先週の金曜日、下記のイベントが行われた。
伊勢田哲治×三中信宏 司会=山本貴光「科学と科学哲学――はたして科学に哲学は必要なのか?」@ゲンロンカフェ 2019年2月22日
科学哲学者の伊勢田哲治先生(以下、伊勢田氏)と、生物系統学を専門とする三中信宏先生(以下、三中氏)が、山本貴光さんの司会のもと対談をするというイベント。
3人のファンである私としては、一も二もなく参加……したかったのだが、都合がつかなかったので、ニコニコ動画のタイムシフトで視聴した*1。
以下、印象が薄れないうちに感想をメモしておく。
※視聴後に思い出しながら書いた雑な備忘録です。細かい引用などは正確ではないかもしれませんので、ご注意ください。なお、山本さんご自身によるイベントレポートと関連文献紹介がこちらにあります:イヴェント「科学と科学哲学――はたして科学に哲学は必要なのか?」 - 作品メモランダム
科学にとって科学哲学は必要なのか?
今回の対談の議題は、「科学に哲学は必要なのか?」(もう少し正確にいえば「科学にとって科学哲学は必要(or有用)なのか?」)というもの。これについて三中氏・伊勢田氏が議論することになったのには、数年来の経緯があるらしい。
発端は、三中氏が、伊勢田氏と物理学者の須藤靖氏との対話をまとめた『科学を語るとはどういうことか』を読み、違和感を覚えたことにあるという。同書は、須藤氏が科学哲学の意義を問い正し(盛大にディスり)、伊勢田氏が須藤氏の誤解をほどきつつ科学哲学を擁護するという内容である。以前、本ブログにも簡単な感想を書いた。
この本での、伊勢田氏の主張のポイントの一つが、「科学(物理学)と科学哲学では問題意識が違う」ということ。目指しているものが違うのだから、須藤氏の「役に立たないじゃないか」という批判は当たらないという趣旨で応答している。
これを読んだ三中氏は、「伊勢田氏の言うよりも、科学哲学は科学にダイレクトに役に立つのでは?」と感じたという。つまりは、須藤氏とは真逆のベクトルから、伊勢田氏の姿勢に疑問をもった。「もっと、科学に役に立つと言ってくれよ、実際に役立ってるよ」、と。(鍵かっこはブログ筆者の意訳であり、引用ではありません。)
科学哲学とは何か?
この三中氏の問題意識を受けて、本対談では、伊勢田氏が自身の見解を説明している。伊勢田氏の応答は、一言でいうと、
- 科学にもいろいろある。科学哲学にもいろいろある。三中氏が専門とする生物系統学は、両者の緊密な協力が見られた特殊な分野。たまたま興味のベクトルが一致した、幸福な事例と考えるべきではないか。
というものだった。 冒頭数十分、「科学哲学とはいかなる分野か」について伊勢田氏によるレクチャーが行われた。そこでは
- 一般科学哲学 / 個別科学の哲学
- 概念としての科学哲学/研究伝統としての科学哲学
といったコンセプトを使って科学哲学を整理・分類し、その中の一つとして「生物学(進化学)の哲学」を位置づけるという説明がなされた。
伊勢田氏の論旨は、この限定された領域でなら、三中先生が考えていた「科学哲学が科学と密接不可分」という関係が成り立つ(成り立ってきた)というもの(だと理解した)。
科学と科学哲学の距離感は、分野ごとにバラバラだという。たとえば、認知科学の分野では哲学と科学が密接で「誰が認知科学者で誰が哲学者なのかわからない」ような状況があるという。対照的に、物理学では20世紀後半以降、「物理学の科学哲学」と物理学は没交渉になった*2。
科学と科学哲学の距離感はどうあるべきか
三中氏・伊勢田氏は、下記の2点においては合意しているように思えた。
- 科学も科学哲学も、どちらかがどちらかの「ためにある」ようなものではない。それぞれの知的好奇心に従って、別の探求を行っている。
-
しかしながら、各分野が閉じてしまって、外とのコミュニケーションが絶たれてしまい、「(いわゆる)何が嬉しいのか」が外から分からなくなる事態は健全ではない。
後者の状況について、伊勢田氏は「科学哲学の産業化」という言葉で言い表していた。
この2点では同意したうえで、三中氏は、もっと両者が接点をもったほうがよいという立場をとっているようだった。
一方、伊勢田氏はもっとドライで、役に立つときもあるかもしれないね、くらいな感じだった。ではどんなときに役に立つかといえば、それは科学が「困ったとき」だという。データがたくさんあって、理論をどう作ればいいのかについて合意があって、要するに科学分野として調子がいいうちは、科学哲学は必要ない。もし自分たちが「役に立つ」ことがあるとしたら、それはある分野が行き詰まったり、新しい分野を立ち上げたり、異分野とのコミュニケーションで躓いたりしたときだろう。そんなことを伊勢田氏は話していた。
その他、生物学者が20世紀末に盛んに援用したカール・ポパーの反証主義が、科学哲学者にとっては1970年代には「終わったもの」とみなされていたという話など、興味深い話題がたくさんあったがここでは省く。
所感
最後に、個人的に感じたことを何点か、順不同で。
(1)伊勢田氏は、科学哲学を顧みない分野があるとすれば、それは「困っていないからではないか」と言う。本当だろうか。たとえば、須藤氏がその一員である物理学者コミュニティは、本当に科学哲学を必要としてないのだろうか。たしかに、1970年代くらいまでは、次々と新理論が成功をおさめ、物理は順調だった。でも今はどうか。昨年読んだ以下の本などからは、物理学もまた、科学哲学を必要とする時代に再突入しつつあるのではないかと思える。読書メモ:Lost in Math(by Sabine Hossenfelder)……美の追求が、物理学を袋小路に追い込んだのか? - 重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)
(2)「困っていない科学分野は科学哲学を必要としない」ということだが、分野全体としてはそうでも、個々の研究従事者としては、「これでいいのか?」という疑問が頭をもたげることはあるはずだと思う。そういう人は、科学者をやめて科学哲学者になるしかないのだろうか。科学者でありながら、科学哲学者でもあるような人がもっといてもいいと思う。とくに、脳・生物・宇宙その他の対象を「どう理解したいのかが分からない」という疑問は、科学哲学への直通路ではないだろうか。
(3)「科学に役に立つ」ばかりが科学哲学の意義ではなく、伊勢田氏の注意深い姿勢は貴重だと感じる。一方で、伊勢田先生よりは、もう少し積極的に「科学の役に立とう」、「科学と科学哲学で同じ方向を向き、共同戦線を張ろう」というスタンスに立つ科学哲学者はいるように思う。今、そうした科学哲学者の本を読んだりしているので、いずれこのブログで紹介したい。
(4)今回は「科学にとって科学哲学は有用か」という議題設定だったが、「科学者にとって科学哲学は有用か」なら、伊勢田氏ももっと積極的に「イエス」だったのではないかと思う。つまり、科学者は科学だけをやっているのではなく、科学の意義を社会に伝えたり、倫理委員会に出たり、その他さまざまな価値判断をしたりしている。そうした科学的実践「以外」の場面で、科学哲学が有用・必要なのは間違いない。そうした側面についても、もし次回があれば議論を聞いてみたい。