脳がわかれば心がわかるか──脳科学リテラシー養成講座 (homo Viator)
- 作者: 山本貴光,吉川浩満
- 出版社/メーカー: 太田出版
- 発売日: 2016/06/07
- メディア: 単行本
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『心脳問題』(2004年)増補改訂版。旧版を読んでから2年ぶりに読んだ。改訂内容はそれほど抜本的なものではなく、読書案内が充実したことと、この間の脳科学の進展に触れつつ「この本で述べたことはますます重要になっている」というような記述が増えたのがメインだろうか。それでも、この本がいま再版されて書店の棚に並ぶことには、とても意味があることだと僕は感じた。
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「脳がわかれば心がわかるか」。とてもシンプル、かつ古典的な問いだ。
科学者・哲学者にかぎらず、多くの人が一度は考えたことがあるだろうし、この問いに対して一家言もっていたり、「最終回答」を手にしていると自認したりしている人も少なからずいるだろう。ならば、いまさら述べることがあるのか。専門家であるほど、このテーマについてあらためて本が書かれる(まして改訂される)意味が分からないかもしれない。
けれど最近、身の回りでこんなことがあった。小さな子供がいる会社の先輩から、ある日こう聞かれたのだ。「丸山君、“心”は脳にあるんだよね。子供に聞かれて答えられなくて困ったんだけど。脳のなかのどこにあるのかって、分かっているの?」
突然の質問に僕は固まってしまい、うまく答えられなかった(意識現象の相関活動は、大脳皮質の一部で…などとアヤフヤな知識でお茶を濁しておわった)。そのとき僕の脳裏には、読んだばかりだった『心脳問題』のことが浮かんでいて、その内容をどうにか要約して話せればよいのだけど、とてもできなかった。驚いたことに、その質問を受けてからまもなく、別の人からも同じ質問を受けた。
「心はどこにあるのか」という質問する人のなかでは、「心は『どこかにある』」ということが前提とされているように思うが、これは(本書の言葉で言う)「カテゴリーミステイク」ということになるのだろう。でも、そのような「誤謬」にとらわれているのは、素人だけではない気がする。理系の研究者の話を聞いても、科学で心が解明されたり心をつくったりしていけることは「自明」であって、「どのように」とか「いつ」などは議論されても、「本当にそうか」というところには目が向いていないと感じることが多い。
会社で受けた「心は脳のどこにあるの?」という質問への当惑、あるいは理系の研究者たちのナイーブさに感じる物足りなさ。けれど、心脳問題についての哲学書を紐解いてください、とは言えないだろう(後者においては、それを読む必要性も感じていない人が多いだろう)。
…というときに、きちんと脳科学の進展を追いかけつつ、それでいて哲学に軸足をおき、一般の人に届く言葉で文筆を手がける著者らが、『脳がわかれば心がわかるか』のような本を書いてくれたことはすごく意義のあることだと思う。
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と、ここまで、「良い本だから読んでおいてください」という感じの書き方になってしまったが、僕自身、ものすごく目を開かれることの多い本だった。以前、大森荘蔵の『物と心』という本の読書メモ:
のなかで旧版の感想を少し書いたが、今回改めて読んでの感想を、もう少しだけ書いてみたい。
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不思議な本、という印象は前回と変わらない。
1章、2章くらいまでは、噛んで含むように書かれた一般向けの啓蒙書という感じだ。合間にはさまれるコラムは、脳科学の歴史や研究手法がコンパクトかつ情報量豊富にまとまられている。僕などは、著者と同じ地点にいるつもりで「そうだよね、うんうん」と読んでいく。ところが後半に差し掛かると、様子が変わる。「心脳問題は疑似問題だ!」という見も蓋もない結論が示されて、「そこから先」が論じられる。前の章の語論を踏み台にして、話のステージを上げていくというか、ギアチェンジしていくこの感じは、なかなか他の本では味わえない感覚だ。
「そこから先」というのは、「なぜ疑似問題である心脳問題は、何度も何度も息を吹き返すのか?」という著者の言う「第二のジレンマ」(第一は、「心と脳の記述をどう両立されるか」という心脳問題自体。「ジレンマ」はギルバート・ライルによる言葉づかいだそう。)についての考察。第二のジレンマは、科学と哲学に加えて、「社会」という視点が必要になるというのが著者の主張で、色々な現代思想の著者や概念を駆使しながら、あの手この手で「心脳問題が問題になることの意味」が解説される。フーコーやドゥルーズやベルクソンなど、普段であれば身構えてしまうような名前が出てくるが、こういう人たちの思想が現代の科学と社会のつながりを考える上で本当にrelevantなのだということも、この本で初めて得られた感触だった。
とはいえ、物足りなさや疑問を感じる部分も実は少なくなくて、たとえば1,2章で「心脳問題は疑似問題だ」ということを説明している部分の論証は、必ずしも説得された感じがしない部分が残った。僕が感じた最大の疑問は、脳に心を還元したり脳に心のあり方の原因を見出したりする「じつは」「だから」という「誤った」論法と、著者らが依拠する大森荘蔵の「心「すなわち」脳」という考え方がどう違うのか、という点だった。しかし、こういう「何か腑に落ちない」部分について本書に解決をもとめるべきではなく、自分で考え始めるきっかけとすべき、と考えるのが本書の趣旨からすると正解だろう。
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心を物としての脳に還元する、脳中心主義に押し切られつつある状況に対抗して、「正気を保つ」という言い方を著者はしている。この言葉にこめられた実感はよく分かる。ただし、そのとき「誰が正気か」ということもまた難しい問題だ。脳中心主義者の言い分もあるはずなので。だけど、みんながこの本を読めば、コミュニケーションが実のあるものになることだけは間違いないと思う。多くの人に読んでみてほしい。