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読書メモなど

読書メモ:物理学は世界をどこまで解明できるか(マルセロ・グライサー著)

 

物理学は世界をどこまで解明できるか―真理を探究する科学全史

物理学は世界をどこまで解明できるか―真理を探究する科学全史

 

「このまま物理学の勉強(あるいは研究)を続けて、自分はどこまで知ることができるのだろうか?」

これは、物理学を本気で勉強したことのある人なら、誰しも突き当たるであろう疑問だ。

「宇宙の誕生の様子を知りたい」「最も基本的な素粒子の姿を見定めたい」といった好奇心で物理学を志したのはいいが、しばらくすると、しだいに雲行きが怪しくなってくる。

たとえば、実験装置の限界。

カミオカンデ」が「スーパーカンデ」になったように、物理学の実験装置はどんどん大規模になっていく。このままいくと、物理学で何か新しい発見をすることは、リソース・コスト的に難しくなっていくのではないだろうか。

あるいは、自然界に内在する、原理的な限界。

光の速度で到達できる範囲外の出来事(いわゆる事象の地平線の向こうの出来事)については、どんな手段を使っても知りえない。まして、「多宇宙(マルチバース)理論」など、仮にあったとしてもその存在は検証できない。直接的な検証が不可能な領域に、現代物理学は入っているのではないか。

さらには、人間の理解の限界がある。量子力学に象徴される、 感覚的には受け入れがたい「奇妙な理論」を、直観的理解をあきらめて「慣れる」しかないという状況が生まれる。

こうした様々な「限界」に思いいたるとき、物理学とは、日々の勉強・研究の手を一度止めて、あらためて問いたくなる。「我々人間は何を知りうるのか?」と。

本書は、超対称性理論などを専門とする理論物理学者が、その疑問に向き合った一冊である。

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副題に「科学全史」とあるように、スコープは広い。

第1部ではギリシャの自然哲学から、最近の「多宇宙(マルチバース)理論」に至る、おもに「時間・空間の性質」「宇宙の姿」などをテーマにした科学の進展を概観する。

第2部では、こんどは主に物質の探究に焦点を当て、同じくデモクリトスのころの物質観から、現代の量子力学の問題までを取り上げる。

第3部では「人間の認識の限界」にまつわる、数学や哲学の議論を取り上げている。

「全部盛り」「総花的」と言ってよい内容で、その分、一つ一つのトピックの解説は短い。そのため、宇宙論なり量子力学なり、何らかの学びを求めて手に取った読者には物足りないかもしれない。

その一方で「で、結局私は何を知ることができるのか?」という疑問に一人の物理学者がどう答えを出したのか、という観点で読むと興味深い。著者の回答はそれほどクリアカットなものではないが、不確定性原理不完全性定理などによって「限界」はあり、量子的現象や事象の地平線の外側のことなど、「知りえない」こともある、というのが著者のひとまずの結論のようだ。

本書の原題は“Island of knowledge”。人類の知識を海に浮かぶ「島」にたとえ、著者は科学の前進を「知識の島」が少しずつ形を変えながら大きくなっていくイメージでとらえる。

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この本は、読者を啓蒙する体裁で書かれてはいるが、本当のところは著者が著者自身の頭を整理するために書かれたのだろうと思う。自分のやっていることの意味を感じ取るために「そもそも人類は、いかにして〈知識の島〉を開発してきたのか」に関心が向かうのは自然だが、それをここまでのボリュームの科学書に仕上げられる人はなかなかいないだろう。

物理学を志している高校生・大学生に、ぜひ読んでみてほしい。もしかしたら、物理学への信頼、楽観的な期待は揺らぐかもしれない。それでも「知識の島」を少しでも広げてみたいと考えたならば、その人を心から応援したい。

 

探究メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで明らかにしたのか〈番外編1:論文紹介 Neuron 2017 "Memory Takes Time"〉

以前、本ブログでは「脳科学は記憶の仕組みをどこまで明らかにしたのか」と題した一連の記事を書きました。

その後も、記憶研究の動向は気にするようにしているのですが、先日ちょっと面白い論文を見つけたので、ここで紹介してみたいと思います*1

Nikolay Vadimovich Kukushkin, Thomas James Carew. Memory Takes Time. Neuron, 2017; 95 (2): 259 DOI: 10.1016/j.neuron.2017.05.029

ニューヨーク大学神経科学者2名によるレビュー論文です。科学系ニュースサイトやwired誌でも取り上げられています。

二つの紹介記事ではセンセーショナルな感じに取り上げられていますが、論文の中身はわりと地味で、玄人向けともいえる内容でした。また、日本語版wiredの記事のタイトル:「記憶のメカニズムの詳細が明らかに」は、けっこう語弊があるのではないかと思います。この論文は何か新しい「発見」を報告しているものではないからです。むしろ、既存の研究を広範にレビューしたうえで、「記憶をこんな風に捉えて、こんな風に研究していきませんか?」という、あくまで新しい見方を提案している論文です(レビュー論文というのは本来そういうものではないかと思います)。

論文のあらまし

2段組みで20ページにわたる、長めの論文です。本論の部分で、著者らは単一ニューロンにおいて、その応答性(シナプス入力を受けて発火するかどうか、など)を左右する様々な生理現象を列挙しています。著者らは便宜上、それらを五つのカテゴリーに分けています。

こうした多段階にわたる生理現象について、「こんなのもあります、あんなのもあります」という紹介がなされていきます。詳細はともかくとして、ポイントは、こうしたすべての現象が、トリガーされた時点から一定時間持続するものだということです。たとえば、シナプスで伝達物質を受けとったニューロンでは、活動電位が数ミリ秒持続して、細胞外の分子Aが数百ミリ秒間流入して、タンパク質Bが数秒間活性化されて……、などなど、それぞれ固有の時間幅をもった生理現象を引き起こします。こうした時間幅のことを、著者らは時間窓(time window)と名づけます。

ニューロン内の現象は、多くの時間窓の複雑な相互作用とみなすことができます。つまり、ニューロンのなかでは「Aというプロセスが持続しているという条件のもとでBが起こるとCが始まるが、Dが起こるとCは終わる」というような、「時間窓どうしの相互作用」が数多くあります。ひるがえって、こうした時間窓の存在は、過去の出来事が現在のニューロンの応答性が変えている、ということを意味します。記憶を「過去への適応」(adaptation to the past)のことだと捉えれば、時間窓をもつことはある種の「記憶」を持つことにほかなりません。しかも数ミリ秒から数日(~数年?)までにおよぶ時間窓をたくさん備えていることは、ニューロンが記憶に適したメカニズムを備えていることを意味します。

we argue that the nervous system's extraordinary ability to represent time at multiple timescales is a prerequisite for its unmatched capacity for information storage

〔訳〕神経系は、複数のスケールにまたがる時間を表象することにかけて並外れた能力をもっており、そのことこそが、神経系の類まれな情報貯蔵力を可能にしているとわれわれは主張したい。(introductionより) 

ここで"neuron"ではなく"nervous system"という言葉が使われていることからわかるように、著者らは「時間窓の相互作用=記憶メカニズム」という見方を、単一ニューロンレベルだけではなく、神経ネットワーク、果ては脳全体まで拡張できるはずだ、と見ています。そして、このように記憶を捉えなおすことによって、シナプス可塑性一辺倒」の記憶研究から脱却しようというのが、著者たちの提案のおおまなか概要となります。

「貯蔵庫モデル」から「余韻」モデルへ?

以上がだいたいのあらましです。本論文による問題提起を、私なりに次のように言い換えてみたいと思います。

  • 記憶の「貯蔵庫モデル」を捨てて、「余韻モデル」を採用しよう

「貯蔵庫モデル」というのは、要するに、脳内の記憶が「どこかにしまわれている」という見方です。過去の記憶が、図書館の蔵書のごとく分類・整理され、書庫で保管され、必要に応じて取り出される。フォン・ノイマンの記憶装置(連載の第1回参照)も、エングラム(第2回)も、おおまかにはこの発想に立った見方だと思います。そういえば、「インサイド・ヘッド」という映画では主人公の女の子の記憶が脳内世界ではボウリング玉のようなものとして描かれていましたが、まさにあんなイメージです。

一方、本論文では、過去の出来事が脳内の生理現象の「時間幅」として保存されている、という見方が提示されています。これを、過去のどこかの時点で脳のなかで鳴り始めた〈音〉が、〈余韻〉として響いているというイメージでとらえることができると思います。1秒前に鳴り始めた〈音〉、10年前から鳴っていてかすかに残存している〈余韻〉、そういったものの重ね合わせとして現在の脳があり、今の行動を決めている。この見方に立つと、「記憶は『どこに』あるの?」という問いはあまり意味をなしません。その答えは「あらゆるところに」だからです。むしろ問うべきは「『いつの』余韻(=時間窓)が、どの行動に結び付いているのか?」に変わります。

前回の連載の最終回では、今後の記憶研究に期待することとして、「(細胞レベル、全脳レベルなど)異なる階層をつなぐような理論が出てくること」と「素朴なエングラム観を乗り越える見方が出てくること」を挙げました。「素朴なエングラム観」というのは上記の「貯蔵庫モデル」のことです。今回の論文は、ある意味でこの両方をかなえる方向性が示されていたので、「わが意を得たり!」という気持ちで興味深く読みました。

おわりに

従来の記憶研究の盲点をつく重要な指摘だとはいえ、しかしながら、この「余韻モデル」(と私が勝手に名づけたもの)は、万能とまではいえなそうです。

まず、この見方は、「細胞にとっての記憶」と「個体のとっての記憶」を同じレベルで扱っています。究極的には「過去の出来事を情報を保持して現在の状態を決めるもの」をすべて「記憶」と呼んでいます。これは心理学の意味での「記憶」とはかけ離れており、これはこれで無用の混乱につながるかもしません。

また、細胞レベルの記憶現象であれば、何とか「時間窓の重ね合わせ」という描像で解析できるかもしれませんが、ニューロン集団、ましては全脳の「記憶」に当てはめるのは無謀といえるかもしれません。「今朝、納豆ごはんを食べた」という記憶は、「どこにエングラムとしてしまわれているのか?」ならまだイメージできますが、「どんな『時間窓』の重ね合わせとして表現されているのか?」となると、途方に暮れてしまいます。

とはいえ、それが記憶の本来の姿なのかもしれません。「脳の記憶装置は何か?」と問うたフォン・ノイマンは、自ら発明したコンピュータとのアナロジーに捕らわれて、問題を簡単化しすぎていたのかもしれません。

記憶研究の本来的な難しさに気づかせてくれる意味でも、味わい深い論文でした。

*1:素人が原論文を読んでわかった気になる危険性は十分にわきまえたいと思います。この記事は論文に対する論評ではなく、「こんな考え方もあるそうです」という紹介程度に読んでいただければと思います。

読書メモ:自然主義入門(植原亮 著)

 

自然主義入門: 知識・道徳・人間本性をめぐる現代哲学ツアー
 

最近、科学と哲学の距離が近くなっているのだろうか。科学者と哲学者が合同開催するシンポジウムとか、「○○の科学と哲学」といった題目の共同研究を目にする機会が増えた気がする。そうした場では、科学者と哲学者は互いから何を得るのだろうか。それは、科学と哲学の関係をどう捉えるかによるだろう。たとえば、

  • 科学と哲学は本質的には同じもの
  • 哲学の土台のうえに科学がある
  • 哲学が発展すると科学になる 
  • 科学と哲学は、目的も方法も異なる別ものである

などいろいろな見方がありえ、どれが正しいかということ自体、長年の哲学の問題になっている。そうした「科学と哲学の関係にまつわる立場」の中で、いま最も勢いのある(?)のが、本書のテーマ「自然主義」である。

自然主義は、科学と哲学をひとつながりのものと考える。科学は、地球が太陽の周りをまわっていることや、物質は分子で出来ていることなど、世界に関するいろいろなことを明らかにしてきた。そうした知識を可能にするのは人間に備わっている能力だが、その能力(理性とか知性とよばれるもの)自体について問うのは、科学ではなく哲学の領分とされてきた。つまり、「人間の心」だけは、科学にとっての「前提」ではあって「対象」ではなかった。でも、よく考えれば、人間もまた世界の一部であるわけで、自然法則に従う存在であるはずだ。そこで、「科学する人間の心」も含めて、自然科学の方法で探究すべきではないか。哲学自身、科学的な方法で前進するのだ。自然主義をとる哲学者はそのように考える。

こう言うと、「そんなの当たり前じゃん」と「本当にそれでいいのか」という反応が同時に湧き上がるのではないだろうか。私の頭のなかでも、両方の声が同居している。現代人にとっては、ある意味で当たり前なのだが、一方でどこか反発したくなる、そんな見方ではないだろうか。

本書『自然主義入門』は、自然主義がどんなものであり、自然主義の枠組みのなかで今どんな論点が取り上げられており、自然主義の魅力(あるいは必然性)がどこにあるのかについて、とことん易しく解説した一冊となっている。副題にあるとおり、まさに「ガイド付きツアー」という感じの懇切丁寧だった。勁草書房の哲学書だと思って身構えていた自分は、良い意味で裏切られた。

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第1章では、著者は分析哲学クワインが用いた「ノイラートの船」という比喩を使って自然主義を説明する。「哲学者も科学者も、大海を漂い続ける一隻の船にみな乗り合わせて」いて、「力を合わせて航海という事業を続けるのである」(p.3)。この比喩は、哲学と科学は連続していること、そして「人間の知が共同性や歴史性を帯びることは避けられない」という自然主義の見方をよく表している。自然主義者は、人間の「心」の各側面を「自然化」すること、つまり、自然現象の一種として示すことを課題とする。

第2,3章では、そうした課題の一例として「道徳」が取り上げられる。道徳は、生まれつき人間に備わったものなのか(生得説)、あるいは生まれてからの経験で身につけるものなのか(経験主義)。道徳は、どの地域にも見られるが、内容は文化ごとに少しずつ違う。そうした道徳の普遍性と個別性をうまく説明することを競って考案された、生得説・経験主義の両陣営の様々な説が紹介される。

続く第4,5章では、「生得説」vs「経験主義」論争が、道徳だけではなく「心」一般でも行われていることが紹介される。「言語」「数学」「道徳」のようなそれぞれの領域ごとに専門にあつかう心のモジュールがあるとする「モジュール集合体仮説」。いや、すべては学習の結果であり、数・論理といった抽象的概念ですら生後に獲得されるとするジェシープリンツの議論まで、幅広く取り上げられる。

第6章では、生得説と経験主義の両方を統合する心の捉え方として、人間の心は、直観的・自動的な「システム1」と、理性的な「システム2」からなるとする「二重プロセス理論」を紹介する。さらに、人間のみが持つかのように見える「理性」を自然化する企てとして、環境の側を道具として取り込んで自分の心の一部とする能力をもった存在として人間を捉える、「拡張された心」「外的足場」等の考え方にも触れる。

以上、こうした「人間の本性」をめぐる議論はすべて、仮説づくりと実験や観察による検証という、自然科学と同じ方法でなされる。つまり、自然主義の枠組みのなかで行われている。このように、いかに自然主義が豊かであるかを見たうえで、後半ではいよいよ自然主義そのものの是非が論じられる。

第7章は、「規範」に関して自然主義に突きつけられた疑念に取り組む。自然主義は、たとえば人間の道徳とはどんなものであるかは教えてくれるが、「どんな道徳を持つべきか」は教えてくれないのではないか。著者の答え(の一つ)は「「べし」(規範)は「できる」(可能)を含意する」というもの。つまり、何ができるかを知っておかなければ、どうすべきかはわからない。道徳をよりよく設計するためには、「二重プロセス理論」などを通じて人間の心の特徴をつかんでおくことが有効になる。規範を考えるうえでも人間の道徳がどのようなものであるのか知ることが必須である点において、規範の問題は記述の問題と切り分けることはできない。

第8章は、自然主義に対する真正面からの挑戦に応答する。それは、「帰納は間違えるかもしれないではないか!」「どんなに科学で自分のことがわかった気になっても、もしかしたら僕らは培養槽の脳かもしれないじゃないか!」という「懐疑論」からの挑戦だ(後者は、映画マトリックスのような状況を引き合いに出して、経験だけから知りえたことが丸ごと間違っている可能性を指摘するもの)。これに対しては、本書は、では自然主義をとらないで物事を考えるにはどうすればいいか、と切り返す。懐疑論者は、経験によらない確実なところからスタートすべきと考えたデカルトの方法、つまり「アプリオリズム」を取らなければならない。しかし、信頼に足るアプリオリな能力などあるのか? アプリオリな能力そのものを科学で解き明かそうとする自然主義者にとって、デカルトの方法はとても心もとない。むしろ、懐疑論そのものが経験によって生まれたのではないか? 「懐疑論そのものが科学の内側から生じ、したがってまた科学の中で問われるほかないものなのだ」(クワインの引用p217)。さらに「培養層の脳」は、「同じ土俵に乗ったが最後、自然主義の側が必ず負けを強いられる」(p.223)ようなツッコミなので、その土俵には上がらずに、なぜそういうツッコミがなされるのかを自分の土俵で分析する。そのほうがよほど実りがある。

最後の第9章では、自然主義のもとで、哲学と科学はどのように協働するのかがテーマとなる。今まで自然科学が取り込めていなかった主題(道徳、理性など)について、哲学は論理地図を整備したり、あたらしい概念をつくったり、科学理論を評価したりすることにより、積極的に貢献できる。こうして考えると、「科学にとって哲学は避けられない」(p.247)し、「主題と方法のどちらの点についても、哲学と科学との間には埋めがたい溝はおろか明確な境界線さえ存在していない」(p.257)、そうした自然主義的な科学と哲学の関係の捉え方が導かれる。

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以上、各章の内容をまとめてみた。曲解もあると思うし、本書自体が十分易しく書かれているので、ぜひ本文をたどってみていただきたい。

本書を読んでもなお、自然主義に100パーセント同意できない自分がいるのを感じる。自分の心が生物進化論や脳内生理学でどんなに説明されたとしても、それでは掬い取れない「何か」が残るのではないか。科学が明らかにする「人間の本性」をもとに「ではどう生きるか」を考えるのには、科学から切り離された何らかの「哲学」を要求するのではないか。とはいえ、自然主義のしぶとさを思い知った。自然主義はどこまでも、「科学がすべてではないというのなら、対案を出してください。あなたの対案で、何か有意義な議論ができますかね?」という形で、切り返してくる。なお、誤解がないように補足しておくと、著者は決して自然主義を押し売りしているわけではない。たとえば、こんな書き方をしている。

あくまでも自然主義のスタンスを貫き通すなら、答えの見つかる場所を含むこの自然的世界のほうかはないと覚悟して、科学とともに探究を進めていく以外に道はない。p.237

 「あくまでも自然主義のスタンスを貫き通すなら」という表現は、それ以外のスタンスがありうることを示唆しているように読めた。

自然主義の手ごわさと同時に、その魅力も感じることもできた。自然主義は決して「心を脳に還元する」というような凝り固まったものでなく、たとえば「環境中に拡張した心」など、従来の科学的説明から外れるような見方を取り入れる余地があることがわかった。哲学が「科学に浸食されていく」のではなく、むしろ哲学が科学をグレードアップさせる可能性があると考えると、むしろ積極的に自然主義を応援したくもなった。

盤石な哲学のうえに科学を築くようなことはできない。先へ進むためには、「ノイラートの船」に乗り込むしかない。ただし、せめて「船に乗らなかった自分を想像する」ことくらいは、忘れないでいたい。本書の読んだいま、しばらくそんなスタンスでいこうかと思っている。

かりに「自然主義」というワードにぴんと来なくても、「科学に対して哲学は何をしてくれるのか?」ということに関心のある理工系の人に、ぜひ読んでみてほしい。

 

読書メモ:退屈なことはPythonにやらせよう(Al Sweigart著)

めずらしく技術書をレビューしてみたいと思います。
就職してから5年半、「プログラミングを覚えたら仕事が楽になるかな?」と思うタイミングが何度かあり、PerlとExcelVBAの習得を試みたものの、途中でめんどくさくなり結局ものになりませんでした。今回、Pythonで3度目の挑戦に踏み切るきっかけになったのが、本書『退屈なことはPythonにやらせよう』でした。
約一月かけて、会社の休憩時間に読み進め、のべ16時間ほど取り組みました。なお、後半の14~18章は「とりいそぎは使わないかも」と判断したため未読です。
一言でいうと、とてもよくできた、ありがたい本だと感じました。優れているのは、まず、扱われているプロジェクトが読者(=ノンプログラマー)のやりたいことに即している点。フォルダの名前を一括変更したり、pdfを連結したり、Webサイトからjpegファイルをまとめてダウンロードしたり、普段「これ自動化できないものかな?」と思っているようなことを解決するコードを学べるので、読み進めるモチベーションが維持できました。もう一つは、自分でコードを書けるようになるための工夫が凝らされている点。長めのコードも、それを書くときに発想に立って丁寧に解説しているので、無理なく追っていけました。また各章の演習問題の難易度がちょうどよく、うまく動いたときには「できた!」という達成感がありました。そして何より、「Pythonと自分のスキルでどれくらいのことができそうか」という見通しが得られたのが、本書を読んでの一番の収穫だったと思います。
本書を読み終えれば、PythonでのWebスクレイピングの本を読んだり、もう少し日本語のpdfを扱えるモジュールを試してみたりなど、次のステップにも自然に進んでいけそうです。個人的には、自分の実務で動かせるようなコードをちょこちょこ書いていきたいです。
他言語も含めまったくのプログラミング初心者にとっては、躓く箇所はあるかもしれません。その場合でも、身近に助け合える仲間がいるならば、本書はベストチョイスではないかと思います。

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「AIによる生産性向上」などが叫ばれる昨今、本当は「ノンプログラマーがちょっとしたコーディングを身に着ける」ことが実は効果が一番大きいのではないかと思います。その意味でも、素人のレベルまで降りてきてくれる本書のような技術書は心底ありがたいな、と思います。

読書メモ(再掲):かくて行動経済学は生まれり(マイケル・ルイス著)

 

かくて行動経済学は生まれり

かくて行動経済学は生まれり

 

 『かくて行動経済学は生まれり』という邦題には意表を突かれた。副題の"Friendship"は残してもよかった気も…。あと、原著の青と赤の消しゴムのカバーは素敵だったのに…。とかいろいろ思ってしまったが、そこはやっぱりビジネスですね。

原著を読んだときの感想を(一部文章を整えて)再掲します。

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The Undoing Project: A Friendship That Changed Our Minds

The Undoing Project: A Friendship That Changed Our Minds

 

前から、ダニエル・カーネマンのことが気になっていた。

それは、おもに『ファスト&スロー』の著者として。

『ファスト&スロー』は2011年に出た本だが、これを読んだ人が、皆得意げに「システム1」だとか「○○バイアス」だとかいう、独特な言い回しを使い始めたことは印象的だった。カーネマンはこの本で、人間の心がいかに多くの偏見やバイアスによって誤った判断をしがちかを示している。人々の判断や意思決定は合理的ではなく、その間違え方には傾向と理由がある。そうした人の心の性質を踏まえて、よりよい意思決定をするにはどうすればよいかを論じる。たんに面白いだけではなく、実用的な本でもあった。

『ファスト&スロー』に出てくる多くの研究はカーネマン自身の手によるものだが、もちろんすべてを彼一人で行ったわけではない。とくに、ある人物の名前が頻出する。同じくイスラエル出身の心理学者、エイモス・トヴェルスキ―だ。カーネマンは、主要な研究のほとんどをトヴェルスキーの共同で行っており、2002年のノーベル経済学賞も、もしトヴェルスキ―が早くして亡くなっていなかったら、二人で共同受賞しただろうと言われている。

カーネマンは著書で何かにつけ「エイモスは…と言った」だとか「エイモスと私は…してみた」とか書いている。科学の歴史には共同研究がつきもの(代表例はワトソン&クリック)だとはいっても、カーネマンとトヴェルスキ―の親密さには、ちょっと尋常ならざるものがある。

彼らの共同研究は、どのようなものだったのか。二人は、いかにして心理学や経済学の革命をもたらすほどの業績を生み出すことができたのか。

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本書"The Undoing Project"(『かくて行動経済学は生まれり』)は、その経緯を克明に描いている。

著者は、映画『マネー・ボール』や『マネー・ショート』(原題"The Big Short")の原作者として知られるMichael Lewis氏。『マネー・ボール』は、メジャーリーグの弱小チームが、勘や経験ではなくデータに基づいたスカウトの仕組みを導入して強くなるまでを描いたノンフィクションだ。Lewis氏は、これを書いたあと、「マネーボール的な考え方」の背後にカーネマンらの業績があることを知った。それをきっかけにカーネマンに本人にも会い、やがて興味がカーネマンとトヴェルスキ―との関係に向かう。そうして、二人の物語を書くことにしたというのが、本書執筆の経緯だそうだ。

それぞれの生い立ちから、二人の出会い、共同研究の日々、そしてトヴェルスキ―病死による別れまでを、多くの人の証言をもとにして描いている。ストーリーテリングは流石で、最初から最後までひきこまれる。

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エイモス・トヴェルスキ―という人物は強烈だ。カーネマンより3歳年下だが、イニシアチブをとっていたのは常に彼だった。とにかく大胆不敵な性格で、「手紙は読まずに捨てる」「やりたいことしかやらない」タイプ。それでいて、みんなから好かれていたという(この人物像で私の脳裏に浮かんだのはリチャード・ファインマンだった)。兵役時には第一線で奮闘するようなフィジカルの強さも持っていたし、研究では論敵を徹底的にやっつけるような負けん気の持ち主だった。そして何より、頭がよかった。「トヴェルスキ―の賢さにどれくらい早く気付けるかが、その人の知能の高さを示す」と彼の同僚は話したという。

一方のカーネマンは、どちらかというと疑心暗鬼で、気難しい性格だった。彼のことを「ウディ・アレンみたいな人、ただしユーモアはない」と表現した同僚がいたそうだ。しかし、直観力にすぐれていて、他人の理論の穴に気づいたり、核心をつく質問をする能力に長けていた。

まさに陰と陽。真逆の二人。誰も彼らが一緒に何かをするとは予想もしていなかった。それでも、ある日を境に二人は共同研究をはじめ、お互いを補完する関係性になっていく。多くの場合、研究の種となるアイディアをカーネマンが出し、それをトヴェルスキ―が持ち前の明晰さで分析する。二人で実験を設計し、出てきた結果をもとに一緒に論文を書く。二人は研究室にこもると何時間も出てこなかったそうで、部屋からは始終大きな笑い声が聞こえてきたという。カーネマンが「もうアイディアが枯渇した」と嘆くと、トヴェルスキ―は「ダニーは誰よりもアイディアをもっているよ」と言って笑い飛ばす。"We were sharing a mind."(p.182)とカーネマンが振り返るような、とても濃密なコミュニケーションがそこには生まれていた。

前半部の二人の関係がすごく幸せそうなだけに、後半で二人がすれ違い始めるのが切なかった。著者はその原因を、カーネマンのトヴェルスキーに対する気おくれの感情に帰している。トヴェルスキ―だけが賞をもらったり、教授職のポストを打診されたりすることが重なるなかで、彼はトヴェルスキ―から距離をおく決断をする。

しかし、その矢先の余命宣告…。

本書のラストは、トヴィルスキー亡きあと、とある場面でのカーネマンの心理描写で締められている。そこに、原書タイトルの"Undoing Project"にちなんだ仕掛けがあって、著者の狙いどおりに思わず涙腺が緩んでしまった。

***

著者のカーネマンへのまなざしは始終温かいのを感じた。自分を信じて物事をスパスパと切っていくトヴェルスキ―と対照的に、カーネマンは自分自身への疑いの目を向け続ける。自分とは違う見解に出会ったとき、トヴェルスキ―なら闘いを挑むところを、カーネマンは"What might that be true of?"と問うのを常としていた。この"What might that be true of?"、つまり「どんな前提に立つとそれは真とみなせるのか」が、著者が本書で何度か繰り返すキーセンテンスの一つになっている。カーネマンのこのような態度が、彼が人間の心の本質をつかむことを可能にしたのだろう。

カーネマンたちの業績は、今では、心理学や経済学を超えてあらゆる分野に影響を与えている。そんなパラダイムチェンジングな学術成果が、一人の天才の脳からでもなく、ゆるくつながった研究者集団からでもなく、「緊密に連結した二つの脳」から生み出されたという事実。なにか、とても良いことを知れた気分になった。

 

読書メモ:ブラックボックス化する現代(下條信輔 著)

 

認知科学者、下條信輔氏による社会評論。2010年から執筆を担当している朝日新聞デジタル版のコラムをまとめ直したものだそうだ。

扱っているテーマは幅広い。

  • 原発事故、Welq問題、五輪エンブレム問題、杭打ち偽装など、その時々に起こった「事件」の論評。なぜそういうことが起こるのか。こうした事件の背後にある、人々の心に起こっている変化をどう読み解けるか。
  • 人工知能、ロボット、ビッグデータなど、身の回りで進化を続ける技術への考察。そうした技術の進歩が、人々の心にどんな影響を及ぼしうるか。どんな心構えをすればいいか。
  • 科学政策や教育政策への、問題点の指摘と提言。STAP事件などに現れている日本の科学の問題点は何か。英語教育をどうすればよいか、など。

それぞれに数章を割いて、テンポよく論じていく。

その時々に著者が思ったことを書いているので、各章は独立している。これら一見バラバラな論考に「軸」を通すべく、(おそらく)あらたに書き下ろした「まえがき」や第1章のなかで、著者は「ブラックボックス化」というコンセプトを提示している。

使い方だけわかっていて動作原理がわからない状態を「ブラックボックス」ということがある。日常会話でも使われるが、本来の意味は「入力と出力の関係はわかっているが、中身の動作原理がわからない」あるいは「あえて隠されている」、そういう電気回路、機械、あるいは生物系などを指す。

私たちの現代社会は巨大化し複雑化して、丸ごとブラックボックス化してきたのではないか。(p.4)

いろいろな技術の進歩が、社会のしくみ、ひいては人間の「心」のブラックボックス化をも促している。現状をそのように捉え、さまざまな「近視眼的な判断」「偽装」あるいは「政治的な分断」を、ブラックボックス化の帰結として理解する。そのうえで、ブラックボックスの中身をもう一度吟味してみようと、(ときに厳しくときにやんわりと)提言する。

個別の評論・提言に説得力があるかは、読者によって意見が分かれると思う。私個人は、たとえば、

  • 潜在的認知の専門家として、無意識に働きかけるマーケティングの行き過ぎやポピュリズムを考察している点
  • 日・米の科学・教育の現場を知る当事者として(著者の現所属はカリフォルニア工科大学)、漠然とした「欧米のイメージ」ではない、リアルな現状認識に基づいて議論している点
  • 脳や心に働きかける介入技術を第一線で開発している張本人として、技術的進歩のポテンシャルを過大評価も過小評価もせずに論じている点

などは著者ならではの視点であり、傾聴に値すると思った。

どのトピックも、白か黒かではなく、「すぐには答えは出ないのでよく考えていこう」という結論になっている(たとえば、間違った科学論文が、明らかに「クロ」の研究不正であることは稀で多くの場合「グレー」であり、それらを丸ごと否定すべきではない、という立場に著者は立つ)。結論ではなく、どう筋道立てて考えていくか。瞬間的に何らかの「ポジション」をとってしまう自分の脳を、いかに「脱・ブラックボックス化」するか。そのことの大事さを教えてくれる一冊であった。

読書メモ:脳はいかにして意識をつくるのか(ゲオルク・ノルトフ 著、高橋洋 訳)

 

脳はいかに意識をつくるのか―脳の異常から心の謎に迫る

脳はいかに意識をつくるのか―脳の異常から心の謎に迫る

 

原題は“Neuro-Philosophy and the Healthy Mind: Learning form the Unwell Brain”。「意識」や「自己」や「アイデンティティ」の脳科学研究を手掛ける著者が、自身の研究のアプローチを一般向けに説明した一冊。原題の「神経哲学(neuro-philosophy)」という言葉に興味を引かれていたが、読むタイミングを逃していた。先日、東京で著者ノルトフ氏の講演があったので出かけていった。「面白かったけどよく分からなかった」というのが率直な感想だったため、会場で割引販売されていた本書を買って読んでみることにした。

結論からいうと、本も難しかった。「意識」については、ここ数年だけでもコッホ、ドゥアンヌ、ダマシオ、トノーニら著名な神経科学者による本が相次いで邦訳されているが、それら「意識の脳科学本」に比べると本書『脳は意識をつくるのか』は難度が高く、私には読みこなせなかった。

それでも、読後の印象を少しメモしておきたい。

***

ノルトフ氏のアプローチとはどんなものか。

本書から読みとれた限りでは、それには三つの特徴がある。

一つは、研究対象を、健康な脳ではなく、不調をきたしている患者の脳(=“unwell brain”)としていること。臨床精神科医でもある著者は、植物状態統合失調症抑うつの患者を対象にしたfMRIなどの脳測定結果をもとに、「意識」「自己」「アイデンティティ」にまつわる仮説を打ち立てていく。病理への着目という点では、同じく臨床医であるトノーニ氏とも共通しているかもしれない。

二つめの特色は、脳の「安静時状態」に着目している点だ。「意識」の研究というと、心に何らかのイベントが生じた時点(ex: 両義図形の解釈が変わったときなど)の脳活動を捉えようとするのが普通だと思うが、ノルトフ氏はあえて「何もしていない」ときの脳に着目する。安静時の脳活動を測ると、ある部位(脳の中央付近の大脳皮質)において、うつ状態統合失調症に特有の活動パターンがある。また、同じあたりの脳部位の安静時活動は、植物状態の患者の意識レベルと相関する。さらに、その部位は、「自己」に関する刺激(その人の名前を呼ぶなど)にも特異的に反応する。そうした事実から、これらの脳部位の安静時脳活動が意識や自己を生み出す条件を用意していると考えられる。著者はこれをNCC(Neural Correlate of Consciousness)ならぬNPC(Neural Predisposition of Consciousness、訳は「意識の神経素因」)とみなすことを提案している。NCCからNPCに視点を移すことは、一見、目的から遠ざかるようにも思えるかもしれないが、個人的には正しい方向性に思える。意識は四六時中あるものだし、精神病の当事者の気持ちは分からないにしても「気分が変わる」という経験なら誰にもあり、そうした「意識の変化」の背後にある脳のベースライン状態の変化に関心が向かうのは自然なことだと思う。

最後の、そして最大の特色は、「哲学」を著者が頻繁に持ち出すことだ。ノルトフ氏は、本書の「精神病患者の脳の安静時脳活動を調べる」というアプローチが、心の哲学を書きかえる可能性をもつというような主張を繰り返している。たとえばこんな記述。

内因性の脳活動とその空間/時間構造を、意識の神経素因としてとらえることで、何世紀も議論され続けてきた心脳問題を検討するための新たな方法論的アプローチを考案できるだろう。このアプローチは、哲学的に心脳問題を考察するために心を方法論的出発点として措定する方法を、脳とその内因的な特性を出発点に据える方法で置き換えられる。(p.82)

何となくわからないでもないのだが、(1)この著者の立場が哲学的にどんな立場なのかが今一つわからない(個人的には、大づかみに言えば心を脳に還元することでハードプロブレムを消去する立場のように思った。が、違うかもしれない)、また、(2)本書で著者が示している症例や実験結果が、著者のいう「新しい哲学」へなぜ帰結するのかの論証のステップがよくわからない、という難しさがあった。

訳者解説によれば、ノルトフ氏は母国ドイツの現象学系の哲学だけでなく、日本の木村敏の著作などにも通じているそうだ。カントに由来するような「心はどれくらい時間・空間の枠組みをアプリオリにもつのか?」といった問題意識や、木村敏の「精神病患者の時間論」に、脳科学的にアプローチできるのだとしたらすごいことだと思うし、本書はそれをやろうとしているようにも読める。ただ、私には残念ながら本書からはそれがどの程度できているのかを読み取ることができなかった。「モチベーションが共感できるし結果も面白いのだが、そこに至る道筋が読み取れない」という読後の印象は、津田一郎先生の本を読んだときにも似ていた。

今後ノルトフ氏のような観点をもつ研究者が増え、より平易な著作が出されることに期待したい。

 

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ノルトフ先生にいただいたサイン(メッセージは“happy self and consciousness!”)。笑顔が素敵な方でした。

読書メモ:工学部ヒラノ教授のはじまりの場所(今野浩 著)

 

「出身高校は?」「都立日比谷高校です。」「あの日比谷ですか!」「そうです、『昔は』すごかった日比谷です」…。母校が話題になると、だいたいここまでがお決まりのやりとりとなる。ワン・オブ・ゼムの公立校になって久しい日比谷高校は、その昔は日本随一のエリート校として知られていた。

工学部教授の生態を赤裸々に綴り、人気を博した「工学部ヒラノ教授」シリーズ。異例のペースで続巻が出まくった結果、ヒラノ教授(=著者)の大学生時代から名誉教授の現在までが(ほぼ)カバーしつくされ、本作にいたってとうとう中学・高校が舞台となった。(twitterで誰かが「島耕作化している!」と言っていた。)そして、著者が通った高校こそ、あの黄金時代の「日比谷」なのだ。

大学教授の父、超学歴重視の母(「東大以外は大学ではない」が決め台詞)、大秀才の兄、という家庭環境のなかで1950年代の東京で10代を過ごした著者が、学大付属世田谷中というこれまたエリート中学校から(紆余曲折ありつつも)日比谷高に進学し、東大に合格するまでが描かれる。60年前のことを思い出しながら書いているとは信じられないほどディテール豊かなのだが、あとがきによれば「脚色」は5%未満だそうだ。

40年以上の時間の隔たりがあるにもかかわらず、自分の中学・高校時代を思い出させられる部分も多かった。魅力的なクラスメートに近づきたいという願い。勉強へのモチベ―ションの浮き沈み。運動部に入るも仲間ほど情熱を傾けていないことへの後ろめたさ。長らく忘れていた気持ちが蘇ってきた。

でも、やっぱり、1950年代の彼らの青春時代と、2000年代の僕らのそれは全然違っていた。

まず、当時の日比谷高(あるいは学大付属中)に集まっているタレントの濃密なこと。著者が中高時代につるんでいた友人たちは、大学教授、大企業の社長、著名エコノミスト等々として大成した人物ばかりだそうだ。

そういう振り切れたポテンシャルの生徒たちが集まると、彼らは何をするのか。たとえば、中学時代の著者とその親友はこんなことを話していたという。

では二人の少年は、どのようなことを語り合っていたのだろうか。数学・理科・英語のこと。日本の将来のこと。アメリカのこと。女子学生の品定め。栃錦 vs 若乃花論争。ベートーヴェン vs チャイコフスキージョージ・セル vs シャルル・ミュンシュ。ユーディ・メニューイン vs ナタン・ミルシュタインなどの音楽談義。大山康晴 vs 升田幸三の将棋哲学。セ・リーグ vs パ・リーグの野球論争。藪伊豆 vs 更科のそば比較。また力道山 vs シャープ兄弟のプロレス対決についても、熱く語り合ったはずだ。(p.63)

固有名詞を今のものに置き換えれば、中学生の会話内容としてはわりと普通?かもしれない。でも、このなかに「数学・理科・英語のこと」と「日本の将来のこと」が含まれているのに注目したい。スポーツや芸能についておしゃべりするのと同じ熱量で、そうしたことを語り合う仲間がいる中学生が、21世紀の日本にどれくらいいるか…。

自分のあの苦い10代、勉強はまずもって「効率よくこなす」べきものであり、勉強ができることは優等生的従順さの証明にしかならないという価値観のもと、勉強を頑張る同級生を牽制しあうような同調圧力を感じながら10代を送った自分にとっては、当たり前のように東大(とその先)をめがけて切磋琢磨する著者たちがまぶしすぎた。

…という愚痴は置いておいて。

昭和初期を舞台とした青春小説を読むようなつもりでも楽しめるし、今の日本をつくってきたエリートたち(名誉教授、名誉会長、政治家OB世代の人々)がどんな土壌から出てきたのかを知るための実録としても貴重な1冊。ぜひご一読を。

読書メモ:Behave(Robert Sapolsky著)

 

Behave: The Biology of Humans at Our Best and Worst

Behave: The Biology of Humans at Our Best and Worst

 

「なぜ私はどうでもいいことで怒ってしまうのか?」「あの人はなぜ浮気をしたのか?」「トランプ大統領を支持する人がいるのはなぜか?」――人間の行動に関するこうした「なぜ?」を、科学的に説明したいという欲求は根強い。じっさい、神経生理学・分子生物学発達心理学・進化生物学など様々な分野の専門家がそれを解明すべく研究しているし、「あなたのその行動は、○○が原因なのですよ」という本もたくさん出ている。この「○○」には、「神経細胞」「ホルモン」「遺伝子」「幼少期の体験」「進化的に獲得された本能」など、それぞれの分野のキーワードが入る。

でも、人間の行動の原因は決して一つではない。本来は、脳細胞の活動「も」、ホルモンの分泌「も」、幼少期の経験「も」、親から受け継いだ遺伝子「も」、すべてが複雑に組み合わさって行動が生まれる。なので「人は○○が9割」ということはありえない。

"Behave: The Biology of Humans at Our Best and Worst"は、そうした多階層にわたる「行動の科学」を、一挙に見渡すことを目指した本である。その壮大な構想にふさわしく、800ページ(ハードカバー版)というボリューム。著者Sapolsky氏は神経内分泌学と霊長類学の二足のワラジを履く研究者で、アフリカの野生のヒヒ(baboon)のストレスホルモンを調べた研究などが有名な人らしい。

前半部は、行動を説明する諸科学のレビューになっている。行動が起こった時点から、時間を遡っていく。動物(人)のある行動の直前には、まず、それを引き起こした脳細胞の活動がある。その脳活動は何らかの感覚刺激で引き起こされる。その刺激応答はさらに、数時間前の脳内のホルモンの分泌状況に左右される。脳細胞の配線は数日~数か月のスパンの神経可塑性のはたらきで決まり、さらにはその個体(人)が生まれてからの経験に依存する。そして、経験以前に、生まれ持った遺伝子がその個体の行動の傾向を左右する。さらに、人間(一部の動物も)の行動は数百年単位で蓄積された文化の影響を受ける。最後に、文化よりさらに長いスパンで遺伝子そのものを変化させる生物進化のプロセスがある。本書2章~10章は、神経生物学、内分泌学、神経可塑性発達心理学、遺伝学、文化論、進化論が取り上げられ、各領域で動物や人間の行動について明らかになっている結果が紹介されていく。

後半部は、こうした行動の生物学(心理学)が、"our best and worst behavior"と著者が呼ぶものについてどのような洞察をもたらすか、にページが割かれる。人が他人を思いやったり助けたりする「善い」行動と、人が他人を傷つけたり偏見をもったりする「悪い」行動の本性は、生物学的にどう理解できるのか。ここでは、具体的には「Us/Themの分断」「ヒエラルキーの形成」「道徳」「感情移入(共感)」というテーマが取り上げられ、それぞれ1章ずつ割かれている。この部分では、(1)霊長類など人間以外の動物にもこれらの行動(差別や道徳的行動)は見られるが、一方で(2)人間特有の要素も必ずある(人間は複数のヒエラルキーに属せるなど)ことが、繰り返し強調される。

 

以上は全く表面的な本書の概要。しかも最後の2章について触れていないので概要にすらなっていない。(興味のある方はご自身で読んでください。すみません。)

これだけのページ数を割いて分かることは何か。著者はいみじくも言う。

If you had to boil this book down to a single phase, it would be "It's complicated".

一つの階層の現象(神経活動、ホルモン分泌、etc)は、必ず他の階層の現象(遺伝子、環境、etc)と絡み合っているので「一概」なことは何も言えない。しかも、本書では「A」という学説に対して必ず「not A」の学説が紹介されていて、一つの領域内ですら一致が見られていないことがよくわかる。だから、結論は"It's complicated"なのだ。

決して分かりやすい本ではなく、話も蛇行していたりして読み進めにくい。そして何より長い。それでも、800ページのこの本を通読する価値があるとすれば、今後「○○は××の行動を引き起こします」といった説明を聞いたときに、この本を思い出して、「いや、ちょっとまて。ほかの階層ではどんな条件が前提されているのだろう?」などと立ち止まって考えられるようになることだろうか。 

 

読書メモ:我々みんなが科学の専門家なのか?(ハリー・コリンズ 著、鈴木俊洋 訳)

 

我々みんなが科学の専門家なのか? (叢書ウニベルシタス)

我々みんなが科学の専門家なのか? (叢書ウニベルシタス)

 

書名が面白い。『我々みんなが科学の専門家なのか?』。この疑問に対する本書の答えがこれ。

「我々みんなが科学の専門家であるわけではない。」(終章「結論」より)

書名で疑問を提起して、シンプルに「No」と答える。これだけだと何のことかわからないが、この自問自答の意味は、中身を読むとわかる。

それはどんな意味か。

「我々みんなが科学の専門家なのか?」を「誰が科学の専門家なのか?」と言い換えたほうが分かりすいかもしれない。これは、私たちの日々の生活にも関係する問題だ。たとえば、テレビに出てばかりの“自称”科学者(いわゆる「タレント学者」)や、政府や特定の産業の利益を代弁する「御用学者」の言うことを真に受けてはいけないと言われるが、では、タレント学者や御用学者と本物の科学者をどうやって区別すればいいのか。そういった、「どの科学者を信じるか」問題につながるのだ。

「誰が科学の専門家なのか?」に答えるためには、専門家を専門家たらしめているもの、つまり「専門性」や「専門知」とは何か、を考える必要がある*1

この問題に取り組んできた分野に、科学論(science studies)がある。科学論は、大きく科学史・科学哲学・科学社会論に分類され、本書の著者コリンズは3つ目の科学社会論で有名な研究者だそうだ。本書では、専門知をめぐる科学社会学(や科学論)の議論の大きな流れを概説しつつ、「誰が科学の専門家か?」に対する著者なりの答えを示している。著者の研究事例には踏み込まずにコンパクトにまとめられた、非専門家(「科学論」を専門としない読者)向けの入門書となっている。

科学の捉え方は時代とともに変わり、それに応じて「科学論」の扱うテーマも変わってきた。本書第1章では、科学論の主題の変遷を「3つの波」として整理している。科学への信頼を背景に「なぜ科学は上手くいくのか」を主題としていた「第1波」。科学といえども人々の合意でできているという側面にフォーカスし、科学を世俗的なものとして描いてきた「第2波」。そして、個々人の科学者が世俗的な存在であるとは認めつつも、「科学者の専門知はどう特別なのか」をもう一度テーマに据えるのが、著者が提唱する「第3波」ということになる。

「第2波」によって、「専門知は(狭い意味での)専門家だけのものではない」という考え方が広まった(だから「我々みんなが科学の専門家なのか?」という問いが意味をなす)。たしかに、患者が自分の病状について医者なみに詳しくなったり、大学や学会とは無関係に研究をしたりする人もいる。

でも、だからといって「今や誰もが専門家なのだ」とするのは行き過ぎだ。そう考える著者は、第2章にて、「専門知にもいくつかの種類がある」という議論を展開する。

ユビキタス専門知」、「スペシャリスト専門知」、「メタ専門知」、その下位のサブカテゴリ―としての「ビールマット専門知」、「一次資料知」、「対話的専門知」、「貢献的専門知」、「技術的見識眼」等々、独特な用語づかいで細かく分類がなされる。なかでも、とくに「一次資料知」「対話的専門知」「メタ専門知」の三つが重要となる。

  • 一次資料知(primary source knowledge):当該分野の原論文を読んで得られる専門知
  • 対話的専門知(interactional expertise):当該分野の専門家(実際に論文を書いて分野に貢献している専門家)のコミュニティとの交流によって得られる専門知
  • メタ専門知(meta-expertise):専門家を判定し、様々な専門家の中から一人を選ぶときに使われる専門知

「一次資料知」と「対話的専門知」は、その分野で実験をしたり論文を書いたりしているコアな科学者でなくても持てる点では共通している。しかし、大きな違いがある。それは、後者には「科学者コミュニティの共有している暗黙知」が含まれるが、前者には含まれないということだ。

一次資料知だけに頼ると、その分野にいれば誰もが知っていることを見落としてしまう。本書第3章では、一次資料知の弊害として、「偽の科学論争」を生んでしまうことが指摘される。その分野では全く評価されていない異端的な研究者の論文を素人が読んで真に受けると、それが「本当の科学論争」があるように見えてしまう。たとえば、HIVのワクチンの副作用についての異端的研究者の論文をもとに、ワクチン接種が(不当に)見送られた南アフリカの例が挙げられている。こうしたことを防ぐためも、専門家がコミュニティのなかで共有している「暗黙知」は重視されるべきであり、それゆえ一次専門知よりも対話的専門知に価値がある。

では、対話的専門知を持たない一般人は、科学的な判断にまったく関与できないのか。そうではない。当の専門家たちがちゃんと科学を遂行しているのかをチェックすることは一般人にもできるし、しなくてはいけないというのが、第4章のテーマとなっている。ただし、それは論文を読んで詳しくなること(=一次資料知を身に着けること)によるチェックではなく、「メタ専門知」を使って「誰が信用できる科学者か」を判断するという意味でのチェックである。具体的には、タバコ企業からお金をもらってタバコの害を小さく見せる論文を書いている科学者がいたら追求すべし、というようなことだ。

最後に、専門家コミュニティーを信じるべき理由は何かという疑問が残る。これについては、著者は手短に、普遍主義・懐疑主義・利害中立といった「科学者のエートス」を挙げている。科学は、一部の例外はあるにせよ、おおむね科学者のエートスをもって遂行されているので、その内部でなされた議論は一般人の議論と等価ではなく、リスペクトされるべきものとなる。

感想を少しだけ。

まず、「専門知を尊重すべし」という著者のスタンスには共感するし、「なぜ尊重すべきか」を科学社会学が説明してくれるなら素晴らしいと思う。ただ、本書だけでそれができているかというと、疑問もいくつかあった。たとえば、著者のいう「科学者のエートス」は、本当にあらゆる専門的科学者の集団で保たれているのか、分野ごと地域ごとに「劣化」するということがないのか、ということが気になった。

それでも、納得できる部分も多い本ではあった。とくに、以下のような個人的な教訓が得られた。

  • 本や論文を読んだだけで分かった気になるのは危険!
  • 専門家と会って話をするのが大事!
  • 主流派コミュニティとインタラクトしていない自称専門家には注意!(異端科学者の真価が分かるのも主流派科学者だけ!)

といったところだろうか。

あと、翻訳者の注釈と解説が充実していて、とても勉強になった。原著を読んでいたとしても買う価値のある邦訳本になっていると感じたし、学術書の翻訳書はこうでなくちゃいけないなと思った。

*1:「専門性」や「専門知」はどちらも“expertise”の訳語だということを今回初めて知った。なお、今回の翻訳では一貫して「専門知」が使われている。