大学に文系は必要なのか?
白状すると、「必要ないかも」と思っていた時期があった。理系の自分からみた文系学生たちは、熱心に勉強している様子がなかったし、身近にも「大学時代に勉強から学んだことはほとんどない」と言ってはばからない某私立W大学商学部OBがいる。むしろ授業に出ていないタイプのほうが生き生きしている感もある彼らにとって、大学って何なんだ? 大学の先生に対しても、「平安時代の荘園制度」とか「近代ロシア文学」の研究を税金を使ってやる必要あるのか、など素朴に疑問に思ったりした。
でも、今となっては浅はかな考えだったと思う。最近になって、文系の学問の大切さを痛感することが増えた気がするのは、「session 22」を聞き始めたからだろうか。このラジオ番組には、毎晩、経済学者、政治学者、憲法学者、社会学者などが出てきて、さまざまな話題について話してくれるのだが、どの話も深くて、「こういう専門家がいてくれてありがたいなあ」とつくづく思う。あと個人的にも、文系の学問を(なんとまじめに)修めた人たちに出会うことが増えた。彼らを見ていると、話し方や文章の書き方に、おそらく文系のゼミや論文執筆などを通してしか身につけられない思慮深さを感じて、眩しく思ったりする。
だから、昨年騒がれた「文系学部廃止」の話題に対しては、「そんなバカな!」と反応した口だ。国立大学から文系学部をなくすなんて愚かだ。けど、いざ「文系の学問を大学でやる意味はなんですか」と聞かれると、ちゃんと答えるのはなかなか難しい。
前置きが長くなったが、その質問に今、一番歯切れ良く答えている(と僕が勝手に思っている)のが、本書の著者の吉見俊哉氏だ。
そう思ったのは、現代思想のこの特集を読んでのことだった。
この特集の中の吉見氏の寄稿を呼んで感動したのは、「文系の学問は役に立つ」と断言していることだった。ありがちな「役に立たないけど価値はある」という文句で防衛に入るのではなく、「価値があることをちゃんと言っていこうよ」ということを書いていて、頼もしさを感じた。
今回の新書は、現代思想の論文を大きく膨らませたものになっている。
文科省の「通知」によって俄かに騒ぎが起こったが、それは表面上のことに過ぎなくて、もっと本質的な問題があること。政治学や経済学など以降に成立した、社会学や人類学などの文系の学問の多くは、人々が従うべき「価値とは何か」を追求するという共通の使命をもっているということ。だからこそ、「価値を見定めるための学問」という大事な価値が、文系の学問にはあるということ。また、文系の学問の必要性をいうときに「教養」「リベラルアーツ」「一般教育」などと一緒にされることが多いが、それらは区別すべきこと。なるほどと思わされる解説が多かった。
ただし、いかに価値があるとは言っても、少子化しているのに数ばかり増える日本の大学が、このままの体制ではやっていけないのは事実。本書の後半では、大学制度の問題点を整理して、著者なりの解決策を示している。主張の一つに、学生の年齢構成が均一すぎるのを変えるべきだということがあった。それに関連して、人は高校卒業後だけじゃなく、キャリアを固める30際前後、キャリアに一区切りをつける60歳前後と、人生で3回大学に入るべきだというアイディアを紹介していて面白いと思った。
いつかまた、大学に入って、今度は文系の学問をするのも魅力的に思えてくる。
文系のことを良く理解しないままに胡散臭がっている理系の人と、大学でちゃんと学問しなかった文系の人に、ぜひ読んでほしい。