の考えでは,自閉症は何かの欠如ではなく,何かの過剰によって引き起こされると考えたほうが良い.

10章
ミラーニューロンの活動が「行動の理解」に他ならないとする理論は,説明力をもたない.パルマ大学のメンバーを始め,多くの研究者がミラーニューロンalternativeな理論を作っている.つまり,ミラーニューロンから「理解」の機能を除外した見方が増えてきている.一例として,ミラーニューロンの役割はpredictionに関わるのではないか,などと考えられている.

理論的流行は振り子のように振れている.計算論的な理論から,身体化された脳へ.
振り子が振れること自体は肯定的にとらえるべきだ,と著者は言う.今後の見通しを以下のように述べている.

I predict that mirror neurons will eventually be fully incorporated into a broad class of sensorimotor cells that participate in controlling action using a variety of sensory inputs and through a hierarchy of circuits.

いろいろなことが分かってくるにつれ,ミラーニューロンは大きな理論の一部に収まり,やがて,ミラーニューロンの特別扱いは終わるのではないか,ということなのだろう.そして,いまの脳科学の段階では,脳の中にどんなに驚くべき細胞が見つかったとしても,それは大きな機構の一部の「影」にすぎなくて,そうやすやすと細胞生物学におけるDNAのような「機構の確信部」に突き当たることはないのだろうと思う.

読書メモ:The Undoing Project (by Michael Lewis)

前から、ダニエル・カーネマンのことが気になっていた。

それは、おもに『ファスト&スロー』の著者としてだった。『ファスト&スロー』は2011年に出た本だが、当時印象的だったのは、これを読んだ人が、皆得意げに「システム1」だとか「○○バイアス」だとかいう、独特な言い回しを使い始めたことだった。

このたび文庫版で読んでみて、周りの人たちが熱狂していたのも納得できた。カーネマンはこの本で、人間の心がいかに多くの偏見やバイアスによって誤った判断をしがちかを示している。人々の判断や意思決定は合理的ではなく、その間違え方には傾向と理由がある。そうした人の心の性質を踏まえて、よりよい意思決定をするにはどうすればよいか。そこまで踏み込んでいるので、たんに面白いだけはなく、とても実用的な本だと感じた。

この本に出てくる多くの研究はカーネマン自身の手によるものだが、もちろんすべてを彼一人で行ったわけではない。とくに、ある人物の名前が頻出する。同じくイスラエル出身の心理学者、エイモス・トヴェルスキ―だ。カーネマンは、主要な研究のほとんどをトヴェルスキーの共同で行っており、2002年のノーベル経済学賞も、もしトヴェルスキ―が早くして亡くなっていなかったら、二人で共同受賞しただろうと言われている。

カーネマンは著書で何かにつけ「エイモスは…と言った」だとか「エイモスと私は…してみた」とか書いている。科学の歴史には共同研究がつきもの(代表例はワトソン&クリック)だとはいっても、カーネマンとトヴェルスキ―の親密さには、ちょっと尋常ならざるものを感じる。

彼らの共同研究は、どのようなものだったのか。二人は、いかにして心理学や経済学の革命をもたらすほどの業績を生み出すことができたのか。

 

"The Undoing Project"は、その経緯を克明に描いている。

The Undoing Project: A Friendship That Changed Our Minds

The Undoing Project: A Friendship That Changed Our Minds

 

著者は、映画『マネー・ボール』や『マネー・ショート』(原題"The Big Short")の原作者として知られるMichael Lewis氏。『マネー・ボール』は、メジャーリーグの弱小チームが、勘や経験ではなくデータに基づいたスカウトの仕組みを導入して強くなるまでを描いたノンフィクションだが、Lewis氏は、その後「マネーボール的な考え方」の背後にカーネマンらの業績があることを知ったという。それをきっかけにカーネマンに出会い、やがて彼のトヴェルスキ―との関係に興味をもつ。そして、二人の物語を書くことにしたというのが、本書執筆の経緯だそうだ。

それぞれの生い立ちから、二人の出会い、共同研究の日々、そしてトヴェルスキ―病死による別れまでを、多くの人の証言をもとにして描いている。ストーリーテリングは流石で、最初から最後までひきこまれた。

***

エイモス・トヴェルスキ―という人物の印象は強烈だ。カーネマンより3歳年下だが、イニシアチブをとっていたのは常に彼だった。とにかく大胆不敵な性格で、「手紙は読まずに捨てる」「やりたいことしかやらない」タイプ。それでいて、みんなから好かれていたという(この人物像で自分の脳裏に浮かんだのはリチャード・ファインマンだった)。兵役時には第一線で奮闘するようなフィジカルの強さも持っていたし、研究では論敵を徹底的にやっつけるような負けん気の持ち主だった。そして何より、頭がよかった。「トヴェルスキ―の賢さにどれくらい早く気付けるかが、その人の知能の高さを示す」と言った同僚の言葉が紹介されている。

一方のカーネマンは、どちらかというと疑心暗鬼で、気難しい性格だった。彼のことを「ウディ・アレンみたいな人、ただし、ユーモアはない」と表現した同僚がいたそうだ。しかし、直観力にすぐれていて、他人の理論の穴に気づいたり、核心をつく質問をする能力に長けていた。

まさに陰と陽で、真逆の二人。誰も彼らが一緒に何かをするとは予想もしていなかった。それでも、ある日を境に二人は共同研究をはじめ、お互いを補完する関係性になっていく。多くの場合、研究の種となるアイディアをカーネマンが出し、それをトヴェルスキ―が持ち前の明晰さで分析する。二人で実験を設計し、出てきた結果をもとに一緒に論文を書く。二人は研究室にこもると何時間も出てこなかったそうで、部屋からは始終大きな笑い声が聞こえてきたという。カーネマンが「もうアイディアが枯渇した」と嘆くと、トヴェルスキ―は「ダニーは誰よりもアイディアをもっているよ」と言って笑い飛ばす。"We were sharing a mind."(p.182)とカーネマンが振り返るような、とても濃密なコミュニケーションがそこには生まれていた。

前半部の二人の関係がすごく幸せそうなだけに、後半で二人がすれ違い始めるのが切なかった。著者はその原因を、カーネマンのトヴェルスキーに対する気おくれの感情に帰している。トヴェルスキ―だけが賞をもらったり、教授職のポストを打診されたりすることが重なるなかで、彼はトヴェルスキ―から距離をおく決断をする。

しかし、その矢先の余命宣告…。

本書のラストは、トヴィルスキー亡きあと、とある場面でのカーネマンの心理描写で締められている。そこに、タイトルの"Undoing Project"にちなんだ仕掛けがあって、著者の狙いどおり、思わず涙腺が緩んでしまった。

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著者のカーネマンへのまなざしは始終温かいのを感じた。自分を信じて物事をスパスパと切っていくトヴェルスキ―と対照的に、カーネマンは自分自身への疑いの目を向け続ける。自分とは違う見解に出会ったとき、トヴェルスキ―なら闘いを挑むところを、カーネマンは"What might that be true of?"と問うのを常としていた。この"What might that be true of?"が、著者が本書で何度も繰り返すキーセンテンスの一つだ。つまり、「どんな前提に立つとそれは真とみなせるのか」。カーネマンのこのような態度が、人間の心の本性をつかむことを可能にしたのだろうと思わされる。

カーネマンたちの業績は、今では、心理学や経済学を超えてあらゆる分野に影響を与えている。そんなパラダイムチェンジングな学術成果が、一人の天才の脳からでもなく、ゆるくつながった研究者集団からでもなく、「緊密に連結した二つの脳」から生み出されたという事実。何かとても良いことを知れたような気分になっている。

 

 

聴講メモ:松葉舎 開校記念イベント

今日はこの会に参加してきた。

江本伸悟さんが今年から立ち上げた私塾・松葉舎(しょうようしゃ)の、開校記念イベント。江本さんの10年来の学友である森田真生さんなど、ゆかりの人々も集まって、4時間の講演会が行われた。

まずは、江本さんによる塾設立の趣旨説明。続いて、江本さん本人と、塾設立以前から江本さんから学んでいる2人の塾生の方によるプレゼン。最後に、森田真生さんのゲストトークで締められた。

江本さんは「サンゴ礁に心は宿るか?」という話をされた。一見、突拍子もない問いだが、最先端の生命科学脳科学の知の断片をつないでいくと、だんだんとそれが意味をなす問いに変わっていく。粗削りで試行錯誤感のあるプレゼンだったが、松葉舎が何をするところなのかがよく伝わってきた。心や生命とはこういうもの「だろう」という常識や予断を疑うこと。いろいろな学問分野に学び、自分なりの世界観を組み上げていくこと。そしてそれを仲間に伝え、フィードバックを通して鍛錬すること。

森田さんは、世界と日本の大学制度の歴史を総括し、江本さんや森田さんら自身がいる学問的状況を俯瞰しつつ、江本さんの私塾の意義を位置づけるという、壮大なトークをされた。単に大学の歴史を振り返るだけでなく、Reviel Netz著の“Barbed Wire: An Ecology of Modernity”を手引きに、世界史を「空間の接続・切断」による権力のダイナミクスで切り取り、そのなかに大学制度と学問のあり方の変遷を論じるという、こう書いただけでは何のことかわからないけれども、とにかく圧巻の、どこでも聞いたことのないような「知の歴史」が語られた。

***

ここしばらく、「何が人を学問に駆り立てるのか」ということを考えている。(この疑問の別バージョンは「人は何を求めて本を読むのか」。)

江本さんと森田さんの話を聞いているあいだ中、そのことを考えていた。二人とも、大学を離れて学問をすることを選んだ。自分のしたい学問をするのに、大学を離れたほうがベターだとの判断からだ(ちなみに、二人に接したことがある人ならわかるように、彼らが在野を選んだのは「大学でやっていく自信がないから」という理由からでは決してない)。そうまでして求める「理想」はなんなのか? 学問的モチベーションの核は? それを見定めることができないかと思いながら、4時間のトークを過ごしていた。

それは、自分自身、その答えを欲しているからだと思う。現代は「一つの学問的モチベーションをもって、それに突き進む」ということが難しい時代だと思う。夏目漱石も、バートランド・ラッセルも、イヌマエル・カントも、彼らの学問には「目的」があるように見える。確固たる倫理観というかモラルがあって、それを不動の指針として、人生をかけて探究したし、同時代人と切磋琢磨したように見える。しかし、今はどうか。普遍的な学問的ゴールというものはあるか。真理は相対的であるだけでなく、知を志す理由・目的に関しても「人それぞれ」になっているのではないだろうか。でも、もし現代においても、「私塾」が成立して、皆が同じ「何か」を目指すということが成立するとするなら、その「何か」に答えがあるのではないか……。

でも、帰りの電車のなかで、違う、と思った。森田さんも江本さんも、「何が自分を駆り立てるのか」を言語化などしないままに、すでに駆動されている。問いをもってしまっている。動因を持つべき理由を探してからしか探究を始められない人には、私塾での本気の学びは向かないかもしれない。