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読書メモなど

読書メモ:この宇宙の片隅に(ショーン・キャロル 著)

この宇宙の片隅に ―宇宙の始まりから生命の意味を考える50章―

この宇宙の片隅に ―宇宙の始まりから生命の意味を考える50章―

 

またもや物理学者が書いた大きな本が出た。それも600ページ超の大著だ。

まずは『この宇宙の片隅に』というタイトルに目がいく。去年の大ヒット映画をオマージュしたこの素敵な邦題を思いついたとき、訳者(編集者?)はほくそ笑んだかもしれない。

一方、原題は“The Big Picture”。世界のすべてを「一枚の絵」に描いてやろうという、大胆なタイトルだ。

邦題と原題が一見真逆にも思えるが、これから書くように、実はこの「謙虚さ」と「大胆さ」のバランスが、本書の特色になっている。

同じく今年出た『物理学は世界をどこまで解明できるか』(グライサー著、読書メモ)とも似て、本書も、理論物理学者である著者が物理学、ひいては科学の射程を見極めようという内容になっている。ただし、グライサー氏はどこか「考えながら書いている感」があったのに対し、キャロル氏のヴィジョンは練られていて完成度が高い。文章にも迷いがなく明快だった。

 

物理学を究めても、世界のほとんどのことはわからない?

中身を見ていく前に、著者に本書を書かせたモチベーションについて自分なりに少し想像してみる。 

物理学を志す人は、少なからず「世界をすべてわかりたい」という志向を持つ。より根本的な法則、より基本的な粒子や力の理解を求めて勉強を進める。すると、素粒子から宇宙までを記述する一通りの数式を扱えるようになる。一般人が知らないような「波動関数」「エントロピー」「曲率テンソル」といった概念にもなじんでくる。でも、それ以外のほとんどのことは何もわかっていないことにハタと気づく瞬間がある。生命について、人間の心について、社会について、経済について、「人生の意味」について、物理学が言えることはなさそうだということに、唖然とするタイミングがくるのだ(私自身は、物理学科の卒論を書き終えて出かけたインド旅行の最中にこの感覚を味わった)。

自分が知りえた物理法則と、それ以外の非物理学的だが「重要な(matterする)もの」の間の関係はどうなっているのか? 世界のことがわかりたくて、物理学の門を叩いたはずだった。この問いに答えを出しておかないと、物理学に人生をささげた自分が浮かばれない。……と著者が思ったかどうかはわからないが、それに近い気持ちで本書を書いたとしても不思議ではない。

 

…などと、「ビッグ・ピクチャー」を描きたくなる気持ちをシミュレーションしてみたところで、本の中身へ。

 

本書の内容

本書は6部構成になっており、各部が6~10章からなる。すべての話題を拾うことはとてもできないので、印象に残ったことを中心に取り上げたい。

第1部:「適宜自然主義」で宇宙を描く

第1部では、本書で著者がビッグ・ピクチャーを描く「方法」について説明する。最初のほうで、世界の記述の仕方の大きな3つの区分が示される。

  • (1)最も根本的な記述
  • (2)発現的*1(emergent)、実効的(effective)な記述
  • (3)人間の価値観が入る記述

これら3つに、それぞれ異なるレベルの「実在」が対応する。(1)には物理の最も根本的な法則で記述される「素粒子(ないしは量子場)」が対応し、(2)にはそこから「発現(創発)」する「温度」「エントロピー」などの高次の実在が対応する。(2)には「生命」「意識」といった生物学や心理学の概念も入る。そして(3)は「道徳」「目的」「意味」といった、人間の価値判断が関係する概念が含まれる。

(1)~(3)をすべて包括するような、「世界の整合的な記述」は可能だろうか? 一つには、すべてを(1)に、つまり物理法則に「還元」するという大胆な(横柄な?)やり方が考えられる。しかし、21世紀の物理学者として当然かもしれないが、著者はその道はとらない。そのかわりに提唱するのが、"poetic naturalism"と著者が名づけるスタンスだ。これに訳者は「適宜自然主義」の訳を当てている。自然主義、つまり「世界には観測できるものしかなく、すべては自然法則に従う」という考え方*2を取りつつも、その記述の方法は対象の種類ごとに「適宜」変えるべきだ、とする立場である。

これは一見、物理学の特権的な「守備範囲の広さ」を放棄しているようにも聞こえる。生物は生物学に、社会は社会学に任せよう、というふうに。しかしそうではない。この立場では(2)や(3)は、あくまで(1)から出てくるものだからだ。出てくるものであっても、「還元」はできない。人間の知識が有限だからだ。

たとえば、「自由意志」という概念がある。もし、現在の粒子の状態についての全ての知識(いわゆる「ラプラスの悪魔」の知識)を持っていたら、未来は100%予測できることになって、そこには人間の自由意志に基づく(と思われている)行動も含まれる。よって、自由意志が存在する余地がなくなる。しかし、現実にはラプラスの悪魔の知識を得ることはできない。だからこそ、「自由意志」という(2)のレベルの概念が「有用」になるわけだ。

人間の行動を決定されていると考えるかどうかは、私たちが何を知っているかによっている。(p.58)

個人的に面白かったのは、「記憶」や「因果」も創発的(発現的)な概念だとの主張だった。記憶についてだけ少しメモする。物理学的に考えると、「記憶」というのは「過去の宇宙の状態の推論を可能にするような『現在の』系の状態」のことにある。記憶から過去の推論が可能になるのは、「エントロピーが増える」という事実によっている。一方、根本的な物理法則のレベルでは「エントロピー」という概念は存在しない。ゆえに(1)のレベルには「記憶」も存在しない。なるほど。

ちなみにそこでは「時間の方向性」も存在しない。なぜ宇宙に時間の向きがあり、エントロピーは必ず増えるかと言えば、「宇宙が始まった時点のエントロピーが低かったから」という事実に行き着く(=過去仮説)。おお、そうか。

この議論にはハッとさせられた。因果律エントロピーと結びつけて考察するこのアイディアは、20世紀の物理学者、渡辺慧が『知るということ』という本に書いていた議論に通じるものを感じた。

第2部:それは確実か?

根本の物理法則があり、そこからすべては「発現(創発)する」。それはわかった。でも、なぜそう言えるのか? 適宜自然主義で知識の確かさはどう担保されるのかが、第2部のテーマとなる。

著者の結論としては、「確実」な知識にたどり着くことは永遠にできない。確固とした基礎のうえに知識を積み上げるというモデルは放棄して、信念の総体(本書の言葉で言うと「信念の惑星」)をより確かなものにしていくことしかできない。

「根本の物理法則」にしても、他の選択肢に比べて圧倒的に確からしい(ベイズ的な意味で大きな信念が持てる)から採用される、というところまでしか物理学者には言えない。この、「科学はベイズ的に前進する」という点の強調は、得られる実験データが少ないダークマターを研究テーマとする著者ならではの実感がこもっているかもしれない。

第3部:根本理論の姿

第3部から、「ビッグ・ピクチャー」の中身に入っていく。まずは、起点となる物理の根本法則とは具体的に何か。それは、著者が「コア理論」と呼ぶものだ。いわゆる素粒子の標準理論かと思いきや、ひとひねりがあって、「一般相対論」も加えた理論だという。

え、素粒子(量子物理)と一般相対論は統合されていないのでは? ……そうなのだが、日常的なスケールのエネルギー領域では、両者を取り入れた「実効理論」が作れるのだという。本書の付録には(物理学者ウィルチェックが提唱したという)コア理論の数式が示されており、そのシンプルさにちょっと感動する。

コア理論を手に、著者は「日常生活の根底にある物理学法則は完全に知られている」(p.249)と豪語する。

これは大胆であると同時に、実は著者にとっては謙虚な主張でもある。というのも、これが含意するのは、いま物理学者が追い求めている最前線の物理、たとえばダークマターや量子重力理論は、日常生活には一切関係ない(たとえそれが見つかったとしても「実効理論」に影響を与えない)という主張でもあるからだ。

有効場の理論はエネルギーがある限度より低く、距離が下限より上である限り、一定の場の集合に起きるすべてのことを記述する (p.266)

この人間スケールの「領域」では、もはや新しい粒子や力が見つかる可能性はない。その根拠を、量子場理論の"cross symmetry"という性質で説明していて興味深かった。

第4部:「複雑なもの」コア理論からどうやって出てくるか?

以降、話題はより高次の記述、つまり物理法則から「発現(創発)するもの」に移る。第4部の冒頭ではまず、宇宙に複雑なものが生まれる理由を、エントロピーの概念を使って解説する。 宇宙は、ビッグバンという最小エントロピー状態から、いわゆる「熱的死」の最大エントロピー状態へ向かう途上にある。一般に、系はエントロピーが増える途中で「複雑性」を最大化させる(ミルクとコーヒーが混ざる途中で複雑な模様ができるように)。今の宇宙は、まさに複雑さを生成しつつある段階ということになる。

時間が経過してエントロピーが増えるとともに、宇宙にある物質の配置がいろいろな形をとり、いろいろな高次の語り方ができるようになる。(p.398)

後半では「生命の誕生」を取り上げる。ニック・レーンの『生命、エネルギー、進化』(読書メモ)で解説されていたような様々な学説を引きながら、いかに生命の誕生と進化にまつわる理論が、「複雑性の発現」という枠組みで語れるかを示していく。

第5部:「意識」はビッグ・ピクチャーにどう収まるか

適宜自然主義にとって、「意識」は最大の難関となる。意識だけは、コア理論とは別の、何らかの存在論なり第一法則が必要になるとする議論もある(チャーマーズやトノーニ)。しかし結論としては、著者はあくまでコア理論の範疇で意識が発現するという考え方をとる。ポール・チャーチランド心の哲学の教科書『物質と意識(第3版)』では、この立場を「相互作用二元論」などと呼んでいたように思う。その説得力の是非はともかく、この考えをとれば、著者の「ビッグ・ピクチャー」は意識のために新しい絵具(実在)を用意しなくて済む。

第6部:「価値」については何が語れるか

最後の第6部では、世界記述の3番目のタイプ、つまり「価値」が絡む事柄が話題となる。人生の「意味」やら、どう生きるべきかの「道徳」やらは、適宜自然主義ではどんな扱いになるのか。

著者はまず、「『である』と『べし』を混同するな」というヒュームの警告を紹介するところから始める。科学は価値の問題に白黒つけることはできない。とはいえ、だからといって「価値について何も語らない」とはならない。

適宜自然主義は倫理について言うことは(…)ほとんどない。しかしメタ倫理について言うことはある。(p.552)

「何をするべきか」は科学で答えを出せる問題ではないが、「メタ倫理」、つまり複数ある倫理体系の違いについての考察には、科学の出番がある。このあたりは若干歯切れが悪い感じもしたが、著者は何とかして「~べし」と言わずに、道徳に関する教訓を引き出そうとしている。すごく雑にまとまると、その主張は「(適宜)自然主義をとる者にとって、無条件に与えられる『人生の意味』や絶対的に正しい『道徳法則』などはない。それは自分で見つけなければならない」といったところだろうか。この部での著者のメッセージは、わりと宗教を意識したものだと感じた。

 

感想:ビッグ・ピクチャーを描く意義

意地悪な言い方をすれば、本書は様々な学説を寄せ集め、自分の気持ちに沿うものを選んで並べた本、とも言える。とくに第4~6部は著者の専門外のため、その感がある。しかし本書の凄いところは、その寄せ集めが整合する世界観(=ビッグ・ピクチャー)をなしているということにある。

著者がこの本を書いたのには、冒頭に書いた「物理学者としてすべてを知りたい」という個人的な動機もあると思う。けれどそれ以外にも、敢えて自分の専門を超え出て「ビッグ・ピクチャー」を描くことの意義はいくつかありそうだ。一つには、文字通り「すべて」について整合的な語り方を用意しておくことで、「価値」が絡む事柄など、科学者が沈黙を決め込んだり逆に口を滑らせたりがちなテーマについても、「科学者として言える範囲のことを言う」ための準備ができるという効果がありそうだ。もう一つは、アメリカなどに特有の事情ともいえるかもしれないが、「宗教」との対抗軸をつくるという意味があるかもしれない。科学とは相いれない「世界観」を提示する宗教に対抗するには、ニュートリノブラックホールだけについて語っているだけでは十分ではなくて、「すべてについての科学的語り方」を構築しないといけないという側面もあるのだろう。この2点については「訳者あとがき」での整理が分かりすかった。

本書は、理論物理学者によってとても緻密に描き込まれた「ビッグ・ピクチャー」である。ただし教科書ではない。この本自体から知識を吸収するというよりは、読んだあとに「著者の構図にほころびはないか?」とか「自分ならどう考えるか?」とかいろいろと考えるきっかけとすべき本だろう。

個人的には、もしかしたらこのビッグ・ピクチャーに収まらないかもしれない一つの疑問が気にかかっている。それは、「何が特定のレベルの記述を『有用』にするのか?」という疑問だ。そしてその答えをあくまで自然主義的に、たとえば人間の脳の性質に求めるとすると、「じゃあ人間の脳を記述するのに『有用』な概念は何か?」が問題になって、議論がぐるっと一周する。ここには、著者の「適宜自然主義」という刷毛で描かれた「ビッグ・ピクチャー」のほころびの気配がありそうだ……などと思ったりするが、まだまだ考えが熟さない。

*** 

 

以下は著者がGoogle社で行った講演の動画。英語ですが、本書のエッセンスが1時間にまとめられています。

www.youtube.com

*1:創発的と訳されることも多いが、翻訳書では「発現的」の訳が当てられている。

*2:本書での「自然主義」という言葉の使われ方、『自然主義入門』(植原亮、読書メモ)などで解説されている哲学的な立場としての「自然主義」がどれくらい一致しているのかは、ちょっとわからないが、ちゃんと考えてみるべきことだろうと思う。

読書メモ:脳の意識 機械の意識(渡辺正峰 著)

 

この本を書店でみて意外に思った。

ひところ意識の脳科学の翻訳本が固めて出された時期があったが、最近はひと段落した印象を受けていた。人工知能ブームのなかでも「機械が意識をもつ」という予測を含む「シンギュラリティ論」が一時期注目を浴びたが、今は落ち着いて、むしろ「弱いAI」路線にシフトしつつあるように見える。そうしたなか、本書のようなタイトルの本が出たのは驚きだった。それも日本人の著者による書き下ろし、しかも中公新書でだ。

著者は「意識の脳科学」を研究テーマとする脳神経科学者で、特筆すべきなのが、国内外の様々な分野のパイオニアに師事した経歴だ。あとがきには、師匠の名前として、合原一幸(脳の数理研究)、下條信輔認知心理学)、田中啓治(霊長類の脳測定)、そしてニコル・ロゴセシス(意識の脳科学)などのビッグネームたちが挙げられている。本書の内容も動物実験・心理学実験・哲学・情報理論・人工神経回路理論と幅広く、わたり歩いた多分野の知見が、著者のなかで融合していることが窺えた。こんな研究者がいたとは知らなかった。

本の内容も面白く、文章の切れ味も抜群で、一気に読まされた。と同時に、読後には身の毛のよだつような「怖さ」も感じた。

***

中身を簡単にメモしておく。

第1章は、脳科学の研究課題としての「意識の問題」の紹介。「ニューロンとは」「シナプスとは」といった入門的解説にページを割いたうえで、この「ちょっとばかり手の込んだ電気回路にすぎない」脳(p.51)が、どのようにして「意識」、もう少し限定して言えば「クオリア」を生むのかが大問題なのだと説く。

第2章は、意識を生み出す脳部位を見つけるための一連の研究を振り返る。1990年代のロゴセシスによる「サルの両眼視野闘争」の研究により意識が本格的に研究対象となる。カギとなるのが「NCC(意識の神経相関)」の概念。とくに「一次視覚野(V1)」が意識に関わっているか否か(つまりNCCか否か)が焦点になってきたという。それぞれを支持する実験結果も出ていたが、著者らの実験では「意識」と「注意」の効果を分けることで「V1はNCCではない」との結論が得られた。どんどん複雑になる実験設定についていくのは難しかったが、研究の臨場感が味わえる解説だった。

第3章は、脳活動を測定するだけでなく、それに介入することによる意識の研究が紹介される。脳に磁気を与える刺激(TMS)により視界の一部が消えたり、何かが見えたりすることが知られており、局所的にTMSを与えることでNCCに関する情報を得ることができる。さらに著者らはオプトジェネティクスを使い細胞レベルでの介入に乗り出しており、ラットの「バックワードマスキング課題」という行動を利用して、部位特異的に活動を止めたときに意識(を持っていることを示すと思われる行動)が消えるかどうかを確かめ、それを通じてNCCの在りかを細かく突き止めていく予定だという。

 

……と、ここで終われば普通の(とても面白い)脳科学の本だろう。しかし、ここから本書はギアチェンジしていく。

 

第4章では、一転、ハード・プロブレムに踏み込む。どんなにNCCを突き止めても、それは「クオリア」を説明したことにならない。もっと言えば、従来の科学の方法でどんなに研究を進めても意識の問題は解けない。それは端的に「従来科学が客観のなかで閉じているから」だ(p.184)。意識を科学に組み込むには、新しい第一原理、著者の言う「意識の自然則」が必要になる。それ以上説明のつかない「法則」によって、脳には意識が生まれるのだという見方だ。

そして、ここから、ちょっと凄い議論が始まる。

生物の脳には何らかの自然則によって意識が生じている。では機械はどうか? 条件さえ満たせば機械も意識をもつだろう。ではその意識はどうやって検証すればよいか? それは、脳と機械を接続し、実験者の主観によって確かめるしかない。

…はあ?

このアイディアが思うほど荒唐無稽でないのは、「分離脳」に関する知見を下敷きにしているからだ。右脳と左脳の連絡を切った脳では、実質的に「二つの意識」が生じているらしいことが知られている。これは逆に言えば、健常者の脳の「半球」は、もう片側の「半球」の意識と普段は統合されているということだ。この理屈から次のことが言える。人間の脳を機械の「脳」につないだとき、機械の見ている世界が見えれば、それは機械の「意識」を覗いたことになるのではないか、と。

実際には、「高次の視覚野だけを密につなぐ」などの細かい条件はつく。とはいえ、この推論のロジックは通っているだろうか。私にはすぐには判断できない。

第5章では、さらに、著者が有望視する「意識の自然則」が展開される。良く知られているジュリオ・トノーニの情報統合理論(IIT)を説明したうえで、(統合された)「情報」が意識を生むのではなく、むしろ脳内の「アルゴリズム」が生むのではないかと著者は考える。

その意識の源泉とは、具体的には「生成モデル」である。生成モデルは、人工ニューラルネットワークの文脈でよく出てくる概念で、脳の高次(深層)のニューロンが表現する、低次のニューロンの活動(あるいは入力信号)の像のことだ。脳では、情報がニューラルネットワークを高次に進むにつれ、情報が抽象化される。たとえば、深層のあるニューロンは「猫」を表現するようになるといったことだ。そして、そもそもこの「猫のニューロン」をつくるプロセスが脳にはあり、それが生成モデルを作るということにあたる。著者の考えは、その生成モデル作成のプロセスが、意識を随伴しているのではないかというものだ。

この理論の妥当性も、私にはとても評価できない。ただ、非常に面白いのは、近年ディープラーニングを使って「ゴッホ風の絵」を作ったりしているあの手法が、もしかしたら単なる人間のおもちゃではなく、意識を生み出す宇宙の法則とつながっているかもしれないという、その可能性だ。本当にそうだとしたら面白い。

***

本書は前半から後半になるにつれ、どんどんspeculativeになっていく。著者もある程度意図的に、ハードなサイエンスとSF的マッドさの要素を盛り込んだのだろうとは思う。

一見、本書は「意識について私たちは何もわかっていない」という主張と、「もしかしたら近いうちに機械が意識を持つかもしれない」という真逆の主張をしている。私としても、この二つの主張はつながらないし、論理の飛躍を見つけ、粗があれば批判したい気持ちが強くある。

しかし、次のことは間違いない。「機械と脳を接続する」という著者らの研究はちゃくちゃくと進んでおり、「意識の理論が正しいかどうか」には全く無関係に、何らかの結果は出てくるだろうということだ。つまり、原理がわかる前に、意識が何らかの変性を被るような実験が実現する可能性は高い(最初はネズミで、そのあと人間で)。その意味では、「意識とは何か分からない」と「機械が意識を持つかもしれない」は両立するのかもしれない。

そんな方法で脳の研究を進めてほしいかというと、自信をもって答えられない。脳に興味を持って以来初めて、「脳の仕組みを理解したい」と純粋に思えなくなっている自分がいる。

読書メモ:スター・ウォーズによると世界は(キャス・サンスティーン 著,山形浩生 訳)…意外と真剣な本?(個人的な意味で)

 

スター・ウォーズによると世界は

スター・ウォーズによると世界は

 

帯には「ハーバード大学ロースクールの名物教授が贈る画期的『スター・ウォーズ』論」とある。名物教授とは、キャス・サンスティーンのこと。今年のノーベル経済学賞をとったリチャード・セイラ―の共同研究者として、そしてオバマ政権に登用された法学者としても有名な人物だ。

高名な学者がスターウォーズの本を書いたと聞くと、二つの方向性が思いつく。

  1. 専門分野の見地からの、映画「スターウォーズ」の解題 (スターウォーズの脚本は○○学的に言うと××の点で優れているよ、この映画は実は現代社会の△△をモチーフにしているのだよ、等々。)
  2. スターウォーズをネタにした、専門分野の入門的解説 (民主主義とは、憲法とは、スターウォーズでいうところの○○だよ、等々。)

この本はどちらでもなかった。

たしかに、「反乱軍」を「アラブの春」と結びつけてみたり、映画のヒットの理由をネットワーク科学の言葉で分析してみたりはしている。けれどもそこから何か学術的に深い話を始めるわけでもなく、「やっぱりエピソード5が最高だよね」という話で落としてしまう。

本書は、いちスターウォーズ・ファンによる、(学術的に若干ソフィスティケートされてはいるものの、あくまで)「スターウォーズ談義」の本なのだ。

訳者の山形浩生氏も、この本を「かなりユニークな本としか言いようのない代物」と評している。

結局のところ本書は、サンスティーンがスター・ウォーズ新作公開にはしゃいで作ってしまった、本当に純粋なファンブックなのだと見るのがいちばん適切なのだろう。あのサンスティーンが、と(ぼくを含む)多くの人は思う。(訳者あとがき)

山形氏は著者が「はしゃいでいる」という。たしかにそんな感じだ。

ただ、自分としては、もうちょっとだけ、この本にサンスティーンの本気度を見たい。単に「スターウォーズ祭り」に浮かされて勢いで書いたというだけではない必然性があったんじゃないかと思いたいのだ。

***

そう思うのは、たぶん、私自身がスターウォーズのファンだから。

ものごころついたころから旧三部作を繰り返し見て(見させられて)育ち、プリクエル三部作を中・高時代に体験し、エピソード7もなんだかんだ映画館で3回見てしまった私は、スターウォーズに取りつかれている一人と言えると思う。(ハードコアではないにしろ、少なくともタイ・ファイターとタイ・インターセプターの区別はつくくらいの知識はあります。)

うまく言えないのだが、私たちスターウォーズのファンにとって、現実の一つの側面になっている。世界は、「仕事」と「家庭」と「趣味」と「スターウォーズ」に分けられていて、日々どんなに仕事や趣味の世界を広げていっても、それとは別にスターウォーズの場所が心の中で確保されている、みたいなことになっている(これがスターウォーズという映画に特有のことなのか、人それぞれにこんな作品があるものなのか、気になるところ)。

そうやって、スターウォーズのことを考えたり考えなかったりしながら生きていると、ときどき思うことがある。スターウォーズって、結局自分にとってなんなんだ? なんで一つの映画にこんなに心を動かされるのか? 何億人の心をつかむ要素が、この映画のどこにあるのか(「父と子」というモチーフ? ジェダイの宗教性? 帝国と共和国の相克という、政治的テーマ?)? そもそも、ジョージ・ルーカスは何を考えて作ったんだろう? これからディズニーが繰り出してくるスターウォーズと、自分はどう付き合っていけばいいんだ?

そしてこれらは、スターウォーズ・ファンにとっては、たんに一つの趣味に留まらない「人生の疑問」になっていくのだ。

私には、サンスティーンもこの問題に突き当たったのだと思う。そして、学者として磨いてきた分析力とスターウォーズへの原初的な愛という二つのものの「折り合い」を、本書でつけたのではないだろうか。

各章で、サンスティーンは憲法学、行動経済学、ネットワーク科学の言葉をつかって一見論理的な分析をこねくり回してみせたうえで、「でも私はこれが好きだけどね」という独断的な宣言で締めている。これはかなり意図的にやっている。人の行動は結局は説明のつかない「選好」に基づいているというのは彼の理論の根底にあるアイディアだが、彼自身が「説明不能なスターウォーズ愛」に突き動かされている。その有様を、露骨に、皮肉をこめて、本書で体現してみせているのだろう。

本書では繰り返し、ジョージ・ルーカスが、エピソード5~6の脚本に関して「登場人物を誰か死なせるほうが効果的なのでは?」と提言されたときに言ったとされる、「そんなのいやだし、そんなの信じないね」という言葉が引用される。「好き/嫌い」とか「信じる/信じない」を持ち込んではいけない学問の世界に生きるサンスティーンが、本書でスターウォーズをタネに思いっきり逆方向へのアクセルをふかしている様子が、とにかく爽快だった。

 

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この本は、「スターウォーズ? まあ見るけど、そこまでじゃないかな」という人にはお勧めしません。サンスティーン著の読者であってもです。逆にスターウォーズ・ファンであれば、サンスティーンも「行動経済学」も「ナッジ」も聞いたことがなくても、きっと楽しめると思います。

さて、「最後のジェダイ」は何回見に行こうか。

 

読書メモ:Mathematics Without Apologies(by M. Harris)…数学者のパトスとは?

 

Mathematics Without Apologies: Portrait of a Problematic Vocation (Science Essentials)

Mathematics Without Apologies: Portrait of a Problematic Vocation (Science Essentials)

 

マイケル・ハリス(Micheal Harris)は、アメリカ出身、フランス在住の数学者。専門は数論で、Wikipediaによると「ラングランズ・プログラムに重要な貢献をした」人物だそうだ。本書は、その彼が「数学者にとっての数学とはどんなものか」について、非数学者に向けて説明を試みた1冊となっている。

興味をそそられるテーマだが、私には難しかった。一文が長い英文の読解難度の高さに加えて、起承転結がハッキリとしない書き方や、なじみのない欧米文化の話題(文学・映画・歴史など)がネックで、いくつかの章はまるまるスキップしてしまった。

とはいえ、楽しめる部分もあった。

「書評」ではなくあくまで「メモ」として、感想を書いておきたい。

 

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タイトルは、和訳すれば「弁明なしの数学:数学者という厄介な職業を素描する」などだろうか。20世紀初頭の数学者、G.H. Hardyによる"A Mathematician's Apology"(邦題:『ある数学者の生涯と弁明』)へのオマージュとなっている。

A Mathematician's Apology: 0 (Canto Classics)

A Mathematician's Apology: 0 (Canto Classics)

 

実は、ハリス著があまりに難解だったので、先にこのハーディ著を読んでみた。すると、少しだけ(ほんの少しだけ)ハリス著の文脈が取りやすくなった。

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ハーディとハリスは2人とも、60年以上の時間を隔たりはあるが、「数学者が数学をする理由」を非数学者向けに説明しようとしている。

共通しているのは、数学の弁護に「実利」を持ち出さないことだ。

数学は役に立つ。それは間違いない。でも、ほとんどの数学者(とくに「純粋」数学者)にとって、彼らが数学をやるのは、数学を物理学や機械工学、あるいは金融工学や計算機科学に役立たせたいからではない。では「実用性」以外の何が、数学者を惹きつけるのか。

ハーディは、「良い数学」は「美しい」というようなことを言っている。

自分の人生に価値があるとすれば、美しく、それゆえ永久的な価値をもつ数学の知識を増やすことに、何らかの貢献ができたことだ。それがハーディの「弁明」。

ハリスは、少年時代にこのハーディの『弁明』を読んで、数学者に憧れた一人だそうだ。しかし今の彼は、ハーディの本を「エリート主義的」と皮肉る。

現代の数学者として、ハリスは、もう数学者の人生を「弁明」しようとはしない。「~だから、私の仕事には価値がある」という部分は省いて、たんに「なぜ数学者は数学をするのか?」だけに答えようとする。

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ちょっと寄り道。

「なぜ○○の専門家は、○○の研究がしたいのか?」を知るのは、分野外の専門家とコミュニケーションをとるうえで大事なことだ。

でも、それは簡単じゃない。『学術書の編集者』という本のなかで、長年様々な分野の専門家と本をつくってきた編集者である著者は、各分野には固有の価値観があるという。

〔学問のさまざまな〕分野を探究する学者は、それぞれの分野がもっている考え方や手続きが大切だ、つまり価値があると思って行動しているわけですが、それを、ここではそれぞれの「徳」=ヴァ―チューとして捉えたいわけです。もちろん、この「徳」には、多くの分野を貫いて共通するものもあるでしょうし、比較的限られた、場合によっては、ある特定の分野だけにあてはまる「徳」もあるはずです。(橘宗吾、『学術書の編集者』、p.37) 

歴史学、哲学、物理学、計算機科学、社会学。それぞの分野によって価値観――橘氏の言う「徳」――は違っている。そして、その「徳」の姿が、分野外から一番わかりにくい分野が、数学ではないだろうかと思う。

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ハリス氏は「数学者の『徳』」を説明するために、この本を書いた。彼自身の言葉で言うと、数学者の「『パトス』は何か?」ということになる。

でも、本書では、ストレートで分かりやすい答えを与えてはくれない。私が読み取れたのは、すぐに思いつくような答えは当たっていないということだけだった。

  • 数学は「隠された真理を見つけていく営み」か? ――そうではない。
  • では、数学の魅力とは「パズル解き」の面白さか? ーーそれだけではない。

数学は、隠された真理に向かってまっすぐ進んでいくというよりは、新しい「理解の仕方」の登場により、一気に方向転換をしたりする。その一方で、数学には個々の問題を解くだけでない、何か大きなものという感覚もある("the sense of contributing to a coherent and meaningful tradition")。

ハリス氏は、数学者の動機は「役立つ」でも「美しい」でも「真理を知りたい」でもなく、もっと複雑なものだということを言っているようだった。

***

イアン・ハッキングは、「なぜ人は数学を哲学したがるのか」を問うたが、本書の問いは「なぜ人は数学をしたがるのか」。両方とも興味深いが、まったく異なる問いだと感じた。

小説や音楽であれば、それを作っている人以外も、その「価値」がわかる。でも、数学的達成の「素晴らしさ」を味わえるのは、基本的には数学者だけ。

数学者にとっての「数学の価値」(ハリスのいう"internal goods")は数学者にしかわからなくても、いずれ数学者の仕事は何かの役に立つ("external goods")かもしれないのだから、それでいいではないか、という意見もあるかもしれない。

でも、もし数学の"internal goods"が非数学者でも味わえるものになったら、それを伝える数学者にとっても、鑑賞する非数学者にとっても、豊かなことだと思う。

その一歩を踏み出してくれたハリスさんはありがたい。

できれば、もっと易しい本を。

読書メモ:騙し絵の牙(塩田武士 著)

 

騙し絵の牙

騙し絵の牙

 

主人公は、大泉洋が扮する敏腕編集者。自身が編集長を務める雑誌の廃刊を食い止めるべく、八面六臂の活躍をするというストーリー。

大泉洋が扮する」と言っても、ドラマや映画の原作というわけではなくて、あくまで小説としての「あてがき」ということらしい。テレビドラマなどで少しでも大泉洋さんを見たことがある人なら、主人公の描写とせりふ回しに、彼の表情や声色をばっちり当てはめることができるように書かれている。従来の「映像化」や「ノベライズ」では、活字の主人公と俳優が演じる主人公の「ズレ」も含めて楽しむものだと思うが、本作では初めから「主人公=大泉洋」のイメージで読める。新感覚だった。

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斜陽の出版業界を舞台にした社会派小説。

組織内での駆け引き、次々と巻き起こる事件、浮かび上がる登場人物の意外な一面…。どこを楽しむかは人それぞれだと思うが、私には出版業界の描き方が印象深かった。

「斜陽と言われて久しい出版業界」という言葉自体、常套句になって久しいような出版業界。だが、どれくらい「ヤバい」のかが伝わってくることは少ない(業界の中にいても、自社が危機的状況にないかぎり、なかなか実感できない)。

『騙し絵の牙』では、低迷にあえぐ大手出版社を、「そんなマニアックなところまで?」と思うほど、ディテール豊かに描いている。たとえば、黒字化しない限り廃刊を告げられた雑誌を立て直すため、主人公は部員たちにノルマを課す。ただしそれは「部数を伸ばせる特集企画の考案」などではなくて、「雑誌からの二次利用商品の発行数と売上高」。つまり、雑誌連載をもとにした単行本などの商品で、売り上げを出すことだ。なるほど、そっちのほうが、雑誌黒字化の方策としては早いのか。説得力がある。

そこで、主人公たちは、小説の映像化の売り込みに、テレビ局に行く。映像化してもらうためには本が流行っているという実績が必要なので、営業部を説得してあらかじめ重版をかけてもらう。あるいは、大物小説家に新連載を頼みに行く。でもそのためには、上司を説得して、何とか「取材費」の工面をしなければならない。そういう「鶏が先か卵か先か」的な資金繰りの苦しさ、どこかが一個おかしくなると破局がいっそう近づくという状況の描写が、リアルだ。

そして、いかに才能豊かな編集者たちがどう頑張っても、これまでのビジネスモデルは維持できない。数字だけを見ている上層部には、「不採算な雑誌はなくせばよい」と簡単に言われ、現場の士気はさらにくじかれる…。

出版業界にいる人ならば、「ああ、これが数年後、自分の周りで起こることかもしれない」と、身をもって感じることができるかもしれない。

***

組織のなかで、主人公は完璧に立ち回る。でもあるところで、組織の限界を悟り、業界に風穴を開けるような一手に出る。

本書は、著者が、出版業界に身を置く立場として、「このままではまずい」という問題意識をもとに書いたに違いない。主人公ほどでないにしても、この本自体が、「あてがき」という新手法も含めて、一つの風穴を開けているように思った。

【再掲】読書メモ:アルゴリズム思考術(B. クリスチャン、T. グリフィス著)

 アルゴリズム思考術:問題解決の最強ツール

 

アルゴリズム思考術:問題解決の最強ツール

 

邦題と原題が結びつかず見逃していたのですが、"Algorithms to Live By" (Brian Christian,Tom Griffiths)の邦訳が出ていました。

情報科学をいかに自分の「人生」に活かすかという面白い本です。日本語版の推薦文を野口悠紀雄氏にお願いしたのは大正解だと思います。さすが早川書房

原書を読んだときの読書メモを再掲します。

***

 

 

Algorithms to Live By: The Computer Science of Human Decisions

Algorithms to Live By: The Computer Science of Human Decisions

 

 

タイトルを素直に訳せば、「生活のなかのアルゴリズム」などとなるだろうか。 「ライフハック情報科学する本」と言ってしまっていいかもしれない。

日々の家事や仕事をどんな順番でこなすか、本や書類をどのように収納すべきか、アルバイトや賃貸物件をどう探すか……。こうした日々の意思決定の場面に、「アルゴリズム」の考え方を適用することの有用性を、本書は提起する。

たとえば、書類整理の仕方。

一度使った書類をどのように収納すべきかについては、「グループごとにまとめておく」「使う頻度が高い順に並べる」など、いろいろな「整理術」がある。本書的視点でみれば、これは「キャッシュメモリをどうつくるか」というコンピュータサイエンスの問題と同じとみなせる。計算を高速に行うために一時的に記憶をためておく「キャッシュ」には、その運用の仕方にFIFO(first-in-first-out:最初に入った要素を追い出す)やLRU(least recently used:もっとも使われた頻度が少ないものを追い出す)などが知られているが、こうした知見を、書類ファイリングの問題に応用することが考えられる。

本書4章によれば、将来どの書類を使うかについて情報がないケースでは、LRUの方式をとることが「最適である」(つまり書類を探す時間を最小化できる)ことが「証明」されているのだそうだ。面白いことに、これは野口悠紀雄氏が『超整理法』で紹介している手法と合致するらしい(英語圏の著者が『超整理法』を知っていたことを含め、野口氏おそるべし…)。

自分のデスク周りの問題であれば少し我慢すれば済むかもしれないが、コンピューティングの世界ではわずかな非効率さが致命的になる。そのため、アルゴリズムに関する理論は、数学的に突き詰められているという特徴がある。そこで、その成果を構造が似た日常生活の問題にも応用することが考えられる。すると、経験則として知られていた「○○メソッド」に対して「××アルゴリズムに対応し、△△という条件のもとでは最適な方法となる」というお墨付きが得られる。

章構成は次のようになっている。

  • 最適なやめ時(optimal stopping):いつ決断を下すか。
  • 探索と活用のトレードオフ(explore/exploit):どこまで未知の可能性を探るか。
  • 並び替え(sorting):どうやって、どれくらいの手間をかけて順序をそろえるか。
  • キャッシング(caching):ものや情報をどのように管理するか。
  • スケジューリング(scheduling):何から手をつけるべきか。
  • ベイズ則による未来の予測(Bayes' rule):未来の出来事をどう予測するか。
  • 可適応(overfitting):現状の環境への過適応をいかに避けるか。
  • 通信(networking):どのような頻度と量のコミュニケーションをとるか。
  • ゲーム理論(game theory):他人とともに解決すべき問題をどう解くか。

それぞれの章で、豊富なアナロジーがでてくる。

よく聞くアナロジー(「秘書選び」と「optimal stoppingの問題」の関係など)もあるが、「そうくるか!」と思わされる意外なものも多かった(「スポーツ選手のランキング法」と「ソーティング」の関係など)。また「これはあれに使えるな」というふうに、明日から仕事・生活に生かせそうなアイディアがいくつも得られた。本書の全部を咀嚼するのはなかなか難しかったが、分かるところだけ読んでもいろいろと日々の生活のヒントが得られる本になっている。

書き手は、科学系ライターと認知科学者のコンビで、いずれも30歳代の若手だそうだ。どうしてこのような本を書くにいたったのかは分からないが、すばらしい本だと思った。

著者らによれば、生活のなかに「アルゴリズム」を見出すことには、深度の異なる三つの意義があるという。

  1. 目前の問題をとく指針とすること
  2. 日々の生活で起こっていることを、より抽象化して語るためのボキャブラリーを得ること
  3. 人間の思考様式を捉える理論的枠組みとなること

1点目はいわば「ライフハック」としての意義、2点目は「思考法」としての意義だといえるだろう。

ここに3点目を加えているのが、認知科学者ならではだ。

そして、本書が単なる「理屈に裏付けられた自己啓発本」を超えている理由もこの点にあると思う。

人間は、目的を持って生きる存在なので、もともとアルゴリズム的な存在なのだろう。でも、「アルゴリズム」という概念を発明したあとでないとそうした説明はできない。実は私たちがやっている「○○」(整理、記憶、人間関係の構築、etc)は、実は「××アルゴリズムなのだ」という説明の仕方が本書の随所で出てきたが、コンピュータの発明・普及によってアルゴリズム的語彙が出揃ったいま、人間知能の捉えなおしをしようという著者らの高い意欲を感じた。

情報科学の面白さ、重要性を痛感できる一冊だった。

マージソートの計算量がO(n log n)であること」や、「ベイズ則による推論は事前分布に大きく依存すること」などは、誰もが知っておいて損はないと思う。本書を読めば、その理由が納得できるはず。

読書メモ:最近読んだビジネス書5冊

最近、企業経営に関する数冊の本を読んだ。

何冊も読むつもりはなかったのだが、一冊目が思いのほか面白く、芋づる式に買ってしまった。

今回分かったのが、経営の本というのは、いっかいの会社員が読んでも相当面白いということ。とくに、10年以上前のビジネス書で今も書店に残っているものというのは、それなりの理由があると思わされた。

 

備忘録として、簡単にメモしておく。

***

「経営の定石」の失敗学 傾く企業の驚くべき共通点

「経営の定石」の失敗学 傾く企業の驚くべき共通点

 

「現場主義」「ワイガヤ」「モチベーション経営」など、「定石」「セオリー」と呼ばれるような経営方針が間違って使われるとどんなひどいことになるか、そして「定石の誤用」で苦境に立っている企業はどう対処すればよいかを、経験豊富な経営コンサルタントが事例を交えて解説した本。

「経営のキーワード」というものは、「帰納によって導かれたものか、演繹的に導かれたものか」、「分析のためのものか、経営方針のためのものか」の2軸で4種類に分けられるという説明には納得感があった。いわゆる「経営の定石」は「帰納による✖経営方針のためのキーワード」であって、上手くいくかどうかは状況に依存する。当たり前だけど、それはそうだ。

経営者向けの内容が多いが、一介の社員に向けた「現場の人へ」という項目も設けられている。著者が一社員に向けて繰り返し書いているのが、「一度は本当のことを言って怒られろ」ということ。上に何かを報告・提案するとき、最初は忖度せずに本当のことを言い、否定されたらその後に「魂を売れ」という。有益なアドバイスだ。

 

組織戦略の考え方―企業経営の健全性のために (ちくま新書)

組織戦略の考え方―企業経営の健全性のために (ちくま新書)

 

日本企業の問題点を指摘した組織論の名著として知られる本。社内の意思決定のプロセスや人事制度などの問題点を、「権力」という観点で分析する。もし、大企業などに勤めている人で「なんかうちの会社、ダメな気がするなあ」と思っている人がいたら、この本を膝を打ちながら読めるかもしれない。「だからどうしろ」という具体的なアドバイスはあまりないが、閉塞感の正体を知ることで、少し立ち回りやすくなるかも。

  

衰退の法則

衰退の法則

 

 産業再生機構などで様々な企業の再建に関わってきた著者が、あえて博士課程に入学し、学術研究として「日本の企業が衰退するメカニズムは何か」をまとめた本。破綻した企業の社員・元社員・社外スタッフへのインタビューから、「衰退」の時期の企業の共通点、それが日本人の特性にどう関係しているか、そしてその特性を衰退に結び付けないためにどうすればよいかを考察している。以前『デスマーチはなぜなくならないのか』を読んだときにも思ったが、実務のなかで浮かんできた「疑問」なり「仮説」を、地道な学術的アプローチで解明しようという意欲はすごいし頭が下がる。

「衰退サイクル」 に入ってしまった企業の共通点とは、雑にまとめてしまうと、非オーナー系企業の場合は「社内調整にばかり労力が割かれるようになってしまうこと」、オーナー系企業の場合は「オーナーに意思決定力のすべてが集中していて、かつその決定が外部環境から逸れ始めること」。インタビュー調査や、その統計分析での裏付けは説得力があるように思えた。しいて言えば、研究の結果のなかに著者の最初の「仮説」をはみ出るサプライズ的要素がなかったのは、ちょっとだけ物足りなかった。

個人的に本書で一番インパクトがあったのは、多くのオーナー系企業では「オーナーの頭のなかだけでPDCAが回っている」という指摘だった。

 

 

ざっくり分かるファイナンス 経営センスを磨くための財務 (光文社新書)

ざっくり分かるファイナンス 経営センスを磨くための財務 (光文社新書)

 

 経営の本を読んでいるうちに、会計やファイナンスについて何も知らないことに気づいて読んでみた。「ざっくり分かる」とあるが、割と骨太な内容だと感じた(自分がまったく無知だったこともあると思うが)。損益だけを見ていてはダメ、キャッシュフローの視点が大事。資金調達が主に「銀行から」なのか「株主から」なのかによって、その企業の経営戦略も全く変わってくる。そうした基本的なことがいちいち勉強になる。

 

ロジカル・プレゼンテーション――自分の考えを効果的に伝える戦略コンサルタントの「提案の技術」
 

ビジネスパーソンがいかに「提案」を作り上げるべきかを指南した本。現場の社員向けに書かれたものなので、5冊のなかで実用性は一番高かった。「提案を通す」ためには、まずは論理をしっかりと組み立てること。そのうえで相手に合わせて、プレゼンを設計すること。論理構築・プレゼン設計の両方について、かなりわかりやすく解説される。

提案を受けた人が懐疑的になる理由は、「本当にそうなの?」と「それだけなの?」という二つの疑問しかないという。そのためには、「縦の論理」(因果関係)と「横の論理」(重複・漏れのなさ)が担保されていなければならない。そういわれるととてもシンプルで、目からうろこだった。

ビジネスの提案だけでなく、ブログの構成を考えるときなど、どんな表現をする際にも役に立つ汎用的な本だと感じた。

新刊紹介メモ:数学はなぜ哲学の問題になるのか(イアン・ハッキング著)

 

数学はなぜ哲学の問題になるのか

数学はなぜ哲学の問題になるのか

 

仕事で関わった書籍です。

発売日に合わせ、ここでも紹介させてもらいます。

 

興味のある方は、まずは訳者の大西琢朗先生の解説をぜひご覧ください。

イアン・ハッキング『数学はなぜ哲学の哲学の問題になるのか』 - Takuro Onishi

 

以下、一読者としての、メモ程度の紹介です。

***

本書の原著が出たのが3年前。

ハッキング氏の本を読んだことはなかったのですが、そのころ「数学の哲学」に俄かに興味が湧いていたこともあり、読んでみました。

 

数学の哲学。

この分野になじみがなくても、「数学を哲学したい気分」になったことがある人は多いはずです。私もその一人でした。

 

理由の一つは、「なぜ数学は役立つのか?」問題。

これは、よく「理屈に合わない有効性」というフレーズでも表現されます。頭のなかだけで出来る数学が、どうして実世界を相手にする「科学」や「工学」に使えるのかという不思議です。

 

もう一つは、「数学が分かるってどういうこと?」問題。

定理を証明したなどときの「なるほど、そうだよね、それしかあり得ないよね!」という感覚があります。

数学の専門家でなくとも、中学や高校レベルの数学でも味わえるものだと思います。私自身は、中学生のとき、はじめて自分で三平方の定理を証明できたときの、「おお、わかった!」という体験を、いまでも不思議と覚えています。

 

本書でハッキング氏は、主にこの二つの不思議、つまり「応用」と「証明」という二つの謎をめぐって、数学の哲学が存在してきたといいます。

 

プラトンに始まる古今の哲学者から、親交のある現代数学者の見解まで、ありとあらゆる哲学者・数学者を登場させ、紹介・論評をしてゆきます。

 

「○○主義」「××主義」などと、考え方の系譜は一応区分されるのですが、○○対××の論争が気づいてみたら△△対××にシフトしていたり、いつの間にか○○主義の人が××的な主張をして××主義の人が○○的な主張しているアベコベな状況になっていたりと、とにかく「数学の哲学」の展開が一本道ではないことがわかります。

 

ハッキングさんの語り口も独特です。

「そもそも証明って言っても、ライプニッツ的証明とデカルト的証明があってね」「数学の応用というけれど、それには7種類くらいあってね」などなど。私たちが無自覚に使っている概念のもつ複雑さを暴いてみせます。

 

それにしても難しい本です。

1章ずつ、気になるところから読むのがいいかもしれません。

本書を読み終えても、決して「数学を哲学したい気分」の原因となった「謎」は解消しません。人間の知性の最もピュアな部分の真相に触れることを期待して本書を手に取った私は、いかに事態が入り組んでいるかを知り、眩暈を覚えました。

ただ、これはちょっとおかしな感想かもしれませんが、本書を読んで、ちょっと安心しました。本書で登場するような錚々たる数学者・哲学者たちが議論を重ねてきたにもかかわらず「数学の謎」は、謎のまま残されている。本書の言葉でいえば、「数学の哲学は永続的である」。自分が素人として持っていた「数学を哲学したい気分」は、決して自分の無知ゆえだけでないことがわかり、ちょっとほっとしたところがありました。

 

「数学の哲学」について、もう少し体系的に整理することを指向して書かれた解説書としては、下記がおすすめです。本書と合わせて読まれるとよいかもしれません。 

数学を哲学する

数学を哲学する

 

 

 

思考整理メモ:科学コミュニケーションから考える量子力学の解釈問題(後編)

中編からの続きです。

量子力学の解釈問題について、いまの専門家たちは何と言っているか(続き)

●「うまくいっているのだから、認めよう」派

筆者は、大学2年生のときに、はじめて量子力学の講義を受けました。

その講義の先生は「量子力学にはいろいろと不思議なことがあるけれども、慣れるしかありません」ということを言っていたように記憶しています。私の周りの友人たちは、この言葉に忠実に、量子力学に「慣れる」ことを競うようになりました。自然と、「解釈問題を気にするのは未熟」という空気が醸成されていました。

こうした態度は、もっと明け透けに「Shut up and calculate!(黙って計算せよ!)」と表現されたりもします。量子力学が正しいのは間違いない。解釈問題など気にせず先へ進もうよ、ということです。

ところで、リチャード・ファインマンの有名な言葉に、

“It is safe to say, nobody understands quantum mechanics”
量子力学を理解している人なんていないと言っていいだろう。

というものがあります。これだけ聞くと「量子力学には人知を超えている」と言っているように思え、実際そのような文脈で引用されることも多い言葉です。しかしYouTubeで実際の発言を観てみると、むしろファインマンのポイントは「直観的に理解できないのは諦めて、皆さん勉強を進めようね」ということにあるようにも聞こえます。

www.youtube.com

もっと洗練されたかたちで表明する人もいます。

たとえば、物性物理学者の田崎晴明氏は以下のツイートをされていました。

また清水明氏の教科書『新版 量子論の基礎』(サイエンス社、2004年)にはこうあります。

量子論は、実験事実や理論的要求からの論理的必然として出てきたものではないのだが、今のところ、なぜか驚異的にうまくいっている理論体系なのである。(p.15)

両先生の書き方に共通しているのは、「人間のもつマクロな直観とのズレがあること」や「理論に論理的必然性がないこと」は担保しつつも、「それはそれとして、量子力学を受け入れよう」という立場だと思います。

以上のように、言い方の丁寧さ・雑さには違いがあっても、「うまくいっているのだから、認めようよ、先へ進もうよ」という立場は、かなり多くの物理学者に共有されているようです。

●「今後の解決に期待」派

その一方で、解釈問題は「未解決」であることを前面に出した解説も見かけます。解釈問題を、量子力学の成立以来続く「未解決問題」と捉える立場です。

つい最近、物理学会誌の付録として公開された「物理学70の不思議」という小冊子があります。34番目の不思議(物理学の未解決問題)として、「量子力学の不思議を実験的に検証する」が取り上げられています。

最後に残された未解決問題は,1935年にアインシュタインポドルスキー,ローゼンが提起したEPRパラドックスに代表される「観測問題」であろう.このパラドックスベルの不等式によって,局所実在性が正しいかという問題に還元され,実験で検証できることが示された.そして1982年,レーザーで励起した原子からの発光を観測したアスペの実験によって,局所実在性が否定され,量子もつれエンタングルメント)が実証されることになった.

次なる目標は,「波束の収縮」を理解することであろう.近年めざましく発展している量子情報理論と実験の進展によって,射影仮説,つまり波束の収束ではなく,観測するたびに世界が分岐するというエベレットの多世界解釈に収斂するかもしれないが,議論は分かれている.

ここでは、「波束の収縮」を「理解」することが、これからの「目標」に位置づけられていることがわかります*1。注目したいのは、「射影仮説」(=コペンハーゲン解釈)か「多世界解釈」かは、実験で白黒つけるべき問題という立場で書かれている点です。

なお、先日読んだ『物理学は世界をどこまで解明できるか』(読書メモ)の著者のグライサー氏は、かつて量子力学の基礎論の研究をやってみたくてジョン・ベル氏に師事を望んで断られたそうですが、当時の彼のモチベーションの背景にも、「量子力学の解釈問題は『科学の問題』として今後解決しうる」という考え方があったのだろうと思います。

●「説明を洗練させよう」派

最初の「認めよう」派や、後で出てくる「新しい解釈」派にも近いのですが、量子力学は正しいし実験的に何か白黒つける必要もないが、それでも「モヤモヤ」してしまうのは説明の仕方がまずいからだと言う人がいます。たとえば、吉田伸夫氏は『量子論はなぜわかりにくいのか』(技術評論社、2017年)で、「場の量子論」まで学ばないと量子力学は本当には理解できないという主張をしています。

このように、「量子力学の解釈に関する論争が絶えないのは、理解の道筋が整備されていないからだ」と考える立場です。

●「量子力学は未完成」派

ごく少数、というか思いつくのは一人だけですが、量子力学はまだ不完全だと考える人もいます。ロジャー・ペンローズ氏です。

近著"Fashion, Faith and Fantasy"では、「量子力学は現状の理論とコペンハーゲン解釈で完成している」というのは物理学界が共同でもっている「信念」(faith)に過ぎないのではと主張します。

I have not refrained from pointing out that there appears to be a fundametal inconsistency between the two bedrock procedures of quantum theory, namely unitary evolution (i.e. Shrodinger) evolution U and the state reduction R which takes upon quantum measurement. To most practitioners, this inconsistency is regarded as being something apparent, which is to be removed by the adoption of the right "interpretation" of the quantum formalism. (...) However, I am very dissatisfied with this subjective viewpoint, (...) I have argued that the quantum state (up to proportionality) should actually be given a genuinly objective ontological status. (Ch.2より)

ペンローズは量子状態は「真に客観的な存在論的身分」をもっているべきだと考え、果敢にも量子力学に重力の作用を取り入れた独自理論を構築しています。

●「理論・解釈を見直そう」派

既存の解釈に満足せず、新しい解釈を作ろうとしている人々がいます。これは、2番目の「今後の解決に期待」派とは違って、「実験」による解明ではなく、「理論」の変更に主眼を置きます。

量子力学の「理論」を、より理解しやすい形に作り替えるという方向です。

量子情報を専門とする物理学者の木村元氏は、2013年の日経サイエンスでこのように書いています。

実験で直接検証できる命題を「物理原理」と呼ぶ。例えば光速度不変〔という相対性理論〕の原理は物理原理だが、「物理量が演算子である」という〔量子力学の原理〕(…)は物理原理ではない。
(…)
目標は「この世界は、かくかくしかじかの情報技術が可能である/不可能であるようにできている」という実験で確かめられる物理原理から、今の量子力学の出発点となっている数学的な原理を導くことである。そうすれば、量子力学の全貌を、直感的に理解することができるはずだ。
(木村元,2013年,「情報から生まれる量子力学」)

情報の原理から、量子力学を作り直そうという方向性です。

別のアプローチとして、「QBism」の学派があります。QBismとは「量子ベイズ主義」のことで、彼らは量子力学波動関数を「ベイズ確率」を表すものとみなします。客観的な物理量という観念を手放すことと引き換えに、量子力学の奇妙さのいくつかを解消するという方向性です。

量子力学の解釈問題について、どんな「科学コミュニケーション」の課題があるといえるか

なぜ意見が分かれるのか?

以上、いろいろな考え方があることを見てきました。ここにあるのは、A陣営 vs B陣営のような単純な図式ではありません。誰が誰と、どの点で対立しているのかがとても分かりづらくなっています。

何がこのような立場の違いを生み出しているかと言えば、結局は、科学者個々人の「価値観」ではないでしょうか。

そもそも科学の価値とは何か? この質問への答えには、いくつかありえます。

  • 未来の現象を正しく予測する (ex. 何時何分に太陽フレアからの磁気嵐が到来する、など)
  • ものを作ったり制御できるようにする (ex.この素材の半導体を組み合わせれば、何Hzの電磁波を放出するLEDが作れる、など)
  • 物事を、深く、直感的に理解できるようにする

最初の二つを目指すのであれば、現状の量子力学で基本的には問題なく、「解釈」すら必要がないかもしれません。3つ目の「深い、直感的な理解」を目指すからこそ、論争が生まれます。

そして、何が「よりより理解か」というところで意見が分かれるために、様々な解釈が登場します。

どんなコミュニケーションを?

今回、いろいろな文献を読んでいて感じたのは、複数の立場を見比べることの大切さでした。

一つの文献を読んでいる限りでは、その著者の立場が唯一のものであるかのような印象を受けます。「みんなわかってないけど、実はこうなんだよ」というスタンスで書かれているものが多いからです。

でも、もし、量子力学をめぐる立場の違いの大部分の理由が「価値観」の違いなのだったら、もうちょっと違う言い方ができる気もします。「Aという価値観を大事にするなら、αが妥当だけど、Bの価値観ならβです」など。あまりこういうスタンスで書かれたものは見ませんでした。

ただ、もちろん、あるのは見かけ上の対立で、まともな科学者から見たら正しいのはどっちかだ、という可能性もあります。「地球温暖化懐疑論」「インテリジェント・デザイン説」などの例があります。しかし、私が見たところ、量子力学にはそれらの「疑似論争」と比較すれば、リアルな対立があるように思います。

以上、長々と書いてきましたが、要点をまとめておきます。

まとめ

  • 量子力学の解釈問題には、「どの解釈をとるか」とは別のレベルで、意見の不一致がある。
  • その意見の不一致は、科学者の価値観の違いによる
  • 量子力学の解釈をめぐる論争は、価値観とセットで考えたい

 

佐藤文隆さんの言葉を、もう一度引用しておきたいと思います。

〔私〕は、解釈問題には大事なものがあるという立場だが、それで量子力学の数理理論そのものが変わるというよりは、端的に言って科学を外から位置付ける話に関係しているというものである。それは、自然科学の専門的研究とは何をやっているのか、あるいは、社会の様々な営みのなかで科学は何を担っているのかといった、こういう科学のメタ理論に関係するという立場である。『佐藤文隆先生の量子論』より

時代ごとに、量子力学がどんな語られ方をするのかは、その時代の「科学観」を反映しているのかもしれません。今後も、5年後、10年後と定点観測する価値はありそうです。 

参考文献

Penrose, Roger. Fashion, faith, and fantasy in the new physics of the universe. Princeton University Press, 2016.

Fuchs, Christopher A. "QBism, the perimeter of quantum Bayesianism." arXiv preprint arXiv:1003.5209 (2010).

Von Baeyer, Hans Christian. QBism. Harvard University Press, 2016.

「物理学70の不思議」日本物理学会誌付録,2017.

デヴィッド・リンドリー.『量子力学の奇妙なところが思ったほど奇妙でないわけ』,松浦俊輔 (訳),青土社,1997.

デヴィッド・リンドリー.『そして世界に不確定性がもたらされた―ハイゼンベルクの物理学革命』,阪本芳久(訳),早川書房,2007.

吉田伸夫.『量子論はなぜわかりにくいのか 「粒子と波動の二重性」の謎を解く』,技術評論社,2017年.

清水明.『新版 量子論の基礎』,サイエンス社,2004.

森田邦久.『アインシュタイン vs. 量子力学: ミクロ世界の実在をめぐる熾烈な知的バトル』,化学同人,2015.

佐藤文隆.『佐藤文隆先生の量子論 干渉実験・量子もつれ・解釈問題』,講談社ブルーバックス,2017.

佐藤文隆.『量子力学は世界を記述できるか』,青土社,2011.

木村元. "情報から生まれる量子力学 (特集 量子の地平線)." 日経サイエンス 43.7 (2013): 46-53.

*1:ちなみにこの文章は「物理学会編」となっていて起草者の個人名が特定できません。

思考整理メモ:科学コミュニケーションから考える量子力学の解釈問題(中編)

前編からの続きです。

はじめに、「量子力学の解釈問題」のあらましを簡単に振り返っておきたいと思います。

量子力学では、なぜ「解釈」が必要になったのか?

前編にも書きましたが、量子力学には「解釈」があります。

考えてみれば不思議です。物理学の「理論」に「解釈」が必要なのは量子力学くらいではないでしょうか。

なぜ量子力学にだけ「解釈」が必要とされるようになったのでしょうか。

以下、その経緯を、ざっくりと整理してみます。

 

1.20世紀初頭、従来の物理学では説明のつかない現象がいくつか出てきた。とくに、当時明らかになりつつあった原子内の構造の理論としては、従来の物理はまったく使えないことが分かってきた。

 ↓

2.プランクアインシュタインやボーアなどの物理学者が、「系のエネルギーは離散的な値しか取れない」など、いくつかの大胆な仮定を置いて法則を作ってみた。すると、それらは実験結果を忠実に再現した。

 ↓

3.シュレーディンガーハイゼンベルクがそうした法則群の背後にある運動方程式を導いた。これが1925年~26年くらいのこと。ここで、ニュートン力学を置き換えるものとしての「量子力学」が成立した。

 ↓

4.ところが、そのように生まれた量子力学には不可解な点が残った。「波動関数」や「演算子」という、現実世界と直接対応づかない概念で理論が作られていたことや、実験結果を「観測」するときに起こるはずの状態変化を、運動方程式が記述できていなかったことなどである。

 ↓

5.そこで、何らかの「解釈」が必要になった。波動関数は粒子の状態の「確率」を表すとみなす「コペンハーゲン解釈」が提唱され、ボーアを中心に広められていった。

 

ここまでが、「解釈」が必要とされるようになったあらましです。

その後の流れも見ておきます。

 

6.主流派解釈に納得できない人もいた。彼らは、量子力学が導く様々な奇妙な現象を指摘した。「粒子と波動の二重性」「シュレディンガーの猫」「神がサイコロを振るか」など、奇妙さの表し方がいろいろと編み出された。

 ↓

7.量子力学への疑念は、アインシュタインらの1935年の論文(EPR論文)により、「量子力学は『局所実在論』を保持できない」という表現に集約されることなった。量子力学が正しければ、瞬時に離れた場所に作用が及ばない(=「局所性」)か、すべての物理量は常時客観的な値を持つ(=「実在論」)というそれまでの物理学の大前提のどちらかが破れてしまう。よって、量子力学は不完全ではないかとアインシュタインらは考えた。

 ↓

8.20世紀後半、実際に「局所実在論」は破られていることが理論と実験(ベルの不等式とアスペの実験)によって証明される。これで、アインシュタインたちの批判は当たっておらず、量子力学が正しいことがわかった。

 

そして今にいたる、ということになります。

 

 解釈問題について、いま専門家たちは何と言っているか

では、ここから現代の「解釈問題」を見ていきたいと思います。

20世紀後半の展開により、アインシュタインの目指した「量子力学の不備を暴く」試みは潰えました。そして「コペンハーゲン解釈」は健在です。

ならば、現代の物理学者たちは、「量子力学の解釈問題は終わった」と思っているのでしょうか。

そうでないことは分かります。というのは、「多世界解釈」を筆頭としたその他の解釈があって、物理学者によって採用する解釈が分かれるからです。ですが、より興味深いのは、前編で書いたように、量子力学の解釈問題そのものに対する温度差があるように見えることです。

ここではそうした異なる立場を分類して、以下のように名づけてみたいと思います。

  • 「うまくいっているんだからこれでいいのだ」派
  • 「解釈問題は未解決、今後に期待」派
  • 「説明のテクニックを洗練させよう」派
  • 量子力学が間違っている可能性を追求」派
  • 「新しい解釈を求める」派

次回、それぞれに当てはまる(と私が考える)事例を紹介します。