重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

読書メモ、探求メモなど。

日々の雑記メモ:イチロー引退会見と、森田真生『数学の贈り物』のこと

イチローが引退した。ここ数日、自分の心をそのことが占めている。

木曜日、偶然見ていた野球中継で、その日が彼の現役最後の日となることを知る。結局、深夜の引退会見までぶっ通しで見た。驚いたことその1。イチローが自分にとって思った以上に大きい存在だったということ。自分を「イチローのファン」だと思ったことはなかった。でも、小学校でソフトボールを始めたのも、イチローに心酔した友人たちの影響を受けてのことだったし、その後約5年間を野球少年として過ごした自分は、彼の活躍に、陰に陽に影響を受けていたかもしれない。その2。彼が、生身の人間として現れたこと。自堕落な自分と、ストイックなイチローの間には、連続的なスペクトルしかないという当たり前のことを、彼の会見から改めて知った。「ヒットを打てるように、毎日頑張っている」ところだけを見れば、誰もが、それぞれの領域で彼のように生きることができる。スーパースター、天才、国民栄誉賞(?)などと祭り上げたくなるのは、もしかしたらそのことから目を背けようとする無意識が働いているのかもしれない。

森田真生さんのエッセイ集『数学の贈り物』を読んだ。独立研究者として、多彩な執筆や国内外を飛び回っての講演を続けてきた森田さんが、過去五年間、季節の変わり目ごとに、京都での生活や私生活のことを中心に記してきた文章が綴じられている。なんと表現したらよいだろう。日常で起こった出来事を全感覚で受け止める。それと自分のなかにある思索の蓄積が化学反応し、言葉が生まれる。その言葉を、最大の感度で検知し、文章にしていく。読者に与える「効果」を計算せず、自分を偽らず。その時その瞬間にしか書かれえない文章だ。そんな著者の「その時々の今」がこうした形で世に出るのは、それを著者から引き出し、全身で受け止めたミシマ社の三島さんの存在があってこそなのだろうと思う。編集者ってそういうことなんだろう、と思う。

イチローと森田さん。対極にも思える二人に共通していることが二つある。一つは、日々、自分が何をやって過ごすかを決める指針を、誰にも頼らず、自分で作っているということ。一見、野球選手の場合は、その成績を図る尺度が事細かに用意されている。でもイチローは、最多安打などの記録は「些細なこと」で、あくまで「はかり」は自分にあると語った。野球人生で「誇れること」は、試合に出られなくなった昨シーズン、チームに残って練習を続けてこれたことだとも。この答えに彼の本質をみたような気がした。きっと、自分の中の軸を維持できたことに対する手ごたえを感じたのだ。一方、森田さんも、大学のなかでキャリアを積んでいく道を選ばす、独自の研究スタイルと生計の立て方を選んだ。その覚悟が、たとえば『数学の贈り物』を読む僕らに勇気を与えてくれる。もう一つの共通点は、眼光の鋭さだ。

この二人の生き方に、模範を見たくなる気持ちが湧くのは自然なこと。が、それもちょっと違うかなとも思う。イチローがどんなにつらくても野球選手を続けて来られたのも、森田さんが今のような探求の道を選んだのも、それを突き動かす「何か」があってこそだ。その何かを「持ってしまった」こと。そこには良いも悪いも、「見習うべき」こともない。

昨日、お会いしたとある画家の方が、面白いことを言っていた。理工系の研究者のなかには、実は研究とは別にやりたい「何か」があるのだが、それを無意識に抑圧して、その代わりに研究に没頭しているような人がいるように見える、というのだ。

年収○○万円以上は稼がないといけない、あと○本論文を書かなければならない、打率を維持しないと来年チームには残れない…。自分の心の中にある「何か」に向き合うことと、自分の生活を成立される「数値」を達成する「点数稼ぎ」の営みは、ときに対立するかもしれない。誰もがイチローとか森田さんみたいに、自身のパッションに向き合えるわけでも、あらゆる苦難を突破できるだけの強いパッションを持てるわけでもない。しかし、その「何か」が本当は少しはあるのに全くないことにしてしまうのは、もったないことのように思う。

現代は自明視されていた様々な規範が、音を立てて壊れていく時代だ。規範には知恵と偏見の両面があり、実際には、線引きが画然とできないことが多い。(…)規範が高速で変形していくいま、大人しく規範を受容できる従順さよりも、規範を知恵としてみる視点と、偏見とみなす観点を、自在に切り替えることのできる柔軟さの方が求められる。同じルールを保守すべきと頑なに拘るのでもなく、悪しき思い込みだと馬鹿にするのでもなく、見方を臨機応変に切り替えながら、複数の現実を並行して生きていく力が必要とされているのではないだろうか。(『数学の贈り物』p.146)