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読書メモなど

読書メモ:文系と理系はなぜ分かれたのか(隠岐さや香 著)

 

なぜだか知らないけれど、僕らは人を文系と理系に分ける。僕の父は理系で母は文系。僕自身は理系、妹は文系。新しく会社に入ってきたAさんは文系。上司のBさんは理系。どちらかに当てはめるのが難しい人ですら、「文理をまたぐ知識人」「バックグランドは理系だが文転した人」などと評したりする。

不毛な区別では?と思うことも多い。「理系(もしくは文系)が冷遇されている」といった無用な被害感情・対立感情を生んでいる気がするし、個人的にも「これだから理系は~」とか言われると、「ひとくくりにしないでほしい」と思う。でも、その次の瞬間には自分自身で「理系」「文系」と口にする。そもそも僕は「理工系出版社」に勤め、「理系」向けの本を作っている。もやもやしつつも、つい便利だから使ってしまう。

隠岐さや香著『文系と理系はなぜ分かれたのか』は、文系/理系の二分法をめぐる「もやもや」に一定の終止符を打つ一冊となっている。

  • 日本以外の国では、文系/理系の区別はあるのか?
  • 歴史的に、日本や海外でこの区別はどのようにできてきたのか?
  • 学問の性質上、これら二つに分ける妥当性はあるのか?

本書は、こうした疑問に学問の歴史をひも解くことで回答を出していく。

第1章では西洋の学問史を振り返り、自然科学→社会科学→人文科学という順番で学問が成立してきた経緯をたどる。20世紀後半以降、欧米においても理・工・数学(STEM)と人文社会科学(HSS)を「とりあえず二つに分けて考える感覚」が確かに存在するという。両者の性質上の違いについては、著者は下記のように端的に説明している*1

諸学問の中には、「人間」をバイアスの源として捉える傾向と、「人間」を価値の源泉と捉える傾向とが併存しています。前者の視点は、自然科学の営みにおいて特に成熟しました。後者は、人文社会科学に深くかかわっています。(p.246)

第2章では日本における事情がたどられる。明治期に欧米の「専門分化」した学問を取り入れたことに始まり、技官と文官を分ける官僚制度などによって欧米よりも顕著な「文理」の区別が生まれてきたこと、戦前から戦後に続く「科学技術立国」の方針によって、理工系が優遇されてきた歴史などが描かれていく。

ここまでで、『文系と理系はなぜ分かれたのか』という疑問への科学史(学問史)からの答えは与えられたことになる。でも本書はここで終わらない。さらに踏み込んで、

  • 文系/理系の区別は、なくなっていくのか?(そして、なくすべきなのか?)

転じて、

  • 学問は一つに統合されるのか? 多様化するのか?(そして、統合すべきなのか? 多様なままがいいのか?)

という問題に切り込んでいく。

第3章は、博士の就職問題といった、日本と海外での科学と産業を取り巻く状況の話から始まり、ここ数十年の科学技術政策とその成否を概観していく。大学発のベンチャーから世界を席巻する大企業を生んだアメリカのようなイノベーション政策の導入に日本は失敗した。しかし、そのアメリカのモデルは良いことばかりではなかった。

公的資金が理工系の産学連携研究に投下され、市場への流出した後、先進国の一部の企業を潤すばかりで、社会全体には還元されない。理工系と一部の社会科学系の高学歴者はグローバルな雇用を享受する一方で、一般の人の仕事がますます不安定になる。そのような仕組みが出来上がってしまったのです。(p.148)

ここから「儲かる分野」の研究費や学生を増やすばかりの政策は、社会にとってマイナスとなりうるという教訓が得られる。それを踏まえて、人文社会学研究への戦略的投資を含む「イノベーション政策3.0」の動きが欧州で出てきていることが紹介されている。

続く第4章はジェンダーの問題を扱う。無意識なステレオタイプが女性を「理系」から遠ざけてきた事実や、言語リテラシーに難がある男子が教育から脱落して貧困に陥りやすいことが問題視されていることなど、性差と教育をめぐる最新の議論が紹介される。

最後の第5章で、文系/理系の二分法、さらには学問の統合vs多様化の綱引きが今後どうなっていくかが展望される。文系/理系については、

一方では境界線の消失を訴える声があり、他方にはそれを呼び起こすかのような争いが起きている。(p.197)

そうしたなか、情報学、環境学脳科学といった学際的な分野が出てきていること、一方で社会生物学など、文系の分野を理系の分野に還元しようとする動きもあることに触れられる。学問統一については、懸念が出されていることが紹介されている。

科学技術社会論研究者のスティーブ・フラーやダニエル・サレヴィッツは、学際化の試みが、実用を超えた「学問統一」への欲望と隣り合わせになりやすいことを指摘します。そして、しばしばそのような願望は実現しえないどころか、それが何らかの「全体性」を希求する場合ほど、政治的な論争を引き起こしやすいことを示唆しています。(p.211)

著者は学問間の「論争の存在自体を肯定的に捉える立場」だという。ある対象をどの学問の方法で捉えるかには価値観が反映しているが、各方法論は「世界を認識する異なったやり方として、数世代にわたり様々なテストを生き残り、受け継がれてきた人類の遺産」なのであって、それらの間の相克が生産的なのだという考え方だ。

文系・理系のような「二つの文化」があること自体が問題なのではなく、両者の対話の乏しさこそが問われるべきでしょう(p.250)

***

とにかく内容が豊富で、初めて聞くようなことが多かった。また、「文系/理系の区別って何なの?」という身近な疑問から出発して、気づいたら科学技術政策論の最先端を学べるような本でもあった。

残念ながら、自分の観測範囲でも学問の「タコツボ化」は進んでいるし、他分野へのリスペクトのなさを目の当たりにしてがっかりすることもある。でも、少なくとも「理系は~」「文系は~」という浅薄な言説な出会ったときに、それを跳ねのけるための頼りになる本が出た。ぜひご一読を。

 

補遺(関連書籍)

国立大学の「文系学部廃止」が話題になったときに出された本。著者とは違う仕方で人文系の学問が「なぜ役立つか」を表現している。

学術書の編集者』の「ヴァ―チュー論」(各分野に固有の価値観があるという見方)は、本書の結論部分にも通じるところがあるように思う。

 

*1:この説明には目から鱗が落ちた。一方、「人間を価値の源泉」であることを自明としない人文系学者が出てきているような印象も受けていて、これはどう考えればいいだろうか、と思った。念頭にあるのは『ホモ・デウス』でヒューマニズムの終了を予言したユヴァル・ノア・ハラリ氏など。