重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

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読書メモ:The Brain Abstracted (by Mazviita Chirimuuta)──「神経科学の哲学」待望の単著

 

神経科学の哲学(Philosophy of Neuroscience)がじわじわ盛り上がっている。ここ数年、筆者はその動向を気にしてきたなかで、神経科学の哲学で有名になりつつあるイギリスの哲学者Mazviita Chirimuuta氏による新刊『The Brain Abstracted』が、2024年に刊行された。

これまでも、神経科学について哲学者が著した単著は何冊か存在しているものの、私見では、ここまで現代科学哲学の観点から包括的に書かれた単著はなかったのではないかと思う(もちろん、何が王道かは異論はあるだろう)。本書は刊行後高く評価され、2024年のNayef Al-Rodhan International Prize in Transdisciplinary Philosophyを受賞したほか、著者が様々な学会で基調講演に登壇しているようである。なお、本書はMIT Pressのウェブサイトより無料でPDF版をダウンロードできる。

Chirimuuta氏は哲学から実験神経科学者に転身し、視覚研究でPhDを取得した後、再び哲学の分野に戻ったという経歴を持つ。彼女の論文を以前から関心を持って読んでおり、本書は待望の一冊であった。何度か通読し、有志での読書会も行った。

プロ向けに書かれている本であり、決してやさしくはなく、筆者の理解も表面的なものにとどまる。本記事では、概略的な内容紹介を、「神経科学の哲学」の意義も絡めながら書いてみたい。

神経科学の哲学」とは何か

神経科学の哲学は、科学哲学の一分野である。関連分野として「生物学の哲学」や「心の哲学」がある。生物学の哲学では、生命現象を「説明」したり「モデル化」するとはどういうことか、機能や目的をどのように語ればいいのか、統計学を使って生物についての知識を得ることがいかに可能か、などを扱ってきた。心の哲学は、心の性質、とりわけ脳という物質との関係にまつわる問題を扱ってきた。

これらに対して、生物学の哲学にも心の哲学に還元されない、神経科学に特有の問題領域があるのではないか──ということで、近年「神経科学の哲学」がひとつの分野として確立しつつある。

少しややこしいのだが、「神経哲学」(neurophilosophy)という分野が以前から存在する。 これは、哲学者のPatricia S. Churchlandの1986年の著書『Neurophilosophy』で誕生したものであり、「心の哲学」の諸問題を神経科学の視点で捉えなおそうとするものである。2022年に神経哲学のジャーナル「NeuroPhilosophy誌」刊行されている*1

スタンフォード哲学百科事典(SEP)では、神経哲学神経科学の諸概念を伝統的な哲学的問題に応用する分野であり、神経科学の哲学神経科学の基礎論にかかわる分野だと整理されている。神経科学が哲学が問うのは、ごく粗っぽく言うと「神経科学者がやっていることが何をやっていることになるのかについての解釈」だということになるだろう。

実際、ここ数年間、論文集『Neural Mechanisms – New Challenges in the Philosophy of Neuroscience』(2020年12月刊)なども出て盛り上がりを見せ、2025年にはThe Society for Philosophy and Neuroscience(SPAN)が発足した。その第1回大会ではChirimuuta氏が基調講演を行っている。

なぜ神経科学の哲学に興味があるのか

筆者がかねてからこの分野に興味を持っているが、その理由を2021年に書いたことがある。

しかし、今の神経科学は、哲学的考察から得るものが多いのではないか。逆に、科学哲学者にとっても、神経科学には考えるべき問題がたくさん埋まっているのではないか。

科学が哲学を必要とするのは、科学が「困った」ときである――伊勢田哲治氏はかつてそのように語っていた。丸山の目には、今の神経科学はまさに、伊勢田先生の言う意味で科学哲学を必要とする時期にあるように映る。

たとえば、著名な神経科学者たちは「脳を理解するとはどういうことが?」について、近年熱い議論を行っている*2

神経科学が行き詰まっているとか迷走しているということではなく、いろんなアプローチが百花繚乱しているからこそ、「そもそも脳をどう理解したいんだっけ?」という問いが出てきているのだと思う。しかし、しばしば概念が練りきれていなかったり、前提を共有し損ねているために、異なる立場の関係性を見て取るのが難しい状況があると思う。

この、脳をどう理解するかについては、何度かインフォーマルな文章をまとめてきた。

以上を前置きとして、本書の内容に入っていきたい。なお、ブログ筆者は神経科学や科学哲学の専門家ではなく、素人の立場で本書を読んだ者である。ごく表面的な紹介にとどまることをご了承いただきたい*3。また、本書における重要なテーマのいくつか(第6章における「表象」概念に関する分析など)には全く触れることができていない点もお断りしたい。

The Brain Abstracted (by Mazvitta Chirimuuta)

脳の複雑さにどう対峙するか

本書は、神経科学の重要テーマを幅広く扱いつつ、タイトルにある「脳の抽象化」を貫く軸としている。すなわち、神経科学とは脳という複雑な対象を抽象化(abstract)・単純化(simplify)する営みである──というナラティブだ。

The thesis of the book is that the dominant ideas that have shaped neuroscience are best understood as attempts to simplify the brain. p.8

著者は第1章にて、脳は複雑であるという事実の確認から始める。脳は、科学の対象として以下のような複数の意味で複雑である。

  • 1)要素の数の多さ:人の脳には860億もの神経細胞がある
  • 2)要素の不均質性(heterogeneity):脳を構成する細胞は多種多様
  • 3)時間的な不均質性:脳は時間的にどんどん変わっていく
  • 4)要素間の相互作用の多さ:各ニューロンは10000のシナプスをもつ
  • 5)各要素の振る舞いは文脈依存:実験条件を変えると結果は変わる
  • 6)組織的な深さ(organizational depth):各パーツ(細胞など)自体や、パーツを構成するパーツも複雑

これに対し、神経科学者は主に三つの単純化戦略を取ると著者は述べる。

  • 数学化(mathematization)数理モデルをつくることによる単純化
  • 縮減・還元(reducing):実験室内で外界から隔離して変数をコントロールすることで「縮減した実験(reduced experiment)」を行うことによる単純化
  • アナロジー(analogy):脳を人工物や技術になぞらえることによる単純化。とりわけ現代の神経科学では、「計算機としての脳」のアナロジーが支配的である。

本書は全10章からなる。第1章にてイントロ、第2章で著者が寄って立つ哲学的土台を解説したあと、第3〜7章では過去と現在の神経科学の各論からみる抽象化/単純化の様相が分析されていく。

たとえば第3章では、20世紀初頭の神経生理学で一時主流の見方を形成した「反射理論(reflexology)」が主題となる。これは、パブロフらが主導した考え方で、脳を「反射」の束に還元して理解しようとする。極めて単純化した実験条件での入出力関係を積み上げていくことで、やがて高次の脳機能を解明できると考えた反射理論は、しかし、複雑な脳の挙動を予測したり制御したりするためには不十分であることが次第にわかってくる。著者は反射理論を、「失敗した単純化(simplification-gone-wrong)」の事例として挙げている。

また第5章では、視覚野の単純型細胞(simple cell)という概念が扱われる。Hubelらの有名な実験を通して、空間的に区分された領域に反応する第一次視覚野のニューロンは「単純型細胞」と名付けられ、高次の視覚野の受容野はその線形的な加算で説明が付くと考えられた。しかしやがて、多くの細胞からの同時記録、より自然な視覚像を用いた実験などが可能になると、単純型細胞という考え方にも疑問が呈されるようになる。

純化は不可避である:理想パターンを作り出す営みとしての科学

このように、神経科学は「間違った単純化」が乗り越えられていく歴史なのだろうか。著者はそのような見方を取らない。なぜなら、単純化/抽象化は、科学を行う以上不可避だからだ。

ここで著者が持ち出す重要ワードに「理想パターン(ideal pattern)」がある。これを説明するために、著者が持ち出す図が下記である。

p.125, Figure 5.2

この図は「実験からモデルへのパイプライン」と題されており、神経科学においてどのように実際の脳を想定し、脳を説明するためのモデルが作られるかの流れを示している。

まず、「1.野生の脳活動」がある。しかし、実際にはこれは統制された条件のもとで測定されるため、得られるのは「2.実験室の脳活動」になる。脳波やMRIなどを測定すればそれが「3.データセット」になる。これは、時代ごとの測定技術に依存する。たとえばHubelの時代にはシングルユニットの測定しかできず、多数の細胞間の相関を見ることはできなかった。データは様々に処理され、説明の対象である「4.現象」となる。たとえば、同じ刺激に対する複数の試行の平均値が使われたり、バックグラウンドの活動との比(よくF1/F0 比と呼ばれる)が用いられたりする。先述の単純型細胞を含め、神経科学で「○○細胞」と呼ばれるのはこの「現象」の段階で初めて現れることになる。最後に、これを何らかの数式などで解釈したものが「5.説明モデル」となる。

この一連のプロセスの中で、「4.現象」が出てくるまでに数多くの測定条件やデータ処理のプロセスが挟まっている。このプロセスは、研究者が何らかの目的に沿って行ったものであり、「現象」というのはある意味で研究者によってつくられたものである。これを著者は「理想パターン(ideal pattern)」と表現する。これは、哲学者のダニエル・デネットが提案したリアルパターン(real pattern)という概念に対置するものとして考案されている。リアルパターンとは、自然界に存在する規則性であり、それを見て取ることによって起こる物事の「予測」に使える。著者は、リアルパターンという概念に、世界の側に備わったもの(out there)という実在性の含意があることに着目し、より科学者の側が見て取る「理想」としてのパターンという意味で、神経現象は「理想パターン」なのだと主張する*4

神経現象が理想パターンであるというのは、要するに科学者がどのような説明モデルによって何をどう説明したいかに応じて神経現象はその都度つくられる、ということだ。「一般に、理想パターンは、科学者、実験装置、対象となる系、データ、モデルの間の相互作用のプロセスを通じて形作られると考えるべき」(p.131)だと著者はいう。「単純型細胞」は実のところ「単純化された細胞(simplified cell)」なのだと。

もちろん、好き勝手にでっち上げるわけではない。背景には、著者の実在論に関するスタンスがあり、それを著者は第2章で「触覚的実在論(haptic realism)」と呼んでいる。これは近年の科学哲学で人気のある観点主義(perspectivism)のバリエーションだが、何かをどこかの観点から「見る」という視覚のメタファーではなく、「触って確かめる」という能動的な行為に伴って実在と言えるものがある、という考え方である*5。科学は一般に、制御や予測といった道具的な目的とは切り離せないと著者はいう。

Science, in its pursuit of knowledge, is not a collective march toward truth in an absolute sense (truth pertaining to the thing in itself), or even in the empirical sense of consistency with the maximum number of observations. Instead, it is a striving toward a knowledge of things that makes sense to and for the people who are producing and using it, people who exist in groups and socie ties with collective aims that include the instrumental ones of manipulation and control.  p.61

AIは神経科学を変えるか?

脳という対象は複雑すぎて、その複雑さを丸ごと扱うことは難しい。神経科学者はその都度、目的に応じた単純化を行うしかない。

このように聞くと、それはかつての神経科学の手法が未熟だったからであって、このビッグデータとAIの時代には話が変わってくるのではないか、とも言いたくなる。とくに、「脳の働きを反射の束」として捉えるしかなかった20世紀前半と違って、今は私たちは脳を「計算機」として捉えることができる。また、深層学習の成功をみれば、機能的にも知的な振る舞いをするコンピュータを私たちは手にしつつあり、脳を丸ごと理解するというゴールに着々と近づいているのではないか、と思う人もいるかもしれない。

しかしここでも著者は淡白だ。科学が人工物のアナロジーで自然物を理解しようとするのは今に始まったことではなく、むしろ何かを科学的に理解することに人工物の発明が先立つことは多い*6。計算機も同様に脳の理解・説明にとって重要な概念的道具となっているが、これはあくまでアナロジーであることを忘れてはいけない、という。アナロジーというのは、喩えるもの(ターゲット)と喩えられるもの(ソース)の間に類似点もあれば、相違点(=ディスアナロジー)もある。そのディスアナロジーの例として著者は「意識」の問題をあげ、いくつかの「知的」な振る舞いを見せる深層ニューラルネットワークが人間の脳と同じく意識を持つかもしれないと考えるのはアナロジーの誤謬だと著者は考える。著者は、計算機にはない、機能面以外の様々な生物学的な条件が意識を生むのだとする「生物学的自然主義」の立場を表明している(第9章)。

また、深層学習を使って、脳を単純化せずに丸ごと扱えるという見方もある。これについても、AIというブラックボックスを使って脳を解析しても、今度はそのAIというブラックボックスを扱うための別の単純化が必要になる(第8章)。どこまで行っても、何らかの意味で脳を抽象化/単純化したモデルを扱う私たちは、決して「脳そのもの」の複雑さには届かない。そして、それでよいのだ、というのが著者のスタンスだ。科学というのはそういうものなのだから、と。

感想

全体的に著者の議論は、神経科学が脳の複雑さを扱える可能性について悲観的であり、神経科学の発展に期待している人にとってはディスカレッジングな内容かもしれない。著者は何度か、本書は神経科学者にそのやり方を変えるように勧めるものではないというが、なぜそこまで「できない」と言えるのか、と反発したくもなる。Brain Inspired Podcastを主宰するPaul Middlebrooks氏は、本書を最大限好意的に読みながらも、Chirimuuta氏へのインタビューで何度か「敗北主義(defeatism)」という言葉を出していたのが印象的だった。

それでも、私は著者の慎重さから学ぶべきことは多いと思う。とりわけ、科学コミュニケーション上の重要性に着目したい。

前述した「神経科学の哲学」への期待を述べた4年前の文章からまた引用する(一部軽微に改変した)。

(…)最後に、個人的興味からの期待を一つ。いわゆる科学コミュニケーションの視点からも、神経科学の哲学に期待している。神経科学や人工知能は、希望的観測に基づく一般向けの”盛った”ナラティブと、科学的に真剣なアプローチが、他分野に比べてごちゃまぜになりやすいように思う。研究者が意図的にそういうナラティブを用いることもあるだろうし、意図していないこともあるだろう神経科学・人工知能が誇大広告(overhype)に飲み込まれていかないように、研究者たちに誇大広告へのプレッシャーとインセンティブを与えないように、専門外の我々がその「実像」をある程度正確に掴むことも重要だろう。そのうえで、神経科学の成果・議論を、人々が自らの「生活知」に変換する。この点でも、「神経科学の哲学」に頼れるのではないかと思う。

当時念頭に置いていたのは、神経科学自体が一般社会にもたらす期待がメインだった(たとえば、Human Brain Projectの件が自分の中では象徴的)。しかし今はAIにまつわるナラティブへの含意が大きいように思う。

今、巷には、AIが人間に近づき、人間を超えるというイメージがますます共有されつつある。その背景には、間違いなく、AIは「脳」のようなものであって、脳ができることは何でもできるようになるのだ、というイメージがある。さらに言えば、AIがこれほど進歩したのだから、「脳についてもほとんどもうわかっているのだろう」という予断があるように思う。

しかしそれは本当だろうか。Chirimuuta氏が言うように、脳という大いなる複雑性の前に、私たちはものすごい測定装置と大量のデータ分析の能力を持って挑んでいる今日ですら、そのある単純化された側面からしかそれを捉えることができないとしたら。さらに、Chirimuuta氏の科学哲学に従えば、どこまで行っても「脳の解明」というのはある目的に沿ったある観点からのリアリティを立ち上げる、ということにしかならないのだとしたら。この神経科学の哲学は、まわりまわって私たちのAI観をより地に足の着いたものにすることを手伝ってくれるように思える。

当然、Chirimuuta氏よりも神経科学の理論的発展に楽観的な「神経科学の哲学」が出てくる余地も大いにあるはずだし、そうなると期待したい。しかし、その時も、『The Brain Abstracted』は長く参照点として読みつがれるのではないだろうか。

謝辞:本書を読書会で一緒に読んでいただいているメンバーに感謝申し上げます。

*1:Churchlandとともに寄稿しているGeorg Northoff氏が「非還元的な神経哲学」を掲げ、SEPにおける「神経科学の哲学」をも含むような「神経哲学」の射程を示している。https://jneurophilosophy.com/index.php/jnp/article/view/11

*2:丸山の「脳を理解するとはどういうことか」に関するスライド:2021.1.28 understanding brain

*3:個人的には、こうしたブログでの専門書紹介を、ある種の(メタ)サイエンス・コミュニケーションとして位置付けてみたいと思っている。

*4:ただし、いくつか読みかじった限りでは、デネットの「リアルパターン」概念にどれほど実在性が含意されているかについてはより丁寧な検討が必要かもしれない。

*5:と書いたところでなかなかどういうことなのかを直観するのは難しいが、それほど視覚的な実在論が強固だということかもしれない。

*6:人工物と自然物を同じように理解できるという近代科学を貫く考え方を著者は第10章で「デカルトの理想化(Cartesian Idealisation)」と呼ぶ。