重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

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読書メモ:大森荘蔵『物と心』 

 

物と心 (ちくま学芸文庫)

物と心 (ちくま学芸文庫)

 

 

今年1月に文庫版が発行された、大森荘蔵の論考集。

「物と心」というタイトルが示すように、主に心脳問題に関する論考がおさめられています。難解な哲学書かと思いきや、意外なほどに面白く読める本でした。心脳問題以外にも、「時間とはなにか」「確率とは」「帰納法とは」「数学とは」などの科学哲学の王道的なテーマも扱われており、大森荘蔵の哲学を知るのにも良い本なのではないかと思います。

心脳問題とは、「物質である脳と、非物質的としか思えない心との関係はどうなっているのか」という問題ですが、大森はたとえば次のように言い表しています。

たしかにこの二十世紀に育った「私」が自分の体をみてもどこからどこまでただの物であるとしかみえない。机や椅子のようにがっちりとした固形物でもなく、きっちりした形もしていないが、しかしチキンフライやビフテキに似た「物」ではある。生理学者はそれを蛋白質や脂肪のかたまりだと言い、更には酸素原子や窒素原子のあつまりだと言うが、私にもそれは当然のことに思われる。自分の体のどこをつまんでも肉切れとしか思えないし、だから色んな装置にかければ生理学者の言うとおりのものであろうと思われるのである。

 しかし、「私」が居る。時々歯や肩や足が痛くなり、少し腹が減り、いくらか眠く、こういうことをくどくど考え書きとめている「私」が居る。その「私」には明らかに「物」らしいところがない。(p.83)

一方には物としての身体・脳があり、他方には自分が感じている経験がある。そのギャップをどう考えればいいのか 。それが「心脳問題」であり、本書『物と心』のメインテーマです。

この本の初版が出たのが1976年ですが、「心脳問題」は当時に比べて格段にリアリティのある問題になってきているのではないでしょうか。たとえば、

  • 人工知能が「心」を持って暴走する可能性
  • 「人間の頭部移植」の計画など、人間観を揺るがすような医療技術
  • 「意識」が芽生えるメカニズムについての情報論的な理論

などが真面目に議論されるようになっています。そうなってくると、ますます心脳問題は哲学者だけのものではなくて、科学者や一般の人にも関わる問題になります。だからこそ、この問題を考え抜いた故・大森荘蔵に耳を傾ける価値はありそうです。

大森荘蔵は、心脳問題にどんな解答を示したのか。残念ながら自分にはとてもそれを要約する力はないですが、私なりに大事だと思ったことを書いてみます。

本書で特に目を引くのが、「重ね描き」と「立ち現れ」という特徴的な言葉づかいです。まず「重ね描き」から。

科学者は物理的世界と知覚風景との時空的な重ね描きをしている。しかし、重要なことは、この重ね描きをする仕方は科学理論からはでてこないということである。(p.19)

僕らが何かの対象(たとえば「虹」)を見て、それに科学的な説明を加える(「光のスペクトルが分解されている」などという)とき、そこには必ず科学的な説明と日常的な感覚との「重ね描き」が生じている。そして、その「重ね描き」のうち、科学以外のレイヤーと科学のレイヤーどう重ねるかについては、科学が決めることは出来ない。この、「科学だけでは物事の全体像は見えないということ」は、本書では大前提になっているように思います。科学は、もともと認識のうち「心」のレイヤーを剥がすことで成功した営みなのだから、その枠組みの中で「心」を説明することはできない。だから、「科学で心脳問題を解決しよう」とする人は疑似問題に取り組んでいることになります(『物と心』の中ではそのような説明の仕方はされていないのですが、後述する山本・吉川著『心脳問題』では、大森荘蔵の哲学がそのような言葉で説明されています)。

「脳と心の関係をつけること」は科学には出来ないとすると、哲学はどう答えるのか。伝統的に、「唯心論」・「唯物論」・「心身二元論」などいろいろな考え方があるわけですが、大森荘蔵はそのどれとも違う、一見するとかなり突拍子もないことを言っています。

身近な人の死に悲しむとき、悲しいのはその人のいない世界、「私」の外の世界なのではないだろうか。あの青空の澄んだ青さは私の脳細胞や視神経にあるのではなく天空高くにある。五体のうちにではなく外にある。そのように悲しみもまた私の五体の内側にではなく、外側にあるのではないだろうか。(p.89)

気持ちは心の中にあるのではなく、世界の側にあると。これは、「心のみがある」とする唯心論とも、「(科学的な意味での)物質的世界のみがある」とする唯物論とも違う。心の中に悲しいという感情があるのではなく、悲しさは心の外にある(というか、「心の中」は無い)というのです。世界の中にあるすべてのものは「情」を帯びて私に「立ち現れてくる」。巻末の解説の言葉遣いに従えば、これが「立ち現れー元論」と呼ばれる大森哲学だそうです。(ただし、「大森哲学」などというのはあまり良くないのかもしれなくて、というのも、大森荘蔵は別に自身の哲学を「一つの体系」のようなものにまとめあげようとしているようには見えません。むしろ、その場で考えたことを一つひとつの「作品」として残していっているように思います。)

でも、外界とは関係がない「心の中」があると思いたくなる要素はたくさんあります。たとえば、脳の中である種の化学物質が放出されると「悲しさ」を感じたりすることは事実。そのことと「立ち現れー元論」はどう整合するのか。

私は虚空の中で悲しむのではなく、家の中で、街の中で、車の中で悲しむのである。そして多くの場合私が悲しむのはそういう私をとりまく世界の中に何かが起ったからである。そしてその世界が悲しみの相貌を帯びるのである。それとともにその世界の一部である私の「身」の内部にも生理学者が言うようなことが起きているのである。その内部で起きていることの一部は何かの原因の結果であろう。例えば、飼い犬のむくらからの反射光線が原因となって私の視覚神経や脳の視覚領野の細胞に変化が生じたであろう。しかし、それらの物理的生理的変化が原因となって私に犬の死骸の姿が「見え」たり「悲しくなる」のではない。その悲しい状況の全体の中での私の体内を科学的ボキャブラリーで描写したのが生理学者の叙述なのであり、他方、見えるとか悲しいとかいったボキャブラリーで描写すればその同じ状況全体の、しかし粗雑で日常的な叙述になる。(p.94)

つまり、脳の中の物理現象と世界の立ち現れとは同時に起こるが、どちらが原因でどちらが結果というものでもないと。なぜそんな無茶なことを言うのかと戸惑いましたが、よくよく考えてみれば、そうしてみても矛盾はないことに気づきます。「私の心の中」という領域を作るというのも、考えてみれば同じくらい不自然な考え方なのかもしれません。

さて、これで問題は解消されたのか。たとえば「人工知能が意識をもつか」「植物状態の患者に意識はあるか」などという工学的・医学的な問題と、大森哲学はどうつながるのだろうか。大森氏が存命であればぜひとも聞いてみたいところですが、実は本書にも一つだけそのような問題に絡んだ文章があります。本書の「ロボットと意識」という論考には、「ロボットは意識を持つとはどういうことか」という設問に対して、次のような結論が述べられています。つまり、「ロボットが『他人』の相貌をもって現れるならば、ロボットが意識をもつと言ってよい」と言います。常識的な回答に思えますが、「立ち現れ一元論」の立場からでも「ロボットの意識」などの具体的問題を論じられるのだというのが、(当り前かもしれないのですが)面白いと思いました。

思うに、これからどんなに科学・医学・工学の研究が進んでも、大森荘蔵の哲学は価値を失う物ではないと思います。では大森哲学を知った今、もうこの問題に頭を悩ませなくていいのか。そうではない、ということが『心脳問題』という本には書かれています。

 

心脳問題―「脳の世紀」を生き抜く

心脳問題―「脳の世紀」を生き抜く

 

この本の中では心脳問題は「回帰する疑似問題」であるとされ、なぜ大森荘蔵の後も、心脳問題について考え続けなければいけないのか、ということについて書かれています。私の目からすると、『心脳問題』は、心脳問題について書かれた他の(一般向け)本に比べて何周も先を走っている印象を受け、なおかつとても易しく書かれたすばらしい本です。この本についても、また書いてみたいと思います。

哲学の専門家からすれば「いまさら大森荘蔵」と思われるのかもしれませんが、まったく素人にとっては、かなり新鮮でした。大森荘蔵の著作群から学び、その哲学に片足を置いた状態で今後の脳科学人工知能研究を見守っていく、というのも悪くないかなという気がします。