「自分にもできそう」と思えるフレームワークを与えてくれ、かつ「明日から実践せねば」と駆り立てられる、王道のビジネス書。今の自分に必要な本だった、と思った。
以下、本書の内容につかず離れずしながら、本書を読んで個人的に考えたことをメモしておく。本のまとめではないことにご留意ください。
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まず考えさせられたのが、「仮説」の意味について。本書での「仮説」は、ビジネスの文脈におけるものであり、デフォルメして言えば、”世の中には○○のような課題があり、××のような方法でアプローチすれば解決でき、私がそれに対して△△の事業を手掛ければ年間□□円の売り上げが上がるだろう”といったものだ。こうした意味での仮説をいかにつくり、検証しながら精度を高め、これはいけると判断して「賭け」に出るか、その方法論を、本書『仮説行動』は指南する。
しかし私の経験上、こういうのを「仮説」と呼ぶことに抵抗がある人がいるはずだ。とくに科学における「仮説」の語感からすると、いくつかの点で引っかかる。まず、ビジネスプランの成否などというきわめて状況依存的な事柄について「仮説」の概念を当てはめること。さらに、自らが未来に実現する事柄に対して、「仮説検証」といった言葉を使うこと。できるだけ対象への介入はせずに、できるだけ統制された条件で、観察や実験を行うことを良しとする自然科学の「仮説検証」とは真逆だ。
ビジネスと科学における「仮説」の意味合いの違い――この点は、本書でも随所で意識されている。
ビジネスは科学の仮説検証とは異なります。社会はどんどんと変わっていきますし、ときには、 自らの仮説の成功によって社会に直接影響を与えます。p.202
…ビジネスは社会との対話です。…社会は自然や神のように不変というわけではありません。その意味で、ビジネスの仮説検証とはいわば顧客や社会との対話を通して、時には社会を変え、時には自分を変えていく共同作業です。これは対話であり、説得では ありません。自分の仮説が正しいのだ、と周りを説得していくのではなく、あくまでお互いが変わっていくためのプロセスです。p.211
ここには、業界による用語の違いということを超えて何か大事なことが含まれている気がした。できるだけ耐用年数が長いロバストな知識への志向と、当座の行動の指針としての道具的な知識への志向。おそらく、科学にも後者の要素があるし、ビジネスにも前者の要素があるのだろう。「仮説」という言葉遣いの潜在的な「気持ち悪さ」の奥には、あらゆる「知識」の獲得と利用にまつわる二面性とその不可分性という深いテーマがあるように思う。
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本書は、ビジネスにおける「仮説」の重要性と、仮説を作り・使う過程における「行動」の必要性を説く。著者は「思考」と「行動」を対にして語る。
本書では、ビジネスにおける仮説行動を「学びと業績を最大化するための、仮説を用いた思考と行動のプロセス」と捉えます。p.36 (太字は原文)
思考だけを積み重ねて、良いアイデアに辿り着いた起業家はほとんどいません。…事業を作るために必要な深い洞察には、行動がほぼ必ず求められます。p.38
思考と行動の組み合わせが重要なのだと思う。仮説なしに行動すれば迷い続けるだけだし、仮説を練るばかりで行動しなければ何も起こらないし仮説の精度も上がらない。私もこの順番が全くうまくいっていないと感じる。行動すべきときに考えすぎる。まだ考えが足りていないのに行動してしまう。”ご飯を食べる”と”歯磨き”の順番が重要なように、思考と行動の順番は非可換であり、しかも行動するための思考、思考のための行動といったように多重のループ構造を成している。だからこそ、その「やり方」に関して本書のような300ページの本が必要とされる。
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なぜ私はこの歳になって「仮説行動」が身についていないのだろうか、ということも考えた。その要因としては、
もし仮説検証や仮説生成のループが回らないのであれば、あなたのいる場所が悪いのかもしれません。p.211
というように、環境要素が大きそうだ。これまでの11年ほどのサラリーマン生活では、私が立てることを期待されている「仮説」は、ある範囲に境界付けられていた。それを超えた、新規施策等に関する「仮説」を作ったことも何度かあるが、どうすればそれが社内のアジェンダに上るかの戦略を立てるのが精いっぱいで、「仮説検証」というフェーズまではなかなかいかなかった。
しかし会社を辞めてみて、おびただしく「仮説行動」ができる環境になったと感じる。何かアイデアを思いついて「売れるのでは?」と思ったら、次の日に「売ってみる」ことができる。私は起業家ではないが、アントレプレナーはこういう「学び」のサイクルを日々繰り返しているのかと合点がいく。
ちなみに、「政策」に関して感じてきた歯がゆさも、「仮説行動」の原理的な難しさに帰着できそうだ。政策立案の議論では、いくらでも「仮説」を精緻に組み立てることができる(本書でいう「仮説マップ」づくり)。しかしそれを「試してみて」、ちょっと違うわと思って軌道修正するというループが、個人が関われる時間スケールで回せるケースはほとんどないように思われる。そこでは、「コンセンサスを得ることできた」とか「予算が下りた」という部分がある種のパフォーマンス(=業績)となってしまい、その「成功」に関する「学習」が回る。しかしそれは、本当の課題解決のための「パフォーマンス」と「学習」ではない。
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最後に、最近読んだ阿部幸大『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』(読書メモ)との間に感じた符合について。
馬田著はビジネス、阿部著はアカデミア研究という一見全く違うフィールドの本ではあるが、一つの共通点は、どちらも「徹底的にプラグマティックな指南書」であること。阿部著は、論文執筆のプロセスを、馬田著はビジネスにおける仮説の作成と利用について、誰でも実践できるプロセスに分解して解説してくれている。
もう一つは、阿部著も馬田著も、ある主張を自分で形成し、批判可能なものとして提示することを重視している点。阿部著では「アーギュメント」、馬田著では「クレーム」と呼ばれ、これを作りあげることから、アカデミックあるいはビジネス上のコミュニケーションが始まる。アーギュメント/クレームの磨き方として、アカデミア研究者が『仮説行動』、起業家が『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』を有効活用できるのではないかとすら思える(ここには冒頭で触れた「知識」の二面性とその連続性が関わっている)*1。
最後に、どちらもノウハウ本でありながらアジテーションの書である、という点だ。「書きたいことがあるなら、書いてみよ」、「世界が変わってほしいなら、自分で変えてみよ」と。最良の道案内とともに読者を焚きつけるこの2冊の本からは、徹底した"how"の形式知化を通じて世界を変えんとする著者らの熱が伝わってくる。
*1:アーギュメントとクレームについて、著者の馬田さんから補足をいただきました。
丸山さんの記事に関連して、クレームとアーギュメントの違いについて。実は『仮説行動』でもアーギュメントという言葉が初稿では入ってました。ただ、私の本では argument =議論として捉え、Claim + Evidence + Reasoning = Argument という整理していて(続)https://t.co/KG39a0Iqfn
— 馬田隆明 🐴 (@tumada) 2024年12月9日